日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:草壁皇子

奈良・正倉院・・・ここに、天平の世を治めた聖武天皇の遺愛の品々が収められています。
これらを献納したのが、聖武天皇の后・光明皇后でした。
絶大な勢力を持つ藤原氏の娘として生まれ、天皇の后となることを宿命づけられていた光明皇后・・・
何よりも期待されたのが、男子を生み、次の天皇とすることでした。
しかし、その願いはかないませんでした。
代わりに自らの娘に皇位継承の重荷を背負わさざるを得なくなります。
生まれながらの宿命を背負い、厳しい選択を、次々と迫られた光明皇后・・・その実像とは・・・??

宿命とともに生きて ~光明皇后 苦悩の素顔~



光明皇后の発願で建てられた法華寺・・・
ここに、光明皇后の姿をモデルにしたと伝わっている仏像があります。
十一面観音菩薩立像・・・
風格ある立ち姿、慈悲を讃えたまなざし、よく見ると右足の親指が跳ね上げられています。
人々の救済に向かおうと、まさに今、一歩踏み出す瞬間をあらわしたと言われています。
この法華寺は、もとは光明皇后の父の邸宅のあった場所に建てられました。
その父とは、藤原不比等・・・
日本初の体系的な法律を作り、天皇を中心とする国の原型を築いた稀代の政治家です。
この不比等の娘として、701年に生まれたのが、藤原光明子(安宿媛)です。
光明子の母・県犬養三千代は、天皇の近くに仕える宮中の実力者でした。
父・不比等には、藤原氏の繁栄を未来永劫つなぐための壮大な計画がありました。
それは、光明子の母親違いの姉と文武天皇の間に生まれた首皇子を天皇にすえることでした。
そして、光明子を嫁がせ、藤原氏の血筋の天皇、皇后を誕生させ、やがて二人の間に生まれる男子が次の天皇となり皇統を継いでいく・・・
天皇家と藤原氏の一体化を図る構想でした。
光明子は、藤原の娘としての重い宿命を背負っていました。
藤原不比等は自らの邸宅で、同い年の光明子と首皇子を育てたと言われています。
首皇子が皇太子となり、正式な後継商社となった2年後の716年6月、光明子は、16歳で首皇子の妻となりました。
全ては父の計画通り、順調に進みました。
その2年後には、2人の間に第一子が誕生します。
阿部内親王・・・女の子でした。
そして724年、首皇子は晴れて即位し、聖武天皇となります。
不比等はすでにこの世を去り、孫の即位を見届けることはできませんでしたが、ここに藤原氏の念願が一つ叶ったのでした。
それから3年、藤原一族と光明子にとって、最も待ち望んだ瞬間が・・・男の子が生まれたのです。
名は基王。
光明子、27歳の時でした。
聖武天皇と光明子の喜びはひとしおで・・・同じ日に生れた全国の子供たちに布一端、綿二屯、稲ニ十束を祝いとして与えたことが記録に残されています。
さらに、生後33日目には、基王を早くも皇太子として立てています。
それは、前代未聞のことでした。
皇位継承の問題の安定化・・・
この継承こそが正当だ、と公表する天下に示すために、直ちに皇太子に建てる必要があったのです。
天皇家と藤原家を結ぶ皇太子を産み、期待された勤めを果たすことができた光明子・・・
ところが、思いもよらない事態が光明氏を襲いました。
728年9月、皇太子・基王死去・・・
悲嘆にくれる光明子をさらに動揺させる知らせが・・・
夫・聖武天皇には、藤原氏の血をひかない別の夫人がいました。
その二人の間に男の子・安積親王が生まれたというのです。

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そして・・・729年2月、政権を担う左大臣・長屋王が謀反を企てているという密告が、聖武天皇に届きます。
これに対し天皇は、怒りをあらわにします。
長屋王の屋敷はすぐさま包囲されました。
光明子の兄である藤原武智麻呂らが屋敷に赴き、長屋王に詰め寄りました。
そして、密告からわずか2日後に、長屋王は自害!!
この事件で、長屋王の妻と4人の息子も命を落としました。
世にいう”長屋王の変”です。
記録には残っていませんが、安積親王の誕生に焦った藤原一族が、敵対勢力になりかねない長屋王を排除した事件と考えられています。
事件の後、藤原武智麻呂は大納言に昇格、長屋王にとって代わるように光明氏の兄たちが政治の実権を握ることとなりました。
それから半年・・・光明氏自身にとって大きな転機が訪れます。
皇后にたてられたのです。
皇后とは、政治に参加し、時として天皇の位を継ぐ地位です。
皇族以外ではなれないとされていました。
それは、安積親王が生まれたことが一つのきっかけでした。
光明子はまだ29歳・・・男の子が生まれる可能性がありました。
もし生まれたら、安積親王をおさえて確実に皇太子にする・・・!!
それには、母親が皇后であることが大前提でした。

