日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:蒲生氏郷

【新品】【本】石田三成〈秀吉〉vs本多正信〈家康〉 島添芳実/著

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戦国の世に終止符を打ち、260年あまりの太平の世を築き上げた徳川家康。
その家康に仕え、江戸幕府最大の功労者といわれるのが、家康よりも4歳年上の本多正信です。
家康の傍で、天下取りの戦略を練り続けた参謀。。。
家康の知恵袋でした。
本多正信はどのようにして家康に認められ、どのように支えたのでしょうか?

1538年、本多正信三河国に生まれました。
本多家は、藤原氏を始祖とする名門でしたが、若い頃は家康の臣下として足軽よりも身分の低い鷹匠として仕えていました。
そんな正信に大きな転機がやってきたのは、26歳の時・・・。

1563年三河一向一揆です。
一向宗の門徒と家康が激突します。
今川家から独立したばかりの家康が、領国支配を急ぐあまり、一向宗の特権を侵害したことが原因でした。
この時、一向宗の門徒であった正信は、家康に反旗を翻し、一揆軍に身を投じて、家康の首をとるために戦うこととなったのです。
どうして一向宗側に着いたのでしょうか?

本多家は貧しく一向宗に肩入れしました。
当時はまだ家康との固い絆はありませんでした。
正信だけではなく、かなりの家臣が一向宗に加担しています。
困窮のために、家康よりも一向宗に救いを求めたのです。
そして翌年、一揆が収束すると・・・
家康は、一向宗に加担した家臣たちの罪は問わないとし、多くの家臣が家康のもとに帰りましたが・・・。
正信は家康の元には戻らず、身重の妻を残して出奔。
その後の消息ははっきりとは分かっていませんが、諸国を回り、加賀一向一揆に加わったり、三好家の家臣松永久秀に仕えていたといわれています。
久秀は、戦国時代きっての梟雄と呼ばれた人物です。
松永久秀自身は、主人の三好家を乗っ取ったり、室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃して殺害するなど戦国時代きっての戦略家です。
そこで多くの事を学んでいた正信・・・
久秀は正信のことをこういっています。
「剛に非ず 柔に非ず 非常の器である」と。

強いだけでも優しいだけでもない・・・計り知れない器量の持ち主である・・・と。
正信が家康のもとに起算したのは、出奔から20年後の事でした。
”帰り新参”といわれる肩身の狭い立場で、かつ、裏切り者・・・。
槍も剣もあまり使えなかったようで・・・。
家康に仕え、生死を共にしてきた家臣たちにとっては総スカンの存在でした。

広い視野と情報網を持つ本多正信が名参謀となったのは・・・??
1590年豊臣秀吉は、北条氏を倒して天下を統一!!
徳川家康は、家康から北条氏が治めていた関東への転封を命じられ、江戸城に入城。
その頃、家康は、家臣たちを試すためにこんな問いかけをしていました。

「さて・・・力づくでどのあたりまで攻め込むのがよかろう?」

徳川軍が関東から京に攻め上った場合の可能性についてです。
すると・・・ある者は勇ましく「関ケ原」まで。「浜松」まで。
しかし、正信は一言も発しませんでした。

今の徳川は、江戸を出ることはできない・・・。
冷静な状況判断でした。
以心伝心・・・的確な分析能力を読み取った家康は、その通り・・・と、頷いたといいます。
家康を関東に封じ込めたのは、後ろに蒲生氏郷がいたからです。
関東から西に動いた瞬間に、蒲生が攻め込んでくる・・・正信はそれが解っていたのです。
分析や戦略を立てることのできる正信・・・家康の天下取りには必要な人物でした。
また、人を諫めるのも上手でした。

家康の信頼を得た正信は、家康が大きな決断を求められるたびに参謀として意見し、それを家康はことごとく採用していくこととなります。
1592年、朝鮮出兵。
家康は、九州・名護屋城への参陣を命じられます。
しかし、兵を出すのはそこまで・・・というのが正信の主張でした。

「朝鮮出兵は、必ず失敗に終わり、出陣すればただ兵が疲弊するのみ。」

正信は、朝鮮出兵が無謀な戦いであると見抜いていたのです。
幸い、家康は朝鮮半島の出兵は免れ、徳川の軍事力の保持を図ることができました。
正信の読み通り、朝鮮出兵は豊臣政権に多大な打撃を与え、家臣たちに大きな亀裂を与えたのです。

「この戦のあと、殿に天下取りのチャンスがやってくる・・・」

朝鮮出兵のさ中に、豊臣秀吉が62歳で死去。
すると徳川家康の知恵袋・本多正信が動きます。
石田三成ら文治派と、加藤清正・福島正則ら武断派の対立を煽り、秀頼政権の弱体化を図ったのです。
その結果・・・事件が勃発。
朝鮮出兵で身を削って戦った浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政・福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興らが三成を討つべく兵を挙げました。
世に言う”七将襲撃事件”です。

