聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎 (PHP文庫) [ 半藤一利 ]

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昭和20年8月15日正午・・・
国民に太平洋戦争が終わったことが告げられました。

戦後、昭和天皇は、戦争終結についてこう述べています。
「朕と肝胆相照照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ。」
鈴木とは・・・齢78にして、内閣総理大臣となり終戦へと導いた鈴木貫太郎です。
しかし、戦争終結に至る日々は、まさに命がけでした。

昭和20年、太平洋戦争は最終局面を迎えていました。
3月10日には東京大空襲、大阪、名古屋でも、大規模な空襲が続き、主要都市が次々と焼き尽くされていきました。
4月1日には、アメリカ軍が沖縄本島上陸。
およそ3か月にわたる沖縄戦では、民間人10万人を含む約20万人が命を落としました。
4月5日、戦局を打開できないまま、小磯内閣が総辞職、鈴木貫太郎に組閣の大命が下ります。
天皇の諮問機関である枢密院の議長を務めていた鈴木は、この時78歳。
どうして老齢な鈴木に大命が下ったのでしょうか?

現在の大阪府堺市で生まれた鈴木は、海軍兵学校を卒業後、軍人としての人生を送って行きます。
海軍の要職を歴任し、大将13年には連合艦隊司令長官に・・・!!
この頃、昭和天皇と出会ったことが重要でした。
鈴木が指揮する海軍の大演習を昭和天皇が視察され、見事な統率力を持った鈴木を信頼していました。
その後、昭和4年、62歳の時に天皇の側近中の側近・侍従長になります。
この時、昭和天皇は27歳。
鈴木は侍従長として7年・・・天皇の傍で篤い信頼が得ていきます。
また、鈴木の妻であるたかは、昭和天皇が4歳の頃から宮中で10年もの間、宮中で養育係を務めており、天皇は・・・
「たかは、本当に朕の母親と同じように親しくした」としています。
鈴木夫妻は、昭和天皇にとって信頼のおける特別な存在でした。
この経歴こそが、老齢にもかかわらず、総理大臣への要請の理由の一つでした。
しかし、鈴木は・・・
「鈴木は、一介の武人です。
 鈴木は軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日まで自分のモットーにしてまいりました」
さらに、高齢や、耳が遠い事を理由に断ります。
すると天皇は笑みを浮かべこう言いました。
「鈴木の心境もよくわかる
 しかし この国家危急の重大時期に際して もう他に人はいない
 頼むからどうか気持ちを曲げて承知してもらいたい」

この言葉に、鈴木は覚悟を決めました。
そして、1945年4月7日鈴木内閣発足
組閣後、大宮御所に伺った鈴木に皇太后は涙ながらにこう言いました。
「若い陛下が国運荒廃の帰路に立って日夜御苦悩遊ばされている
 鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである
 どうか陛下の親代わりとなって 陛下の御軫念を払拭してほしい」

天皇の心のうちとは・・・??
それは、本土決戦を前に何とかして戦争を収拾したいということでした。
ところが、鈴木は親任式の談話でこう語ります。
「今は国民一億のすべてが国体防衛の御楯たるべき時であります
 私はもとより老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で国政の処理に当たります
 諸君もまた 私の屍を踏み越えて 起つの勇猛心をもって 新たなる戦力を発揚し 共に宸襟を安んじ奉られることを 希求してやみません」

なんと、国民に戦争継続、徹底抗戦の発言をしたのです。
これには理由がありました。
後に自伝で述べています。
「国民よ私の屍を越えて行け」の真意は・・・
第一は、今の戦争は勝ち目がないと予測していたので、大命が下った以上、機を見て終戦に導くそうなれば殺されるということ。
第二は自分の命を国に捧げるという忠誠の意味です。

この時、鈴木貫太郎が目指していたのは、終戦に他なりませんでした。
しかし、どうして戦争継続、本土決戦を言ったのか??
それは、陸軍によるクーデターを恐れていたからです。
鈴木貫太郎と陸軍というと、2.26事件があります。
当時、侍従長だった鈴木は、陸軍青年将校たちのターゲットとされ、4発の銃弾を浴びせられ、瀕死の重傷を負います。
「止めだけは、どうか待ってください・・・!!」
夫人の嘆願によって、鈴木は一命をとりとめていました。
あの時のようなクーデターを起こさせてはならない・・・!!

