日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:聖武天皇

世界最大級の木造建築、奈良の東大寺大仏殿・・・ここに鎮座するのは、銅製の仏像で世界トップクラスを誇る廬舎那仏です。
どちらも国宝です。
国宝とは、重要文化財のうち、歴史的文化史的価値が高く、世界的にも保護すべき国の宝として国が指定したものです。
現在国宝に指定されているのは、建造物、美術品を含め、1116です。
人気の国宝の謎に迫ります。

Ⅰ.日本の仏像史上最高のイケメンと称される「阿修羅像」。

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猛々しい戦いの神が、どうして憂いを帯びた少年の顔なのでしょうか?

奈良興福寺、大化の改新の中心人物中臣鎌足の妻によって創建された藤原氏ゆかりのお寺です。。
その境内に、かつてあった西金堂の安置されていたのが、国宝・阿修羅像です。
釈迦の教えによって帰依した仏法を守る神です。
3つの顔と6本の腕を持つ三面六臂、八頭身という抜群のプロポーションが特徴です。
平安時代以降に衰退し、幻の製作方法とされる”脱活乾漆”と呼ばれる方法で作られています。
その方法は・・・??

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①原型づくり・・・骨組みとなる木の芯に粘土を盛っていき、ヘラで大まかな形を作ります。
②麻布貼り・・・麻布を何枚も重ね、木くずや漆を混ぜた木屎漆を塗りつけて乾燥させます。
③粘土の掻き出し・・・乾燥したのち、背中や腰の部分に穴をあけ、中の粘土を掻き出して空洞に・・・
④縫い合わせ・・・麻布で、穴を閉じ、色を塗って完成です。

この方法で作られた阿修羅像は、軽くて丈夫なのが特徴で、そのおかげか戦火で焼失するピンチを幾度となく逃れてきました。
柔らかな表現を出すことができたのも、この技法のおかげです。
仏像全体に色が施されてきましたが、ほとんどはげ落ちてしまいました。
長い間謎とされてきたその色彩・・・赤い色で塗られていたことがわかります。
その赤は、辰砂と呼ばれる水銀と偉央を含む鉱物からできたものであることもわかりました。
辰砂は、作り方によって数種類の赤が生れます。
ろうそくの光でも・・・暗い環境でもはっきりと見えるように、明るい色で塗られていました。

もう一つ、阿修羅像に魅入られる理由は・・・??
愁いを帯びた表情で人々を魅了してきた興福寺の阿修羅像・・・
ぷっくりと膨らんだ下唇、つぶらな瞳はうるんでいるようにも見えます。
まだあどけない少年の顔をした阿修羅・・・
しかし、元々阿修羅とは、古代インド神話に登場する怒りに満ちた戦いの神です。
娘を強奪した最高神インドラに挑み続ける間に、荒ぶる神になってしまったといわれています。
なので、通常は怒りの表情らしいのですが・・・
興福寺の阿修羅像は、どうして少年の表情を称えているのでしょうか?
近年大発見がありました。
それは、九州国立博物館と奈良大学が共同で研究を進めていた時の事・・・
CTスキャンで撮影し、画像を分析すると・・・顔の下にもう一つの顔があることがわかりました。
製作の途中で、顔が作り替えられたのでは・・・??
権力者・・・仏像を作らせた光明皇后が変更を命令したのでは・・・??
夫である聖武天皇が即位してから続いた天変地異・・・。
日照り、台風が相次ぎ、各地で飢饉による餓死者が続出します。
734年には畿内で山崩れや地割れの起こる大地震が・・・。
その3年後には、死の病・・・天然痘が大流行・・・夥しい死者が出ました。
聖武天皇は考えます。

「異変や災害がなおとまらず、我の不徳を責めている
 責任は我ひとりにある」

そして、民のため、国家安泰のために祈り、深く仏教に帰依していきます。
東大寺の大仏建立もその一つです。
その建立を働きかけたのは、妻の光明皇后だったともいわれています。
皇后もまた、仏教の教えに従って国民を救うべく尽力します。
興福寺の中に、貧しい人々に施しを与える悲田院や医療施設である施薬院を作ります。
みずからが建立した法華寺には、浴室(からふろ)を作ります。
病人などを癒す施設・・・サウナでした。
日本最古の風呂とされています。
そこには日本の社会福祉の原点ともいわれる逸話が・・・
光明皇后自らが千人の垢を流したという伝説が残っています。
不安な世相に怯える貧しい民に、救いの手を差し伸べた光明皇后・・・興福寺の阿修羅像もその一つでした。
仏教で国を守ろうと考えます。
しかし、阿修羅像に込めた思いは他にも・・・
727年、聖武天皇は光明皇后との間に男の子を設けます。
ようやく授かった跡継ぎ・・・二人の喜びは大きく、生後32日という異例の早さで皇太子に・・・。
しかし、その翌年、皇子は亡くなってしまいました。
愛する皇子を失った光明皇后は深い悲しみに・・・
それから6年後の734年、光明皇后は母の一周忌のため、興福寺に西金堂を建立。
その中に安置する為に作った仏像の一つが阿修羅像でした。
皇后はそこに幼くして亡くなった我が子を投影・・・そのため、物資が作った怒りの表情を、少年の表情に変えさせたのでは??と考えられています。
阿修羅像の3つの顔は、少年の成長の過程を現したものといわれています。
そこには、見ることが叶わなかった我が子の成長を思い描く、母・光明皇后の深い愛と悲しみが込められていたのです。


Ⅱ.江戸時代初期に現れた稀代の絵師・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」。
風神、雷神は、風と雷を神格化したもので、仏教美術に登場する一対の鬼神でした。
それを堂々たる主役としたのが、宗達の風神雷神図屏風です。

俵屋宗達は、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した町絵師です。
詳しいことはわかっていない、謎の多い絵師です。
宗達が活躍していた頃、画壇の頂点に君臨していたのは、狩野探幽ら・・・狩野派の御用絵師でした。
江戸時代になると、活動拠点を京都から江戸に移し、徳川家に仕えるようになります。
一方宗達は・・・京都で暮らし、扇に絵を描くことを生業としていました。
すると・・・その絵が、京都の豪商や寺社から気に入られ、やがて狩野派の絵師とは一線を画し、町絵師として人気を博すようになります。
京都・建仁寺には、宗達の最高傑作が残されています。

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国宝「風神雷神図屏風」です。

一節には、京都の豪商・打它公軌(うつだきんのり)が、制作を依頼したといわれています。
それを受けた宗達は、これまで誰も見たことのない屏風を作ってやろうと持てるわざと、アイデアをつぎ込んでいきます。
そこには、見る者を引き付けるマジックがしかけられていました。

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①色彩・・・宗達はド派手でした。
風神は鮮やかな緑、雷神は白にしましたが・・・雷神は赤い色で書かれることが殆どでした。
どうして白に・・・??
ユーモラスで親しみやすい雷様になっています。
風神と雷神の乗る雲は・・・銀色。派手で軽妙洒脱なキャラクターに・・・。
これが長く愛される由縁です。
デジタル復元で、もとの色の屏風にしてみると・・・暗い部屋でもはっきりとわかるようになっていました。

②マジックアート
夜見ると・・・江戸時代の人々とおなじように、和ろうそくで鑑賞して見ると・・・
風神と雷神が浮き出てきて絵から飛び出して来たようです。
まるで3Dアートです。
その原因は、背景の金にあります。
揺らめく炎が金箔に反射し、浮き出るような効果を発揮しているのです。

③目
通常ならば、互いを見つめ合っているはずの風神、雷神の目・・・ところが宗達の風神あり人は、風神は雷神を見ていますが、雷神は前方下を見ています。
何を見ているのか??それは、屏風の前に座る鑑賞者です。
風神の視線は雷神に、雷神の視線は鑑賞者に、そして鑑賞者は風神を・・・視線がループするようにしかけられていました。
これらの仕掛けによって、鑑賞者もまた作品の一部となって引き込まれていきます。
まさに、前代未聞の屏風なのです。


Ⅲ.今も実在していたら国宝間違いなしの幻の絵の模写を発見!!「平治物語絵巻」!!

