日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:藤原秀郷

今から1080年ほど前の平安時代中期・・・
関東と瀬戸内・・・日本の関東と瀬戸内で同時に反乱が起きました。
平将門の乱と藤原純友の乱です。

言い伝えによると・・・
”比叡山の山頂で、平将門と藤原純友が平安京を見下ろしながら、反乱が成功した暁には桓武平氏の流れをくむ将門は天皇に、純友は関白になる約束をした”

とあります。

天皇の血を引く平将門と、藤原北家の血筋である貴族・藤原純友が共謀して反乱を企てたというのです。
平将門と藤原純友が共謀して反乱を企てたという噂は、平安当時から広まっていたと言われています。
関東と瀬戸内で同時に反乱を起こす!!
朝廷は大混乱、京の都に攻めてくるのではないかと不安に駆られました。
貴族たちを恐怖と不安に陥れた前代未聞の東西同時反乱は、本当に共謀だったのでしょうか??


平将門・・・若き日の挫折
貴族の藤原氏が、天皇を補佐する摂政や関白になり実験を独占する摂関政治が始まった平安時代中期・・・
910年、平将門は桓武天皇のひ孫である高望王の三男・平良将の子として生まれました。
下総国を本拠地としていた父・良将は、北方の守りの要である鎮守府将軍を務める武勇優れた男でした。
将門は、当時の地方豪族の私邸たちと同じように、中央で官職につくため十代で京の都へ・・・
藤原忠平に仕えます。

時の帝・朱雀天皇の伯父に当たる忠平は、当時公卿の七割を占めていた藤原氏のTOP・・・朝廷内で最も力を持っていました。
その忠平の力添えもあって、将門は、宮中で天皇の警護を行う滝口武士に任じられます。
このままいけば、官位を授かり出世・・・エリートコースを約束されたようなものでした。
ところが、父・良将の死によって、人生は一転・・・無位無官のまま下総国戻ることを余儀なくされました。

藤原純友・・・若き日の挫折

将門よりも25歳ほど年上だったといわれる藤原純友は、藤原氏の一族である藤原北家の良範の子として生まれました。
幼い頃は、父・良範の赴任先である大宰府で武芸に励んだと言われています。
ところが、純友もまた10代半ばで父を亡くし、後ろ盾が無くなったことで出世の道を絶たれてしまうのです。

奇しくも同じような人生を歩んできた将門と純友・・・
純友の方は、その後30年、歴史の表舞台に登場することはありません。
一方、故郷である下総国に戻った将門を待っていたのは血で血を争う一族の構想でした。
父・良将が治めていた領地には、牧場や製鉄など合戦に欠かせない馬や武器を豊富に生産する施設が集中していました。
その為、良将の死をきっかけに、親族たちがその支配権を奪おうと争い始めたのです。

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平将門・・・坂東での台頭
将門の父・良将の領地を狙っていた一人に、伯父・平国香がいました。
935年、将門は、父から受け継いだ領地を守るべく、日立国野本で国香軍と激突!!
野本合戦です。
武術に長けていた将門は、伯父である国香を死に追いやり、この戦いに見事勝利します。
しかし、それでは収まらず、将門は敵方の拠点を次々と襲撃、焼き払っていったのです。
将門の執拗で異様な攻撃・・・その理由は??
国香側が、詩的な戦いで使ってはいけない官軍の幡や鉦を持ち出して将門の目の前に現れていました。
これをみすみす見逃していては、自分が賊軍のように見られてしまう・・・
将門皮を、賊軍と見なす偽りの行為が許せなかったのです。