窮地に陥った三成は、屋敷をでると家康の元へ助けを求めます。
家康にとっては、飛んで火にいる夏の虫・・・三成は、反家康勢力の急先鋒で邪魔な存在でした。
そんな三成をどうする??
正信は家康に進言します。
「三成を助けた方が、天下取りには都合がよいと存じます。」
本多正信ならではの考えでした。

三成を殺しても、反家康勢力を一掃することはできない・・・
家康は、三成を隠居させる条件で、七将の怒りを抑えました。
この騒動で、七将を咎めなかったことで、家康は彼らを味方につけることに成功。
そして、三成を生かしておいたことで・・・三成が反家康勢力を集結して挙兵!!
天下取りのために、彼らを討つという大義名分が家康に転がり込んできました。
東西16万の軍勢が関ケ原で激突!!
戦いは、一日で決着がつき、反家康勢力は一掃されたのでした。
まさに、参謀・本多正信の知略が、家康に天下をもたらしたのです。

しかし、家康の命運をかけたこの戦いで、正信は大きな失敗をしていました。
正信は家康の子・秀忠に付き従い、徳川本隊3万8000を引き連れて中山道を・・・。
しかし、真田一族が守る2500の兵・・・上田城を落とせず・・・関ケ原の戦いに後れてしまいました。
正信は武将としての経験は少なく・・・しかし、そんな正信を怒ることはありませんでした。
というのも、、正信の実力は武功ではなく、戦後処理能力にあったからです。
井伊直政らと共に、関ケ原の論功行賞と処罰を行った正信・・・。
石田三成を処刑するなど西軍の武将には厳しく・・・三成の息子の処分については驚くべき進言をします。
「助命するのが徳川の為です。」
西軍を敵に回すのではなく、味方につける・・・恨みを残さない・・・というのが正信の戦略でした。
人の心を知り尽くした知略が、徳川幕府を築いたのです。
恨みの連鎖を断ち切ることによって・・・。

この助言を聞き入れた家康・・・三成の子は、処刑されることなく、生き延びることとなります。
一方、豊臣恩顧の武将たちで東軍に加わったものには・・・加増を行います。
先陣を仰せつかり、戦功第一とされた福島正則は24万石→49万石に。
関ケ原の戦いには参加しなかったものの・・・九州で反家康派を抑えた加藤清正は19万石→52万石。
ところが、石田三成本体と華々しく戦った加藤嘉明には10万石→20万石。
この沙汰を知らされた嘉明は怒り心頭!!
家康が50万石への加増を提案したのに、正信が反対し20万石に留まったのです。
怒りの収まらない嘉明は正信と直談判・・・。

「豊臣家に恩がありながら武功をあげた者が大きく加増されれば、恩賞目当てでまた裏切るのでは?と、人に都に大きな疑念を与え、将来、災いをもたらすことになります。
 それでもよければ、更なる加増を考えます。」

正信は、嘉明の子孫の事も考えていたのです。
正信の言葉通り、大幅に加増された福島家、加藤家はおとり潰しの憂き目にあっています。
しかし、正信の一言で、それを受け入れた加藤嘉明の子孫は明治維新まで13代・・・大名であり続けることができました。

正信の処遇は・・・??
正信が大名に列せられたのは53歳の時でした。
幕府成立以降は、相模国玉縄に2万2000石を拝領していました。
他の武将たちが次々と加増を受けても、正信の所領は変わりませんでした。
幾度となく加増の話が家康からありましたが、受けようとはしなかったのです。
「たとえ家が富まずとも、貧しいわけではなく、一生食べていくことができまする。
 それがしにとお考えの領地は、ぜひ武功があったものにご加増をお願い申し上げます。」
そして跡継ぎ・正純に対しても、「3万石を超える加増を受けてはならん!!」ときつく言い含めていました。
人事権を持つ者が、武功をあげずに加増を受けると、周囲の反感を買うと思ったからです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を開きます。
この時、家康は62歳、正信66歳になっていました。
家康はその2年後に、秀忠を2代将軍に付けます。
徳川幕府が世襲制だと天下に知らしめるためでした。
家康自身は大御所となって、駿府からの院政を行います。
正信は江戸で新しい将軍秀忠に仕え、正信の子・正純が家康の側近となって支えます。
どうして秀忠の参謀に着いたのでしょうか?