平安時代末期の1159年、京の都で大規模な内乱が勃発します。平治の乱です。
後白河上皇の近臣であった信西と藤原信頼の対立が原因のこの内乱は、平清盛や源義朝などを巻き込み、血で血を洗う惨劇が起こされました。
最終的には、信西側についていた平清盛が内乱を治め、それ以後平家一門が台頭し、政治の実権を握ります。
そんな平治の乱を描いたのが、「平治物語絵巻」です。
平家のライバル源氏が幕府を開いた鎌倉時代に書かれた絵巻です。
元々は、15巻に及ぶ超大作ですが、現存するのはわずか3巻のみ・・・

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「三条殿焼討巻」
藤原信頼の軍勢が、後白河上皇のいる三条殿を襲撃し、上皇を拉致する場面。

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信頼が信西を追いつめ、自害に追い込む「信西巻」

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そして清盛が監禁されていた二条天皇を助け出し平家一門の邸宅のある六波羅に匿う「六波羅行幸巻」

このうち、「六波羅行幸巻」のみが国宝です。

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しかし、もし現存していたならば、国宝間違いなしというものが出てきました。
「六波羅合戦巻」です。
何が描かれていたのでしょうか?
東京国立博物館に、模写が残っています。
原画が失われる前に書かれたものだとされています。

見どころは、三条河原の決戦です。
大将である平清盛の軍勢が、京都の三条河原で敵方を追い込み決着をつける・・・というクライマックスシーンです。
模写を元に復元してみると・・・様々な歴史の真実がわかってきました。
鎌倉時代に平清盛の活躍がどうして描かれたのか??
その象徴シーンが書かれています。
襲った勝者が後ろから狙われているシーンが書かれています。
勝者が敗者となる諸行無常のシーンです。

平治の乱に勝利した清盛ら平家一門は、その武力を背景に朝廷での地位を確立していきます。
「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ、栄華を極めました。
しかし、それから26年、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、あっけなく滅亡してしまいます。
それからおよそ100年後の鎌倉時代にこの絵巻は書かれました。

おごれる者は久しからず・・・

ぞの平家の運命を教訓として逸話が身に起きるかもしれないと心に刻むために・・・!!

国宝の数々・・・そこには、人々の思いや知られざる歴史の真実が隠されていました。

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奈良盆地北部の広大な一角・・・かつてここに、唐の長安をモデルにした都・平城京がありました。
2010年に復元された第一次大極殿・・・天皇が牧歌的行事を執り行った巨大な建物は、1300年前の当時の栄華を今に伝えています。
奈良時代の人たちや平城京の様子を生き生きと伝える「万葉集」。
万葉集・・・飛鳥時代と奈良時代のおよそ130年間の和歌を中心に集めた日本最古の歌集です。
作者は天皇から読み人知らずまで4500以上、20巻に納められています。
この膨大な編纂に関わったのが、名門貴族にして歌人の大伴家持です。

令和ゆかりの地・福岡県太宰府市・・・玄界灘に面した博多湾からおよそ15キロ内陸に位置しています。
飛鳥時代にもうけられた政庁・大宰府は、九州一帯の統治と、大陸、朝鮮半島からの攻撃に備える重要なや役割りを担っていました。
奈良時代のはじめ・・・727年頃、大伴旅人は、大宰府の長官として奈良の都から赴任しました。
旅人が率いた大伴氏は、神話の時代から軍事を司る有力氏族として天皇に仕えていました。
唐・新羅との戦争を体験した古代日本にあって、国土防衛の最前線でした。
水城と呼ばれる全長1.2キロ、高さ13mにも及ぶ長大な土塁・・・。
更にその海側を、幅60mもの堀が守っていました。
大宰府は、百済から亡命してきた官人の指揮によって作られました。
当時、最新の都市設計でした。
大宰府は、大陸の技術や文化をいち早く摂取する国際色豊かな町でした。
大伴旅人の邸宅の後に建ったと言われている坂本八幡宮。
新元号・令和の出典となった宴は、旅人の屋敷で行われたものでした。

万葉集にその時の様子が残されています。

”初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す” 巻五

これは序文の一部で、当時の教養人の慣習に倣い、漢語で漢文で書かれました。
しかし、宴で詠まれた歌は、大和言葉の一音一音に漢字を充てた万葉仮名で書かれています。

730年1月・・・旅との邸宅に、九州各地を治める役人たちが集まりました。
中国・唐から輸入されたばかりの梅を愛でながら歌を詠む宴が催されたのです。
旅人が歌会の始まりを告げました。
名古屋かな宴には、当時筑前守で一流の知識人だった山上憶良の姿もありました。

春されば まづ咲く宿の 梅の花
       独り見つつや 春日暮さむ

憶良は一人で梅を見る寂しさに触れ、大人数の宴を張ってくれた旅人に感謝しました。
これに応えた旅人・・・

わが園に 梅の花散る
  ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも

監視を下敷きにした巧みな表現に感嘆の声が上がりました。
一同は、それぞれに趣向を凝らし、梅を読み、心を通わせていきます。
この時読まれた32首が、序文と共に万葉集に納められたのです。
中国の文学、和歌の伝統・・・それを読むのは、大宰府が大陸との玄関口で、朝鮮半島や中国から人が来ている・・・そこに花開いた文学なのです。
宴を開いた旅人の邸宅には、後に万葉集の編纂に関わる少年の姿がありました。
旅人の息子・大伴家持この時、13歳でした。


あおによし 寧楽の京師は 咲く花の
            薫ふがごとく 今盛りなり

平城京の朝は早い・・・日の出のおよそ20分前に、太鼓の音で目を覚まします。
やがて、朱雀大路に人々が行き交い始めます。
710年平城京遷都と共に造営された巨大な宮殿平城宮。
東西1.3キロ、南北1キロの広大な敷地の北に大極殿がそびえ、南の中心を朱雀門が構えました。
壮麗な朱雀門は、代々大伴氏が守ってきたことから大伴門ともいわれていました。

730年の暮れ・・・旅人と共に家持は朱雀門そびえる平城宮に戻ります。
しかし、わずか半年後に旅人はこの世を去ります。
家持は、大伴氏の命運を一心に担うこととなります。
成人した家持は、中舎人と呼ばれる天皇の警護役として聖武天皇の傍に仕えました。
聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子を母に、光明皇后を妻に持ち、藤原氏と深い姻戚関係にありました。
そこで、朝廷では武智麻呂や宇合などの藤原4兄弟が絶大な権力を担っていました。

