”血判阿弥陀如来絵像”です。
仏画の裏に記された名前と、生々しい血判・・・その数342人。
農民や武士、僧侶など、さまざまな階層の人々は、当時一向宗と呼ばれた門徒たちでした。
人々の血判は、ある人物に対して徹底的に戦う決意でした。
彼等が激しい怒りを向けたのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
そして、この一向宗の門徒を率いたのは、大坂に本拠を構えた本願寺第11代門主・顕如です。
信長生涯最大の敵ともいわれています。
一向宗との戦いは、信長が制圧するまで11年もかかりました。
どうしてこれほどまでに苦戦を強いられたのでしょうか?
戦国の覇者・織田信長・・・
その名を天下に広く知らしめたのは、1568年、足利義昭を奉じて上洛したことに始まります。
信長は、征夷大将軍となった義昭や、朝廷の権威を背景に、次々と近隣の武将たちを攻略。
1570年、姉川の戦いでは越前の朝倉と、北近江の浅井を破り、その武威をとどろかせました。
そんな信長が次に狙いを定めたのは、大坂の地でした。
「信長公記」にこうあります。
”大坂は日本一の境地なり”
境地とは、交通、経済、防御に秀でた優れた土地のことを刺します。
信長は、大坂こそが、日本一だと称賛したのです。
周囲を多くの河川で囲まれた大坂は、水陸交通の要衝でした。
都がおかれた京や奈良、貿易が盛んな堺を結ぶ拠点であり、さらに、西に面した瀬戸内海を通じて、朝鮮、中国、南蛮などの異国とも通じる富貴の湊でした。
信長の野望に危機感を抱いた大坂本願寺・・・。
後に名付けられた石山という地名から、石山本願寺とも呼ばれています。
当時、一向宗と呼ばれた仏教宗派の一大拠点だった本願寺は、大坂を中心に越前、伊勢、近江、紀伊など、日本各地で勢力を拡大。
西方極楽浄土の仏・・・阿弥陀如来を信仰する門徒たちは、一向・・・ひたすら念仏を唱え、来世に救いを求めました。
こうした門徒は、全国数十万に及んだといいます。
孤の一大宗教勢力を率いたのは、本願寺第11代門主・顕如。
勇ましい武者姿の肖像画も残されています。
顕如率いる一向宗は、巨大な宗教勢力というだけではなく、本願寺は当時最新の鉄砲に習熟した紀州・和歌山の雑賀衆を傭兵として雇用するなど、戦国大名に匹敵するほどの武装集団でした。
1570年、顕如は、大坂に狙いを定めた信長から、最後通告とも思われる要求を突き付けられました。
顕如が門徒にあてた書状によると・・・
”信長が、上洛を果たして以来、様々な難題を持ち掛けられた
これまで信長の要求に応じてきたにもかかわらず、今度は本願寺を破却するとの意向を告げてきた”
信長は、顕如に対し、大坂からの退去を求めたのです。
9月、ついに本願寺は、反信長の兵を揚げました。
足掛け11年に及ぶ長きにわたる戦いの始まりでした。
挙兵した本願寺勢は、大坂周辺の織田軍を一気に攻勢、精強誇る織田軍を、わずか1日で退けることに成功しました。
本願寺の強さの秘密とは??
後の天下人・豊臣秀吉によって築城された大坂城・・・それまでは、本願寺の本拠地でした。
織田軍を寄せ付けなかった本願寺の強さ・・・その立地とは??
堀や土居、あるいは土塁、防御のための土の土手・・・それぞれの町の周辺にめぐらせて、自主的な防御が出来ています。
河川を天然の要害となし、海抜30mに及ぶ上町台地の戦端に築かれた本願寺。
堅固な防御施設に囲まれた戦国大名の城下町を彷彿とさせます。
上町台地の自然にも秘密がありました。
比高差、落差があり、天然の城壁となります。
例え法下としても、織田軍は崖の下から包囲することになります。
どう攻めるのか??
