日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:豊臣秀吉

鹿児島市からおよそ120キロ・・・大隅諸島の種子島。
種子島といえば、宇宙センターで知られていますが、もう一つ・・・歴史的なある出来事が起こりました。

1543年8月25日、種子島にやってきたポルトガル人が、日本に初めて鉄砲を伝えた・・・鉄砲伝来です。
教科書にはこう書かれていますが・・・
しかし、近年の研究によって、いろいろ違う説も出てきました。

国立公文書館に、鉄砲伝来の貴重な資料が残されています。
江戸時代初期の1606年に薩摩国の僧侶・南浦文之が編纂した鉄砲記です。
種子島に鉄砲が伝わった経緯が詳しく記されています。
これによると・・・種子島の最南端にある門倉岬・・・
1543年8月25日、この岬の沖合に大きな船が姿を現します。
島民たちは動揺・・・!!
船から降りてきた乗組員に中に、見たこともない顔つきの者がいたからです。

報せを受けた村の長、西村織部丞が、乗組員に話しかけてみるも全く言葉が通じません。
そこで、漢文に通じていた織部丞が、砂浜に字を書くと・・・答えた男は、隣の国・明からやってきた五峯というものでした。
他のものは誰なのか聞くと・・・彼らは西南から来た異人で、商人であるとの事。
その異人とは、ポルトガルの商人でした。

織部丞は、とりあえず島を治めていた種子島家へ・・・。
この時の島の領主・種子島時堯は、まだ十代の若者でした。
五峯らと面会した時堯は、ポルトガル人が奇妙なものを持っていることに気付きます。

「おぬしが手にしているモノは、一体何じゃ??」

其れこそが、鉄砲・・・火縄銃だったのです。

ポルトガル人は、この火縄銃を身振り手振りで説明・・・そしてこう言いました。
「これは、銀山を砕くことができるし、鉄の壁に穴をあけることもできる
 国に災いをもたらす邪悪な者も、鉄砲の玉に触れればたちまち魂を失ってしまう」
若き領主・時堯は、すぐに鉄砲に強い興味を持ち、日を改めて試し打ちをさせてもらうことに・・・
手ほどきを受けて引き金を引いてみると・・・??
時堯は、初めて体験した爆音と衝撃に驚きますが、一瞬にして百歩先の的に玉が当たったのを目の当たりにすると、
「ぜひともこの使い方を、学びたいものだ」
と、すぐに鉄砲を二挺購入・・・一説には二挺で銀2000両・・・数千万円の大金を払ったと言われています。
この時、時堯が手にした鉄砲は残ってはいませんが、同じ時に伝わったものが種子島に残っています。
西村織部丞がポルトガル人から手に入れた鉄砲とされています。

その鉄砲を伝えた船には、ポルトガル人以外に明の人も乗っていました。
実は彼らが乗ってきたのは南蛮船ではなく、ジャンク船と呼ばれる中国で古くから使われてきた木造帆船です。
五峯の船だった??
五峯は、王直という人物の別称で、明や東南アジアの沿岸などで、暗躍していた海賊・・・倭寇の頭領でした。
鉄砲が伝来してきたころの倭寇は、明の人たちが主体となって、東南アジアや日本などと密貿易を行っていました。
倭寇のメンバーに、ポルトガル人がいたと思われます。
ポルトガル人を乗せたジャンク船が、タイを出発し、日本近海へ漂着したと伝えられています。
つまり、伝えたのは倭寇とそのメンバーであるポルトガル人の乗った船だったのです。

日本の鉄砲記・・・・・・1543年に鉄砲が伝来
ポルトガルの記録・・・1542年
イエズス会の記録・・・1541年

となっていて、様々な説があるのです。

どうして種子島にやってきたのでしょうか??
その理由にも、様々な説があります。

①偶然説
8月25日は、今の9月下旬ごろ・・・台風が頻繁にやってくる時期です。
ポルトガルの記録には、倭寇たちの乗せたジャンク船が航海中にシケに遭い偶然種子島に着いたとあります。
②必然説
室町幕府や有力大名などは、堺などの商人たちを使って明と勘合貿易を行っていました。
商人たちは堺から土佐、南九州を通って明の東沿岸へ向かっていました。
そしてそのルートの中で中継点となっていたのが種子島だったのです。
現在の奄美大島や沖縄は、琉球王国とよばれ、実質的に日本の最南端は種子島でした。
倭寇が民から日本へ向かう際、当時の日本の最南端であった種子島を目指すのは必然だったのです。
明の人々にとって種子島は日本の玄関口だったのです。

種子島にやってきた明の海賊・倭寇のメンバーだったとされるポルトガル人が伝えたとされる鉄砲・・・その火縄銃は、どこで作られたものなのでしょうか?
現在最も有力な説は、ヨーロッパ製。
ところが、種子島に伝わってそののち国内で普及していった火縄銃と、当時のヨーロッパの銃とは大きく異なっています。
点火装置である火ばさみ・・・日本のものは引き金を引くと火ばさみが銃口側・・・前に落ちる仕組みになっています。
対して、ヨーロッパで普及していた火縄銃の火ばさみは、打ち手側に落ちる仕組みになっています。
この違いから、伝来したのはヨーロッパ製ではないのではないか?という説があるのです。
だとするとどこのもの・・・??
ポルトガルの資料によると、現在のタイであるシャムから倭寇の船に乗って・・・とありました。
東南アジアでも鉄砲が作られていたとされています。
その火ばさみは、まさに日本のものと同じタイプ!!
そのため、種子島に伝来したものは東南アジア製である可能性が唱えられています。

豊臣秀吉が天下統一を果たしたころには、50万挺の火縄銃が、国内に装備され、世界有数の鉄砲保有国になっていました。
急速に増えて行った原因は、日本人の職人たちのその技術力の高さがありました。
国産第一号はどのようにして生まれたのでしょうか?
種子島を治めていた種子島時堯は、ポルトガル人から2挺の鉄砲を購入したのち、家臣たちに言います。
「これと同じものを作ってみせよ」
その大役を任されたのが、刀鍛冶の八板金兵衛でした。
種子島では、海岸で良質の蹉跌が採れ、製鉄に必要な薪も豊富にあったので、刀づくりが盛んにおこなわれていました。
金兵衛は、刀の本場美濃国の関から種子島にやってきたと言われています。
早速金兵衛は、その技を駆使して銃身づくりに・・・しかし・・・基底部を塞がないと暴発してしまう・・・
しかし、掃除の為にも基底部は開けられるようにしておかなければなりません。
密閉出来て簡単に取り外せる・・・それが大きな壁でした。
ネジ構造でしたが、当時の日本にはネジ自体が存在していませんでした。
鉄砲を分解し、ネジを目にした金兵衛は途方に暮れていたかも・・・??
金兵衛はポルトガル人に製造方法を教えてほしいと願い出ます。
それと引き換えに、自分の娘・若狭を差し出したといいます。
若狭を連れて帰ったポルトガル人は、翌年母国から鍛冶職人と共に帰ってきて製造方法を金兵衛に教えます。
それは、父金兵衛の執念の犠牲になった娘の悲劇として種子島に伝わっています。
若狭は戻ってきたポルトガル人と共に帰国し、その後亡くなるまで種子島で暮らしたと言われています。

