今からおよそ1100年前・・・京都御所清涼殿を落雷が襲いました。
ある者は胸を焼かれ、ある者は顔を焼かれ・・・一瞬にして都を恐怖のどん底に陥れた雷神・・・
人々はこの雷神の正体は、あのお方に違いないと噂しました。
菅原道真です。
平安時代のはじめ、類まれな学問の才能を発揮し、右大臣にまで上り詰めた男です。
しかし、突然・・・無実の罪で、九州の大宰府に左遷させられ、非業の死を遂げることとなります。
当時都で起こった災いは、怨霊の仕業だと人々は恐れおののきました。
ところがその後、一転、天神様として崇められるようになります。
今や、道真を祀る天神社や天満宮は、全国で2000を数え、毎年催される天神祭りは大勢の人々でにぎわいます。
その信仰は、1000年の時を刻み、日本人に定着していきました。
どうして道真は怨霊となり、天神様となったのか・・・??
神となって今も生き続ける菅原道真・・・不世出の英雄の実像とは・・・??
平安時代に都がおかれた京都・・・845年、御所の南で道真は生まれました。
菅原家は代々学問で朝廷に仕える中級貴族でした。
祖父、父はともに貴族の教育機関の大学寮の学者として名高く、文章博士を歴任しました。
文章博士の定員は2名・・・漢文学のエキスパートとして、その学識を元に天皇の諮問に応える重要な役割を担っていました。
道真も、儒学、漢文学を極めようと勉学に励みます。
道真の使った国宝・青白磁円硯が残っています。
この硯を肌身離さず持ち、書や詩を認めては、帝や貴族に献上したといいます。
家の名に恥じない学識をもって、朝廷に奉仕する・・・道真の文人官僚としての気概が伝わってきます。
そして33歳の時、努力は実を結び、道真は文章博士に抜擢されます。
ところが、喜びもつかの間・・・父親が道真の前途を心配し始めます。
「菅家文草」には・・・
「お前がこれから頼る相手もない孤独な存在になることが悲しい
文章博士は高官ゆえに、人はお前を妬み、嫉むだろう」
そして、文章博士となって間もなく、父の言った通り、私を誹謗中傷する声が周囲から聞こえてくるようになった
とあります。
しかし、道真は、周囲の誹謗中傷にもめげず、朝廷の政治を支えていきます。
そんな道真の才能が発揮される事件が起こります。
887年、宇多天皇が21歳で即位
当時の朝廷は、地方財政が破たんし、税収が破たんしていました。
宇多天皇は問題山積の打開のために、政治改革に情熱を燃やしていました。
頼りにしたのが、朝廷一の実力者であった太政大臣・藤原基経です。
ところが、この基経に対する天皇の詔が大問題となるのです。
そこにはこう書かれていました。
”宜しく阿衡の任を以て卿の任と為すべし”と。
どうか、阿衡の約束について私を手助けしてほしい
基経は、この阿衡という役職に異議を唱えます。
中国の古典では、阿衡は政治権限のない名誉職に当たるとして政務をボイコットし、出仕しなかったのです。
即位早々、宇多天皇は追いつめられてしまいます。
学者たちは、基経に迎合するばかりで、政務の停滞は1年に及びます。
ところが・・・基経に宛てた道真からの書簡が、事態を収束に向かわせます。
”文章を作る場合、必ずしも古典の言葉の意味を正確に引くのではなく、そのときそのときの状況のあわせて用いるのが常です
それをこのように咎められ、罰せられることが先例となったら、これから先、我々のような文章を作る者は、みな罪を免れないことになるでしょう”
身分が上であっても、臆すことなく意見した道真・・・基経は1年ぶりに政務に復帰します。
事件を解決に導いた道真は、宇多天皇から厚い信頼を寄せられるようになり、更なる出世への足掛かりとなります。
しかし、それが道真を窮地に追い込むことになろうとは、知る由もありませんでした。
道真が47歳を迎えた891年、朝廷に君臨した藤原基経が死去・・・
宇多天皇は自ら主導権を握って、政治改革をしようとします。
この時、天皇がブレーンとして重用したのが道真でした。
道真自身も、帝のためならばと、堂々と諫言を行い、政務に励みます。
当時、懸案だったのが、遣唐使派遣でした。
894年、宇多天皇は、遣唐使派遣を決定。
およそ60年ぶりの事でした。
大国・唐との交流を復活させることで、朝廷の威信を復活させることが狙いでした。
道真を遣唐大使に任命しました。
ところが道真は、唐の政治情勢が混乱を極めているという情報を得ていて、
「今は帝のご意思であろうと、唐に使節を派遣すべきではない」と宇多天皇に進言します。
”国の大事、独り身のためにあらず”
すると天皇は、道真の意見に従い、一大事業だった遣唐使の派遣を中止したのです。
なぜ、宇多天皇はこれほどまでに道真に信頼を寄せたのでしょうか?
