鹿児島市からおよそ120キロ・・・大隅諸島の種子島。
種子島といえば、宇宙センターで知られていますが、もう一つ・・・歴史的なある出来事が起こりました。

1543年8月25日、種子島にやってきたポルトガル人が、日本に初めて鉄砲を伝えた・・・鉄砲伝来です。
教科書にはこう書かれていますが・・・
しかし、近年の研究によって、いろいろ違う説も出てきました。

国立公文書館に、鉄砲伝来の貴重な資料が残されています。
江戸時代初期の1606年に薩摩国の僧侶・南浦文之が編纂した鉄砲記です。
種子島に鉄砲が伝わった経緯が詳しく記されています。
これによると・・・種子島の最南端にある門倉岬・・・
1543年8月25日、この岬の沖合に大きな船が姿を現します。
島民たちは動揺・・・!!
船から降りてきた乗組員に中に、見たこともない顔つきの者がいたからです。

報せを受けた村の長、西村織部丞が、乗組員に話しかけてみるも全く言葉が通じません。
そこで、漢文に通じていた織部丞が、砂浜に字を書くと・・・答えた男は、隣の国・明からやってきた五峯というものでした。
他のものは誰なのか聞くと・・・彼らは西南から来た異人で、商人であるとの事。
その異人とは、ポルトガルの商人でした。

織部丞は、とりあえず島を治めていた種子島家へ・・・。
この時の島の領主・種子島時堯は、まだ十代の若者でした。
五峯らと面会した時堯は、ポルトガル人が奇妙なものを持っていることに気付きます。

「おぬしが手にしているモノは、一体何じゃ??」

其れこそが、鉄砲・・・火縄銃だったのです。

ポルトガル人は、この火縄銃を身振り手振りで説明・・・そしてこう言いました。
「これは、銀山を砕くことができるし、鉄の壁に穴をあけることもできる
 国に災いをもたらす邪悪な者も、鉄砲の玉に触れればたちまち魂を失ってしまう」
若き領主・時堯は、すぐに鉄砲に強い興味を持ち、日を改めて試し打ちをさせてもらうことに・・・
手ほどきを受けて引き金を引いてみると・・・??
時堯は、初めて体験した爆音と衝撃に驚きますが、一瞬にして百歩先の的に玉が当たったのを目の当たりにすると、
「ぜひともこの使い方を、学びたいものだ」
と、すぐに鉄砲を二挺購入・・・一説には二挺で銀2000両・・・数千万円の大金を払ったと言われています。
この時、時堯が手にした鉄砲は残ってはいませんが、同じ時に伝わったものが種子島に残っています。
西村織部丞がポルトガル人から手に入れた鉄砲とされています。

その鉄砲を伝えた船には、ポルトガル人以外に明の人も乗っていました。
実は彼らが乗ってきたのは南蛮船ではなく、ジャンク船と呼ばれる中国で古くから使われてきた木造帆船です。
五峯の船だった??
五峯は、王直という人物の別称で、明や東南アジアの沿岸などで、暗躍していた海賊・・・倭寇の頭領でした。
鉄砲が伝来してきたころの倭寇は、明の人たちが主体となって、東南アジアや日本などと密貿易を行っていました。
倭寇のメンバーに、ポルトガル人がいたと思われます。
ポルトガル人を乗せたジャンク船が、タイを出発し、日本近海へ漂着したと伝えられています。
つまり、伝えたのは倭寇とそのメンバーであるポルトガル人の乗った船だったのです。

日本の鉄砲記・・・・・・1543年に鉄砲が伝来
ポルトガルの記録・・・1542年
イエズス会の記録・・・1541年

となっていて、様々な説があるのです。

どうして種子島にやってきたのでしょうか??
その理由にも、様々な説があります。

①偶然説
8月25日は、今の9月下旬ごろ・・・台風が頻繁にやってくる時期です。
ポルトガルの記録には、倭寇たちの乗せたジャンク船が航海中にシケに遭い偶然種子島に着いたとあります。
②必然説
室町幕府や有力大名などは、堺などの商人たちを使って明と勘合貿易を行っていました。
商人たちは堺から土佐、南九州を通って明の東沿岸へ向かっていました。
そしてそのルートの中で中継点となっていたのが種子島だったのです。
現在の奄美大島や沖縄は、琉球王国とよばれ、実質的に日本の最南端は種子島でした。
倭寇が民から日本へ向かう際、当時の日本の最南端であった種子島を目指すのは必然だったのです。
明の人々にとって種子島は日本の玄関口だったのです。