金兵衛の作った鉄砲が残っています。
代々、種子島家に伝わったものです。
しかし、金兵衛がどのようにしてネジ部分を作ったのかという記録は残っていません。
ネジは外側にネジ山のある雄ねじと内側にネジ溝のある雌ねじとに分かれています。
雄ねじはやすりなどで加工、雌ねじは内部なのでその苦労は大変なものでした。
どのようにして重臣の内側に溝を掘ったのでしょうか?
それは、鍛造法による雌ねじの製作です。
①高温に熱した銃身に雄ねじを差し込みます。
②回りを叩いていくことで、雄ねじと密着させます。
③鉄が暑いうちに、雄ねじを回しながら抜き取ると、銃身の内側に溝が刻まれます。
そうすると、綺麗な雌ねじが完成します。
こうして、苦労の末、国産第一号の鉄砲が出来上がったのです。

急速に普及していった鉄砲・・・
種子島からどのようにして国内に広まったのでしょうか?
種子島に鉄砲が伝来し、国産の鉄砲づくりに成功したという噂は、近畿地方に伝わります。
当時、明と貿易を行っていた堺の商人たちが中継地点の種子島に立ち寄って聞いたのを広めたからです。
そんなある日の事・・・一人の男が種子島時堯の元にやってきます。
紀州・根来寺の津田監物です。
新義真言宗の総本山である根来寺は、当時寺領72万石を有し、一大宗教都市を形成していました。
大名並みの権力・財力を持つ寺で、防御するための軍事力も必要でした。
僧兵・・・寺の軍事力を強化したいと考えていた監物は、
「殿の鉄砲を一挺お譲りいただけないでしょうか」
大金を払ってポルトガル人から手に入れた鉄砲・・・
「一つ持って行くがよい」
気前よくもらい、扱い方、火薬の調合まで教えてもらいました。

監物が島を去ったのち、和泉国堺から商人の橘屋又三郎がやってきました。
鉄砲で商売をしたく、その作り方を会得したいというのです。
すると、時堯は、またもや承諾します。
「よくよく学んでいくがよいぞ」
刀鍛冶・八板金兵衛がようやく手に入れた作り方を、惜しげもなく教えてしまうのです。
どうして時堯は、貴重な鉄砲を手放し、伝授したのでしょうか?

時堯の思いは「鉄砲記」に記されていました。
「我が島はとても小さいが、決して物を惜しむようなことはしたくない
 私自身が欲しいと思うのだから、誰でも欲しがるであろう
 これを自分だけのものにして箱に収めて仕舞っておくようなことはしない」
鉄砲は、種子島時堯の気前の良さで、交易をしていた堺や紀州などの近畿地方へ広まっていったのです。

津田監物は根来寺に戻ると鉄砲職人に作らせ、大量生産に成功。根来寺の僧兵たちは鉄砲隊を形成、根来衆と呼ばれるようになります。
橘屋又三郎も堺に帰り、鉄砲の一大生産地となります。
近畿地方一帯に広まった鉄砲は、関東地方などに広まり、さらに甲信越・・・東北地方へ・・・。
そこで重要な役目を担ったのが、紀州・根来衆、堺の砲術師、鉄砲鍛冶たちでした。
彼等は諸大名たちに招かれ、鉄砲を広く普及させていきます。

豊後を治めていた大友義鎮も・・・義鎮が、南蛮鉄砲を13代将軍足利義輝に献上したという記録が残っています。
その鉄砲は、交易していた種子島家、もしくは肥前の平戸などで密貿易を行っていた倭寇から手に入れたものだとされています。
九州で勢力を拡大していた義鎮は、新たに配下に置いた肥前の守護に任命してもらえるように将軍義輝に当時まだ珍しかった舶来の鉄砲を送ったのです。
その義輝自身も、そうした鉄砲を政治に利用していきます。
失墜していた幕府の権威を取り戻すために・・・関東の豪族たちを取り込もうと火縄銃を与えます。
また、上越地方で勢力を拡大していた上杉謙信には病気見舞いとして火薬の調合の秘伝書を送るなどしています。
贈答品や外交の道具として用いられた鉄砲は、やがて、新しい兵器として全国に普及していくことになります。

当時は戦国大名たちが鎬を削る戦乱の世・・・
それまで戦で使用されていた武器は・・・刀、槍、そして弓などでした。
そんななかに現れた鉄砲は、戦を大きく変えていきます。
火縄銃の威力とはどれほどのもの・・・??
50m離れたところから撃って、的の中心から半径4センチ以内に命中します。
射程は100mあり、殺傷能力も十分にありました。
さらに、その破壊力は・・・??
40m先の甲冑を撃ち抜きます。

戦国大名たちは、余所の鉄砲集団を傭兵として雇い入れました。
有名なところでは、紀州の根来衆、雑賀衆の強力な鉄砲集団です。
鉄砲の伝来とともに甲冑も伝来しました。
それを参考に、鉄砲から身を守るため、鉄製の鎧が使われるようになりました。
それが、現在言われる当世具足と呼ばれるものです。
城の構造も大きく変わります。
新しい城郭は、鉄砲玉を通さないように壁が厚くなりました。
鉄砲狭間を作り、鉄砲を装備した敵を遠ざけるため、城の周囲に堀を巡らせました。
戦の様相もがらりと変わりました。

戦国武将の中で、一番鉄砲を有効利用したのは織田信長です。
戦国の世を天下布武へと導いたのが織田信長・・・
信長は、若い頃から鉄砲に興味を抱いていました。
”信長公記”によると・・・
1549年・・・16、7歳ごろの時、砲術師・橋本一巴から鉄砲の手ほどきを受けたと書かれています。
日本に伝来してわずか6年後のことでした。
新しもの好きだった信長は、鉄砲を気に入るとすぐさま戦に用います。
1570年、北近江の浅井長政、越前の朝倉義景との姉川の戦いで、500挺の鉄砲を投入。
1575年、武田勝頼率いる武田軍と戦った長篠の戦いでは3000挺もの鉄砲を投入して、見事勝利しています。
しかし、どうして信長はこれだけ多くの鉄砲を調達することができたのでしょうか?

