日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:聚楽第

2020年5月、戦国史を揺るがす大発見がありました。
京都御苑の一角で、巨大な城の痕跡が400年ぶりに見つかったのです。
城の名は京都新城!!
当時の資料には登場するものの、その正体は幻とされていた城です。
さらに、金箔河原も出現。
五七の桐と呼ばれる紋様は、豊臣家を象徴するものです。
この城を築いたのは豊臣秀吉。
一代で天下人に上りつめ、戦国乱世に終止符を打った英雄です。
東西およそ400m、南北およそ800mに及ぶ壮大な城郭は、秀吉が無くなる1年前に築かれたことがわかっています。
秀吉が京都新城に込めた狙いとは・・・??



最晩年、病に侵されながら幼い秀頼を後継者と定めた秀吉・・・
徳川家康を信頼し、後事を託しました。
ところが!!秀吉の死後、家康は秀頼から転嫁を簒奪!!
豊臣家は敢え無く滅亡したとされてきました。
しかし、京都新城の発見によって、秀吉が秀頼と豊臣家を守るため周到な布石を打ってきた可能性が出てきました。
知略を駆使して戦国を駆け抜けた秀吉・・・
その最期の戦略、知られざる終活プラントは??

1582年6月2日、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により壮絶な死を遂げました。
本能寺の変です。
この時、織田家の有力家臣の中でいち早く抜きんでたものこそ羽柴秀吉でした。
逆心・光秀を討伐することに成功した秀吉・・・
卓越した軍略で、織田家筆頭・柴田勝家を破り、莫大な経済力で最大のライバル徳川家康を圧倒しました。
しかし、この時秀吉はすでに50歳近かったのです。
天下を掌握し、自らの覇権を維持するためには何をするべきか、盤石な政権を築くことが秀吉の課題でした。
大きな壁のひとつが、出自の問題でした。
九州の有力大名・島津氏は、秀吉の出自をこう記録しています。

”秀吉はまことに由来なき人物である”

農民出身の秀吉を、由緒のない低い身分の者とさげすんでいるのです。
そこで秀吉は、出自の問題を克服するため、朝廷の権威を利用しようとしました。

1584年10月、秀吉は、朝廷から従五位下(佐近衛権少将)に任じられました。
従五位下とは、殿上人として昇殿を許される最初の位です。
さらにその翌年、秀吉は異例の速さで昇進・・・関白にまで上り詰めました。
この時、朝廷から豊臣の氏を賜り、以降、豊臣秀吉と名乗ることとなります。
当時来日した宣教師は、その衝撃をこう記しています。

「秀吉が下賤な家柄から出世し、わずかばかりのうちに突然日本最高の名誉を手にしたことは、日本人すべてを驚嘆させずにはおかなかった」

さらに秀吉は、大名たちの統制をはかるために、独自の戦略に打って出ます。
秀吉の苗字である羽柴の姓を、有力大名に下賜する授姓という政策です。
徳川家康、毛利輝元、小早川隆景・・・いずれの大名も、羽柴と名乗っています。
一国以上もつ大名はほぼ全員が羽柴になって、羽柴姓だらけになる非常に珍しい体制となりました。
家制度、家柄を意識する日本社会の中でなかなかできることではありません。
秀吉は、自分自身が持っていなかったということもあってか、疑似的な一族意識、連帯感を持ちたかったのです。
そうせざるを得なかったのです。
しかし、秀吉にとって最大の問題は後継者問題でした。
秀吉と北政所の間には、実子がいませんでした。
その為秀吉は、信長をはじめ家康や前田利家など有力大名の子供を養子とし、家督相続に備えていました。
ところが・・・秀吉53差の時に淀殿が鶴松を出産。
これで後継者問題はひとまず落着しました。
その翌年・・・1590年7月、秀吉は小田原合戦で北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。
この時点では、秀吉、豊臣家の天下は末永く安泰であるかに見えました。

実子・鶴松を正統な後継者とするため、秀吉はその下地作りを始めます。
有力大名の養子を他家へと転出させる一方、養子同志を婚姻させ、一族の結束を図りました。
ところが・・・そんな秀吉に火が気が襲いかかります。
1591年8月、鶴松死去。
秀吉の後継者問題は、再び暗礁に乗り上げます。
そこで秀吉は、自分の姉の子・甥の秀次を新たな養子としました。
血縁のある者が少なかった秀吉にとって、既に成人し、自らの天下統一を支えてきた武将は秀次しかいませんでした。
1591年12月、秀吉は秀次に関白職を譲ります。
正統な後継者としました。
養子となった秀次に、関白職のみならず聚楽第まで譲ります。
秀吉は、秀次に国内の政を任せると、海外制覇への野望を抱くようになります。
1592年4月、文禄・慶長の役が始まります。
総勢30万の軍勢が、朝鮮に侵攻しました。
鶴松が死んだことで、秀吉は動揺しました。
秀吉自身が大陸に行くということで、国内のことを誰かに任せなければなりませんでした。
そうなると、秀次を跡継ぎにとなりました。
自分が日本を留守にする間の総責任者として秀次を指名したのです。
しかし、1593年8月、秀吉が57歳の時に予想だにしない出来事が起こりました。
淀殿が再び懐妊し、拾・・・秀頼が生まれました。



秀吉の天下を受け継ぐ者はひとりだけ・・・!!
実子・秀頼か、関白・秀次か・・・??
果たして秀吉の選択は・・・??