鈴木は、戦争を終わらせるために、組閣にも慎重になります。
終戦を望んでいた鈴木は、和平派の東郷茂徳外務大臣、海軍での信頼の厚い米内光政海軍大臣らを入閣させます。
そして・・・本土決戦を叫ぶ陸軍の暴発を危惧していた鈴木は、陸軍大臣に阿南惟幾を希望、陸軍に打診します。
すると、陸軍側から3つの条件が出されます。
①戦争の遂行
②陸海軍の一体化
③本土決戦必勝のため陸軍の策を実行すること
でした。

これを飲まなければ、阿南を入閣することができない・・・。
とりあえず、鈴木は「まことに結構なり」と、戦争継続を前提とする条件を飲んでしまいました。
なぜなら、阿南惟幾を陸軍大臣にしたかったのです。
鈴木が侍従長だったころ、阿南も侍従武官として天皇の傍にいたことにあり、その働きぶりや人となりを身近で見ていました。
この人なら、決して裏切らない・・・!!
鈴木の信頼で来る男でした。
阿南なら、戦争終結を受け入れてくれるのでは・・・??
陸軍のクーデターを抑え込んでくれるのでは・・・??
と思っていたのかもしれません。

こうして動き出した鈴木内閣でしたが、日本の戦況は厳しいものでした。
ヨーロッパ戦線では、日本と三国同盟関係にあったイタリア・ドイツが連合国軍に降伏します。
日本は、ただ一国で、世界を相手に戦うこととなったのです。
そんな中、B29爆撃機が東京に襲来、火の手は折からの強風にあおられて皇居である宮城内にまで及び、宮殿の一部など、多くが焼失しました。

「この時の総理は、当時進行していた和平への道を一日も早く達成しなければならないと 胸底深く誓ったに違いありません。」by書記官長・迫水久常

1945年6月22日、戦争に関する決定機関である最高戦争指導会議を開くべく、鈴木貫太郎総理を始め東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長・・・6人のメンバーが集められました。
そして、昭和天皇の言葉が伝えられます。
「戦争の終結についても この際 従来の観念にとらわれることなく 速やかに具体的研究を遂げ これの実現に努力するよう望む」

戦争終結を望む意思を天皇が明確に表明したことを受け、鈴木は中立条約を結んでいたソ連の仲介によるアメリカ、イギリスとの和平交渉に動き出します。
しかし、ソ連に仲介を打診するも、話しは一向に進みません。
そんな中、7月26日・・・
アメリカを中心とする連合国側が日本に降伏を求めてきました。
ポツダム宣言です。
連合国側は、降伏に伴い・・・日本の占領、日本軍の武装解除、戦犯犯罪人の処罰を求めてきました。
そして、これ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全な壊滅しかないと・・・!!

7月27日朝、政府は会議を開き、これを検討します。
その結果、ソ連からの回答を待つことに・・・。
暫くは、ポツダム宣言に対する意思表示を明確にはしないという方針をとります。
そんな政府の動きを新聞はこう表現します。
7月28日朝「政府は黙殺!!」
これが日本の運命を大きく変えます。

この黙殺という言葉が、「無視する」「拒絶する」と解釈され、世界に伝わってしまいました。
連合国側は、日本は降伏する意思はないと判断!!
8月6日、広島に原爆投下!!
およそ14万人の命が失われました。
更に8日、日ソ中立条約を結んでいたソ連が無視し、宣戦布告。
翌日、日本が支配していた満州国に侵入してきました。
突然のソ連参戦に首脳たちは愕然とします。
ソ連を仲介役とする和平の道が完全に絶たれてしまいました。

この危機に、9日10時30分に最高戦争指導会議を開きます。
議題はただ一つ・・・ポツダム宣言を受諾するか否か!!でした。
受諾に前向きな会議ではありましたが、日本側の条件を付けるかどうかで終戦派と戦争継続派で意見が分かれます。

終戦派の東郷外務大臣の条件は”国体護持”一つ!!
天皇制の維持のみを提示しようとするものです。
これに反対したのは阿南惟幾。
受諾するのは国体護持は当然で、他の条件も付けるというものでした。
阿南の条件は・・・
①占領は出来るだけ小範囲に、しかも短期間であること。
②日本人自らで武装解除
③戦犯処理は日本人の手に任せること
でした。

