日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:興福寺

世界最大級の木造建築、奈良の東大寺大仏殿・・・ここに鎮座するのは、銅製の仏像で世界トップクラスを誇る廬舎那仏です。
どちらも国宝です。
国宝とは、重要文化財のうち、歴史的文化史的価値が高く、世界的にも保護すべき国の宝として国が指定したものです。
現在国宝に指定されているのは、建造物、美術品を含め、1116です。
人気の国宝の謎に迫ります。

Ⅰ.日本の仏像史上最高のイケメンと称される「阿修羅像」。

asyura
猛々しい戦いの神が、どうして憂いを帯びた少年の顔なのでしょうか?

奈良興福寺、大化の改新の中心人物中臣鎌足の妻によって創建された藤原氏ゆかりのお寺です。。
その境内に、かつてあった西金堂の安置されていたのが、国宝・阿修羅像です。
釈迦の教えによって帰依した仏法を守る神です。
3つの顔と6本の腕を持つ三面六臂、八頭身という抜群のプロポーションが特徴です。
平安時代以降に衰退し、幻の製作方法とされる”脱活乾漆”と呼ばれる方法で作られています。
その方法は・・・??

アシュラブック 興福寺阿修羅像から東大寺不空羂索観音像へ [ 北進一 ]

価格:2,484円
(2019/9/8 10:19時点)
感想(0件)



①原型づくり・・・骨組みとなる木の芯に粘土を盛っていき、ヘラで大まかな形を作ります。
②麻布貼り・・・麻布を何枚も重ね、木くずや漆を混ぜた木屎漆を塗りつけて乾燥させます。
③粘土の掻き出し・・・乾燥したのち、背中や腰の部分に穴をあけ、中の粘土を掻き出して空洞に・・・
④縫い合わせ・・・麻布で、穴を閉じ、色を塗って完成です。

この方法で作られた阿修羅像は、軽くて丈夫なのが特徴で、そのおかげか戦火で焼失するピンチを幾度となく逃れてきました。
柔らかな表現を出すことができたのも、この技法のおかげです。
仏像全体に色が施されてきましたが、ほとんどはげ落ちてしまいました。
長い間謎とされてきたその色彩・・・赤い色で塗られていたことがわかります。
その赤は、辰砂と呼ばれる水銀と偉央を含む鉱物からできたものであることもわかりました。
辰砂は、作り方によって数種類の赤が生れます。
ろうそくの光でも・・・暗い環境でもはっきりと見えるように、明るい色で塗られていました。

もう一つ、阿修羅像に魅入られる理由は・・・??
愁いを帯びた表情で人々を魅了してきた興福寺の阿修羅像・・・
ぷっくりと膨らんだ下唇、つぶらな瞳はうるんでいるようにも見えます。
まだあどけない少年の顔をした阿修羅・・・
しかし、元々阿修羅とは、古代インド神話に登場する怒りに満ちた戦いの神です。
娘を強奪した最高神インドラに挑み続ける間に、荒ぶる神になってしまったといわれています。
なので、通常は怒りの表情らしいのですが・・・
興福寺の阿修羅像は、どうして少年の表情を称えているのでしょうか?
近年大発見がありました。
それは、九州国立博物館と奈良大学が共同で研究を進めていた時の事・・・
CTスキャンで撮影し、画像を分析すると・・・顔の下にもう一つの顔があることがわかりました。
製作の途中で、顔が作り替えられたのでは・・・??
権力者・・・仏像を作らせた光明皇后が変更を命令したのでは・・・??
夫である聖武天皇が即位してから続いた天変地異・・・。
日照り、台風が相次ぎ、各地で飢饉による餓死者が続出します。
734年には畿内で山崩れや地割れの起こる大地震が・・・。
その3年後には、死の病・・・天然痘が大流行・・・夥しい死者が出ました。
聖武天皇は考えます。

