日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:蘇我馬子

邪馬台国増補版 唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ [ 水野正好 ]

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”ニッポン”の文明はいかに成立したのか?
古の人々は、心に何を秘めていたのか?

第1章 新たなる弥生社会の衝撃
我々が思い描いている弥生人とは・・・??
弥生人といえば稲作に勤しむ人々・・・農耕民族のイメージです。
しかし近年、そのイメージを覆す、新たな弥生人像の遺跡が発掘されています。
それは、農耕だけに頼らない特異な技能集団でした。
我々の想像を越える技や社会を持っていました。

鳥取県青谷町・・・日本海に面したこの町に弥生時代のホットスポットがあります。
”青谷上寺地遺跡”です。
20年にわたる発掘調査で出土した遺物はおよそ10万点。
他に類を見ない貴重な遺物が発見されることから、地下の弥生博物館の異名を持ちます。
集落の中心部では・・・多くの暮らしの息吹が感じられます。
青谷上寺地遺跡では、粘土質の土壌が真空パックの役割をし、多くの遺物が奇跡的に残ったのです。
出土品は極めて多様で、丸木舟、漁具、貨泉、勾玉、弥生人の脳、うんち(糞石)も・・・衝撃的発掘でした。
細かい網目のマタタビで作られたカゴ、強度を考慮して編み方を変えていました。

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多くの出土品の中でも、弥生人のイメージを覆したのは、大量の木製品です。
摩訶不思議の形をした木製の器・・・そこには、弥生人の美意識が伺えます。

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高杯には、高度な技が・・・。
巧みな職人が作ったのか・・・??


木製のつぼ型容器にも、細かい装飾が・・・。


彼らは、ある目的をもって、この器を作っていました。
日本海沿岸のいくつもの遺跡から、青谷で作られたと推測される木の器が出土しています。
これは、青谷の弥生人が、他の集落の求めに応じて、木製品を輸出していた証拠かもしれません。
まさに”青谷ブランド”です。

どうしてそこまで精巧な木工品を作ることができたのでしょうか?
aoya4そこには、いろいろな鉄製の工具がありました。
青谷の技能集団は、鉄の道具を器用に使いこなし、高度な文化を営んでいたのです。

交易をし、ものづくりの専門集団だったのです。
そして、稲作を行う人々・・・
遺跡からは高度に専門化した人々が、分業し、共生する弥生人の社会が浮かび上がってきたのでした。

滋賀県琵琶湖の東・・・彦根市にある稲部遺跡で弥生社会の重要な発見がありました。
全国的に見ても珍しい大型建物跡が発見されたのです。
近畿屈指の一大勢力が存在していた可能性が・・・!!
この遺跡で重要な発見が・・・鍛冶工房があったのです。

この頃は製鉄はしていませんでした。
鉄素材を朝鮮半島から輸入していたのです。
日本海ルートがあった・・・。
素材から入手して、生産・供給まで一貫して稲部で行われていたのです。
製品を、北陸、東海に供給していた可能性があります。
20棟以上の鍛冶工房が発見され・・・それだけ大きな工房で、何を作っていたのでしょうか?
発掘された鉄製の遺物は・・・鉄鏃・・・実践の武器として使用していたようです。
弥生人は武器を作り始めたのです。
稲作によって、収穫物という冨がもたらされると、同時に富をめぐる集落同士の争いが起き・・・
弥生人たちは、より強力な武器を求めるようになります。

青谷上寺地遺跡には、武器がもたらした社会の変化の遺物があります。
弥生後期の地層から、100体を越える老若男女の人骨が見つかったのです。
それは、溝の中に無造作に捨てられたような感じでした。
衝撃だったのは、110点にのぼる骨に、武器による殺傷痕があったことです。
死体には武器による深い傷が・・・!!
青谷の集落で一体何が起こったのでしょうか??
それは、戦争の痕跡・・・日本最古の戦争の痕跡かも知れません。
鉄の工具は弥生人に優れた製品をもたらしました。
一方で、鉄による強力な武器が、弥生社会と人々の精神を変えていくことになります。

第2章 弥生人が求めた神秘のパワー
弥生社会を劇的に変えた鉄・・・
さらに弥生人のこころを知るためには青銅を知る必要があります。
青銅器は、鉄器と同時期に日本に普及したと言われています。
中でも、銅鐸は、近畿地方を中心に独自の発展を遂げます。
印象的な青みがかった緑色・・・これは、長い年月をかけて酸化した色です。
石と粘土で作った鋳型に溶けた青銅を流し込みます。
完成した銅鐸は、神々しい輝きを放ちます。
この銅鐸こそ、弥生人の心のモニュメントです。
彼らは一体どんな思いを込めていたのでしょうか?

弥生時代の重要な遺物が発見されている淡路島。
ここで、2015年新発見がありました。
海岸近くの砂の中から7個の銅鐸が発見されたのです。
この銅鐸は、考古学者の注目を集める重要な発見となりました。

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松帆銅鐸と名付けられたこの銅鐸は、6つは大きな銅鐸に入れ子になっていました。
さらに珍しいものが・・・すべて舌・・・内側で音を鳴らす振り子が伴っていたのです。
そして、紐も残っていたので、どのように銅鐸を下げていたかということも、ハッキリとわかりました。
この発見で、今まで推測の域を出なかった銅鐸の実際の使用方法が判明したのです。

さらに松帆銅鐸には動物の頭の絵が描かれていました。
同じように絵が描かれたものは全国で60個ほど発見されています。
文字を持たない弥生人たちは、絵を描くことで、内面を表現していたのです。
全国の銅鐸絵画から絵を分類すると・・・2種類の動物が多く書かれています。
二番目は鳥・・・これは稲作との関係が考えられます。
水田に水を入れるとサギが飛んでくる・・・サギは真っ白で神々しくて姿かたちも非常にいい・・・
そこに彼らは神聖性を見出して、自分たちの水田を守ってくれる・・・稲の成長を見守ってくれている・・・としたのです。
そして、最も多く描かれていたのは鹿です。
角に対する強い思い入れ・・・
晴に生え始めて秋に立派になって、年の明けた頃にポロンと落ちる・・・
稲に似ています。
弥生時代の稲作民にとって、信仰の対象になったのではないかといわれています。


銅鐸・・・初期の銅鐸は高さ21センチほどでしたが、500年かけて大きく装飾的になって・・・
最大の大岩山1号銅鐸に至っては134.7センチもあります。
どうしてここまでの変化になったのでしょうか?
そこには弥生人の心の変化がありました。
シンボルというのは、大きければ大きいほど祈りが通じると思えます。
最初は目に見えないもの(音)を畏れていたのに、人間が作った目に見えた大きなものを畏れるようになったのでしょう。
銅鐸には、未だ解き明かされていない大きな謎があります。
銅鐸の多くは、整然と並べられた状態で発見されています。
意図的に埋めたと伺えるのです。
弥生の人々が銅鐸を埋めた理由は・・・??
廃棄説・・・崇める対象が変化したため不要になった
境界埋納説・・・敵の侵入を銅鐸の呪力で防ぐために埋めた
奉納説・・・神に銅鐸を捧げた
果たして人々はどんな思いを託したのでしょうか??
しかし、その関係は終わりをつげ、新たな心のよりどころを生み出していくことになります。