この時、鈴木は一言も発しませんでした。
戦争の始末をつけるために・・・!!
会議は紛糾する中、長崎に原爆投下!!
それでも意見はまとまらず、決定は臨時閣議に持ち込まれることとなりました。
しかし、そこでも結論は出ず・・・。
鈴木は最後の手段を使わざるを得なくなります。
鈴木は夜の9時まで続いた閣議を休憩にすると、天皇の下へ向かいました。
そして、天皇隣席の下、御前会議を願い出るのです。
天皇はこれを承諾。
こうして、8月10日午前0時3分、御前における最高戦争指導会議が始まりました。
議論は相変らず紛糾し、平行線をたどります。
すると午前2時ごろ・・・それまで黙っていた鈴木が立ち上がり口を開きます。
「議論を尽くしましたが、決定に至らず
 しかも事態は一刻の猶予も許しません
 誠に異例で恐れ多いことながら、聖断を拝して会議の結論と致したく存じます。」
なんと鈴木は、天皇に決めてもらうという聖断という異例の決断をしたのです。

大日本帝国憲法において、天皇は政府の決定事項に対して裁可を与える存在・・・
天皇に政治的責任を負わせないために、天皇自身が政治的意思決定をすることはありませんでした。
それにもかかわらず、ポツダム宣言を受諾するか否かの重要な決断を、天皇に仰いだのです。

沈黙を守り、議論を聞いていた天皇は、鈴木に促される形で話し出しました。
「本土決戦、本土決戦というけれど・・・
 いつも計画と実行とは伴わない
 之でどうして戦争に勝つことができるか
 もちろん 忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など 其等の者は忠誠を尽くした人々で それを思ふと実に忍び難いものがある
 しかし 今日は忍び難きを忍ばねばならに時と思ふ
 自分は涙をのんで原案(外務大臣案)に賛成する」

この聖断により、国体護持という条件だけを付けてポツダム宣言を受諾することが決定しました。

連合国側にその旨を伝えます。
回答が来たのは8月12日のことでした。
しかし、連合国側の文面に、政府内が再び紛糾します。
かかれていた内容は・・・??
”天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官のsubject toに置かるるものとする”
このsubject to の解釈で意見が分かれました。
外務省は、「制限の下に置かれる」・・・終戦へ導こうとしましたが・・・。
陸軍は「隷属する」という意味で、天皇の尊厳を冒涜すると主張し、国体の維持は貫けないとして本土決戦を主張します。
「これでは外と戦争をしながら、内戦状態にもなりかねない・・・!!」by鈴木貫太郎
そこで、8月14日、再び御前会議を開きます。
全員一致の形での閣議決定を取りたかった鈴木・・・どうすればいい・・・??
内閣閣僚全員に向かって天皇の御聖断をうかがっていただく形に・・・。
しかし、ここでも、阿南は終戦に強く反対します。
本土決戦を主張!!
鈴木は再び天皇に聖断を仰ぎます。
すると・・・

「朕の考えはこの前申したことに変わりはない
 これ以上 戦争を続けることは無理だと考える
 この際 先方の申し入れを受諾してよろしいと考える」
 自分は如何になろうとも 万民の命を助けたい 
 国民に呼びかけるのが良ければ、朕はいつでもマイクの前も立つ」

涙をぬぐいながらのお言葉でした。

そして鈴木は言います。

「我々の力が足りないばかりに
 陛下には何度も御聖断をわずらわし 大変申し訳ございません
 臣下としてこれ以上の罪はありません 
 只今陛下のお言葉をうけたまわり 日本の進むべき道がはっきりしました
 この上は 陛下の御心を体にして 日本の再建に励みたいと決意しております」

会議の出席者たちは涙をこらえきれませんでした。
そして同じく8月14日午後11時に「終戦の詔書」が発せられることとなりました。
祖の御前会議で聖断によりポツダム宣言受諾が決まった後、徹底抗戦を訴え続けてきた阿南陸軍大臣に陛下は慰みの言葉をかけます。
「阿南 お前の気持ちはよくわかっている 
 しかし 朕には国体を護れる自信がある」
阿南は陸軍省へ戻りました。
若い将校たちは、「どうして徹底抗戦を訴えていたのに戦争終結を受け入れたのか?}と怒りの表情で訴えてきました。
これに対し、「聖断が下ったのである!!不服の者は自分の屍を越えて行け!!」
聖断と聞き、将校たちも引き下がらずを得ませんでした。