しかし、この行きすぎた戦い方によって、将門は国香の弟である伯父良兼や国香の息子で従兄弟の貞盛から大きな恨みを買い、一族の紛争は拡大してしまうのです。
やがて、この紛争が、朝廷の知る処となります。
朝廷は、すぐさま反乱などを鎮圧する追補使を任命・・・
驚いたのは、それが将門だったことです。
朝廷は、紛争の当事者である将門に、敵対する親族らを捕らえよと命じました。
どうして将門が、追捕使に選ばれたのでしょうか?
そこには、将門が仕えていた朝廷の摂政・藤原忠平の大きな期待がありました。
忠平は、将門の能力を買っていました。
自分を慕う将門が、坂東で追捕使に任じられれば、坂東の平和秩序を打ち立てるのに役に立つと考えたのです。
将門が追捕使に任じられたことで、敵対する良兼・貞盛たちは賊軍となってしまいます。
追いつめられた良兼は、将門のいる下総の石井営所を80騎余りで襲撃!!
将門はこれをわずか10人ほどの兵で返り討ちにしてみせます。
すると、従兄弟の貞盛は、もはや勝ち目はないと逃走・・・これによって平氏一族の内乱は、終息に向かいます。
そして、将門は朝廷に認められ、以後、坂東の治安維持を任されるようになったのです。
当時の坂東は、人々は朝廷や貴族たちの完全な支配下にありました。
朝廷から派遣された国司から不当な税の取り立てに苦しめられていました。
そんな中、937年11月・・・富士山が大爆発!!
翌年には天慶の大地震が襲います。
度重なる自然災害に、坂東は凶作と大飢饉に見舞われました。
それでも国司たちは、いつも通り重い税を取り立てたため、農民たちは逃げ出していきました。
この時将門は、30代半ば・・・逃げ出して来た農民を受け入れると、国司の悪政から逃れるために動きます。

農地の改革・・・朝廷の支配に属さない荒れ地を、自ら先頭に立ち農民たちと開拓していきました。
「将門記」には・・・
”将門は、失意の人がいればそれを助け、寄る辺のない人々に力をかし、元気づけた”と。
困った人を放っておけない親分肌だった将門・・・どうして反逆者となってしまうのか・・・??

938年、平将門が拠点としていた下総の隣国・武蔵国で事件が起こります。
武蔵の国に赴任してきた国司代理の興世王と、補佐する武蔵介・源経基が、税を滞納する足立郡の郡司・武蔵武芝と激しく対立!!
騒動を耳にした将門は、矢も楯もたまらず自ら調停役を買って出ます。
そこにはこんな目論見がありました。
自分の手柄を朝廷から見えるものにしたかったのです。
目に見える手柄を立てることで、朝廷から恩賞を得ようとしたのです。
将門は、酒の席を設けると、そこで興世王と武蔵武芝を見事和解させます。
興世王はその後、将門の参謀になるほど信頼を寄せるのですが、その一方で和解の席にいなかった経基は、何を勘違いしたのか
「興世王と将門が、武芝にそそのかされてわしを殺そうとしている!!」
と、身の危険を感じ、京の都へ遁走!!
朝廷に将門たちが謀反を企てていると偽りの報告をするのです。
さらに、この時都に逃げてきていた従兄弟の平貞盛も将門の悪行を訴えたことで、朝廷も見過ごせなくなります。
事情を聞こうと将門に都に来るように命じます。
ところが、将門はこれに応じず、代わりにかつて仕えていた藤原忠平に、坂東五か国の国司が将門の無罪を証明した「諸国之善状」を送ります。
これを見た忠平は困惑します。

「一体どちらが正しいのか??
 将門自ら出頭に応じない今、判断を下しかねる・・・」

そんなこととは露知らず、当の将門は

「わしは、坂東を平和に導くという偉業を達成した
 何かしらの恩賞を考えてくれるだろう」

と、朝廷からの恩賞を、心待ちにします。

しかし、恩賞が与えられることはありませんでした。
それどころか、この数か月後、将門は朝廷から反逆者とされてしまうのです。

この時、常陸国に税を払わずに略奪を繰り返すなど暴挙を繰り返しているものがいました。
藤原玄明です。
玄明は、国司からの再三にわたる税の取り立てに反発、納税を拒否したためにお尋ね者となりますが、逃げながらもなお、朝廷の米を備蓄する鞍を襲うなど乱暴狼藉を繰り返したのです。
そんな玄明が、逃亡の末に頼ったのが、将門でした。
将門は、玄明が自分の戦に馳せ参じる配下の一人だったため、悩みます。
悩んだ末、結局玄明を迎え入れました。
将門は、配下の玄明を見捨てられなかったのです。

玄明をかくまったと知った常陸の国司は、
「玄明の身柄を速やかに引き渡すよう」
そう何度も書状を送りつけてきましたが、将門はこれを無視!!
939年11月、玄明の処遇について国司と交渉するため千ほどの兵を動員し、常陸国へと向かうのです。
ところが・・・交渉決裂!!
待ち受けていた3000の国司軍が問答無用で将門に襲い掛かってきました。
将門は、これを瞬く間に撃破!!
勢い余った将門の兵たちは、勝手に国司が政務を執る国府まで焼き払ってしまいました。
恐れをなした国司は、将門に、公文書に使う大事な刻印と倉のカギを渡し、逃げてしまいました。