729年8月、光明子、光明皇后となります。
聖武天皇と、藤原一族の期待を一身に背負い、後は、男子の誕生をひたすら待つこととなりました。

光明子が皇后となった天平の世では、災害や飢饉が相次ぎ、多くの民が苦しみ、喘いでいました。
そこで、光明皇后と聖武天皇が、国家安寧のよりどころとしたのが仏教でした。
この時代、いくつもの寺院や仏像がつくられました。
その一つが興福寺です。
聖武天皇が建立した東金堂・・・その東金堂と回廊で繋がれていたとされているのが五重塔です。
高さは約50m、皇后となった翌年に、光明子の発願で建てられました。
棟の1階には、柱を囲む仏像が東西南北の浄土をむくように配置されています。
これは、光明皇后が人々の幸福や成仏への願いを込めて行ったことを起源としているとしています。
伝承によれば、この五重塔の造営には、光明皇后が女官たちと共に自ら土を運ぶなど、心を尽くしたと言われています。

光明皇后は、尼寺の建立にも力を注ぎました。
その中核をなすのが、法華寺です。
後々、国を治めていくためには国分寺制度となります。
東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺となりました。
光明皇后は、法華寺がある場所に、様々な施設を作ったと伝わっています。
施薬院、悲田院・・・いまの社会福祉事業です。
そして、法華寺の境内には、光明皇后の発願により設置されたとする公衆浴場・浴室(からふろ)があります。
浴室の床の下で、薬草を入れた湯を沸かし、その蒸気で病人を癒したと言われています。

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積極的に政治に携わった光明皇后・・・
一方で、待ち焦がれていた男子はいまだ授かることが出来ずにいました。
この頃、全国で疫病・天然痘が大流行します。
737年には、猛威を振るい、藤原4兄弟が病死。
4年前に母を亡くしていた光明皇后は、後ろ盾となる身内の大半を失ってしまいました。
こうした中、天皇と皇后は一つの決断を下します。
それは、21歳となっていた阿部内親王を皇太子としたのです。
これまで女性が皇太子となったことは一度もありませんでした。
前例のない決断に踏み切った背景には、何があったのでしょうか??

政治的空白に乗じて、謀反を起こさないとも限らない・・・
すでに、安積親王は11歳となっていました。
皇太子に阿部内親王が据えられたことは、女性でありながらも女性ではない、男の天皇に仕立てるということでした。
男帝という正統な天皇に匹敵する立場を与える証でした。

一方で、この選択に、光明皇后も大きな葛藤を抱えていました。
それを示す事柄が、正倉院の記録に残っています。
正倉院に治められた聖武天皇の遺品の目録・・・国家珍宝帳・・・
ここに書かれているのは”黒作懸佩刀”とは、天武天皇の子・草壁皇子が愛用した刀です。
その後、草壁皇子の後継者に受け継がれていた幻の刀です。
黒作懸佩刀は、若くして亡くなった草壁皇子が、藤原不比等に託し、彼を仲介者として文武天皇、聖武天皇へと受け継がれました。
正統な皇位継承のシンボルともいうべき刀でした。
ところが、娘・阿部内親王を皇太子としたときに、本来引き渡すはずだった刀を聖武天皇と光明皇后はあえて渡しませんでした。
夫をとらなかった阿部内親王には子供がいません。
このままでは正統な皇位継承は娘の代で途切れてしまう・・・!!
そして、光明皇后は、この時すでに38歳になっていました。
こうした厳しい状況が、皇位継承の刀を娘に渡さなかった背景にありました。
娘に対して犠牲を強いる・・・!!
娘・阿部内親王が皇太子になっても、皇位継承問題は先送りにされただけでした。
光明皇后の苦悩は続きます。

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744年、光明皇后のもとに突然知らせが届きます。
皇位継承の有力候補であった安積親王が急死したのです。
ついに、皇位に近い聖武天皇の子は阿部内親王一人となりました。
この頃から、聖武天皇は体調がすぐれなくなり・・・
そして、娘に天皇の位を譲ることを決断します。
749年7月、阿部内親王が即位・・・孝謙天皇となります。
時を同じくして、光明皇后は皇太后となります。
新たな政権運営の中心人物として起用したのが、甥である藤原仲麻呂でした。
仲麻呂は、卓越した政治手腕の持ち主で、測量や暦法に長け、中国・唐の政治、文化にも精通していました。
大仏建立などの大事業で力を発揮した仲麻呂に、光明皇后は厚い信頼を寄せていました。
仲麻呂は、新しく設置された紫微中台の長官に就任します。
紫微中台は、唐の制度に倣って名付けられた政治と軍事を司る実質的な最高権力機関でした。
こうして、孝謙天皇を仲麻呂と皇太后が支える態勢が整えられました。

しかし・・・孝謙天皇が主導する政治に対して不満を持つ貴族たちが少なくなく・・・
水面下で謀反をたくらみ、クーデターの動きまで見え始めていました。
こうした政治不安を抱える中・・・756年5月2日、聖武天皇崩御。
聖武天皇は、将来皇位継承の争いが生まれな用に次の皇太子について遺言していました。