「異変や災害がなおとまらず、我の不徳を責めている
 責任は我ひとりにある」

そして、民のため、国家安泰のために祈り、深く仏教に帰依していきます。
東大寺の大仏建立もその一つです。
その建立を働きかけたのは、妻の光明皇后だったともいわれています。
皇后もまた、仏教の教えに従って国民を救うべく尽力します。
興福寺の中に、貧しい人々に施しを与える悲田院や医療施設である施薬院を作ります。
みずからが建立した法華寺には、浴室(からふろ)を作ります。
病人などを癒す施設・・・サウナでした。
日本最古の風呂とされています。
そこには日本の社会福祉の原点ともいわれる逸話が・・・
光明皇后自らが千人の垢を流したという伝説が残っています。
不安な世相に怯える貧しい民に、救いの手を差し伸べた光明皇后・・・興福寺の阿修羅像もその一つでした。
仏教で国を守ろうと考えます。
しかし、阿修羅像に込めた思いは他にも・・・
727年、聖武天皇は光明皇后との間に男の子を設けます。
ようやく授かった跡継ぎ・・・二人の喜びは大きく、生後32日という異例の早さで皇太子に・・・。
しかし、その翌年、皇子は亡くなってしまいました。
愛する皇子を失った光明皇后は深い悲しみに・・・
それから6年後の734年、光明皇后は母の一周忌のため、興福寺に西金堂を建立。
その中に安置する為に作った仏像の一つが阿修羅像でした。
皇后はそこに幼くして亡くなった我が子を投影・・・そのため、物資が作った怒りの表情を、少年の表情に変えさせたのでは??と考えられています。
阿修羅像の3つの顔は、少年の成長の過程を現したものといわれています。
そこには、見ることが叶わなかった我が子の成長を思い描く、母・光明皇后の深い愛と悲しみが込められていたのです。


Ⅱ.江戸時代初期に現れた稀代の絵師・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」。
風神、雷神は、風と雷を神格化したもので、仏教美術に登場する一対の鬼神でした。
それを堂々たる主役としたのが、宗達の風神雷神図屏風です。

俵屋宗達は、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した町絵師です。
詳しいことはわかっていない、謎の多い絵師です。
宗達が活躍していた頃、画壇の頂点に君臨していたのは、狩野探幽ら・・・狩野派の御用絵師でした。
江戸時代になると、活動拠点を京都から江戸に移し、徳川家に仕えるようになります。
一方宗達は・・・京都で暮らし、扇に絵を描くことを生業としていました。
すると・・・その絵が、京都の豪商や寺社から気に入られ、やがて狩野派の絵師とは一線を画し、町絵師として人気を博すようになります。
京都・建仁寺には、宗達の最高傑作が残されています。

jin










国宝「風神雷神図屏風」です。

一節には、京都の豪商・打它公軌(うつだきんのり)が、制作を依頼したといわれています。
それを受けた宗達は、これまで誰も見たことのない屏風を作ってやろうと持てるわざと、アイデアをつぎ込んでいきます。
そこには、見る者を引き付けるマジックがしかけられていました。

もっと知りたい俵屋宗達 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) [ 村重寧 ]

価格:1,728円
(2019/9/8 10:21時点)
感想(0件)



①色彩・・・宗達はド派手でした。
風神は鮮やかな緑、雷神は白にしましたが・・・雷神は赤い色で書かれることが殆どでした。
どうして白に・・・??
ユーモラスで親しみやすい雷様になっています。
風神と雷神の乗る雲は・・・銀色。派手で軽妙洒脱なキャラクターに・・・。
これが長く愛される由縁です。
デジタル復元で、もとの色の屏風にしてみると・・・暗い部屋でもはっきりとわかるようになっていました。

②マジックアート
夜見ると・・・江戸時代の人々とおなじように、和ろうそくで鑑賞して見ると・・・
風神と雷神が浮き出てきて絵から飛び出して来たようです。
まるで3Dアートです。
その原因は、背景の金にあります。
揺らめく炎が金箔に反射し、浮き出るような効果を発揮しているのです。

③目
通常ならば、互いを見つめ合っているはずの風神、雷神の目・・・ところが宗達の風神あり人は、風神は雷神を見ていますが、雷神は前方下を見ています。
何を見ているのか??それは、屏風の前に座る鑑賞者です。
風神の視線は雷神に、雷神の視線は鑑賞者に、そして鑑賞者は風神を・・・視線がループするようにしかけられていました。
これらの仕掛けによって、鑑賞者もまた作品の一部となって引き込まれていきます。
まさに、前代未聞の屏風なのです。


Ⅲ.今も実在していたら国宝間違いなしの幻の絵の模写を発見!!「平治物語絵巻」!!

