日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:西郷隆盛

1873年、明治政府は崩壊の危機にありました。
際ぢの実力者・西郷隆盛が対外戦争につながりかねない朝鮮への使節派遣を主張・・・
これに対し、盟友大久保利通は内治優先を主張して激しく対立!!
政府は真っ二つに割れました。
いわゆる征韓論危機です。
従来この問題は、西郷・大久保の対立を軸に行われてきました。
しかし、事はそう単純ではありませんでした。
近代化をめぐる岩倉使節団と留守政府の対立、薩摩・長州と土佐・肥前の主導権争い・・・
様々な要因が危機の背後にありました。
そして近年の研究によってキーパーソンとしてクローズアップされてきたのが・・・伊藤博文です。
当時伊藤は、一官僚に過ぎない・・・その彼が、明治日本を左右する政変のキーパーソン??

1857年、足軽の子・伊藤博文は17歳で松下村塾に入門しました。
吉田松陰のもと、幕末に活躍する多くの若者と共に学んだことで、長州藩の若手で注目の存在となります。
この頃の伊藤を評して松陰はこう書いています。

「才能は劣り、学問も未熟、だが性格は素直で、私はとても伊藤のことを愛している
 かなりの周旋家になりそうな」

1863年、23歳の伊藤は、その後の人生を大きく変える決断・・・仲間四人とイギリスに留学をします。
髷を切り、洋装に身を固めた一行の写真が残されています。
伊藤たちは英語を学ぶ傍ら、海軍の使節や造船所などを精力的に見学しました。
巨大な機械が稼働する工場や、煙を吐いて走る蒸気機関車を目の当たりにした伊藤は、西洋文明を導入しなければ日本は生き残れないと悟ります。

しかし、留学はわずか半年で終わりを告げました。
長州が窮地に陥っていたのです。
当時、長州藩は外国勢力の打ち払いいを掲げ、列強の船を次々と攻撃していました。
1864年英米仏蘭4か国艦隊を下関で砲撃、その報復のために4艦隊が下関に襲来・・・
圧倒的な軍事力を前に、長州の砲台は次々と占拠され、破壊されてしまいます。
この危機を前に、帰国した伊藤は通訳としてイギリスとの和平交渉に臨み、賠償金を幕府に肩代わりさせることに成功します。

そんな伊藤の交渉力に目をつけた桂小五郎・・・後の木戸孝允・・・
その頃、長州は幕府との対立を深めており、武器の補給が急務でした。
しかし、幕府は長崎の取引を厳しく監視しており、表立って海外から武器を購入することは困難でした。
木戸は伊藤に、それまで対立関係にあった薩摩藩名義での武器購入を命じます。
この困難な任務を伊藤はやってのけます。
こうして長州の外交を担う存在となった伊藤は、イギリスの外交官アーネスト・サトウたちとの交流を通じ、将来の日本の在り方について交流を深めていきました。
公儀公論の政治体制を目指し、幕府との対決姿勢を深めていきます。

1868年1月、薩摩や徴収を中心とする新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外の鳥羽・伏見で激突!!鳥羽・伏見の戦いです。
新政府軍の勝利によって、明治という新時代が始まりました。
薩摩の西郷隆盛や、大久保利通、長州の木戸孝允といった倒幕の中心人物が新政府の政治を実質的に動かすこととなります。

1869年、伊藤は木戸の引き立てで大蔵少輔に就任します。
この時伊藤が立案したのが、大蔵省が中心となって産業を興すというプランです。
伊藤は、中央集権制の下で、強力に近代化を推進することを目指しました。
ところが、その前に立ちはだかったのが、大蔵卿・・・大久保利通でした。
旧薩摩藩との関係の深い大久保にとって、伊藤の改革案は保守的なをはじめ諸藩には到底受け入れられない過激なものに映ったのです。

この年の9月、伊藤は大蔵省から工部省へ・・・
伊藤はいつしか、大久保に西洋文明を理解させなくては日本の近代化は難しいと考えるようになっていきます。
絶好の機会がやってきました。

1871年、不平等条約改正のための使節団派遣が決定します。
使節団の中心は、外務卿・岩倉具視。
そこで伊藤は、政府の中からも・・・と、木戸・大久保の参加を推薦します。
そして実現したのが、薩摩と長州の主導者が共に洋行するという岩倉使節団です。
欧米を見れば、彼等も近代化の必要性を理解するはず・・・果たして伊藤の思惑は的中しました。
舗装された道路沿いに立ち並ぶ石造りの近代建築、電信や鉄道などの最新技術・・・
木戸はその衝撃を次のように書き残しています。
「今の日本が目指す開化と称する者の多くは、皮膚上のものに過ぎない」

大久保も・・・
「英米仏などの開化は、日本とは段違いではるかに及ばない」

帰国後にまとめられた使節団の報告書・「米欧回覧実記」によると、

「議会は必ず上下両院を分かつこと、一つの議会のみで一方局としている国はない」

大久保がたどり着いた結論・・・それは議会制でした。
西洋の進歩の源は、国民の力の結集にあると悟ったのです。
伊藤と大久保は、使節団を通じて急速に接近します。
2人は近代化に向け、方向性を共有したのです。

1873年9月、伊藤は2年近い視察を終え欧米より帰国しました。
待ち受けていたのは思わぬ事態でした。
長州の政治力が、大きく後退していたのです。
使節団不在の中、政権を握ったのが留守政府・・・
太政大臣・三条実美
参議・・・・・西郷隆盛(薩摩)
       板垣退助(土佐)
       後藤象二郎
       大隈重信(肥前)
       江藤新平
       大木喬任
でした。
しかも後藤象二郎・江藤新平・大木喬任の三人は、使節団外遊中に無断で参議に登用されていました。
使節団は、留守政府との間で約定書を交わしていました。

”内地の事務は大使帰国の上 
 大いに改正する目的なれば
 なるたけ新規の改正を要すべからず”

ところが、留守政府はその約束に反して、徴兵令の施行、学制の制定、全国への裁判所設置など大規模な改革を次々と打ち出していきます。
これらをすべて実行すれば、国の財政は破綻する・・・
長州出身の大蔵卿・井上馨は、江藤らの政争に敗れて辞任していました。
さらに、陸軍太輔・山形有朋は汚職事件に巻き込まれてしまい失脚・・・
長州の政治力は一気に低下してしまいました。
そのタイミングで勃発したのが”征韓論問題”です。
きっかけは国交を求める日本の現地高官に朝鮮側が張り出した掲示でした。