聖武太政天皇の遺詔として、道祖王(ふなどおう)を皇太子とする

道祖王は、聖武天皇の曽祖父である天武天皇の孫にあたる人物です。
藤原氏の血を濃く引いていたことも、選ばれた要因のひとつでした。
聖武天皇が亡くなると、道祖王は、早速皇太子にたてられました。

ところが、道祖王については、こんな記述が残されています。

”道祖王は、喪服中にもかかわらず、密かに淫らな行いをして、先帝に対する恭敬の念がない
 しかも、機密事項を民間に漏らした”

皇太子には相応しくないというのです。
そこで孝謙天皇は、道祖王に変わる者を皇太子とすることを求めました。
それが、大炊王でした。
大炊王もまた、天武天皇の孫にあたる人物です。
藤原仲麻呂と近い間柄であったことから、この人選には仲麻呂が関わっていたと考えられています。
聖武天皇の遺言に従い、皇太子を道祖王のままにするのか??
それとも、孝謙天皇が推す大炊王に挿げ替えるべきか・・・??
光明皇后どうする・・・??

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誰が皇太子となったのか・・・??
続日本紀には、

”道祖王の皇太子を廃位とする”

とあります。

道祖王に代わり、大炊王が皇太子に選ばれたのです。
孝謙天皇は譲位し、758年8月、大炊王が即位し、淳仁天皇となります。
この淳仁天皇を、正当な皇位継承者として光明皇太后が後押ししたことを示唆するものがあります。
正倉院の国家珍宝帳に記載された皇位継承のシンボルとされた”黒作懸佩刀”・・・そこには、効果きたされています。
”除物”・・・後に正倉院から持ち出されたことを示しています。
光明皇后が、淳仁天皇に与えたのではないのか・・・??
そこには、正統という意思表示がありました。
孝謙を、皇位継承の呪縛から解き放してやりたい・・・
そう思ったのかもしれません。

皇位継承の行方を見届けた光明皇太后・・・760年6月7日、60歳で静かにこの世を去りました。
生まれながらに背負った宿命や、政治の重圧からようやく解放されたのでした。

ところが、その死後、事態は思わぬ展開を見せます。
淳仁天皇と藤原仲麻呂が、孝謙太上天皇と激しく対立します。
遂には、仲麻呂が挙兵し、戦いが勃発。
その後、皇位をめぐる混乱が生じ、奈良時代は終焉へと向かっていくのでした。


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令和元年10月22日、天皇皇后両陛下は、高御座と御帳台にのぼり、皇位を継承したことを国の内外に宣言しました。

古より続く、古式ゆかしい即位儀礼・・・
その起源は、一人の女帝に遡ります。
飛鳥時代の女帝・持統天皇です。
持統天皇は高天原の神から行為を受け継ぐという前代未聞の方法で即位し、それまでの大王から天皇へと統治者の概念を一変させました。

始まりは、古代日本最大の内乱・壬申の乱でした。
皇位継承をめぐっておきたこの戦いで、持統天皇は夫・大海人皇子と共に謀をめぐらし、この戦いに大きく貢献しました。
その後、大海人皇子は天武天皇として即位、2人は共に、新たな国づくりへと歩み始めました。
しかし、天武天皇が崩御・・・後継者と目されていた息子・草壁皇子までもが相次いで病死・・・
持統天皇は選択に直面します。
次なる天皇を誰にするのか・・・??

奈良県明日香村・・・飛鳥時代に都がおかれた地です。
645年、後の持統天皇・・・鸕野讚良皇女は、中大兄皇子の娘として生まれました。
この年、ある大事件が勃発しています。
乙巳の変・・・中大兄皇子が、宮中で豪族・蘇我氏を謀殺・・・!!
皇太子となった中大兄皇子は、次々と政敵を排除していきます。
こうして手に入れた権力を固めるべく、更なる策を講じます。

657年、13歳を迎えた娘・鸕野讚良皇女を弟・大海人皇子のもとに嫁がせます。
大海人皇子は、中大兄皇子にとって母親の同じ兄弟です。
中大兄はこの結婚によって、自らの血筋へ権力の集中させることを図りました。
背景には、緊迫する海外情勢がありました。
7世紀後半、大帝国・唐と結んだ新羅が、ライバルの高句麗、百済を次々と攻め滅亡させていました。

663年白村江の戦い
倭国は半島の権益を守るため派兵に踏み切りますが、白村江で大敗します。
勢いに乗った唐の侵攻を防ぐためには、中央集権国家への変革が急務・・・
それには、強力なリーダーシップが必要とされていました。
668年、中大兄皇子が天智天皇として即位!!
大海人は、天皇中心の国づくりへ進みだした兄の側近として支えました。
次期天皇として最有力候補でした。

