警察手眼 (NDL所蔵古書POD)

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全国に26万人いる警察官。
警視庁は、東京都を管轄する警察組織です。
警察は、我々の安全と秩序を守ってくれます。
が・・・現在の組織になったのは、今から150年前!!
しかし、警察官として最初に採用されたのは、博徒などのならず者や浪人たちでした。
悪化していく東京の治安に西郷隆盛が採った策とは・・・??
西郷から治安維持を任せられたのは、川路利良でした。

江戸時代の治安は、町奉行・与力・同心・岡っ引きなどによって守られていました。
しかし、江戸幕府が崩壊し、明治となると・・・
江戸は東京となり、近代化を推し進める新政府は、旧幕府の制度を廃止していきます。
そんな中、町奉行所までもが消滅し、東京の治安は悪化の一途をたどっていました。

1870年イギリス人暗殺事件が起きて・・・町奉行所に代わるものの必要性を感じた政府。
この時、首都の治安を任されたのが、新政府の重鎮・西郷隆盛でした。
西郷はどのようにして治安回復を行ったのでしょうか?

まず、薩摩藩などから兵を出させ、市中の取り締まりをする”取締”という役職を作ります。
しかし、つきたがる者もなく・・・人数合わせのための博徒や浪人などが含まれていました。
治安を守るどころか、権力を振りかざすようになる取締・・・益々治安が悪くなっていきます。

ヨーロッパ留学から帰国した弟・従道。。。
「フランスにはポリスっちゅうもんがありもうしてな
 こいはほんに便利なもんでごわした」
そして、ポリスは、市民の保護や町の警備、犯罪の摘発を行う仕事だと教えました。
西郷は、早急にポリス制度を導入しなければ・・・!!
1871年取締→邏卒とし・・・かつて武士で、のちに士族となった身元の確かな者たちを中心に採用することにしました。
この士族の起用には、首都を守る以外に、失業した武士の補償ということもありました。
この人事を任されたのが、役人だった川路利良でした。
1834年薩摩国にうまれた川路は、藩の与力として江戸勤番となりました。
様式の銃と出会い、西洋の兵器を学ぶようになります。
1864年禁門の変で功績をあげた川路・・・その後も西郷に引き立てられ、1871年には東京府典事に就任・・・西郷は恩人でした。

そんな西郷から川路は、邏卒候補を探してくるように命じられます。
「身体強健にて 品行方正な薩摩郷士1000人を鹿児島より徴集してくるように。。。」
そして、川路1000人、西郷が1000人の薩摩の下級武士を探し、他の藩の士族1000人と合わせて3000人が邏卒として集められました。
この時、江戸を守っていた与力や同心たちも採用されています。
1872年8月23日、邏卒は国の司法省管轄となります。
地方警察が、国家警察となりました。

「警察手眼」で川路は・・・
「警察とは、国家の治療薬であり良民を保護し、内国の気力を養うもの」としています。
そんな信念のもと、川路は、近代警察づくりに邁進していきます。

しかし、問題は山積み・・・

①邏卒内のいじめ
特に深刻だったのが、薩摩藩内での間でした。
邏卒の中には、薩摩藩時代の上級武士で、天皇の護衛だった近衛兵となっていた陸軍省のエリートも含まれていました。
しかし、その扱いは、下級武士出身の邏卒と同じものでした。
エリートだった邏卒は不満を解消するように、同じ薩摩藩の邏卒にいやがらせを繰り返します。
近衛兵に絡まれてもただただ我慢!!そうなると、近衛兵出身の邏卒たちは刀を振り回し始める始末・・・。
下級武士出身の邏卒たちはいつも泣き寝入り・・・
職を辞し、国に帰るものもいました。

川路は、再三陸軍省に掛け合いますが・・・埒があきません。
結局、非番の邏卒を見張りに回らせます。

②組織の改革
江戸時代は、警察機能と司法機能が同じ奉行所管轄でした。
そのため、警保寮も司法省のもとに置かれていましたが、それでは公平さが失われるということで、西洋と同じように、警察と司法の分離を主張!!
1874年警保寮は、内務省管轄の東京警視庁となりました。
これが本格的な日本の近代警察の誕生でした。

