織田信長が、豊臣秀吉が、徳川家康が・・・天下統一を目指して熾烈な戦いを繰り広げた戦国時代・・・彼らの戦場は陸だけではありませんでした。
その一つは・・・海!!
軍船対軍船の戦い・・・その数多ある水軍の戦を勝ち抜き、遂には天下人に恐れられた海の侍たち・・・それが村上海賊です。
当時日本にいたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊のことを日本最大の海賊と評しました。
天下取り目前の信長を、海の戦で完膚なきまでに打ちのめすほどの力を持っていたからです。

近畿、中国、四国、九州に囲まれた瀬戸内海・・・この海は、古くから西国と大坂・京都を結び、年貢や交易のための物資が行き交う大動脈でした。
戦国時代はその沿岸に、周防・長門の大内氏、伊予の河野氏、安芸の毛利氏、それぞれが領土の拡大を目指す戦いの場でもありました。
そんな瀬戸内海を拠点としていた村上水軍・・・その名を一躍とどろかせたのが、海の桶狭間でした。

広島県廿日市市にある厳島神社・・・
海に立つ鳥居で知られ、国保であり、世界遺産です。
この宮島と呼ばれる静かな島が、かつて戦の舞台となりました。
1555年厳島の戦いです。

領国の拡大を狙う毛利元就と、大内氏の重臣で、実質的に権力者だった陶晴賢が厳島で激突したのです。
晴賢は前年に元就によって奪われたこの島を取り戻すために、毛利軍の拠点宮ノ尾城に襲い掛かります。
大軍の敵に囲まれ窮地に追いやられた毛利軍・・・もはやこれまでか!!と思われたその時、数百艘の水軍が現れ陶の水軍を急襲したのです。
これこそが、村上海賊・・・!!
つながりの深かった毛利の援軍として参加したのです。
村上海賊は、瞬く間に陶の海軍を撃退!!
形勢は逆転し、毛利軍の逆転勝利となりました。
奇襲によって形勢が逆転したことによって勝利したことで、織田信長が今川義元に奇襲作戦で勝ったことになぞらえて、後に海の桶狭間ともよばれるようになりました。
陶の水軍を一気に破った村上水軍・・・
その強さの秘密とは・・・??

①船乗りとして優れていた
島が入り組んで、狭い水路、複雑な潮の流れなど難所の多い瀬戸内海で、船を自在に操る高い航海技術を持っていました。
さらに、彼らの使う軍船の強さ!!
当時、大名らが使用する軍船の主力となったのが、全長20mを超える安宅船と呼ばれる大型船で、兵士が乗り、弓矢や槍などで戦いました。
もちろん、村上水軍も安宅船を使っていましたが、違ったタイプの船を駆使していました。
その一つが小早船です。
安宅船は大型船だったので、小回りが利かず、容易に方向転換ができないという弱点がありました。
村上水軍は、全長5mの小早船を操り、スピードと縦横無尽の動きで敵船を攻めました。
もう一つが中型船の関船です。
その鋭い船首で体当たりし、敵船を破壊、時には敵を沈没させました。
こうして海を知り尽くして多様な船を使いこなしていた村上水軍は、瀬戸内海で無敵の存在となっていきました。

村上氏の始まり
・平安時代の村上天皇が祖
・南北朝時代に北畠氏の一族が村上と名乗った
しかし、その出自は定かではありません。

村上家は三家に分かれていました。
因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏です。
この三家は連携しながら沿岸の諸大名と手を組んで拡大していきます。
中でも、海の戦国大名と呼ばれ、大きな力を持っていたのが能島村上氏当主・村上武吉です。

今に伝わる陣羽織があります。
架空の動物で赤面赤毛で猿に似た猩猩の血の色と言われる真赤な生地に、背に記された丸に上の文字は村上家の家紋・・・
これを身にまとい、瀬戸内海をわがものにしていた人物こそ、村上武吉です。
1533年に生れました。
若くして沼島村上家の当主となり、後に能島殿と呼ばれ畏れられる存在になっていきました。
人々は、武吉の何を畏れたのでしょうか?