配下の者が勝手に行ったとはいえ、国府を焼き払って国司を追い払い、渡されたとはいえ刻印と倉のカギまで手にしてしまった将門・・・
常陸国を奪ったことになってしまいました。
これらの行為は、朝廷から見れば謀反を起こした反逆者・・・
こうして将門は、他人の争いに介入した結果、朝廷を敵に回してしまったのです。

「本意ではないとはいえ、一国を討ち滅ぼした罪は軽くはない・・・
 どうしたらよいものだろうか」by将門

「ならば、いっそのこと坂東八か国すべてを手に入れてみてはいかがでしょう」by興世王

「そうか・・・そうであるな!!
 わしは、いやしくも桓武天皇の末裔・・・
 同じ事なら、坂東八か国を皮切りに都まで攻略しようではないか!!」by将門

この言葉通り、将門は常陸国国府を支配下に置いた翌月、下野、上野両国を次々と攻めると国司を追放・・・すると、他の国司たちも将門を恐れ、次々と帰順・・・
将門は、伊豆を含む坂東全域を支配下に置くことになったのです。

将門は、朝廷には向かうつもりはなく、仮の坂東綸旨政権を作り、既成事実を作ってから朝廷に承認してもらおうと考えていたのではないか??と思われます。
一か八かの大勝負でした。

坂東八か国と伊豆を支配下に置いた将門は、朝廷の感情をさらに逆なでします。
追い払った国司に代わり、自身の参謀や弟たちを国司に任命・・・除目を行ってしまいました。
将門は、国司たちが出て行ってしまったので、自らが管理しなければ・・・と、思っていました。
なので、自分で任命してしまったのです。
朝廷からすると、国の法律にのっとっていない・・・無法の行為を堂々とするのは、叛逆以外の何物でもない・・・!!
完全に謀反人と見なされてしまいました。

そんな中、将門に不思議なことが起こります。
「将門記」によると・・・
ある日、将門の前に現れた一人の巫女が、
「私は八万大菩薩の使いである
 天皇の位を将門に授けよう」

八幡大菩薩は、天皇の祖とされる皇祖神で、民衆の絶大な信仰を集めていました。
その八幡大菩薩が、将門が天皇にするというのです。
これを聞いた将門は、
「この将門こそが、新たな天皇なり」
と、939年12月19日、新皇に即位することを宣言します。
前代未聞のことでした。

国府を襲って、坂東八か国と伊豆を支配下に置き、新皇宣言まで行った平将門・・・
そんな将門謀反の知らせが京の都へと伝えられたのは939年12月27日のことでした。
この報せに、摂政・藤原忠平は困ります。
というのも、数日前に瀬戸内で藤原純友が蜂起したと報告を受けたばかりだったからです。
歴史の表舞台から遠ざかっていた藤原純友に、一体何が・・・??

遡る事3年前の936年、50代半ばになっていた純友は、朝廷から海賊追捕使に任じられました。
その頃、瀬戸内では海賊たちによる侵略や略奪などが頻発!!
そこで、朝廷はこれらを押さえるために、伊予国で役人を経験し、伊予掾の経歴を評価し、海賊平定を任せたのです。
追捕使となった純友は、力づくではなく、海賊たちに土地などを与えることを条件に、血を流さずに投降させることに成功します。
この功績によって、それまでの官位六位から五位に昇進できると期待していました。
ところがそれは、容易なことではありませんでした。

平安時代において、貴族は五位以上を指し、いろいろな特権を持ち、100人ほどです。
下級役人は、六位になるのがせいぜいで、五位は手が届かない高根の花でした。
そして、純友も、昇進できませんでした。
官位は六位のまま、これでは、京の都にいても大した役にはつけません。
そう考えた純友は、伊予に残ることにしました。
一説に、平定する中で、海賊とよしみを通じ、純友が海賊の頭目になったともいわれています。
そして、939年12月、純友は、周囲を驚かせます。
突然、海賊などを率いて伊予を出たからです。
むかったのは、備前国でした。
この頃、全国的に深刻な干ばつに見舞われたことで、凶作となり、各地で国に納める税が滞っていました。
そうした中、備前国では、備前介・藤原子高と、地元の豪族・藤原文元が納税を巡り対立!!
子高は、文元から厳しい税の取り立てを行い、文元の私邸を破壊するなど冷酷無比な圧力を加えていました。
これに耐え切れなくなった文元は、純友に支援を要求していたのです。
純友と文元は、3年前に海賊の平定に協力した同志でした。

