【北大路魯山人(きたおおじろさんじん)好み】【美濃焼(みのやき)】織部福寿蟹絵9号土鍋(※炊飯不可)

価格:21,600円
(2019/2/9 21:15時点)
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料理は芸術、器は料理の着物・・・今では当たり前のようですが、この言葉が生まれたのは80年前・・・北大路魯山人の言葉でした。
しかし、魯山人はその才能がゆえに波乱の人生を歩みます。
陶芸、書、料理に非凡の才能をみせ、昭和の美術界に新風を巻き起こした総合芸術家・北大路魯山人・・・
傲慢、不遜と言われようとも自分を貫き通しました。

「富士山には頂上があるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい
 それを極めた通人などというものがあり得るかどうか」

魯山人は戸さんの一等地に高級料亭を開業。
自ら料理長となり、既成の概念を次々に覆していきます。
その味に見せられて、吉田茂、犬養毅、島崎藤村、芥川龍之介・・・歴代の首相をはじめ、一流の人々が集まりました。
しかし、魯山人に認められたものだけが、美食の門をくぐることを許されました。
高い評価の反面、徹底的に美を追求し、完璧を求める姿勢は、周りとの軋轢を生みます。
自分の指示した意味の分からない料理人・・・身だしなみの行き届かない仲居・・・気に入らない従業員は罵倒して次々とクビに・・・!!

「高きを行く人においては、衆は必ずそれを非る」

魯山人はどんな批判にも動じません・・・己の信じた道を進む魯山人!!
しかし、思いもよらない落とし穴が・・・
自ら立ち上げた料亭を追放されたのです。
どうして・・・??

孤高の芸術家・・・北大路魯山人。
すべてを犠牲にして美しさを追い求めた激しくも切ない生涯です。

様々な分野で優れた作品を残した魯山人・・・
しかし、魯山人は美術学校に通ったことも、陶芸の先生についたこともありませんでした。
殆どが幼いころからの独学でした。
どうして芸術の道を目指したのでしょうか?

1883年、魯山人は京都に生まれます。
本名は北大路房次郎。
父は上賀茂神社の神職の家柄でしたが、魯山人が生まれる前に亡くなりました。
母・登女は、生まれたばかりの房次郎を養子に出します。
女手一つで育てられるほど家計に余裕がなかったのです。
房次郎を待っていたのは、養父母の冷たい仕打ちでした。
棒で殴られるなどの暴力も度々でした。
養子先を転々としていた頃の忘れられない思い出は・・・
3歳の時、里親の娘に背負われて上賀茂神社の裏山にのぼりました。
そこには5月の陽光の中、真っ赤な山ツツジが咲いていました。

「自分はこれからこのような美しいものを生涯追い求めて生きたい」という願望となり、それからは子供心にも「自分は美しいものをこの世に探すために生まれてきたのだ」という確固とした信念が心に定着したのだ

1889年、4度目と言われる養子先は貧しい木版職人の家でした。
6歳の房次郎は、ここでやっと落ち着くことができました。
房次郎は養父母に気に入られようと、毎朝の飯炊きを買って出ます。
房次郎は研究を重ね、安い米でも美味しく炊き上がる・・・米炊き名人になって親に褒められます。
房次郎は他にも様々な料理を作って気に入られます。
人生で初めて人に認められたと感じました。

この頃、見知らぬ母の面影を求めて訪れていたのは、京都市内の二条城・・・

「僕は生まれたとき、お母さんを知らない
 京都の二条城へ遊びに行っては、門の扉についている鋲のあのおっぱいみたいな金具をなめていた
 固かったがそれを吸った」

そんな房次郎の孤独を慰めてくれたのが絵でした。
将来絵描きになれたら・・・房次郎は絵の学校に行きたいと頼むものの、そんな余裕はないと養父に断られます。
なんとか金を稼ぐ方法はないのか・・・??
12歳の時、房次郎は養父に頼みます。

「これからは木版の仕事を手伝います。
 その代わりに絵を描くことを許してくれませんか?」

養父は仕事を手伝うのなら・・・と、小遣いを貯めて絵筆を買うことを許しました。
房次郎は仕事を手伝う中で、絵画、彫刻に親しみ、その基礎を身に着けていきます。

1895年、12歳の時に賞金の出る「一字書きコンクール」に応募、何千という応募作の中から最高位の「天の位」に選ばれます。初めて自分の手で金を稼ぐことができました。
自信をつけた房次郎は、書で賞金を稼ぎます。
房次郎の書はどんどん上達し、養父は「うちのせがれはすごい!!」と、周囲に自慢するほどでした。

