2020年の教育改革・・・小学校で英語必修、大学入試センター試験廃止・・・教育現場が大きく変わろうとしています。
改革の大きな柱がアクティブ・ラーニング・・・体験や対話を重視した主体的な学習です。
今から100年前、現在の教育改革を先取りするかのような教育運動が草の根から起こりました。
それが、大正新教育運動です。
個人の自由と開放が叫ばれた大正時代、教師だけでなく、芸術家も加わり、子供中心の教育が目指されました。
都市にはユニークな私立学校が続々と誕生・・・
歌人の与謝野晶子が創設に関わった学校は、個性の教育を掲げ、ひときわ異彩を放ちました。
征服の廃止、ダンスの導入・・・。
更に公立学校には伝説の教師が・・・!!
アクティブ・ラーニングの先駆けともなるその教育方法とは・・・??

しかし、対象新教育は20年余りで挫折することに・・・。
ぶつかったのは、現代にも通じる社会の在り方でした。

1872年「学制」発布
日本の近代教育は、明治時代初め、新国家の建設に欠かせない緊急課題として始まりました。
全国の子供達に効率的に新しい知識を学ばせるために、一斉教授という方法が取られました。
一人の教師が大勢の子どもを前に、一方的に同じ方向を向いて注入していく詰め込み教育の始まりです。
それは、江戸時代の寺子屋とは対照的でした。
寺子屋では、思い思いの場所に座る子供を個別に教えます。
しかし、明治の国家主導の教育では、子供の個性など顧みられることはありませんでした。
子供の個性や主体性を押さえつけ、標準的な方にはめ込もうとする画一的な明治の教育・・・
やがて転機が訪れます。

1905年日露戦争に勝利!!
世界の一等国入りを果たした日本。
大正時代になると、個人の開放と自由に目覚めた人々が、大正デモクラシーという潮流を生み出しました。

大正時代になると、人間が、制度に支配される違和感をいろんな場面で感じるようになります。
学校教育で機械的にやれと言われたことを甘んじて真面目にきちんとやるけれども、そのやり方が、自立した人間を作るのか?豊かな社会を作るのか??疑問となってきました。
そうして広がったのが、大正新教育です。

この運動の先陣を切ったのは、文学、音楽、絵画・・・大正文化をリードした文化人たちでした。
その中心のひとり・・・作家の鈴木三重吉は、1918年童話雑誌「赤い鳥」創刊
全ての子供達には、純正が備わっており、その秘めた力を伸ばす事こそが、新時代の芸術家の使命だと訴えました。
共鳴した人気作家たちは、現代にも受け継がれている童話、童謡を次々と書き下ろし、反響を呼びます。
赤い鳥には、熱烈な読者がいました。
それは、都市を中心に急増した富裕層である新中間層でした。
今のサラリーマン家庭の原型となった家庭は、愛する子供に学校で学ぶ以上の特別な教育を授けたいと考えていました。
そんな親たちのニーズにこたえようと三重吉が企画したのが、綴り方という自由作文の募集でした。
例文をただ書き写すのではなく、あった事、感じたことをそのまま書くよう子供たちに呼びかけ、投稿作品を次々と赤い鳥に掲載します。

三重吉の元に届いた子供たちの作品は、毎月2000通以上・・・
その影響は、各地の学校に及び、熱心な教師たちによって自由作文が授業に。
さらに、赤い鳥では自由画も奨励します。
画一的だった図画の授業も変えていきます。
赤い鳥を舞台にした芸術家たちの運動が、画一的だった明治の教育を子供中心の対象新教育への原動力となったのです。