”近年日本人は、制度や衣服、風俗を西洋風に改め、昔からの法を変えようとしている
 さながら無法の国というべきである”

1873年8月、この問題を巡って、留守政府で閣議が開かれます。
閣議を主導したのは、参議・西郷隆盛でした。

「まず朝鮮に使節を派遣して談判すべきだ
 その任には、自ら当たる所存である」

これに、板垣、江藤ら土佐・肥前出身の参議が賛同・・・
閣議は西郷に大きく傾いて行きます

8月17日、三条実美は、岩倉達帰国後に再び評議することを条件に、西郷の朝鮮派遣を閣議決定。

一見、平和的に見える使節派遣・・・
しかし、後に西郷が提出した文書から、極めて危険な計画だったことが読み取れます。

”朝鮮側が暴挙に出た場合、初めてその罪を問うべきである”

緊張状態にある朝鮮に乗り込んだ西郷が殺されれば、開戦の絶好の口実になる・・・
使節派遣は対外戦争をも視野に入れた計画だったのです。
ひとたび開戦となれば、膨大な戦費がかさみ、国内の近代化どころではなくなってしまう・・・!!
伊藤は状況を打開する為に、密かに動き出しました。

”明治六年征韓論一件”にはこう書かれています。
明治6年9月27日の岩倉具視宛の手紙には・・・

「朝鮮問題の解決は、大久保さんでなければ成功は難しい・・・
 参議就任のこと、今一度ぐらいではなく百度でも御説諭すべきです」

征韓論阻止のためには、大久保を参議にして戦ってもらうしかない・・・伊藤はそのために岩倉を動かそうとしました。
2日後、岩倉は伊藤にこう返信しています。

「今朝、大久保のところに出向き、百方懇願した」

2人の策は功を奏し、岩倉に対し大久保はついにこう表明します。

「命がけで参議就任をお引き受けする」

岩倉、大久保、そして伊藤・・・西郷の派遣阻止に向け、三人の戦いが始まりました。

1873年10月14日・・・
岩倉使節団帰国後、初めての閣議が開かれました。
メンバーは、太政大臣・三条と右大臣・岩倉、留守政府側の参議には西郷を筆頭に土佐の板垣、後藤、肥前の江藤、大隈らが顔を連ねます。
使節団側の参議は大久保一人・・・木戸は帰国後体調がすぐれず欠席していました。
閣議の様子は・・・

岩倉と三条が、朝鮮の西郷を派遣するのは延期すべきだと主張。
ほとんどの参議は、これに同意しました。
8月の閣議で、西郷を派遣を決めた三条でしたが、岩倉に説得され考えを変えていました。
三条が意見を翻したことで、留守政府の参議も派遣延期で妥協しようとしましたが・・・
西郷が納得しません。
決まったことだとあくまで即時派遣に固執し、強硬に反論しました。
先の閣議で派遣を認めた手前、留守政府の参議も延期論を捨てざるを得ない・・・

10月15日、閣議が再び開かれ、そこで決着がつきます。
三条実美が、またもや考えを変え、西郷の即時派遣を決定。
この決定を受け、岩倉と大久保、木戸は辞意を表明。
慌てた三条は、西郷に派遣の撤回を求めるものの、西郷は、頑として受け入れませんでした。
板挟みとなって追いつめられた三条は、極度のストレスで卒倒し、一時意識不明に・・・!!

この間、閣議に参加できない伊藤は、この政局を不安と共に見守っていました。
留守政府と共に近代化??それとも岩倉と大久保を支える・・・??
このまま留守政府側が進める西郷の朝鮮の派遣を認めるのか?
それとも岩倉・大久保と共に、逆転への賭けに打って出るのか??

伊藤の選択は、あくまで岩倉と大久保を支えることでした。
しかし、そのためには既に、使節派遣の閣議決定を覆さなければなりません。
果たして、伊藤はどうする・・・??

「大久保利通日記」によると・・・
三条が倒れた2日後の10月19日には、
”他に挽回の策なしと言えど、ただ一の秘策あり”と書かれています。

ただ一の秘策とは・・・??
三条の倒れた今、岩倉が太政大臣の正式な代理となって太政大臣としての実権を握り、その権限で使節派遣をやめさせるというのです。

10月20日、明治天皇が岩倉邸を訪れ、岩倉に直々にこう伝えます。

”太政大臣に代わり朕が天職を輔けよ”

岩倉を太政大臣内裏にするという秘策・・・伊藤博文が動いていた・・・??
その根拠の一つが大久保の”一の秘策”の前日の日記です。
この日、大久保宅を訪問した伊藤は、さらにその後、岩倉邸にも回っています。
両者の間で秘策の根回しを行っていたのです。

10月23日、岩倉は、使節派遣、派遣延期、二案を上奏します。
天皇の答えは、既に決まっていました。

「国政を整え、民力を養い、つとめて成功を永遠に期すべし
 汝 具視が奏上 朕 これを嘉納す」

西郷の派遣は中止され、それを受けて征韓派の参議5人は辞職しました。
征韓論をめぐる対立は、使節団側の勝利に終わったのです。

政変後・・・
1873年10月25日、伊藤は工部卿に就任します。
産業を興し、民力を育てることに手腕を発揮します。
その一つが生野銀山です。
当時、生野銀山は、採掘技術の限界から産出量が激減していましたが、伊藤率いる工部省は、静養の技術を導入することで増産を図りました。
ここで、日本初の産業道路ができています。

政変から12年後の1885年、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任。
1890年には第1回帝国議会開会。
そこでは貴族院と衆議院という二院制が取られ、近代国家の枠組みが整えられました。

1900年には立憲政友会を結成。
国民の声を政治に反映させることに力を注ぎます。
岩倉使節団で育んだ夢を、伊藤は終生追い続けたのです。

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日本の政治の中枢・国会議事堂・・・現在の建物は、1936年帝国議会議事堂として完成しました。
参議院本会議場・・・戦前は、皇族や華族で形成された貴族院として使用されていました。
現在参議院の定数は245ですが、460席あるのは貴族院の議場だった名残です。
天井は唐草模様を配したステンドグラスがはめ込まれ、当時の面影を残しています。
この参議院議場の最大の特徴とされるのが、議長席の後ろにもうけられた・・・開会式の際の天皇陛下の席です。
日本で初めて議会が開かれたのは1890年の第1回帝国議会です。
それに先立って作られたのが、大日本帝国憲法でした。