家康からの伝言を聞けば、全てわかっている正信が秀忠に着いたのです。
そして、正純を家康に育ててもらうという側面がありました。
正信は、江戸幕府を盤石にするために、徳川家臣団の再編成に着手します。
幕府重臣から多くの武功派を粛正する一方、実務能力のある官僚にポストを与えていきます。
正信の標的となった武闘派のひとりが、譜代の重臣・大久保忠隣です。
正信は領地を没収し、一族や親しい大名までも処罰します。
その理由は・・・かつて大久保家に仕えていた金山奉行の大久保長安が、金銀を横領、私腹を肥やしていたことに連座するものでした。
忠隣は、長く家康の天下取りを支え、多くの武功をあげていました。
しかも、父・忠世は正信にとって大恩人でした。
かつて正信が身重の妻を残して出奔した際、ずっと家族を援助していてくれていたのです。
そんな恩人の子である忠隣をどうして処罰したのでしょうか?
私利私欲がなく、清廉潔白・・・しかし、政治はきれいごとでは済まない・・・徳川のために、大久保を処罰したのです。
恩人の息子だからといって許してしまえば、法は立ちいかなくなります。
正信は、戒めの為にも厳しい処罰を下し、江戸幕府の体制引き締めを図ったのです。

江戸に幕府が開かれ、長い戦乱の世が終わろうとしていました。
しかし、徳川家の参謀・本多正信には、生きているうちに決着をつけておかなければならない難題がありました。
大坂城にいる豊臣秀頼です。
1611年・・・家康70歳、秀頼19歳の時に、二条城で会見をします。
現れた19歳の秀頼は、想像以上にたくましく聡明に育っていました。
その姿を見た正信は警戒しました。
秀頼が徳川の天下を脅かす存在になるのでは・・・??
「もし戦が起きたとき、秀頼が求めれば、豊臣恩顧の大名の10人のうち、6人が応じるでしょう。
 早めに征伐を・・・!!」
正信の最後の大仕事が始まりました。
秀頼追い落としの謀略とは・・・??
大坂城に蓄えられた軍資金を減らすために、淀殿の信仰心をくすぐります。
神社仏閣への寄進、建物の改修費用として金銀を湯水のように使わせます。
正信の狙いは、豊臣家を無力化し、淀殿を大坂城から移すことでした。
天下は徳川にあり!!豊臣は無力である!!ことを、知らしめたかったのです。

しかし、徳川の思ったようには行かず、淀殿が大坂城を動くことはありませんでした。
そこで正信は、豊臣家に対し、地震によって崩壊していた秀吉ゆかりの方広寺大仏殿の再建を勧めます。
1614年、豊臣家が巨額の費用をかけて大仏殿を完成させると、徳川方は疑惑を突き付けます。
大仏殿の再建のために鋳造した鐘に見過ごせないものが・・・
その問題とは、鐘に刻まれた「国家安康」・・・家康の文字が分断して呪い、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈っていると非難したのです。
そう、「方広寺鐘銘事件」です。
方広寺鐘銘事件は、完全な言いがかりで、豊臣方は激怒!!
秀頼は、大坂城におよそ10万の兵を集めて籠城、対決姿勢を鮮明にし、最終決戦へ・・・!!
正信の思うつぼ・・・まんまと豊臣方がはめられたのでした。

1614年、大坂冬の陣!!
徳川軍はおよそ20万の兵で大坂城を取り囲むものの・・・最強の城を落とすことは容易ではありませんでした。
自然の川と、幾重もの堀で難攻不落!!攻め込むことはできません。
そこで、この堀を無力化するべく・・・和議を申し出、秀頼の領地を安堵する代わりに、徳川方が大坂城の外堀を埋めるという条件で和議を結びます。
しかし、徳川はその約束を反古にして、外堀どころか、二の丸の堀まで一気に埋め始めました。
病気を理由にのらりくらりと豊臣方をかわし、正信が大坂城に赴いたときにはもう、城は丸裸同然でした。

ここまで愚弄されるとは!!
豊臣方は、再度挙兵します。
これこそ、正信が待っていた瞬間でした。
こうして堀のない大阪城は、大坂夏の陣(1615年)であっという間に落とされ、豊臣家は滅亡・・・
江戸幕府は名実ともに盤石となったのでした。
凄まじい本多正信の策略・・・。
諸国放浪でいろいろな主人に仕え、鷹匠であったことがこの策略、謀略に長けていた理由なのかもしれません。

1597年4月17日、徳川家康は、豊臣家の滅亡を見届けた翌年この世を去りました。
その2か月後・・・6月7日、家康に仕えた本多正信も後を追うように亡くなります。79歳でした。
所領は2万2000石のまま、生涯、つつましく精錬に生きたのでした。
そんな正信の信念は、息子・正純に厳しく言いつけられていました。

「決して3万石以上を拝領してはならぬぞ。」

ところが、正純はその言葉を守らず、宇都宮藩15万5000石を拝領。
すると、謀略が正純を待ち構えていました。
武功もなく出世した本多親子に対して、不満を持っていた重臣たちからの謀略が・・・

1622年、2代将軍徳川秀忠が家康の7回忌のために日光に赴いたとき・・・
正純は、将軍暗殺の疑いをかけられます。
正純の居城・宇都宮城に宿泊予定の秀忠を釣り天井で殺そうとしていると・・・。
根も葉もない作り話でしたが・・・正純は拝領してしまったことで、周囲の嫉妬を煽って、親の言いつけを守らなかったことで、自ら墓穴を掘ってしまったのです。
正純は、将軍・秀忠への謀反の意志ありとして、領地没収、出羽国・横手へ流罪となってしまいました。

父・本多正信の戒めを守らなかった故に、他の重臣たちの謀略で潰されてしまいました。
正純は失脚してしまったものの、正信が作った徳川幕府は平和な世をもたらしました。
もし、正信が家康の参謀でなかったら・・・天下は家康のものとなったのか・・・??