①和泉国・堺を手中に収めていた
信長は、堺の商人・茶人の今井宗久にさまざまな特権を与え、鉄砲と火薬の製造を任せたのです。
さらに、姉川の戦いの後の小谷城の戦いで浅井長政を倒すと、長政の領地であった近江国・国友村を配下に納めます。
②近江国・国友
国友は、堺と並ぶ鉄砲の一大生産地でした。
こうして、鉄砲の安定した供給を押さえた信長は、そののち、戦を大きく変えていきます。

鉄砲は伝来当時高価なものでしたが、その高価なものをたくさん使うことは誰も考えていませんでした。
信長は、強力な経済力のもと、大量の鉄砲を装備したのです。
秀吉、家康もそれを踏襲しています。

鉄砲を大量に装備したものが戦に勝つ・・・いつの間にか、戦は経済力の勝負となっていきます。
財力のない武将は、戦う前から降伏するようになり、無駄な戦が減少していきます。
そして、信長亡き後、鉄砲を大量に装備できる圧倒的な財力を誇った豊臣秀吉や徳川家康によって、天下統一がなされていったのです。


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今回の先生は、橋場日月先生です~~!!

今なお現代人を魅了してやまない戦国武将・・・。
血で血を洗う戦乱の世を勝ち抜くために、彼らが求めていたものは・・・お金でした。
戦国武将は、お金集めに必死でした。

織田信長・・・
当時、京都・大坂にまで勢力を伸ばしていた信長は、京都・大坂から多額の税金を徴収。
裕福な寺院、栄えていた堺・・・など。
この時集めていたお金は、ある金額と一致します。
それは、足利義昭を将軍に擁立する為に京都に攻め入った戦の費用でした。
戦をする・・・それは莫大な費用が掛かるという事。
優秀な武将や兵士を集める給料、費用、食費や刀、鎧、鉄砲・・・攻め落とした城の補修費・・・
何をするにもお金が必要でした。

戦国武将の力とは・・・すなわち資金力!!
腕っぷしの強さや大義だけでは勝てないのです。
天下を取る野望はあるが、お財布事情はギリギリ・・・
信長も資金繰りに悩む若手経営者だったのです。


豊臣秀吉が、信長の時代に大きな力を発揮したのが経費削減で下。
1581年、鳥取城を落とす際に・・・手っ取り早いのは兵糧攻め・・・
お金と時間がかかる・・・三木城の時は2年もかかってしまった・・・。
そこで・・・!!
秀吉は秘策で兵糧攻めを4か月に短縮しました。
その秘策とは・・・??
いつもの3倍の値段で米を買い占めたのです。
秀吉が潜り込ませた商人が、城の倉庫の米も買い占め・・・
この時の経費は2000万円。
しかし、米がない鳥取城はすぐに陥落。
これにより秀吉は、戦の時間を1年8か月短縮し、300億円もの経費削減をしました。

江戸幕府初代将軍・徳川家康・・・

戦国時代の家康は、250万石の大大名でありながら、戦国一のドケチでした。
食事は麦飯、服も質素で、下着も買い換えない・・・
そんな家康が天下人になれたのは・・・??

1595年秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹させられる事件がありました。
そんな中、細川忠興の家臣が家康の元へ・・・
「実は我が殿は、秀次様より黄金100枚を借りておりました。
 一刻も早く借金を返し、関係を絶たねば、殿は秀次様の仲間と見なされ、切腹となります。
 どうか・・・お助け下さりませ。
 殿を救うと思うて、金子数枚だけでも貸していただけませぬか?」

戦国一のドケチの行動は・・・??
「・・・では、これを持っていかれよ」

なんと黄金100枚!!
現在の二億円、さらには、「返済は無用じゃ」と・・・
「その代わり、わかっておられますな・・・」
この時の恩を忘れていなかった細川忠興は、関ケ原の戦いで先陣を切って徳川方につきました。
普段ケチケチしてためたお金を、恩を着せるために使った家康・・・この買収戦略があったからこそ天下をとれたのです。

1605年、天下を統一した後も、決して贅沢をすることのなかった家康・・・
しかし、息子に将軍職を譲って大御所となった家康が、不思議な行動に・・・??
家康が金に糸目をつけずに買い始めたものは・・・石でした。
ある日突然大名を招集した家康・・・
「これより江戸城の石垣工事を行う!!
 皆も、協力せい」
庭の石を指し・・・
「大石は一つ白銀20枚(400万円)、小石はひと箱小判3枚(60万円)じゃ」
と、ただの意思を買い占め、高値で売りさばきました。
自作自演の恐ろしいマネー術でした。
当時のスペイン商人の手記によると、城の床がきんぎんの重みで抜けたほど潤っていました。


もう一人の達人は・・・伊達政宗!!
独眼竜で知られ、最盛期には114万石の大大名でした。
そんな政宗は、剛腕なマネー術が目立ちます。
領地でとれる砂金のパワーで、東北を席巻していた政宗は、秀吉にも莫大な賄賂を贈り可愛がられていました。

「ところでお前、会津に攻め入ったようじゃの?
 わしの許しを得ず、勝手に戦を仕掛けるなど、言語道断じゃ。
 仕置に会津は蒲生氏郷に与える!!」by秀吉

会津には欧州に匹敵する金山がある・・・政宗はそれを奪おうと会津を責め取っていました。
しかし、その行動に目をつけられ、よりによって会津はライバル蒲生氏郷の手に・・・!!

「いまに見ておれ!!」

と、政宗は常識外れの行動に出ます。
会津を引き渡す前に、事故に見せかけて金鉱を水没させました。
会津ではその後一切金が採れなくなり、奥州の金が高騰したとか・・・。

さらに江戸時代、政宗は会津への執着を捨ててはいませんでした。

「どうか、会津をお返しいただけませんでしょうか?」by政宗

「お前は素行が悪いから駄目じゃ」by家康

政宗の夢は再び潰えた・・・しかし、そんな中、あるニュースが舞い込んできました。

「いま、江戸は人が急に増えて、米が足りていないそうです。」by家臣
「何・・・??という事は?
 農民たちから余った米を買い占めるのじゃ」by政宗

安く買い占めた米を江戸で高く売るビジネスを始めます。
これにより年間10万石、約45億円の収入を得ました。

江戸っ子の胃袋を掴んだ政宗は、後に天下の副将軍と呼ばれるほどお金の力で幕府の実権を握りました。
しかし、病魔にむしばまれ死を悟ると、お金の力を誰よりも知っていた政宗は、市の3か月前、幕府の閣僚に頼みごとをしました。

「すまぬが少々金を貸してもらえないだろうか」
「して・・・いかほどに・・・」
「銀子1000貫・・・!!」
その額およそ30億円!!
お金がたくさんあるのにどうしてそんな大金を・・・??