正倉院には、光明皇后が聖武天皇の死を悼んで納めた数々の宝物が残されています。
唐から伝来したと言われる見事な螺鈿をあしらった琵琶・・・聖武天皇愛用の品と伝えられています。
大陸の技法を用いた美人画、数々の宝物は聖武天皇の遺品であるとともに、それを支えた藤原氏の栄華を物語るものです。
ところが、藤原氏中心の朝廷を揺るがす事件が・・・
737年、都で天然痘が流行し、4兄弟がわずか3か月の間に次々と亡くなったのです。
代わって政権を担ったのが、橘諸兄です。
皇族出身の諸兄は、聖武天皇を補佐して政治の混乱を治めようとします。
古くから天皇に仕えてきた大伴氏を率いる家持は、この諸兄と密接な関係を築きます。
橘諸兄の政権は、とても不安定なものでした。
大伴氏・・・家持と県警を結んでおくのは、とても重要なことで、父・旅人の亡くなった家持もこれから自分が大伴氏を背負っていくためには、諸兄との関係は有効だったのです。

738年秋・・・家持は橘諸兄の息子・奈良麻呂が開いた宴に参加します。
貴族の子弟が集う宴に、家持の弟・書持や、仲の良かった大伴池主が同席していました。
この時の家持の歌が万葉集に残っています。

黄葉の 過ぎまく惜しみ 思ふどち
         遊ぶ今夜は 明けずもあらぬか

この密接な関係は、後の家持を大いに左右することとなります。

745年、家持は、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を集めた歌集の編纂に携わることに・・・後の万葉集です。
家持は先人たちが集めた歌を引き継ぎ、それに同世代の歌を加えた一大プロジェクトに精魂込めていくことになります。

746年、家持は越中守に任じられます。
朝廷から大きな期待を背負っての赴任でした。
聖武天皇は、大仏建立を進めていました。
天然痘が流行り、うち続く飢饉に心を痛めた聖武天皇は、仏教の力で国を守ろうとしたのです。
越中には荘園も数多くあり、その管理に尽力することで、莫大な資財がかかる大仏建立を支えようとしました。
しかし、赴任早々、悲しい知らせが・・・弟・書持が都で急死したのです。
家持自身も重い病に・・・。
この時、心を慰めてくれたのは、一族の池主でした。
家持と同じく越中に赴任していた池主と歌の交換が始まります。
悲嘆にくれる家持を励ます家主。。。
この親交は、二人が都の戻ってからも続きます。

家持は、体調を回復させると、意欲的に歌を作ります。
捜索の刺激となったのは、奈良では見られない、越中の自然でした。

立山に 降り置ける雪を
    常夏に 見れども飽かず 神からならし

それまでの歌人がしないような表現、素材を歌います。
越中赴任から2年、748年、越中を巡回します。

雄神川 紅にほふ 少女らし
      葦附採ると 瀬に立たすらし

之乎路から 直越え来れば 羽咋の海
           朝凪ぎしたり 船梶もがも

自ら越中の自然と人々の暮らしに分け入り、家持は歌人として大きく成長したのです。
万葉集に残された家持の歌のうち、半数近く・・・220首余りが越中時代の5年間に詠まれた歌です。

飛鳥時代から九州沿岸の警備に当たった防人・・・
朝廷が設置した外敵の襲来に備える最前線です。
防人の多くは、はるばる東国から集められた農民たちでした。
食糧も武器も自己負担という過酷なもので、任期は3年に及び、中には故郷にたどり着けずに野垂れ死にするものも・・・。
越中での務めを終えた家持は、都に戻り、兵部省の役人として難波の港から防人を送り出す任につきました。
この時、家持は多くの防人の歌を採集し、そのうち84首を読み手の名前まで残しました。
家持は防人たちの歌だけでなく、詠み人知らずの歌も数多く記録しました。

749年7月、聖武天皇は、娘に譲位しました。
女帝・孝謙天皇の誕生です。
当時、朝廷で勢力を拡大していたのは、藤原仲麻呂でした。
天然痘で亡くなった武智麻呂の次男です。
仲麻呂は、叔母に当たる光明皇太后の後ろ盾で、異例の昇進を重ね、大納言に抜擢されていました。
光明皇太后は、自分が皇太后としての権力を維持するとともに、天皇のカリスマ性が十分にない孝謙天皇をサポートする意味で、仲麻呂に期待したのです。
751年、家持は少納言となり、政界の中枢へと近づいてきます。
その翌年・・・聖武天皇の彼岸だった大仏の開眼供養が盛大に催されました。
父・聖武、母・光明皇太后と共に、孝謙天皇も式典に参加します。
しかし、孝謙天皇は、式典後、宮中には帰らず、仲麻呂の邸宅に長く逗留しました。
この出来事は、仲麻呂の力を天下に示すこととなります。
政権トップにいた橘諸兄の地位は次第に脅かされ、家持をも危うくさせる状況が近づいていました。
万葉集の家持の歌にも・・・

うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり
           情悲しも 独りしおもへば

橘諸兄の権力が空洞化し、仲麻呂の権力が増大していく・・・大伴氏の苦境、家持の政界での孤独を表しています。
756年、さらに家持の苦悩を深める事件が・・・大伴氏の長老のひとり古慈斐が朝廷を誹謗したとして出雲守を解任されたのです。
それは、仲麻呂の計略によるものでした。
一族の暴発を危惧した家持は、軽はずみな行動で大伴の名を汚さぬように自重を促す歌を詠みます。

磯城島の 大和の国に 明らけき
            名に負ふ伴の緒 心つとめよ

しかし、家持にとって、事態は悪化の一途をたどります。
765年、仲麻呂に対抗していた橘諸兄が死去・・・これを機に、仲麻呂は行動をエスカレートさせていきます。
前年に亡くなった聖武の遺言で決められていた皇太子・道祖王を廃し、自分の邸宅に匿っていた大炊王を新たな皇太子に立てたのです。
さらにに仲麻呂は、橘奈良麻呂を官職に追いやり、大伴氏の高官も左遷。
仲麻呂の横暴極まりない振る舞いに、大伴氏の怒りは頂点に・・・!!
橘奈良麻呂を中心に政変を起こし、仲麻呂を打倒しようと・・・
池主も首謀者の一人に加わりました。
政変の計画を知った家持・・・

皇位をぞんざいに扱い、朝廷を意のままに動かそうとする仲麻呂・・・このまま見過ごすわけには行けない・・・??
大伴の力を集めれば仲麻呂を倒すことができる・・・??

仲麻呂の背後には、孝謙天皇がいる・・・。
加担せず静観する・・・??
武門の士族・大伴の力は、天皇の恩義を守るためにあるのだ・・・!!
自らを訴えるために使ってはならない・・・??