明治維新から22年の1889年・・・
近代国家を目指して制定された日本初の憲法が、大日本帝国憲法です。
その憲法制定に16年を費やし、中心的な役割を担ったのが伊藤博文でした。
伊藤は1841年、長州藩の貧しい農家に生れました。
その後、下級藩士の養子となり、吉田松陰が開いた松下村塾で学んだことで、運命が大きく変わることになります。
20代の始めに藩の留学生としてイギリスに渡り、西洋文明と英語を学びます。
そして明治維新後、その英語力を買われ、新政府に仕えることとなったのですが、士族出身者が多い政府の中で、伊藤は立場が弱い農民出身。。。
どうしてそんな伊藤が、後に憲法制定の中心人物となったのでしょうか?

1871年、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団でした。
30歳になっていた伊藤は、明治維新の英傑・大久保利通や木戸孝允たちと共に海を渡ります。
この時の使節団の目的は、幕末、日本が西洋列強に言われるがまま結んでしまった不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の視察でした。
一行は、アメリカに到着後、サンフランシスコ、ワシントン等に滞在、その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンなどの都市を視察、そこで西洋列強の工業力や軍事力のすごさをまざまざと見せつけられ、強い衝撃を受けます。
そして、その中で、その国力の背後にある「あるもの」が日本の近代化には必要だと気付きます。

「あるもの」とは・・・??
国力を高めないと西洋諸国から認められない・・・
そのうちの一つとして憲法に注目します。
ヨーロッパの多くの国は憲法を持っており、指導者と国民が一つに繋がっている・・・そのような国の形を支えている憲法というものが重要だと・・・!!
この時の日本は、廃藩置県で「藩」が廃止、日本という国を一つにまとめるための憲法はありませんでした。
そうした中で、使節団一行は、欧米諸国と肩を並べるには憲法成立が不可欠だと知ったのです。
中でもそれを強く感じたのが、大久保利通と木戸孝允で、しかし、自分たちの生きている間には実現しないだろうと考えていました。
そこで、2人はイギリス留学を経験し、西洋列強のことをよく知る若き伊藤にこの大事業を託すことにしました。
こうして伊藤は、明治政府の重鎮・木戸孝允と大久保利通の後押しがあったから憲法制定の大事業を担うことになったのです。
しかし、そんな伊藤の前に、いくつもの壁が立ちふさがることに・・・!!

憲法制定の壁①板垣退助の自由民権運動
帰国した伊藤は、1873年11月、政府から憲法制定に向けての調査を正式に命じられます。
しかし、日本の国内事情はそれどころではありませんでした。
政府内では、朝鮮への派兵をめぐる征韓論争が起き、その結果、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが辞職・・・
さらに、士族の反乱が勃発、緊迫した情勢にありました。
そうした中、下野した板垣退助が1874年、日本初の政党・愛国公党を設立。
自由民権運動の口火となる建白書を政府に提出しました。

「今の政府は一部の藩閥政治家が支配している
 これを改めるには、選挙で選ばれた民撰議員を設置すべきである」by板垣

これにより、不平士族を中心に、自由民権運動が盛り上がりを見せます。
藩閥政治を批判し、早期国会開設とそれに伴う憲法制定を政府に要求、五日市憲法草案(自由民権運動家・千葉卓三郎によって起草された私擬憲法)など、自分達で憲法草案を起草する者も出てきました。
憲法制定を急ぐ急進派を前に、伊藤は困惑します。

「憲法は時間をかけなくてはいいものは出来ない」

選挙による議会開設は時期尚早・・・ましてやそれに伴う憲法制定については時間をかけるべきだと考えていました。

しかし、自由民権運動は、農民層にまで広がりを見せ、過激さを増していきます。
これに対して明治政府が動きます。
次々と条例を出すなどの徹底的な言論弾圧を行っていきます。
憲法改正、議会開設を急ぐ動きは、一時収束・・・
伊藤はようやく腰を落ち着けて憲法を制定していくことができる・・・
そう思っていたのです。

1873年、伊藤博文が32歳で明治政府の住職である参議・工部卿に就任。
しかし、その4年後・・・1877年、後ろ盾だった木戸孝允病死・・・
翌年には、大久保利通が暗殺されます。
伊藤は、木戸と大久保から託された憲法制定への想いを強くします。
2人の遺志を受け継ぎ、自ら政府をを先導していくと決意を新たにするのです。
ところが・・・

憲法制定の壁②大隈重信の裏切り
1881年3月、憲法制定に関する一通の意見書が、明治天皇に近い有栖川宮熾仁親王に秘密裏に提出されます。
意見書を出したのは、伊藤と同じ参議の大隈重信です。
そこにはこうありました。

「議会で多数派となった政党が、行政の重責を担うイギリス型の議院内閣制度を採用すべし
 できるだけ早急に憲法を発布し、二年後の明治十六年初めには議会を開くこと」

大隈は、時間をかけて憲法を制定するという政府の方針に真っ向から反対する意見書を出したのです。
それは、政府がいち早く憲法を制定することで、根強い自由民権派の政府批判を打ち消そうと考えてのことでした。
しかし、伊藤にとっては寝耳に水の話・・・
盟友・大隈の裏切りとも取れる行動に、腹を立てた伊藤は、政府の重鎮だった岩倉具視に宛ててこんな手紙を書きます。

「大隈さんの意見書を読んだところ、実に意外な急進論であり到底従うことはできません
 このような方針が取られるのであれば、自分は辞職させていただきたい」

その怒りの裏には、大隈の意見書が具体的な内容だったことへの恐れもありました。

”このままでは大隈重信に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

先を越された焦り・・・大隈という新たな壁を前に、伊藤はただ悶々としていました。
すると、ある事件が起こります。
北海道の開発を担う開拓使の廃止に伴い、鉱山や工場などの官有物を旧薩摩藩関係の民間企業などに格安で払い下げることが検討されていたのですが・・・
その払い下げ計画が、新聞にすっぱ抜かれ、政府と薩摩閥の癒着だと叩かれたのです。
さらに、新聞社に情報をもらした人物が、払い下げに反対していた大隈では??と疑われたため、大騒動に・・・!!