しかし、再び問題が・・・邏卒たちが次々と辞めていきます。
政府内で起きた征韓論が原因でした。

鎖国していた朝鮮に門戸を開かせようとする征韓派(西郷隆盛・板垣退輔・江藤新平)と反征韓派(大久保利通・木戸孝允・岩倉具視)らが対立!!
その結果・・・論争に敗れた西郷らが下野してしまいました。
これに伴い、西郷を慕う邏卒たちが次々と辞表を出していきました。

警察官のうちの1/6が辞職してしまいました。
この時、川路もまた下野するのではないのか??と言われていましたが、この後始末に奔走!!
すると、川路は西郷に世話になっておきながら、信義を知らぬ薩摩の面汚し!!と、たたかれることとなります。
しかし、川路は・・・
「ポリスは、人民を守るのが役目でごわす。
 政争の道具ではありもはん。」
強い意志で、理想を貫き警視長に就任!!

組織改革に全人生をかけるのです。
しかし、260年続いた江戸幕府の警察機能を、短期間で近代警察にかえることは並大抵のことではありませんでした。

東京警視庁は、新たに10の階級制度を設けます。
邏卒は巡査、4階級に分けられました。
当時の給料は、大警視の川路が350円。
一番下の四島巡査で4円でした。
川路はこの巡査に対する決まりを作っていきます。

警察手帳
日本最初の警察手帳は「手帳取扱心得」
明治7年8月巡査全員に配布され、常時携帯されることとなります。
その中には、所属と階級、氏名・・・紛失した場合は、厳しい処分が待っていました。
十手に変わって棍棒を採用!!
警部以上は刀を携帯できたのですが・・・これを、サーベルに替えます。
日本の近代警察を作っていきます。

町の治安を守る巡査は過酷・・・12時間勤務で、
昼番・午前8時~午後8時
夜番・午後8時~午前8時の二交代制。
警察署に当たる屯所と交番が勤務地でした。

その仕事内容は・・・
巡行・立ち番・待機でした。
巡行・・・屯所から出て交番までを30分間警邏する
立ち番・・・交番の前後左右100歩を1時間歩きながら警邏する
別の道を30分帰って・・・巡行後に1時間待機。
これを3人でローテーションでやるのです。
しかし、勤務が明けてもゆっくりと休みことが出来ず・・・1時間ごとに起こされます。
巡査たちは極度の睡眠不足に・・・!!
さぼるものも出てきました。
不正を最も嫌う川路は・・・
「夜も昼も眠ることなく、職務に専念せよ!!」
そして、巡査の不正を取り締まる見廻り役警部を作ります。・・・彼らはオバケと呼ばれ恐れられました。
「警察官は臨戦態勢を維持せよ
 寝ても覚めても警察官であれ!!」by川路

巡査の中には、昔の岡っ引きのような人もいました。
彼らは素行も悪く・・・同じように教育し、市民の信頼を得るために・・・!!
西洋との差を縮めるために・・・!!


文明開化は町に混乱をきたしていました。
明治になり郵便制度が出来、郵便箱が設置されます。
しかし、人々はこれをゴミ箱と勘違いし、ゴミを入れていきます。
これに対処するのが巡査でした。
裸同然で歩いている人、川にごみを捨てている人、家のカギを閉めていない人・・・注意しなければなりません。
新しい時代に翻弄される人々を指導しました。


川路率いる東京警視庁が、本格的に活動しだしたころ・・・不平士族の反乱がおきます。
江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、不平士族の反乱がおきたのです。
どうしてこのような反乱が・・・??
江戸時代の武士は、藩から俸禄を得て暮らしていました。
しかし、明治となると、大名や武士階級が廃止され、大名を華族に、家臣を士族としました。
1187年3月、節の魂である刀を取り上げる廃刀令を発布。
8月にはそれまで保証されていた俸禄まで無くしてしまいました。