「およそ主君を諫める者の志
   戦いで先駆けするよりも大いに勝る」by徳川家康

本多正信の功績は、どんな武将よりも徳川家康に評価されていたのでした。



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天を衝く〈上〉―秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実

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日本各地の山々に残された不思議な建造物・・・それは、戦国時代の山城です。
その数およそ5万!!
山城は、戦国武将たちにとって、生き残りをかけた知恵の結晶でした。
戦国最後の戦い・・・奥州・九戸政実の乱!!

1590年7月、関東の覇者・北条氏が滅亡!!
しかし、秀吉は、これで天下統一を成し遂げたわけではありませんでした。
天下の覇権を目指す秀吉の飽くなき野望はとどまることを知りません。
出羽、奥州、東北の果てまで攻略し、仕置きをせよ!!
奥州仕置・・・それは、秀吉の天下統一最後の総仕上げです。
しかし、東北各地では、反乱の火の手が拡大!!
これに対し秀吉は、苛烈な命令を下します。

「百姓以下に至るまでなで切りにせよ!!」by秀吉

戦いの最後の場所となったのは、岩手と青森の県境にある九戸城・・・戦国武将・九戸政実の居城です。
秀吉軍総勢14万VS九戸軍5000!!
圧倒的な兵力差の中、政実はどうやって戦ったのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代の東北・・・北奥羽では、九戸氏と南部氏が台頭。
この九戸氏の当主が九戸政実です。
残された資料も少なく、その素性も定かではありません。
ところが・・・室町幕府の有力大名を列挙した記録に織田信長、北条氏政・・・全国の名だたる大名が居並ぶ中、九戸政実の名が・・・!!
政実の実力が、室町幕府に認められていた証です。
北奥羽で勢力拡大を図る政実の運命を大きく変えたのが・・・
小田原の陣の後に行われた、豊臣秀吉による”奥州仕置”です。
仕置きとは・・・大名の領土の確定を行う国分、検地、刀狩りを実施する事です。
国分により多くの大名が領地を没収、転封を余儀なくされました。
奥州の雄・伊達政宗は大きく減封、周りに豊臣政権(蒲生氏郷・最上義光・木村吉清)の支配地が置かれ、東北の勢力図は一夜にして書き換えられました。
秀吉の命令は苛烈を極め、もし命令に背く者があれば、城主であればその城に追い入れて断じ、一人残らずなで斬りにせよ・・・!!
百姓以下に至るまでことごとくなで斬りにせよ!!
後世、”撫で斬り令”とされる欧州仕置きの基本です。
東北各地で反乱が起き始めたのは、仕置きを終えた秀吉軍が帰国してすぐの事です。
出羽国で始まった仙北一揆を皮切りに、庄内・葛西・大崎・和賀・稗貫でも一揆が立て続けに起きます。
どうしてこれだけ拡大したのでしょうか?
秀吉が東北地方に進軍を始める7月・・・北条を攻め落としてから間がありません。
秀吉配下の武将たちは、本州北端まで土足で行って検地・刀狩りをする・・・秀吉体制を強制していっていました。
大きな歴史的変化をたった2か月でやろうとしたのです。
秀吉政権の検地の目的は、全国統一の基準で田畑の広さを図り、土地の耕す権利の明確化にありました。
その結果、年貢の徴収権を持っていた地侍や寺社勢力など、村々の有力者権利は剥奪されていきました。
それが一揆となって爆発しました。
この頃の一揆は、一種の内乱で、葛西・大崎一揆、和賀一揆などは、城に籠って籠城戦を展開していました。
兵対兵の戦いだったのです。
こうした一揆鎮圧のために、あらゆる手段を使う秀吉軍・・・村々から人質を取っていました。
その人質のリストが残っています。
人質の殆どが、老人や子供でした。
東北の一揆の人々が頼りにしたのが、九戸政実でした。
政実の宿敵・南部信直は、北条降伏の翌日・・・1590年7月6日に秀吉に謁見。
その傘下に入りました。
信直に続いて、東北の武将が、つぎつぎと秀吉の軍門に下っていきます。
南部信直の安堵状には、
「南部の七郡はすべて信直に任せる。
 家中の者共の城をことごとく破却し、その妻子はことごとく人質にせよ。
 以上、背けば豊臣政権が成敗する・・・」
一枚の書状によって、九戸政実は、宿敵・南部の配下に入らざるを得なくなります。
政実にとって到底受け入れられるものではありませんでした。

