そこに新しい世を作ろうと、三人の英雄が登場します。
冷徹な天才政治家・魏の曹操
豊かな土地と文化を誇る・呉の孫権
裸一貫から一国の王に上り詰めた・蜀の劉備
しかし、劉備の建国までの道のりは、失敗と敗北の連続でした。
400年に渡り中国を治めた漢帝国・・・その力が弱まり、群雄割拠の世となったとき、一人の英雄が表れました。
劉備・・・3世紀、魏・呉・蜀の三国時代に、蜀の皇帝となった男です。
小説・三国志演義では、劉備が正義で曹操が悪人と描かれています。
高潔な人柄で、人々に慕われ、一騎当千の豪傑たちを率いる堂々たる英雄です。
しかし、歴史書の三国志に書かれている劉備は、俗物で泥臭い男でした。
貧しい家に生まれた劉備は、親の期待とは裏腹に勉強嫌いで博打好き・・・30過ぎまで自分の領地を持てず、有力者のもとに転々と身を寄せる居候でした。
戦でも、大事な場面で負け続け、ライバル曹操との直接対決では完膚なきまでに叩きのめされました。
しかし、義兄弟の契りを結んだ関羽・張飛・・・そして、・・天才軍師・諸葛亮に支えられ、数々のピンチに立ち向かいます。
劉備は成り上がりの俗物だったのか?
それとも、庶民の味方・真の英雄だったのか??
1800年前の中国大陸・・・
乱れた世を治め、民を救おうと立ち上がった劉備・・・彼の元には、様々な人が集まってきました。
その中に、呂布という武将もいました。
呂布は、無類の強さを誇る反面、権力のためには見方を裏切り、主君殺しとして有名でした。
劉備はそのことを知りながら、あえて呂布を部下とします。
どうして劉備は裏切り者を受け入れたのでしょうか?
161年、劉備は現在の北京から南の農村地帯に生れました。
実家は、漢王室の血筋を引く家柄とされていますが、父が早くに亡くなったので、没落し、暮らしは貧しかったのです。
少年時代の劉備は、母と共に草履やむしろを売って生活していました。
母は、親戚の援助を受け、劉備に儒学を学ばせます。
息子の将来に期待したのです。
しかし、三国志では、劉備は・・・
”読書が好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美しく整えていた”
勉強に興味はなかったものの、犬や馬のレースを通じて、商人や地元の名士と友達になり、人脈を広げていきました。
そんな劉備・・・幼いころから大きな夢を抱いていました。
「俺はきっと、羽飾りのついた天子の車に乗ってやるんだ!!」by劉備
184年、劉備23歳の時、その夢をかなえるきっかけとなった事件が起こります。
黄巾の乱です。
多くの農民が各地で蜂起、漢の打倒を目指して戦います。
乱の原因は、漢の堕落・・・
政治腐敗が進み、役人の間では賄賂が横行していました。
役人は、私腹を肥やす反面、民衆には重い税を課して苦しめていたのです。
そんな漢を倒すための黄巾の乱でしたが、戦いで土地は荒れ、略奪や暴行が相次ぎ、民衆の苦しみは消えることはありませんでした。
そこで劉備は、治安を守り、困窮した民を救おうと立ち上がります。
有力な商人から資金を援助してもらい義勇軍を結成。
その時、劉備のもとに集ったのが、後に一万の兵に匹敵すると言われた豪傑・関羽と張飛です。
劉備が目指したのは、漢帝国の再興・・・今の腐りきった漢ではなく、徳による政治が行われ、民が平穏に暮らすことができたかつての姿・・・それを取り戻すのが、漢王室の血を引く自分の務め・・・!!
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その後、各地の混乱を治めて実績を積んだ劉備は、地方の行政官を任されるまでになりました。
自らの蓄財に興味のなかった劉備は、それまでの役人とは違い、民衆から不当に税を取り立てませんでした。
さらに、身分を問わず誰とでも分け隔てなく接した劉備は、民衆から絶大な支持を集めました。
その2年後・・・193年、徐州から援軍要請が来ました。
徐州は、上海から北西へ500キロ・・・古くから交通の要衝として栄えた土地です。
徐州に侵攻してきたのは曹操・・・漢の衰退をきっかけに、破竹の勢いで勢力を拡大する武将です。
曹操は、漢帝国の高官の家柄で、中国北部を抑え勢力を伸ばしていました。
曹操は、歯向かうものは容赦なく叩き潰す冷徹な武将・・・
領国では農政や軍事に革新的な手腕を見せました。
しかし、厳しすぎる規律のために、逃げ出す者もたくさんいました。
そんな曹操との初対決に臨んだ劉備・・・
圧倒的な軍事力を誇る曹操に叩き潰されました。
降伏も時間の問題か・・・??