里親を転々とし、常に人の顔を伺いながら生きてきた房次郎・・・
書で生計を立てられれば、そんな生活から解放される・・・??
東京へ行って、書の修行をしよう・・・と考えていたある日、実の母が東京にいることがわかりました。
房次郎はすぐに母を訪ねて東京に・・・!!
母はある男爵の家で働いていました。
生れて20年間会えなかった母・・・どんな人だろう・・・??
ところが・・・
「自分を見ても、少しも嬉しさとか懐かしさとか言った表情を顔に表さず、むしろ実に冷たい態度だった
 つんとして、何しに来たと言わんばかりのこわ面で、僕はおそろしささえ感じたほどだった」

母は黙って外に出ていき、着物と下着を買ってきてくれた。
せめてもの親心でしたが・・・嬉しさがこみ上げたのもつかの間でした。

「それが一目で古衣だったので、僕は失望すると同時に癪に触ったことを今でも覚えている」

魯山人が作り、天下の料亭と言われた「星丘茶寮」。
魯山人は料理や器はもちろん、料理人の服装や仲居の接客、室内の装飾品に至るまですべてに徹底的にこだわります。
そこに理想の世界を実現しようとしたのです。
どうして食の理想郷を築こうとしたのでしょうか?

東京で書を生業にして暮らしたい房次郎・・・しかし、当時は生活のために他の仕事もしなければなりませんでした。
その頃から美しいものへのこだわりはけた違い・・・貧乏暮らしでも金に糸目はつけませんでした。

ある会社に勤め、昼食に豆腐をとっていたところ上司が・・・
「君は実に贅沢じゃないか」
「何が贅沢なものですか
 豆腐がいくらするというんです」
「その入れ物が第一立派じゃないか
 それが贅沢だというんだ」
房次郎が使っていたのは、ギヤマンの高価な器でした。
1か月分の給料をつぎ込んでいたのです。
安い豆腐でも、器ひとつで美味しくも不味くも見える・・・
後に「器は料理の着物」となる考えはこの頃からあったのです。

若き房次郎にとって、美術品は先生・・・。

古の書を見る・・・骨董の器を使う・・・すべては審美眼と創作のスタイルを磨くためです。

そのためには家族をも犠牲に・・・
24歳で道教の女性と結婚し、二人の子供がいた房次郎・・・
ところが房次郎は身籠った妻と長男を東京に残し、美術の研究のために朝鮮半島へ!!
2年後、日本に戻った房次郎に大きな転機が・・・
京都の実業家・内貴清兵衛の食客となったのです。
裕福な風流人だった清兵衛は、房次郎を気に入って屋敷にただで住まわせます。
房次郎はたまに雑用する以外は、清兵衛の集めた飛び切りの古美術品を手に美しさを研究します。
食道楽の房次郎は、自分と清兵衛のために食事を作るようになります。
房次郎の出す料理は、ごちそうを食べなれている清兵衛でさえ「うまい」と言いました。
この時、清兵衛が発した言葉は、房次郎が生涯忘れない教えとなりました。
「料理も芸術やで」

1920年、再び東京に戻った房次郎は36歳の時に、古美術店「大雅堂」を開業。
この時、共同経営者となったのが、中村竹四郎です。
竹四郎は写真雑誌のカメラマンもしていて美術の知識も豊富でした。
二人は意気投合し、銀座や京橋で飲み歩き、深夜まで芸術話に花を咲かせました。
そして、深い信頼関係を築いていきます。
房次郎にとって初めて心を開いた友でした。

しかし、店を開業した直後、株式市場が暴落し大不況に・・・!!
店には閑古鳥が・・・なんとか客を集めなければ・・・
苦肉の策は・・・上手い料理を美術品の器で食べさせるというものでした。
気に入れば器を買ってもらう・・・

貴重な美術品の器で上手いものを食べられると口コミで噂が広まり、店には客が殺到!!
二人はこの商売を「美食倶楽部」と命名しました。
この頃から房次郎は、新たな雅号を名乗るようになります。
後に昭和の美術界にこの人ありと言われる北大路魯山人の誕生でした。

美食倶楽部をはじめて4年・・・1923年、49歳の時に関東大震災が起き、大雅堂焼失!!
ところが常連客から再開してほしいと次々依頼が・・・
この時、魯山人にはあの言葉がよみがえっていました。
「料理も芸術やで」
魯山人は竹四郎と全く新しい食の殿堂を作ろうとします。
国会議事堂を望む東京のど真ん中に会員制の高級料亭「星岡茶寮」を・・・!!
敷地の総面積は3000坪、10の客間に茶室が5室。。。大料亭でした。
経営の一切は親友の竹四郎に・・・魯山人は顧問・・・自由な立場で現場の陣頭指揮を執るためでした。