世に言う”開拓使官有物払い下げ事件”です。

明治政府は、騒動の責任を取らせ大隈を政府から追放。
これにより、伊藤が懸念していた大隈による早急な憲法制定と、議会開設は阻止されたのです。
ただし、一件落着とはいきませんでした。
こうした問題が起きるのは、薩摩・長州藩出身の政治家たちがいまだ権力を握っているからだと、自由民権派が「藩閥政治」を批判。
選挙で選ばれた人たちで健全な政治が行えるよう議会の早急な開設を求める声が、再び起こったのです。
政府は止む無く”国会開設の勅諭”を出し、9年後の1890年に国会開設をすることを表明。
これに先立つ憲法制定も急ぐこととなってしまったのです。

1881年10月12日、勅諭が下されたことで、9年後の国会開設が約束されました。
そして、これに伴い急ぐこととなった憲法の起草作業・・・
40歳になっていた伊藤博文は、その中心で奔走していました。
ところが、またもその立場を脅かす人物が現れます。
岩倉具視のブレーン・・・井上毅です。
伊藤は一体、井上の何を恐れたのでしょうか?
司法省の官僚として海外視察を経験していた井上毅は、西洋諸国の法律に精通した政府随一の法制度の専門家でした。
岩倉のために、すでに憲法意見書を作成していました。

・天皇が制定する憲法であること
・急激ではなく段階的に行うこと

「ヨーロッパの憲法を参考にする際は、君主の権限が強いドイツの憲法が適している」by井上毅

当時ドイツでは、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が強い権限を持つ憲法が用いられていました。
かねてから井上は、議会を重んじるイギリス型の議院内閣制度では安定した政府運営ができないと反対していました。
ドイツ型の憲法こそ、天皇を尊ぶ日本の国情に合う憲法だと考えていたのです。
井上の意見書を目にした伊藤は、自分には明確な憲法のビジョンがなかったことに気付き、大きな危機感を覚えます。

”井上毅に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

法制度に精通する井上毅に憲法制定の主導権を奪われることを恐れたのです。
木戸や大久保から託されたという伊藤のプライドが、傷つけられたのでした。

伊藤の親友で外務卿だった井上馨は、この頃の伊藤についてこう語っています。

「近頃、伊藤も大いに心痛の極みにて、神経症が起こり毎夜眠れず
 酒一升を飲んで ようやく寝ることができるという状態である」

完全に自信を喪失し、苦悩する伊藤・・・すると政府内から声が・・・

「よかったら、静養もかねて欧州へ憲法調査に行かれたら如何でしょうか」

渡りに船とばかりに、伊藤はこの提案を受け入れ、1882年3月、伊藤博文ヨーロッパへ旅立ちます。
その伊藤に、井上毅はこんな手紙を送りました。

「立憲作業はもう最終段階、海の向こうで静養でもしながら私が研究した成果を参考にして、草案を仕上げてきてください」

それは、伊藤は無用、立憲作業のお飾りに過ぎないとでもいわんばかりの屈辱的な内容でした。
しかし、伊藤はこれを、巻き返すチャンスだと信じて疑いませんでした。

1882年5月、ドイツ・ベルリンに到着。
議会開設まであと8年・・・ドイツのような立憲君主国の憲法とは??
議会と内閣の関係とは?選挙は・・・??
具体的な仕組みの調査を目的としていた伊藤・・・
しかし、かの地で漢方調査は思うようにうまくいきませんでした。

ドイツに到着した伊藤がまず頼ったのが、ベルリン大学の憲法学者のルドルフ・フォン・グナイストでした。
ところが、こう言われてしまいます。

「遠方からドイツを目標においで下さったのは感謝の至りだが、憲法は法文でない
 精神である
 日本の事情に無知な自分がお役に立てるかは自信がない」

グナイストは、憲法や法律は国家が勝手に決めるものではなくて、その国の歴史に根ざして作られて行く物という考え方を持っていました。
=「日本の歴史を知らないから助言する立場にない」となるのです。
伊藤の憲法調査は、頓挫してしまいました。
さらに、議会の開設についても、謁見したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世から日本では到底無理だろうといわれてしまうのです。

行き詰まり、苦悶する伊藤でしたが、救いの手を差し伸べる人物が現れます。
オーストリア・ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインです。
以前から日本に関心を持っていたシュタインは、懇切丁寧に国家の全体像についての講義をしてくれました。

国家というものは、独立したひとつの人格に例えられる
そして、それぞれ自立した3つの要素を備えている
国家の自己意識を具現化する機関としての君主
国家の意思を形成する議会(立法)
国家の好意を司る内閣(行政)
そして、最も重要なのは、憲法そのものではなく、それを支える制度や組織です

伊藤は、国家の全体像について理解するようになっていきます。
そのことが、自分こそが憲法を作るのだという自信を回復することに繋がっていきます。
そして、「立憲カリスマ」として日本に帰ってくることになるのです。

伊藤は、岩倉に宛てた手紙にこう書いています。

「私はドイツにて国家組織の大体を理解した」

およそ1年半に及ぶヨーロッパでの憲法調査で、自身を回復した伊藤は、立憲政治において誰からも一目置かれるカリスマへと生まれ変わったのです。
そして、1883年8月・・・井上毅と対等に議論できる知識を得、帰国した伊藤は、憲法制定へのリーダーシップをとっていきます。
まず着手したのが憲法を制定し、議会を開くための受け皿となる国家組織の改革です。
自立した行政を行うため、近代的な内閣制度を作りました。
そして、44歳になった伊藤は・・・1885年12月、初代内閣総理大臣に就任。

1887年、伊藤博文は、横浜・東屋旅館で参事院議官の井上毅、伊藤の秘書官の伊藤巳代治、同じく秘書官の金子堅太郎と共に、憲法の起草作業を始めました。
順調に事は運んでいました。
ところが・・・東屋旅館に宿泊していた伊藤巳代治と金子堅太郎が、ことのほか起草作業が進んでいることに木を良くし、ある晩宴会を開き、酔いつぶれてしまいました。
すると運悪くそこに怪しい侵入者が・・・目覚めた二人は青ざめます。
憲法草案の入った大事なカバンを盗まれてしまいました。
もしかして、妨害しようとした自由民権派の仕業では・・・??
しかし、幸いカバンは近所の畑に捨てられていて、草案は無事でした。
金品目当ての泥棒だったのです。