しかし、幸運なことに曹操は途中で撤退していきました。
曹操の留守中に反乱がおきたため、やむ終えず引き返したのです。
曹操軍が撤退したことで、194年、33歳で劉備は徐州を領有します。
それから1年後・・・劉備を頼って一人の武将が身を寄せてきました。
無類の強さで天下に知られた呂布でした。
呂布は、漢の高官の部下でしたが、権力を掴むためには裏切りもいとわず、仕えた主君を次々と殺害・・・
誰もが眉を顰める主君殺しの武将でした。
しかし、劉備はそれを承知で呂布を部下にします。
案の定、呂布は劉備の留守に反乱・・・徐州を強奪します。
劉備は行き場を失いました。
この時、劉備が頼ったのは、かつての敵・・・曹操でした。
この時、曹操も呂布と敵対していました。
それを知った劉備は、共同戦線を張ろうと持ち掛けたのです。
曹操の援軍を得た劉備は、苦戦を強いられながらも勝利し、呂布を捕らえました。
曹操は、武将として能力の高い呂布を生かそうと考えます。
しかし、劉備は主君を裏切った呂布を信用できない・・・と主張します。
結局、呂布は処刑されました。
かねてから劉備を高く評価していた曹操は、その後も劉備を手厚くもてなします。
曹操にはなかった”徳”を劉備は持っていました。
そんな劉備に対して、曹操は畏敬の念を持っていたのです。
しかし、2人の蜜月は、長くは続きませんでした。
ある日、曹操は、劉備にこう言いました。
「天下の英雄と言えば劉備と曹操だけだ」by曹操
劉備は思わず箸を落としました。
何故なら、後ろめたい思いがあったからです。
少し前、劉備は漢の第14代皇帝・献帝から、曹操暗殺の密命を受けていたのです。
暗殺計画が表沙汰になれば命はない・・・
劉備は、敵軍討伐を口実に、曹操のもとを逃げ出します。
関羽、張飛と共に向かったのは、徐州・・・
劉備は、かつて呂布に奪われた徐州の奪還に成功します。
この時、38歳でした。
戦乱の世に名乗りを上げた劉備・・・
しかし、領地を得るような大事な戦に負け続け、部下を率いて流浪の日々が続きます。
そんな劉備を慕ったのは、土地を追われた貧しい民・・・
劉備についてくる民の数は膨れ上がります。
負け続けの劉備に、どうして人々はついて行ったのでしょうか?
曹操のもとを逃げ出し、徐州を取り返した劉備・・・
しかし、劉備の裏切りに激怒した曹操は、自ら精鋭を率いて徐州に攻め込んできました。
曹操軍の強さを身に染みてわかっていた劉備は、震えあがります。
戦わずして、妻子を見捨てて逃走~~!!