苦悩する家持に猶予はありませんでした。

757年6月28日、仲麻呂打倒の計画は急展開を迎えます。
橘奈良麻呂が挙兵しようとしたことが、密告によって露見したのです。
厳しい取調べの結果、計画に関わったものは死罪、流罪に処せられました。
橘奈良麻呂だけでなく、大伴氏からも池主をはじめ家持に近い人が処せられたといいます。
共謀者とされたのは、433人に及んだと言われていますが、そこに家持の名はありませんでした。

家持は、事態を静観するという選択をしたのです。

万葉集の中に、この時の胸中を伺える内容があります。

咲く花は 移ろふ時あり 
   あしひきの 山菅の根し 長くはありけり

家持は、変わりゆく時勢に動揺することなく、大伴氏本来の役目を果たす覚悟でした。
家持の選択によって、集められてきた数々の歌は守られたのです。

橘奈良麻呂の変の翌年、家持は因幡国の赴任を命じられます。
759年正月・・・年の初めを寿ぐ歌を詠みます。

新たしき 年の始の 初春の
        今日降る雪の いや重け吉事

この静かな祈りの言葉が、4500首を超える万葉集を締めくくる歌となりました。

その後も家持は、謀反計画が発覚するとしばしば関与を疑われました。
因幡守以降、薩摩、相模、上総など地方の務めをすることが多くありました。
782年、60歳を過ぎた家持は鎮守将軍として奥州・陸奥国での勤務を命じられました。
武門の大伴氏の名に恥じぬように、朝廷に敵対する蝦夷と対峙し続けた家持・・・
785年8月28日、多賀城でその生涯を閉じたのでした。

家持が編纂の中心を担ったとされる万葉集・・・
その完成時期は定かではありません。
しかし、都が奈良から長岡京をへて平安京に移った時期に見いだされ、万葉集の名は後世まで長く人に知られるようになりました。

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左遷・・・官位を低くして遠地に赴任させること・・・。
もう帰って来られない・・・
そんなイメージのある言葉ですが・・・
今から1300年前、九州、中国と相次ぐ左遷の目に遭いながら、カムバックした男がいました。
吉備真備です。
囲碁、軍事、カタカナまで・・・奈良時代、2度唐にわたり、日本にもたらしたとされるものは数知れず・・・学者でありながら70歳まで朝廷に仕え右大臣にまで大出世した男です。
岡山県倉敷市真備町・・・ここに吉備真備の原点がありました。

中国の西安・・・古代より現代にいたるまで世界有数の大都市です。
その中心部にある石碑・・・”遣唐留学生 吉備真備記念碑”です。
奈良時代に籐にわたり、功績を残した吉備真備を今の中国に伝えています。
古代中国は世界最先端の国で・・・日本は中国に倣った国を造るべく、有終の留学生・・・遣唐使を送り込みました。
吉備真備が行った遣唐使には玄昉や阿倍仲麻呂など多くのエリートがいました。
なかでも、留学生として選ばれた真備は、唐で多くを学び、その秀才ぶりは目を見張るものでした。
記録にも・・・
”真備は経書と史学を研究し、また多くの学芸に広く及んだ
 我が本朝の学生で、当国で名を上げた者は真備大臣と朝衡(阿倍仲麻呂)の二人だけである”
とあります。

ある日、真備は唐の囲碁名人と対決することに・・・
真備は囲碁の経験が少なく、勝てるはずもありませんでしたが・・・
なんと、真備は密かに相手の碁石を飲み込んで、勝利しました。
しかし、名人は疑います。

私がこんな初心者に負けるはずはない・・・
こいつはずるをしたに違いない・・・!!
どんなことをしてもこいつの悪事を暴いてやろう!!

真備は服をすべて脱がされ、下剤まで飲まされ碁石を隠していないか調べられたものの、結局碁石は出て来ませんでした。
真備は超能力を使って碁石を隠したのか・・・??
常識をを超越している・・・??

真備の唐滞在は20年に及び、735年に帰国し、朝廷に仕えます。
経書、暦、楽器、音楽書などを献上しました。
中でも興味深いのは、最先端の弓や矢などの武器で、この後の日本での戦い方を変えたものでした。
弓は強力な殺傷能力のあるものを持ち帰っています。
中国の弓は「複合弓」でmいろんなものを重ね合わせたものです。
弾力性を持たせた強力な弓で、200mぐらいの飛距離がありました。
唐から帰国後およそ40年、日本の国づくりに大きく貢献していくこととなります。

そんな吉備真備とは・・・??
そのルーツは岡山県倉敷市真備町です。
町の中心部に位置する箭田大塚古墳・・・真備の祖先下道氏の一族が葬られたとされる古墳です。
入り口から一番奥までが19.1m、玄室の長さは8.4mと全国最大級です。
古墳は豪族の力を示すために造る・・・通る人に力を見せつけるためのものです。
これを造ったのは、吉備真備が出た一族で、強大な力を持っていたことがわかります。
真備のもとの名は、下道真備。
その祖先は真備町一帯の下道郡の豪族であり、交通の要所であるここに古墳を築いて人々に見せつけたのです。
さらに真備町の隣の矢掛町では真備に深くつながる資料が発見されました。
寺の地下から見つかったのは・・・吉備真備の祖母とされる人の人骨です。
骨の断片が黒くなって・・・火葬されているということがわかります。
火葬されたとみられる祖母の骨・・・火葬が中国から伝わって10年ほどのことでした。
仮想文化が入ってすぐにこの地域に受け入れられたことを示しています。
唐や都と結びつきが強く、文化の伝播が早かったのです。
真備は生まれながらにして外国との強い結びつきを背景に持っていたのです。

唐から帰国した真備は時の天皇・聖武天皇のブレーンに。。。
さらに後の孝謙天皇となる阿部内親王の教育係に・・・重用されます。
東宮学士吉備真備は、左大臣・橘諸兄、僧正・玄昉らと共に、積極的に政治に参加していきます。
当時の朝廷にとって待望の人材でした。
8世紀の日本は、中国風の国を造ろうとしていました。
生の唐の文化を知っている人は、重宝され大事な存在でした。

唐での経験をもとに、国に尽くす使命感に燃えていた真備・・・しかし、事は順風満帆には進みませんでした。
藤原不比等の孫・広嗣が真備に牙を剝きます。
慰霊の出世をした真備に嫉妬してこんな言葉を吐きます。
「下道真備などという度量の小さい田舎者は、国を転覆しかねない
 早く朝廷から取り除くべきだ」
そして遂に広嗣は朝廷に反旗を翻して挙兵!!
740年藤原広嗣の乱です。
僅か2か月で鎮圧され処刑されます。
これが真備が最初に接した乱でした。
田舎者とまで評された真備・・・後にある決意をします。
下道真備から吉備真備へ・・・!!
吉備という氏は、瀬戸内海周囲の巨大勢力であったこの地域の名を元にしたものです。
あくまでも自分が地方の豪族出身であるということを主張しました。

氏を変えた真備は、朝廷に尽くす覚悟をします。
そこに立ちはだかったのが、藤原仲麻呂・・・後に真備をおおいに苦しめる相手でした。
真備の試練の始まりでした。

律令制は中央豪族のための国家で、地方豪族は権力から排除されていました。
おまけに律令制は、藤原氏に酔折でほとんどの豪族は没落するのが普通でした。
真備はあくまでも学生、学者、権力から離れていると思っていました。
しかし、真備の持っていた学問は、中国の最新の統治技術。
奈良時代は権力が移動するものの、どの権力から見ても真備は必要な人物・・・スーパー・テクノクラートだったのです。

740年、真備が長らく仕えた聖武天皇が平城京を離れます。
聖武天皇は、混乱が続く都では政治を続けられないとし、新天地を求めるたびに出ました。
その結果、740~745年まで、平城京は天皇不在の状況に・・・!!
そこに現れたのが、光明皇后の甥・藤原仲麻呂です。
仲麻呂はこれを機会に実権を握ろうとします。
745年、玄昉が大宰府に左遷、翌年死去。
盟友の死・・・次は自分が標的にされるのでは・・・??と真備は恐れます。
しかし、状況はめまぐるしく変わります。
749年、聖武天皇が退位して太上天皇となります。
変わって真備が教育係をしていた阿部内親王が孝謙天皇に・・・!!
後ろ建てを得た真備は、自らの立場が脅かされることはないと期待しました。
その矢先、750年、真備56歳の時に仲麻呂は真備を筑前守に任命。
都からの突然の左遷でした。
さらに筑前の後、750年、真備56歳の時に肥前守に任命・・・1年間で2回の左遷でした。
しかし真備はめげません。
肥前国で藤原広嗣の怨霊を鎮め、結果、地元の人々の心をつかみます。
しかし、立て続けに任務が・・・
752年、真備58歳で遣唐副使として再び唐へ!!