「これで仙台藩は安泰じゃ
 わしの死後、仙台藩が無くなれば貸し倒れとなる・・・
 借金があれば、取り潰しになることはない」by政宗

仙台藩は、政宗の死後15代にわたり栄えたのでした。

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世界でも有数の大都市東京・・・この都市の礎を築いたのが江戸幕府初代将軍・徳川家康です。
今から400年ほど前、葦が生い茂る寒村を大都市へと変貌させたのが家康です。

1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、2万もの大軍勢を率いて北条氏を攻めるべく小田原城を包囲します。いわゆる小田原攻めです。
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を攻め滅ぼします。
この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利した徳川家康は恩賞を期待していました。
が・・・「徳川殿には、北条の領地であった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江から関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。

秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しいところに行くということは、政治的力を弱めるため・・・
秀吉は東北も完全に手に入れようとも考えていて、その場合に前線基地に家康を配置して働いてもらおうとも考えていました。
家康にとっては面白くない国替えだったのです。
関東を治めることを承諾した家康・・・本拠をどこに置くのか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。
小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・鎌倉は武士の都に相応しい・・・江戸は・・・辺鄙な田舎・・・!!
思案する家康に秀吉は・・・
「城は江戸に置いたらどうじゃ?」
家康は意外にもその提案を受け入れます。
もちろんそこには勝算がありました。

人間関係をリセットできる!!
家康が主導権を握れるということです。
1590年7月、49歳の家康は8000の家臣で江戸に向かいます。
余りの物々しさから「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、遂に江戸に到着!!

当時の江戸について「岩淵夜話別集」には・・・
”いかにも粗相で 茅葺の家 百ばかり
 ここもかしこも 海に浸かった葦の茂る野原“と書かれています。
いくつもの川が流れる湿地帯で、平地が少なく、今の大手町辺りまで海でした。
そんなところで、町をつくるためにしなければならないことがたくさんありました。

江戸城修築・飲み水確保・土地拡張・運河開削・住民誘致・治水工事・・・

家康と共に江戸にやってきた家臣たちは口々に言います。
「殿・・・何よりもまずあの朽ち果てた江戸城を修復しましょう」と。
しかし家康は、「城など後でよい。まずは町じゃ!!」
と、町を作るにあたっての大量の物資を船で運び入れることになりましたが・・・日比谷入江は浅すぎて大きな船が入れません。
そこで、家康は運河を作ることに・・・!!

①運河開削
目をつけたのは、江戸湊に半島状に突き出した江戸前島です。
その根元に運河を開削しようと考えました。
名付けて道三堀です。
船がここを通れるようになれば、江戸湊との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、秀吉の命に背く行為でした。
江戸入府に当たって家康は秀吉から言われていました。
「鎌倉の円覚寺の領地である江戸前島には、手を付けなてはならぬ!!」と。
江戸前島は、鎌倉時代から円覚寺の物で、家康の領地には含まれていませんでした。
しかし、家康は秀吉の命令を無視して道三堀を開削します。

道三堀を作り小名木川と新川を繋げば江戸と行徳を結ぶことができる!!
行徳は塩の産地でした。
戦国時代には塩の調達が一国の政策を左右したほど・・・家康も塩は軍用第一の品、領内いちばんの宝と考えていました。
つまり、行徳の塩を確保するためのルートだったのです。
道三堀の開拓作業は、少数の家臣たちで行いました。
同じ時期、秀吉が行っていた上方での普請に、多くのものを割いていたからです。
家康の知恵袋で工事の責任者だった本多正信は、指揮を上げるために毎朝4時に視察に来ました。
そのため、家臣たちは雨や雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていったのです。

家康が描く江戸の大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みませんでした。
当時関東平野では、利根川をはじめとする関東平野の川が度々氾濫!!
これが計画の妨げとなっていました。
江戸の町づくりには、関東平野の治水工事も必須でした。

②治水工事

関東平野の治水という大事業を任されたのは、家臣の中でも位の低い伊奈忠次でした。
もともと家康の家臣ではなく、はるか昔に徳川家に楯突いたことがあって諸国を放浪していました。
伊奈忠次は甲斐の国にいたことがあり・・・ここは当時の治水先進国でした。
ここでつぶさに見ていた伊奈・・・豊富な知識に抜擢する家康でした。
伊奈は関東八州の地方行政を統括する代官頭に任命されると、さっそく工事に取り掛かります。

最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!

採用したのが中条堤と控堤と呼ばれる堤防でした。
現在の埼玉県熊谷市付近に作った中条堤で利根川の氾濫をせき止めます。
万が一水があふれだした場合にも、下流にいくつも作った控堤で勢いをおとし、江戸に流れ込まないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の住人を使いました。
控堤の中に領という区割りを作って彼らを住まわせます。
土地のことをよく知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・工事はスムーズに進み、江戸の町づくりは本格化していきます。

1603年、家康は江戸幕府初代将軍に就任します。
江戸に幕府が開かれると、工事はより大規模なもの・・・天下普請となっていきます。
国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・
家康が大名たちに普請を命じると、3万~4万の人が集まります。
様々な事業をスタートさせます。

③土地拡張
天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に集め、監視下に置こうとします。
そのためには大名屋敷を作らなければ・・・!!
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江で城下に屋敷を作る場所はありませんでした。
そこで、家康は入り江の埋め立てという前代未聞の大工事を行うことに・・・!!
埋め立てには神田山を切り崩した土が使われたと言われています。
神田山は千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、その痕跡はほとんど残っていません。
が、地形図を見ると切り崩した後が残っています。

「慶長見聞集」によれば、この時埋められたのは三十余町・・・
北は大手町、南は新橋あたりまででした。
それほど大きな埋め立てをどのようにして行ったのでしょうか?
発掘調査によると・・・
地層は五層・・・何度も埋め立てられてきたことがわかります。
入江の底には溝があり・・・埋め立ての際に重要な役割を担っていました。
入江は干潮で潮が引いたとしてもところどころに水たまりができます。
溝はこの水を残らず出してしまうものでした。
潮が引くとき溝に海水を集めることで完全に排水・・・土を入れて埋め立てて行ったと思われます。
そこには予定通りに大名屋敷が建てられます。
後に大名小路と呼ばれ名所となります。

そんな架設された最初の橋は日本橋です。
町人地にすべく開拓を始めます。
町割りは京都に倣い碁盤目状・・・1町60間とし、中心には空地を設け共有スペースとしました。
通り沿いに建てられたのは町屋敷・・・主に店舗として利用されました。
そして奥には職人などが暮らす長屋が・・・しかし、困ったことに肝心な入居者がやってきません。

④住民誘致
当時の商業の中心は大坂でした。
西国で生まれ育った人々は、江戸は東の彼方の田舎町・・・移住したがりませんでした。
そこで家康は、まず三河や駿河など、身近な人々を江戸に移住させます。
そして、代償や特権を付与します。
家康恩顧の商人たちは、草創名主と呼ばれ名字帯刀を認められます。
年賀の大礼には登城し、将軍に拝謁されることも許されました。
地代や労役の免除も与えられ・・・この施策によって徐々に人が集まり始めます。
江戸は新たなビジネスチャンスの町だと魅力的にアピールすることができました。