劉備と兄弟同然のつながりで結びついていた関羽は、曹操に捕らえられてしまいます。
一方、逃げた劉備は、曹操と敵対していた豪族のもとに身を寄せ、居候となりました。
捕虜となった関羽・・・しかし、意外にも手厚い歓待を受けます。
曹操から金品や名馬を授かり、さらに、兵士と土地まで与えられたといいます。
曹操は、武勇に優れた関羽を部下にしたいと思っていました。
しかし、関羽は・・・
「曹操公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、私は劉備様から厚い恩義を受けており、一緒に死のうと誓った仲です
あの方を裏切ることはできません」by関羽
その代わりに、曹操軍を苦しめていた将軍を討ち取ります。
そして早々に受けた恩を返したのです。
こうして関羽は、曹操の誘いを断り去っていきました。
もとの主君に帰っていくのは、中国では極めて例外的です。
破れてしまった主君を捨てて、新しい有能は主君に仕えて自分の才能を生かしていくというのは、中国では普通なのです。
生かして劉備のもとに返せば強敵になる・・・家臣たちは、関羽に追い討ちをかけようとしました。
しかし、曹操は、
「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ
追跡してはならない」by曹操
関羽が戻れば、許(曹操の本拠地)の情報が全部バレてしまう・・・
しかし、曹操は関羽を信じてもとの君主である劉備のもとに帰っていく関羽を”義”だと評価しています。
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再び関羽と合流した劉備・・・
今度は、漢の皇帝の血を引く劉表のもとに身を寄せることになります。
劉表の治める荊州は、中国大陸のほぼ真ん中・・・戦乱の世で中立と平和を保ち、多くの儒学者が集まっていました。
劉備は、曹操に対抗できる武将として厚遇されました。
平穏な日々が6年続きましたが、天子の車に乗るという幼いころの夢には近づくこともできないまま、46歳になっていました。
「月日が経つのは早く、すでに老いも目前に迫っている
だが、何の功績も立てられず、あまりにもふがいない」by劉備
劉備は考えます。
”どうして自分は領地を持てないのか?”
「戦いに勝つだけではダメだ・・・
民や土地を治め、長期的な戦略を描ける優秀な軍師が必要だ」by劉備
そんなある日、劉備は近くの村にいる男のうわさを聞きつけます。
才能がありながら誰にも仕えず暮らしているという・・・
その名は、諸葛亮・・・自分よりも20歳も若い男でした。
劉備は早速、諸勝郎の家をたずねてみました。
しかし、旅に出ていて不在だという・・・
日を改めて訪問しましたが、またしても留守でした。
それでもあきらめず3度目に訪れた時・・・
「劉備殿・・・先生が戻られました」
仮にも将軍の劉備が、実績のない若者に最大限の礼を尽くしたのです。
いわゆる”三顧の礼”です。
諸葛亮は、こうした劉備の姿勢に感動し、会うことにしました。
諸葛亮は、諸国の情勢を分析し、天下統一の道筋を示します。
今、劉備が強大な曹操と戦うのは得策ではない・・・
そこで、南の大国・呉を二代に渡って治めている孫権と手を組み、曹操に対抗させる・・・
両者が争っているうちに、劉備は拠点となる土地を手に入れ、第三の勢力になる・・・
そして、天下統一への足掛かりをつくる!!
この策は、”天下三分の計”として後に広く知られることになります。
一方、曹操は、着々と領土を広げていました。
劉備と諸葛亮が会った翌年の208年、曹操は荊州に侵攻を開始、再び劉備に迫ってきました。
時を同じくして、荊州の主・劉表が死去・・・
この時、諸葛亮は、劉表の息子を討てば荊州を奪うことができると進言しました。
しかし、劉備は、
「しのびない・・・」
ところが、劉表の息子は、曹操と戦わずしてあっさり降伏してしまいました。
止む無く劉備は、仲間と共に、荊州を離れます。
曹操の厳しい仕打ちを恐れた民衆は、劉備たちの後を追いました。
その数、十数万人・・・!!
この状態で、曹操の追撃を受ければひとたまりもない・・・
劉備の部下は、民を見捨てて我らだけで行きましょうと進言します。
しかし、劉備は
「大事をなすには 何よりも人をもってもととなす
今、自分を慕って来てくれている人々を見捨てて行けるか」by劉備
多くの民を引き連れて、ゆっくりとした歩み・・・
瞬く間に曹操軍に追いつかれ、絶体絶命・・・!!
この時、劉備の窮地を救ったのは、旗挙げの時から苦楽を共にした張飛!!
曹操軍の前に立ちはだかった張飛は、
「俺が張飛だ!!かかってこい!!
死を賭して戦おうぞ!!」by張飛
怖気づいた敵兵は、誰一人、張飛に近づかなかったといいます。
張飛の活躍でなんとか窮地を脱したものの、流浪は続きます。
湖北省・武漢・・・長江のほとり・・・かつて夏口と呼ばれた地に47歳の劉備は逃げ延びてきました。
なんとか曹操軍の追撃を逃れたものの、このままでは南へと勢力を拡大する曹操に飲み込まれてしまう・・・!!
かくなる上は、呉の孫権と同盟を組んで曹操と対抗するしかない!!