ここでも真備は成果をあげます。
754年、真備60歳の時、遣唐使船が唐から帰国し、鑑真を来日させます。
仏教の戒律を日本中に広めることとなりました。
仲麻呂の相次ぐ左遷命令にめげず、次々と成果をあげた真備・・・これで都に戻れるはずでした。
しかし、仲麻呂はそんな真備を都に帰すことなく大宰府へ!!
大宰府は日本と関係が悪化していた新羅が近い・・・それは、真備が防衛計画の責任者に就くことを意味していました。
真備の左遷は4年で4度。
この真備の左遷には仲麻呂のどのような思いが・・・??
仲麻呂は中国被れと言われるものの、中国に行ったことがないというのが弱点でした。
真備は実際の中国を見て知っています。
仲麻呂は中国が大好きだけど知らない・・・。
真備が九州に追いやられたことを考えると、煙たがっていたのでは・・・??

任務を果たさず引退・・・??
今こそ唐での経験をすべて生かして任務に応える・・・??
ゆくゆく胸を張って京に帰るために・・・!!

大宰府左遷の命を受けた真備は決断します。
新羅から急襲を守る防人は、武芸を習わせるだけでなく、城を築く仕事に就かせるべきだ!!
真備は大宰府で対新羅の防衛責任者という職を全うする道を選びました。
そして、防御のための城を築くことにしました。
現在の福岡県糸島市・・・真備はここにある標高416メートルの高祖山に山城・怡土城を築城します。
そこには真備独特の工夫がありました。
怡土城の中で一番強化する必要があった場所・・・入り口です。
当時の土塁の基礎工事跡が残っています。
土塁の層が固く・・・分析するとそこにはにがり成分が入っていました。
にがりは、海水などの塩水を煮詰めると出来るものです。
土に混ぜるとセメントのようになり、凝固剤の役割を果たします。
怡土城の周りでは、塩が多く取れました。
真備はその時にできるにがりを利用したと考えられます。
中国では城壁ににがりを使っています。
真備はそのノウハウを知っていたはずです。

真備の怡土城での仕事はそれだけにとどまらず・・・
高祖山の山肌が効果的に活用されています。
山肌の斜面を使い、さらに平野部も取り込む・・・。
それまでに作られた城(朝鮮式山城)とは違う様式(中国式山城)でした。
真備が斜面を利用したのは、新羅に対する独特の作戦がありました。
斜めの山城から威圧感を与える・・・さらに攻めやすい!!
唐で学んだ築城法の多くを結集して、怡土城を造りました。
左遷にめげず、現地でベストを尽くす真備・・・仲麻呂はついに折れて、真備の左遷はついに終わったのでした。
すると状況は逆転・・・仲麻呂が苦境に・・・。
764年、仲麻呂の後ろ盾・光明皇太后が崩御。
仲麻呂は求心力を失って、対新羅の計画も無くなってしまいました。
すると真備にチャンスが・・・!!
764年、真備70歳の時に孝謙太上天皇が「造東大寺長官」に任命し、平城京に戻りました。
真備が復権し、立場を脅かされ始めた仲麻呂・・・。
遂に、764年9月藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で朝廷に反旗を翻します。
真備は孝謙軍の作戦参謀として仲麻呂軍に対峙します。
闘いの最初の山場は、琵琶湖の南・・・勢多橋でした。
真備は先回りし、ここを焼き払います。
東に行こうとした仲麻呂の動きを封じたのです。
この時、孝謙軍が使ったのが、真備が唐から持ち帰った複合弓でした。
全長200mを超える勢多橋対岸から仲麻呂軍を迎え討つにはうってつけでした。
その後、逃げる仲麻呂軍を先回りして追いつめていきます。
そして・・・764年9月18日、琵琶湖の西岸で斬られ藤原仲麻呂死去。
真備と仲麻呂の因縁の対決は幕を下ろしたのでした。

真備の動きには全く無駄がなく、それは、幅広い知識があったために柔軟に応用が利いたのです。
書物で学んだだけではない実践の知識人でした。
その後真備は軍師としてだけではなく、行政官としても活躍し、右大臣にまで昇進し、計5代の天皇に仕えました。
775年10月2日、吉備真備は81歳にて大往生をするのでした。


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奈良時代末期、朝廷で皇位継承をめぐる前代未聞の事件が起こりました。
皇族とは全く関係のない僧侶・弓削道鏡が、女帝・称徳天皇の後ろ盾を得て天皇になろうとした道鏡事件です。

一介の僧・・・弓削道鏡・・・河内国の弓削一族の出身とされています。
弓削氏・・・弓の製作を統率していた一族の事です。
二度天皇となった古代最後の女帝・・・一度目は孝謙天皇、そして二度目は称徳天皇です。
称徳天皇は、生涯独身を貫き、子供を持つことはありませんでした。
道鏡は、この称徳天皇の寵愛を受け、天皇に並ぶ権力を持つこととなり、自ら天皇になろうとしたのです。
果たして、本当に天皇になろうとしていたのでしょうか??

孝謙天皇は、聖武天皇の娘として718年に生まれました。
父である聖武天皇は、仏の力での国家安泰を願い、全国に国分寺を建立。
東大寺では、世界最級大の廬舎那仏・・・大仏の造立を始めていました。
しかし、病気がちだった天皇は、皇位を譲り、政務から離れることに・・・
既に皇子は病で亡くなっていたので、娘を孝謙天皇として即位させ、自らは上皇となります。
749年孝謙天皇即位。

聖武上皇は、娘である孝謙天皇に、国家安泰の課題を2つ与えました。

①仏法僧を盛んにすること。
②皇位継承・・・女性の天皇は生涯独身を通し、自身の皇位継承者は皇族の中から選ぶこと。

父はこの後継者について、身分を問わず、孝謙天皇に任せると言っていました。

孝謙天皇は即位から3年後の752年、廬舎那仏開眼!!
その後、聖武上皇がなくなると、思わぬ政権転覆計画が発覚!!
首謀者は、孝謙天皇の従兄弟である橘奈良麻呂でした。
このクーデターは未遂に終わったものの、443人もの皇族や貴族が加担していました。
どうして政権転覆が画策されたのでしょうか?
当時の朝廷には、天皇は男性がなるべきだという考え方が多くありました。
女性はあくまでも中継ぎ・・・しかし、孝謙天皇は、頑張っていました。
しかし、大仏建立は終わったので、孝謙天皇の役目は終わったと考えたのです。

女性天皇が故の弱体政権・・・
758年、天皇の座を明け渡すことに・・・
当時、朝廷を牛耳っていたのは、藤原仲麻呂。
孝謙天皇を引きずり下ろし、自分が子供のように育てていた大炊王を即位させます。
これによって孝謙は・・・孝謙太上天皇となったのです。
新しく天皇となった淳仁天皇ですが、実際は仲麻呂の傀儡。
父の遺志を継ぐ孝謙にとっては不本意な跡継ぎでした。
その悔しい思いが天平宝字という年号に現れています。
年号は、即位と同日に改元されますが・・・上皇は淳仁天皇の即位後も、自分の即位年号の”天平宝字”を使ったのです。
天皇が変わったのに、年号が改元されない・・・これは、異例中の異例で、孝謙上皇は淳仁天皇を認めていなかったということです。
藤原仲麻呂のいうがままの淳仁天皇がどうしても気に入らなかった・・・!!