1591年1月、九戸政実蜂起!!
すぐに豊臣政権の知るところとなります。
3月、九戸軍は、南部氏の居城を襲撃!!勝利を得ています。
政実の元には、秀吉に不満を持つ東北各地の武士が集結!!
その数5,000!!
6月20日、秀吉は諸大名に仕置きを命じます。
奥州再仕置です。
この、政実討伐こそ、奥州再仕置の目的でした。

これは、豊臣秀吉よる新しい国家建設の仕上げでした。
目指していたのは古代の律令制にあるような公地公民制・・・
すべての土地は天皇家のものであって、その下の官僚たちが治め、天皇家の代わりに秀吉が関白となって全部差配する・・・という体制です。
これに対して、東北は、非常に古い体質で、厳しい土地柄をみんなで協力して生活していました。
つまり、上下関係や従属関係が厳しくなかったのです。
みんな一緒に暮らし、みんな一緒に生きていくという思想が強かったのです。

九戸政実は、どのようにして秀吉の大軍と戦ったのでしょうか?
九戸城・・・圧倒的な土壁です。
防御の特徴は、その独特の土壌にありました。
火山灰に由来する土壌で、垂直の断面です。
石垣よりもスゴく、守るには理想的でした。
城の総面積は、36ha・・・東京ドーム7個分の広さです。
九戸城は、城の外郭を川で防御した河岸段丘に築かれた強大な城郭でした。
東北の中でも、屈指の大きさのお城でした。
武士だけの城ではなく、いざという時には地域の人たちも一緒に逃げて来て一緒に戦う・・・地域の人の安全保障をする施設・・・それが、東北の城でした。
戦場では、放火、略奪、乱暴狼藉・・・ありとあらゆる暴力が行われていました。
城は、領民にとっての安全な避難場所でした。

1591年8月6日、九戸征討軍の総大将・豊臣秀次、徳川家康が日二本松に到着。
蒲生氏郷をはじめ、名だたる武将が参陣しました。
その数14万!!
対する政実軍・・・5,000!!
1591年8月、秀吉軍14万は、二本松で軍を分け、蒲生氏郷軍を主力(浅井長政・井伊直政)に北上を開始。
時を同じくして出羽方面から秋田実季が、青森や北海道の武将たち・・・津軽為信・松前慶広・・・総勢6万5000の大軍勢!!
戦いの激戦地となったのは、九戸政実の宿敵南部信直が布陣した城の北東部でした。
城内の一見平たんに見える台地上には、大きな堀を巡らせることで、それぞれ独立した曲輪が築かれていました。
敵が場内に進入した場合、四方にある曲輪の上から堀の中の敵を狙い撃ちにすることができました。

9月2日、九戸城に対し、秀吉軍の一斉攻撃が始まりました。
しかし・・・大軍勢で九戸勢を侮り、城の堀に力づくで登ろうとし、城内の手練れに弓矢鉄砲で倒され手数を負うこととなります。
戦線は膠着状態に・・・!!
圧倒的な兵数で勝る秀吉軍なのに、九戸城を前になすすべなし!!
そこで・・・政実の菩提寺・長興寺の住職を城内に向かわせて、降伏を勧告します。

「早く降伏し、天下に対し逆心無きことを都に上り申し開きすべし。
 そうすれば、一族郎党の命は助かり、また、九戸の武勇が関白のお耳に入れば功名となり、領地が与えられるはずである。」

しかし、政実の家臣たちは、降伏勧告に対して強硬に反対します。
果たして降伏を受け入れるのか?否か??

秀吉軍にとっての大問題は兵糧でした。
豊臣家の重臣・浅野長政の書状にも・・・
「九戸城へ上方軍の大軍が殺到すれば、兵糧の手配は各々で準備させなければならない。」とあります。
戦国時代、武士の兵糧至急は、1日5合。
現地に派遣された豊臣兵・・・6万5000となると、1日325石が必要・・・米俵にして812俵、運搬するのに400頭以上の馬が必要でした。

あとひと月すれば雪が降る・・・上方の兵は、とてもこの寒さには耐えられない・・・。
日本国中を敵に回して戦い・・・後詰もない中、どう終わらせるのか・・・??

1591年9月4日、政実は降伏を決断します。
頭を丸め、秀吉軍の前に出頭します。
しかし、秀吉軍の大将・蒲生氏郷はこう命じます。
「城から落ちるものがあれば、女子供と言えども、一人残らず切り捨てよ!!」by氏郷
約束を反故にされ、捕らえられた政実は後に斬首・・・享年56と伝わっています。
城内になだれ込んだ秀吉軍は、乱暴狼藉の限りを尽くし、籠城した九戸勢は城の二の丸に押し込められます。
四方より火が離され、そこから逃れようとした者はすべて斬殺されたと伝わっています。

九戸城落城の後、豊臣政権は城の名を「福岡城」と改めさせますが・・・
昔から地元の人は、愛着を込めて「九戸城」と呼んでいます。
お城があって、武士がいて・・・一緒に地域のことを考えて、みんなで決めていく。
しかし、強力な豊臣政権による地域での個々の争いを無くすことの平和。
秀吉の天下統一は、「九戸の乱」「北条氏の戦い」の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけません。