劉備は早速、諸葛亮を孫権のもとへ送ります。
その呉では、隊群で迫りつつある曹操と戦うべきか、降伏するべきか、未だ決めかねていました。
そこに現れた諸葛亮・・・孫権の家臣は、「協力して早々と戦おう」と、言いに来たに違いない・・・と、思いました。
しかし、諸葛亮は思いもよらない言葉を孫権に投げかけました。
「もしも、曹操に敵わないと思われるのであれば、すぐに降伏なさるがいいでしょう」by諸葛亮
と、降伏を勧めたのです。
一国の主に対し、あまりにも無礼な物言いでした。
孫権は思わず、
「曹操に負け続けてきた劉備こそ、なぜ降伏しない?」by孫権
と問い返しました。
「我が主・劉備殿は、漢王室の血筋・・・
もし負けて滅んだとしてもそれは天命
どうして曹操に降伏出来ましょうか」by諸葛亮
「私とて、広大な領土と10万の軍勢を持つ身、曹操の言いなりになどならない・・・!!」
劉備と手を結び、曹操と戦おう!!
孫権は、諸葛亮の狙い通り、同盟が成立!!
その頃、曹操は大軍を率いて長江を下っていました。
兵士の数は、実に20万・・・
曹操軍と劉備・孫権軍が激突したのは、長江の中流にある赤壁でした。
長江の両岸で睨み合った両軍・・・曹操軍20万に対して劉備・孫権軍は3万・・・兵力の差は歴然でした。
しかし、曹操軍にも弱点がありました。
曹操は、陸の騎馬戦ではめっぽう強かったものの、水上の戦いにはなれていませんでした。
しかも、船が揺れるのを防ぐため、船同士をつないで固めていました。
そこで、劉備・孫権軍は、一計を案じます。
まず、配下の者に「降伏したい」という手紙を曹操に送らせておきます。
そして夜・・・見方を裏切ったふりをさせて、曹操軍のもとへと船を進ませます。
降伏に来たと信じて、警戒を解く曹操軍・・・
その時・・・一斉に船に火をかけて突進!!
折しも強風がたけり狂い、全ての船に火が映って岸辺にある軍営にまで延焼しました。
煙と炎は、天にみなぎり、おびただしい数の人や馬が焼死や溺死をしました。
曹操軍は、膨大な数の犠牲者を出して敗走・・・!!
劉備・孫権軍は、見事な勝利を収めました。
劉備はその後、荊州の南部を占領・・・
ついに、天下三分の計の要となる地を手に入れたのです。
劉備の次なる狙いは、 荊州の西に位置する益州でした。
長江の上流・・・四川省の中心地・成都・・・
かつて益州といわれた四川の中心地です。
この時、益州を治めていたのは漢の皇帝の流れをくむ・劉璋でした。
211年、劉備が51歳の時、劉璋からの使者が来ます。
益州内での反乱鎮圧のため、劉備軍の派遣を要請してきたのです。
ところが、援軍の要請に来た使者は、劉璋を君主の器ではないと見限っていました。
そして、劉備に益州の地理など詳しい情報を与え、劉璋から益州を奪って治めてほしいと密かに依頼してきたのです。
その年の9月、劉備は自ら数万人の兵を引き連れて反乱鎮圧の援軍として益州に入ります。
何も知らない劉璋は、待ちに待った援軍が来たと喜び、酒宴で劉備をもてなします。
この時、劉備の家臣は、今すぐに劉璋を倒して益州を奪うべきだと進言しました。
しかし、劉備はこう言っていさめます。
「まだここに来たばかりで、民衆の心をつかんでいない
これは重大なことであるから、あわててはいけない」by劉備
そして1年が過ぎた頃、益州を奪う好機が訪れます。
曹操がふたたび動き出し、呉の孫権を攻めたという情報が入ったのです。
劉備は、同盟相手の孫権を助けると言って、兵を動かしました。
しかし、向かった先は、孫権のもとではなく劉璋がいる成都に侵攻・・・!!
劉備は、10万を超える兵で成都を包囲・・・孤立した劉璋は降伏し、劉備はついに益州を手に入れました。
214年、53歳の時・・・ここに、劉備と諸葛亮が目指して来た天下三分の計の形が整ったのです。
天下三分の計を実現し、漢帝国の復興という目標に近づきつつあった劉備・・・
ところが、その10年後、劉備は周囲の反対を押し切ってかつての同盟を組んだ後の孫権に出兵します。
どうして劉備は孫権に挑んだのでしょうか??