平安時代末期の1159年、京の都で大規模な内乱が勃発します。平治の乱です。
後白河上皇の近臣であった信西と藤原信頼の対立が原因のこの内乱は、平清盛や源義朝などを巻き込み、血で血を洗う惨劇が起こされました。
最終的には、信西側についていた平清盛が内乱を治め、それ以後平家一門が台頭し、政治の実権を握ります。
そんな平治の乱を描いたのが、「平治物語絵巻」です。
平家のライバル源氏が幕府を開いた鎌倉時代に書かれた絵巻です。
元々は、15巻に及ぶ超大作ですが、現存するのはわずか3巻のみ・・・

heiji










「三条殿焼討巻」
藤原信頼の軍勢が、後白河上皇のいる三条殿を襲撃し、上皇を拉致する場面。

sinzei









信頼が信西を追いつめ、自害に追い込む「信西巻」

rokuhara














そして清盛が監禁されていた二条天皇を助け出し平家一門の邸宅のある六波羅に匿う「六波羅行幸巻」

このうち、「六波羅行幸巻」のみが国宝です。

保元・平治物語絵巻をよむ 清盛栄華の物語 [ 石川透 ]

価格:1,944円
(2019/9/8 10:22時点)
感想(0件)



しかし、もし現存していたならば、国宝間違いなしというものが出てきました。
「六波羅合戦巻」です。
何が描かれていたのでしょうか?
東京国立博物館に、模写が残っています。
原画が失われる前に書かれたものだとされています。

見どころは、三条河原の決戦です。
大将である平清盛の軍勢が、京都の三条河原で敵方を追い込み決着をつける・・・というクライマックスシーンです。
模写を元に復元してみると・・・様々な歴史の真実がわかってきました。
鎌倉時代に平清盛の活躍がどうして描かれたのか??
その象徴シーンが書かれています。
襲った勝者が後ろから狙われているシーンが書かれています。
勝者が敗者となる諸行無常のシーンです。

平治の乱に勝利した清盛ら平家一門は、その武力を背景に朝廷での地位を確立していきます。
「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ、栄華を極めました。
しかし、それから26年、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、あっけなく滅亡してしまいます。
それからおよそ100年後の鎌倉時代にこの絵巻は書かれました。

おごれる者は久しからず・・・

ぞの平家の運命を教訓として逸話が身に起きるかもしれないと心に刻むために・・・!!

国宝の数々・・・そこには、人々の思いや知られざる歴史の真実が隠されていました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

国宝の解剖図鑑 [ 佐藤晃子 ]

価格:1,728円
(2019/9/8 10:23時点)
感想(1件)

松永久秀 歪められた戦国の“梟雄”の実像 [ 天野忠幸 ]

価格:3,780円
(2018/3/14 07:46時点)
感想(0件)



戦国時代、室町幕府の権威は地に落ち、大名や武将たちによる熾烈な戦いが繰り広げられていました。
暗殺や裏切りが当たり前の時代・・・この時代にも、悪人と呼ばれる男がいました。
松永久秀です。

応仁の乱からおよそ70年・・・京の都はいまだ混乱のさ中にありました。
この頃、幕府のj権威は失墜しており、実権を握っていたのは管領細川氏の家臣・三好長慶でした。
1550年長慶は、将軍・足利義輝を攻め追放、周辺に勢力を広げ、畿内を支配していきます。
この長慶の腹心として活躍したのが松永久秀です。
久秀は、出自も経歴も謎・・・武将としてだけでなく、行政面でも辣腕を振るっていました。
1560年、朝廷より弾正少弼に選ばれ、松永弾正が通り名となり、翌年には従四位下を賜わり、更に主君・三好長慶と共に、足利の紋と同じ桐を使うことを許されます。
当時、日本を訪れていた宣教師は・・・
「さして高い身分ではないが、その知力と手腕によって、家臣であるにも関わらず、公方様(将軍)と三好殿を掌握していた。」といっています。

1559年三好長慶の命により、久秀は大和へ侵入。
当時の大和国は大名の支配しない特殊な地域でした。
他のところは、細川氏、畠山氏・・・足利一門の武士が、その国の守護という役職を与えられ、支配していました。
大和は足利一門は入れず・・・興福寺が大和の国を支配し、武士たちを支配していました。
その大和に侵入した久秀の前に立ちはだかったのは、興福寺の配下として大きな力を持っていた筒井順慶でした。
久秀は、順慶を二度の戦いで打ち破り、大和を我が物とします。
しかし、その後も順慶は久秀への攻撃を繰り返し、二人は宿命のライバルとなるのです。
1561年、久秀は大和の中心・奈良に本拠地となる城・多門城を築きます。
多門城からは、東大寺や興福寺・・・大和の主だった寺を見下ろすことができました。
興福寺に代わる新しい支配者を示す城でした。

