日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:蜀

今からおよそ1800年前の中国大陸・・・国は乱れ、各地で反乱が起きていました。
そこに新しい世を作ろうと、三人の英雄が登場します。

冷徹な天才政治家・魏の曹操
豊かな土地と文化を誇る・呉の孫権
裸一貫から一国の王に上り詰めた・蜀の劉備

しかし、劉備の建国までの道のりは、失敗と敗北の連続でした。
400年に渡り中国を治めた漢帝国・・・その力が弱まり、群雄割拠の世となったとき、一人の英雄が表れました。
劉備・・・3世紀、魏・呉・蜀の三国時代に、蜀の皇帝となった男です。
小説・三国志演義では、劉備が正義で曹操が悪人と描かれています。
高潔な人柄で、人々に慕われ、一騎当千の豪傑たちを率いる堂々たる英雄です。
しかし、歴史書の三国志に書かれている劉備は、俗物で泥臭い男でした。
貧しい家に生まれた劉備は、親の期待とは裏腹に勉強嫌いで博打好き・・・30過ぎまで自分の領地を持てず、有力者のもとに転々と身を寄せる居候でした。
戦でも、大事な場面で負け続け、ライバル曹操との直接対決では完膚なきまでに叩きのめされました。
しかし、義兄弟の契りを結んだ関羽・張飛・・・そして、・・天才軍師・諸葛亮に支えられ、数々のピンチに立ち向かいます。

劉備は成り上がりの俗物だったのか?
それとも、庶民の味方・真の英雄だったのか??

1800年前の中国大陸・・・
乱れた世を治め、民を救おうと立ち上がった劉備・・・彼の元には、様々な人が集まってきました。
その中に、呂布という武将もいました。
呂布は、無類の強さを誇る反面、権力のためには見方を裏切り、主君殺しとして有名でした。
劉備はそのことを知りながら、あえて呂布を部下とします。

どうして劉備は裏切り者を受け入れたのでしょうか?
161年、劉備は現在の北京から南の農村地帯に生れました。
実家は、漢王室の血筋を引く家柄とされていますが、父が早くに亡くなったので、没落し、暮らしは貧しかったのです。
少年時代の劉備は、母と共に草履やむしろを売って生活していました。
母は、親戚の援助を受け、劉備に儒学を学ばせます。
息子の将来に期待したのです。
しかし、三国志では、劉備は・・・

”読書が好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美しく整えていた”

勉強に興味はなかったものの、犬や馬のレースを通じて、商人や地元の名士と友達になり、人脈を広げていきました。
そんな劉備・・・幼いころから大きな夢を抱いていました。

「俺はきっと、羽飾りのついた天子の車に乗ってやるんだ!!」by劉備

184年、劉備23歳の時、その夢をかなえるきっかけとなった事件が起こります。
黄巾の乱です。
多くの農民が各地で蜂起、漢の打倒を目指して戦います。
乱の原因は、漢の堕落・・・
政治腐敗が進み、役人の間では賄賂が横行していました。
役人は、私腹を肥やす反面、民衆には重い税を課して苦しめていたのです。
そんな漢を倒すための黄巾の乱でしたが、戦いで土地は荒れ、略奪や暴行が相次ぎ、民衆の苦しみは消えることはありませんでした。
そこで劉備は、治安を守り、困窮した民を救おうと立ち上がります。
有力な商人から資金を援助してもらい義勇軍を結成。
その時、劉備のもとに集ったのが、後に一万の兵に匹敵すると言われた豪傑・関羽と張飛です。
劉備が目指したのは、漢帝国の再興・・・今の腐りきった漢ではなく、徳による政治が行われ、民が平穏に暮らすことができたかつての姿・・・それを取り戻すのが、漢王室の血を引く自分の務め・・・!!

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その後、各地の混乱を治めて実績を積んだ劉備は、地方の行政官を任されるまでになりました。
自らの蓄財に興味のなかった劉備は、それまでの役人とは違い、民衆から不当に税を取り立てませんでした。
さらに、身分を問わず誰とでも分け隔てなく接した劉備は、民衆から絶大な支持を集めました。

その2年後・・・193年、徐州から援軍要請が来ました。
徐州は、上海から北西へ500キロ・・・古くから交通の要衝として栄えた土地です。
徐州に侵攻してきたのは曹操・・・漢の衰退をきっかけに、破竹の勢いで勢力を拡大する武将です。
曹操は、漢帝国の高官の家柄で、中国北部を抑え勢力を伸ばしていました。
曹操は、歯向かうものは容赦なく叩き潰す冷徹な武将・・・
領国では農政や軍事に革新的な手腕を見せました。
しかし、厳しすぎる規律のために、逃げ出す者もたくさんいました。
そんな曹操との初対決に臨んだ劉備・・・
圧倒的な軍事力を誇る曹操に叩き潰されました。
降伏も時間の問題か・・・??
しかし、幸運なことに曹操は途中で撤退していきました。
曹操の留守中に反乱がおきたため、やむ終えず引き返したのです。
曹操軍が撤退したことで、194年、33歳で劉備は徐州を領有します。
それから1年後・・・劉備を頼って一人の武将が身を寄せてきました。
無類の強さで天下に知られた呂布でした。
呂布は、漢の高官の部下でしたが、権力を掴むためには裏切りもいとわず、仕えた主君を次々と殺害・・・
誰もが眉を顰める主君殺しの武将でした。

しかし、劉備はそれを承知で呂布を部下にします。
案の定、呂布は劉備の留守に反乱・・・徐州を強奪します。
劉備は行き場を失いました。
この時、劉備が頼ったのは、かつての敵・・・曹操でした。
この時、曹操も呂布と敵対していました。
それを知った劉備は、共同戦線を張ろうと持ち掛けたのです。
曹操の援軍を得た劉備は、苦戦を強いられながらも勝利し、呂布を捕らえました。
曹操は、武将として能力の高い呂布を生かそうと考えます。
しかし、劉備は主君を裏切った呂布を信用できない・・・と主張します。
結局、呂布は処刑されました。

かねてから劉備を高く評価していた曹操は、その後も劉備を手厚くもてなします。
曹操にはなかった”徳”を劉備は持っていました。
そんな劉備に対して、曹操は畏敬の念を持っていたのです。
しかし、2人の蜜月は、長くは続きませんでした。
ある日、曹操は、劉備にこう言いました。

「天下の英雄と言えば劉備と曹操だけだ」by曹操

劉備は思わず箸を落としました。
何故なら、後ろめたい思いがあったからです。
少し前、劉備は漢の第14代皇帝・献帝から、曹操暗殺の密命を受けていたのです。
暗殺計画が表沙汰になれば命はない・・・
劉備は、敵軍討伐を口実に、曹操のもとを逃げ出します。

関羽、張飛と共に向かったのは、徐州・・・
劉備は、かつて呂布に奪われた徐州の奪還に成功します。
この時、38歳でした。

戦乱の世に名乗りを上げた劉備・・・
しかし、領地を得るような大事な戦に負け続け、部下を率いて流浪の日々が続きます。
そんな劉備を慕ったのは、土地を追われた貧しい民・・・
劉備についてくる民の数は膨れ上がります。

負け続けの劉備に、どうして人々はついて行ったのでしょうか?