671年10月、鸕野と大海人に転機が訪れます。
天智天皇が大海人に告げます。

「余の病は重い・・・
 後のことはお前に託したい」

皇位を託すという天智天皇に対し、大海人は

「私自身も病気がちで、とてもお受けすることはできません
 大友王に全ての政務を執り行っていただくのがよろしいでしょう」

大友皇子は、天智天皇の実の息子でしたが、母親の身分が低く、皇位継承者としては大海人皇子の方が上でした。
しかし、天智天皇の真意は、大友への譲位にある・・・
それを悟った大海人皇子は、その日のうちに出家し、政界からの引退を宣言しました。
そして、さらに2日後、降りしきる雪の中、鵜野と共に大津を脱出、当時離宮の置かれていた吉乃に身を隠しました。

そこには、大海人皇子の周到な計算がありました。
当時の王位継承は、天皇が決められるものではありませんでした。
群臣が決めるか、納得して承認するということが必要でした。
大友の継承が実現すれば、それは大海人が辞退することでしかありえません。
当然、場合によっては十分挙兵があり得ました。
この年の21月、天智天皇崩御

事態は大きく動き出しました。
672年5月・・・吉野の大海人のもとに、大友が兵を集めているという知らせが届きます。
これを聞いた大海人は、すぐさま挙兵に踏み切り吉野を脱出します。
最初は20人ほどの少人数でしたが、道中息子の高市皇子や豪族を合わせ、軍勢は次第に膨れ上がります。
両軍はついに激突!!壬申の乱です。
数に勝る大海人軍は、大友軍を圧倒!!
ひと月に渡る激戦の末、大海人勝利に終わりました。

この間、鵜野は何処にいたのでしょうか?
桑名市・・・北桑名神社・・・
壬申の乱の間、鵜野は50キロ離れたこの地に居を定めていました。
自らの産んだ草壁皇子の他、大津皇子、忍壁皇子ら3人の幼子を養育し、前線で戦う大海人を支えたのです。

日本書紀は、鵜野がこれらの戦略の立案に積極的に立ち会っていたと記しています。
鵜野は大海人に従って、東国に危難を避け、軍勢を集結させ、共に謀を定めました。
673年、大海人は天武天皇として即位、鵜野は皇后となります。
2人は新たな国づくりへと手を携えて歩んでいきます。

飛鳥の浄御原宮からほど近く、天武天皇と鵜野の国づくりを象徴する遺跡が発見されています。
飛鳥池工房遺跡です。
7世紀後半から8世紀にかけて稼働していました。
炉跡群があり、炭を炊いて火を起こしてるつぼの中に銅や鉄やガラスを溶かしていた痕跡が残っています。
天武天皇は、この地に300以上の炉を持つ国営の工房を立て、金、銀の金属やガラスを加工し、日常で使う道具や装身具を作らせていたと考えられます。

ここから出土したのが、日本最古の貨幣として知られる富本銭です。
この発見によって、日本の貨幣経済が天武の時代に始まる可能性が高まったのです。
日本書紀には、天武天皇の命令が記されています。

「今より以後、必ず銅銭を用いよ
 銀銭を用いることなかれ」

当時使われていた銀銭は、銀そのものの価値で流通している銀の塊でした。
ところが、富本銭は、銅そのものの価値ではなく、貨幣として流通させるために作られたものだち考えられています。
中央集権国家をいかに樹立していくか?
そのことが伺えるのがこの遺跡であり、富本銭に象徴されています。

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皇后である鵜野が、積極的に進めた事業があります。
681年、鵜野は天皇と共に大極殿に出御し、律令の編纂を命じます。
飛鳥浄御原令です。
後の大宝律令に繋がる、わが国初の体系的な法廷の編纂が始まったのです。
こうして国家体制を着々と整備する一方、壬申の乱のような争いが二度と起きないように、天武天皇と二人で模索します。

679年、2人は、皇位継承権を持つ6人の皇子と共に吉野を訪れます。
同行したのは、最年長で壬申の乱を父と共に戦った高市皇子、鵜野の実の子である草壁皇子、鵜野の姉・大田皇女の子・大津皇子、さらに彼等と同世代の天智天皇の皇子たちも呼ばれていました。
天武天皇は、6人全員を懐に抱き、こう告げます。

「我が子ども、おのおの異腹にして生まれたり
 しかれども今、一母同産の如く 慈まん」

6人すべてを皇后・鵜野の子として扱うと宣言しました。
いわゆる吉野の盟約です。

それまでは、后の宮と大王の宮は別にあって、それぞれにその子供たちがいました。
母の違う子供たちは、成育の場所の違い、背後にいる氏族たちの勢力も違いました。
これは、画期的なことでした。
后の中である1人の人間(鵜野皇后)を特別な位置につける・・・
新しい一歩でした。
この結果、鵜野の実子である草壁皇子が筆頭に位置付けられ、他の皇子たちは皇位を巡って争わぬように諭されたのです。
しかし、それから7年・・・
686年、天武天皇崩御
事態は大きく動き出します。
皇子たちは即位にはまだ若すぎる・・・
鵜野はすぐさま天皇をおかず、自らその代理として政務をとりました。
称制です。