この城を訪れたポルトガル人の記録が残っています。
「これだけの優れた建造物は世界にもない。
 すべての城や、塔の壁には漆喰が塗ってあり、かつて見たことのないほど白く輝いていた。
 この中を歩いていると、まるで天国に来たようだ。」と。

その城を一目見ようと、奈良中の人が見物にやってきたといいます。
今まで興福寺や東大寺しか立派な建物を見たことのない人々が、武士でも作れる・・・
寺の時代は終わって、武士の時代が来ることを見せつけていきます。

多門城は・・・
昭和22年、小学校が立てられて、城の遺構は無くなってしまいました。
しかし、校舎の周囲には、その痕跡が残っています。
多門城には、それまでの城にはない4階建ての櫓もありました。
瓦葺・・・当時は瓦葺は寺院建築にしか用いていませんでした。
内装は、絢爛たる襖絵に彩られ、金色の柱が並んでいました。
城の中には、いくつもの茶室があり、久秀は頻繁に茶会を開いていました。
千宗易などの超一流の文化人が集まっていました。
松永久秀は、戦で領地を争うだけの武将ではなく、優れた築城家であり、教養人でもあったのです。

多門城が作られたころ、久秀の支配地は、南山城にも及んでいました。
しかし、久秀の大和支配に暗雲が立ち込めます。
長慶の死と共に動き出したのは・・・将軍・足利義輝でした。
長い間、長慶に実権を握られていた義輝は、三好をたたき実権を取り戻そうと謀ったのです。
不穏な気配が・・・先手を打ったのは三好側でした。
1565年5月、長慶の後を継いだ三好義継、久秀の息子・久通らは、およそ1万の大軍で将軍御所を攻め、義輝を亡き者にしようとします。
義輝殺害!!
その首謀者とされたのが久秀でした。
ルイス・フロイスによると・・・「謀叛人の筆頭者は弾正殿」
「さらに、久秀が絶対的君主となり、将軍義輝への気遣いなどをしなくても良いように、暴虐な方法を用いて権勢の最高位にのぼろうと決意した。」とあります。

ところが将軍を暗殺してまで権力を守ろうとした三好家の中で内紛が勃発!!
1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍を率いて大和に侵攻・・・。
興福寺や東大寺に陣を構え、久秀と対峙しました。
小競り合いが続くものの・・・決着は尽きません。
半年後、久秀は東大寺に陣を敷いた軍に夜討ちをかけ、遂に打ち破ります。
しかし、この時大仏殿に火が付き全焼・・・大仏の上半身がとけ落ちてしまいました。
一方、久秀は新しい動きも・・・大和の地侍たちに手紙が届いていました。
「近々、足利義昭を奉じて上洛するので、義昭に対する忠節と、松永久秀親子といっそう懇意になることをお願いしたい。」
差出人は、織田信長でした。
なんと、久秀は、上洛前の信長と手を結んでいたのです。

1568年、義昭を奉じて信長上洛!!
久秀は、直ちに義昭と信長の元を訪れ、大和の支配を認めてもらいます。
この時、自慢の「付藻茄子」を信長に送っています。
効果は絶大!!
宿敵・筒井順慶が久秀の城を奪った時も、信長の2万の援軍で奪還に成功しています。
久秀は、信長との同盟で、大和支配を強固なものにしていくのです。