家康が招いたのは商人たちだけではありません。
隅田川の河口に位置する佃島・・・その昔、砂が堆積してできた砂洲でした。
佃という地名は、家康が招いた上方佃島の漁師に基づきます。
以前家康が摂津・佃村の神社に参詣した際に、漁師たちが手厚くもてなしてくれました。
その礼にと褒美を与えると、漁師たちはお返しに白魚を献上。
家康はその美味しさが忘れられず、家康は漁師たちを佃島に住まわせたといいます。
江戸前海での漁業権を与え、漁民たちも御恩としてとった魚を献上する・・・残った魚は自由に販売することができました。
漁師たちの漁をしている姿を実際に見るという”将軍上覧”も行われました。
その背景には、従来の北条氏側の漁師たちを排除しよう・・・という狙いもありました。

江戸の町に人びとが集まるようになると、深刻な問題が・・・飲み水です。
入江を埋め立ててできた江戸の町では、井戸を掘っても海水の混ざった水しか出てこず、飲み水の確保が難しかったのです。

⑤飲み水確保
家康は家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保のために水源の探索を命じます。
大久保は自ら作った菓子を献上して家康をうならせていました。
菓子作りにはうまい水が必要・・・と考えた家康は菓子作りに長けた大久保なら水源の確保ができるに違いないとしたのです。

水源探しをし始めた大久保・・・
方々で味見をした結果、ついに満足する味を見つけます。
それが赤坂のため池と、神田明神山岸の小川でした。
大久保は家康に報告すると、すぐさま工事に取り掛かります。
そして、わずか3か月で水路を完成させます。
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々の喉を潤しました。
喜んだ家康は、大久保に主水という名を授与。
古代のみ水を管理していた役所のことです。
この時、水が濁ってはいけないと”もんど”を”もんと”と読むようにと言ったといいます。

しかし、江戸の開発が進むと人口が増加、再び水不足に・・・。
そこで新しく探したのが井の頭池・・・ここには清水が滾々とわいていました。
江戸にひく工事は寛永に完成・・・神田上水です。
発掘調査によると、上水の仕組みは、地中の石樋や木樋を通り、井戸の下まで流れるようになっていました。
人びとはその水をくみ上げて生活用水に利用していました。
上水の管理費は利用者もちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを基準にされました。

家康が入府したころの江戸城は、粗末な建物でした。
しかも、十数年間大きな修復工事は行われませんでした。
1604年将軍に就任してから1年4か月後、家康は諸大名に江戸城修築の計画を発表します。

⑥江戸城修築
修築に際して最も重要視されたのは、石垣や堀に使う石材です。
しかし、江戸周辺にはいい石の産地がありませんでした。
家康は、30ほどの西国の大名たちに石を運ぶ船を造るように命じます。
その数3000艘・・・船が全て出来上がったのは2年8か月後のことでした。
家康の最後の大プロジェクトです!!
所領10万石につき百人持之石(約4トン)を1120個を差し出すように大名に命じます。
つまり、10万石の大名は、およそ4500トンを江戸に運ぶこととなります。
しかし、それだけ大量の石をどのようにして切り出したのでしょうか?
石の調達を命じられた大名たちは、出来るだけ海岸近くに石を切り出すための石丁場を作ります。
その数およそ130カ所・・・。
切り出された石は、大名たちの作った船で江戸に運ばれます。
しかし、1艘に乗る石は4トンが2つが限界でした。
100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかったのです。
輸送中には多くの命が失われました。
1606年5月、大風のために200余りの船が沈没・・・
たくさんの人々が命がけで運んだ石で、江戸城の修築は行われたのです。

設計に当たったのは、宇和島城や今治城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎です。
家康は高虎の設計に細かく意見し、修正を加えていきました。
しかし、残っている資料が少なく、謎のままでした。
ところが、2017年2月、初期の江戸城を描いた絵図が見つかったのです。
江戸城を描いた最も古い絵図のひとつ・・・「江戸始図」です。
1607年頃のものとされます。

家康の築いた江戸城は、当時としては最大で、最強の実践的な城であったことがわかりました。
最も注目すべき点は、戦の際、最後の砦となる天守の構造です。
大天守ひとつではなく・・・大天守、小天守×2が連立し、もっとも発達した天守でした。
これを連立式天守と呼びます。
家康の江戸城は、軍事的要素の強い城であったことがわかります。
同じく連立式で有名なのが姫路城ですが、比較にならないほどでした。
あの立派な姫路城の大天守が、江戸城の小天守ぐらいだったのです。
圧倒的な江戸城でした。

さらに・・・本丸の南側に外枡形が5つも連続して設けられていました。
外枡形とは、門の外を塀などで囲んだもので、門を突破した敵をここで攻撃します。
こうした外枡形が5つも存在し、鉄壁を誇っていました。
安土城、大坂城にもあり、西日本のお城の作り方でした。
天守の北側に3連続の馬出があり、この馬出は甲斐の武田、関東の北条の東日本で発達したものです。
西と東の融合が、家康の江戸城だったのです。
まさに戦国以来の城づくりの集大成でした。

家康がここまで実践的な城にこだわったのが、豊臣方が大坂で依然として強大な力を持っていたからです。
家康としては、豊臣の最後の戦いで江戸城が攻められるのではないか?と、万が一のことを考えていたのです。
鉄壁の城・・・江戸城!!
最強の城塞だっただけでなく、5層6階で高さは大坂城(36m)を凌ぐ55mでした。
しかも、漆喰が塗られ純白でした。
白亜の大天守は、徳川の時代を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を作った家康には類まれな先見の名と知恵がありました。

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2019年4月1日、平成に続く新たな元号が発表されました。
「令和」です。
令和は万葉集の梅の花の歌の序文が出典で、史上初、日本の古典から引用されました。
その新しい元号「令和」には、”人々が美しく、心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ”という意味がこめられ、梅の花の歌の序文から選ばれた背景には、”梅の花のように咲き誇る花を咲かせる日本でありたい”という思いが込められています。
こうした元号が使われているのは、現在日本だけ・・・。
改元回数は、247回です。
その歴史は飛鳥時代にまで遡ります。

かつて元号は、中国、朝鮮、ベトナムでも使われていました。
しかし、現在では使われていません。
中国は、1911年辛亥革命で清王朝が倒れた時に元号が廃止されています。
現在、その元号は法律によって内閣が決めることになっています。
日本の最初の元号は、何のためにどうやって、誰が決めたのでしょうか?
元号の始まりは古代中国・・・紀元前140年ごろ、前漢の7代皇帝武帝によって年を記録する方法として考案されました。
皇帝が国だけでなく時間をも支配するという・・・皇帝が変わるたびに元号が改められました。
中国から倭国と呼ばれていた日本では・・・埼玉県の稲荷山古墳から出土した5世紀の鉄剣には、辛亥年という文字が刻まれています。
これは西暦471年のことで、十干と十二支を組み合わせて60組の漢字で年を記録する方法が使われていました。
そんな日本で最初の元号が登場します。
それは日本の正史「日本書紀」にこう書かれています。
”天豊財重日足姫(皇極)天皇の四年を改め大化元年とす”
すなわち、最初の元号は大化・・・皇極天皇から孝徳天皇に代わる年に新たな政治体制を目指すべく、当時の先進国・中国の唐に倣い元号制度を採り入れたのです。
しかし、大化と残っているのは日本書紀だけ・・・
未だに木簡などは出土しておらず、使っていた形跡がありません。
そのため、大化は後の世に作りだされたものという見方もあります。