それは、拠点とした能島にありました。
能島の周囲は850mほど・・・小さな島で今は無人島となっています。
潮の流れが早く、海は渦を巻き、船を近づけることができません。
能島は敵が攻められない天然の要塞だったのです。
能島と鯛崎島が城となっていて、築城は14世紀半ばと考えられています。
能島城は、小さな島全体を城としていますが、上から本丸、二の丸、三の丸、ハナには曲輪・・・
周りが急斜面で切岸となっています。
基本的なお城の構造を島全体で作っていました。

残っている岩礁部分に空いた穴は、船を停めておく杭を刺した穴で、島にはこのような穴が400ほど残っています。
能島村上海賊が大規模だったことがわかります。

敵から攻められにくい天然要塞である能島を拠点に、多様な船を駆使して瀬戸内海に君臨した村上海賊の棟梁・村上武吉・・・
武吉が周囲から恐れられたもう一つの要員は・・・経済力でした。
武吉が能島村上氏の当主となる前は・・・その名の通り、航行する船を襲っては抵抗すれば殺害してでも積み荷を奪う海賊行為を行っていました。
しかし、武吉が当主となると、配下の海賊たちに言い放ちます。

「これからは船を襲うことは許さん!!」

武吉は、略奪行為を一切やめさせました。
その代わりに航行する船から通行料である帆別線を徴収します。
金を支払えば、村上海賊の勢力圏での安全を保証・・・通行料は船の帆の大きさで決められたといいます。
さらに武吉は、上乗りという警護も担当します。
村上海賊が依頼のあった船に乗船するというもので、上乗りが言えば顔パスで、襲われることも通行料を撮られることもありませんでした。
その見返りとして警護料を支払わせたのです。
それらの収入を合わせると、一説には戦国大名の石高に匹敵するといわれています。
武吉は、無敵の水軍と、戦国大名に匹敵する財力を持っていたのです。
それで、周囲から畏れられたのです。
武吉は、瀬戸内海の船の航行を牛耳ることとなり、瀬戸内海の支配者となりました。

1576年、瀬戸内海を支配する村上海賊の頭領・村上武吉に大大名となっていた毛利輝元が、要請します。
「大坂に行ってもらえぬか・・・??」
「大坂・・・??」
輝元が、どうして大坂行きを武吉に要請したかというと、そこには織田信長の存在がありました。

天下布武を掲げる織田信長にとって、長年の障害となっていたのが浄土真宗の総本山・石山本願寺でした。
宗主の顕如率いる本願寺が、10万人の門徒を従え、畿内を中心に一大勢力を築いていたからです。
何としてでも畿内をわがものにしたい信長は、石山本願寺を攻め、遂に寺を包囲して兵糧攻めにします。
それによって、本願寺は兵糧が無くなり風前の灯火に・・・。
この本願寺の危機を知った輝元は、援軍を送ることに・・・!!
本願寺に送る大量の武器や食料を積んだ輸送船の警護を村上水軍に依頼したのです。
要請を受けた武吉は、嫡男・元吉を大将にして村上海賊を大坂に向かわせました。
その数、毛利水軍と合わせておよそ800艘・・・!!
そして、遂に大阪湾から石山本願寺の脇を流れる木津川の河口にやってきたところで200艘の織田水軍と当たります。
世にいう第一次木津川口の合戦です。
その結果は・・・村上水軍を任された元吉が、毛利輝元に報告しています。

”織田の船をことごとく焼き崩しました
 敵方を数百人は討ち取りましたので、首実検のために揃えてお持ちします”

村上海賊との連合軍が、織田水軍に圧勝したのです。
どうして村上海賊は圧勝することができたのでしょうか?
「信長公記」にはこう書かれています。

”海上はほうろく、火矢などと云う物をこしらえ、お味方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢に敵わず”

ほうろくが、織田水軍に有効だったのです。
村上海賊の特色は、ほうろくという小型爆弾のようなものを用いていました。
それ以外にも、村上水軍は
熊手・・・敵や物をひっかけて自分の方に引き寄せる
袖がらみ・・・棘がついていて、相手の衣服に絡めて相手の動きを封じる
村上海賊の勝因は、多様な武器に加え、様々な船による組織的な攻撃力でした。

その戦法は・・・
①射手船・・・火矢や銃弾で混乱させて相手の反撃能力を奪う
②ほうろく船・・・ほうろく玉を投げ入れて、敵船を炎上させる=船は瞬く間に炎上
③武者船・・・兵たちが敵船に乗り込み、敵兵を海に追い落とす
これで織田水軍を壊滅的に追い込んだのです。
海での戦術に優れ、ほうろく玉などの秘密兵器を駆使して圧勝していたのです。
こうして食料や武器などを石山本願寺に届けた村上海賊と毛利水軍の連合軍は、意気揚々と西に帰っていきました。