仲麻呂たちへの不満、心労がたたったのか、45歳の時病の床に就きました。
この時、付きっ切りで看病してくれたのが僧侶・弓削道鏡だったのです。

道鏡の詳しい出自は解っていません。
若くして仏門に入り、東大寺で仏教を治めます。
さらに、修験の霊場・大和葛城山に籠って修行をし、中国から伝わった最新の学問を身に着け、呪禁力をもっていたといわれています。
そのため、皇族の病気治療に携わる看護禅師になっていました。
孝謙上皇に出会ったのは60歳ごろの事・・・。
道鏡は、宿曜を用いて孝謙上皇の治療を行ったとされています。

病が癒えた孝謙上皇は、命の恩人である道鏡を、全僧侶を取仕切る住職の一つ”小僧都”に抜擢!!

孝謙上皇と道鏡の禁断の恋の噂は、瞬く間に朝廷中に広まりました。
淳仁天皇は諫めますが・・・無実を主張!!淳仁天皇を非難し・・・
762年、出家してしまいました。

しかし、怒りは収まらず10日後・・・孝謙は強権を発動!!
淳仁天皇から権力を奪い返したのです。
孝謙は、淳仁天皇から国政権を取り上げ、朝廷の中心に返り咲きます。
この孝謙の復権に際し、淳仁天皇と藤原仲麻呂は武装蜂起を計画。
しかし、そのたくらみは孝謙に筒抜けでした。
兵を差し向けた孝謙は、淳仁天皇から天皇の象徴である「駅鈴」と「御璽」を奪います。
こうして、淳仁を天皇の座から引きずり下ろしました。
そして、淳仁天皇を淡路島に流してしまったのです。
越前に逃亡した藤原仲麻呂も捕らえて首を刎ねました。

孝謙は6年ぶりに天皇の座につき、称徳天皇となったのです。
そして、道鏡も、その地位を高めていくのです。
道鏡は、称徳にとって、二人三脚な存在となっていきます。
重要な役職に就けていきます。
仲麻呂が就いていた太政大臣に抜擢、太政大臣禅師として政治の地位も確立しました。
さらに、仏教の隆盛に邁進する称徳天皇・・・
平城京の西に、東大寺に匹敵する西大寺の創建を道鏡に進めさせます。
藤原仲麻呂との戦いで亡くなった将兵たちを弔い、国の安泰を願います。
さらに法皇という新しい位を道鏡に与えます。
これは、天皇に準じるほど高く、道鏡はついに、天皇に匹敵する地位を獲得したのです。

天皇の座に返り咲いた称徳天皇・・・西大寺の創建など仏教の隆盛に努め、父・聖武天皇の遺言の一つは達成しました。
残されたのは、国家安泰を図れる人物に、皇位継承をすること。。。
そんな時、一度目の信託が・・・!!
169年神のお告げがもたらされます。
ご神託があったのは、宇佐八幡宮。。。
ご神託を受けたのは、大宰府の主神・習宜阿曽麻呂でした。
阿曽麻呂は、すぐに平城京に向かい、称徳天皇に神託を奏上します。
そこにはなんと・・・「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」と書かれていました。
僧侶を天皇に・・・という神のお告げが、朝廷を揺るがす道鏡事件の始まりでした。

この信託が作為的なものとするならば・・・まずは道鏡自身です。
その疑惑の根拠は、宇佐八幡宮・・・
当時、八幡神が遷座していた大尾神社。。。九州にあって、聖武天皇ともかかわりのある重要な八幡宮でした。
八幡神は、神仏習合をいち早く成し遂げ、東大寺の大仏造立に積極的にかかわって、国家的な神として信仰され、中央政界とも深いつながりを持っていました。
つまり、宇佐八幡宮のお告げは特別な意味を持っていました。
奈良時代の宇佐宮は、女禰宜がシャーマンとしてトランス状態で神の声を聴き、口頭で伝えていました。
神職が信託を書き留め、宮司に渡す・・・それが大宰府から朝廷に・・・伝えられていたのです。
このプロセスに道鏡が関わることは可能でした。
そのカギは大宰府・・・
当時、宇佐八幡宮は、大宰府の管理下にありました。
その大宰府長官だったのが道鏡の弟・弓削浄人。
弟なら阿曽麻呂を簡単に操ることができます。
しかも、当時、宇佐八幡宮の神官たちは、権力闘争の真っ最中で、うまく取り込むことは難しくなかったようです。
ご神託は道鏡の策略だったのでしょうか??

本当に道鏡の策略であるならば、称徳天皇の死後、道鏡は殺されているはず・・・
しかし、下野国薬師寺に流されただけ・・・この寺は、格式高く、流された理由はもちろん中央から退けられたのですが、悪くはない・・・。
朝廷の人たちも、道鏡自身が動いたわけではないと、わかっていたのではないか?と思われます。
道鏡を天皇に!!という神託は、道鏡を取り巻く人たちが利権を得ようとたくらんだもの・・・??
それは、称徳天皇にとっては渡りに船。。。
称徳は、道鏡を天皇にしたいという思惑がありました。
2014年、奈良市の平城京跡から・・・
称徳天皇の斎宮から、元日に行われる荘厳な儀式には、高さ9メートルに及ぶ、7本の旗が建てられました。
その旗竿の台座の後が、発掘されたのです。
それが7本×2組・・・つまり、称徳天皇のものと、道鏡のものの可能性が・・・!!

765年、称徳天皇が貴族たちを招いて、斎宮の前殿で元日の儀式を行ったと書かれています。
さらに、其の4年後には、道鏡が同じ場所で、大臣らから正月の挨拶を受けたと書かれています。
つまり・・・天皇と道鏡が同等の儀式をしていたのです。
称徳天皇が道鏡を天皇にしようとしたのは間違いない・・・
僧である道鏡に皇位を譲れば、父・聖武天皇との約束を二つ同時に果たせる・・・
仏法僧と、皇位継承・・・
しかし、道鏡を天皇にすることにはためらいもありました。
皇位継承は皇族に限るという不文律への挑戦・・・!!