当時の秀次側近の記録には、秀頼と秀次の娘が婚約を結ぶべきと秀吉が命じたとあります。
つまり、秀吉は、当初秀頼を関白・秀次の後継者とすることでこの問題を平和裏に解決しようとしていました。
秀頼が順調に成人を迎えるのか??
もちろん確証はありませんでした。
その期間は、秀次に安定して関白職を任せておけるようにしたいと思っていたようです。

1594年4月、秀吉に病魔が襲い掛かります。
病名は明らかではありませんが、当時の記録には・・・
秀吉は意識不明となり、小便を垂れ流したとあります。
同じ頃、秀吉の朝鮮侵略は膠着状態に陥り、出陣した将兵の間に厭戦気分が蔓延していました。
先の見えない対外戦争・・・自らの病・・・徐々に疑心暗鬼が生じた秀吉は、自らの後継者問題に残酷な決断を下すことになります。

1595年7月3日、奉行衆が秀次を詰問。
秀次とその家臣たちが、秀吉に対する謀反の談合をして、武具などを準備していたためだという・・・
その5日後には、秀次の関白職を剥奪し、高野山に追放。
そして・・・7月15日、秀次は切腹して果てました。
享年28歳とされています。

京都市にある秀次の菩提寺・瑞泉寺・・・
ここに、事件のあらましを記録した縁起絵が伝えられています。
京・三条河原で秀次の正室や側室34人、そして秀次の子供5人が次々と処刑されました。
秀吉は、秀頼の将来に禍根を残さぬように秀次の一族を抹殺しました。
さらにその矛先は、関白の政庁だった聚楽第にも向けられ、跡形もなく破壊しました。

事件後、秀吉は有力大名たちに起請文を提出させます。
第1条にはこうあります。
秀頼に対し、いささかも裏切るような心を持たず、お守り申し上げること。
非情な手段で秀次を排斥した秀吉は、こうして実子・秀頼を正統な後継者と定めたのです。

2020年5月、京都で戦国史に新たな光を当てる大発見がありました。
京都御苑の南東の一角で、秀吉が築いた城の堀跡の一部が見つかったのです。
地中深くから現れたのは、戦国時代に多く見られる自然石を積み上げた野面積の石垣です。
こうした石が、5,6段積み上げられ、その高さは2m以上あったと推定されます。
この城は、当時の記録に新城と記録されていることから京都新城と呼ばれています。
秀吉が後継者となる秀頼のために築いた城です。
さらに、堀跡からは、京都新城の性格をうかがわせる貴重な遺物が発見されました。
金箔瓦です。
金箔が施された瓦には、豊臣家を象徴する五七の桐と、天皇の象徴・菊の紋様が書かれていました。
京都新城は、豊臣の権威というだけではなく、公家の権威、両方兼ね備えたお城でした。
堀跡が発見されたのは、京都御苑の仙洞御所内の一角でした。
その後の調査で、堀の幅はおよそ20mあることがわかりました。
京都新城は、東西400m、南北800mにも及ぶ巨大な城郭だったと推測されています。

江戸時代初めに描かれた絵図・・・京都新城の北側は、公家屋敷に囲まれ、天皇の御所である内裏があったことがわかります。

京都新城とはどのような城だったのでしょうか??
京都市にある西本願寺に、戦国時代に築かれた貴重な建物が保存されています。
国宝・飛雲閣・・・桃山文化を代表する建築のひとつです。
池に面した三層に築かれた楼閣は、来客をもてなす場として使用されていました。
飛雲閣は、これまで聚楽第の遺構と考えられてきました。
しかし、その建築年代が聚楽第より新しい京都新城の年代に位置することから、最近の研究では飛雲閣が京都新城から移築されたものだと推定されています。

京都新城は、周囲を巨大な塀で囲み、塀の中に深い堀が築かれ、城内には庭園の池に面した公家屋敷風の建物などが立ち並んでいたとされています。
聚楽第の中心部とほぼ同じ大きさで、当時、洛中に作られたお城としては最大級でした。
豊臣政権の威信をかけて作られたお城でした。
秀吉が、秀頼の為この地に城を築き始めたのは、1598年4月。
亡くなるわずか1年前のことでした。



秀吉は、どうしてこの地に城を築いたのか??
京都新城の北側に当たる場所に、秀吉が城を築いた理由を紐解くものがありました。
土御門第跡・・・もともとは、藤原道長が屋敷を持っていた場所でした。
時の最高権力の所在したところが豊臣政権の本拠である・・・そんなメッセージが込められていました。
平安貴族を代表する道長の屋敷跡を取り込み、公家屋敷に隣接した場所に城を築いた秀吉。
それは、秀頼を公家と一体化させようとしたためではないかと思われます。
当時、秀頼の年齢は5歳・・・豊臣政権の頂点に君臨するにはあまりにも幼過ぎました。
秀吉は、秀頼を公家化することで、豊臣家を永続させようと目論んだのです。
最晩年の秀吉が築いた京都新城・・・果たしてそれは、秀頼を公家化しようとして築かれたのでしょうか??