どうして「大化」の元号が使用されなかったのでしょうか?
そこには孝徳天皇とその甥で大化の改新で重要な役割を果たしたという中大兄皇子との関係がありました。
大化の改新は、天皇を中心とする国家をつくるのが目的でした。
主導的に働いた中大兄皇子と孝徳天皇の仲が悪くなってしまうので、大化はあまりシンパシーがなかったのでは?
もう一つ、外交上の理由がありました。
独自の元号を使うということは、独立国であることの証・・・
しかし、当時の日本はまだ、唐の影響下にあったため、独自の元号を使うのを憚ったのでは?
日本が独自の元号を公に使うようになったのはいつ・・・??
それは、大化からおよそ半世紀後・・・
701年文武天皇「大宝」に改元した時でした。
文武天皇は日本独自の法典を作るという長年の懸案を実現し、大宝律令を制定・・・。
そこには国号を「日本」とすると書かれており、公文書にはすべて「元号」を用いることと定められています。
律令は、政治、行政、経済など、国家の基本となる重要な法典・・・
そこに元号の使用が明記されたことは、まさに日本が独立国であるという体制が整ったということなのです。

元号に用いられる漢字の頻度数

第1位・・・・・「永」29回
第2位・・・・・「元」「天」27回
第4位・・・・・「治」21回
第5位・・・・・「応」20回

ひとつの元号が使われたの平均は5年間です。
どうして次々と改元されてきたのでしょうか?
改元を行う理由の一つが・・・天皇が代わる際の「代始改元」です。
桓武天皇が即位した際は延暦でした。
平安時代末期の後白河天皇は即位した際は保元と代わっています。
現在は一世一元制で、この代始改元だけですが、天皇一代の間に何回も改元されてきました。

そのきっかけの一つが祥瑞改元です。
祥瑞・・・めでたい事を示す現象や動物・・・大宝四年文武天皇の時、5月10日、藤原京の西に珍しい雲が発見されたことから慶雲と代わりました。
祥瑞改元の中で多いのは、めでたいと言われる珍しい亀が献上されたとき・・・
聖武天皇の時、二度あり、養老7年9月に白い亀が発見され神亀と改元、神亀6年には背中に”天王喜平知百年”と読める亀が天皇に献上されたことから天平と改元されました。
中国は、「天人相関説」があり、天(自然現象)と人(皇帝)の人格、功績には相関関係があるとされています。
珍しい現象(祥瑞)は、皇帝が天に認められた証として改元するのです。
めでたい事があれば改元する一方で、悪いことが起こった時も、その悪いことが続かないように改元しました。
それが災異改元です。
平安時代、醍醐天皇が治めていた延喜23年(923年)には、大規模な干ばつと伝染病が起きたことで改元・・・天皇の御代がこれで終わらず長く続くこと・・・延長と代わりました。
天養2年(1145年)には、ハレー彗星が出現!!
そこで天災などが起こらず久しく安泰が続くことを願って久安に改元されています。
現暦2年(1185年)には、京都を中心に大地震が発生し、多くの被害や死者があったことから文治と改元されました。
平安時代の人々は、改元という行為に呪術的な世直しの力があると信じていました。
人びとの願いが込められていたのです。
ちなみに、平安時代の堀河天皇は7回、室町時代の後花園天皇は8回も改元を行っています。
改元の多さは、良しにつけ悪しきにつけ、世の中を良くしたいという天皇の気持ちの表れだったのです。

暦仁=略人ということで、元号自体が不吉だとわずか2か月で改元されました。
明和は明和9年は迷惑年となると・・・まさにその年、明和の大火(1772年)が起き、改元することとなりました。

新しい元号はどうやって決められていたのでしょうか?
改元の機運が高まると、文章博士(勧申者)が元号を提案します。
主に中国の歴史書「史記」「漢書」「後漢書」四書五経「論語」「大学」「中庸」「孟子」「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」から字を選びます。
提案された元号を、陣儀(上級貴族の会議)で審議(難陳)され、天皇が裁可し、詔書の発布となります。
新しい元号の決め手のポイントは、どれだけいい漢字か?組み合わせはどうか?
良い元号は、呪術的な力を持っているとされていました。
平安時代後期(1069~1185)には、延久~文治まで43もの元号が生れています。
およそ2年半ごとに改元・・・それだけ世の中が不安定で救いを求めていた時代だったのです。

天皇の大きな権限の一つだった改元は、それを行う際に、盛大な儀式を行ったために莫大な費用が要りました。
そうした費用は、奈良・平安時代は朝廷が工面しましたが、鎌倉幕府、室町幕府と武家政権が作られると、改元費用を幕府に頼るようになりました。
幕府は本来朝廷に奉仕するためにある・・・幕府が出すものだ・・・と、幕府が負担することに・・・。
幕府が改元に費用を出す・・・それは、天下人の証となりました。
戦国時代に入ると・・・改元の主導権を巡り武家の間で争いが始まります。
それが、足利義昭と織田信長の戦いです。
永禄11年(1568年)、足利将軍家の牽制が衰える中、義昭は京を目指す信長の後ろ盾を得て、室町幕府15代将軍に・・・!!幕府の再建を図ります。
足利義昭が将軍代始を理由に、幕府が費用を持つという条件で朝廷へ改元を申し入れます。
これに待ったをかけたのが信長でした。
義昭が将軍となったからと言って軽減されてしまうと、改元によって室町幕府の再興を目指そうという義昭の思惑通りになるのを信長が嫌ったのです。
将軍の権威が復活してしまう・・・!!
この時は、信長の意見が取り入れられ、改元は見送られますが・・・
永禄13年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を討伐する為に出陣すると・・・
義昭はその隙を狙って改元の費用を増額する条件で改元を強行させ、元亀という元号を定めさせたのです。

これに不満を持っていた信長は、元亀3年(1572年)、信長自ら朝廷に対し改元を要請します。
破竹の勢いの信長の申し出に、朝廷は改元の準備に取り掛かりましたが、今度は義昭が抵抗!!
将軍として負担する改元の費用を一銭も払わないと拒否したのです。
怒り心頭の信長は、意見書を突き付けました。

「わずかな金も出さないとは、一体どういうことだ!!」

この改元をめぐる闘争を機に、信長と義昭の不仲は決定的となり・・・元亀4年(1573年)、信長は京都に進軍し、将軍義昭を追放・・・これによって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡しました。
すると信長は、改めて改元の申し入れを行い、新たな元号・天正が定められたのです。
まさに織田政権の誕生の元号であり、「天下を正しくする」ということで、信長も気に入ったと言われています。
信長にとって天正への改元は、まさしく天下人の証となったのでした。
その後、信長は、天下統一の手前で本能寺の変で命を落としますが、曽部永の時代に定められた天正は改元されることなく20年使われることとなります。