純友には、この時別の思惑もあったといいます。
それは、3年半前の海賊平定の時の恩賞です。
従五位への昇進を・・・要求するまたとないチャンスだと考えたのです。

12月26日、純友の支援を得た文元は、上洛途中だった子高一行を追って、摂津国須岐駅で襲撃します。
子高の耳と鼻を切り落とし、報復を成功させるのです。
これが、藤原純友の乱の始まりでした。
圧政に苦しみ同志を助太刀!!
武力によってその力を押さえつけた純友は、その褒美として朝廷に官位を供給する書状を認め、摂政・藤原忠平の元へ送りつけます。
そして、その数日後、平将門の謀反が朝廷に知らされたのです。

共謀して反乱を起こしたに違いない・・・??
公卿たちは、恐れおののきます。
本当に共謀して乱を起こしたのでしょうか??
将門と純友は、共謀してはいませんでしたが、純友が将門の乱に便乗したことで、同時期になった可能性があります。

関東では平将門が、瀬戸内では藤原純友が蜂起、日本の東と西の同時で反乱が起こったことで、京の都は大混乱に陥ります。
朝廷は騒然となります。
この二つの反乱を、いかにして鎮圧するのか??
摂政の藤原忠平は、直ちに公卿たちと対策に乗り出します。
最優先は、事態が深刻な将門の乱の鎮圧!!
瀬戸内で放棄した純友とは妥協策を・・・!!

そして、940年1月11日、朝廷は、東海道・東山道の各地に「将門討伐」の太政官火符が下ります。
「将門を討伐したものに、官位と恩賞を与える」
その後、妥協策として、2月10日、藤原純友に要求通り従五位下を授けます。
朝廷は、これによって懐柔した純友とその一味を将門討伐軍として利用しようとしたともいわれています。
当の純友は、念願の昇進が叶ったことで、朝廷と和解することを決めます。

将門討伐令が出たことで、すぐに動いたのが、将に父を殺された従兄弟・平貞盛でした。
この時、坂東に戻っていた貞盛は、下野国の有力豪族・藤原秀郷を味方につけると、4000もの大軍で、本拠地である下総に攻め込みます。
2月14日・・・両軍は、猿島郡北山で激突!!
この時、将門の手勢は、わずか400!!
朝廷から将門討伐令が出たことで、味方する者が減っていたからです。
兵の数では劣っていましたが、将門は強い追い風に乗って戦いを優位に進めていきます。
ところが・・・急遽風向きが変わると、一変!!
貞盛・秀郷軍が優勢に・・・!!
必至に応戦していた将門でしたが、一本の矢が、将門に命中!!
こうして乱は、鎮圧されました。
将門が、新皇即位を宣言してからわずか2か月後のことでした。
逆賊となった将門の首は、京都に送られると、都の中心で晒されました。
しかし・・・その首が、ある日飛び去って、武蔵国に落ちたと言われています。
将門の首は、胴体を探して夜ごとわめき続け、人々を恐怖に陥れたと、怨霊の伝説までできました。

平将門の乱を鎮圧するまで、朝廷は瀬戸内で乱を起こした藤原純友とは和解してもいいと考えていました。
純友もまた同じでしたが、周囲の者が勝手に反乱を続けていたのです。
そこで朝廷は、将門の乱鎮圧から4か月がたった6月・・・
討伐軍を派遣するのです。
暴走していた純友の盟友・藤原文元を攻撃、純友に付き従っていた讃岐国・藤原三辰を攻めました。
すると、純友のもとに、追い込まれた三辰から応援要請が来ました。
和解しようとしていた純友ですが、動きます。
配下の者を見捨てることなどできなかったのです。