1597年4月15日、秀吉は秀頼や家康などを伴い京都新城に入城。
この時、秀頼は朝廷から破格の待遇を受け、わずか6歳で家康に次ぐ位階・従二位権中納言を授けられました。
ところが・・・京都新城から伏見城に戻った秀吉は発病し、そのまま寝たきりの状態になったといいます。
幼い秀頼に、いかに豊臣家を継承させるべきか??
病床の秀吉は、最終的な決断を迫られました。
5月、秀吉は、大坂城の強化を命じます。
そして、秀頼の居城を京都新城ではなく、大坂城と定めたのです。
2003年の大坂城の発掘調査で見つかった全長240mに及ぶ障子堀の跡・・・堅固な大坂城の防御力をさらに高める目的で、秀吉が命令した普請の跡だとされています。
秀吉は、大坂城を改造するだけでなく、有力大名を家族ごと城内に人質として住まわせます。豊臣家を継ぐ秀頼には、朝廷の高い官位だけでなく、武家の棟梁としての働きを期待したのです。
7月15日、秀吉は、有力大名を集め、死後の政権運営を11箇条にまとめたものを披露します。
そこに記されたのは、秀頼を支える大名たちの役割です。
伏見城には徳川家康が居住し、大坂城は秀頼の居城であるから前田利家がお守り役としてすべてお世話願いたい。
秀吉は、特に徳川家康と前田利家に秀頼を盛り立ててくれるよう依頼しました。
そして、8月5日、秀吉は、家康たちにあて最後の遺言を書き残しました。

”かさねがさね秀頼のこと、頼み申し候
 何事もこの他に思い残すことなく候”

この13日後、豊臣秀吉死去。
享年62歳でした。
そののち、秀頼は新たな豊臣政権のTOPとして君臨。
幼い秀頼を石田三成などの五奉行や、徳川家康を筆頭とする五大老が補佐する体制が整えられました。
ところが、やがて徳川家康がその本性をあらわにします。
秀吉が生前に定めた御掟にはこうあります。

”諸大名間の縁組は上様の御意を得て決定すること”

家康はこの御掟に反し、諸大名との姻戚関係を独断で結びました。
さらに家康は、伏見城に居住という秀吉との約束を破り大坂城に入城し、そのまま居座るばかりか新たに天守まで築きました。
家康は専横を極めました。
それを激しく糾弾したのが五奉行の石田三成でした。
やがて二人の対立は、家康を盟主とする東軍と、三成の西軍に二分。
全国を巻き込む内乱へと発展しました。
そのさ中、1600年8月29日、西軍が京都新城の堀や石垣を破壊。
史料には、禁裏のご近所の故なりrとあります。
天皇の御所が、両軍の戦いに巻き込まれないよう配慮したといいます。
秀頼の退去後、京都新城には北政所が移り住んだと記録されています。
この時の破壊に、彼女がどうかかわったのか、真相は定かではありません。

その15日後・・・9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが勃発。
戦に勝利した徳川家康は、やがて征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
豊臣家が滅亡したのは、そのわずか12年後のことです。

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1598年8月18日、天下人がこの世を去りました。
貧しい農民の出身とされ、そこから異例の出世を遂げた豊臣秀吉です。
2020年、秀吉にまつわる歴史的大発見が立て続けに報じられています。

2020年5月「幻の城」京都新城の遺構が発掘される
     6月「駒井日記」の自筆原本の一部が発見される

こうした新発見により、秀吉の新たな人物像が明らかになるのでは??と、注目されています。
そんな秀吉が天下人となったのは、最後までて期待していた北条氏を攻め落とし、奥羽を平定し終えた1591年、秀吉が55歳の時でした。
天下統一を果たした秀吉は、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し、鎌倉幕府を興した源頼朝の像に向かってこう語ったとつたえられています。

「わしと同じく天下を取った頼朝公は、友のようなものである
 しかし、貴殿は帝の末裔であるが、わしは全く何もないところから天下を取った
 それは何事につけ、いつも心を働かせ、素早く動いたからである」

中国大返しも、尋常ならざる素早さでした。
まさに知略とスピードで、天下人となった秀吉・・・。
そんな秀吉の最後とは・・・??

1591年、天下統一を成し遂げたとの年、秀吉に不幸が訪れます。
側室・淀の方との間にようやく授かった男子・鶴松がわずか3歳で亡くなりました。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を養子に迎えると、関白職を譲り、自らは太閤と呼ばれるようになります。
しかし、隠居したわけではなく・・・その目は、海を越え、世界に向いていました。

鶴松を失くした1591年8月・・・
秀吉は、”唐入り”を全国に布告します。
唐(から)とは、当時の明のことで、秀吉は明を征服する為に、まずは朝鮮半島への進軍を計画します。
その狙いは、これまで海外への領土拡張や、途絶えていた明との貿易を再開するためなど、様々な説が唱えられてきました。
しかし、それらとは別の狙いがあったのでは??