草案は無事だったものの、慎重を期し、伊藤は横須賀・夏島にあった自身の別荘に作業場を移します。
そして、密かに作業を続ける中で、三人に言いました。

「私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及してくれ
 君らの言うことが分からなければ、私も君らを徹底的に攻撃する互いに攻撃し、議論するのは憲法を完全なものにするためである
 長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論議論を極めて、完全なる憲法を作ろうではないか」

こうして、数か月にわたる激しい議論を交わしながら作り上げていったのが、大日本帝国憲法の原案となる”夏島草案”です。

第一条には・・・
大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
この天皇の権限こそ、草案作成の中で最も論争となった点でした。
伊藤たちは、天皇は国を一つにまとめる重要な存在と認めながらも、独裁になってはならないと考えます。
そこで盛り込んだのが

第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

実際には、天皇の主権は憲法の規定に従って行うということも明記されています。
完全な意味での独裁ではなく、君主(天皇)の権限は制限されていました。
草案はその後も検討され、徐々に完成へと近づいていきました。
そんな中、最後の壁となったのが明治天皇でした。

憲法制定の壁③明治天皇の反発
明治天皇は、政治的実権はすべて自分にあると考えていました。
そのため、伊藤は憲法で主権を制限されることに天皇が難色を示すのではないかと危惧したのです。

「何としても陛下を説得しなければ・・・!!」

伊藤はいかにして明治天皇を説得したのでしょうか??

陛下には、シュタイン博士の憲法の根幹を学んでいただき、君主の役割を理解していただく必要がある・・・
伊藤は、まずは天皇が厚い信頼を寄せる人物に憲法を学ばせ、その人物に天皇に講義をしてもらおうと考えます。
伊藤がその大役に選んだのが、侍従の藤波言忠です。
藤波は、シュタインの教えを学ぶため、ウィーンへと旅立ちます。
そして、シュタインから憲法だけでなく、教育、宗教、産業など立憲国家の君主が心得るべきことの全てを学びます。

こうして1887年11月・・・
帰国した藤波は、明治天皇に講義を行いました。
その時間は、合計33時間に及んだといいます。
これにより、新しい憲法における自らの立場を理解した天皇は、その制定を見守ることに・・・
天皇が全幅の信頼を寄せる侍従に、憲法を学ばせて、天皇に講義を行うことで説得しました。

そして、その翌年の4月・・・46歳の伊藤は、天皇に意見を求める機関として新設された枢密院の議長に就任。
そこで、天皇列席のもと、2か月に及ぶ憲法の審議を行うのです。
これを受けて伊藤たちは、さらに議論を重ね、およそ半年後、全ての条文を作り上げるのです。
言論の自由、臣民の権利が、法律の範囲で保証されることが約束され、帝国議会については貴族院は皇族・華族からなり、衆議院は当選された議員から定められることとなりました。

1889年2月11日、ついに伊藤にとって念願の日を向かえます。
憲法発布の日です。
式典が、この年新しくなった皇居・明治宮殿で行われました。
伊藤が起草を手掛けた大日本帝国憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡しする形で、無事に発布されました。
これにより、日本は東アジアで初めて近代憲法を持つ立憲君主国となったのです。
各地でちょうちん行列が催され、民衆は憲法発布に沸き立ち、万歳三唱を繰り返しました。
その様子を、当時お雇い外国人として日本に来ていた医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、こう記しています。

「東京全市は十一日の憲法発布に対し 言語に絶した騒ぎを演じている
 だが滑稽なことに だれも憲法の内容をご存知ないのだ」

ベルツが言うように、民衆の殆どが大日本帝国憲法の中身を知りませんでした。
憲法発布によって、日本が文明国の仲間入りをしたことにただただ喜んだのです。
そんな状況もあってか、憲法発布後、伊藤は各地で公演を行い、憲法の理解を求めて生きました。

この後、三度にわたり内閣総理大臣を務める伊藤は、大日本帝国憲法の精神と立憲政治の定着に邁進・・・
それこそが、自らの使命と信じて。。。

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川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

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なんと、最終回BSも、リアルタイムも録画し逃すという失態を侵してしまいました。
今年の大河に対する私の気持ちが表れているのか??それとも呪いか??
土曜日を録画し直しましたよ~~!!

「敬天愛人」・・・菊次郎が職場の部屋に飾ったこの言葉は、西郷さんが大好きだった言葉です。

菊次郎のナレから始まります。
時代の流れに乗り切れなかった男・・・西郷隆盛・・・を。
って、時代の流れに乗り切れなかったのは、いわゆる旧幕府軍の方ではないのか??
よく考えると、西郷さんは戊辰の時は官軍で・・・悲劇としては中途半端ななのかしらね??
1877年8月17日・・・延岡にて・・・戦場にいる糸が、どうも不自然な・・・。
みんなを残し、鹿児島に向かった西郷さん。。。西郷さんに従った者たちと共に・・・。

山縣有朋と西郷従道が糸を尋問しています。
って・・・おまけに謝る従道もなあ・・・もっと、戦う気満々じゃないの??不自然だよ・・・。

don2















山中を駆けずり回る西郷軍・・・やっと、鹿児島の城山にたどり着きました。

なんと、その山で子供の頃の落書きを発見しました。
そして、故郷・鹿児島で”はつらつ”と、戦ったのだそうだ。
はつらつ、溌剌・・・この言葉でいいの??戦うのに溌剌なのか??言葉の選び方、間違っているような気がする・・・。

しかし、反撃もここまで・・・政府軍の圧倒的な攻撃と、陸と海からの援軍に包囲され、山の上にと押し戻されていきます。
って・・・この政府軍の圧倒的な攻撃と、陸と海からの援軍の出し方やあれこれをやってくれたら、面白い戦いになります。
そんなこんなを、このナレ一言で終わらせるから、わかんなくなっちゃうのよ・・・戦いが・・・!!

で・・・いきなり東京の大久保邸です。
今までの大河でも、家族のことを描くことはあっただろうけど、
「女が口出しする」大河があったかな??そこがシラケるのよね??って思っちゃうんです。
私も女ですが、私が男尊女卑というよりも、この時代が男尊女卑です。
でもって、この大河では女性たちはみんな口をそろえて言います。
「話せばわかってくれる」って!!
話してわかってくれたら、戦争なんて悲惨なことにはならないんだよ~~!!
第二次世界大戦だって、官僚たちは止めようと思っていたけど、関東軍がイケイケ陸軍で暴走しちゃったんだろ??って思うの。
止めようにも止まらない戦いとか・・・よく言うでしょ??