8月・・・400艘の兵船を率いて、援護に向かった純友は、讃岐にいた討伐軍を攻撃したのを皮切りに、次々と敵を粉砕、朝廷と交渉するためこのまま京の都に・・・うと考えていました。
しかし、討伐軍が体制を立て直したことで形勢は逆転!!
進軍を断念した純友軍は、周防国や土佐国を襲撃し、銭や米を略奪!!
一説には、宇和島の西の海上に浮かぶ西振島に逃げ込み、武器の補修などを進めながら、次の目的地を大宰府に定めます。
大宰府は、九州の政治や軍事、外交を司る拠点・・・ここを奪い、朝廷と交渉しようと最後の賭けに出たのです。
941年5月、純友は、大宰府を奇襲し、占拠します。
しかし、もはや朝廷に和解という文字はありませんでした。
5月20日、討伐軍が博多津に上陸・・・。
純友軍と激突します。
数で劣る純友軍は、苦戦を強いられました。

最後の賭けは、無残にも打ち砕かれました。
純友は捕らえられ、斬首の刑に・・・こうして、藤原純友の乱もまた、鎮圧されたのです。

二つの乱が無事に鎮圧されたことを誰よりも喜んだのは、時の帝・朱雀天皇でした。
東西同時反乱が、どれだけ朝廷を脅かしていたのか??よくわかります。
乱を鎮圧したのち、朝廷は鎮圧に貢献した者に恩賞を乱発したといわれています。
将門を倒した藤原秀郷には、従四位下という破格の位を・・・
平貞盛には、従五位下という官位が与えられました。
そして皮肉にも、貞盛の子孫から平清盛が現れその後の武士の世の時代を生み出すのです。

圧政が人々を苦しめていた当時の貴族政治への抵抗から起こった二つの乱・・・
将門も、純友もさらし首にされましたが、2人の行動が歴史を大きく変えたことは確かなのです。

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オリンピックで大規模な開発が行われている東京・大手町・・・その一角に防護壁に守られた不思議な場所があります。
ここには史上類を見ない謀反を起こした男の首が祀られています。
平将門・・・939年12月、将門は朝廷に反旗を翻しました。
そして、当時坂東と言われていた関東八か国を制圧・・・新しい天皇・・・新皇を名乗ったのです。
しかし、朝廷が送った討伐軍の前にあえなく戦死、謀反は50日余りで終わり・・・首は都に運ばれ獄門に処されます。
首は無念を叫びながら飛び去り、東京大手町に埋葬されました。
以来、平将門は祟り神として祀られてきました。
関東大震災・・・首塚のあった場所に、大蔵省の官舎を建てようとすると時の大臣や関係者が次々と死亡・・・祟りを恐れた政府は、首塚を復活させたと言います。
さらに第二次世界大戦後、GHQがこの場所に駐車場を作ろうとするとブルドーザーが横転し、作業員が死亡したと言われています。
平将門は、どうしてGHQをも畏れる祟り神となったのでしょうか?
鋼の肉体を持ち、7人もの影武者を従えていたという平安時代最強の兵・・・平将門。
彼が抱えた無念に迫り、反逆者誕生の謎に迫ります。

1000年以上の伝統がある相馬野馬追・・・
将門の母は、相馬氏に繫がる家系の出だと言います。
この祭りの起こりは、幼いころから馬に親しみ、騎馬戦に無類の強さを誇った将門由来と伝えられています。
当時坂東と呼ばれていた坂東八か国・・・将門の本拠地は下総国。
利根川の支流と沼が複雑に入り組んだ湿地帯が広がっていました。
そこにある国王神社・・・その名前は、一時将門が新皇を名乗ったことに由来します。
神社の一角にある宝物蔵には、娘が将門の33回忌に併せて作らせた木像が眠っています。
坂東一の兵らしい威厳のある面構え・・・

将門の父・良持は、桓武天皇の孫にあたる高望王の三男です。
天皇の血をひく父の兄弟たちは、それぞれが坂東に所領を持つ豪族でした。
成長した将門は京都に向かいました。
痴呆の豪族にとって都との関係は欠かせません。
身内の誰かが出世を遂げ、官職を得れば、一族の繁栄につながるのです。
父の期待を背負った将門は、いとこの平貞盛と共に滝口の武士として働き始めました。
しかし、ここで人生初の挫折を経験します。
貞盛は、京都において人間関係をうまく泳げる官僚的資質を持っていました。
しかし、将門はその資質に欠けていたのです。
順調に出世をする貞盛に対し、官職につけない将門・・・
930年、そんな将門に驚きの報せが・・・
父・良持が急死したのです。
無位無官のまま戻った故郷で、難題にぶち当たります。
3人のおじたちが将門の前に立ちはだかったのです。
将門が父から譲り受けた所領を狙って攻撃をしかけてきたのです。