それから1か月後、事件は起こりました。
姉の子である大津皇子謀叛との密告です。
大津はこの時24歳、文武に秀でた才能を見せ、人望を見せ始めていました。
鵜野は即座に大津を捕らえ、死を命じました。
大津を吉野の盟約に反した咎を厳しく処罰することで内乱を未然に防いだのです。
ところが・・・更なる試練が鵜野を襲います。
天武の死から3年・・・689年、草壁皇子死去・・・実の子の病死でした。
継承権1位の草壁の死によって、皇位の行方は再び混沌となりました。
皇后である鵜野は、次期天皇をどうするかの選択を迫られます。

草壁の子・珂瑠皇子に継がせるのがいいか??
しかし、問題は豪族たちの反応・・・即位に相応しいと言われる年齢は、若くても30代・・・皇子はわずか7歳に過ぎない・・・
年長の皇子が数多いる中、即位を強引に進めれば、豪族たちの反発を生み、争いを起こしかねない・・・!!

他の皇子を即位させる??
慣例に従って、年長の皇子の中から即位させれば、彼等も納得するのではないか??
残された皇子のうち、最有力と言われていたのが高市皇子でした。
母親の身分が低く、血統で一段劣るものの、壬申の乱で活躍したことで、実績、人望の面では申し分ありませんでした。
他の皇子が即位した暁には、称制の立場から降りなければならない・・・
一旦権力を手放せば、天武天皇との間ですすめてきた国づくりをこの手で続けることが出来なくなってしまう・・・!!
斉明天皇をはじめ、女性天皇が皇位についたことが無いわけではない・・・!!
ここは、自ら即位するべきではないのか・・・??
しかし、鵜野が天皇でおさまるのだろうか・・・??
天皇亡き今、女性の即位に対し、牙をむいてこないとも言い切れない・・・!!
珂瑠皇子の擁立か、年長の高市皇子か、自ら即位するべきか・・・??

690年1月・・・鵜野は持統天皇となり即位しました。
有力候補だった高市皇子は、太政大臣に任命され、実務で天皇を支える体制が整えられました。
しかし、持統天皇に壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇のようなカリスマはない・・・!!
そのことを自覚していた持統天皇が、即位に当たって行ったのが、前代未聞の即位儀礼でした。
日本書紀にはその様子が詳細に書かれています。

”物部麻呂が大盾を立て、神祇伯中臣大嶋が天の神々の祝福の言葉を読み上げ、さらに後の三種の神器にもつながる行為の象徴・剣と鏡が鵜野皇后に捧げられます
 そして、天皇位に就いた持統天皇を群臣は列をなし、廻って拝み、柏手を打ちました”

群臣が主体で王を推挙するというのが旧来の在り方でした。
持統天皇の即位義というのは、王権主導で神として即位・・・
天の神から統治を委託された私が皇位に就く・・・
そういう儀式を作り上げました。
持統天皇の諡は、高天原広野姫天皇・・・皇位継承の源を、高天原の神々に求めたのです。

自らの統治の正当性を求めた持統天皇が、繰返し行った行事があります。
壬申の乱の記憶を色濃く残す吉野への行幸でした。
天武天皇を祀る浄見原神社には、天皇と吉野の深いつながりを表す行事が今に伝わっています。
毎年旧正月に奉納される国栖奏と呼ばれる舞です。
壬申の直前、この地に逃げた大海人皇子に、里人が舞って慰めたといいます。
戦いの後も、天皇と人々との関係は続きました。
大海人皇子が、第40代天武天皇として飛鳥浄御原宮に即位され、その時に、国栖人を呼びになって、国栖舞を奏しなさいとお定めになられ・・・それ以来、宮中に約500年間参内奉仕しています。

持統天皇の吉野への行幸は、9年間で31回にも及びました。
宮中で、そして吉野で、天武天皇と自分は一体であることを折に触れて群臣にアピールしたのです。
即位から4年後、藤原京に遷都・・・これこそ、持統天皇が、天武天皇から引き継いだ大事業でした。
飛鳥の北西4キロの地に建設された藤原京・・・
大和三山に抱かれた5.3キロ四方の土地は、後の平城京、平安京を凌ぎます。
中国の都に習い、碁盤の目状に区画された敷地には、官庁や貴族の邸宅が建設されています。
その目的は、豪族たちに飛鳥から藤原京への移住を促し、官位に応じて仕事を与え、天皇に奉仕させることにありました。
都の中心に建設されたのが、天皇が政務や儀式を行う大極殿です。
正面の幅は40m、高さ25mという巨大な建造物です。
それまで寺院にしか使われていなかった瓦が初めて宮殿に使われ、新たな時代の到来を人々に強く印象付けました。
現在も発掘が続けられている藤原京で、近年興味深いものが発見されました。
旗竿を絶てたであろう柱の穴です。
続日本紀の大砲元年の条、元日朝賀の記事には、7本の幢幡と呼ばれる旗竿を立てたという記事があります。
ここで発見された7本の穴は、その幢幡を示していると思われます。
発掘現場は、大極殿南門のすぐ南に位置します。
大宝元年に行われた儀式では、天皇を象徴する三本足のカラスを象った幡を中心に、太陽と月、東西南北を守る4つの神を描いた旗が翻り、万物の調和があらわされました。
57歳を迎えた持統天皇は、文武百官、外国の使節が参列する中、華やかに正月朝賀の儀を執り行いました。
続日本紀は、その様子をこう記しています。