3世紀・・・この国は、歴史の大きなターニングポイントを迎えます。
銅鐸の時代が終わりをつげ、巨大な前方後円墳が現れたのです。

第3章 巨大モニュメント誕生・・・纏向遺跡
奈良県桜井市にある纏向遺跡・・・
前方後円墳発祥の地とされ、この国の文明の成り立ちを知るには欠かせない地です。
遺跡は東西2キロ、南北1.5キロ・・・これまでの発掘調査から、この場所が人と物が集中する一大拠点だということが分かっています。
物資を運ぶ巨大な運河、九州から関東までの人々が土器を携えてやってきました。
2009年には大型建物群が発見・・・纏向遺跡は、この国の最初の都市と考えられています。

纏向石塚古墳
3世紀前半に作られた、日本一古い前方後円墳と考えられています。
第2次世界大戦の時に、高射砲の陣地を据えるために、上が削られてしまっています。
今よりも8メートルも高かったと思われています。
かつて古墳の周りにあった周濠・・・外と内の世界をはっきり分けるという意味があり、聖域でした。

勝山古墳
朱塗りの板が出土しています。
古墳が作られた当時、墳丘の上で、何らかの建物が建てられており、祭りをした後に壊し、堀の中へ投げ込んだ跡があります。
死と再生の儀式・・・??
イメージとしては、今の神道のお祭りのように、祭祀として使った器物は片付けという行為の中で叩き壊したり、たたき割ったりということをしていたようです。
日本的な「けがれ」感が生じていたのかもしれません。

大型建物群
発掘された跡から、3つの建物の存在を堪忍することができます。
それは、弥生時代最大の大型建物群
一番大きな建物は、今の3階建てに相当すると思われます。
驚くべきは、建物の中心は、東西に一直線に配置されていたことです。
中国の王宮のように整然と設計された建物群・・・
発見されたのは四角い柱・・・この頃は、円形、楕円形が主でした。
従来考えられていた弥生時代をはるかに超える大発見でした。
王がきっちりと直線的に計画したように整然と建物を建てる状態をもって文明となる・・・
最初の日本の文明だったのです。

この場所からは、纏向遺跡最大の箸墓古墳がよく見えます。
建物が廃絶したのが3世紀の中頃・・・
時期的には、入れ替わりの関係で古墳の築造が始まったのです。

纏向で誕生した前方後円墳の一つの到達地点が、この国最初の古代古墳・・・箸墓古墳です。
卑弥呼の墓・・・??とも言われています。
2012年の調査によってわかってきたこと・・・
木々に覆われていた古墳は、見事な段築構造で、後円部5段前方部3段となっていました。
精巧な作りで、最高水準の技術と途方もない労働力を結集した新しい文明のモニュメントでした。

2014年、明治9年に撮られた写真が発見されました。

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それは、築造当時の姿を彷彿とさせるものでした。
纏向川の河原石を使い、周辺の石材は大阪から持ってきたともいわれています。

文字がない社会で複雑な社会をいかにして作っていくのか??
前方後円墳のようなモニュメントが、非常に大きな役割を発揮していたようです。
特別な時代が纏向から始まったのです。

第4章 新時代が求めた女王・卑弥呼はどこから来たのか?
謎とロマンに満ちた日本の古代・・・
そのミステリアスな存在が邪馬台国女王・卑弥呼です。
歴史に突如として現れ、新しい時代を開いた指導者です。
その女王卑弥呼の正体とは・・・??

中国の歴史書・魏志倭人伝によれば、卑弥呼の時代の日本は、倭国とよばれ30の国が乱立していました。
それら諸国は7,80年の長きにわたって戦争状態だったと言われています。
世にいう倭国大乱です。
何がこの混乱を引き起こしたのか??
そこには異常気象がありました。
2世紀の日本列島は、大雨と干ばつが繰り返される不安定な気候でした。
それが、地域ごとの収穫に格差を生じさせ紛争の一因になったと考えられています。
水害は、局所的に被害の大きいところ、少ないところがわかれてしまい・・・より、地域間での争いが・・・持てる者に対して、持たない者が執拗に攻撃をかけてしまう。。。
食糧の奪い合いが始まったり、土地の奪い合いが始まったり・・・
この時代にたくさんあったのではないか?と思われます。

争いを治めるためにはどうすればいいのか??
諸国の王たちが下した決断・・・それが魏志倭人伝に書かれています。
”共に一女子を立てて王となす”でした。
一人の女性を共通の王として抜擢し、連合政権を立てたのです。
新時代の倭国・・・その未来を託され、選ばれたのが卑弥呼でした。
これまで卑弥呼を巡っては・・・邪馬台国はどこにあったのか?という論争に100年を費やしてきました。
卑弥呼を共立した王たちの視点は??
王たちにとっては、どうにかして争乱を治めたい・・・そんな時、リーダーはどんな人でどこから選べばいいのか・・・??
どこの出身であれば軋轢を生むことなく、王たちは争いを避けることができるのだろうか・・・??
古代の王たちの選択です。
卑弥呼の出身地は・・・??

①北九州説
まず考えられるのが、最も力を持った地域の者という説です。
その場合、浮かび上がってくるのが北九州にある伊都国です。
伊都国はずば抜けた政治経済力を誇り、諸国も畏れると書かれています。
どうして強大な力を持つことができたのでしょうか?
新しく発見されたのは、弥生時代後期の硯・・・。
1~2世紀ごろのすずりです。
この硯を使って、外交、貿易の文書・・・字を書いていたようです。
伊都国は、中国、朝鮮半島に近く、早くから交易で富を蓄え、強大な権力を築いていました。
卑弥呼は間違いなく伊都国出身??
その根拠・・・理由は・・・??
伊都国の女王のものとされる平原王墓・・・
目立つのは40枚もの鏡です。
たった一つの墓から40枚もの銅鏡・・・
通常、20cmを越えれば貴重な大型鏡とされますが、その鏡が倍以上・・・直径46センチを超える圧倒的な大きさの鏡がいくつも出土しています。
卑弥呼は中国から100枚もの鏡を授かったとされています。
さらに、この地域は女性を王にする伝統を持っていたようです。
古代のピアス、身分の高い女性しか使わないものが発見されています。
邪馬台国以降の古墳時代は、近畿を中心としているものの、その伝統は全部伊都国で醸成されてきた・・・??
となると、卑弥呼は伊都国から選ばれたのか・・・??
それとも、一つの強力国家からだすと、他の国家が黙っていない・・・??

