弘法大師空海が歩いた奈良 (奈良を愉しむ)

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千年の都・・・京都・・・ひときわ目を引くのが東寺の五重塔です。
東寺は平安時代の幕開けに際して建てられた特別な城です。
その役割は、様々な災いから新しい都を護るためにありました。
この寺を、天皇から直々に託された人物こそ、弘法大師・空海です。

空海が生きた奈良~平安は、日本は激しく動いていました。
天皇位を脅かす僧、跋扈する怨霊、天変地異・・・降りかかる禍に・・・
ときの桓武天皇は、10年で2度の遷都を余儀なくされます。

そんな中・・・大陸から最先端の密教を持ち帰った空海・・・
その法力で、都を護ることを託されたのです。
しかし、本来空海は、この時日本にはいない人物でした。
遣唐使として唐に渡った空海・・・
科せられた留学期間は20年・・・しかし、僅か2年で切り上げて帰国!!
死罪にもあたる選択でした。

空海生誕の地として知られる香川県善通寺市・・・
ここで語学にもたけた空海の発見がありました。
佐伯直氏の墓には・・・その石室内に、国内でも僅か数点しか出土していない青銅製の冠帽がありました。
日本でなく、朝鮮半島で製作されたと思われています。
別の古墳からは外洋船の壁画が・・・
この地域には、長らく渡来人が暮らし、彼らを支配下に置いていたのが空海の祖先・佐伯直氏と思われます。
空海は、中国の言葉や文章に秀でていました。
人間・・・空海の姿とは・・・??

奈良時代後期、日本は激動の時代を迎えていました。
桓武天皇は、2度の遷都・・・異例の政治を余儀なくされました。
70年の奈良の都を捨てた桓武天皇・・・
その原因の一つが奈良の仏教界でした。
6世紀半ば・・・朝鮮半島から日本にもたらされた仏教・・・
以来天皇は、仏教によって国家の安寧を願う鎮護国家を政策としてきました。
しかし、8世紀になると、全国の国分寺の建立や、東大寺の廬舎那仏造営など、財政を圧迫するようになってきます。
さらに、天皇の庇護を受けた奈良の仏教僧達が、政治介入を始めていたのです。
その象徴が弓削道教。。。
称徳天皇に仕える僧侶の身でありながら、天皇の政策に大きな影響力を及ぼし、自ら天皇になろうとしました。
こうした奈良の仏教界の僧は、五代にわたって天皇を出していた天武天皇系と緊密に結びついていました。
新たに天武天皇系から出た桓武天皇は、奈良の仏教勢力を政治から切り離したいと考えていました。

784年11月、桓武天皇は平城京から北におよそ40キロ離れた長岡京への遷都を決断します。
この時、桓武天皇は、異例の詔を発していました。
「私的な寺院を移転、新設することを禁ずる」
これによって、奈良の仏教勢力は、寺院を新たな都に移転することを阻まれました。
しかし・・・ほどなく軋轢を生みます。
785年9月、桓武天皇の右腕として長岡京造営を任されていた公暁・藤原種継が暗殺されます。
犯人を捕まえ尋問すると、桓武の退位を企てるクーデターが露見!!
その首謀者の一人として名が挙がったのが、桓武の弟・早良親王でした。
早良親王は11歳の時に東大寺で出家した元僧侶・・・
奈良の仏教勢力と深いかかわりを持ち、桓武天皇に反発し、自分たちを中核中軸とする勢力をもう一度取り戻そうとしていました。
背景に、奈良の仏教勢力がいたことは、まぎれもない事実でした。
桓武天皇は、早良親王を流罪とし・・・しかし、その道中、早良親王は無実を訴えて憤死!!

その後、桓武天皇で次々と異変が・・・
788年~二人の妻と母が次々と亡くなり・・・息子の安殿親王が病に臥し・・・
792年8月・・・大水害・・・
桓武天皇は恐れおののいていました。
全ては早良親王の祟りではないのか・・・??
そして、僅か10年で長岡京を離れ・・・

794年10月平安京遷都。
二度の遷都は、奈良の仏教界と早良親王の怨霊から逃れるため・・・止むに已まれぬ行動でした。
平安ではない歴史的な事実があったから、平安京と名付けたのです。
平安京という新しい都を守護するには、奈良仏教とは違う新しい仏教が必要!!
この頃、20年に一度の遣唐使が計画されていました。
遣唐使に唐から最先端の仏教を期待します。

その頃・・・31歳の空海は、山野で修業に明け暮れていました。
18歳で都の大学に進学、高級官僚への道が約束されていたにもかかわらず僅か1年余りで中退し、仏の道を歩み始めていました。
修行中に触れたのが密教・・・
密教とは、インドで生まれた仏教の一種で、様々な呪文や神秘的な儀式をとり行う最先端の教えでしたが、日本には本格的には伝わっていませんでした。
「理解できないところがあり、質問をしてもわかる人もいなかった。」by空海
日本で密教を学ぶには限界がある・・・と、唐に渡ることを画策します。
一介の無名の僧でありながら、遣唐使に選ばれます。
朝廷から命じられた留学期間は20年・・・
この時、同じ遣唐使として桓武天皇の期待を一身に受けていた僧が最澄でした。
後に、天台宗の開祖となる最澄・・・すでに新しい仏教の担い手として桓武天皇の寵愛を受けていたのです。
朝廷が最澄に定めた留学期間は1年・・・すぐに帰国してほしいと考えていたからです。
日本を出発した空海は、半年後長安へ・・・いかにして密教を学ぶのか・・・??