935年2月、おじたちの連合軍が大挙してなだれ込んできました。
しかし、戦は騎馬戦に長けた将門の完勝!!
将門はその争いの中で、おじひとりの命を奪ってしまいます。
それは都で出世を競い合った貞盛の父・国香でした。

「戦の事情を冷静に振り返れば、父の死は将門のせいではなく、叔父たちの欲が招いたものだ
 自分は復讐心を抱いていない
 共に手を携えて、平氏の名を広めていくべしと将門には和睦の手紙を送ろう」by貞盛

しかし、叔父たちのリーダー良兼は、貞盛に激しく迫ります。

「将門と和睦しようとは兵の道に背く行いだ
 我々と力を合わせ、父の仇将門を討つべきではないのか」

貞盛は、結局反将門軍に入ることを承諾しました。

935年6月、貞盛を加えた叔父たちの軍は数千の大軍で攻めてきました。
梅雨時の戦い・・・騎馬戦に自信のない連合軍は、足場の悪い川や湿地帯を回避して将門の陣地に迫ろうとしました。
しかし・・・将門軍はわずか100騎で連合軍の背後を急襲・・・叔父たちは不意を突かれて散り散りに敗走!!
再び将門の前に敗れ去りました。
その後叔父たちのリーダー良兼の死を境に、平氏の内乱は将門の勝利に終わりました。
いつしか将門は、坂東一帯の平和維持を求められる存在となったのです。



平安時代中期・・・都の貴族たちは律令制度のほころびからうまい具合に地方からの税が集まらないことにいら立っていました。
そこで、都から派遣し在地の役人と共に税の徴収に当たる国司の権限を強化。
一定の税を中央に納めさえすれば、あとは国司の蓄財に回せるという仕組みに変えていました。
武蔵国国府・・・この国富に赴任してきた新しい国司・興世王は、自らの蓄財を増やすべく、税の徴収を精力的に行おうとしましたが・・・在地の役人・武芝が抵抗・・・両者の対立が起きていました。
結果興世王は、言うことを聞かない武芝の倉を襲い、無理やり税を徴収していました。
国司と郡司の対立は、激しさを増していきます。
その仲裁に乗り出したのが、隣国の下総に所領を持つ将門でした。

将門は、兵を率いて武蔵国に乗り込みます。
将門は背酒の席を設け、興世王と武芝の間を取り持ち和解に持ち込みます。
相手は国が派遣してきた役人・・・穏便に一件落着を図ったのです。
ところが・・・戦に敗れて以来、復讐を狙っていた貞盛が目をつけます。
上京した貞盛は、京都時代に培った人脈を使って・・・
”将門は他国まで出向いて乱行を働いている”と、朝廷に訴えたのです。
それが功を奏して、将門に都にやってきて弁明するように通達が出されました。
将門の中に、坂東をの現実を直視しない朝廷への怒りが・・・!!

「本来ならお褒めの言葉を頂戴しても良きところ
 逆に貞盛の言葉を鵜呑みにこの将門を召喚するとは・・・
 まさに恥辱であり、面目を失うものです。」

そんな中、新しい問題が・・・!!
常陸国の豪族・藤原玄明が、国司から逃れて将門のもとへ逃げ込んできました。

「国司の息子がひどい奴で、父の権威を嵩に罪のないものを次々に陥れているのです」

武蔵国に続いて常陸国の争い・・・都から遠く、朝廷の権威が届かない坂東では、律令制度の矛盾が様々に噴き出していました。
それを解決するすべはなく・・・何かと将門が頼りにされました。
939年11月21日、事情を確かめようと将門は、兵を引き連れて常陸国に向かいました。
ところが・・・国司の息子が3000もの兵で襲い掛かってきたのです。
それを指揮するのは、将門を陥れようとした宿敵・貞盛でした。
将門の怒りは頂点に達しました。
「徹底的に打ち負かすのだ!!」by将門
貞盛は取り逃がしたものの、将門が奪った印と蔵の鍵・・・
この二つのものは、国司の権力を象徴するものでした。
国司の権力、徴税権、財産運用・・・その権力を手にしたのです。
印と蔵の鍵を奪ったことで、一線を越えてしまった将門・・・
その結果、彼は心の中に大きな葛藤を抱えることとなってしまいました。
興世王がささやきます。
「ここまでやってしまったんです。
 いっそ坂東全土を支配下に治め、朝廷の出方を伺ったらいかがですか?」
坂東を支配するか・・・??
それとも朝廷を和解する・・・??