②近畿説
纏向遺跡からわずか5キロのところにある唐古・鍵遺跡です。
この特徴は、建物や動物の姿が書かれた絵画土器です。
その数は圧倒的で、日本の絵画土器の半数近くがここから発見されています。
高い文化レベルを誇るこの地域からなら、争いを避ける平和的なリーダーが出て来たのでは・・・??
心の豊かさ、文化的、平和的な世界を作れたのではないだろうか??
そしてこの遺跡には呪術的なものも発見されています。
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褐鉄鉱・・・土中で、鉄分などが凝縮して作られた自然の鉱石・・・その空洞にヒスイの勾玉が大切に治められたものが発見されました。

大陸の文化にも通じたシャーマン的な女性がいる・・・
新しい文化体系・思想を持った人物として一目を置いていたのではないか・・・??

③瀬戸内地方


tatetuki岡山県吉備に・・・楯築墳丘墓があります。
前例を見ない形の王の墓です。
復元図は・・・こちら。
円形部の両端に四角い突出部を持っています。
これこそ、前方後円墳のルーツであり、新しい信仰の象徴だったのではないか・・・??
さらにこの墳墓から出土した石には渦巻のような弧帯文が書かれていました。

纏向遺跡からも、同じような文様がつけられた出土品が見つかっています。
弧帯文や前方後円墳・・・新しい宗教の形が卑弥呼を介して纏向にもたらされたのではないのか・・・??

弥生時代から古墳時代には、宗教観点から言うと青銅器の宗教から墳墓の宗教へと宗教改革されつつありました。
古い宗教、古い社会体制に対する閉塞感が、新しい宗教、新しい社会体制を生み出そうという・・・そんなパワーになったのでは・・・??
吉備が新しいお手本になっていた可能性があるのです。
①北九州説②近畿説③瀬戸内説・・・未曽有の混乱を治める新しい指導者には、どのようなバックグラウンドのある者を選べばいいのでしょうか・・・??

果たして卑弥呼は強大な国力を誇る北九州出身だったのでしょうか?
それとも文化的な近畿圏出身だったのでしょうか?
瀬戸内の宗教的カリスマだったのでしょうか?

第5章 改革者現る 最強豪族・蘇我氏
3世紀から作られ始めた前方後円墳・・・それは300年にわたり権力の象徴であり続けました。
ところが、6世紀に入ると前方後円墳の代わりに方墳が作られ始めました。
連綿と続いた古墳の在り方が変わったこの時代・・・その裏では一体何があったのでしょうか?
古墳の変革に関わったとされる注目されるべき一族・・・それは蘇我氏です。
初代・稲目・馬子・蝦夷・入鹿に至る4代は、古墳時代から飛鳥時代にかけて歴史の表舞台に現れた豪族です。
曽我氏と言えば、乙巳の変で滅ぼされた一族・・・
天皇を暗殺し、その位を狙った逆臣のイメージがあります。
しかし、今、議論が白熱しています。
日本が律令国家として形を整えようとする前夜・・・時代のキーマン蘇我氏の果たした役割とは・・・??

奈良県明日香村・・・蘇我氏が権勢をふるった歴史の舞台です。
近年、稲目の墓ではないか?と注目されているのは都塚古墳です。
築造は6世紀後半から7世紀初めごろ。東西約41m、南北約42mの大型方墳です。
2014年からの発掘調査によって・・・国内で極めて珍しいピラミッド型の方墳として注目されました。
日本書紀によると稲目は・・・
536年、大臣に就任。
以来およそ35年の間、政権の中枢で国を動かしました。

6世紀後半から天皇陵は前方後円墳から方墳へと変わっています。
どうして蘇我氏の時代からそんな変化が起こったのでしょうか?
そこには稲目の功績がりました。
稲目が台頭した理由は、屯倉と呼ばれる大和政権の直轄地を広げたことでした。
稲目は屯倉の設置に当たり驚くべき手法を取りました。
全国でも作られていなかった戸籍を活用します。
民を効率的に支配するためです。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
稲目の人材登用術に秘密がありました。
稲目が知識を持っていたというよりは、稲目が管轄していた渡来系の人々が、建築・文字など大陸の優れた技術・知識を持っていたのです。
それを稲目が利用したのです。
新しい技術・文化をどんどん吸収し、それを道具としてのし上がっていったのです。
稲目は渡来系士族との結びつきによって、大和政権内で確固たる地位を固めていきます。
そして、仏教受容・・・いち早く取り入れています。
その仏教を受け入れた稲目の先進性こそ、方墳を選んだ理由です。
お寺などは、四角の基壇を作ります。
なので、最初に四角い基壇を作って墓を作り始めたのです。
仏教寺院の在り方から、稲目が新しい古墳のスタイルを作り出した可能性があるのです。

稲目の息子・二代馬子の墓とされる石舞台古墳・・・
古墳に権力が象徴される・・・力の象徴が古墳・・・。
前報後円墳から方墳へ・・・それが、蘇我氏の力だったのです。
時代、社会の変わり目を作ったのが蘇我氏なのです。
馬子は父が受け入れた仏教を広げていくために、本格的な寺院・飛鳥寺を建立します。
古墳に代わる一つのシンボル・・・それを寺院に求めたのです。
本格的な寺院を最初に作る・・・そこに蘇我氏の新しい戦略・生き方があるのです。
ここに、権威を象徴する全く新しいモニュメントとして、ついに寺院が誕生しました。
仏教は当時の東アジアの先進性の象徴!!
馬子はこれを取り入れることによって、国際的に通用する国家へと変革しようとしたと考えられます。
更に馬子は、政治改革を推し進めていきます。
厩戸王と共に冠位十二階の制を作り、実力主義を取り入れます。
50年以上の長きにわたり、政権のTOPにいた馬子・・・蘇我氏は絶頂を迎えます。
権力はさらに次代へと受け継がれていきます。

あとを継いだのは3代蝦夷、4代入鹿・・・蘇我氏の中でも悪名高い二人です。
日本書紀によると、蘇我氏は帝位を傾けようとした大悪人として書かれています。
入鹿・蝦夷の親子は、天皇のいる飛鳥板蓋宮を見下ろす甘樫丘に邸宅を構え、宮門(うえのみかど)、谷宮門(はざまのみかど)と、天皇の住まいを意味する名でよんだと言います。
しかし、甘樫丘での発掘調査では、複数の大型建物、石垣、兵などの跡が見つかり、軍事拠点として使われていた可能性が出てきました。
この時期、大陸では唐が周辺諸国への軍事的圧力を強めており、その波は日本にも及ぶ可能性があり緊迫状態でした。
甘樫丘は飛鳥全体を抑える・・・防御の拠点と思われます。
都としての飛鳥を蘇我氏が監視して守るために、甘樫丘に新しい邸をつくった可能性もあります。
蘇我氏は、緊張たかまる国際情勢の中で、この国の守護者であろうとした可能性があるのです。
しかし、645年入鹿・蝦夷親子は、乙巳の変によって滅ぼされます。
一夜にして歴史の表舞台から引きずり降ろされたのです。
海外の文明の波を受けながら、神社などの新しいモニュメントを作った蘇我氏の時代・・・
変革を求める精神は後の世にも継承されています。
その証が再び古墳の形の変化に現れています。