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三重県松阪市の城下町です。

松阪と言えば・・・牛肉の産地。。。

式年遷宮を迎えた伊勢神宮の近く。。。

伊勢国に栄えた松阪商人の城下町。。。

そこは、信長イズムの継承者・蒲生氏郷の城下町でした。


松阪城は守りの城。。。

この城を築いたのは蒲生氏郷。

uji

豊臣秀吉時代に会津若松城主にまで上り詰めた蒲生氏郷は、会津入国の2年前・・・

1588年に松坂城を築きました。

かつては連結式山荘五階建ての城が建っていました。


金箔瓦が使用されている絢爛豪華な城でした。

蒲生氏郷は、1556年近江日野に生まれました。

13歳で天下布武を掲げる織田信長の元へ人質に・・・

小姓として目をかけてもらった氏郷は、後に家臣となるのでした。


信長の作った岐阜・安土は楽市楽座・・・

これを実践したのが松坂でした。

信長の戦手腕を見習っただけでなく、経済に特化した斬新な町づくりも見習った。。。そこが松阪でした。

近江から商人を招き、城下で楽市を開き、松阪を商業都市として発展させていきます。

2年ほどしかいなかったものの、現在でも城下町では毎年蒲生氏郷を称えて武者行列が行われています。

今もなお松阪の人々に愛されているのです。


御城番屋敷では、江戸時代の武士の組屋敷が現在も住居として使用されています。

中町には和菓子屋・柳屋奉善さんが。。。

天正3年創業のこの古い和菓子屋さんには蒲生氏郷ゆかりのお菓子が。。。

初代は近江で・・・蒲生氏郷と共に松阪にやってきました。


”老伴(おいのとも)”というお菓子は、創業以来変わらないお菓子で。。。

最中ですが・・・裏返すと赤い羊羹が。。。

後に”利休七哲”と呼ばれる氏郷が考案したお茶会用のお菓子で、信長の思想がつまったお菓子です。

初代の命じて作らせたものです。


oi

この時代、京都でも2,3軒しか羊羹を作っていませんでした。

出来たばかりの最先端の羊羹をわざわざ赤に染めました。

信長の好きな赤・・・


信長の赤好きは有名で、近江八幡名物・赤こんにゃく、安土城の屋根も赤・・・赤にこだわっていました。

そんな信長をもてなすために、最先端の羊羹をわざわざ赤に染めたのでしょう。

丸い赤・・・それは朝日、日の丸・・・日出づるところの・・・”日章旗”です。

戦国時代にはすでに使われていて・・・


戦国時代、武田信玄・・・織田信長・・・徳川家康・・・誰もが掲げていて・・・

「天下をしょって立つ者」であり、武家の頂点に立つ者・・・「源氏の象徴」でした。

この事から、日の丸に使われていた赤は、天下統一に繋がり・・・信長か好んでいたと言われています。

そのために羊羹も赤く染められたのです。


小津家は・・・松阪・江戸で紙問屋を開き、莫大な財を築いた豪商です。

全国の長者番付に載っており、万両箱があり・・・それぐらいのもうけはあったと言われています。

長者番付にはほかにも・・・越後屋(三井家)が・・・

彼等は松阪商人と呼ばれ、江戸時代近江商人に引けを取らないくらい名前が轟いていましたが・・・
その生みの親も蒲生氏郷だったのです。


松阪に一大商業都市を築くため、楽市を行うだけでなく・・・半日でいける伊勢神宮も。。。
参宮街道はもともと海側を通っていましたが、城下町の・・・町中を通したのです。

伊勢神宮の参拝者を城内に取り入れるようにしたのです。

これが成功し・・・街道には、各地から呼び寄せた商人たちも楽市をし・・・そこに伊勢参りの参拝者が立ち寄り。。。商人たちは潤って・・・松阪商人として繁栄を極めていくのです。