木津川口の合戦で、織田水軍に勝利した村上海賊の村上武吉・元吉親子は、毛利氏から令嬢が贈られるなど、信頼が厚くなっていきます。
そんな中、木津川口の合戦から2年後の1578年・・・
石山本願寺攻略に執念を燃やす織田信長が、またもや本願寺の兵糧攻めを開始しました。
そして毛利氏は、本願寺に援軍を送ります。
再び村上海賊の出番となりました。
この時は、当主である武吉自らが600艘を率いて、毛利水軍と共に大坂へ・・・!!

ところが、木津川の河口についた武吉は愕然とします。
武吉が目にしたのは、今までに見たこともない異様な船でした。
第一次木津川口の戦いで村上海賊に完膚なきまでに叩かれた信長は、ほうろく玉の攻撃に耐えうる船の建造を志摩の領主であり海賊の頭領・九鬼嘉隆に命じていました。
そこで完成したのが鉄甲船でした。

「多門院日記」によると・・・
”人数五千程乗る横に七間、縦へ十二、三間もこれあり 鉄の船なり”

それは、横幅13m、全長23m、5000人もが乗船できる鉄の船でした。
これを6艘も作らせていました。
銃弾が通らないように、部分的に鉄で船を装甲していたのです。
こうして第二次木津川口の合戦が始まりました。
村上海賊は、ほうろく玉攻撃を繰り出しますが・・・
厚い鉄板で跳ね返され、織田水軍の鉄甲船に全く歯が立ちませんでした。
さらに、信長にはもう一つの秘密兵器が・・・
近づいてくる村上海賊を引き付けて・・・鉄甲船には大砲が装備されていたのです。
その一斉砲撃を受けると、村上海賊は撤退を余儀なくされました。
海戦では無敵だった村上海賊が、最新鋭の武器の前に敗れ去ったのです。
この敗戦を機に、毛利氏の瀬戸内海での影響力が弱まり、2年後の1580年に石山本願寺は織田信長に明け渡されることになります。

当然村上海賊にも、信長による懲罰が待ち受けているはずでした。
武吉と元吉の元に信長から書状が届きます。

”望む事これ有るにおいては いささかも異議なく候 その意を成すべく候”

なんと信長は、希望があれば何でも聞くという寛大な姿勢を示したのです。
どうしてでしょう・・・??
信長は、軍事力に関して陸上は毛利氏に勝っていると考えていましたが、海上の水軍力については毛利氏に劣っていると認識していました。
そこで、武吉の軍事力は織田に欠かせないと考えていました。
そして毛利攻めを任せていた秀吉に対し、村上武吉への調略を命じます。
それを受け秀吉のにこう伝えます。

”能島殿が信長公に味方するなら、所領は伊予十四郡はもちろんの事、四国全土を与えてもよい”

それは、秀吉の常套手段でした。
過大な条件を出して誘いをかけたのです。
一族のごたごたも利用・・・
当時、武吉と元吉の間に隙間風が吹き始めていました。
元吉を揺さぶります。
秀吉は、村上三家の団結を崩そうとも考えていました。
同じように、因島村上氏・来島村上氏にも仕掛けていました。
すると来島村上氏が織田側に寝返ります。
それでも武吉は、信長、秀吉の誘いに首を縦に振りませんでした。
あくまで毛利氏に追従する道を選んだのです。
その理由とは・・・??
毛利氏の必死の引き留め工作がありました。
武吉は、毛利氏と強い絆で結ばれていたため、裏切れなかったのです。

信長・秀吉の誘いを蹴った能島村上氏の武吉ですが、来島村上氏が織田方に寝返ったため、村上家は結束を欠くことに・・・
これで織田軍の毛利攻めが易くなる・・・!!
そんな矢先、1582年6月、家臣明智光秀の裏切りによる本能寺の変で信長が自害!!