信長の亡き後天下人となったのが豊臣秀吉です。
秀吉は豊臣政権を築いた後も、当初、改元には直接関わることはありませんでした。
しかし・・・改元を必要とする事態が起こります。
文禄5年(1596年)、四国の伊予、九州の豊後で大きな地震が発生!!
さらに、京都を中心に大地震が発生し、秀吉が完成させたばかりの伏見城が倒壊するなど甚大な被害が起こります。
これに驚いた秀吉が、改元を申し入れると「慶長」と改元されます。
改元に当たっては、秀吉が選んだともいわれ、その文字には喜びが長く続くように・・・豊臣が長く続くように・・・とも言われています。
しかし、その願いが叶わず、慶長3年(1598年)秀吉は病に倒れ、京都の伏見城でなくなってしまいました。

秀吉の死後権力を握ることとなったのが徳川家康です。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで、豊臣政権の存続を願う西軍に勝利!!
自分も征夷大将軍の座につき、江戸幕府を開きます。
家康は幕府の権威を不動のものにするために改元を行いたかったのですが・・・実行できずにいました。
その障害となっていたのは秀吉の死後も大坂城にいた秀吉の嫡男・秀頼の存在でした。

秀頼がいる以上、自分の好き勝手には出来ない・・・
改元を目指す家康が、満を持して動きます。
慶長19年(1614年)大坂の陣・・・家康は二度にわたる戦いで、難攻不落と言われた大坂城の攻略に成功!!
豊臣秀頼を自害に追い込み、豊臣家は滅びました。
その直後、家康は京都に向かい改元を申し入れると、2か月後・・・元和に改元され、徳川が天下を掌握したことを世に知らしめたのです。
元和には、和の始まりという意味がこめられ、長く続いた混乱の世が終わり、平和な時代が到来したことを表明するものでした。
さらに、この改元にはもう一つ家康の狙いがありました。
慶長20年(1615年)、家康は朝廷や公家に対し「禁中並公家諸法度」を出します。
その中にはこんな一条が・・・
”改元に当たっては、歴代中国の元号も良いものがあれば採用するように”
元和は、すでに中国の唐で使われていたものでした。
家康は中国の古典から引用、未使用の元号を用いることを打ち破り、新しい選定方式を朝廷に押し付けたのです。
征夷大将軍としての権威を高めようとしました。

飛鳥時代から始まり、天皇の代替わりや国難に見舞われたときに元号の改元が行われてきました。
時がたち・・・時の天下人にとって権力の証となりました。
そうした元号と庶民たちとのかかわりは・・・??
平安や鎌倉は縁遠いものでしたが、室町以降・・・民衆にも広がり、江戸時代には完全に元号は庶民のものとなり、年貢の受取状、暦・・・元号を知っていて、語呂合わせすることもありました。
どうして全国津々浦々まで伝わったのでしょうか?
朝廷から京都所司代、幕府に知らされ、諸大名、直轄地代官→名主→領民と伝わっていきました。
伝達速度は、鹿児島や松前まで1か月ほどで伝わったといいます。

実際、改元するとなると幕府の許可がいるようになり、幕府の方で・・・幕府の教学を代々担う家・林大学頭が案を作って一つに絞って京都に送られてきます。
朝廷では形だけ「こちらが決めた」ということで、天皇が裁可することとなります。
江戸時代には、幕府が決めていたと言って過言ではありません。
太平の世が続いた江戸時代・・・
慶応3年(1867年)には大政奉還・・・
天皇を中心とする新政府が樹立され、明治へと改元されます。
新政府の議定であった岩倉具視は・・・
「これまで帝一代で何度も改元が行われてきたが、一世一元にしてはどうだろうか?」
一世一元とは、天皇一代に元号を一つというもので、天皇が代わる際の代始改元のみ行うということを意味しました。
こうして新しい天皇のもとで元号を決めることとなりました。
あくまで元号の最終決定は天皇にあるとして、3つほどの候補案から天皇が決めるということに・・・。
これを受け、議定である前福井藩主・松平春嶽が元号案を絞り込んで・・・その中から慶応4年(1868年)9月7日、夜・・・京都御所で天皇が選ぶこととなりました。
その驚きの方法とは・・・くじ引きでした。
朝廷では、大事なことを決める際、神の真意を問う意味でくじ引きが行われてきました。
それを踏襲したというのです。
明治を引き当て・・・慶応4年9月12日、全国へ改元の布告が行われました。
明治45年(1912年)7月・・・
明治天皇の様態が悪化・・・危篤状態に・・・
時の内閣総理大臣・西園寺公望は、密かに改元の準備を行いました。
この動きを察知して・・・新聞社が改元の取材合戦を繰り広げます。
そんな中、朝日新聞社の1年足らずの緒方竹虎は、枢密顧問官・三浦梧楼に狙いを定めます。
「三浦さん!!
 次の元号はもう決まっているんですよね?」
「お前だから教えるが・・・次の年号は「大正」だ」
これによって7月30日、明治天皇が法書した直後、新たな元号が大正であると一早く報道することができました。
この大スクープで名を馳せた緒方は、東京朝日新聞の主筆にまで上り詰め・・・昭和19年(1944年)政界に転じて福総理を歴任します。

新元号のスクープ合戦は激しさを増していきます。

大正15年(1926年)12月25日、大正天皇が崩御・・・
その頃、新元号選定の担当だった内閣内政審議室長の自宅前には、記者たちが深夜まで張り込み、熾烈な取材合戦を繰り広げていました。
そんな中、極秘情報を手に入れたのが、東京日日新聞でした。
「大スクープです!!
 新しい元号がわかりました。
 光る文と書いて光文です!!」
号外が発行され、世紀のスクープ!!
その数時間後・・・午前11時ごろ宮内省が発表したのは「光文」ではなく「昭和」だったのです。
公文のスクープは歴史的誤報となり、編集局トップが辞任する事態となりました。
一節には当時の宮内省が情報が漏洩したことで昭和に急遽変更したともいわれていますが・・・??
果たしてその真相とは・・・??