蘇我氏失脚の直前に亡くなった舒明天皇の墓・・・天皇の墓は方墳から八角形の墳墓へと変化していました。
この八角形・・・支配者は天下の八方を治めるという中国の古代思想からきています。
これ以降日本は、中国の王朝のような強力な中央集権国家を目指していくことになります。

蘇我氏は、日本が古代国家への歩みを始めた6世紀から7世紀に、最も大きな影響を与えた豪族で、渡来人を支配下に置くことで大陸や半島の最新技術を掌握したのです。
文字が書け、計算、灌漑、養蚕、製鉄・・・などです。
前報後円墳は、豪族や大王を土俗の神として祭り上げる装置でもありましたが、それを否定し、仏教を導入したのです。
先進国になるために・・・!!
仏教家の大王家・貴族という新しいシステムを作り上げたのです。

蘇我氏が日本初の氏寺・飛鳥寺を作った意味とは・・・??
古墳はあくまでも墓で、労力をかけても一代限り・・・
お寺は1回作るとそこは永遠です。
古墳は300年たつと慣れてみんな作れてしまいます。
寺は、誰かれ作れないので、中央が造ってあげる・・・権力者にとって合理的で使いやすいものだったのです。
天武天皇の時代になると、日本各地にお寺・・・氏寺ができ、律令による社会が出来上がっていくのです。


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2017年3月、衝撃的な発表が奈良県明日香村でありました。
飛鳥地方最大級の古墳の存在が明らかになりました。

2014年からの発掘調査で・・・
新しく古墳の石室への通路の一部が見つかりました。
これらから、古墳の全体像が現れたのです。
小山田古墳と名付けられたこの古墳は、一遍が70mの方墳でした。
7世紀に築造され、完成後すぐに破壊されました。

これだけの巨大古墳を作れたのは・・・舒明天皇??
しかし、その一方で、この古墳が蘇我氏の拠点である甘樫丘の南の端にあることから、蘇我蝦夷の墓??
蘇我氏は、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と、100年以上にわたって君臨していました。
仏教や、新しい制度を次々と導入し、倭国を先進国へと生まれ変わらせた最大の功労者でした。
ところが・・・645年6月、古代史史上最大のクーデターが発生!!
乙巳の変!!です。

日本書紀によると、この時中大兄は皇極天皇から入鹿殺害の理由を聞かれ・・・

「入鹿は大王の位を脅かした。
 故に征伐した。」by中大兄

しかし、そこには、緊迫した大陸情勢があったようです。
そして一族の場内部抗争も大きく関係していました。
彼らが殺された本当の理由とは・・・??
蘇我氏失脚の謎は・・・??

奈良盆地の南・・・飛鳥・・・
ここは、100年にわたる蘇我氏の権力の舞台です。
無数の遺跡に彩られた地です。
中心には大和政権の宮殿跡・飛鳥宮跡。
7世紀前半、蘇我蝦夷・入鹿親子は権力の絶頂にあり、まさにここで入鹿が殺されました。
そして、南東には蘇我氏の強大な権力を誇示する石舞台古墳が・・・!!
高さ4.7m、高さ19.1m、の巨大な石室は、もとは土に覆われた一辺50m四方の方墳でした。
蘇我馬子の墓と考えられています。
どうして蘇我氏は強大な権力を得ることができたのでしょうか。

それまで無名だった蘇我氏を、一躍大和政権の中枢を担う大豪族に育て上げたのは、蘇我稲目でした。
稲目の墓とされる都塚古墳・・・
2014年の発掘調査で・・・その姿は6段以上のピラミッド型でした。
この古墳の形状から、稲目と朝鮮半島の強いつながりが感じられます。
将軍塚は、朝鮮半島北部の王朝・高句麗の王墓、都塚古墳と同じ石積みのピラミッド型古墳です。
稲目は、新しい精神文化を取り入れ、多くの渡来人のリーダーとなっていたようです。
渡来人たちを掌握し、彼らの最新の知識・技術を使って、大和政権に奉仕していました。
やがて・・・大臣という最高位まで上り詰めます。
さらに稲目は娘たちを大王の妃とし、娘たちの子が次々と大王となっていくのです。

稲目の死後、蘇我氏の最盛期を支えたのが、二代・馬子です。
馬子は、父から譲り受けた地位をさらに確固たるものとしていきます。
当時の大和政権は、大臣主催で有力氏族の代表者たちによる合議が行われていました。
これに対し、馬子は弟たちを蘇我氏から独立させ、新しい氏族とし、蘇我一族で多数派を形成できるようにします。
代表者会議を押さえた馬子は、推古天皇の元、厩戸王(後の聖徳太子)と協力し、大和政権の改革に努めるのでした。
その業績を代表するのが、日本初の本格的寺院・飛鳥寺の建立です。
当時、仏教は東アジア諸国で信仰され、文明のグローバル・スタンダードとなっていました。
馬子は、この仏教を積極的に導入。
さらに従来の世襲に代わって、実力主義を取り入れた官位制度を導入した冠位十二階などの数々の政策を推進し、日本を先進的な国に変わらせようとしました。

626年馬子が死去すると、後を継いだのは息子の蝦夷でした。
しかし、馬子の時代と打って変わって次々と内紛が起きます。
628年、馬子と共に、数々の改革を行ってきた推古天皇が崩御。
この後継者選びが難航します。
有力候補は・・・聖徳太子の子・山背大兄王と、田村皇子です。
蝦夷は、田村皇子を推していました。
しかし、蝦夷の方針に、蘇我一族から反対する者が出てきました。
蝦夷の叔父・境部摩理勢です。
馬子の代に、蘇我氏から独立し、境部氏を名乗っていました。
摩理勢は蝦夷に対抗し、山背大兄王を支持します。
次の天皇を擁した者が、次の大臣になれる・・・
そこには、蘇我氏内部の族長権争いが含まれていたのです。
馬子の代には結束して多数派を築いていた本家と分家・・・
しかし、蝦夷の代から一族間の不和の原因となっていきました。
蘇我一族の分裂によって、大王を選ぶ代表者会議は紛糾・・・
蘇我氏は強硬手段に・・・兵をもって摩理勢を攻め滅ぼしたのです。
629年蝦夷の推す田村皇子が即位し、舒明天皇に・・・。
ひとまず大和政権の安泰は保たれました。