信長上洛から3年後、久秀の大和支配を脅かす事態が・・・。
将軍・足利義昭が、久秀の宿敵・筒井順慶に娘を嫁がせ姻戚関係となったのです。
更に順慶は、信長の家臣になることも認められます。
筒井氏はもともと興福寺の有力な衆徒のひとりでした。
以前から、大和国内に勢力を持っていたのです。
義昭は、将軍になる前、興福寺の一条院門跡でした。
なので、興福寺の勢力は何たるかを知っていたのです。
大和をおさえる一つの手立てだったのです。
怒った久秀は、筒井順慶と組んだ義昭の家臣を攻撃!!
それは、信長に対する反逆でもありました。
その後、織田軍と各地で衝突を起こします。
そんな久秀に吉報が・・・
甲斐の武田信玄が、打倒信長に動き出したのです。
信玄の軍は、三方ヶ原の戦いで、信長・家康連合軍と大激突!!大勝利を治めます。
久秀はこのことを珍重と喜びます。
時を同じくして、将軍・義昭も信長に反旗を翻します。
窮地に陥った信長・・・あとは、信玄の上洛を待つだけでした。
しかし、信玄が都に現れることはありませんでした。
三方ヶ原の戦いの後、病で亡くなっていたのです。
勢いを取り戻した信長は、将軍義昭を追放。
久秀の多門城を取り囲みます。
信長が突き付けた降伏の条件は厳しいものでした。

・多門城の引き渡し
・支配地の没収
・孫を人質に差し出す

1573年12月26日多門城開城。
久秀の14年に及ぶ大和支配は終わったのでした。
その後、信長から大和の支配を任されたのは、宿敵・筒井順慶でした。
順慶は、多門城の破却を久秀の息子に命令!!
大和の支配者・久秀のシンボルは、跡形もなく消されたのです。
多門城を明け渡してから4年・・・久秀に再びチャンスがやってきます。
大坂本願寺・武田・宇喜多・毛利・・・各地の大名が打倒信長に立ち上がったのです。
足利義昭の呼びかけによるものでした。
この時久秀は、織田の一武将として本願寺攻めの最前線にいました。
義昭たちと手を結んで信長に背くか、信長を支え続けるのか・・・??
どうする??

信長に背く??
このまま信長に従っていても、大和が手に入ることはないだろう・・・
筒井順慶に大和を与え、多門城も壊されてしまった。
断じて許すことができない・・・!!
大和を再び我がものとするためには、義昭さまの呼びかけに応じて信長を討つしかない!!
毛利をはじめ、多くの武将が立ち上がっている今、信長に勝ち目はない??
今、手柄を立てておくべきでは・・・??

信長を支える??
自分の力を認めてもらう???
上杉、武田、毛利・・・義昭さまの呼びかけに応じたはいいが・・・いつ裏切るかわからない・・・。
武田信玄は病で亡くなったではないか・・・??
何が起こるかわからない!!

大和を再び支配するためには・・・??
どうする??

安土日記には・・・
大坂本願寺を攻める天王寺の砦に、松永久秀と息子・久通を入れておいたが、
8月17日、松永親子は謀反を企て、砦から退去して大和の信貴の城に立て籠った。
とあります。

信貴山城は、河内と大和の国境にそびえる信貴山にある城・・・。
信長に背いた久秀は、信貴山城に籠りました。
城からは、大阪平野・奈良盆地を見渡すことができました。
平野部で戦いを挑むと、兵力の差から久秀は負けて、殺されてしまうので、兵力差を補うために信貴山城に立て籠り、援軍を待つ方が、戦略的に生き延びられると判断したのです。
しかし、事態は久秀の思惑通りにはいきませんでした。
越後の上杉軍は、一度は織田軍を撃破するもまもなく撤退・・・
武田勢も、徳川家康と国境の城を取り合いを続けて進むことができません。
久秀は孤立・・・信長は使者を派遣し、久秀に謀反の真意を問います。
久秀は使者に会おうともしませんでした。
信長は、大軍で信貴山を包囲して攻撃!!
挙兵から1か月半後の10月10日・・・追いつめられた久秀は、城に火をつけ切腹しました。
こだわり続けた大和を見下ろす地で70年の生涯を閉じたのです。

久秀が亡くなった後、人々の間で噂が・・・
久秀は、死ぬ間際に大切にしていた茶釜平蜘蛛をたたき割ります。
平蜘蛛を欲しがっていた信長に渡るのを嫌ってのことだという。
戦国史に数々の逸話を残した久秀・・・その死にざまも、悪人らしい死にざまでした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

英傑の日本史 激闘織田軍団編 松永久秀【電子書籍】[ 井沢 元彦 ]

価格:108円
(2018/3/14 07:47時点)
感想(0件)

大間違いの織田信長 [ 倉山満 ]

価格:1,399円
(2018/3/14 07:47時点)
感想(0件)

このページのトップヘ