53歳にして成都を手に入れ、蜀を領土とした劉備・・・魏・呉・蜀の三国時代が始まりました。
221年、60歳で、自ら帝位につき、漢帝国復興を宣言します。
劉備は、政にも自らの信念を貫きます。
敵将であっても投降すれば一定の地位と活躍の場を与えました。
劉備の徳による政治のおかげで、蜀の国は安定していきます。
しかし、劉備の目標はさらに先にありました。
求めていたのは「聖漢の大一統」・・・漢による中国統一でした。
そして劉備は天下統一に向けて動き出します。
218年、劉備は漢中に向かって進軍します。
益州北部の曹操の拠点を奪っていきます。
知らせを聞いた曹操が、長安から自ら出陣してきました。
定軍山・・・ここが、劉備と曹操の決戦の場となりました。
天然の要害である山に、劉備は立てこもります。
劉備は、2か月にわたる曹操の猛攻に耐え、曹操軍が疲弊するのを待ちます。
結局、補給が尽きた曹操は撤退・・・!!
劉備はついに漢中という天下統一の重要な足掛かりを手に入れました。
そんな矢先、劉備のもとに思いもよらない知らせが届きました。
関羽が孫権に殺されたという・・・
劉備は、益州に進出した時から、荊州の守りを最も信頼していた関羽に任せていました。
劉備に関中を奪われた曹操は、仕返しとばかりに呉の孫権に関羽を挟み撃ちにしようと持ち掛けたのです。
劉備の勢力拡大を警戒していた孫権は、曹操に合意・・・
荊州へ侵攻しました。
この計略にはまり、挟み撃ちにあった関羽は、呉の兵に捕らえられ斬首されました。
関羽を殺した孫権は、荊州を占領・・・
怒りに震える劉備は、孫権を倒すべく張飛に1万の兵を預け、呉へ出陣命令を下します。
ところが・・・張飛が出陣しようとした矢先、部下が謀反を起こします。
張飛殺害・・・!!
その首は、手柄になるだろうと孫権のもとへ・・・!!
関羽と張飛・・・かけがえのない二人を失った劉備は、孫権への復讐に燃えます。
しかし、家臣の中には反対する者もいました。
天下統一の戦うべき相手は曹操・・・!!
孫権と戦うべきではない・・・!!
221年、劉備は周囲の反対を押し切って出陣します。
劉備軍の士気は高く、圧倒的な勢いで勝ち進み、孫権軍の拠点をいくつも落としていきます。
しかし、孫権はあえて全面対決を避け、持久戦に持ち込みます。
決着がつかないまま半年が過ぎ・・・
夏・・・孫権の領内に深く侵入した劉備軍は、補給路を確保するために50以上の陣営を築いていました。
それらのほとんどが、夏の暑さを避けて森の中に作られました。
しかし、これは、自殺行為に等しいミスでした。
兵力は分散してはいけない・・・しかし、結局長期戦にされたので、分散してしまう・・・!!
暑くなって陣を長く、しかも木陰に引いてしまった・・・
兵法で禁じていることをいくつもやってしまった戦い方でした。
劉備軍の拠点に忍び寄った孫権軍は、一斉に火をかけました。
夏場の乾燥した森・・・火の勢いはすさまじく、劉備軍は次々と陥落・・・死者は数万人に上りました。
劉備は、なんとか敵の包囲を突破し、味方の城まで逃げ延びます。
しかし、そこで病に倒れます。
容態は急速に悪化し、死期を悟った劉備は諸葛亮を枕元に呼びます。
「我が息子が補佐するに足る器なら、補佐してほしい
そうでなければ君が国をとるがよい」by劉備
諸葛亮は、涙ながらに劉備の息子を支えていくことを誓ったといいます。
223年、劉備はこの世を去りました。
62年の生涯でした。
劉備の遺志を継いだ諸葛亮は、天下統一を目指して5度にわたって魏と戦います。
しかし、諸葛亮も道半ばで病に倒れます。
劉備の死から57年後、280年に晋が中国を統一・・・三国時代は終わりを告げます。
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