曹操のもとを逃げ出し、徐州を取り返した劉備・・・
しかし、劉備の裏切りに激怒した曹操は、自ら精鋭を率いて徐州に攻め込んできました。
曹操軍の強さを身に染みてわかっていた劉備は、震えあがります。
戦わずして、妻子を見捨てて逃走~~!!
劉備と兄弟同然のつながりで結びついていた関羽は、曹操に捕らえられてしまいます。
一方、逃げた劉備は、曹操と敵対していた豪族のもとに身を寄せ、居候となりました。

捕虜となった関羽・・・しかし、意外にも手厚い歓待を受けます。
曹操から金品や名馬を授かり、さらに、兵士と土地まで与えられたといいます。
曹操は、武勇に優れた関羽を部下にしたいと思っていました。

しかし、関羽は・・・

「曹操公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、私は劉備様から厚い恩義を受けており、一緒に死のうと誓った仲です
 あの方を裏切ることはできません」by関羽

その代わりに、曹操軍を苦しめていた将軍を討ち取ります。
そして早々に受けた恩を返したのです。
こうして関羽は、曹操の誘いを断り去っていきました。
もとの主君に帰っていくのは、中国では極めて例外的です。
破れてしまった主君を捨てて、新しい有能は主君に仕えて自分の才能を生かしていくというのは、中国では普通なのです。
生かして劉備のもとに返せば強敵になる・・・家臣たちは、関羽に追い討ちをかけようとしました。
しかし、曹操は、

「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ
 追跡してはならない」by曹操

関羽が戻れば、許(曹操の本拠地)の情報が全部バレてしまう・・・
しかし、曹操は関羽を信じてもとの君主である劉備のもとに帰っていく関羽を”義”だと評価しています。

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再び関羽と合流した劉備・・・
今度は、漢の皇帝の血を引く劉表のもとに身を寄せることになります。
劉表の治める荊州は、中国大陸のほぼ真ん中・・・戦乱の世で中立と平和を保ち、多くの儒学者が集まっていました。
劉備は、曹操に対抗できる武将として厚遇されました。
平穏な日々が6年続きましたが、天子の車に乗るという幼いころの夢には近づくこともできないまま、46歳になっていました。

「月日が経つのは早く、すでに老いも目前に迫っている
 だが、何の功績も立てられず、あまりにもふがいない」by劉備

劉備は考えます。

”どうして自分は領地を持てないのか?”

「戦いに勝つだけではダメだ・・・
 民や土地を治め、長期的な戦略を描ける優秀な軍師が必要だ」by劉備

そんなある日、劉備は近くの村にいる男のうわさを聞きつけます。
才能がありながら誰にも仕えず暮らしているという・・・
その名は、諸葛亮・・・自分よりも20歳も若い男でした。
劉備は早速、諸勝郎の家をたずねてみました。
しかし、旅に出ていて不在だという・・・
日を改めて訪問しましたが、またしても留守でした。
それでもあきらめず3度目に訪れた時・・・

「劉備殿・・・先生が戻られました」

仮にも将軍の劉備が、実績のない若者に最大限の礼を尽くしたのです。
いわゆる”三顧の礼”です。
諸葛亮は、こうした劉備の姿勢に感動し、会うことにしました。
諸葛亮は、諸国の情勢を分析し、天下統一の道筋を示します。

今、劉備が強大な曹操と戦うのは得策ではない・・・
そこで、南の大国・呉を二代に渡って治めている孫権と手を組み、曹操に対抗させる・・・
両者が争っているうちに、劉備は拠点となる土地を手に入れ、第三の勢力になる・・・
そして、天下統一への足掛かりをつくる!!

この策は、”天下三分の計”として後に広く知られることになります。

一方、曹操は、着々と領土を広げていました。
劉備と諸葛亮が会った翌年の208年、曹操は荊州に侵攻を開始、再び劉備に迫ってきました。
時を同じくして、荊州の主・劉表が死去・・・
この時、諸葛亮は、劉表の息子を討てば荊州を奪うことができると進言しました。
しかし、劉備は、
「しのびない・・・」
ところが、劉表の息子は、曹操と戦わずしてあっさり降伏してしまいました。
止む無く劉備は、仲間と共に、荊州を離れます。
曹操の厳しい仕打ちを恐れた民衆は、劉備たちの後を追いました。
その数、十数万人・・・!!
この状態で、曹操の追撃を受ければひとたまりもない・・・
劉備の部下は、民を見捨てて我らだけで行きましょうと進言します。
しかし、劉備は

「大事をなすには 何よりも人をもってもととなす
 今、自分を慕って来てくれている人々を見捨てて行けるか」by劉備

多くの民を引き連れて、ゆっくりとした歩み・・・
瞬く間に曹操軍に追いつかれ、絶体絶命・・・!!
この時、劉備の窮地を救ったのは、旗挙げの時から苦楽を共にした張飛!!
曹操軍の前に立ちはだかった張飛は、

「俺が張飛だ!!かかってこい!!
 死を賭して戦おうぞ!!」by張飛

怖気づいた敵兵は、誰一人、張飛に近づかなかったといいます。
張飛の活躍でなんとか窮地を脱したものの、流浪は続きます。

湖北省・武漢・・・長江のほとり・・・かつて夏口と呼ばれた地に47歳の劉備は逃げ延びてきました。
なんとか曹操軍の追撃を逃れたものの、このままでは南へと勢力を拡大する曹操に飲み込まれてしまう・・・!!
かくなる上は、呉の孫権と同盟を組んで曹操と対抗するしかない!!
劉備は早速、諸葛亮を孫権のもとへ送ります。
その呉では、隊群で迫りつつある曹操と戦うべきか、降伏するべきか、未だ決めかねていました。
そこに現れた諸葛亮・・・孫権の家臣は、「協力して早々と戦おう」と、言いに来たに違いない・・・と、思いました。
しかし、諸葛亮は思いもよらない言葉を孫権に投げかけました。

「もしも、曹操に敵わないと思われるのであれば、すぐに降伏なさるがいいでしょう」by諸葛亮

と、降伏を勧めたのです。
一国の主に対し、あまりにも無礼な物言いでした。
孫権は思わず、

「曹操に負け続けてきた劉備こそ、なぜ降伏しない?」by孫権

と問い返しました。

「我が主・劉備殿は、漢王室の血筋・・・
 もし負けて滅んだとしてもそれは天命
 どうして曹操に降伏出来ましょうか」by諸葛亮

「私とて、広大な領土と10万の軍勢を持つ身、曹操の言いなりになどならない・・・!!」

劉備と手を結び、曹操と戦おう!!
孫権は、諸葛亮の狙い通り、同盟が成立!!