種子島にやってきた明の海賊・倭寇のメンバーだったとされるポルトガル人が伝えたとされる鉄砲・・・その火縄銃は、どこで作られたものなのでしょうか?
現在最も有力な説は、ヨーロッパ製。
ところが、種子島に伝わってそののち国内で普及していった火縄銃と、当時のヨーロッパの銃とは大きく異なっています。
点火装置である火ばさみ・・・日本のものは引き金を引くと火ばさみが銃口側・・・前に落ちる仕組みになっています。
対して、ヨーロッパで普及していた火縄銃の火ばさみは、打ち手側に落ちる仕組みになっています。
この違いから、伝来したのはヨーロッパ製ではないのではないか?という説があるのです。
だとするとどこのもの・・・??
ポルトガルの資料によると、現在のタイであるシャムから倭寇の船に乗って・・・とありました。
東南アジアでも鉄砲が作られていたとされています。
その火ばさみは、まさに日本のものと同じタイプ!!
そのため、種子島に伝来したものは東南アジア製である可能性が唱えられています。

豊臣秀吉が天下統一を果たしたころには、50万挺の火縄銃が、国内に装備され、世界有数の鉄砲保有国になっていました。
急速に増えて行った原因は、日本人の職人たちのその技術力の高さがありました。
国産第一号はどのようにして生まれたのでしょうか?
種子島を治めていた種子島時堯は、ポルトガル人から2挺の鉄砲を購入したのち、家臣たちに言います。
「これと同じものを作ってみせよ」
その大役を任されたのが、刀鍛冶の八板金兵衛でした。
種子島では、海岸で良質の蹉跌が採れ、製鉄に必要な薪も豊富にあったので、刀づくりが盛んにおこなわれていました。
金兵衛は、刀の本場美濃国の関から種子島にやってきたと言われています。
早速金兵衛は、その技を駆使して銃身づくりに・・・しかし・・・基底部を塞がないと暴発してしまう・・・
しかし、掃除の為にも基底部は開けられるようにしておかなければなりません。
密閉出来て簡単に取り外せる・・・それが大きな壁でした。
ネジ構造でしたが、当時の日本にはネジ自体が存在していませんでした。
鉄砲を分解し、ネジを目にした金兵衛は途方に暮れていたかも・・・??
金兵衛はポルトガル人に製造方法を教えてほしいと願い出ます。
それと引き換えに、自分の娘・若狭を差し出したといいます。
若狭を連れて帰ったポルトガル人は、翌年母国から鍛冶職人と共に帰ってきて製造方法を金兵衛に教えます。
それは、父金兵衛の執念の犠牲になった娘の悲劇として種子島に伝わっています。
若狭は戻ってきたポルトガル人と共に帰国し、その後亡くなるまで種子島で暮らしたと言われています。

金兵衛の作った鉄砲が残っています。
代々、種子島家に伝わったものです。
しかし、金兵衛がどのようにしてネジ部分を作ったのかという記録は残っていません。
ネジは外側にネジ山のある雄ねじと内側にネジ溝のある雌ねじとに分かれています。
雄ねじはやすりなどで加工、雌ねじは内部なのでその苦労は大変なものでした。
どのようにして重臣の内側に溝を掘ったのでしょうか?
それは、鍛造法による雌ねじの製作です。
①高温に熱した銃身に雄ねじを差し込みます。
②回りを叩いていくことで、雄ねじと密着させます。
③鉄が暑いうちに、雄ねじを回しながら抜き取ると、銃身の内側に溝が刻まれます。
そうすると、綺麗な雌ねじが完成します。
こうして、苦労の末、国産第一号の鉄砲が出来上がったのです。

急速に普及していった鉄砲・・・
種子島からどのようにして国内に広まったのでしょうか?
種子島に鉄砲が伝来し、国産の鉄砲づくりに成功したという噂は、近畿地方に伝わります。
当時、明と貿易を行っていた堺の商人たちが中継地点の種子島に立ち寄って聞いたのを広めたからです。
そんなある日の事・・・一人の男が種子島時堯の元にやってきます。
紀州・根来寺の津田監物です。
新義真言宗の総本山である根来寺は、当時寺領72万石を有し、一大宗教都市を形成していました。
大名並みの権力・財力を持つ寺で、防御するための軍事力も必要でした。
僧兵・・・寺の軍事力を強化したいと考えていた監物は、
「殿の鉄砲を一挺お譲りいただけないでしょうか」
大金を払ってポルトガル人から手に入れた鉄砲・・・
「一つ持って行くがよい」
気前よくもらい、扱い方、火薬の調合まで教えてもらいました。

監物が島を去ったのち、和泉国堺から商人の橘屋又三郎がやってきました。
鉄砲で商売をしたく、その作り方を会得したいというのです。
すると、時堯は、またもや承諾します。
「よくよく学んでいくがよいぞ」
刀鍛冶・八板金兵衛がようやく手に入れた作り方を、惜しげもなく教えてしまうのです。
どうして時堯は、貴重な鉄砲を手放し、伝授したのでしょうか?