7世紀・・・中国大陸では、世界史のターニングポイントとなる出来事が発生していました。
618年、世界帝国・唐王朝の成立・・・唐は、強大な国力を背景に、領土の拡大を推し進めます。
唐の二代皇帝・太宗は東に目を向け、朝鮮半島の三国への圧力を強めていました。
唐建国の直前、隋王朝によって大陸を南北に貫く大運河が建設されていました。
唐はそのインフラを最大限に活用し、国力、軍事力を増進していました。
倭国としても、強力な王権を作りあげて、東アジアの情勢に退所する国家づくりが課題となっていました。
朝鮮半島の状況は対岸の火事ではなく、どう対処するのか?大和政権の最重要課題となっていました。

642年皇極天皇即位・・・
643年、病気がちだった蝦夷は、「大臣」を入鹿に譲ります。
入鹿は若い頃、留学僧の元で学び、唐への造詣が深いといわれ、唐の脅威を誰よりも感じていました。
唐との戦いに備えるためには、国内の体制を変える必要がある・・・
入鹿の耳に飛び込んできたのは、一早く政治改革を断行した高句麗情報でした。
唐の圧力を受けていた高句麗では、有力貴族の淵蓋蘇文がクーデターを起こし、王を殺害、新しい王を擁立し、独裁体制を築きました。
有力な貴族が権力を握り、唐との全面対決に臨もうとしたのです。

入鹿は、中国の脅威にいかに立ち向かうのか・・・??
そして国内の問題とは・・・??
部民正があって、それぞれの部族はそれぞれの主人に奉仕する縦割りな仕組みでした。
朝廷が必要な物、人間、兵力は、主人の豪族、王族の許可を得たうえで初めて朝廷に集まってくるというシステムでした。
戦争が可能なシステムを作るということは、中央集権的な仕組みを作るという事でした。
縦割り的な部民正を一元化する仕組みを入鹿は考えていたのです。

国内外の危機に直面した入鹿はどうする・・・??

積極策・・・改革を急ぎ断行する。
邪魔者を除き、わが手に権力を集中させなければ!!
高句麗では、権力集中に成功した。
この時、自分の脅威となるのは、王位継承候補となる山背大兄王・・・
他の豪族に担ぎ出され、いつ対立するかもわからない・・・!!
山背大兄王は、父・厩戸王から交通の要所・斑鳩と莫大な財を継承していました。
入鹿が大王を傀儡とし、権力を集中するためには、排除しなければならない人物でした。

慎重派・・・多数派を形成
権力の集中化を進めれば、豪族たちからの反発も大きいかも・・・。
自分の考え方に賛同する者を増やし、多数派を占めるべきではないか??

大和政権内で、蝦夷、入鹿は孤立しつつありました。
蘇我氏の強大な権力に反発する豪族たちが増えていたのです。
その原因となったのが、40年前に馬子が厩戸王と作り上げた冠位十二階でした。
大王に仕えるものを12段階の等級に分け、色違いの冠で分けるという人事制度です。
官位は大和政権への貢献度に対して一代限りで与えられました。
世襲から離れ、実力主義という画期的なものでした。
しかし、この制度の導入によって、蘇我氏への反発が生れたのです。

遣隋使で2度隋に渡った小野妹子は最後は徳冠という最高の地位につきました。
そうすると、豪族たちの政治的立場が相対的に下がっていったのです。
一方で、蘇我氏だけの独り勝ち・・・その不平不満が募っていっていたのです。


反発を恐れず改革か?多数派を形成するべきか・・・??

643年、入鹿の決断を促す緊急事態が新羅で起こっていました。
当時、高句麗と百済の侵攻に悩んでいた新羅は、唐に救援を求めました。
唐は新羅に対し・・・
「汝の国 婦人をもって 主となし 隣国に軽侮せらる」と言いました。
唐は救援の見返りに、新羅の女王を退位させ、新しく唐の王族を即位させることを要求しました。
国の根幹を揺るがす事態に、新羅は内乱状態に・・・!!

新羅の状況は、女帝を頂く当時の日本にとって無視できない存在でした。
皇極天皇は女帝・・・。
入鹿は権力集中を目指し、早急に決断します。
643年11月、山背大兄王を攻め滅ぼします。
他の豪族の反発を顧みない性急な行動に蝦夷は・・・
「ああ・・・入鹿、なんて愚かなことをした。 お前の命も危ないぞ。。。」と言ったとか。
2年後、蝦夷の恐れは現実のものに・・・

645年6月12日・・・乙巳の変。
ついにクーデターが・・・!!
宮中での儀式の際に、中大兄皇子らによって入鹿は殺されたのです。
中大兄たちは、すぐに飛鳥寺に軍を集結し、甘樫丘の邸宅に籠る蝦夷と対峙!!
飛鳥寺の中大兄の元には、王族や豪族が次々と集まったといいます。
反蘇我氏で多数派が形成されていたのです。
13日・・・命運が尽きたと思った蝦夷は、自宅に火をつけ自害・・・!!

ここに蝦夷、入鹿は滅びたのです。
蝦夷が自害した甘樫丘の南の端には小山田古墳。
蝦夷の墓の可能性がある古墳です。
日本書紀には蝦夷と入鹿の墓について・・・
二人は生前、全国の人を使って、大陵、小陵という自分たちの墓を作らせていました。
一遍70mの巨大な小山田古墳、これこそ、日本書紀にある大陵ではないか??と言われています。
これは、一遍50mの馬子の墓石舞台古墳や一遍60mの推古天皇陵をしのぐ規模です。
この大王をも越える巨大な墓を築いたことが、蘇我氏滅亡の引き金になったのではないか??
同時期の大王墓よりも大きな墓を・・・

古代史上最大のクーデターと言われる乙巳の変・・・
その首謀者の一人は、長らく蘇我氏の後塵を拝していた中臣鎌足でした。
鎌足は強大な蘇我氏を打倒する為に、周到な計画を練ります。
中大兄皇子ら有力な王族を立てることに成功!!
さらに・・・蘇我一族を分断!!
目を付けたのは、入鹿から権力奪還を狙う倉山田石川麻呂。
彼を暗殺計画に引き込みます。
その結果、石川麻呂は、入鹿、蝦夷亡き後の新政権で乙巳の変への功績を認められ上り詰めます。
しかし、その石川麻呂も僅か4年で失脚!!
残された蘇我一族も、歴史の表舞台から消えていきます。
しかし、後の時代に入ってもその権力を握るための手法は、ある一族に受け継がれました。
鎌足に始まる藤原氏です。
8世紀、藤原氏が次々と一族の娘を天皇に嫁がせ、外戚として権力を確固たるものとさせていきます。

蘇我氏が権力を掌握した要因の一つが群臣合議を掌握すること、もう一つが天皇家・大王家と外戚関係になることでした。
100年にわたりキングメーカーであり続けた蘇我氏・・・彼らが僅か2日で権力を失った理由とは・・・??
そして、その後の日本の権力構造に与えたものとは・・・??