道鏡を天皇に・・・称徳天皇が取った次の一手とは・・・??
貴族達からの猛反発は避けられない・・・そこで、称徳天皇は、信頼していた女官・広虫の弟である和気清麻呂を召し出し、命じます。
「私の夢に八幡神が現れ、奏上したいことがあるので広虫をよこしてほしいとの事。
 ご神託の真偽を確かめたい。
 弟のお前が、そのご神託をうかがってくるのじゃ。」
二度目のご神託も同じであれば、貴族たちも納得するのではないか??と、称徳天皇は考えたのです。

二度目の信託・・・
清麻呂は、さっそく宇佐八幡宮へ・・・!!
改めて誰が良いか、ご神託を聞いてくることとなりました。
平城京へ戻ってきたのは、出発から数か月後・・・
そこに記されていたのは・・・
「臣下が君主になったことは未だかつてない・・・ 皇子には必ず皇族を立てよ。」
皇位継承者には、天皇の血を引くものに限ると書かれていたのです。
つまり、道鏡を天皇にしてはならないと・・・さらに、
「道鏡を朝廷から追放すべし」と書かれていました。
二度目のご神託は一度目とは正反対のものでした。
そして、清麻呂は・・・
「一度目のご神託は偽りでございました。」と。
自分の思惑が外れたことに怒った称徳天皇は、清麻呂を別部穢麻呂と改名、大隅国へ配流。
側近だった清麻呂の姉・広虫を名を狭虫とし、備後国へ配流。

しかし、落ち着きを取り戻すと、そこに込められた貴族たちの意図に気付きます。
貴族達は道鏡を天皇にすることを反対している・・・

一度目の信託と二度目の信託・・・

神の許しがなければ、君主となる事は出来ない・・・ 

称徳天皇は二度目のご神託を受け入れ、道鏡を天皇にすることはありませんでした。
これ以上道鏡が大きな存在になれば・・・道鏡を天皇にすることで、起きる内乱を避けたのです。
貴族達には贈り物を送り、団結を訴えます。
贈り物は結束の象徴の「帯」が・・・そこには「恕(ゆるす)」の文字が書かれていました。
反対勢力を不問にふし、道鏡事件を終息させたのです。

道鏡事件後、二人が描いた夢とは・・・??
翌年、二人は三度由義宮を訪れています。
平城京の西に在り、副首都と位置付けられていました。
二人は長い時には40日も滞在したといいます。
そこは、道鏡の出身地とされる大阪・八尾市。
しかし、これまで遺物が発見されたことはなく、幻とされていましたが・・・
2016年に東弓削遺跡が発掘。
称徳天皇が道鏡のために建てたと思われる塔の跡が発見されました。
その塔は、巨大な七重塔で、東大寺に次ぐ大きさでした。
さらに大量の瓦が発掘。
自分が生きている間に由義宮に巨大な寺を建て、そこを道鏡に任せる・・・
仏の力によって国家安泰を図る。
それが、道鏡を天皇にできなかった称徳天皇の最後の夢だったのかもしれません。
都に戻った称徳天皇は、暫くして病の床に・・・。
道鏡は、貴族たちの謀りによって一切の見舞いを許されなかったといいます。
770年、称徳天皇崩御。
道鏡と出会って8年・・・53年の生涯でした。

称徳天皇の亡骸が高野陵に葬られると、道鏡はようやくその陵に参り、弔うことが許されます。
次の皇位継承者には、藤原氏を中心とする話し合いによって、称徳天皇の対立する系統の62歳の光仁天皇が即位しました。

完全に後ろ盾を失ってしまった道鏡は、法王の座を追われ、間もなく下野国薬師寺別当に左遷されます。
772年4月6日道鏡死去・・・法王の座まで上り詰め、一度は天皇に推挙された道鏡ですが、死する時は庶民をもって葬られたと伝えられています。


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世界遺産・奈良東大寺・・・。
創建は今から1260年前、その変わらない象徴として人々の心のよりどころとなってきたのが大仏様です。
高さ約15m、顔の大きさで6.7m・・・手のひらも3m弱。
これほどまでに巨大な大仏の建立を行ったのが、聖武天皇です。
完成まで14年、延べ260万人を動員した前代未聞の大国家プロジェクトでした。
その真の目的とは・・・??

華厳宗の大本山である東大寺。
本尊である大仏を安置する大仏殿は、木造建築としては世界最大を誇ります。
今の大仏殿は三代目。

758年聖武天皇が創設
1190年重源上人が再建
1709年公慶上人が再建

最初の大仏殿は、今の大仏殿の1.5倍も大きいものでした。
江戸時代に再建した際に、柱となる木材が調達できずに小さくなってしまったと言います。
大仏も三代目で、頭と肩が江戸時代、胸のあたりが戦国時代、奈良時代はひざ下から蓮弁にしか残っていません。

過去に二度再建された大仏ですが、作られた当時全身が黄金で輝いていました。
「信貴山縁起絵巻」では、黄金に輝いています。
顔の形も少し違います。16m21㎝今より少し大きかったのです。

聖武天皇が唐にならって作られたと言われています。
中国では、5世紀ごろから時の皇帝たちによって盛んに大仏たちが作られていました。
聖武天皇の側近には、吉備真備・玄昉など、中国に渡った者がおり、それに倣って作ったようです。
16mも中国に倣っています。
古来、仏像の高さは、一丈六尺・・・人間の2倍とされてきました。
そこに仏の光がくまなく照らすように・・・と、華厳宗で無限を表す10という数字をかけ、座像にするために半分・・・八丈・・・16mとなるのです。
その大仏を、中国のような石造ではなく、銅で作ることを望みました。
菌にこだわったのには理由がありました。
大阪柏原にあった知識寺・・・天皇がかつてここを訪れた際に、金色の廬舎那仏に深く感銘を受けたためでした。
高さ16m・・・金銅製・・・前代未聞の大仏となりました。

どうして大仏を造ろうと思ったのでしょうか??

奈良の都は反映している・・・万葉集に謳われていますfが、聖武天皇の時代は、決して穏やかなものではありませんでした。
732年日照りや台風で凶作が続き・・・飢饉が起こり、餓死者が続出!!
近畿で大地震!!多くの建物が倒壊しました。
不治の病とされていた天然痘が大流行で、おびただしい数の死者が・・・!!

「異変や災害が止まらないのは、我に徳がないからである。」by聖武天皇

徳治思想・・・政治を行う者に徳がないため、天災や疫病が起きるという考え方だったようです。


大仏建立の理由①
聖武天皇は、大仏を建立することで、国や民衆を救おうと考えたのです。
気にかかることは・・・
天照大神の子孫であるのに、仏教に頼っていいのだろうか??
ある時、伊勢国を訪れていた聖武天皇は、夢を見ます。
伊勢神宮に伝わる書によると、巫女が現れて・・・
「日輪は大日如来である。
 その本体は廬舎那仏である。
 皆の者はこのことをよくわかった上で、仏教に帰依するべきである。」と・・・。

日輪とは天照大神のことで、廬舎那仏は大仏の別名です。
つまり、同じだというのです。

神様も、大仏の造営に参加し大仏に協力し、帰依することによって災害、祟りが無くなるのではないのか・・・??
神と仏の力で国を救おうと廬舎那仏を造る決心をしましたが・・・

もう一つ、個人的な悩みが・・・
原因は、聖武天皇の生まれにありました。
701年5月・・・文武天皇と藤原宮子との間に第一皇子として生まれました。
幼名は首皇子・・・子の誕生を誰よりも喜んだのは、藤原不比等でした。
宮子の父の不比等は、このまま首皇子が後を継げば・・・
外戚である藤原氏が権力を掌握できる・・・!!