長野県軽井沢・・・歌人・与謝野晶子がいどんだ教育が今も残っています。
西洋のコテージを思わせる上品なコテージ・・・。
晶子が創設に関わった校舎を復元したものです。
それは、1921年、東京神田に創設された文化学院です。
校舎やインテリアを設計したのは、晶子と共に学院を起こした建築家の西村伊作でした。
およそ1世紀にわたり、多くの文化人を輩出してきた私立学校です。
文化学院は、いまでいう中高一貫の女子高として、生徒数33人でスタート。
創立3年目には、中等教育では日本初の男女共学に。
大正時代、それまでにない新教育をリードしたのは、私立学校でした。

1917年、子供に自主性を重んじ自学自習を促した成城学園。
1929年、学力だけでなく、人間性の向上を目指した玉川学園。
1921年、家庭と学校の融合を掲げた自由学園。

国の統制が強い、官立・公立校ではできない自由で実験的な教育・・・。
それを目指し、多くの教育者が、私立学校の創設に立ち上がったのです。
中でも、晶子たちの文化学院は、教師経験のない芸術家たちの創設した学校として異彩を放っていました。
文化学院のモットーは、個性の教育。
晶子たちは、画一的な制服を廃止し、生徒たちに思い思いの格好をさせます。

「黒い制服の学生たちは、一見してカラスの群れと似た印象しか受けません
 そこには人間の塊があるばかりで、人間の個性の象徴がありません」

晶子はファッションを通して、せいとも自己表現をしなければ・・・と考えていました。
さらに、文化学院では体育を廃止し、ダンスを導入。
磨くべきは、競争心よりも表現力・・・
女性が肌を見せるのもはばかられた時代に、少女たちが舞い踊る発表会は、世間をにぎわせます。
生徒たちに個性を求める晶子の信念は、教師の人選にも出てきます。
招いたのは・・・作家・川端康成、思想家・平塚らいてう、法学者・吉野作造、詩人・萩原朔太郎、物理学者・寺田寅彦、音楽家・山田耕作・・・角界を代表する知識人たちでした。
晶子も含めて教員免許の持たない超一流の素人教師たちでした。

ところが、肝心の晶子の古典の授業は・・・作品世界に没頭する余り生徒たちを忘れて一人で古典を読みふけってしまう有様・・・。
そんな晶子の姿に、子供たちはくぎ付けになりました。

「私たちは、先生のお声をハッキリ聞くために、机を一メートルも前に近づけた
 晶子先生の芸術的興奮の圏内にあっては、自分という道具がそれに共鳴して自ら美しく、鳴り出すような感じだった」

晶子は子供たちをどう育てようとしていたのでしょうか?

「完全な個人」を作ることが、唯一の目的です
人間は何事にせよ自己に適した一能一芸に深く達してさえいればよろしい

裁縫や調理実習よりも、文芸や芸術を通じて教育を高めることを目指していました。
教育の素人たちが、「本物の芸術を見せれば子供は育つのではないか?」と、実験的に展開した学校でした。


公立の学校では・・・??
兵庫県明石市神戸大学附属小学校・・・ここに大正時代、公立学校の新教育運動をリードした伝説の教師がいました。
前身の明石女子師範学校附属小学校主事・及川平治先生です。
彼の名を全国に知らしめたのが、そのユニークな授業法でした。
その名も、動的教育法・・・現代のアクティブ・ラーニングの先駆けです。

サツマイモを煮て研究・・・
部屋を暖めて空気の温度差を出し風を起こして自然の仕組みを室内で再現。
芋が煮えてくると、子供たちにかまどの口をふさがせ、火が消えるのを確かめさせます。
燃焼には空気が必要だと体験させます。
そして、暑い芋の熱は・・・??竈の火から伝わったことを考えさせ、熱の伝導を教えます。

及川は、芋を煮るという体験を通して、風の流れ、燃焼、熱伝導・・・科学の基本原理を学習できると考えたのです。
子どもの生活に近しいもの・・・そしてそこで得た知識を知恵として生活に戻しやすいものとしました。
経験を重んじました。
子供達の生活に寄り添い、興味や体験を重視した及川・・・彼は、教育についてこう語っています。