その頃、曹操は大軍を率いて長江を下っていました。
兵士の数は、実に20万・・・
曹操軍と劉備・孫権軍が激突したのは、長江の中流にある赤壁でした。

長江の両岸で睨み合った両軍・・・曹操軍20万に対して劉備・孫権軍は3万・・・兵力の差は歴然でした。
しかし、曹操軍にも弱点がありました。
曹操は、陸の騎馬戦ではめっぽう強かったものの、水上の戦いにはなれていませんでした。
しかも、船が揺れるのを防ぐため、船同士をつないで固めていました。

そこで、劉備・孫権軍は、一計を案じます。
まず、配下の者に「降伏したい」という手紙を曹操に送らせておきます。
そして夜・・・見方を裏切ったふりをさせて、曹操軍のもとへと船を進ませます。
降伏に来たと信じて、警戒を解く曹操軍・・・
その時・・・一斉に船に火をかけて突進!!
折しも強風がたけり狂い、全ての船に火が映って岸辺にある軍営にまで延焼しました。
煙と炎は、天にみなぎり、おびただしい数の人や馬が焼死や溺死をしました。
曹操軍は、膨大な数の犠牲者を出して敗走・・・!!
劉備・孫権軍は、見事な勝利を収めました。
劉備はその後、荊州の南部を占領・・・
ついに、天下三分の計の要となる地を手に入れたのです。

劉備の次なる狙いは、 荊州の西に位置する益州でした。
長江の上流・・・四川省の中心地・成都・・・
かつて益州といわれた四川の中心地です。
この時、益州を治めていたのは漢の皇帝の流れをくむ・劉璋でした。
211年、劉備が51歳の時、劉璋からの使者が来ます。
益州内での反乱鎮圧のため、劉備軍の派遣を要請してきたのです。
ところが、援軍の要請に来た使者は、劉璋を君主の器ではないと見限っていました。
そして、劉備に益州の地理など詳しい情報を与え、劉璋から益州を奪って治めてほしいと密かに依頼してきたのです。
その年の9月、劉備は自ら数万人の兵を引き連れて反乱鎮圧の援軍として益州に入ります。
何も知らない劉璋は、待ちに待った援軍が来たと喜び、酒宴で劉備をもてなします。
この時、劉備の家臣は、今すぐに劉璋を倒して益州を奪うべきだと進言しました。
しかし、劉備はこう言っていさめます。

「まだここに来たばかりで、民衆の心をつかんでいない
 これは重大なことであるから、あわててはいけない」by劉備

そして1年が過ぎた頃、益州を奪う好機が訪れます。
曹操がふたたび動き出し、呉の孫権を攻めたという情報が入ったのです。
劉備は、同盟相手の孫権を助けると言って、兵を動かしました。
しかし、向かった先は、孫権のもとではなく劉璋がいる成都に侵攻・・・!!
劉備は、10万を超える兵で成都を包囲・・・孤立した劉璋は降伏し、劉備はついに益州を手に入れました。

214年、53歳の時・・・ここに、劉備と諸葛亮が目指して来た天下三分の計の形が整ったのです。

天下三分の計を実現し、漢帝国の復興という目標に近づきつつあった劉備・・・
ところが、その10年後、劉備は周囲の反対を押し切ってかつての同盟を組んだ後の孫権に出兵します。
どうして劉備は孫権に挑んだのでしょうか??

53歳にして成都を手に入れ、蜀を領土とした劉備・・・魏・呉・蜀の三国時代が始まりました。
221年、60歳で、自ら帝位につき、漢帝国復興を宣言します。
劉備は、政にも自らの信念を貫きます。
敵将であっても投降すれば一定の地位と活躍の場を与えました。
劉備の徳による政治のおかげで、蜀の国は安定していきます。
しかし、劉備の目標はさらに先にありました。

求めていたのは「聖漢の大一統」・・・漢による中国統一でした。
そして劉備は天下統一に向けて動き出します。

218年、劉備は漢中に向かって進軍します。
益州北部の曹操の拠点を奪っていきます。
知らせを聞いた曹操が、長安から自ら出陣してきました。
定軍山・・・ここが、劉備と曹操の決戦の場となりました。
天然の要害である山に、劉備は立てこもります。
劉備は、2か月にわたる曹操の猛攻に耐え、曹操軍が疲弊するのを待ちます。
結局、補給が尽きた曹操は撤退・・・!!
劉備はついに漢中という天下統一の重要な足掛かりを手に入れました。
そんな矢先、劉備のもとに思いもよらない知らせが届きました。

関羽が孫権に殺されたという・・・
劉備は、益州に進出した時から、荊州の守りを最も信頼していた関羽に任せていました。
劉備に関中を奪われた曹操は、仕返しとばかりに呉の孫権に関羽を挟み撃ちにしようと持ち掛けたのです。
劉備の勢力拡大を警戒していた孫権は、曹操に合意・・・
荊州へ侵攻しました。
この計略にはまり、挟み撃ちにあった関羽は、呉の兵に捕らえられ斬首されました。

関羽を殺した孫権は、荊州を占領・・・
怒りに震える劉備は、孫権を倒すべく張飛に1万の兵を預け、呉へ出陣命令を下します。
ところが・・・張飛が出陣しようとした矢先、部下が謀反を起こします。
張飛殺害・・・!!
その首は、手柄になるだろうと孫権のもとへ・・・!!