”文物の儀、これに備われれり”

持統天皇は、ここに天武天皇から引き継いだ国づくりの完成を高らかに宣言しました。
持統天皇が組み上げたこのシステムのおかげで、日本の天皇の精度が長く続いたのです。

696年、それまで太政大臣として持統天皇を支えてきた高市皇子が病死しました。
高市の死は、50を超えた持統天皇に後継者を固めなければならないという思いを新たにさせました。
この時、持統天皇は、草壁の子・珂瑠皇子の立太子を決断します。
しかし、珂瑠はまだ15歳・・・他にも年長の皇子は大勢います。
即位には依然として大きな壁が・・・!!

この時、持統天皇がとった手段について日本書紀は書いています。

”謀を禁中に定めた”

持統天皇は、群臣や継承権を持つ皇子たちを宮中に呼び寄せて話し合いをさせました。
天皇の御前で行われたこの会議には、その後の皇位継承の方針を定める周到な秘策が準備されていました。
群臣がそれぞれ推す皇子を主張し紛糾する中、一人の人物が口を開きました。
壬申の乱の敗者・・・大友皇子の息子・葛野王です。

「神代以来、子孫が皇位を継ぐのが我が国の法である
 兄弟継承では乱となる」by葛野王

皇子の一人が立ち上がり、何かを言いかけましたが、葛野王が一喝!!
持統天皇にとって、子孫は珂瑠皇子しかいません。
一部始終を見ていた持統天皇は、葛野王の一言が国を定めたとして大いに褒めたといいます。

697年8月、珂瑠皇子は文武天皇として即位。
群臣の推挙による兄弟間相続から天皇の遺子による直径相続へ・・・
持統天皇は、皇位継承のルールを大きく変えたのです。

一番大きなことは、王権主導で群臣はそれを承認するという立場がはっきりしたことです。
15歳であっても即位できるという先例ができました。
譲位をして次を決める・・・それは、明治になるまで続きました。
皇位を譲った地頭は、太上天皇として文武天皇を後見・・・

その最晩年に行ったのが、遣唐使の再開(702年)です。
持統天皇は、唐に代わって建国された周の女帝・則天武后に使者を送ります。
それまでの話に代わる国号・日本を認めさせました。
白村江の敗戦からおよそ40年、新興独立国家・日本は、東アジアの国際社会の中に船出したのでした。

702年12月、持統天皇崩御・・・58年の生涯を閉じました。
亡骸は、飛鳥の地に夫・天武天皇と共に合葬されました。
文献によれば、天武天皇の棺と持統天皇の骨蔵器は葬られています。
持統天皇は天皇として初めて亡骸を火葬、遺骨を骨蔵器に納めて葬られました。

古代最大の内乱に勝利し、中央集権国家建設に邁進した天武天皇・・・
持統天皇は、夫の遺志を引き継ぎ、現在に続く日本の国の形を完成させたのです。
2人の天皇は、今、共に飛鳥の地で永遠の眠りについています。

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シリーズ 古代史ミステリーです。

今から1300年前に作られた歴史書・古事記・・・
国の成り立ちから天皇による統一まで書かれています。

この神話の背景には、日本が直面した対外危機がありました。
侵略の恐怖・・・古代の近代化が行われたのです。
国家神話に込められた意味とはどういうものなのでしょうか???
誰が・・・何のために作ったのでしょうか?
「古事記」上巻に秘められた日本国家誕生の裏側です。

上巻は、神々の物語
中巻は、神と人との関わり
下巻は、人の歴史

に分かれています。

どの民族にもある神々の物語・・・それが古事記に色濃く書かれています。
上巻だけで、文学作品としても一つの作品として確立されていて、日本のアイデンティティ、独自性が見受けられます。

古事記という歴史書を作るために神話が必要である・・・
創作性が入ってきています。が、そこには歴史的背景がある・・・そして、人為的なものも含まれている???