805年唐の都・長安に滞在していた空海は、密教の師を探していました。
当時、長安の南東にあった青龍寺・・・空海がこの寺で出会ったのが、恵果でした。
恵果は、インドから伝わった密教の正当な流れを受け継ぐただ一人の僧・・・
歴代皇帝から篤い信頼を得、1000人の弟子がいたと言います。
空海と初めて会ったとき・・・
「私はあなたが来るのを長い間待っていました。」と言ったといいます。
恵果は多くの弟子を差し置いて、空海に密教の全てを伝授します。
その証となるのは・・・空海が経過自身から授かった五鈷鈴・五鈷杵・・・ともに、密教儀式で使われる法具の一種です。
他にも、巨大な曼荼羅や、密教経典を授かります。
しかし・・・出会いからわずか半年でこの世を去ってしまった恵果。
恵果は空海に遺言を残していました。

「すぐに帰国し、密教の教えを国家に奉り、国中に広めてほしい。」

しかし、空海に課せられた留学期間は20年・・・未だ1年4か月・・・どうする・・・??

「奈良の仏教の教えは、苦しむ患者を前に、病気の原因や薬の効能をただ論じるようなもの。
 密教の教えは、薬を調合し、服薬させ、病を取り除くことができる。」

古代では、宗教的な力、霊的な力を以ても、安全保障をしなければなりませんでした。
しかし、奈良仏教は、学問仏教的な色彩が濃く、儀式や儀礼、修行という面では未熟だったのです。
その未熟な部分を密教は完全に補完できるというイメージが空海にはありました。
密教は奈良の仏教よりも実行力に勝る!!
新しい都に相応しい!!

しかし、任期は20年・・・天皇の命に背いていいのか・・・??
死罪になれば、今までの教えが水の泡・・・。
唐に留まるべき・・・??恵果阿闍梨亡き今、20年もどうやって過ごす??
天竺に行く・・・??

進むも退くも、いばらの道・・・??

806年、空海は唐の皇帝に向けて手紙を認めます。
「私は20年で売るべき成果を、1年で体得することができました。
 密教こそ、桓武天皇の勅命に対する答えなのです。」by空海

日本に向かう船に乗り込む空海。
恵果の遺言に従って、直ちに日本に戻ったのです。

2年ぶりに祖国へ・・・しかし、処遇に困った朝廷は、3年も都に入ることを許しませんでした。
この頃、日本の政治状況は変わってきていました。
空海が帰国する半年前・・・806年3月、桓武天皇が病に倒れて死去。
そのあおりを受けたのが、空海よりも先に帰国していた最澄でした。
桓武天皇の庇護のもと、天台宗を開いていた最澄でしたが、後ろ盾を失ったことで、奈良の仏教勢力との対立が表面化!!
810年9月、追い打ちをかけるように・・・時の上皇・平城太上天皇の変(薬子の変)・・・再び都を平城京に移すと挙兵したのです。
時の天皇・嵯峨は、すぐにこれを鎮圧!!
桓武の政策を引き継ごうとしていましたが・・・死罪を含む多くの処罰者を出すことになります。
この事件が空海の密教の力を示すこととなります。
天皇の許しを得て、国家安寧を祈願する密教儀式を執り行ったのです。
812年最澄が空海から灌頂を授かります。
空海は、鎮護国家の要として嵯峨天皇の信頼を一身に受けることとなります。
823年、空海は嵯峨天皇の勅命によって、一つの寺を下賜されます。
東寺の平安京の中、天皇の命によって建てられた寺は東寺と西寺。
そのうちの東寺が都を守護する寺として、空海に与えられたのです。
空海は、ここで、唐にもなかった新しい密教世界の表現を試みます。
大日如来を中心に鎮座する21体の仏像・・・それまで平面だった曼荼羅を立体の世界へ・・・!!
桓武天皇が願って止まなかった奈良仏教に代わる新しい仏教の招来・・・。
それを空海は、目に見える形で平安京にもたらしたのです。

ここ東寺から日本の仏教が始まる・・・
空海のオリジナルの仏教が・・・!!

唐から帰国して10年・・・朝廷に願い出て、高野山に密教道場を開きます。
都から遠く離れたこの地で、自分や弟子たちが修行に専念できる場所を作ったのです。

「唐から帰国して多年を経たが、いまだ密教の教えは広く流布していない。
 縁のある方々の力添えによって経典を書写し、教えを広めたい。」

そこで空海は、日本各地の仏教僧たちに経典の書き写しを依頼、その一人が東北地方を中心に活躍していた僧・徳一。
徳一は、奈良の仏教勢力出身でしたが、天台宗・最澄と教えを巡り対立し、論争は5年・・・
しかし、空海は、奈良の僧とも積極的に交流し、関係を深めていました。

更に民衆にも布教・・・しかし、障壁が・・・!!
当時の僧は、生活の全てを国が賄っている公務員!!
その仕事は国家の安寧を祈る事であり、民衆への布教活動は固く禁じられていました。
しかし空海は・・・??
唐で学んだ土木工事などを行い民衆たちに伝えます。
理屈ではない、まず苦しんでいる人を救うのが仏教!!
実践こそがすべて・・・!!
それを体現したのが、弘法大師・空海でした。

最晩年の言葉
「すべての生きとし生けるものが悟りを得るまで私は祈り続ける。」
空海の教えは、今も救いを求め続ける人々に生き続けています。

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