関羽と張飛・・・かけがえのない二人を失った劉備は、孫権への復讐に燃えます。
しかし、家臣の中には反対する者もいました。
天下統一の戦うべき相手は曹操・・・!!
孫権と戦うべきではない・・・!!
221年、劉備は周囲の反対を押し切って出陣します。
劉備軍の士気は高く、圧倒的な勢いで勝ち進み、孫権軍の拠点をいくつも落としていきます。
しかし、孫権はあえて全面対決を避け、持久戦に持ち込みます。
決着がつかないまま半年が過ぎ・・・
夏・・・孫権の領内に深く侵入した劉備軍は、補給路を確保するために50以上の陣営を築いていました。
それらのほとんどが、夏の暑さを避けて森の中に作られました。
しかし、これは、自殺行為に等しいミスでした。
兵力は分散してはいけない・・・しかし、結局長期戦にされたので、分散してしまう・・・!!
暑くなって陣を長く、しかも木陰に引いてしまった・・・
兵法で禁じていることをいくつもやってしまった戦い方でした。

劉備軍の拠点に忍び寄った孫権軍は、一斉に火をかけました。
夏場の乾燥した森・・・火の勢いはすさまじく、劉備軍は次々と陥落・・・死者は数万人に上りました。
劉備は、なんとか敵の包囲を突破し、味方の城まで逃げ延びます。
しかし、そこで病に倒れます。
容態は急速に悪化し、死期を悟った劉備は諸葛亮を枕元に呼びます。

「我が息子が補佐するに足る器なら、補佐してほしい
             そうでなければ君が国をとるがよい」by劉備

諸葛亮は、涙ながらに劉備の息子を支えていくことを誓ったといいます。
223年、劉備はこの世を去りました。
62年の生涯でした。

劉備の遺志を継いだ諸葛亮は、天下統一を目指して5度にわたって魏と戦います。
しかし、諸葛亮も道半ばで病に倒れます。

劉備の死から57年後、280年に晋が中国を統一・・・三国時代は終わりを告げます。

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今からおよそ1800年前の中国・・・。
中国大陸で繰り広げられた英雄たちの戦いは三国志。
その中で、圧倒的で天下に最も近付いたのは曹操でした。
曹操は劉備や諸葛孔明に対して悪役??
冷酷で残忍な男???
実は曹操は優れた戦乱の覇者であり、政治の改革者でした。
文武両道の曹操だったのです。

sousou400年続いた漢帝国が魏・呉・蜀に分かれた三国時代、曹操は最大勢力の「魏」の基盤を作りました。
これに立ち向かうのが劉備・諸葛孔明。。。
三国志演義の影響で、彼らは正義の味方、曹操には悪役のイメージが定着していました。
が・・・最近見直されています。


正義を掲げた五色棒

155年洛陽の東・譙(しょう)県に生まれます。
父・祖父ともに漢帝国の重臣でした。
曹操は・・・エリート一家に生まれたのです。
曹操の祖父・曹騰は宦官で・・・

皇帝一族の世話係で・・・政治とは関係なかったのですが、次第に政治権力を握るようになります。
曹騰は、その代表的存在でした。
国の仕組みを私利私欲で動かそうとする宦官は、役人と対立し、血で血を洗う抗争へと発展したのです。
一方役人の間でも賄賂が横行し、腐敗政治は重い税となって民を苦しめていました。
曹操の父・曹嵩は財産に物を言わせて高い地位をお金で買っていました。
曹操は、漢帝国の闇を間近に感じながら幼少期を過ごしたのです。

174年・・・異例の若さで・・・20歳で中央の役人に選出されます。
曹操に与えられたのは、洛陽北部地区の整備でした。
曹操は部下に五色棒を作らせます。
長さ1mほどの五色の棒です。
罪人の刑罰に用いられました。

自分の地域で規則を破ったものに、棒打ちの刑を科しました。
当時の漢帝国では、国家思想である儒教のもと、ほとんど行われていませんでした。
皇帝を頂点とする儒教による支配をしていました。
皇帝は徳を以って治め、民は礼を重んじました。
法律や刑罰を科すよりも、皆が正しい行いをすることで秩序ある社会を目指したのです。

しかし・・・堕落と腐敗の世の中に・・・。
そこで曹操は、厳しい刑罰を復活させたのです。
犯人が有力者宦官の一族であっても躊躇せず・・・とらえると棒打ちの刑を執行!!
その結果、規則違反者を殺害してしまうことも・・・。

この噂で・・・治安が回復します。
冷徹な役人として名をあげ、昇進していきます。
184年、30歳で行政官として済南国へ赴任。
そこで曹操は地方役人の腐敗ぶりを目の当たりにします。
民に金や食料を上納させ財産を増やす・・・。
それらを中央の賄賂として使い、自分の出世に使っていました。
ここでも曹操は、冷徹を貫きます。
賄賂まみれの役人を次々と罷免!!中央との癒着を断ち切ったのです。
これが・・・中央で波紋を呼びます。
賄賂が来ない・・・曹操への恨みとなって・・・。
184年、曹操は官職を辞任し、譙県に帰ります。
まだ31歳でした。


軍師・荀彧のささやき
189年、35歳の時に、皇帝直属の軍司令官に抜擢され、都に復帰。
中央政府は弱体化しており、地方では武将の力が強くなっていました。
辺境の武将・董卓が兵を挙げます。洛陽を制圧!!
董卓は自分の言うことを聞く幼い皇子を皇帝とし、その権威を楯に政治を操りはじめました。
欲望のままに・・・!!

意に沿わないものは虐殺!!
代々の皇帝の墓を暴き、財宝を盗み、洛陽の都を焼き払い、都を長安に移してしまいました。
漢は滅亡・・・許せなかった曹操・・・!!

周りの武将は、反董卓連合を結成します。
数十万にも上りましたが・・・いよいよとなると進軍を躊躇。
「われわれは大義のために挙兵したのに、互いにけん制して前に出ぬとはどういうことだ・・・!!
 貴様たち恥を知れ!!」by曹操

連合軍を離れ・・・わずかな兵を連れ、董卓軍に対峙!!