これで村上海賊の宿敵が無くなった・・・??新たな敵が現れました。
羽柴から豊臣となった秀吉です。
信長亡き後、天下人を狙う秀吉は、中国、四国、九州を支配下に置き、残すは東北となっていました。
そんな中、ある法令を発布します。
1588年7月8日、秀吉は「海賊停止令」を発布します。
そこには、諸国の海上において速やかに海賊行為をやめよ・・・とありました。
各地の領主に対し、船に関わる全ての人物から誓約書をとって提出するように求めたのです。
船頭や漁師までも・・・!!
もし、海賊行為を行った場合、その海域の領主も罰せられるという「海の刀狩り」とも取れる厳しい令でした。
これによって、武吉は海での警護や通行料の徴収などができなくなってしまいました。
まさに、秀吉の海賊取り締まりは、村上海賊を狙い撃ちしたもの・・・
もはや懐柔ではなく目の敵にし、弾圧したのです。
海賊停止令は、秀吉の天下統一の理念を海にまで及ぼそうとしたものです。
海の世界まで統一する為に、海上交通路も秀吉が支配しなければならないと考えたのでした。
村上海賊は、その障害になると考えたのです。

1588年9月・・・秀吉から毛利方に書状が届きます。

”能島が海賊行為をしているという知らせがあったが言語道断”

禁令を破ったとして武吉を処罰するという者でした。
秀吉は、”赤間関より上国には居ることまかりならざる様に”と、武吉追放を命じます。
赤間関とは今の下関のことで、瀬戸内海から出て行けということ・・・
武吉は、一族配下のものを守るため、従うほかありませんでした。
村上三家のうち、武吉だけが筑前・糸島に移り住むこととなったのです。

1598年、武吉を瀬戸内海から追放した秀吉が亡くなります。
これによって、武吉に再びの活躍の場が・・・!!
再び毛利氏に仕え、所領2万石を得ていた武吉・・・
その際、新たな本拠地としたのが伊予制圧の要衝・竹原鎮海山城でした。
それは、あわよくば天下を狙う毛利輝元の指示によるものでした。

秀吉の死後、実権を握った徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成の対立が激しくなります。
そして遂に三成を中心とした西軍が挙兵したことで、家康の東軍と激突することとなります。
その際、西軍の総大将に担ぎ上げられたのが武吉の仕える毛利輝元でした。

勝てば毛利の天下も・・・!!
この時、武吉68歳、嫡男元吉48歳!!
村上海賊復活のチャンスが。。。!!

1600年7月、西軍の総大将毛利輝元は、秀吉の嫡男・秀頼を守るために大坂城に入ります。
その輝元から武吉が任されたのは、西国にある徳川方の城を攻め落とすことでした。
村上海賊は、阿波・蜂須賀氏を攻略すると、加藤氏の伊予に乗り込むことに・・・!!
9月14日、武吉親子が向かったのは、興居島・・・加藤氏の拠点である松前城に攻め入るためでした。
翌15日、村上海賊は三津浜に上がり布陣します。
まさにその同じ日・・・美濃の関ケ原で天下分け目の戦いが始まりました。
しかし、わずか6時間で東軍が勝利し、毛利輝元は敗軍の将となってしまいました。
16日、敗戦を知らない武吉は、松前城に三千の兵を差し向け、開場を要求・・・
松前城の留守役に開場を受け入れさせます。
あっけない勝利に見えました。
もはや攻め入る必要もない・・・武吉は猶予を与え、一旦引き上げることに・・・。
武吉たちは近くの民家に陣を張り、宴会を開き勝利を祝ったのです。
西軍本体が負けたとも知らずに・・・!!
そしてその日の夜中・・・
兵を整えた加藤氏の軍が、武吉の陣を夜襲・・・間一髪で難を逃れましたが、この戦いで嫡男元吉を失ってしまいました。
村上海賊の完敗でした。
村上氏が持っていた優れた船や熟練した乗組員が力を発揮する余地がなかったのです。
瀬戸内海で百戦錬磨の海の支配者も、陸の上では並の武将に過ぎなかったのです。
その後、関ケ原で西軍が敗戦したことを知ると、武吉は撤退・・・屋代島へと追いやられていきました。
その所領は2万石からわずか1,500石へ・・・付き従っていた者たちも、その財力を失った武吉の元を次々と去っていきました。
そして、1604年8月22日、村上武吉は72歳で波乱の生涯を閉じたのでした。
村上武吉の死と共に、水軍としての村上海賊も終わりを告げました。
しかし、能島の村上一族は、その後船手衆として生き残ります。
江戸時代には、参勤交代の際の藩主の送迎や、朝鮮通信使などの船の護衛を担いました。

南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海に君臨し、そして消えて行った村上海賊・・・
その海の侍たちの勇壮な姿とロマンは、これからも語り継がれていくでしょう。

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