秀吉の唐入り計画は、国際的要因が大きかったのでは??
当時、スペインは、世界征服を狙っていました。
その対象には、当然明、日本も入ります。
秀吉は、東アジアの政府苦悩野望を止めるために、機先を制するためだったのでは??
スペインによる日本征服を阻止する為に、その足掛かりになる明を先に支配下に置こうとしたのです。
肥前国・名護屋に拠点の城を築き始めます。
着工からわずか半年で完成した城の総面積は、当時の大坂城の次の規模を誇る約17万㎡。
秀吉の並々ならぬ意気込みが伺えます。

1592年4月、秀吉は唐入りの布告通り、16万の軍勢を朝鮮半島に送ります。
第1次朝鮮出兵・・・文禄の役です。
釜山に上陸した日本軍は、わずか半年で朝鮮の首都を占領し、全羅道を除く朝鮮半島のほぼ全域を制圧します。
この報せを受け、気を良くした秀吉は、5月18日、京都にいた関白・秀次に書状を送ります。
そこには驚くべき構想が書かれていました。

「三国国割構想」です。

・明国を支配した暁には、今の帝(後陽成天皇)に明の都・北京へ移っていただき、秀次が大唐関白となる
・日本での新たな帝は今の帝の皇子(良仁親王)か、帝の弟君(智仁親王)
・朝鮮統治は、秀次の弟である秀勝か宇喜田秀家が行うとする

日本・明・朝鮮を近親者などで統治し、秀吉はアジアの盟主となる壮大な計画でした。
さらに秀吉は、この時フィリピンも視野に入れていたといいます。
フィリピンがスペインに支配されていたことが理由でした。
秀吉は、フィリピンのマニラにいたスペイン人のフィリピン総督に、こんな親書を送っています。

”速やかに日本に使者を寄越して服従せよ!
 もし遅れれば、兵を派遣する!!”

恫喝とも取れる強い態度には理由がありました。
スペインによる日本征服計画を強くけん制し、抑制する効果があったようです。
現に、総督はマニラに戒厳令を敷き、秀吉が攻めてくるのではないか?というスペイン側の記録が残されています。
一説に秀吉は、この時ヨーロッパと香辛料貿易が盛んだったインドまで攻略するつもりだったともいわれています。
しかし、その広大な構想は、行き詰まりを見せます。

朝鮮半島で快進撃を続けていた日本軍でしたが、明の援軍が到着したことによって膠着状態に・・・
1593年3月、明(14代皇帝・万歴帝)との講和交渉が始まりました。
5月23日、秀吉は名護屋城で明の勅使と会見・・・
朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲することなど7つの条件を提示しました。
しかし、結局、秀吉の要求は明に受け入れられず、交渉は決裂してしまったのです。

この年、側室・淀の方との間に拾(秀頼)が授かります。
秀吉は、新築された伏見城に二人を伴って移り住みました。
その時、秀次の側近だった駒井重勝が書いた日記にも、秀頼のことが書かれています。

”御ひろい様
 一段とご息災に御座候”by駒井日記

将来は、お拾様と秀次の娘を結婚させ、舅と婿の関係とすることで、両人に天下を受け継がせるのが秀吉の考えでした。
当初は養子の秀次と、実の子である秀頼を共に盛り立てて行こうと考えていた秀吉でしたが、天下人も人の子・・・我が子がかわいくなります。
秀次に譲った関白に秀頼をつかせて自分の後継者にと望むようになります。

気持ちの変化は行動にも表れたようで・・・秀頼の生まれた4か月後・・・

”秀吉公が定めた「尾州国中御置目・について、一書をもって秀次公に申し上げる”by駒井日記

当時、尾張は秀次の領地でした。
しかし、この日記が書かれる前の月、秀吉が突然尾張を視察・・・
故郷である尾張の荒廃した様子をその目で確かめると、新たな定めを作る順守するように秀次に命じました。

御置目には、田畑が荒れた現状などを憂いたうえで、
・堤防を築き洪水対策を行う
・普請に従事する農民に酒や餅を配る
・陰陽師に土地を祈祷させる

尾張を復興するように書かれていました。

秀次は焦ります。
秀吉から命令されたということは、尾張を統治する者として、そして秀吉の後継者としてダメ出しを食らったようなもの・・・
関白の座を秀頼に譲らせるための秀吉の圧力・・・こうして秀次への圧力は始まっていたのです。

1595年、秀次が突如秀吉から謀反の疑いをかけられたのです。
なかなか関白の座を譲らない秀次に、秀吉が業を煮やし、謀反の疑いをかけたともいわれています。
そして・・・7月15日・・・
秀次は、無実を訴えながら、高野山で切腹・・・
その首は、京都・三条河原に晒され、さらに一族39人を見せしめのために同じ河原で処刑されたのです。
秀吉が亡くなる3年前のことでした。

秀吉は、聚楽第まで潰してしまいます。
そして、伏見城を増改築して豊臣政権の中心に据えようと、聚楽第の周囲にあった諸大名の屋敷も伏見へと移転させます。
ところが、1596年閏7月・・・M7.5の直下型地震・・・慶長伏見地震です。
被害は甚大で、大坂、堺、兵庫では多くの家が倒壊し、京都では伏見城、東寺、天龍寺などが倒壊し、死者は1000人を越えたと伝えられています。
この時、秀吉は伏見城にいたようです。
「当代記」によれば、城内で数百人が亡くなったものの、秀吉はなんとか無事で、台所で一晩過ごしたといいます。
そして翌日からは、伏見城から1キロ離れた木幡山に仮小屋を建て、避難生活を送ったと言われています。
この地震がきっかけで、この年の10月17日、「文禄」から「慶長」に改元されました。