奮闘する曹操軍・・・も・・・結果は惨敗。。。
多くの兵を失ってしまいました。
192年董卓は殺害されるも・・・漢帝国の復興はなりませんでした。

これに取って代わろうと、有力武将が旗揚げします。
天下取りの争いが激化・・・!!
曹操の元に運命の男がやって来ました。
軍師・荀彧です。

荀彧は、儒教の教えを貫く家に生まれ、漢帝国の再興を望んでいる有望な軍師でした。
荀彧は、董卓軍を恐れずに戦った曹操こそ、漢帝国を再興してくれる人物であると考えていたのです。
荀彧が囁きます。

「今この時、天子を奉じて民衆の望みに従うことは、大いなる道に叶っています。
 もしこの機を逃し、諸侯が艦への忠誠心を失えば、後悔しても手遅れですぞ・・・!!」

天子奉戴・・・流浪の身となり放浪し、実験の失ってている天子を迎え入れることを提案したのです。
皇帝を庇護し、漢再興の礎を築けば、民衆の信頼が得られるからです。
しかし。。。それは、皇帝を利用する悪というデメリットとも見られかねませんでした。

曹操は、荀彧を受け入れ・・・
皇帝を迎え入れ、漢帝国の象徴として祭り上げました。
曹操は三公に就任、軍事に置いては敵対する武将を逆賊として討伐していきます。
民衆にも目を向け・・・屯田制を開始。
戦乱で土地を失った民が流人となり、土地は荒れ果てていました。
開墾する為に流民たちに土地を無償で提供し、農具や牛も貸し出します。
流民達は土地を手に入れ落ち着いた暮らしを取り戻し・・・
曹操は開墾地からの税で財力を増やし国力を高めます。
曹操の元には各地から人が集まり始めました。
人口は100万以上増加!!
兵士の食料の心配も無くなります。
”国を安定させる方法は、強い軍と豊かな食にあり”

荀彧の囁きから躍進が始まったのでした。
乱世を制する武将へと駆け上がります・・・!!


国の新時代を告げる詩

一大勢力となった曹操・・・天下統一への道が・・・??
漢帝国の再興・・・??

最大のライバルの袁紹を破り、天下統一に最も近付いた曹操。
長江の北側にまで勢力を強め・・・208年中国南東部の制圧に。。。
10万の兵を率い・・・大河・長江を渡ります。
迎え撃つのは劉備・孫権の連合軍・・・。
”赤壁の戦い”です。

この戦いで曹操は思わぬ敗北を帰し撤退!!
この後・・・曹操・劉備・孫権による三国時代が始まったのです。

幾度となく三つ巴の戦いが・・・しかし、曹操の戦場に赴く回数が減っていきます。
曹操に残された時間は多くありませんでした。
考え方が、天下統一から新しい国造りへと変化していきます。
210年、役人の登用制度を改革。
今までは、孝という儒教の考え方がもととなり、目上の人に服従する心、廉という清廉潔白である心が必要でした。
しかし曹操は、才能さえあれば推挙させました。
求める者は才能のみ・・・!!

才能を図り手段として詩を・・・
自らの考えを詩で表現できる人材を登用したのです。

特に曹操が評価したのが、願いや志を込めた詩でした。

「亀は長寿と言えど いずれ命は尽きる
 龍は天にも登るが いずれ土塊となる
 名馬は老いても 志は千里にある
 烈士は晩年になっても 熱き思いは尽きない
 なんとこの上ない喜びよ 
 この熱き思いを歌おう」by曹操

命にはすべて終わりがあると認めながらも、それに抗う熱意・情熱を歌いあげているのです。
儒教より、人の志や感情で国を変える・・・という新しい考え方を示したのです。

漢のイデオロギーだった儒教が解体していく中で、文学を軸として国を刷新しようとしたのです。
時代を先取りする目を持っていました。
古い伝統の世界にあって、自らの想いで生きることを示します。。。
が・・・これは荀彧との対立を生みます。
儒教が全ての荀彧にとって、この改革は社会秩序を破壊するものでした。
受け入れられるはずもなく。。。212年荀彧は、曹操によって死に追いやられるのです。

盟友を失いながらも理想の世界に突き進む曹操。
優秀な人材は魏の礎を築いていきました。
曹操は最後まで皇帝にはならず、実務に取り組んだのです。
220年、曹操は病によって死去。。。66歳。

漢の制約ではできなかった「制度」を作り上げて、民を作る、救うという志を実現しようとした。。。
たとえ孤独であっても、世の中をただし、新しい時代を築きたかった・・・そんな人生でした。


曹操の死後、息子の曹丕が皇帝となり、魏が誕生。
しかし、魏の国も乗っ取られる・・・
実力のある物が世の中を制する。。。曹操の理想は確かに受け継がれたのです。

「酒があるなら 詩を歌おう
 人生は 短いものである
 まるで儚い 朝露のように
 日々は 過ぎ去ってゆく
 それを思えば 心は揺さぶられ
 悲しみに 苛まれる
 この憂いを 何で紛らわそう
 それは 酒しかない」        by曹操。


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 中国の広大な大地に生きた英雄たち・・・

今からおよそ1800年前・・・古代中国には群雄割拠の戦乱の時代でした。
400年にわたって君臨した漢王朝が黄巾の乱で衰退・・・
魏・呉・蜀の三国時代となりました。
乱世を舞台に活躍したのが曹操、諸葛孔明などの英雄たちです。

その意外な素顔とは???


2009年河南省で曹操の墓が発見されました。
今も調査が続けられています。
魏の国を治めた曹操・・・
最も強く、他国を圧倒した英雄です。
しかし、その人物への評価は高くありません。
京劇では、曹操の悪役が強調されてきました。
この京劇が下敷きにしているのが三国志演義です。
三国時代からおよそ1000年後に書かれたものです。
曹操を悪役とすることで、ストーリー性を高めています。
圧倒的な人気のこの作品で、極悪非道な曹操が出来上がったのです。

河南省は、魏の国が支配していました。
曹操の墓と言われている墓が発見されたのは安陽。
洛陽から300キロ北東にあります。
安陽の西高穴村の小麦畑で曹操墓は発見されました。
その大きさは、皇帝に匹敵する人物の墓を示しています。

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後漢時代の中でもひときわ位の高い人物の物と思われています。
面積740㎡、死者が眠る墓室は地下15mに作られていました。
見つかった副葬品は400を超え・・・
曹操墓の物であるという証拠は。。。一枚の石牌。
そこには、曹操の諡・・・”魏武王”とありました。
常に用いていた武器の石牌だったのです。
鼎は12も発見され・・・12も埋葬することが出来るのは、やはり皇帝に匹敵する身分であったと考えられます。

この曹操墓が発見されたきっかけは・・・

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骨董市場で”魏武王”という石牌が売られていたこと。
盗掘品だと発覚し・・・犯人が盗んだ墓を特定したら曹操墓だったのです。
本格的な発掘調査では、バラバラになった頭がい骨が発見。
60歳代の男性の物・・・曹操の頭蓋骨だといいます。
しかも、本来発見されるべきところからではないところから発見されました。
棺からではなく前室から発見されたのです。
粉々になって発見された頭蓋骨。。。
盗掘した上に破壊された・・・悪役としての評価がそうさせたのかも知れません。