ここ松阪は、伊勢に向かう最終の宿場であり、最初の宿場となりました。

氏郷が亡くなり、お伊勢参りの一大ブームが来ます。

江戸時代の日本の人口は3000万人。。。

お伊勢参りの最盛期には・・・伊勢神宮参拝者は年間500万人だったと言われています。

松阪から伊勢神宮までは30㎞・・・氏郷が街道を整備したおかげで、買い物・宿・・・狙い通りの城下町となりました。

草鞋が飛ぶように売れ・・・数々の参拝者で賑わい、潤ったと言われています。

そこには・・・参拝犬もいました。

犬のお伊勢参りは、何度も記録にのこされています。

生まれた理由は、伊勢への参拝が・・・江戸時代には大変困難だったからだと言われています。

庶民にとっての憧れお伊勢参り。。。

体力に自信のなかった人々は、住所と伊勢参りをすることを記した紙を風呂敷に包み・・・

犬にお伊勢参りを託したのです。

帰りも頼んだそうです。


そう言えば、先日お伊勢さんにお参りに行った際に、犬のおみやげがたくさんありましたが、その為ですね。

人々も、自分たちは伊勢神宮の近くに住んでいることをありがたく思い、おもてなしをしたといいます。

このおもてなしのおかげで・・・快適なお伊勢参りでした。


伝統産業は・・・”松阪もめん”。

織物の里・松阪。。。

古より高度な技術を誇りっていました。

”神御衣祭”・・・神々の衣として伊勢神宮に奉納されていたからです。

そんな織物の里では・・・戦国時代に木綿が盛んとなり、縞模様の”松阪木綿”を生んだのでした。

これが松阪商人発展の礎と言われています。


三越・・・三井グループの祖・三井高利は、後に江戸や京都で店を出して大成功を収めるのですが。。。

この成功を支えたのが松阪木綿でした。

当時1反ずつ売っていた反物を・・・どれだけでも好きなだけ・・・という売り方で・・・おまけに現金掛け値なしで売ったのです。

この売り方ははじめてのことで・・・江戸で大ヒットさせます。


「松阪嶋」・・・縞ではなく、嶋なのは・・・

鎖国以前、東南アジアと交易をしていて・・・東南アジアのことを嶋と呼んでいました。

嶋わたりなので、”嶋”なのだそうです。


このストライプ模様・・・江戸で販売したところ、江戸庶民の心をつかみ・・・評判となり・・・

歌舞伎役者も縞模様を着ることを”松坂を着る”と言ったと言われています。


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松阪牛は・・・「和田金」が明治11年創業で元祖です。

文明開化のシンボルとなった牛鍋。

和田金はみそ味だった牛鍋を、現在の醤油味にした・・・すき焼き発祥の地と言われています。


蒲生氏郷が作った松阪の城下町、今に繋がる大商人を生み出した商人の町。。。おかげさまの精神がはぐくまれました。
今なお受け継がれるおもてなしの心で旅人を包んでくれる城下町でした。


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今回は、猪苗代湖を望む東北の要所、「会津若松の城下町」です。

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幕末、白虎隊の会津です。。。

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なかなか遠くって、行ったことがありません。
行きたいなあ・・・。黒ハート

福島県会津若松市 人口12万4881人、面積383.03㎢、特産は会津漆器、赤べこ、馬刺しです。

古くから東北の要所とされてきた会津若松、この城下町を作り上げたのは、天下取りの器と称されながらも40歳という若さで亡くなった蒲生氏郷です。

氏郷が作り上げた忠義の武士道は、「会津武士道」とよばれ、戦国、幕末、今現在まで受け継がれています。

武士道の心を今も残す、会津若松の城下町とは???

鶴ヶ城です。
鶴ヶ城の歴代城主は・・・
葦名氏⇒伊達氏⇒蒲生氏⇒上杉氏⇒加藤氏⇒保科氏⇒松平氏です。

会津地方は、昔から数々の有力武将が治めていました。
特には、蒲生氏郷の92万石の領地です。

通称・鶴ヶ城、正式名称は若松城・五層七階の天守閣です。

今の城主は「お城ボくん」です。
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このお城と城下町を作ったのは、会津藩主蒲生氏郷です。
織田信長に愛されて、豊臣秀吉に最も怖れられた男です。

小説蒲生氏郷
小説蒲生氏郷


1568年観音寺城の戦い。
この戦いで織田信長に敗れた蒲生賢秀の長男です。
その後人質として織田信長の庇護の元で暮らします。

そこで、たぐいまれな才能を発揮します。
織田信長の配下として、常に先陣を切った氏郷、特徴のある鯰尾形兜、
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燕尾形兜をかぶり、その圧倒的な強さを敵に見せつけました。

また、茶道でも、千利休の筆頭弟子として茶の湯への深い理解を持っていました。

まさに文武両道、信長の信頼を得て、信長の娘・冬姫を正室に迎え入れます。

信長の死後、秀吉に仕えますが・・・
冷遇されます。
秀吉は、冬姫をもらいたかったらしいのです。

あまりにも怖れていたため、秀吉は毒を盛って氏郷を毒殺しようとしたという噂が流れるほどでした。

氏郷をおひざ元に置かず、遠く離れた会津に配置します。
しかし、ここでも才能を発揮。

会津の城下町を発展させ、4年間で42万石から92万石の大大名に成長します。
こうして氏郷が手腕を発揮すればするほど、警戒心を強める秀吉・・・。

そして、2人の関係を決定づける事件が・・・

鶴ヶ城城内にひっそりと建つ庵・・・それは、千利休の息子・千少庵が建てたものです。
どうして、ここに茶室を作ったのでしょうか?