「男なら、負けるとわかっていても戦わなければならない時もある」って言葉もあるし・・・!!

糸たちが鹿児島の家に帰ってきました。
そんな家族パートをするのは諦めたけど・・・
西郷どんの妹・琴子、従道に戦争をやめるように怒るんですが・・・
それを言うなら、西郷どんに言わないといけないし・・・
だいたい、嫁に行ったのに・・・出戻ってんの??
昔は嫁に行った娘は年に1回藪入りでないと帰れなかったんだよ??
そんな・・・今どきの嫁でもこんなに実家にいてへんわ・・・!!

西郷どんの陣営は、村田新八によるアコーディオンの演奏で指揮を揚げます。
”ラ・マルセイエーズ”で、戦力アップ!!
踊るんですが・・・まるで阿波踊りです。

その頃・・・大久保は昔を懐かしんでいました。

don3















西郷さんの好意に預らなかったものはおらんか??とか言い出す山縣有朋です。
が・・・この大河って、なんとなく話が進んでいくんですよね??
そう思うなら、山縣有朋と西郷隆盛の大事なエピソードを入れればいいだけのことなのに・・・。
そのエピを端折っているから、その好意が解らんから、”どうして西郷さんが慕われているのか”がわかんないのよね~~!!

総攻撃が行われることが西郷さんに手紙で届きました。
この手紙、山縣有朋からではなく、この大河では大久保からになっております。

don4















どうする??
西郷さんだけは生きてほしいという桐野以下全部!!

あ・・・こんなキンチョーな場面でまたもや東京の大久保・・・。
呑気な音楽で内国勧業博覧会で、商売です。

自分が死ぬことで、”戦が終わる”と戦うことを決心する西郷さんでした。
最期の夜も、最後の晩餐って感じじゃなくって、若者のコンパみたいだわ・・・。
でも、そうだったのかもなあ・・・とも思う。

当日・・・またもやお腹の鳴る村田新八・・・ってどうよ??
あきれるわ・・・。
武士は食わねど高楊枝なんですけどね・・・??
それは、もっと位の上の人なのかな??

don5
















戦って、戦って・・・みんな死んでいきます。
そりゃあそうだよね??

って思っていたら、川路が桐野を撃ったの??
東京にいた川路が・・・??

村田新八も撃たれて死んじゃいました。
なんの感動もさせずに・・・。

「圧倒的じゃないか!!我が軍は!!」と、ギレン・ザビに言わせるぐらいの政府軍です!!

??西郷さん、撃たれちゃいました・・・!!

糸のもとへ西郷が戦場で連れていた犬たちが戻ってきました。
そうね・・・この犬の演技は、犬を飼っているものとしては涙を誘ったかなあ・・・??

大久保邸では・・・吉之助を追いつめたことを悔いる一蔵・・・。

フキとなんだかんだと住んでいたんですね・・・慶喜・・・。
西郷さんをアゲアゲするフキ・・・。
当時の新聞で見てますが・・・そんなに早く新聞でるか??今よりもタイムラグは計り知れないほど大きいというのに・・・。
どうして逃げなかった??という慶喜ですが、慶喜、逃げたんじゃないって言ってたよね??
西郷星も出て来ましたが・・・どうして西郷星が出てきたのかも説明してくれませんでした。
当時の人がテレビのニュースがあるわけでも、字が読めたわけでもなく。全員が西郷さんを知っているとは思えないしなあ・・・。

西郷従道邸では、こんな大きい家を作ったのは、皆を呼び寄せるためだったんですね??なんていう奥さんの前でうな丼をほおばる従道ってなんだよ??諭されている子供か??

みんな普通の生活してますけど・・・そこに何の意味が??
そこは家族愛なのか??で、やっぱりいる琴子です。

1878年5月14日・・・西郷が死んで翌年・・・紀尾井坂にて大久保利通暗殺・・・!!

なんと・・・西郷どんが迎えに来ました。

??終わると思っていたら、這いずり回る西郷どんです。

don6
















「もう・・・ここらへんでよか・・・」by西郷どん

??何回終わったら気が済むん??っていうほど、終わりがたくさんありましたね・・・

なんだか西郷どんの死に方・・・時間軸がよくわからなかったなあ・・・。
西郷さんより桐野利秋が先に死んだし、別府晋介もどっかいったし・・・もやもやです。

で・・・最終的に、吉之助さあと一蔵どんが手に手を取ってあの世へ行ったんですか??
そう見えたんですけど・・・。
やっぱり1年かけてBLだったんでしょうか??
1年見ていて思った事・・・それは、本筋でBLをやるのはなしだなあ・・・ってことです。
今年は「おっさんずラブ」が流行りました。でも、そのBLとはまた違うんですよね??
彼等は150年前に確かに生きていて、子孫の方がいらっしゃるんです。
司馬遼太郎さんは、100年経たないと歴史にならない・・・みたいなことを言てらっしゃいましたけど、やっぱり幕末の人は、かなり資料も残っているし、ちゃんとした子孫の方が生きていらっしゃる・・・。

と書いていて思ったのは、この作品、BLでなくてもみんなをサゲサゲの作品だったなあ・・・と、思うのです。
誰の正義もちゃんと書けていなかったなあ・・・それならみんな人殺しだよ・・・。

話はそれてしまいましたが、BLについて・・・
私が子供の頃にJUNEという雑誌があって・・・やおいや百合がかなり流行った時代でした。
もともとの日本の歴史に男色があったこともありますが、腐女子爆発的に人気が出たのはなんだろう??
個人的には「リングにかけろ」だと思っていますが・・・。
長浜ロマンロボシリーズかも知れないですね??
長浜ロマンロボシリーズが機動戦士ガンダム(腐女子の大好物はシャアガル)になっていくわけですが・・・。

先日、某塾講師の先生のテレビ番組で「新選組もBLだった」みたいな見出しでやってましたけど、今のBLと男色を一緒にしないでほしいなあ・・・と思ってみていました。
男色や衆道の理由にはいろいろあって・・・そこには愛でないものもあると思うんです。
尊敬とか、主従関係とか、僧侶だったとか、女性が少なかったとか・・・
そして、BLは二次作品でないと・・・ってことです。