権力への反感が渦巻いて、軍や警察などが参加や無視・放置、玉や大義名分などの正当性が反乱軍にあること・・・が、クーデターを成功させる要因となります。
入鹿、蝦夷は、反感があるのに放置し、抑え込むだけの力もなかったこと・・・
同族を配置し、権力を高めようと思っていたものの、世代交代で敵となってしまった・・・。

舒明天皇以降、天変地異がたくさんありました。
皇極が即位してからさらに増えたと書かれています。
そこには蘇我氏・・・蝦夷、入鹿の横暴ぶりを批判する意図がありました。
蘇我氏は・・・族長は、明日かを基盤とした入鹿、蝦夷から河内を基盤とした石川麻呂に・・・
蘇我氏の同族の多くは生き残り、高い地位に・・・。

蘇我氏の役割は・・・牧歌的な豪族の寄り合いを、近代国家に作り替えようとしたこと。
蘇我氏は先駆的・・・時代に先駆けて改革を目指したがゆえに、周りから浮き上がって潰されてしまった悲劇なのです。
国づくりをどうするかを考えて、突っ走って滅んでしまったのです。

日本の外交安全保障は、朝鮮半島情勢とその時々の大国が非常に大きなファクターであって、それは今も変わりありません。
性急な中央集権的国家を作り上げようとすると、失敗する可能性が高い・・・
日本史を貫く法則かもしれません。



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聖徳太子: 実像と伝説の間

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日本の紙幣に7度も肖像を使われた人物・・・それは偉人中の偉人・聖徳太子です。
遣隋使を派遣するなど、古代の日本に仏教を広まる礎を築いた人物とされていますが・・・
近年、その存在が疑問視されています。
聖徳太子は架空の人物なのでしょうか・・・??

6世紀末から7世紀にかけての飛鳥時代・・・奈良にあった大和政権が日本を動かしていました。
そこで数々の業績をのこした偉人が聖徳太子です。
が・・・その聖徳太子にいろいろと疑惑が出ています。

①架空の人物ではないのか・・・??
聖徳太子の記述が初めて出てきたのは、死後100年ほどたった「日本書紀」(720年)です。
そこには、冠位十二階、憲法十七条を定めた人物と記載されています。
これは、当時の政権の中枢の藤原不比等たちが創作されたもので、聖徳太子も架空の人物ではないか?というものです。

虚構説について・・・
日本書紀における聖徳太子が、数多くの粉飾、脚色に覆われていることは事実ですが、モデルとなった人物がいたのではないか??という見方が主流となっています。
そのモデルは・・・推古天皇を補佐していた人物で、推古天皇の甥にあたる・・・用明天皇の第二皇子とされています。
しかし、その正式名称はわかっていません。
日本書紀にも聖徳太子というという記述はなく、厩戸皇子、東宮正徳、上宮太子、皇太子、上宮厩戸豊か聡耳太子・・・など、様々な名前で記されています。
聖徳太子という名が出てくるのは、日本書紀が偏されてから30年ほどたった奈良時代の漢詩集「懐風藻」が最初です。
聖徳とは、日本書紀の「玄なる聖の徳」から来たと考えられ、その意味は「王位にはつかなかったが王と同じ徳を持つ」という意味です。
そして、聖徳を持つ皇太子・・・「聖徳太子」が一番ふさわしい・・・となったのです。

②肖像画は聖徳太子ではない・・・??

かつての1万円などの肖像画の元となったのは、聖徳太子の姿を描いた最古の画として伝えられている絵です。

が。。。日本らしくない服装から、唐人ではないか?、百済の阿佐太子ではないか?とされてきました。
ところが1980年代、奈良市の遺跡から手掛かりの木簡が発見されました。
この木簡の裏には、日本の役人の姿が書かれており、その姿があまりにも似ていることから、法隆寺の人物画が8世紀に書かれたもので、日本人であることが判ります。
つまり、法隆寺の人物画は、飛鳥時代には書かれていないものの、奈良時代、信仰のために聖徳太子をイメージして書かれたと思われます。

③超人伝説は本当なのか・・・??
日本書紀によると、聖徳太子と言えば・・・
馬屋の前で生まれる。
生まれたばかりで言葉をしゃべった。
一度に10人の訴えを聞き分けた
未来を予言した

こうした超人伝説はどうして生まれたのでしょうか??

聖徳太子には・・・「上宮 厩戸 豊聡耳」という長い名前がついていました。
この名前から、紡ぎ出されたものと思われます。

聖徳太子を神格化したのは・・・皇太子の理想像を作り上げたかったからではないか?と思われます。
皇太子はどうあるべきか??と、聖武天皇のお手本を示すためだったのかもしれません。

日本が倭国と呼ばれていた6世紀末、奈良地方では、有力な豪族たちによる連合政権が形成され、その盟主として大王が中心にいました。
当時はまだ明文化された法律も、官僚制度もなく、政治は、大王、皇族、豪族などの話し合いで行われていました。
そうした中、聖徳太子は推古天皇の補佐役となり、当時の有力豪族・蘇我馬子と協力し合いながら、政務に励んでいました。
しかし、その頃の日本は外交において難題を抱えていました。
当時は、朝鮮では、高句麗、百済、新羅、任那と別れており、高句麗、新羅、百済の三国の争いが続いていました。
そのため、鉄の産地として日本と深い関係にあった任那が新羅に併合されてしまったのです。
このままでは鉄の供給が断たれてしまう・・・!!
倭国は三度にわたり、朝鮮半島遠征を試みますが・・・芳しい成果は得られませんでした。

そこで、政策を変更!!
当時中国を統一した隋に近づくために、使者を送ることを決めます。
新羅に対して、倭国が働きかける。。。
新羅が隷属している隋に直接働きかける。。。
と、考えたのです。

当時の朝鮮半島の国々は、隋と属国関係にありました。
支配者である隋に働きかけて、任那から撤退させようとしたのです。

600年遣隋使を派遣
しかし・・・この目論見は大失敗!!
「隋書」倭国伝によると・・・
隋の役人が日本の国情を尋ねたところ、日本の使者は・・・
「倭王は天をもって兄となし 日をもって弟となす
 夜明け前に政務をとり、日が昇ると政務を停止し 後は弟に任せる」
意味不明な説明に、隋の文帝は「道理ではない」と、あきれてしまいました。
帰国した使者からの報告に聖徳太子は、
「我が国は国の制度も整っていない後進国だ。
 これではまともに隋と外交交渉することもできない」
この最初の遣隋使の失敗によって、国づくりを急ぐ必要があったのです。