当時、明治政府は、公家、大名、武士たちに旧来通りの家禄、維新の時の賞俸禄を支給していました。
しかし、国家財政への負担が多く・・・秩禄処分にし、一定の額のみの支給としたのです。
収入が急になくなる・・・多くは警察官となりますが、あぶれていきます。
商売は全く上手くいきません。
武士としてのプライド、特権を失った人々・・・明治維新のために戦ったのに・・・どうして!!
旧官軍の間で反乱が各地で起こります。

各地で起きた不平士族の乱に立ち向かったのが、川路率いる警察官たちでした。

西郷は鹿児島に戻り、私学校を開いていました。
そんな西郷もまた・・・1877年2月15日教え子たちに担がれて蜂起!!
西南戦争勃発!!
この時内務卿の大久保利通は、すぐさま川路に鎮圧にあたらせます。
警察のトップだった川路は、陸軍少将も兼任し、陣頭指揮を執ることとなります。
しかし・・・大きな恩のある西郷との戦い・・・!!
川路は故郷に帰るのでは・・・??
「私情においては、まことに忍びない事であるが、国家行政の活動は1日として休むことは許されない。
 大義の前に、私情を捨てて、あくまで警察に献身する。」by川路
警察官として西郷とたたかう道を選ぶのでした。

そんな川路の懸念は・・・??
反乱軍は、示現流の使い手が多く、戦いにも慣れている・・・
刀を抜いて襲い掛かってくるはず・・・
武士出身の警察官はともかく、陸軍は農民出身者が多く・・・刀の使い方には不慣れでした。
戦いが始まると、川路の不安は的中!!
反乱軍に圧倒され、陸軍は次々と敗走!!
このままでは負ける!!
指揮官・川路は危機!!
そこで新兵力・警察抜刀隊の編成でした。
目を付けたのが、東北の士族たちでした。
旧会津藩士などを警察抜刀隊に採用し、復しゅう心を利用しました。
命を懸けて西南戦争に立ち向かっていく警察抜刀隊!!

川路も別動隊を率いて戦います。
3月20日、追い込まれた反乱軍は総崩れ・・・
9月24日、西郷隆盛が自刃するのです。
西南戦争は、政府軍の勝利に終わりました。
川路は、勲二等日重光章を授与されます。
しかし、同じ薩摩藩士を死に追いやった大久保と川路に対する非難の声は、世間はもとより政府内にあっても厳しいものでした。
しかし、誰よりも悲しんでいたのは自らの手で朋友・西郷を葬ってしまった大久保利通と恩をあだで返した川路達自身でした。

川路の生家が暴徒化した民衆によって打ち壊され、川路の親族というだけで親類たちが7人も殺され、首を晒され・・・川路は人知れず泣いたと言います。
1878年5月14日大久保暗殺!!
政府のトップが殺されたという非難は、あらかじめ暗殺に対する備えがなかったということで川路に・・・!!
すり減る川路の神経・・・
大久保の葬儀が終わると、新しい内務卿・伊藤博文に辞表を提出するものの・・・却下されてしまいました。

大警視となって5年目の1879年、川路は再びフランスへ・・・
西南戦争後の警察制度の再警備に向けて・・・!!警察官僚の育成方法を学ぶために・・・!!
しかし、心身ともに疲弊しきっていた川路は、病にむしばまれていました。
わずか4か月で無念の帰国・・・。
その5日後、川路は46歳という若さでこの世を去るのです。

人民の秩序と安全を守る優秀な近代警察を作る・・・
命がけで全うしようとした川路・・・その警察人生はわずかに8年間でしたが、その情熱と功績は計り知れないものがあります。

警察手眼に書かれています。
「警察官の精神は全て、人々を慈しみ援助すること以外にないであろう。」
「人民と接するときは、まるで子供に接するように懇切に徹しなさい。」
それは、川路がパリで観た理想の警察官の姿でした。



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