「好き」って感情でなく・・・
例えば、西郷さんはその尊敬されるあまり桐野利秋によって「新政府軍には渡したくない」と、殺されたともいわれています。
このワンシーンを加えるだけで、腐女子たちは自分でBL化できると思うんです。
それこそ、西郷さんの首を渡すわけにはいかないと、首を隠したという人もいます。
もちろん、ここでBLしたかったであろう大久保利通・・・ただ単に号泣させるのではなく・・・
心の底ではわかりあっていた・・・そう表現することで、腐女子たちは自らBL化してくれるでしょう。
腐女子が好きなのは、友情や、信頼関係なんですよね・・・
ジャンプの友情マンガには、そんな作品が溢れています。
だからそれが腐女子が求めているモノなんですよ・・・。
スラムダンクでの花道と流川のハイタッチとか・・・ただ単に「愛」ではないと思います。

そしてもう一つ・・・歴女が好きな大河について・・・。
誰かが書かれていましたが・・・腐女子はラブラブとかを見たいわけではなくて・・・
斬り合いの中で、吐血しながら階段を転げ落ちる(これは沖田総司な感じ)を見たいのだ、と。
なんかわかる気がする・・・。
私は歴女という言葉が嫌いです。
だって、女性が歴史を好きになっても普通でしょ??
歴女とか、山ガールとか・・・別に女を強調する必要ないんじゃないかな??って思うからです。
そんな私、昔は永倉新八の良さがわかりませんでした。
だって、最後まで新選組隊士として戦わなかったから。
今は、あの時代にあの生き方はしんどかっただろうなあ・・・って思うけど。
若い頃は、そんな儚い男子が好きだったんですよ・・・たぶん歴女はみんなそうじゃないかな??
だから、突っ走った長州はともかく、寝返った薩摩は好きじゃないけどね・・・??


とにかく、今回西郷隆盛をいろいろ調べて思ったのは・・・
テロリストと言われるだけあって、なかなか黒い部分の多い人でした。
あれだけ黒い人を大河で綺麗に書くのは本当に難しいだろうなあ・・・ってことです。
ほんと、かなりえげつないことしてますもん。

この大河では、大久保利通とっても悪者でしたが、大久保利通という人は義理とか人情とかよりも日本政府をつくることが第一の人でした。
なので、西郷さんとは対極にある人というか・・・義理と人情を無視しても日本政府を作る人だったんです。
対極にある二人でしょ??
だから、西郷さん一人なら難しいけど、大久保利通と一緒に描いたら友情物語ができたのになあ・・・って思います。
その二人の心が繋がっていれば・・・
それを書くだけで、脚本家先生の書きたかったBLになったのにね??

何はともあれ、皆さんお疲れさまでした。

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いよいよ終盤に入って盛り上がってくるところなんですが、感情移入できないせいか恥ずかしく、ながら見しちゃう西郷どんです。
西南戦争だというのに・・・

士族の窮状を政府に訴えるために、1万3000人を伴って東京に向かうこととなった西郷どん。

西郷さんがたったことが信じられない新政府人たち。
天子様にお願いするそうな。
「西郷討伐の詔を・・・!!」by大久保利通

え~~!!いきなり川尻まで到着です。
なんでか??あと2回しか放送がないからか・・・??

熊本城から火の手があがり・・・熊本城下からも火が・・・一気に燃えあがります。

自ら火を放つのはどういうつもりか??とか、熊本は自分たちを通さないつもりか?とか、あっちがその気ならこっちも・・・とか??
そういうつもりでやって来たんじゃないの??と思うんですよね・・・。
1万3000の兵でくれば、鎮圧されるだろ??ふつう!!
賊軍扱いされてビックリ!!の薩摩軍です。
賊軍になったから東京にのぼれなかったのではなく、熊本を攻め滅ぼせなかったから行き止まりになって東京にのぼれなかったんじゃないの??
ま、熊本鎮台は民兵(武士ではない)ので、なんとかなると高をくくっていたのは違いないです。
このドラマと同じように呑気だったのかもしれませんが、彼らは武士ですから・・・もっと、血気盛んだったのは間違いないでしょう。

「一蔵どん・・・そういうこっか。。。」by西郷どん

押し殺しているのか、薄笑いを浮かべているのなら大久保より西郷の方が二重人格でしょ??
戦してるのに何笑ってんねん・・・。
緊張感皆無!!

で・・・どうするか悩んでいるんですが・・・
それは、わかっていたことだろう??作戦立ててなかったんかい??と言いたくなる・・・。
そして相変らず笑っている西郷どんは、もはや進む道はただ一つ・・・!!
と、騒ぐみんな。

don2
















お・・・もう、田原坂の名前が・・・。
どこまで端折ってんねん??

で・・・西郷軍が刀で来るから政府もすぐに抜刀隊を結成!!
って、この政府の抜刀隊結成までにはいろいろお話があるんです。
遡ると、山縣有朋とのやり取り、西郷の下野にもつながるんです!!
山縣有朋、政府の公金を使って無利子でお金を貸したってことだけクローズアップされてたけど、陸軍TOPとしてこの戦いに参加しています。
もともと、徴兵制を敷くことに精力的だった山縣。
徴兵制ということは、武士だけではない=民兵です。
つまり、戦うという特権も武士から奪うことになるんですが・・・
西郷さんは性急だと考えていtました。
そこにあれやこれやで下野に繫がります。
ドラマでは簡単にここまで来たけど、戦いの素人・民兵で戦おうとする山縣と、武士たちで戦う西郷たちで戦いが泥沼化していくわけです。
で・・・圧倒的な物量で最後は明治政府が鎮圧するんですが、でも、そこには民兵で・・・と思っていたのにやっぱり抜刀隊を組まなければならなかったという山県の苦悩があるんですよ~~!!
ほんと、この大河、苦悩が全く書かれないのよね・・・。

もう、田原坂と吉次峠です・・・。
どうして田原坂が重要なのかも全くもってしてくれません。
圧倒的な政府の物量の前に熊本城への補給路を断つために田原坂なんですよ~~!!