それは、天然の要害でした。
さらに本願寺を難攻不落の要塞にしたのは、台地上でも豊富に得られた湧き水でした。
台地・山の上というのは弱点もあります。
なかなか水を得にくいということでした。
水かなければ、長期の籠城を戦うことはできません。
強敵・本願寺と戦端を開いた信長・・・
まもなく、思いもよらない勢力に囲まれることになります。
当時、最強と謳われた武田信玄が、反信長を掲げて参戦。
翌年、信長が擁立した将軍・足利義昭も本願寺に与し、反旗を翻しました。
敵の包囲網・・・信長は、その中心となった本願寺を攻略するため、各個撃破で挑みます。
敵勢力が分散しているうちに、それぞれ個別に打ち破るというものです。
1573年7月、将軍足利義昭を降伏させたことを皮切りに、宿敵・朝倉、浅井を一気に滅亡にまで追い込みます。
これによって、畿内周辺の敵は、本願寺を残すのみとなりました。
大坂本願寺の挙兵以降、各地で織田軍に抵抗をつづけた一向宗の門徒たち・・・
この一向一揆に対し、信長は強硬な作戦に打って出ます。
1574年9月、長嶋一向一揆・・・せん滅
この時、男女2万人を焼き殺したと言われています。
さらに1575年8月、総勢4万人を超える大軍勢で、越前一向一揆・・・せん滅
いっきに参加した人々を皆殺しにしました。
各地の一向一揆を容赦なく弾圧し、本願寺の孤立を図った信長・・・
織田軍は、大軍勢で本願寺を囲みます。
ところが・・・本願寺は、数百丁もの鉄砲を駆使し、攻め寄せる織田軍をことごとく蹴散らしました。
さらに、前線に向かった信長は、足を撃たれ負傷・・・
信長が戦場で負傷したという記録は、本能寺の変を除いてこの時だけです。
戦線は膠着しました。
信長は、力攻めを諦め、敵の武器や兵糧の輸送を断つ持久戦に転じます。
本願寺の南に堅固な天王寺砦を築き、西は荒木村重、東は明智光秀と、織田軍精鋭の武将に本願寺を包囲させました。
しかし、本願寺を完全に包囲するためには、海に面した木津川口を封鎖しなければなりません。
信長は、急遽水軍を編制・・・木津川口の封鎖を試みました。
この織田軍の包囲作戦に対し、本願寺が救援を求めたのは信長と敵対し始めていた毛利輝元でした。
本願寺は毛利と同盟を結び、兵糧の輸送を依頼します。
当時、瀬戸内海を制していた毛利水軍の中核を担っていたのは村上海賊でした。
本願寺への兵糧輸送を阻止すべく、木津川口を封鎖しようつする織田軍・・・
対する毛利水軍は、淡路島に終結後対岸に移動、鉄砲に熟達した雑賀衆と合流・・・その数800艘にのぼりました。
7月13日、毛利水軍は300艘からなる織田水軍の防衛線を突破すべく、攻撃を開始します。
この時、勝敗を決したのが村上水軍のほうろく火矢です。
球体の鉄や鉛などの内部に、黒色火薬を詰めた新兵器です。
信長公記はこう伝えています。
”海上ほうろく火矢などというものを作り、味方の船を取り囲み、繰返し投げ入れて織田方の船を焼き崩した”
木津川口の戦いに呼応して籠城していた本願寺勢も陸上で包囲する織田軍を責攻めてました。
本願寺勢の勝鬨は、大坂に響き渡りました。
信長は、本願寺勢の猛攻を前に、またも大敗を喫したのです。
信長の窮地は、木津川口の戦い敗北の後も続きました。
追い打ちをかけたのが、松永久秀叛逆!!
久秀は、本願寺包囲戦の要となる天王寺砦を守っていました。
ところが、それを放棄し、軍を撤退・・・本願寺と内通した裏切りでした。
さらに、荒木村重謀反!!