古代の近代化・・・当時の世界最高の大帝国・唐を見倣って、天皇中心の統一国家にしよう・・・ということだったのかも。。。
唐を中心とする統一国家になるためにグローバル化が必要だったのかもしれません。

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日本最古の歴史書・古事記・・・
681年に天武天皇が国史編纂の詔を出します。
そして・・・持統天皇⇒文武天皇⇒元明天皇を経て、712年に「古事記」が完成します。




古事記の序文には、天武天皇の詔が書かれています。
「そもそも帝紀(天皇家の系譜)とは、本辞(神話・物語など)は国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本となるものである。
正しいものを定めて、更生に伝えようと思う。」

国家組織の原理と天皇政治の基本を示すこと・・・
そこには、日本国の未曽有の国難があったのです。

それが、663年朝鮮半島で起こった白村江の戦です。
倭国は国家の形成途上で・・・唐と新羅の軍に大敗します。
この敗戦を機に、変革が求められたのです。
初めての対外戦争で・・・いともたやすく負けてしまった・・・。
国家の権力を集中させて対応しないといけない・・・。
そこで、税と兵を一転に集中させる体制が必要だったのです。

国史編纂は、中央集権化のため・・・大国に肩を並べるためには、国家神話が必要だったのです。
皇祖神が登場します。
その皇祖神は天照大神です。

天照誕生は・・・???
高天原には天照はいません・・・
17、18番目に登場するのがイザナギノ命・イザナミノ命。
彼らは愛の化身として国生みを行います。
続いて生まれたのが・・・海・風・霧・土・山・木・の神など・・・35にも及ぶ神生みです。

しかし・・・天照はまだ・・・。
どうして古事記にはこのようにたくさんの神が出てくるのでしょうか???

天武天皇は・・・
「諸家に伝わっている帝紀及び本辞には、真実と違い虚偽を加えたものが甚だ多いとのこと・・・」
とあります。

当時の有力豪族は、その出自を正当化したり、天皇とのつながりを誇示するために・・・
それぞれに都合のいい神話を書かせていたようです。

天武天皇は、乱立状態・・・バラバラだった神話を天皇国家にとって有利な神話へとまとめて行こう・・・というものだったようです。
つまり、神話の中央集権化だったのです。

イザナミが最後に産んだのが火の神・カグツチノ神。。。
その時に大やけどを負ったイザナミが黄泉の国へ・・・。
後を追ったイザナギは変わり果てたイザナミの姿を見て・・・命からがら逃げだします。
そして・・・黄泉の穢れを落とすために・・・イザナギが池の水で禊をすると・・・
”左の御目をお洗いになる時成り出た神の名は天照大御神
 右の御目からは月読命
 御鼻からは須佐之男命”
こうして禊によって皇祖神・天照大御神が誕生したのです。

日本古来の神信仰は・・・万物に神がいるというアニミズム信仰なので、たくさんの神が出てきます。

天照はどのようなキャラクターだったのでしょうか???
最も有名なのが、天石屋戸神話です。

天照は、父・イザナギから高天原の支配を任されます。
一方海を任された須佐之男命は父に背き高天原で乱暴狼藉を働きます。
そんな弟を庇う姉として書かれています。
人間的な弱さを持つ人間的な神として書かれているのです。

乱暴狼藉に拍車のかかる須佐之男命。
怖れ慄いた天照は天石戸に隠れてしまいました。
すると・・・
”あらゆる邪神の騒ぐ声は夏の蠅のように世界に満ちあらゆる禍が一斉に発生した”
暗黒に包まれ、世界は危機に瀕します。
困った神々は天石戸の前で、お祭りを始めました。
天照が見ようと戸をあけかけた時、力づくで天照を引き出して・・・

世界は光を取り戻し、秩序も回復したのでした。

天照が、天石戸から引き出される・・・
そこに、多くの者と力を合わせて君臨する神として書かれているのです。
世界の中心であることを知らしめた天照は・・・
女性であることから・・・時の国家の支配者・持統天皇をモチーフにしている???


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持統天皇は、天智天皇を父に持ち、夫は天武天皇・・・律令国家の実現に力を注いだ人物です。
はく祖運航の戦いのあと、唐の侵略に備えて・・・
667年天智天皇は、飛鳥浄御原宮から近江大津宮に遷都。
その途中で亡くなりました。

672年壬申の乱で・・・皇位継承で大海人と大友が戦います。
戦いに勝った大海人の皇子は673年大津から飛鳥へと都を戻して天武天皇となります。
そして・・・独裁政治を始めました。
大臣を廃止し、皇族による政治を始めたのです。

686年天武天皇崩御。

持統天皇は大臣制度を復活させて、官僚の力を活用して、
689年飛鳥浄御原令、694年藤原京遷都・・・夫の成しえなかった計画を成し遂げます。

持統天皇はこう評価されています。
”天皇は、広い度量のお人柄であった
 まろやかな心で国母の徳をお持ちであった”

天武天皇の時は、天皇としての厳しさがないと世の中は動かすことができなかったのですが、持統天皇が女性としての温かさで、世の中の融和を心がけた・・・
そんな持統天皇が天照大御神と合致したのです。

この後、古事記は地上世界の出雲に変わります。
所謂「国譲りの神話」です。

これに対しては、実際に出雲に強大な王朝があったという説や、地方豪族の象徴として書かれているという説・・・様々な解釈がなされてきました。

出雲信仰の神は・・・大国主命。
80人兄弟の末っ子、虐められてばかりいる気の弱い神様です。
しかし、因幡の白ウサギを助けたことから美しい神と結婚。。。
着実に領土を広げて行きます。
葦原中国という地上世界の王のステップをあがって行きます。。。
そこへ国を穣るようにとやってきたのが天照大御神。
大国主命は・・・
「この葦原中国は仰せのとおりことごとく献上しましょう」
と、抵抗することもなく国を譲ってしまうのです。

各地の豪族は各地で国を造る・・・
国譲り=中央集権化・・・各地の国が大和朝廷に服属するということを意味しています。
平和裏に交渉が成立した???