この日の夜遅く、阿南は鈴木総理の下を訪れます。
「終戦の義が起こりまして以来、総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います。
 私の真意はただ一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、この点、どうぞご了解くださいますように。」
そこには、阿南なりの考えがありました。
もし、戦いを続けるのなら辞職して、内閣を瓦解させればよかったのです。
阿南を鈴木のことをよく理解していて、戦争終結を考えていました。
ただ、陸軍に背かれないように・・・中心となる将校を誤魔化して、欺いてでも戦争を完結する気持ちだったのです。
阿南は、終戦の妨げとなる陸軍の暴発を阻止する為に、徹底抗戦を主張する態度をとり続けていました。
阿南を陸軍大臣に任じた鈴木の想いが伝わっていたのです。
鈴木はこの時、阿南に言葉をかけています。
「あなたの想いはよくわかっております。
 しかし、阿南さん、皇室は必ず御安泰ですよ。
 私は、日本の前途に対しては決して悲観しておりません。」
一礼して静かに去っていく阿南を見送った鈴木は、
「阿南君はお別れを言いに来たのだな・・・。」

午後11時過ぎ、玉音放送の録音が行われていました。
そんな中、陸軍で不穏な動きが・・・。
戦争継続を掲げる一部将校がクーデターを計画。
終戦を告げる玉音放送を阻止すべく宮城を占拠。
玉音版を奪うために、宮内省内を探し回るのです。
襲撃は深夜零時すぎ・・・録音を終え、昭和天皇が帰った後でした。
臨時侍従室の金庫に入れてあり、小さな金庫の前には、雑多な書類が積んであるだけでした。
彼等は、玉音版を見つけることができず、結局クーデターに失敗。
このクーデターは、鈴木総理に身にも起こります。
8月15日午前4時過ぎ・・・陸軍大尉に率いられた兵士たちが鈴木貫太郎邸を襲撃、放火します。
鈴木は襲撃の恐れがあるとの情報を得ていたので、間一髪、逃げることができました。
丁度その頃・・・陛下の放送を拝聴するに忍びないと、陸軍大臣阿南惟幾が自決!!

遺書にはこうありました。
”一死を以て大罪を謝し奉る”と。
陸軍の責任者として、その罪は我が死をもってして償う・・・!!

終戦を告げる玉音放送は、8月15日正午からラジオで全国に放送されることとなりました。
前日の14日の午後9時、15日の午前7時21分に放送を聞くようにアナウンス、新聞も号外で告知しました。
8月15日正午、朝から太陽が照り付ける中・・・
終戦の詔書が流れます。
日本の敗戦を伝えた昭和天皇の5分間の肉声・・・。
しかし、この時、玉音放送を理解できた人は少なかったのです。
ラジオの雑音が多くて聞こえず、文語体なので格調が高すぎて理解できなかったようです。
それにもかかわらず、首を垂れ涙しました。
それまで昭和天皇は現人神で、肉声を聞いた人はいませんでした。
ラジオで直接聞けた高揚感・・・直接国民に語り掛けてくれている・・・というだけで感極まったといいます。

内容は・・・
①国体の護持
②国民への慰労と慰霊
③軍部に対する牽制
④天皇は国民と共にあるという決意
でした。

玉音放送・・・堪え難きを耐え 忍び難きを偲び・・・の堪え難きをの後に一瞬の沈黙があります。
その沈黙に、国民と一緒にやっていくという・・・堪え難きを耐えて遺書にやっていこうという昭和天皇の想いがこもっています。
昭和天皇の二度の聖断、そして、終戦へと導いた男たちの命がけの行動が戦争を終わらせたのです。
玉音放送が無事済んだ8月15日午後2時・・・最後の閣議が開かれ、全閣僚の辞表が取りまとめられ、鈴木はそれを天皇に奉呈します。
天皇は・・・「苦労をかけた」と労いました。
僅か4か月の鈴木内閣・・・苦難と激動の日々でした。

鈴木貫太郎は死の間際こんな言葉を残しています。
”永遠の平和 永遠の平和”と。

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