では曹操の実像は???
公式な歴史書「正史三国志」によると・・・。
曹操の評価は、”時代を超越した英傑”と記しています。

さらに副葬品からも・・・
頭痛持ちの曹操が用いていた石枕。
当時石枕は、頭痛の治療に用いられていました。
石枕が位の高い人の墓から発見されることは稀だといいます。
当時の皇帝や貴族は、玉で出来た豪華な枕を埋葬したからです。

曹操たちの時代の貴族の墓は、満城漢墓に代表されますが。。。
遺体は2500枚にも及ぶ玉で覆われ、その玉は金の糸で止められています。
枕は貴重な玉。。。そこに金で装飾されています。
墓を玉や金で飾り立てるのは、漢の貴族の習慣でした。
漢王朝は、儒教を国の教えとし、親を葬るにあたってもその墓は豪華に・・・という厚葬が奨励されたのです。
これは曹操の時代まで続いていたとされています。

曹操墓の副葬品は、それに比べるとどれをとっても質素です。
正史三国志には・・・
”遺体を包むには平服を以てし、金玉珍宝をおさむることなかれ”
曹操は、生前自らを質素に葬るように言いつけていました。

それは、曹操が儒教に対して強い反発を抱いていたからかもしれません。
たくさんの副葬品を入れることに対して反発し、薄葬令をしいたのでした。
もう一つの質素の理由は・・・
人々が流浪し、傷つき弱くなっている・・・
戦争で田畑は荒れ、これを憂いている。。。
曹操の時代は戦争が30年も続き、食糧難でした。
農地は荒れ果て、経済活動は衰え、餓死者が出るほどでした。
そんな国を立て直し、人々を救おうとしたのが曹操でした。
合理的な人だったっことが伺えます。
曹操が乱世を生き抜くことが出来たのも、そのおかげかもしれません。

黄巾の乱勃発から10年・・・
曹操は勢力の拡大を目論んでいました。
流浪の民に荒れ果てた国土。。。
国を立て直すために曹操は、政策を打ち出します。
許昌で屯田を行います。
それまでの屯田制は、辺境の地に駐屯した時に兵士に農業に従事させ、兵糧を稼いでいたというものでした。
ところが曹操は・・・この地に溢れていた流民に土地を与えます。
さらに牛を貸し与え、農具も無償で貸し出します。
流民たちを定住させ、そこから税をとる・・・全く新しい仕組みでした。
許昌の郊外では、今も同じように牛を使い、当時と同じ道具で農業がされています。
この効果で100万石の成果が出たといわれています。
屯田の行われた地域では、治安も安定してきます。
曹操は多くの地域で屯田を始めていきます。
人のいなくなった土地に屯田することで人を集めたのです。
ここにはひとりの家臣・棗祇(そうし)が大きくかかわっています。
棗祇は、農村の実情に通じていました。
理解を示さない曹操に、何度も訴えた末の屯田制だったようです。
家臣の意見も取り入れた曹操・・・
以後も家臣の意見を取り入れて、国を大きくしていきます。

紀元200年、曹操は遂に袁紹に決戦を挑みます。
官渡の戦いです。
袁紹に大勝利を治めた曹操・・・。
戦利品の中にあったのは手紙・・・曹操配下の者が出した手紙でした。
しかし、曹操は手紙を見ることなく焼き捨てます。
「私でさえ袁紹に勝てるとは思わなかった。。。
 まして部下たちが裏切ったとしてもおかしくはない。。。」
度量の深さに部下たちは惚れ直したことでしょう。

斬新な発想としたたかさ、曹操とは新しい時代に相応しい英雄でした。

更なる勢力の拡大を求めて長江へ・・・
呉の連合軍と・・・赤壁の戦いです。
三国志演義によれば、曹操は80万の大軍。。。これに対峙するはわずか5万。。。
この時連合軍の参謀として現れたのが諸葛孔明です。

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孔明は奇策を次々に繰り出し、曹操軍をてんてこ舞いさせます。
曹操はここで屈辱的な敗北を喫してしまうのです。
この戦いをきっかけに、魏・呉・蜀の三国時代が始まるのでした。

しかし・・・赤壁の戦いには大きな謎があります。
正史には曹操の敗北は書かれているものの、孔明の軍略については何も記されていないのです。
そこには孔明の軍師としての才能を疑うことまで書かれています。

諸葛孔明とはどんな人物なのでしょう???
四川省・雷波・・・そこにはイ族が住んでいます。
イ族は4000年も前から住んでいてトウモロコシなどを作っている民族ですが・・・
諸葛孔明の伝説が残っています。
馬湖に浮かぶ小さな島・・・そこには孟獲が祀られています。

紀元225年、孔明はこの孟獲が王と君臨している蜀の南方へ出陣します。
孟獲と対峙する孔明。。。

この時孔明は・・・
孟獲をとらえて釈放を7度繰り返します。
その理由は。。。”孟獲を許し、心を以て南方を服する”のです。
この地方の安定をはかるためにやってきて、人々が戦禍に巻きこまれること防いだのです。
少数民族自信による自治を認め、インドにまでわたる交易ルートを開くのでした。

そして北伐に向かう蜀・・・
山に囲まれた蜀が道を切り開くのは、大きな仕事でした。
蜀の桟道を作ります。

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4世紀の歴史書華陽国志にも・・・整備されたことが記されています。
現在、蜀の桟道は、孔明と同じ方法で復元され長さはおよそ2キロです。

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正史三国志は・・・
孔明は将軍としてよりも、民を治めることに長けている。と書いています。
交通路の整備を終えた孔明は、いよいよ出陣!!北伐です。

北伐に当たっては・・・
”泣いて馬 謖を斬る”が有名です。
北伐ルートを北上し・・・街亭で戦いに臨みます。
孔明は家臣の反対を押し切り馬 謖を先鋒に抜擢・・・するも大敗。。。
北伐は失敗に終わります。

馬 謖の軍令違反と多くの家臣を失ったという罪は重く・・・
孔明は馬 謖を涙ながらに処刑します。
自ら選んだ馬 謖だから望んだのです。
そして孔明自らも・・・降格したのでした。

その後、孔明は4度の北伐を行い・・・しかし、魏の力は強大。
そして・・・5度目の北伐で病によって命を落とすのでした。
志半ばで世を去った孔明・・・
孔明の死後、蜀の力は見る見るうちに衰えていきます。
やがて蜀は魏によって滅ぼされ・・・その魏の後を継いだ秦によって中国は統一されたのでした。

正史三国志によると・・・
諸葛孔明は、誠実さを以て公正に政治を行った・・・
民はみな敬愛したと書かれています。
三国の中で一番弱小であった蜀の国を支えた孔明・・・
天下統一の夢は果たせなかったものの、人の心に刻まれることになったのです。

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 3世紀・・・中国大陸は魏・呉・蜀の三国時代が始まり、激動の時代に入っていました。
同じころ・・・倭国を治めていtのは邪馬台国の女王・卑弥呼でした。
卑弥呼は倭国大乱の後、30以上の連合政権の盟主として擁立されました。
しかし、その政権は大変不安定なもので・・・
卑弥呼は後ろ盾を中国大陸に求めたのでした。
魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号をもらったのは有名です。

しかし・・・当時の倭国は、呉ともつながっていました。
そう、もう一つの選択肢もあったのです。
卑弥呼はどのような外交を中国とやっていたのでしょうか?