724年24歳で即位し、聖武天皇となりました。
そして、不比等の娘・・・叔母・光明子との間に一男一女を設けます。
聖武天皇は、皇子を僅か1か月で皇太子に立て、皇位につくのは藤原の血を引くこの子だ!!としたのですが・・・1歳を迎える前に亡くなってしまいました。
悲しみは深く、平城京の東にお堂を立て菩提を弔いました。
藤原の血を引く子・・・聖武天皇の中で重荷になっていきます。
焦りを覚え・・・不比等の長男の娘と次男の娘を夫人に迎えます。
「藤原からの三人の夫人のうち、誰かが皇子を授かれば・・・」
しかし、遂に皇子は生まれません・・・精神的に追い込まれていく聖武天皇。。。

おまけに、朝廷の要職につき、天皇を支えていた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が流行り病の天然痘で次々となくなり・・・藤原氏の力が急速に衰えていきます。


大仏建立の理由②
聖武天皇は藤原氏の重圧から逃れるために、大仏に救いを求めたのでは・・・??

740年追い打ちをかけるように、聖武天皇のいとこにあたる藤原広嗣が政権の不満から、九州の大宰府で1万の兵を挙げました。
制圧に向かわせましたが・・・平城京を離れてしまいます。
伊賀・伊勢・美濃・近江などを転々と死、恭仁京に遷都してしまいました。
まだ恭仁京の造営をしているのに、近江の紫香楽に利休を造り始め・・・5年間の間、さまようように行幸を繰り返し、各地を転々としたのです。
これは計画していたものと思われます。
紫香楽宮に何回も行幸をし、ここに大仏を造ることを説得していました。
結局大仏は奈良に作られることとなりますが・・・
743年10月15日、紫香楽で大仏造顕の詔を発します。
「三法(仏・法・僧)の力によって、天下が安泰となり、命あるもの全てが栄えることを望む。 
 この思いを叶えるために、国中の銅を尽くして仏を造り、山を削って仏堂を立てることに協力してほしい。
 我の富や権勢をもって造ることはたやすいが、それでは反発するものを生み、更に世の中を不安にしてしまう。
 一本の草、一握りの土でも、協力したいというものがいれば、共に大仏を造ろうではないか。」

権力者としての命令ではなく、日本国中の人が心を一つにして大仏を造ることを思っていたようです。

大仏建立・・・詔から1年目・・・
744年紫香楽宮で大仏建立が始まります。
しかし、それは14年にも及ぶ壮絶な日々の始まりでした。
高さ16m、金銅製という世界初の大仏・・・
日本の仏師たちはどのように作っていいのかわかりませんでした。
参考にできたのは国中公麻呂です。
公麻呂は聖武天皇のために、作図をしたり、製作の総指揮を任されました。

大仏完成までに従事した人数は約260万人!!
貢献したのは行基。
30年以上にわたって仏の道を説きながら、橋を造り、道を造り、寺院や困窮者のための宿泊所を建設していました。
民衆から厚く信頼されていた行基のおかげで人々は集まってきます。
聖武天皇も、自ら綱を引いて大仏の骨柱を立てたと言います。
しかし、紫香楽で大仏は完成しませんでした。
大仏製作を始めてから1年・・・
紫香楽宮周辺で、立て続けに4度も山火事が起きました。
4回目は宮に迫る勢いで、聖武天皇も非難しました。
これは、反対する人々が妨害のために放火したのでは・・・??と言われています。

理由①
朝廷内に、僻地の紫香楽宮での大仏建立に反対するものが多かったのです。
朝廷内に不穏な空気が・・・そこへ大きな地震が・・・!!

理由②
地震などの発生で、紫香楽宮は天から認められた場所ではないと考えたのです。

紫香楽での大仏建立を断念・・・
詔から3年・・・
746年平城京に戻り、金鐘山寺(のちの東大寺)で大仏建立再開。
皇子の眠るこの地しかない。。。!!

大仏建立成功のために、万全の体制を整えます。

大仏建立成功への道①組織化
聖武天皇は仏像づくりのために造寺司という役所を置きます。
寺院を造営するための機関で、有能な人材を置きました。
細かく部署を造り、全国からの職人を並べ、熟練者をトップに組織化することで効率アップを図ります。

工人・・・専門職ごとに細かく分けます。
工人には司工(公務員)と雇工(民間人)ですが・・・民衆と共に造るという思いから、たくさんの民間人が雇われました。

大仏建立成功への道②福利厚生
苦しい労働・・・自分たちも救われるために・・・という気持ちが大切で・・・。
それまでの奴隷のような扱いでは無くなります。
病気で休んでも食事が出る。
親を亡くした際には、国に帰れる。
夏には昼食後の休憩があった。etc.
聖武天皇は、民衆の心が大仏から離れないように、福利厚生に力を入れたのです。


745年8月23日地鎮祭。
聖武天皇は自ら土をすくって運び、光明皇后は大仏の座す場所を突き固めます。
工事の無事を祈ります。

鋳型づくり・・・
平城京には木材や銅、資材が全国から運び込まれました。銅だけでも500トンはあったと言います。
大仏建立は、国を挙げての一大事業です。
想像を絶する鋳型づくりです。
千度以上で鍜治場のようになります。
その過酷な環境に、倒れるものも沢山いました。
だからこその福利厚生なのです。

銅500トン、錫8トン、水銀2.5トン、金0.4トン・・・金属だけでもこれだけ要りました。
国中の銅を尽くして・・・全国から集めてこなければいけない量ですが・・・
金・・・日本では見つからないものでした。

そんな時吉報が・・・!!
749年2月22日、陸奥国小田郡(現在の宮城県)で金が見つかりました。
大変喜んで、聖武天皇は年号を天平感宝と改めたほどでした。
翌年、病気がちだった聖武天皇は出家し、皇位を娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲り自らは太上天皇となりました。
10月・・・鋳型を外していきますが・・・技術が未熟だったため、修復するのに数年がかかります。
いよいよ大仏に金メッキが施されましたが・・・
当時は水銀を用いて行われました。
水銀に金を加え、大仏表面に塗って、火で温め水銀を蒸発させ、金が残るようにするというものでしたが・・・
この方法では、熱せられた水銀が、有毒な蒸気となって空中に・・・!!
この気化した水銀によって多くの人が命を落としたと思われます。
まさに、命がけだったのです。

詔が出てからすでに9年・・・できたのは頭部のみ・・・。
752年4月9日完成を待たずして開眼供養会が行われることになりました。
それはこの年が、仏教伝来200年という節目の年だったからです。
五色の旗で飾られ、多くの参列者で埋め尽くされました。
集められた僧侶は1万人を超え、大仏に命を吹き込むのはインドから来た菩提僊那が行いました。
瞳を入れるための筆には、長い綱が結んでおり、聖武太上天皇はじめ参列者はそれを握ることで大仏に命を吹き込む感動の時を共にします。

そして大仏開眼!!
大仏殿を取り巻いていた観衆から歓声が沸き起こりました。
聖武太上天皇は、この大仏開眼した筆に括りつけていた綱を、宝物として大切にしたと言います。
開眼供養会が終わった後も、作られる大仏・・・
詔から14年・・・
757年民衆たちの協力と犠牲によって大仏が完成したと言われています。
しかし、聖武太上天皇が完成した金色の大仏を見ることはありませんでした。
前年・・・完成を待たずして亡くなっていたのです。

東大寺で聖武天皇の一周忌が行われました。
黄金色の大仏の前に、1500人の僧侶が集まったといいます。
大仏はその後、地震によって首が落ちてしまったり、火災で焼かれたり・・・
苦難に見舞われますが・・・その都度、時の権力者と民衆によって再建されてきました。
全ての人の心を一つにして・・・聖武天皇の願いと共に・・・人々の心のよりどころにされてきたのです。


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