この抜刀隊の多くは薩摩兵で・・・かつての同志たちの戦いとなったと、ナレしてますが・・・。
新政府軍の抜刀隊は、薩摩の外城士&負け組の東北諸藩の者たちでした。
西郷の私学校に行ったのは、城下士です。
つまり、外城士&負け組の東北諸藩の者は城下士を憎んでいました。
こう考えると、外城士&負け組の東北諸藩の者の方が虐げられていたわけで・・・。
私学校に帰ってきた者たちは、城下士だったがために”もっと優遇してくれるはずだった”という不満もあったでしょう。
でもね、私学校の生徒たちが政府の火薬庫を襲撃したのは、自分たちがお金を出した集成館で作ったものを横取りされる!!と思ったからだし、でも、そんな不平士族がたくさんいるところに武器弾薬は置いておけない・・・という政府にも正当性があります。
そんなこんなを全くしてくれていないので、沢山の命が失われていることの理由を見つけることができません。

圧倒的兵力の前に、田原坂を突破されてしまった西郷軍・・・。
この圧倒的兵力には、モールス信号や汽車、船舶での輸送による新政府軍のスピードがあるんですが・・・それもしてくれません。
ちなみにその輸送で大もうけしたのが岩崎弥太郎です。

高瀬河南の戦いで西郷の末弟・小兵衛が戦死!!
19歳も離れた弟の死でした。
そして、菊次郎も足を撃たれてしまいました。

久光が「シサツ」が、「刺殺」か「視察」かで、くどくど政府要人に迫ります。
個人的には、そんなこと、もうどうでもいいんだよなあ・・・。
だって、戦いは始まってしまったんだから。

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「最期は父上の手で・・・」と、懇願するとっても迫真の演技の菊次郎を、クララをせおうペーターのように、背負って歩き出す西郷どん・・・。

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ナレ死でなかったわ・・・木戸孝允!!
「西郷、いいかげんにせんか!」という言葉を残して・・・。

これも、西郷を止められるのは自分しかない!!と思っていた木戸ならではの言葉だと思います。
木戸は、西郷たちと大久保たちの板挟みにあってストレスMaxでした。
そして・・・彼もまた理想を実現することができずに政界から離れるわけです。
そんなこんながあっての、「西郷、いいかげんにせんか!!」なんですよね。
そこの下敷きをやってくれていれば、木戸孝允の悔しさが伝わるというのに・・・!!

大山綱良は、東京で投獄されていました。
ま・・・そうだろう・・・税金を使って私学校を建てたりしたんだから・・・。
おまけに、薩摩人が薩摩の県令だったり、薩摩はかなり優遇されていました。
だから、私学校の面々が立ち上がったのも、ほんと、あまちゃんに見えてしまう・・・。
東北の人々は、もっとつらかっただろうに・・・!!

なんで・・・山縣有朋出てこないんだろう・・・。

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従道の命令で、新政府の人間が保護しようとやってきましたが・・・
自分達は、西郷隆盛の家族なので、敵には世話にならん!!と、突っぱねる糸です。
そこには、戦に夫を送り出した妻たちの心意気があるそうです。
??そうか??あったか??
イチャコラしていただけでは・・・??

そこへやってきたのは、桂久武。
小兵衛が死んで、菊次郎が足を撃たれたことを伝えにやってきました。
戦場に行きたいという糸・・・
戦線を離れて延岡で治療をしていた菊次郎のもとへ・・・??
??戦線を離れて延岡って・・・みんな延岡に行ったんじゃないの??

2万いた兵が・・・もう・・・3,500人になってしまった・・・。
どうして・・・??なんでそんなに減ったんや~~!!

新政府から投降するようにビラが撒かれていました。
でも・・・スルー!!

なんと、世直しのためにみんな戦ってくれていると、食事を用意してくれた地元民・・・。
嘘だろ・・・??
なんでだ・・・。地元民にもひどいことしてたでしょ??西郷どん!!

「おはんら、ほんのこて、よう戦った。
 じゃっどんここまでじゃ。
 おいたちは、今、こん時をもって解散する。
 おいたちの行くところ、行くところが戦場となる。
 きりがなか・・・。
 おいたちは、今日いただいた握り飯の礼すらできん
 もう、東京へは行けん。
 皆、わかっちょっじゃろが。
 生きたか者は降伏してでん生きろ。
 死にたか者は死にやんせ。

 皆、自分の欲するところに従ってくいやい。」by西郷さん

??行くところ、行くところ、戦場になるって・・・毛利小五郎か・・・??
行くとこ、行くとこ、事件ばっかりやぞ~~!!
西郷どんは、戦をしてるんだから行くとこ、行くとこ戦場になるのは当たり前だろ??
おまけに、
「生きたか者は降伏してでん生きろ。
 死にたか者は死にやんせ。」
って、無責任やろ??
この降伏も、もっと、さっきのビラを主張していれば、投降もあるだろうけど、唐突に言葉に出されてもわからんやろ??

自分自身に区切りをつけるために、軍服を焼く西郷どん。
なんか、”俺、カッコいいだろ?感”満載~~!!って思っていたら、
と・・・そこへ、糸登場!!
「来てしまいました!!」
何でくんねん!!
って、菊次郎の介護にはやってきたようですから・・・本当かもしれません。
ああ・・・江の神君伊賀越えを思い出しちゃったよ・・・。
こういうのがあると、感情移入できないのよね・・・。

「私の望みは一つだけ・・・
 旦那さあが、西郷隆盛じゃなかったらどんなに良かったか。
 吉之助さあが、ただのお人じゃったらどんなに良かったか・・・。」by糸

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ああ・・・言ってしまった・・・。
本当に来たのかなあ・・・??なんてことを考えていて、ほんと頭に入んない・・・って思っていたら、””西郷隆盛じゃなかったら・・・””なんて、爆弾発言の糸!!

ま、実際、そう思っただろうけど、それは死にに行く西郷どんには言っちゃだめだろう・・・と思うのです。
賊軍として死んでいく西郷さんを”誇りに思う”と言ってあげてください!!
忍んで忍んで、遠くから思う・・・そういう思いもあってもいいと思います。
なんてったって、電車も普及しておらず、自動車もない時代に・・・今とは全く違う”思い方”があってもいいと思います。
個人的には、ダイレクトに会うよりも、会わない方が上品な表現のような気がして・・・。
そんなこんなな西郷どんも、最終回を残すのみとなりました!!

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