千利休は、秀吉に関わったことでその生涯を断たれることになります。
そう、有名ですよね。京都・大徳寺三門に置いた利休の銅像・・・

そこを通ることになる秀吉・・・

天下人の怒りをかった利休は、切腹となります。
その怒りは、千家一族にも及びました。

そこで、氏郷が、千少庵をかくまったのです。
お茶の千家を守ったのです。

が、これが、2人の間に大きな溝を作ります。

1592年朝鮮出兵。有力大名が、九州に集められます。
東北で絶大な勢力を持っていた氏郷、会津から佐賀県の唐津に向かいます。
そこで開かれた茶会の席で・・・

お茶に毒を入れたと言われます。(蒲生氏郷暗殺説です。)
この茶会を境に体調は急変・・・40歳という若さで亡くなるのです。

義の武将・蒲生氏郷が築いた城下町とは???

会津では、古くから、剣道や茶道など、武士道に通づる文化が重んじられてきました。

当時もっとも大事にされていたのが、鍛冶職人。
蒲生氏郷が取り入れた職人文化が、今も根付いています。
唐人凧、会津のこぎり、赤べこ、会津漆器、絵ろうそく・・・


起き上がり小法子には特に思い入れがあります。
一説には、氏郷が、舅の信長のだるま信仰を受け継ぎ、何度転んでも起き上がる、七転び八起きの精神を庶民にも解りやすく説くために作ったと言われています。

この精神が、今も会津には根付いています。


地方を海に囲まれた会津では、魚は貴重なタンパク源、特に鯉は、お祝いごとに・・・重用されました。

鯉の甘煮が有名です。
コラーゲンたっぷりの美容食です。

会津磐梯山に欠かせなかったのが、「宝の山とキリシタン」

かつて、この周辺からは、豊富に金が採れました。会津藩の発展の陰にはこの金の存在があったと言われています。
氏郷は、キリシタン大名です。洗礼名は「レオ」
そう、キリシタン大名になったのも、この金の為なのです。
キリシタンたちの、金の採掘技術を手に入れるためだったと言われています。

あいづっこ宣言

あいづっこ宣言 500[1].jpg

こちらに記された言葉の最後・・・
「ならぬことは ならぬものです」
ここに、会津に隠された歴史、そして会津精神の原点があります。

時は幕末、戊辰戦争・・・
激しい戦いが行われたのは、会津でした。

会津藩9代藩主・松平容保。
官軍との戦いに備えて・・・
その時に、白虎隊も作られました。

会津藩の子供たちは、什の掟を守って生きていました。
それは・・・
1つ 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2つ 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
3つ 虚言を言うことはなりませぬ
4つ 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5つ 弱いものをいじめてはなりませぬ
6つ 戸外で物を食べてはなりませぬ
7つ 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

道徳心や礼儀作法が学べます。
幼年期から士道の基礎を学んだのです。
これが、あいづっこ宣言となりました。

会津藩校「日新館」では。。。

白虎隊の少年たちも10歳の頃からここで学んでいました。
会津藩では、藩士の子供たちには日新館に入ることを義務付けていました。
そして、武士の養成学校として、厳しい教育が行われていました。

漢文の教科書で学びます。
平均は6年で卒業できましたが、落ちこぼれだからと言って勝手に自主退学は出来ません。
最高で、35歳まで卒業が許されませんでした。
かなりの屈辱です。

天文学も学んでいました。
中国では、東西南北をそれぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武と表しました。
白虎隊は、西方の守り、白狐からとりました。

戊辰戦争では・・・

玄武隊・・・・50歳以上の武家の男子
青龍隊・・・・36歳から49歳までの武家の男子
朱雀隊・・・・18歳から35歳までの武家の男子
白虎隊・・・・16歳から17歳日新館の少年

で構成されていました。

新政府軍と最後まで戦い抜きました。
戦争が激化する中・・・

会津娘子(じょうし)軍が構成されます。
籠城戦を繰り広げた会津戦では、女性も戦いました。

そのなかに、白虎隊と深いかかわりを持つ女性がいました。

”山本八重”のちの新島八重子です。
一昔前の時代劇で、田中良子さん、スーちゃんがしていましたよね。
あの年末時代劇「白虎隊」大好きでした。

白虎隊 山本八重子を演じるスー(田中好子)ちゃん



もともと、砲術師範の家で育った八重は、鉄砲の名手で白虎隊に砲術を教えていました。

八重は会津戦争で、アメリカの銃を持ち、男装をして戦ったと言われています。

若くて賢いエリートの少年たちが、会津の為に戦う!!
ならぬことはならぬの精神です。
会津の教えなのです。

すべては会津を守るため・・・
この地に若き命を捧げました。

自身の跡からは、会津が一望できます。
白虎隊19士は、飯盛山から炎に包まれた城を見て自刀を決意します。

この白虎隊19士を偲ぶ碑には、現在でも献花が絶えません。

そうなのよね。。。
この時まだ城は落ちていなかったのに。。。
隊長とはぐれてしまったのが一番いけなかったんでしょうね。。。バッド(下向き矢印)
いつも涙してしまいます。


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