どうして隋に認めてもらえなかったのだろうか・・・??
国内体制の整備に取り掛かります。
603年大和朝廷内・小墾田宮に遷宮
ここは、外国からの使者を迎えるいい場所となりました。
これがのちの天皇の御所の原型となりました。

当時の氏姓制度は、蘇我(氏)臣(姓)馬子・・・と、大王から授けられた姓によって決められていました。
臣・連を最上位に、姓によってランク分けされた世襲制でした。
そのため、どんなに優秀な人物でも姓が低ければ、上には立てなかったのです。
このことについて隋は・・・”頭には冠はなくただ髪を両耳の上に垂らしている”と、蔑んでいました。
隋では役職に応じた官位がさだめられ、冠を付けた正装で職務を行っていました。官位制度です。
もちろん出世は実力次第です。
日本もこれを見習うべきだ!!
と、冠位十二階を定めます。
さらにこれら冠は、姓ではなく、個人の功績や実力によって与えられることとなりました。
隋に認められるために・・・!!

604年憲法一七条の制定。
そこには聖徳太子が理想とした国づくりの理念が書かれており、当時生まれたばかりの官人たちへの批判が書かれていました。
さらに、社会秩序を作り出す礼の重要性を説きます。
憲法一七条には、儒教・法家など外来思想が採りいれられていました。
中でも国の中心に置いたのが仏教でした。
こうして国内の制度を作り上げ、隋との交渉に臨んだのでした。


実際の聖徳太子は・・・??

聖徳太子は574年頃、用明天皇の二番目の皇子として生まれます。
将来を嘱望されていた皇子でしたが、家庭環境は複雑でした。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女は異母兄弟で、さらに用明天皇が587年頃崩御。
母親が用明天皇の第一皇子・多米王と再婚。
母親が兄の妻となってしまったのです。
母の近親結婚に悩んでいた・・・とも言われています。
しかし、これは当時、当たり前のことでした。

用明天皇が亡くなると、後継者擁立を巡って蘇我馬子と物部守屋との対立が表面化。
馬子は物部派の穴穂部皇子を殺害!!
さらに物部守屋を討伐!!
実権を握った蘇我馬子が皇位につかせたのが聖徳太子のもう一人の叔父・崇峻天皇でした。
が、崇峻天皇も馬子によって暗殺されてしまいました。
次々と同族の死が・・・聖徳太子は悩んでいたようです。

601年に斑鳩に宮殿を移す用意を始めました。
聖徳太子が斑鳩に移ったのは・・・??
新しい職務の遂行のためでした。
斑鳩は、当時都があった飛鳥と難波津の中間にあたる場所で、龍田道、大和川・・・交通の要所でした。
ここに拠点を置けば、外国の情報をいち早く手に入れることが出来る!!ということです。
斑鳩への移住は、外交に専念するためだったのです。

607年小野妹子を使者とする第二次遣唐使を隋に派遣します。
その頃の隋の皇帝は、煬帝へ変わっていました。
煬帝は権力をほしいままにしていた暴君・・・その煬帝へ、国書を・・・小野妹子に託します。
隋書倭国伝によると、派遣の理由は・・・
「仏教復興に勤めている天子様にご挨拶するとともに、我が国の僧侶たちに仏教を学ばせたい!!」
煬帝が目にしたのは・・・
「日出づるところの天子、書を日没するところの天子にいたす、つつがなきや。」
煬帝はこの一文で・・・
「蛮夷の書は礼儀をわきまえていない!!」と、あきれ返ったと伝えられています。
”天子”は一人しかいない!!無礼極まりないということです。
その結果、小野妹子に国書を渡し、裴世清を日本に遣わします。

聖徳太子は政務にまい進しながら、仏教研究にも力を注ぎます。
「聖徳太子建立七大寺」は・・・四天王寺・法隆寺・法起寺・広隆寺・中宮寺・橘寺・(葛木寺)・・・

622年聖徳太子は斑鳩で亡くなったとされています。
2月21日妃の膳部菩岐々美郎女死去。
2月22日聖徳太子死去・・・
流行り病だった可能性があります。
お墓は、叡福寺北古墳と推定されます。



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シリーズ日本のインパクト~2~です。

6世紀~8世紀に朝鮮半島の百済から仏教が伝わりました。
仏教との出会いは、人々にとって衝撃でした。

それまでの日本の神々は、万物に宿る八百万の神。。。霊的な存在でした。
突然現れた、姿かたちのある黄金に輝く神々は・・・
受け入れるかどうか・・・で、大和朝廷は大分裂!!
蘇我氏VS物部氏との半世紀にわたる戦いとなりました。

”仏教伝来”以前の日本人の宗教心は・・・???
自然の山・森・・・だったのが、その信仰対象が自然から人形のものに。。。
今まで見えなかった神が、見える神となったのです。
では・・・何を持って仏教伝来???
以前から入っていた可能性はありますが、仏教公伝・・・百済から日本に・・・政府間でもらってしまったことから始まりました。

長野県・善光寺には、日本初の仏像が安置されています。
その仏像は、絶対秘仏とされ、誰も見ることができません。
しかし、その雰囲気は、江戸時代に作られた「善光寺縁起絵伝」に描かれています。
朝鮮半島・百済の聖明王から伝えられた仏教・・・
ところが、縁起に描かれている仏像は、川に投げ捨てられたり、焼かれたり・・・木づちで壊されているものもありました。
日本書紀によると・・・仏教を巡る一大抗争が浮かび上がってきます。
仏教を礼拝するかどうか???
当時天皇は、司祭のような存在でした。
そんな天皇が、異国の神を崇拝しても良いものか???

代々王家に従属する豪族・物部尾輿は、
「外国の神を礼拝すれば、日本古来の神の怒りを招くでしょう。」と猛反対。
自制部門を司る豪族・蘇我稲目は、
「ほかの国はみな、礼拝しています。
 日本だけが背けますでしょうか?」と、賛成しました。

廃仏派物部氏VS崇仏派蘇我氏・・・
両者は真向から対立し、血で血を洗う崇仏論争が始まりました。
半世紀にわたるその戦いの結果、物部守屋は討ち死にし、崇仏派・蘇我馬子が勝利しました。
というのが、定説でした。
しかし、この抗争の原因は仏教ではない???
崇仏論争は架空のお話???
というのも、物部氏は親百済派でした。
だから、仏教に対して冷淡ではなかったというのです。
その根拠は・・・
①仏教国・百済との緊密な関係。
 日本書紀には、物部氏の百済王に仕える日系人の記録が残っています。
 物部氏の子孫が、日系百済官人として活躍していたのです。
②実は仏教寺院を建てていた???
 大阪府八尾市渋川天神から礎石が発見され・・・巨大な仏教寺院があったようです。
 河内の地は物部氏の本拠地・・・仏教と関わりが深かったと考えられます。
 むしろ崇仏派のようです。