中央集権化に必要だったのが、戸籍制度の整理。
690年庚寅年籍を作成します。
これにより朝廷は、民を管理し、豪族が行っていた徴兵や税の徴収を確実に行うことができるようになります。
公地公民です。
豪族からすると、権益を国に取られてしまう・・・
そこを穏便に運ばせることが目的で・・・その穏便な・・・というのは、日本的な考え方なのかもしれません。

国譲りのあとは、天孫降臨です。
神と天皇とをつなぐクライマックスです。
天照大御神は、息子のホシホミミノ命に地上世界への降臨を命じますが・・・ホシホミミノ命は・・・
「支度をしている間に子が生まれました。
 名は、ニニギノ命と申します。
 この子を降ろすのが良いでしょう。」
ホシホミミは息子に・・・といい、結果的に、天照大御神の孫・ニニギノ命が降臨することになります。
この急遽変更となった天孫降臨・・・
当時・・・697年天智天皇は吉野の盟約で、母親の違う皇子たちに、継承争いが起きないようにちかいをたてさせます。
「我が子供たちよ
 母親は違えども
 同じ母から生まれた
 兄弟のように
 慈しもう」と・・・。


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そして、天武天皇と持統天皇の息子草壁皇子を後継者としました。
ところが・・・草壁皇子は若くして亡くなり・・・後に残ったのは、幼い軽皇子でした。
つまり、持統天皇と孫の軽皇子との関係がそのまま天照とニニギノ命の関係となるのです。
孫が継ぐことの正当性を訴えたのです。

しかし・・・
この皇位継承は簡単なものではなく・・・
これまでの皇位継承は、
①兄弟内・世代間継承
②30歳以上
③執政経験アリ
という条件でしたが・・・
軽皇子はどの条件も満たしていませんでした。
即位の必然性がない人物を皇位につかせる・・・

しかし、697年15歳で文武天皇即位。
史上最も若い天皇となりました。
天皇の皇位継承は、「実力ではなく、天にいる神様からの血縁で決まる」血統重視の皇位継承が決定した瞬間でした。
当時は、藤原京・・・
国家の政権は天皇家に、政治の実権は官僚である藤原不比等たちに・・・という構図が出来てきていたからです。

日本は権威と権力がはっきりと分かれています。
そこが中国との違いです。だから、中国の皇帝は滅ぼされますが、日本の天皇家は続いてきました。
天照大御神は最高権威でありながら、権力は誇示しません。
でも、それでOKな国民性なのです。

権威と権力の両方を手に入れたのは、天武・持統天皇の頃だけで、それは非常に珍しい時代でした。

門御天皇の時代は、唐にならって国際化を急速に進めた時代でした。
701年大宝律令制定
702年30年ぶりに遣唐使を再開・・・
持統天皇が亡くなるも・・・
中国の都・長安に習って都を造ろうと考えます。
平城京遷都を目前に文武天皇が亡くなると、その母・元明天皇が707年に即位します。
しかし、元明天皇は遷都に反対していました。
なのに・・・大臣たちが推し進め・・・
710年平城京遷都。
長安をモデルにした新しい都でした。
官僚主導の唐に習った急速な近代化・・・
元明天皇はそれに抗うような古事記の編纂。。。
アイデンティティーの最後の拠り所・・・それが古事記だったのです。

そこには”やまと言葉”を使うこと。が決められていました。
その難しさは太安万侶が記しています。
「上古においては 言葉もその内容も共に素朴で、文章に書き表すとなると漢字の用い方に困難があった。」
日本にはもともと文字のない文化・・・漢字と格闘しながら大和の音を作りだしたのです。
ここから万葉仮名が・・・日本独自の文字仮名発達していきます。

712年1月28日「古事記」完成。
その3年後元明天皇は娘・元正天皇に皇位を継承します。

古事記は天皇家の家訓・・・
その後720年にほぼ漢文体で書かれた「日本書紀」完成。
日本の正史として受け継がれていき・・・古事記は歴史の表舞台から忘れ去られていくのです。

本居宣長がいなければ、忘れ去られて現代人に読まれなかったかもしれないことを思えば、古事記を読むことのできることは奇跡なのかもしれません。

現代人が古事記から読み取ることは???
神々が自然と一体となっていること、全てに神が宿っていること。
自然観の原点・生命力の源が古事記なのかもしれません。

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