文禄の役で、明との講和交渉が決裂した豊臣秀吉は、二度目の朝鮮出兵を決めます。
そして、1597年2月・・・配下の武将たちにこう命じます。

「全羅道をことごとく成敗し、忠清道にも侵攻せよ!!」by秀吉

これによって、総勢14万の軍勢が対馬海峡を渡り、第2次朝鮮出兵「慶長の役」が始まりました。
日本軍は、朝鮮水軍を壊滅させると、わずか2か月で慶尚道、全羅道、忠清道を制圧、反撃に出た明・朝鮮連合軍を蔚山の戦いで撃破し、朝鮮半島南岸の拠点を確保するのです。

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この時、秀吉61歳、まだ気力も体力もみなぎっていました。
秀吉に重用された戦国の名医・曲直瀬玄朔が記した「医学天正記」にはこんな記録が残されています。

「秀吉公が感冒を患ったので、桔梗湯を投与した」

感冒とは風邪のことですが、これ以外に秀吉が大きな病にかかったという記録は残っていません。

秀吉は、東寺が好きで近江長浜城や姫路城には入念に湯殿を作らせたといいます。
天下人になってからは、番医というお抱え医師団を形成、24時間体制で常勤させ、自分だけでなく、身内や大名たちの病も診察させたといいます。
ルイス・フロイスによると、秀吉は大坂城だけで300人の側室を有し、国中の美人や若い人妻の中で秀吉から逃れられた者はない・・・といわれています。

そんな秀吉のスタミナ源とは・・・??
秀吉が若い頃から好んだ食材は、ドジョウでした。
カルシウムが多く、アルギニンが豊富に含まれています。
秀吉は、若い頃、ドジョウを売って生計を立てていました。
どんなふうにして食べていたのでしょうか??

ドジョウ汁・・・ささがきしたゴボウとドジョウとネギを味噌で煮込んだものです。

元気の源です。

2020年5月、日本の城郭史を揺るがす大発見がありました。
豊臣秀吉が最晩年に築いたと言われる京都新城の遺構が派遣されたのです。
京都新城は、関白・豊臣秀次の屋敷だった聚楽第を取り壊した2年後の1597年、天皇が暮らす御所の南東に築かれたとされ、当時は太閤御所などと呼ばれていたことはわかっていました。
しかし、資料が少なく、遺構も見つかっていなかったため、正確なな場所や規模は不明のまま・・・幻の城と呼ばれてきました。
しかし、2019年11月から始められた発掘調査で、遂に京都御苑の傍にある京都仙洞御所の一角から南北8mにわたる石垣の一部が出土したのです。
その石垣は、野面積みの石垣で、秀吉の時代によく用いられた工法でした。
さらに、豊臣家が用いた桐紋が入った金箔瓦の破片も出土したため、この遺構は秀吉が築いた京都新城の一部に間違いないとされたのです。

京都新城からわかる秀吉の政治構想とは・・・??

秀吉は、5歳になった嫡男・秀頼のために、新しい城を築こうと考えました。
破却した聚楽第があった場所ではなく、天皇のいる御所のすぐ近くに建てよと指示したのです。
秀頼が、御所(内裏)の近くに住むことは、摂関家としての豊臣家の象徴行為でした。
秀吉は、秀吉が将来、関白になることを想定して、京都新城を御所の側に建てたのです。
関白となった秀頼の存在を天皇や公家たちにアピールするために建てられたのです。
急ピッチで築城された京都新城は、5か月で完成!!
1597年9月、秀吉は秀頼と共に入居しました。
そして、秀頼の元服の儀を行うのです。

しかし、その夢はうたかたの如く消えます。
秀吉の死後、1599年、秀頼は大坂城へ移ります。
その為、京都新城が使われたのは、わずか1年ほどでした。
その後、関ケ原の戦いで京都新城が破却されます。
今回発見された京都新城の遺構は、まさに秀吉の夢の跡でした。

1598年3月15日、京都醍醐寺三宝院の裏の山ろくで、後世に語り継がれる盛大な花見が催されました。
天下人・豊臣秀吉の醍醐の花見です。
700本の桜を植樹し、女房、女中衆1300人を招いたというまさに空前絶後の花見でした。
当日は、絶好の花見日和で、秀吉は、終始上機嫌だったといいます。
女房、女中衆全ての着物を新調し、途中でお色直しまであったと言われています。
贅の限りを尽くしたまさに、天下人・秀吉らしい豪遊でした。
平穏に見えますが・・・目下、朝鮮出兵中でした。
戦のさ中です。
1598年5月3日、秀吉は、朝鮮の状況を聞き、激怒します。
蜂須賀家政・黒田長政がその日の先鋒であったにもかかわらず、戦をしなかったというのです。

「臆病者めが!!」by秀吉

この時、年が明けたら福島正則、石田三成、増田長盛ら3人を大将とする第3次朝鮮出兵を計画していました。
そんな野望を熱く語っていた2日後・・・秀吉は、突如倒れてしまいました。

1598年5月5日、秀吉は、極度の下痢に襲われます。
当初は軽く考えていましたが・・・倦怠感と脱力感を訴え、食欲も減退・・・
尿失禁や手足の痛みの症状が出てきました。
しかし、やがて病状は回復・・・
秀吉は、翌年の再出兵に向けて、朝鮮の築いた城に兵糧や弾薬などを備蓄するように命じたほどでした。