鳥取県青谷町は・・・
上寺地遺跡があります。
14年前に発見された2世紀後半の遺構です。
そこでは折り重なるように100体以上の人骨が・・・額に穴のあけられている頭蓋骨などが発見されました。
2世紀後半の日本はどんな時代だったのでしょう?
魏志倭人伝によると・・・
「とどまること7、80年・・・倭国乱れ、相功伐すること歳を歴たり」
倭国にあった小さな国が、血で血を争う・・・倭国大乱の時代でした。

その原因には、気候の変動が関わっていました。
大雨と干ばつが交互に現れる不安定な気候が続いていました。
飢饉が起こり、人々を困窮に陥れていたのです。
もう一つの原因は・・・
漢王朝が滅亡への道をたどりはじめ・・・
倭国では製造する技術のなかった鉄。。。
朝鮮半島からの貴重な資源でした。
鉄製の武器。。。鉄製の農具。。。
貴重な鉄の供給が漢王朝の滅亡によって乱れ始めたのです。

そして・・・戦乱が起こったのでした。

内乱による共倒れを避けるために・・・
卑弥呼を擁立します。
邪馬台国連合政権の結成でした。

卑弥呼はどんな人物だったのでしょうか?
鬼道を使い、人々の心をとらえていました。
邪馬台国の候補地は・・・決まっていませんが。。。
近畿にあった場合、邪馬台国連合はかなり大きなものだったと考えられます。

卑弥呼の使命は、邪馬台国連合の女王として、内乱を再び起こさせない・・・というものでした。

しかし、この時代・・・共立・・・つまり、周りから押されており、積木細工のような不安定な政権でした。
鉄を安定的に供給すること・・・それは絶対でした。
もう一つの不安定要因は・・・
南にあった狗奴国・・・卑弥呼と仲が悪かったといわれています。

卑弥呼が共立されたころ中国では、後漢の時代。
遼東半島や朝鮮半島に大きな影響を与えていた公孫氏。。。中国東北部出身の豪族です。
漢王朝の弱体化に伴って勢力を拡大し、倭国への鉄の供給源だった朝鮮半島にまで影響を及ぼす独立政権を樹立していました。
卑弥呼は、この公孫氏の後ろ盾を得ようとしていました。
公孫氏の支援によって、敵対勢力を牽制できたとも思われます。
卑弥呼のもくろみ通り、倭国には平穏な時代が訪れました。
しかし・・・220年。。。
倭国の安定を及ぼしかねない事件が大陸で起こります。
漢王朝の滅亡です。
中国は、魏・呉・蜀の三国時代へと突入していき。。。
三国の思惑は・・・卑弥呼が後ろ盾にしたかった公孫氏にとっても脅威でした。
そこで公孫氏は、魏と呉に二面外交をしながら自分の勢力の拡大を図ります。

さらに・・・公孫氏にとって好都合だったのは、蜀の諸葛孔明です。
蜀の建国に最大の功績をあげ、名を馳せていた孔明。。。
蜀の大軍を率いて、魏に攻撃を仕掛けていました。
孔明との戦いに主力を持って行かなくてはならない魏は、公孫氏の勢力範囲には、派兵できなかったのです。

公孫氏が安泰な限り、倭国も安泰???
それは、微妙な三国の関係の上に立っていました。

その後、三国の戦いは新たな局面へ・・・!!
234年、蜀の諸葛孔明が病死。
蜀との戦いに主力軍を裂く必要のなくなった魏は、公孫氏を討ちに向かいます。
魏は公孫氏の二面外交を疎ましく思っていたのです。

対する公孫氏は・・・呉に援軍を要請したものの・・・援軍は来ず。。。
風前の灯。。。
つまり卑弥呼には、新しい後ろ盾が必要になったのです。

①最大の軍事力の魏?
和王の称号を手に入れることで、鉄の供給・入手を容易にする為に。。。
積み木細工の政権を維持していくためにも王の称号が。。。

②南方の国々との貿易のさかんな呉???
その道は、ローマ帝国まで続いていました。
呉と倭国の間にも交流(民間貿易)があったようです。

238年、魏による公孫氏への攻撃は激しさを増し・・・
おまけに呉の援軍は来ません。
抵抗もむなしく・・・朝鮮半島の影響力は魏の手に移ったのでした。
これを見た卑弥呼はすぐに決断します。

魏が奪い取った朝鮮半島の地・帯方郡へ使者を出したのです。
呉ではなく・・・魏への朝貢を選択したのでした。
魏の都・洛陽に迎え入れられ・・・与えられた称号は・・・親魏倭王・・・
どうしてこんなに待遇が良かったのでしょうか?

古代中国の地図を見ると・・・
倭国は実際よりも南にあると認識されていました。
つまり、倭国は呉を背後から牽制できる位置にあると思われていたのです。
このタイミングこそが大事。。。
親魏倭王の称号は、卑弥呼の外交戦略の賜物だったのです。
その10年後には、卑弥呼は狗奴国と戦争状態に入ったと書かれています。

この時魏は、倭国まで使者を送り、邪馬台国連合を支援しました。
いつ・誰に書状を出せばいいのか???
そこをよく見極めていたのです。
卑弥呼が作り上げた新しい外交関係・・・

纏向遺跡で見つかった3世紀前半の建物跡・・・
この遺跡たちは、東西方向を軸として一直線に並んでいます。
一説には、中国の都づくりの影響を受けたといわれています。

卑弥呼は調整型のリーダーでした。
内部の対立を乗り越えて・・・だからこそ、蓄積された知恵が外交に生かされたのでしょう。

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こんな男に守られたい~関羽・神になった絆の英雄~
BS歴史館です。

蒼天航路 -関羽の将- 関羽雲長

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今回は、”三国志”時代を超えた男の魅力②です。

三国志、古代中国、壮大なスケールで戦う男達・・・。その中でも、関羽の人気は高いです。武器は巨大な青龍偃月刀、大豪傑で1万人を相手に出来る、中国の英雄です。

中国でも日本でも、人気の高い万能の神。世界168カ国で祭られています。三国志の武将が、何故万能の神に?