939年12月11日、将門は兵を率いて下野国に向かい、国府を占領。
その後も、次々と国府を襲い、坂東八か国を支配下に置きました。
将門の実力を知っている各地の国司たちは、ほぼ無抵抗で印と蔵の鍵を差し出しました。
将門が選んだのは・・・坂東を支配するというものでした。

そして12月19日、将門は国司の任命式を行います。坂東は、将門の支配するところとなったのです。
その式典のさ中・・・八幡大菩薩の使いと称する皇子が表れこう告げます。

「我は八幡大菩薩の使いで、朕の位を将門公に授け奉る
 これは、左大臣菅原道真公の霊魂が認めたものである」

菅原道真は、藤原氏から京都を追い出され大宰府で無念の死を遂げた貴族・・・
その後、左遷に関わった貴族たちが雷に打たれるなど宮中では災い事が相次ぎます。
そのため、当時道真の呪いは最も恐れられていました。
その道真の霊魂に朕の位を認められたとして、ここに新しい天皇・・・新皇を宣言したと言われています。
道真を持ち出すことで、自分を正当化し、朝廷に対して妥協を求めたのです。
将門謀反の知らせが届いた都は、大混乱に陥り、翌年の正月行事はすべて中止となりました。
朝廷は各寺社に対し、兵乱調伏の祈祷を命じます。
将門を呪い殺そうとしたのです。

朝廷は現実的な対応も発表しています。
謀反を起こした将門を殺したものは、身分を問わず貴族にすることにしたのです。
まさになりふり構わずの将門討伐命令です。

将門も、弟からもっと慎重になるべきだったと諫められます。

「なぜ、力を持つ者が権力を奪い取って悪いのだ
 山を越えよ、岩をも破ろうとする私の信念は、誰にも負けるものではない」

その後、将門は不思議な決断を下しています。
将門軍の主力である農民たちを故郷に帰したのです。
農民にとって田起こしの時期が迫っていたのです。

その動きを密かにも守っていたのは・・・将門の宿敵・貞盛でした。
今回は単独では動かず、ある坂東の有力豪族を味方に引き入れようとしていました。
下野の豪族で藤原秀郷・・・田原藤太です。
坂東にあって将門と並んで評されていました。
将門を討てば貴族になれる!!と、討伐軍に加わります。

940年2月・・・貞盛、秀郷連合軍は、下総国に向かいます。
そして2月14日、将門の本拠地近くで両軍は向き合います。
討伐軍は2000!!
対する農民のいない将門軍はわずか400!!
圧倒的に不利な中、将門軍の奮闘が始まりました。

2000対400・・・5倍の兵力の座は如何ともしがたく・・・
将門は追いつめられていきます。
馬上の上で亡くなる将門は、矢を頭に受けています。
宿敵・貞盛が放った一本の矢・・・
それを受け、将門は絶命したのです。
秀郷の手で介錯された将門の首は、近くの木に晒されました。
新皇宣言から50日・・・将門の乱はこうして幕を閉じたのです。
その後、将門の首は討伐軍によって都に持ち帰られ、史上初めて獄門に晒された将門の首は、京の人々の前でこう叫び続けたと伝えられたと言われています。

「私の身体はどこへ行った・・・
 また一つになって戦おうぞ!!」

京都の町に晒された将門の首・・・体はどこへ行ったと叫び続けた首は、ある日空に舞い上がり坂東を目指しました。
そして大手町に不時着したと言われて・・・そこに首塚が祀られました。
江戸時代、その首塚に隣接していた小さな寺を、家康が江戸の鬼門に移設しました。
江戸総鎮守・神田明神です。
一説には神田とは・・・将門が叫んだ”身体”がなまったものだと言われています。
武士の先駆け将門に守られた江戸は、その後260年の長きにわたって続きました。
2020年の東京オリンピックに向かって再開発が進められる大手町・・・
その一等地にあるものの、将門の首塚には一切手が触れられていません。
しかも、工事中にビルから物が落ちてはいけないという配慮からか厚い防護壁で守られています。

今も将門の首塚には、多くの人が参っています。
一説には左遷されたサラリーマンも、ここに祈れば再びこの地に帰ることができるとか・・・。
最強の祟り神だった将門は、今は最強の守り神として人々の心のよりどころになっています。


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