では、その争いは???
”渡来人の掌握”でした。
当時、たくさんの渡来人がありました。
その遺跡は、奈良・大阪で30カ所以上。。。
中でも有力だったのが、飛鳥・蘇我氏の東漢(やまとのあや)と、渋川・物部氏の西漢(かわちのあや)です。
渡来人縁の東漢の遺跡では・・・
古代の床暖房・オンドルを使いこなし、金はしを使って鉄器生産を行っていました。
それは、当時の最先端技術。。。
その中には、仏師もいました。

西漢は・・・新羅の国の接待など外交官の役目をしていました。
優秀な技術と知識を持つ渡来人たち・・・自らの勢力拡大をするために・・・
必要だったのが、仏教。。。
仏教を保護し、帰依する・・・それが、渡来人との結節点となったのです。

日本最初の本格的仏教寺院・飛鳥寺には、飛鳥大仏があり・・・日本で一番古い大仏です。
飛鳥寺の発案者は、蘇我馬子。。。一大国家プロジェクトでした。
金の装飾品や勾玉などがあり・・・日本の伝統的な古墳文化と外来の仏教文化の融合だと思われていましたが、韓国の王興寺でも同じような金の装飾品・勾玉が発見されています。
つまり・・・百済の強い影響を受けていたのです。
建物の並び方・・・一塔三金堂の造り、瓦も王興寺の影響と言われています。
そして、この王興寺を建てた人物こそ聖明王の長男・昌王・・・百済王だったのです。
飛鳥寺は日本独自のものではなく、百済の技術者派遣によって造られたものだったのです。

6世紀の古代ニッポンに忽然と出現した飛鳥寺。。。
その姿は・・・???
金堂に安置されていたのが飛鳥大仏。
この大仏が日本の技術発展に多大な影響を及ぼしました。
金銅仏は鋳造技法。・・・技術が発達していきます。
建築技術も発達し、高層の木造建築が可能となりました。
赤や緑の鮮やかな色彩・・・。自然の色とは違う趣に圧倒されます。
ここから日本の技術発展が始まる・・・まさに文明開化だったのです。

どうして百済は飛鳥寺建立に力を注いだのでしょうか?
当時百済は、高句麗・新羅と領土問題で対立していて・・・日本に仏教や技術を伝える代わりに、強固な同盟関係を望んでいたのです。
では、日本はそれにどう応えたのでしょうか???
書物には、
「蘇我馬子と2人の息子、及び従者百人あまりはみな髪を分け、百済の服を着た」
とあります。百済との外交を宣言したのです。
この後、ニッポンは東アジア社会へと船出していくことになります。

しかし、初めは外交のツールとして使われていた仏教・・・担い手は、貴族階級でした。
そんな中、仏教が民衆に浸透するきっかけとなったのが、”東大寺大仏の建立”でした。
仏教伝来から200年後のことです。
発案したのは、時の天皇である聖武天皇です。
それは・・・平城京に都を移した苦難の時代でした。
政治は乱れ、飢饉や疫病が蔓延していました。
民に幸福をもたらすために、仏教を使います。
巨大仏像を!!

計画されたのは、高さ15mにも及ぶ世界最大級の大仏です。
聖武天皇は、この巨大な大仏を建てるために・・・建設地を求めて流転します。
そんな天皇を支えたのは行基でした。
行基は、父は百済王の王子・王爾(わに)の子孫、母は百済から渡来した蜂田家の家系でした。
そう、行基は渡来人の末裔で。。。自らが持つ渡来系ネットワークを駆使していました。
多くの民衆の智識を駆使して、貯水池・橋・・・色々なものを作りながら、仏教の教えを広めていきます。
行基の下で働くことは、徳を積むことになる・・・
そこで、聖武天皇は協力を仰いだのです。
幅広い層の人々が大仏づくりに参加して・・・それが仏教の大きな転換点となり。。。
信仰心は一貴意に孝あまり、仏国土・日本が確立されていきました。
752年大仏開眼法要が行われました。
そして、ここから新しい日本が始まるのです。


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金曜日の続きです・・・。あせあせ(飛び散る汗)

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なぜ蘇我氏は排除されなければならなかったのでしょうか?

日本書紀「皇極紀」には、
「蘇我氏は甘樫丘に大邸宅を築き、「宮門」(王の住まい)と呼んだ。蘇我入鹿は野望を抱き、自ら天皇になろうとした。」・・・逆賊であると、記されています。

しかし、これにも疑問符が付くのです。

2007年、甘樫丘の発掘調査で、邸宅跡が発見されました。そこにあったのは、わずか10坪の部屋ばかりでした。大邸宅ではなかったのです。
この、皇極紀の記載も、加筆されたかのように、文章のくせが違うのです。

加筆で脚光を浴びたのは、天皇を頂点とするために行った乙巳の変の主導者、中大兄皇子と中臣鎌足です。この二人が行ったクーデターが、正義のクーデターであるためには、蘇我本宗家、特に入鹿が極悪非道でなければならなかったのです。

これと同じ加筆者が、厩戸皇子についても加筆している可能性があるのです。

587年「崇峻紀」より・・・
「味方の軍勢が、今にも破れそうになると、厩戸皇子は仏教の守護神、四天王に祈願し、勝利を呼び込んだ。」=聖徳太子を奇跡の英雄として持ち上げたのです。

「日本書紀」の最終段階で、聖人君子として特別な人間として描こうとしたきらいがあるのです。


それが、万能の英雄の誕生でした。

大化の改新の目標、正当性を集合代名詞である「聖徳太子」に託したのかもしれません。

中国の司馬遷の「史記」に代表されるのは、物語として読ませるために、作り話が入っているということ。
記述には・・・
帝紀・・・皇帝に関する出来事を年ごとに記述
列伝・・・個々の人物の一生を記述したもの
この2つがあって、これが合わさって歴史書となっています。

でも、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足が英雄ではないのでしょう?

聖徳太子の制度は、1世紀後に律令制として国家ができたことによって完成されました。
つまり、聖徳太子の業績は、100年後に花開いたのです。

厩戸皇子は、権力争いから身を引いたにもかかわらず、子孫は蘇我氏によって滅ぼされています。
厩戸皇子は、日本史の悲劇のヒーローの先駆者でした。

居たという証明は、今となっては難しいですが、その信仰は、まぎれもなく今現在も残っています。
聖徳太子は、良い国をつくろうという日本人の象徴として生きてきたのかもしれません。

その力は、日本史にとって絶大です。


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聖徳太子 四天王寺の暗号―痕跡・伝承・地名・由緒が語る歴史の真実

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