村重もまた本願寺と通じていました。
信長の痛手は大きかった・・・!!
荒木村重は、信長軍の中では摂津担当でした。
本願寺の北側エリアを中心的に任されていました。
本願寺方に渡ると、西日本から本願寺へ向かう船、様々な物資が容易く入って来れるのです。
これは、信長が摂津を掌握していたことを考えると、形勢逆転となるのです。
この機を逃さず、毛利水軍を動き始めていました。
本願寺に兵糧を輸送するため、織田水軍の倍以上に当たる600艘もの軍勢が、淡路島に集結していました。
度重なる家臣の叛逆、迫りくる敵の大船団・・・!!
本願寺と和議を結ぶ??それとも本願寺との戦いを継続する??
これまで信長は、鉄甲船を準備したと言われてきました。
ところが、他の資料には、その記述がありません。
しかも、信長の船を実際に見学した宣教師はこう記しています。
”その船は、日本国中最も大きく、また華麗なるものにして、ポルトガルの船に似たり
船には、大砲三門を載せ、無数の大なる長銃を備えたり”
こうしたことから、信長が新たに建造したのは船体を鉄で覆った鉄甲船ではなく、大砲と長銃を備えた南蛮船のような大船だと、近年では考えられています。
この大砲があれば、さすがの敵も、木津川口に近づくことさえできまい!!
毛利水軍との戦いを避けて、本願寺と和議を結ぶべきか??
海戦に挑み本願寺との戦いを継続すべきか??
信長は、本願寺と和議を結ぶと見せつつ、新たに建造した大船を木津川口に配置。
和戦両様を見せていました。
そんな信長に対し、優位に進めていた本願寺が和議を結ぶいわれはありませんでした。
その2日後、大坂湾で戦端が行われました。
11月6日、第2次木津川口の戦い!!
戦いはどのように展開したのでしょうか?
11月6日、淡路島に拠点を置いた毛利水軍600艘が、大坂湾を進み、木津川口に船を進めます。
織田水軍は、巨大軍船を軸に、船を並べ、それを待ち受けました。
両軍の船が近づいたとき・・・織田の巨大軍船の大砲が火を噴きました。
この攻撃で、毛利水軍の大将が乗った大船を大破させました。
織田水軍は、大砲などの重火器による集中砲火で敵に大打撃を与えて行きました。
しかし、織田方の一方的な勝利というわけではありませんでした。
開戦の後も、本願寺に兵糧を運び入れていた毛利軍・・・
第2次木津川口の戦いに勝利したとはいえ、海の搬入路の完全封鎖は不可能でした。
そこで信長は外交策に出ます。
まず、荒木村重配下の武将たちを次々に調略。
村重を孤立させることに力を注ぎます。
本願寺への兵糧輸送を阻止するべく、豊後の大友、肥前の宇喜多と同盟を結び、東西から毛利本国に圧力をかけて行きました。
これによって、毛利は自衛の戦いを余儀なくされ、本願寺の兵糧輸送にまで手が回らなくなってしまいます。
1569年、荒木村重の居城・有岡城陥落。
信長は、大坂湾周辺の制海権を取り戻すことに成功します。
そして・・・1580年4月、深刻な兵糧不足に陥った本願寺は、朝廷を介し信長に和議を申し入れます。
信長もこれを受け入れ、最終的な和睦が成立しました。
その結果、顕如は大坂を知り沖、紀州に逃れます。
門徒たちも、無事に大坂を退去。
当時の信長にとって、大坂の地を手に入れることこそ、最も重要な目的だったのです。
こうして信長は、足掛け11年に及んだ本願寺との戦いに幕を閉じ、ようやく畿内統一を果たしました。
ところが・・・そのわずか2年後、本能寺で明智光秀に打たれることとなります。
信長が、日本一の境地とたたえた大坂は、後継者の秀吉に受けつがれます。
秀吉は、ここに当時日本最大の大坂城を築城し、天下統一を成し遂げたのです。
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