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3世紀・・・中国大陸は魏・呉・蜀の三国時代が始まり、激動の時代に入っていました。
同じころ・・・倭国を治めていtのは邪馬台国の女王・卑弥呼でした。
卑弥呼は倭国大乱の後、30以上の連合政権の盟主として擁立されました。
しかし、その政権は大変不安定なもので・・・
卑弥呼は後ろ盾を中国大陸に求めたのでした。
魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号をもらったのは有名です。
しかし・・・当時の倭国は、呉ともつながっていました。
そう、もう一つの選択肢もあったのです。
卑弥呼はどのような外交を中国とやっていたのでしょうか?
鳥取県青谷町は・・・
上寺地遺跡があります。
14年前に発見された2世紀後半の遺構です。
そこでは折り重なるように100体以上の人骨が・・・額に穴のあけられている頭蓋骨などが発見されました。
2世紀後半の日本はどんな時代だったのでしょう?
魏志倭人伝によると・・・
「とどまること7、80年・・・倭国乱れ、相功伐すること歳を歴たり」
倭国にあった小さな国が、血で血を争う・・・倭国大乱の時代でした。
その原因には、気候の変動が関わっていました。
大雨と干ばつが交互に現れる不安定な気候が続いていました。
飢饉が起こり、人々を困窮に陥れていたのです。
もう一つの原因は・・・
漢王朝が滅亡への道をたどりはじめ・・・
倭国では製造する技術のなかった鉄。。。
朝鮮半島からの貴重な資源でした。
鉄製の武器。。。鉄製の農具。。。
貴重な鉄の供給が漢王朝の滅亡によって乱れ始めたのです。
そして・・・戦乱が起こったのでした。
内乱による共倒れを避けるために・・・
卑弥呼を擁立します。
邪馬台国連合政権の結成でした。
卑弥呼はどんな人物だったのでしょうか?
鬼道を使い、人々の心をとらえていました。
邪馬台国の候補地は・・・決まっていませんが。。。
近畿にあった場合、邪馬台国連合はかなり大きなものだったと考えられます。
卑弥呼の使命は、邪馬台国連合の女王として、内乱を再び起こさせない・・・というものでした。
しかし、この時代・・・共立・・・つまり、周りから押されており、積木細工のような不安定な政権でした。
鉄を安定的に供給すること・・・それは絶対でした。
もう一つの不安定要因は・・・
南にあった狗奴国・・・卑弥呼と仲が悪かったといわれています。
卑弥呼が共立されたころ中国では、後漢の時代。
遼東半島や朝鮮半島に大きな影響を与えていた公孫氏。。。中国東北部出身の豪族です。
漢王朝の弱体化に伴って勢力を拡大し、倭国への鉄の供給源だった朝鮮半島にまで影響を及ぼす独立政権を樹立していました。
卑弥呼は、この公孫氏の後ろ盾を得ようとしていました。
公孫氏の支援によって、敵対勢力を牽制できたとも思われます。
卑弥呼のもくろみ通り、倭国には平穏な時代が訪れました。
しかし・・・220年。。。
倭国の安定を及ぼしかねない事件が大陸で起こります。
漢王朝の滅亡です。
中国は、魏・呉・蜀の三国時代へと突入していき。。。
三国の思惑は・・・卑弥呼が後ろ盾にしたかった公孫氏にとっても脅威でした。
そこで公孫氏は、魏と呉に二面外交をしながら自分の勢力の拡大を図ります。
さらに・・・公孫氏にとって好都合だったのは、蜀の諸葛孔明です。
蜀の建国に最大の功績をあげ、名を馳せていた孔明。。。
蜀の大軍を率いて、魏に攻撃を仕掛けていました。
孔明との戦いに主力を持って行かなくてはならない魏は、公孫氏の勢力範囲には、派兵できなかったのです。
公孫氏が安泰な限り、倭国も安泰???
それは、微妙な三国の関係の上に立っていました。
その後、三国の戦いは新たな局面へ・・・!!
234年、蜀の諸葛孔明が病死。
蜀との戦いに主力軍を裂く必要のなくなった魏は、公孫氏を討ちに向かいます。
魏は公孫氏の二面外交を疎ましく思っていたのです。
対する公孫氏は・・・呉に援軍を要請したものの・・・援軍は来ず。。。
風前の灯。。。
つまり卑弥呼には、新しい後ろ盾が必要になったのです。
①最大の軍事力の魏?
和王の称号を手に入れることで、鉄の供給・入手を容易にする為に。。。
積み木細工の政権を維持していくためにも王の称号が。。。
②南方の国々との貿易のさかんな呉???
その道は、ローマ帝国まで続いていました。
呉と倭国の間にも交流(民間貿易)があったようです。
238年、魏による公孫氏への攻撃は激しさを増し・・・
おまけに呉の援軍は来ません。
抵抗もむなしく・・・朝鮮半島の影響力は魏の手に移ったのでした。
これを見た卑弥呼はすぐに決断します。
魏が奪い取った朝鮮半島の地・帯方郡へ使者を出したのです。
呉ではなく・・・魏への朝貢を選択したのでした。
魏の都・洛陽に迎え入れられ・・・与えられた称号は・・・親魏倭王・・・
どうしてこんなに待遇が良かったのでしょうか?
古代中国の地図を見ると・・・
倭国は実際よりも南にあると認識されていました。
つまり、倭国は呉を背後から牽制できる位置にあると思われていたのです。
このタイミングこそが大事。。。
親魏倭王の称号は、卑弥呼の外交戦略の賜物だったのです。
その10年後には、卑弥呼は狗奴国と戦争状態に入ったと書かれています。
この時魏は、倭国まで使者を送り、邪馬台国連合を支援しました。
いつ・誰に書状を出せばいいのか???
そこをよく見極めていたのです。
卑弥呼が作り上げた新しい外交関係・・・
纏向遺跡で見つかった3世紀前半の建物跡・・・
この遺跡たちは、東西方向を軸として一直線に並んでいます。
一説には、中国の都づくりの影響を受けたといわれています。
卑弥呼は調整型のリーダーでした。
内部の対立を乗り越えて・・・だからこそ、蓄積された知恵が外交に生かされたのでしょう。
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