時堯の思いは「鉄砲記」に記されていました。
「我が島はとても小さいが、決して物を惜しむようなことはしたくない
 私自身が欲しいと思うのだから、誰でも欲しがるであろう
 これを自分だけのものにして箱に収めて仕舞っておくようなことはしない」
鉄砲は、種子島時堯の気前の良さで、交易をしていた堺や紀州などの近畿地方へ広まっていったのです。

津田監物は根来寺に戻ると鉄砲職人に作らせ、大量生産に成功。根来寺の僧兵たちは鉄砲隊を形成、根来衆と呼ばれるようになります。
橘屋又三郎も堺に帰り、鉄砲の一大生産地となります。
近畿地方一帯に広まった鉄砲は、関東地方などに広まり、さらに甲信越・・・東北地方へ・・・。
そこで重要な役目を担ったのが、紀州・根来衆、堺の砲術師、鉄砲鍛冶たちでした。
彼等は諸大名たちに招かれ、鉄砲を広く普及させていきます。

豊後を治めていた大友義鎮も・・・義鎮が、南蛮鉄砲を13代将軍足利義輝に献上したという記録が残っています。
その鉄砲は、交易していた種子島家、もしくは肥前の平戸などで密貿易を行っていた倭寇から手に入れたものだとされています。
九州で勢力を拡大していた義鎮は、新たに配下に置いた肥前の守護に任命してもらえるように将軍義輝に当時まだ珍しかった舶来の鉄砲を送ったのです。
その義輝自身も、そうした鉄砲を政治に利用していきます。
失墜していた幕府の権威を取り戻すために・・・関東の豪族たちを取り込もうと火縄銃を与えます。
また、上越地方で勢力を拡大していた上杉謙信には病気見舞いとして火薬の調合の秘伝書を送るなどしています。
贈答品や外交の道具として用いられた鉄砲は、やがて、新しい兵器として全国に普及していくことになります。

当時は戦国大名たちが鎬を削る戦乱の世・・・
それまで戦で使用されていた武器は・・・刀、槍、そして弓などでした。
そんななかに現れた鉄砲は、戦を大きく変えていきます。
火縄銃の威力とはどれほどのもの・・・??
50m離れたところから撃って、的の中心から半径4センチ以内に命中します。
射程は100mあり、殺傷能力も十分にありました。
さらに、その破壊力は・・・??
40m先の甲冑を撃ち抜きます。

戦国大名たちは、余所の鉄砲集団を傭兵として雇い入れました。
有名なところでは、紀州の根来衆、雑賀衆の強力な鉄砲集団です。
鉄砲の伝来とともに甲冑も伝来しました。
それを参考に、鉄砲から身を守るため、鉄製の鎧が使われるようになりました。
それが、現在言われる当世具足と呼ばれるものです。
城の構造も大きく変わります。
新しい城郭は、鉄砲玉を通さないように壁が厚くなりました。
鉄砲狭間を作り、鉄砲を装備した敵を遠ざけるため、城の周囲に堀を巡らせました。
戦の様相もがらりと変わりました。

戦国武将の中で、一番鉄砲を有効利用したのは織田信長です。
戦国の世を天下布武へと導いたのが織田信長・・・
信長は、若い頃から鉄砲に興味を抱いていました。
”信長公記”によると・・・
1549年・・・16、7歳ごろの時、砲術師・橋本一巴から鉄砲の手ほどきを受けたと書かれています。
日本に伝来してわずか6年後のことでした。
新しもの好きだった信長は、鉄砲を気に入るとすぐさま戦に用います。
1570年、北近江の浅井長政、越前の朝倉義景との姉川の戦いで、500挺の鉄砲を投入。
1575年、武田勝頼率いる武田軍と戦った長篠の戦いでは3000挺もの鉄砲を投入して、見事勝利しています。
しかし、どうして信長はこれだけ多くの鉄砲を調達することができたのでしょうか?

①和泉国・堺を手中に収めていた
信長は、堺の商人・茶人の今井宗久にさまざまな特権を与え、鉄砲と火薬の製造を任せたのです。
さらに、姉川の戦いの後の小谷城の戦いで浅井長政を倒すと、長政の領地であった近江国・国友村を配下に納めます。
②近江国・国友
国友は、堺と並ぶ鉄砲の一大生産地でした。
こうして、鉄砲の安定した供給を押さえた信長は、そののち、戦を大きく変えていきます。

鉄砲は伝来当時高価なものでしたが、その高価なものをたくさん使うことは誰も考えていませんでした。
信長は、強力な経済力のもと、大量の鉄砲を装備したのです。
秀吉、家康もそれを踏襲しています。

鉄砲を大量に装備したものが戦に勝つ・・・いつの間にか、戦は経済力の勝負となっていきます。
財力のない武将は、戦う前から降伏するようになり、無駄な戦が減少していきます。
そして、信長亡き後、鉄砲を大量に装備できる圧倒的な財力を誇った豊臣秀吉や徳川家康によって、天下統一がなされていったのです。


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