魯山人が目指したのは、料亭に入っていから出るまでのすべてに満足できる空間でした。
そのため、星丘茶寮には次々と常識を打ち破るアイデアが・・・!!
まず料理の根本の食材・・・魯山人は京都市の阿知川に自ら出向き、ここの鮎を出したいと考えました。
しかし、鮎は傷みやすく・・・京都から東京までは3~4日かかるので腐らないように腸を抜いて運ぶのが常でした。

「鮎のわたの苦味は、また格別の風韻が口に美しく残る
 はらわたを抜いてしまったのでは、鮎そのものの味覚価値は語るまでもない」

そこで考えたのは、はらわたを残すために鮎を生きたままな運ぶというものでした。
鮎を死なせないように、48時間水をかき混ぜて酸素を送り続けて運搬、流通網が発達していない昭和初期、最高の食材を全国から取り寄せる魯山人です。

魯山人は、料理の出し方にも独特で、それまでの正式な日本料理はお膳にいくつもの料理を乗せて一緒に出したので、汁物が覚めてしまうこともしばしば・・・
そこで、魯山人は作り立ての美味しさにこだわり、一品ずつだし、濃い味は続けません。
現在の日本料理では珍しくない出し方も、魯山人のアイデアでした。
客の好き嫌いを記録し、決して嫌いなものは出させません。
魯山人は従業員の立ち居振る舞いも料理に影響する重要な要素だと考えます。
仲居に生け花や茶道を習わせます。
洗練された所作を身に付けさせたのです。
すべては、お客様に喜んでもらいたいという魯山人一流のもてなしでした。
一番のこだわりは魯山人が料理の着物という器・・・
料亭の規模から考えると5000点の器が必要でした。
他の職人が作る器では満足できないと、膨大な数を料理の器を自ら製作。

「美味しい食物は、それにふさわしい美しさのある食器を欲求し、それに盛らなくては不足を訴えることになる」

箸置きのような小さなものにも気を配り、火鉢や床の間の掛け軸、風呂まで自ら作り、星岡茶寮全体を魯山人がプロデュースしたのです。

人間が生活するうえで関わるもの全部を作っていたのです。
その美しさが一番大事な要素でした。
会員には、政治家、作家、実業家など角界の名士が集まり、星岡茶寮は今を時めく高級料亭として名を馳せます。
しかし、魯山人が認めない人物は、会員にはなれませんでした。
魯山人が人物を評価する基準は、美に対する眼一点にありました。
星岡茶寮は魯山人にとって食の理想郷でした。

星岡茶寮は大成功し、魯山人は時の人となりました。
「魯山人の料亭の会員でなければ日本の名士ではない」とまで言われたほどでした。
ところが11年後・・・心血を注いだ星岡茶寮から追放されます。
どうして・・・??

東京から電車で1時間・・・緑豊かな北鎌倉にとある施設が・・・
陶芸の窯・・・星岡窯です。星岡茶寮で使う器を作るために、久谷や瀬戸から職人を集めました。
中には後に人間国宝となる陶芸家・荒川豊蔵もいました。
古今の名品を収集した建物もありました。
金に糸目をつけずに集めた収集品が3000点あったのです。
魯山人はこれを、坐辺師友の精神と言いました。
身辺にあるものこそ、師であり友であるということです。
古美術を研究するには、近くに置き、触れることが必要だと考えたのです。
古美術の傑作に触れ、目の肥えた魯山人・・・職人に求めるものが高くなっていきます。

「芸術家は人相が悪くては駄目だ。
 お前なんか、飯茶碗ぐらいしかできない人相をしている」

自分の思い通りにならないときは、職人たちを罵倒し、次々とやめさせていきました。
1年半で33人もの従業員が去っていきました。
星岡茶寮の人間も、少しのミスも許さず・・・従業員の袖がわからないくらいの汚れがついているのを見かけたときに・・・

「何のために白い上着にしていると思っているんだ
 ほんの少しの汚れでも、目立つようにしているからだ!!バカモン!!すぐ洗ってこい!!」

魯山人と共同経営者の竹四郎・・・従業員たちの間で二人に影の呼び名がつけられました。
竹四郎は”旦那様”・・・温厚で信望が厚く、魯山人に怒られた従業員を慰めました。
魯山人は”ドラ猫”・・・しょっちゅう怒鳴っているからです。