ところが・・・
8月5日、秀吉の病状は再び悪化・・・
死期が近いことを知った秀吉は、徳川家康をはじめとする五大老に宛てた遺言状を書きます。

「くれぐれも秀頼のことが成り立つよう、五人の方々に御頼み申す
 何事もこの他には思い残すことなく候」

そして、この13日後の1598年8月18日、秀吉は62歳でこの世を去りました。
戦国の世を駆け抜けた波乱の生涯でした。

発病から3か月後に亡くなった秀吉・・・その死因は何だったのでしょうか?
秀吉の死因についての記録は少なく、今も謎に包まれています。
数少ない記録であるイエズス会宣教師フランシスコ・パシオの「日本年報」には・・・赤痢を患ったとあります。
高熱と激しい腹痛と下痢が続きます。
しかし、下痢の症状から亡くなるまで3か月あまり・・・秀吉の死が赤痢によるものならば、もっと早く命を落とすのでは・・・??
パシオは、秀吉が「時ならず胃痛を訴えた」とも書き残しています。
このことから、胃がんだったのでは??という説もあります。

尿失禁、手足の痛みがあることから、脚気という説もあります。
脚気は、悪化すると尿失禁、手足の痛み、歩行困難、錯乱などの症状が出る病で、ビタミンB1の不足により発症します。
日本人の主食である米と大きく関係しています。
米の灰が部分には、ビタミンB1が豊富に含まれていますが、精米して白米にすると、ほとんどなくなってしまいます。
その為、白米ばかり食べた結果、ビタミンB1が不足して脚気になるというのです。
そもそも、平安時代ごろから米を精米して食べる習慣はありましたが、当時、白米は貴族たちの食べる高級食でした。
秀吉の時代も同じで、貧しい頃には白米など食べられず、雑穀米でビタミン不足にはならないのですが・・・
出世していくにつれ、白米を好むようになり、ビタミンB1が不足し、脚気になった可能性が高いのです。

脚気で死に至ることはあるのでしょうか?
衝心脚気の可能性が高いと言えるでしょう。

1598年8月18日、天下人・秀吉が波乱の人生に幕を下ろしました。
遺言に従い、秀吉の亡骸は火葬されずに伏見城内に甕に納められて安置されました。
さらに、秀吉の死は公表されず、徹底的に隠されました。
その理由は・・・??
丁度その頃、朝鮮半島には、大名や武士などが出兵している段階でした。
その段階で、日本側の最高権力者の死が敵国に伝わると、日本の兵たちが帰国できない可能性があったのです。

朝鮮半島からの帰国命令が出され、引き揚げが開始されたの、秀吉の死から2か月後の10月・・・
そして、引き揚げの目途がついた翌年・・・1599年1月5日、石田三成ら五奉行によって秀吉の死が公表されました。
4月、伏見城内にあった秀吉の亡骸は、京都阿弥陀峰山頂にうつされ、密かに埋葬されました。
秀吉は、死後、自分を新八幡として神格化するように遺言していました。
秀吉は、対外戦争のさ中に亡くなっていく・・・日本を守りたいという遺志が「新八幡」という神号に込められていました。

ところが、神号を授ける後陽成天皇が秀吉に与えたのは、「新八幡」ではなく、「豊国大明神」でした。
秀吉の後継者である秀頼や、正室のおね、豊臣政権で最も力を持っていた徳川家康の意向を受けてのことだったといいます。
豊国大明神・・・豊芦原中津国を省略したもので、秀吉が日本を代表する存在であることを強調する意味が込められていました。
「新八幡」=武の神ですが、「豊国大明神」=武の神でした。
意味合いとしては同じようなものでした。
当時は、朝鮮半島から撤退するも、明や朝鮮との戦いが終わったわけではなく、秀吉亡き後も国内情勢も不安定な状態・・・内憂外患がある中で、秀吉の遺族や家康たちは、秀吉を豊国大明神という日本の象徴として神格化、国内外にいまだ豊臣政権が盤石であることを知らしめようとしたのです。
こうして秀吉は、死後、神となりました。

しかし、後を継いだ徳川家康によって、豊臣家は滅亡してしまいます。
その家康は、1604年、秀吉の七回忌に「臨時大祭礼」を開催しましたが、京都の人々にとって秀吉は生前、都を大改造するなど京都に活気を与え、好景気を与えた大恩人・・・そんな秀吉を敬い、祭りに熱中する京都の人々の太閤贔屓を目の当たりにして、家康、怯えたのかもしれません。
家康は、秀吉を祀る京都豊国神社を破却するよう命じます。
秀吉は、死してもなお、家康を恐れさせていたのです。

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ついに上洛した昌幸は、家康の下で与力大名となった。
父のために奔走した信繁を助けたのは、
秀吉が思いを寄せる、茶々であった。

ということで、第19回・・・いったい誰の恋路なんでしょう??

前回、秀吉に昌幸・信幸を会わせてくれた茶々、お礼に蔵を見せてほしいと信繁におねだりです。
女中に変身!!