「教育は事実に基づかねばならない
 生徒たちの能力に優劣があるのも事実
 その境遇に差があるのも事実
 教育の形は、児童本位でなければならない」

及川は、学力も家庭環境も違う子供たちが通う公立学校にこそ、子供が主体的に学べる授業が必要だと考えたのです。

1921年、新教育運動を率いる8人の教育者による大講演会「八大教育主張」が行われました。
全国から2000人を超える教師たちが殺到します。
及川の声に耳を傾けます。
国の方針に縛られた公立学校でも、工夫ある授業を行うことで新教育が実践できると奮い立ちます。
教師観の転換をもたらした一人が、及川でした。
及川が目指した児童本位と、動的教育・・・
100年前の取り組みは、現代の教育にも多くの示唆を与えています。

新教育がピークを迎えようとしていた1922年、風刺漫画が・・・。
「子供に干渉しちゃいけないよ・・・子供には自由な教育が大切なんだ」
「児童は純真なもの 詰め込み教育なんて、みじめなものだ」
しかし、入学試験が近づくと・・・
「とにかく詰め込んだ勝ちだからな」
「背に腹は代えられないからね」
そして受験が終わるころには、詰め込み過ぎた子供の頭が爆発!!
「なんだいそのザマは・・・これだから今の学校は”個性”を尊重しないで困るね」
子供の個性や自主性を育てようとしながらも、受験の詰め込み教育も仕方がない・・・??

矛盾した教育の背景には、大正の学歴社会問題がありました。
当時、帝国大学を頂点とする学歴は、その後の就職や給与に直結する「学歴」が立身出世の手段となっていました。
「学歴」を求める保護者の声に、受験教育を否定してきた私立学校の新教育も、対応を余儀なくされていきます。
中には、新教育の理念を捨て受験予備校化していきました。
幼稚園から高等教育まで・・・エスカレーター式に一貫校を整備。
学歴へのニーズに自前で答える学校も・・・!!
そうした私立に裕福な保護者が殺到!!
受験競争が低年齢化し、お受験が始まりました。
しかし、そんな私立の動向に、庶民の視線は冷ややかでした。
1923年の関東大震災・・・その後の長期的な不況で、貧富の差は拡大し、教育の格差もあらわになっていきます。

当時、私立の学校の近くに住んでいた公立の先生の日記には・・・
「(私立の)学園の子どもたちは、赤いネクタイをちらつかせ、馬や自動車で林道に埃をあげた
 村の子供たちは、いつでも裸で赤ん坊を背負い、道の傍らにそれをよけた」
高い授業料をとる私立の新教育は、次第に世間と隔絶されたものになっていきます。
そして時代は昭和へ・・・
満州事変以降、軍国主義が進む中で、国家による教育の統制は日増しに強くなっていきます。
赤い鳥から広まった学校の自由作文も弾圧の対象に・・・
全国で300人の教師が逮捕されました。(1940~42年・生活綴方事件)
生徒たちに貧しい生活を綴らせたことが、社会主義的だと罰せられたのです。
時代の荒波は、晶子たちの文化学院も飲み込んでいきます。
太平洋戦争目前に校長の西村が戦争協力を拒否・・・しかし、教師や生徒たちは国家に協力すべきだと反発。
校長の辞任を要求しました。
当時、病床にあった晶子は、震える手で筆を執りました。
「私たちは初めから、職員も生徒も一団の家族として歩んできたはずです。 
 一緒に話し合えば、必ず分かり合えると信じています。
翌年、1942年に晶子は63年の生涯を閉じました。 

その後を追うように、1943年文化学院は矯正閉鎖。
教育思想を理由に、国家が閉鎖した唯一の学校となりました。
一方、及川平治の公立学校は、戦時体制下でも独自の授業を行っていました。
「軍艦を造るより 人を創れ」
そんな言葉を残し、及川はこの世を去りました。
太平洋戦争が始まる2年前のことでした。

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