「魯山人は気難しい奴だと思っている人がいる
 私が人の事を褒めたことがほとんどないのだから、褒められる道理がない
 世の人々からよく言われようと思えば、いたってやさしいことだ
 だが、うまくもないものをうまいと言うわけにはゆかぬ」

星丘茶寮の名声が高まり、客は増える一方・・・
経営も順調のように見えました。
しかし、竹四郎と魯山人の間には、少しずつ亀裂が入っていました。
魯山人の買い集めた古美術品の支払いが膨らんでいたのです。
最初は竹四郎も目をつぶっていましたが、出費が経営を圧迫するにあたり、遂に魯山人にこう切り出します。

「少し、収集を減らしてくれんやろか」
「何を言うか・・・
 星岡は、わしのおかげでもっているんや
 皿一枚も自由に買えんとは、料理を作るなどもうようやらん」

魯山人は意に介しませんでした。
昭和11年7月・・・一通の封筒が魯山人のもとに届きました。
内容証明で・・・そこに書かれていたのは、”北大路房次郎 解雇”でした。
通知を読んだ魯山人は顔面蒼白となり、ブルブル震え呆然自失となりました。
それまでの自信満々な魯山人とはまるで別人でした。
誰も信じない魯山人が、唯一心を開いていた竹四郎からの解雇通知でした。
友から捨てられたのです。
星岡茶寮の人々は、怒り狂った魯山人が来るかも??と、戦々恐々でしたが・・・何日たっても姿を現しません。
ある日・・・遂に魯山人が現れました。
従業員が出ると
「元気でやっているかな それじゃ・・・」
息苦しそうにそれだけ言って何もせず引き返しました。
これが、魯山人が星岡茶寮に足を踏み入れた最後でした。

星岡を追放された魯山人に残されたのは、北鎌倉の星岡窯。
客の注文を取り、焼き物を売って生活するしかなくなりました。
しかし、そのことが再び魯山人を輝かせることになります。
傑作を次々と発表していくのは50を過ぎたこの頃からでした。

陶芸にのめり込んだ魯山人が、何よりも追い求めた色・・・それは、幼いころに見た山ツツジの色。
鮮やかな赤に衝撃を受けたその色を焼きつけようとしたのです。

「この歳になっても、あのツツジの赤がヨウでんのじゃ」

太平洋戦争の終結から2年後、魯山人は64歳・・・
東京銀座に「火土火土美房」を開業。
看板には英語でこう書かれていました。
「日本でもっとも偉大な芸術家」と。

美を追求し、創作に一身に打ち込んだ結果、魯山人は自信満々のドラ猫になっていました。
置かれた作品は、進駐軍の将校たちに大人気。
その評判は海にわたりアメリカ本土まで・・・!!
アメリカ屈指の大富豪ロックフェラー3世からアメリカでの展覧会と講演を依頼されます。
しかもロックフェラーは、費用の一切を出してくれるという・・・
ところが魯山人は、
「お気持ちだけで十分
 招待では言いたいことも言えないから、自費で行く」
と言ったものの、旅費のあてがある訳でもなく・・・
結局、旅行費用500万円(現在の1億円相当)を借金で用意しました。

1954年、71歳で欧米に出発・・・機上の人となります。
どこに行っても魯山人で、フランスではピカソと会います。

「ピカソはアトリエの入り口にあるくず鉄で作った人形の前で”どうだ、面白いだろう”と笑った
 こんなものをさも傑作か何かのように話したり喜んだりするのは、ピカソ一流のハッタリだなと、僕は警戒しながら眺めたものだ」

反対にシャガールのアトリエを訪ねた際には話が弾み、
「東洋の陶器にはいろいろな秘密があるのでしょう
 土のこととか、釉薬のこととか、そういう秘密がこちらに入ってくると、私たちの作品ももっと芸術的なものになるでしょう」
「シャガールの方が、ピカソよりよっぽどましだ」

1955年、72歳の時、人間国宝の打診をされます。
星岡窯の従業員は、人間国宝に指定されることを望みました。
魯山人は欧米の大借金のために、職人たちにロクに給料を払っていませんでした。
建物の雨漏りも直せない・・・
魯山人が人間国宝にいなれば、作品の値は2倍以上になり経営も楽になる・・・
しかし、魯山人は人間国宝の指定を断ります。

創造するということは、官に対してなびくことではない・・・
魯山人は、官に媚びることはできなかったのです。

1959年、76歳の時、末期の肝硬変で入院。
入院からおよそ50日・・・魯山人はこの世を去ります。

ひとつだけみんなに分かって欲しいことは
わしの人生は、この世の中を少しでも美しいものにしたいと思いながら歩んだ人生だったということだ

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