宇多天皇が、もともと父・光孝天皇が位についたときに、一旦源性を賜わって、臣籍となっているということもあって、近臣という人たちを持ちませんでした。
宇多天皇にとって、自分を本当に支えてくれる人というのを求めていたのです。
信頼のおける、能力もある、しかし、欲望はない・・・
道真は、上司から見ると、最高の部下だったのです。
その後も、道真は、宇多天皇の側近として活躍、朝廷を支えていきます。
ところが、不穏な事態が起き始めました。
897年、道真の後ろ盾だった宇多天皇が、息子・醍醐天皇に譲位・・・
自らは上皇となります。
宇多上皇は、まだ若い醍醐天皇の補佐役に、道真と藤原時平を任命します。
時平は、道真よりも26歳も若かったが、無くなった基経の嫡男として重んじられます。
当時、朝廷の中枢に関わる参議以上の貴族は、公卿と呼ばれ、学者、文人がその地位につくのはまれでした。
道真は、この時すでに権大納言に昇進、大納言・時平に次ぐ地位でした。
宇多上皇が若い醍醐天皇に政治の心得として贈った”寛平御遺誡”・・・そこには、時平と道真に頼るようにと書かれています。
”時平は、功臣の子孫であり、若くして政務に熟している 頼りにせよ”
”私は道真を特に登用し、的確な助言を得た
道真は、私にとっての忠臣であるだけでなく、そなたにとっても功臣であることを忘れてはならない”
宇多上皇は、時平に配慮しつつも、道真を重用するようにとのメッセージを醍醐天皇に送ったのです。
譲位から2年後、宇多上皇は法皇となりました。
そして、平安京西北の郊外に広大な敷地を持つ仁和寺を建立・・・ここに移り住むようになります。
御室御所ともよばれたこの場所で、表向きは政治から身を引きつつも、依然として大きな影響力を与え続けました。
学者でありながら、藤原氏と並ぶほど昇進を重ねた道真・・・
時平に対し、自らの無欲を訴えるかのような詩を詠んでいます。
”私はすでに上皇と天皇から無限の恩をいただいており、己の分をわきまえることを知っております。
この上、渇望することなど、何もございません”
しかし、899年、道真と時平に官位昇進の宣命を発しました。
道真を右大臣に、時平を左大臣に・・・
道真は、遂に朝廷のNo,2にまで上り詰めたのです。
これに対し、身分不相応だと、周囲の反感は最高潮に達し、誹謗中傷の嵐が道真を襲います。
学者としては異例の栄誉・・・右大臣就任を受諾するのか?固辞すべきか・・・??
道真は厳しい選択を迫られていました。
醍醐天皇から道真に言い渡された右大臣への任官・・・平安時代の貴族社会では、天皇から昇進の宣命を受けても、2度3度、断るのが習わしでした。
道真も、三度にわたって辞表を提出・・・そこには、悩みぬいた切実な思いが吐露されています。
”右大臣昇進の銘を受け、私は夜も眠れず、食事も喉を通りません
私が栄華を手にすれば、骨をもとかすような誹謗中傷の嵐が私を襲うことでしょう”
しかし、辞表は受け入れられず、899年、道真は右大臣に・・・この時55歳でした。
道真はどんな思いで右大臣の座にいたのか・・・
就任から1年経った頃、宴会の席で醍醐天皇の前でこんな詩を作っています。
丞相年を度りて 幾たびか楽しび思える
私が右大臣となり1年がたちました
悲しい思いをしたことなど、幾たびあったでしょう
そんな時は、ほとんどありませんでした
するとその翌月、道真の元に同じ文人官僚から辞任勧告場が届きました。
”来年は革命の年である
ただの学者から大臣にまで上り詰めたあなたは、命を奪われる危険が最も高いので、大臣をやめて隠居すべきだ”
そしてその僅か3か月後・・・901年、大宰府に左遷との詔が、突然醍醐天皇から発せられました。
”学者の家から大臣にまで昇進しながら、分をわきまえず、権力をわがものにしようとし、宇多上皇を欺き惑わせた”
道真は、謀反の罪に問われたのです。
右大臣就任から2年・・・急転直下の天皇の詔・・・いったい何が起こったのでしょうか?