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「その蔵には、決して入ってはならぬと、殿下に言われているのです。
でも、そんなこと言われたら、余計に覗いてみたくなるでしょう??」

子供のように天真爛漫な茶々。。。
信繁は見つかったら・・・と、気が気ではありません。
そしてその蔵には武具が・・・。

「殿下はどうして見せたくなかったんでしょう?
 ・・・ 
 私が5歳の時に私の父は・・・
 父は信長公に攻められ、小谷でお腹を召されました。
 城攻めの大将は殿下でした。。。」

「存じております。」by信繁。

そう・・・誰でも知っている・・・。

「兄の万福丸はその時10歳・・・
 殿下の命によって串刺しの刑に処されました。

 その後に、母が嫁いだ柴田勝家さまは、殿下に攻められ、母を一刀のもとに切り殺した後、お腹うぃ十文字に切ってお果てになりました。

 私の親しい人たちは、皆・・・殿下に殺されました。。。」by茶々


それが・・・見せたくなかった理由なんじゃないの・・・??

なんて悲劇・・・
この大河を見ている人は皆、知っている事でしょうが、改めて茶々の口からきくとゾッとします。
とにかく、三人娘の長女が茶々です。きっと、この戦いのトラウマが一番大きいと思いませんか??

武具を触っていると、長巻に・・・倒れて驚き・・・死を恐れていないと思っていた自分が、死を恐れていることを知るのでした。

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「茶々に惚れてしもうた・・・!!」by秀吉
「誰の膝の上か・・・わかってもすか・・・??」by寧

そして・・・その城を落とす方法を寧に聞くか・・・秀吉!!

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「わたくしが答えるのですか・・・??
あの子にとって、母親も父親も、あなたに殺されたようにございましょう?
ほんなら、下手な小細工などせんと、真正面からぶつかっていくしかございません!!」by寧
「それで落ちるか・・・??」by秀吉
「さあ・・・!!」by寧
「どう攻めるかのう・・・。」by秀吉

と、茶々攻略も話しちゃうほど秀吉は寧が好き。
相変わらずラブラブな二人なのです。
そうね・・・寧、秀吉よりひと回りも年下なのに、とっても大人な対応の寧です。

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聚楽第を作り、大坂から政をこちらに移すという・・・。
その頃徳川では・・・
真田の内情を知るために、間者が欲しいと家康が忠勝に相談中。
どうして忠勝に相談・・・??
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「先だって会ったお主の娘は何と言った・・・
 あれをわしにくれっ!!
 真田と縁組をする・・・!!
 稲を真田に送り込むのだっ!!」by家康。
「・・・!!
 相手は・・・??」by忠勝
「安房守の嫡男・信幸!!」by家康。

おお!!
大粒の涙を流して・・・忠勝・・・可愛い娘を・・・どうする・・・??

そこはやっぱり家康の忠実な家臣・・・!!
のたうち回って悩んだ末に・・・??
稲を家康の養女とし、嫁がせることとしました。
忘れてません??こうはどうするの・・・??

「源三郎・・・おこうは里へ帰そう・・・。
 源三郎。。。ここは泣いてくれ・・・!!
 すべては真田の為じゃ!!」by昌幸

そして稲も・・・はじめは嫌がっていたものの。。。
殿のために働きたい・・・!!
「稲は・・・間者になるのですか??
 喜んで、お役目、果たしまする・・・!!」by稲
ということで、嫁ぐことが決定!!

とりあえず、この頃の結婚なんてこんなもんです。
嫁は実家も大事なスパイなんです
ただ・・・そんな緊張感がない場合は、昌幸のように安心な親戚からもらうというのがほとんどだったようです。
ちなみにどうしてこうだったのか??
本当は昌幸は嫡男ではありません。
が、兄が亡くなったことで跡を継ぐこととなります。
こうは、兄の子・・・なので、本家の娘と本流ではない信幸=本家の血の入った子が生まれれば万歳万歳だったんです。

が、この稲との結婚、上田城攻めの真田に感心した忠勝が、是非にと惚れ込んでなった婚儀という見方もあって・・・
でも、どちらにとっても良かったのかもしれません。
真田丸では泣いてますけどね、忠勝


大坂城では・・・信繁が、茶々を蔵に連れ込んだと噂が・・・!!

そのことが秀吉の耳に入り・・・詰問されるも”信じる”と言った秀吉。。。
なんだかとっても不気味・・・!!

お役目を変えていただきたいと進言する信繁だけど・・・茶々の話し相手になってほしいと頼まれるのでした。

そしてまたもや茶々から呼び出しが・・・。

信繁に隙があったのでは・・・??

そういうきりは・・・

maru6












秀次に頼んでみましたよ!!
加藤清正の誤解を解いてほしいのだという・・・
「無理だ」という秀次・・・
秀長に頼めばどうにかしてくれる・・・と弱音を吐いてます。
そうか・・・もうこの頃、秀長病気だもんね・・・。
秀吉はポッと偉くなったので、周りにいい人材がいないというのが最大のネックでした。
家康における三河武士みたいに・・・命を懸けて守ってくれる、命を懸けて叱ってくれる人材がいなかったというわけです。
そう思うと、秀長の早すぎる死が、本当に惜しまれます。
あともう少し長生きしてくれたら、もしかしたら豊臣家は崩壊していなかったかもしれないものね・・・。


秀次は、あとは・・・石田治部・・・と、三成に手紙を書いてくれました。

みんなに隙があったからだと言われ放題な信繁ですが・・・
三成は、清正を九州へ行かせることとしました。
九州征伐も大詰めで。。。清正は、兵糧の調達や宿所の手配で忙しく、信繁に構っているほど暇にはさせないという。。。
これも、信繁のためにやってくれるんじゃなくって、その方が上手く回るから・・・というただそれだけの事。。。
でも、吉継によれば、九州行きはもともと決まっていたと言います。
恩を売ったのね・・・三成!!