全ては、三国志の「桃園の誓い」に隠されていました。

三国志は、古代中国に実際にあった出来事を、脚色したもので、当時は群雄割拠の中、魏・呉・蜀の三つ巴の戦いをしていました。

関羽は、蜀の国、劉備玄徳の下で戦った男です。
劉備は、わらじ売りの男でした。同じような境遇の者を集めて天下を狙います。

そして集まったなかには、義兄弟の契りを交わす・・・。矛を使わせたら天下無敵の豪傑、張飛。は、馬商人の用心棒。そうして、関羽。旅商人の護衛。がいました。

三人は、国家の外にいる、役人でも、軍人でも、農民でもない、何物にも縛られない人たちでした。流民で、家庭を持っていない・・・。そんな三人が義兄弟の誓いを立てたのです。

三国志演義には、この三人の出会いが書かれています。
それが、「桃園の誓い」です。
漢王朝を立て直すことで意気投合した三人は、誓いを立てます。
それは・・・。「義」の誓いでした。人や世の正しい道理に従う、義によって絆を結び、義兄弟となりました。

三国志演義の中では、関羽は、武力、学問に優れ、忍耐強く、力強い。
どんな時も劉備に付き従い、身を呈して尽くす・・・忠義の男
たとえ敵でも、筋道が通っていれば信用する・・・信の男
強大な敵の武将を、ただ一人で迎え討つ・・・勇の男
基本は忠義の男ですが、何にも屈しない男で、身長は2m以上といわれ、強く正しく、勇ましく、人を信じる、頼りにしたいNO,1に書かれています。

正史「三国志」では・・・
関羽の行いは義である。。。953文字しかありません。この中では、武将の扱いが低いのです。

では、何故そこまで崇められるようになったのでしょうか?

中国の神様とは?中国は、基本的に道教を信仰しています。「福(子宝)・禄(財産)・寿(長寿)」を求めます。ちなみに関羽は、福・財神になっています。もともとは軍神であったのが、商業の神様にもなってしまったのです。
では何故関羽は、万能の神となったのでしょうか?
関羽の生まれ故郷、山西省運城市。ここは、鉄・石炭の採掘で有名な場所です。ここに、最近80mもある巨大な関羽像が出来ました。

その中で、常平村が故郷で、人口1500人の農業の村です。
この村にある関帝祖廟には、関羽や祖先を祭る場所があり、関羽直系の子孫(70代目)たちが、今も守っています。
関帝祖廟は、関一族の祖先を祭るもの・・・関羽信仰ではありません。

神となったのは、7~10世紀唐の時代、場所は湖北省荊州市。玉泉寺にて伽藍神として祀られたのが第一号です。
関羽の最期の時、219年12月この荊州市で息子共々敵に包囲され、天下の豪将ついに万策がつき・・・。首を刎ねられます。そして、時を経て、関羽が幽霊となり、首を返せと幽霊になって出てきたからだそうで、それを鎮めるために作られたといいます。なんか、日本の怨霊信仰みたいですね。

その後は10世紀宗の時代。北方民族の進入に対して戦うべく、かつての英雄23人を軍神として国が祀りました。そこには、劉備・諸葛亮・関羽・張飛も入っていました。
中国人の信仰、道教は多神教なので、次々と色々な神を作ることが出来たのです。

では何故、関羽信仰が広がったのでしょうか?
山西省にある池神廟には、褐色の結晶があります。これは、塩で、味がよく香りもいいのです。ここには塩湖があり、中国の塩の7割を作っていました。

三西商人は宗の国から塩の独占販売権を入手、各地に輸送して膨大な富を得ていました。そうして、商売には信用が大切だと思っていたので、「信」や「義」を関羽を使って広めました。それが関帝廟なのです。生まれや考え方が違っても、義を重んじれば成功する・・・。公演などもして広めました。

行く先々で関帝廟を作ったのです。この関帝廟は、中国の人的ネットワークの原点といえます。
その関帝廟の役割は、廟を共有財産にし、それを土地を離れて生きる人々の資金援助・共同墓地の管理・奨学金に当てたのです。
この考えは、華僑に通じるものがあります。

14世紀明の時代。関羽の人気が決定的に!!山西省の羅貫中が書いた「三国志演義」でした。関羽は、120章のうち90章に登場、義・忠・信・勇を大切にするヒーローとなりました。
が、当時は小説家は小説のみで食べていけるはずも無く、パトロンが必要でした。そのパトロンこそ山西商人だったのです。山西商人がお金を出し、経済とメディアをミックスした戦略でした。

というのも、三国志演義では有名な関羽、正史の中で大きく取り上げられていないことは、中国人はあまり知らないのです。

しかし、当時の皇帝が求めていたものと重なり、関羽の人気は高まります。

では、何故世界へ広がったのでしょうか?
山西商人は、金融ビジネスにも手を出します。世界遺産「平遥古城」には、銀行が立ち並び、資金を運用、為替業務まで行っていました。
国家財政の半分の富を作っていました。清政府の財務部といわれるほどでした。関羽は商売繁盛の神となりました。

しかし、絶頂は突如終わりを告げます。
1840年~42年のアヘン戦争・・・。欧米の商人が入ってきました。独占していた塩・・・。海外から安い塩が入ってきます。大きな価格破壊でした。おまけに清国の賠償金の肩代わり、貸付金の不渡り・・・。

1912年清朝滅亡と共に衰退。しかし、「義」と「信」は貫き、自分が破産しかけているのに払い戻しをしたといいます。

この後、華僑が外国に進出しました。その時関羽も海外へ・・・。

この関帝廟、横浜中華街にもあります。1986年3代目関帝廟が焼失。当時(今でも?)中国と台湾の確執が中華街にもありました。が、4代目を作るに当たって中国系・台湾系の人たちが、再建に協力したそうです。
関羽は、ビジネスを行うところには必ず祀られています。
1990年4代目関帝廟落成
以来、中華街の人々の絆は深まったといいます。生まれや立場の違う人たちが助け合う誓いを立てたのです。

つまり、華僑達の”人的ネットワーク”の中心に関羽信仰があったのです。

今の中国は、曹操のように急速に近代化をし、関羽の様に海外へ向けて人的繋がりを求めていく・・・そんな社会になってきているのでしょうか?


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