平安王朝最大のミステリーです。
道真はどうして左遷させられたのか?首謀者は誰なのか?
謎を解く手がかりは、道真の波乱の生涯を描いた”北野天神縁起絵巻”に描かれているといいます。
藤原時平が左遷への一番の中心人物だとされています。
首謀者は藤原時平・・・??
道真の躍進を恐れた時平が、道真を排斥する為に罪状を天皇に進言・・・
それが大宰府への左遷につながったといいます。
もう一つの説は・・・??醍醐天皇だった・・・??
宇多上皇と道真はつながっていて、それが不安材料だったというのです。
醍醐天皇の不安・・・それは、皇位継承をめぐる宇多上皇との確執にありました。
醍醐天皇の異母弟・斉世親王と、道真の娘が結婚していました。
醍醐天皇に皇子が生れない状態が続いたならば・・・宇多上皇が斉世親王を立てると言い出すかもしれない・・・!!
政治に影響力を持つ宇多方法が、道真と組んで斉世親王を皇位につかせるかもしれない・・・!!
そんな醍醐天皇の不安が左遷の引き金になったのでは・・・??
道真を大宰府へと追いやったのは誰なのか・・・??
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
主なしとて 春を忘るな
左遷の命を受け道真が詠んだ歌です。
もう、二度と都の土を踏むことはない・・・悲哀と覚悟が伺えます。
北野天神縁起絵巻の中に・・・大宰府に船で向かう道真とその従者たちの場面が描かれています。
船の舳先の周辺には、得体のしれないh市議な怪しい魚の姿がいくつも描かれています。
非常に苦しい生活、悲しい生活を暗示しています。
大宰府での暮らしぶりは・・・
粗末なあばら家で、無念そうな従者たちを前に、醍醐天皇から賜った衣に涙する道真・・・
道真は、自らの運命を嘆き、こんな詩を詠んでいます。
”恩賜の御衣は 今此に在り
捧げ持ちて毎日 余香を拝す”
ちょうど一年前、宴の席で帝が授けてくださったお着物は、今こうして配所にも携えてきております
毎日、このお着物に薫きしめられた残り香に、帝を偲び、帝をお慕い申し上げているのです
大宰府に左遷されて2年後の903年・・・深い絶望と孤独の中、道真は死去・・・59年の生涯を閉じました。
その後、怪事件が次々と都を襲います。
道真の死から6年後、醍醐天皇に重用され権勢をほしいままにしていた藤原時平病死、天皇の皇子たちも次々と亡くなっていきました。
貴族たちを震撼させた死の連鎖・・・
台風、洪水、疫病・・・災いがおさまることはありませんでした。
まことしやかに囁かれたのが道長の祟りでした。
慌てた醍醐天皇は、道真を右大臣に復帰させ、大宰府左遷の詔を焼却、道真の霊を慰めようとしました。
しかし、災厄は続きました。
930年、清涼殿落雷事件・・・醍醐天皇のいる内裏の清涼殿を、突如落雷が襲います。
雷神となった道真の怨霊とされました。
稲妻を浴び、身体を焼かれ命を落としたのは、道真の左遷を見て見ぬふりをした公卿たちでした。
その三か月後、心身に異常をきたした醍醐天皇が崩御・・・
道真の霊を慰めなければ、都に安泰が訪れることはない・・・
そこで、平安京の北西に、道真を祀る社が建立されます。
北野天満宮です。
御霊信仰・・・疫病をもたらす怖い神様・・・
しかし、きちんとお祭りをすれば御利益のある神様になる。。。
怨霊から天神様へとなって行ったのです。
今では道真を天神様として祀る天満宮・天神社は、全国に1万2000社あるといわれています。
学問の神様としてだけでなく、五穀豊穣、開運招福・・・いろいろな御利益のある神様として多くの信仰を集めています。
誠の神、書道の神、詩歌の神・・・いろいろな神となっています。
道真は、実際に平安時代の中ごろにかけてこの世に出現した人間が、1万2000社になって行ったのは、庶民の信仰そのものだったのです。
毎月25日、道真の命日に北野天満宮で天神市が開かれ、大勢の参拝客でにぎわいます。
道真が非業の死を遂げてから千年以上・・・今も、道真を畏れ、敬う気持ちは人々の心に生き続けています。
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