ちなみに、武闘派と言われている加藤清正ですが、城普請は天下一品ですし、なかなか調達の差配もちゃんとできたので、能力的には素晴らしかったと思われます。
でも・・・ここにいる人たちは、世が世なればただの百姓なんですよね・・・。

そう・・・清正に九州を見せるのは・・・後にやってくる虎退治・・・じゃなかった朝鮮出兵の為でした。

加藤清正は、九州平定の1年後、肥後で19万5000石の大大名となる。
挑戦に上陸するのは、その4年後の事。。。

遂に聚楽第も完成・・・。
”じゅらくてい”そういえば、昔は”じゅらくだい”って呼んでませんでした?
でも、北山第(きたやまてい)って呼びますよね??
本当は”じゅらくてい”だったのかもしれませんね。

聚楽第が出来た・・・と、秀吉、三成、茶々でお話し中・・・

「蔵ですって・・・また一緒に見に行きましょうね!!」by茶々

控えていた信繁に無防備にもかけられた無邪気な言葉・・・。
またもや信繁ピンチ!!
あれだけ一緒に蔵には言っていないと言ったのに・・・嘘だったことがばれちゃいました。

秀吉・・・”また”が引っかかります・・・??

「殿下を欺いておりました・・・!!」by信繁

「よくもわしを謀ってくれたな・・・!!
 信じておったのに・・・!!」by秀吉

武具の蔵を覗きに行ったと白状する信繁に・・・

「わしはお前にこれからは・・・美しい物だけに囲まれて生きてほしいと思っておった・・・。
 それゆえ・・・あの蔵から遠ざけた。
 お前が見てきたたくさんの忌まわしい事・・・
 それと同じ分だけ、いや・・・その何倍もの楽しい思いをお前にはしてほしい・・・
 それがわしにできる唯一の償いじゃ・・・」by秀吉

そして、天下人として平和な世を作ること・・・
そして茶々をその天下人の妻にしたいと告白する秀吉なのでした。

「この聚楽第で天下人の妻として暮らしてくれ・・・
 茶々にはのう・・・この世を去るときこう言ってほしいのだ
 ”茶々は日の本一幸せな女子でした”
 このわしが、言わせて見せる・・・!!」by秀吉。

おお!!
茶々も心動かされたんじゃないでしょうか??


そうして・・・お役替えを望んでいた信繁は、茶々から解放されるのでした。

「おかしな話をします。

 私と源次郎は、不思議な糸で結ばれている気がするのです。
 離れ離れになっても、あなたはいつかまた戻ってくる・・・。

 そして私たちは同じ日に死ぬの。。。」by茶々

「遠い先であることを祈っております。」by信繁

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遂に、茶々は正式に、秀吉の側室となりました。

「茶々様を側室に迎えるということは、殿下が信長公を飲み込み超えるという事・・・
 この先殿下は、どこへ向かわれるのか・・・?!」

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三成も予感しているようです。。。今が”我が世の春””夢のまた夢”ということを。。。

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豊臣政権破滅への序章が始まりました。

今回は、”恋路”ということでしたが、秀吉と寧、茶々が丁寧に描かれていましたね。
秀吉は女好きとか、高貴な女性が好みだとか・・・いろいろ言われていますが、茶々に関しては本当にこんな気持ちだったのかもしれません。

もちろん、秀吉は高貴な女性が好みでした。
が、茶々の母・お市の方・・・お市に憧れていた頃は、下っ端も下っ端!!
もしかすると会えていなかったかも知れません。
なので、お市への思いを茶々で・・・というのはないかもしれません。
ま・・・戦国一の美女と謳われたお市の娘ですから、もちろん美女だったに違いありません。

が・・・今回のドラマで”蔵”で秀吉が表しているように、茶々は数奇な運命・・・と言えば聞こえがいいですが、残酷な・・・戦国に振り回された生涯だったと思います。

父・浅井長政・・・兄・万福丸、義父・柴田勝家、母・お市・・・たくさんの悲しみの上に生きていることは間違いありません。
浅井三姉妹・・・一番年上の茶々が一番悲惨な戦国を引きずっての今だと思うんです。

秀吉が、ほとんど自分のせいで狂わせてしまった茶々の人生を、幸せにしてあげたいと思う気持ちがあってもおかしくはない・・・と思いました。

悪女のように書かれる茶々ですが、茶々に悪女となる選択肢があったかどうかは疑問ですよね。。。
そういえば・・・江戸時代になって茶々は淀君と呼ばれるわけですが・・・
君という呼び方が、一部の学者が「君という敬称は遊女に使うものであり、徳川幕府が淀殿を貶めて呼ぶために使ったと主張」したので、最近では淀殿という呼び方が一般化したともいわれています。

そうか・・・やっぱり歴史は勝者の歴史なんですね。
負ければ賊軍かぁ・・・。

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