この時、元号案の選定は宮内省で行われていました。
その中で・・・第一「昭和」、第二「神化」、第三「元化」の3つ・・・一方、時の内閣総理大臣・岩槻礼次郎は内郭案として独自選考を行っていました。
「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」・・・この中にあったのです。
宮内省案ではなく、内閣案の一つだったのです。
そして最終案「昭和」「元化」「同和」にも含まれていませんでした。
東京日日新聞は最終候補案の情報を掴むことができず、内閣案にあった元号を報道してしまったのです。

昭和という元号・・・書経の中の、”百姓昭明協和万邦”からきています。
明るく平和であることを願うという意味が込められていました。
昭和の”昭”の字は元号として使われるのは初めてのことでした。
なじみのない文字で、読めないのでは・・・??と、懸念されました。
昭和天皇が崩御されるまで64年続き、世界で最も長い元号となります。

しかし、途中で存続の危機となっていました。
昭和20年(1945年)太平洋戦争終結・・・
敗戦国となった日本は、戦前のあらゆる制度の変革に直面します。
翌年に公布された日本国憲法には、天皇は国の象徴として存続することは決まったものの、元号は・・・その法的根拠を失ってしまいました。
GHQは、元号の法制化に反対していました。
そんな中、これを機に元号を廃止するべきだという考えも出て来ました。
後に内閣総理大臣となった石橋湛山もその一人で、「元号を廃止し西暦に統一すべき」と主張。
また、憲政の神様と言われた衆議院議員の尾崎行雄は、「新日本か戦後に改元すべき」としていました。
国会では昭和は25年で元号廃止案を真剣に検討されました。
しかし・・・GHQが、撤退すると議論は立ち消えとなり、昭和は日本の元号として使われ続けることとなります。
昭和53年(1978年)元号法制化運動が起こります。
昭和54年(1979年)「元号法」が制定され、それ以後、この法律を元に内閣が元号の選考をおこなうことになったのです。
その元号法に基づき、初めて改元が行われたのが「平成」でした。
そして・・・令和はどのような時代として日本の歴史に刻まれることとなるのでしょうか?
梅の花が咲き誇るような、良い時代になってほしいものです。

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水郷の町として知られる福岡県柳川市・・・
江戸時代、柳川藩10万9000石の城下町として栄えました。
城跡には、明治時代に旧藩主が立てた洋館や、江戸時代の壮麗な大名庭園があります。
ここの旅館を経営しているのは・・・柳川藩主・立花家の子孫です。
戦国大名に連なる家が、今も城内の屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい・・・。

柳川藩の礎を築いたのは、立花宗茂・・・当今無双の勇士と秀吉に称えられ、西国一の猛将と言われていました。
宗茂の戦歴はすさまじく・・・秀吉の天下統一戦争にことごとく参陣、江戸時代には大坂の陣、島原の乱で活躍し、その武勇を轟かせました。
そんな宗茂の生涯で最大の試練となったのは、関ケ原の戦いでした。
東西両軍の決戦は、わずか半日で終了・・・
宗茂のいる西軍の大敗北に終わりました。
決戦に参加することもできず、宗茂は敗者となりました。
しかし・・・宗茂には秘策が・・・??

福岡県柳川市・・・その中心に水堀に囲まれた広大な敷地に柳川城址があります。
資料館には・・・関ケ原合戦時の立花宗茂愛用の甲冑が残されていました。
その甲冑は、戦いの神・摩利支天を模し、鉄の地金が厚く、実践向きです。
体格は非常に大きく・・・身長175cmから180cmの間ではないかと言われています。
天下無双と呼ばれた武将・・・立花宗茂・・・その武勇は、二人の父親から譲り受けたものでした。
宗茂は、1567年、九州筑前の武将・高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂が紹運から譲り受けた刀・・・鎌倉時代の名工長光の剣・・・宗茂が15歳で養子に出されるとき、敵味方に分かれたらこの剣で父を討ち取るようにと言われたという・・・
紹運からは、武将としての覚悟をたたき込まれました。
もう一人の父・養父・立花道雪。
道雪は勇猛果敢で知られているが、彼が与えた刀は、道雪が雷神を一刀両断にしたという名刀・雷切丸。
切っ先が変色しているのは、雷神を切り裂いた証だといいます。
道雪の猛々しさをよく伝えています。
二振りの刀を常に戦場に持ち、武勇に長けた宗茂・・・
道雪から家督を譲り受け立花家を継ぎます。
主は、紹運や道雪が仕えた大友宗麟。
九州北部・6か国を治める大名でした。
海外の文化をいち早く取り入れたキリシタン大名としても知られています。

九州は動乱の時期を迎えていました。
島津が急速に版図を拡大し、大友に迫ってきていました。
同じころ、中央では豊臣秀吉が台頭し、瞬く間に畿内や中国地方を制圧し、四国まで勢力圏を広げていました。
島津の圧迫に・・・1586年4月、大友宗麟、秀吉に救援を求めます。
大友が服属したことで、宗茂も秀吉の配下となりました。
5万の大軍勢を率いて大友領に侵攻した島津軍は、九州の要・筑前に狙いを定めました。
この時、宗茂に任されたのは、北の玄関口・博多湾を押さえる立花山城。
実父・紹運はその先の要衝・岩屋城で南から迫る島津の大軍勢を待ち構えました。
島津軍の猛攻に、紹運はわずか70余りの兵と共に徹底抗戦!!
しかし・・・兵力の差は大きく、7月27日岩屋城は陥落、紹運は自刃し、籠城兵はことごとく討死という非業の死を遂げました。
島津の次の狙いは立花山城・・・大小7つの峰に砦が築かれた山城です。
若干20歳の宗茂は、兵1700と共に籠城しました。
8月、立花山城を囲んだ島津軍は、宗茂に降伏を呼びかけました。
宗茂はこう答えます。
「関白秀吉公のご命令を守るのみ!!
 関白殿を捨ておき、島津に降伏するなど武士のすることではない!!
 実父・紹運はこの義を固く守り、見事に切腹して果てたというのに、自分だけ生き長らえて汚名を天下に伝えるなど、思いもよらぬことである。」と。
宗茂も戦死した父と同じく徹底抗戦を宣言したのです。

大軍勢の島津にどう立ち向かうべきか・・・!!

宗茂には勝算がありました。
籠城から1か月後、総勢20万に及ぶ秀吉の第一陣が九州に迫りました。
秀吉の九州征伐です。
この時を宗茂は待っていたのです。
秀吉軍の到来を聞いた島津軍は、8月25日撤退を開始!!
宗茂はこの機を逃しませんでした。
兵力わずか1500で場外へ出陣!!
撤退するしまずの大軍勢を果敢に追撃!!
宗茂の逆襲は、島津軍には思いもよらないことで、散々に蹴散らされたと言われています。
この時、父の守っていた岩屋城の奪還にも成功しています。
後の秀吉は、宗茂を「真に九州の一物」と、称え、大友の家臣から10万石の大名に取り立てました。
領地は築後の柳川・・・ここに、戦国大名・立花宗茂が誕生したのです。

しかし・・・1588年8月18日、豊臣秀吉死去。
豊臣政権を受け継いだのは、政務を司る五大老と実務を行う五奉行でした。
やがて五大老の筆頭・徳川家康と五奉行の筆頭石田三成の対立があらわに・・・
家康につくのか??三成につくのか・・・??

宗茂に宛てた三成の書状が残っています。
朝鮮出兵での宗茂の功績をたたえたものです。
三成は、宗茂を頼りにしていました。
1600年、家康は謀反の疑いありと五大老のひとり・上杉景勝討伐に動きます。
3万の軍勢を率いて会津に向かいました。
その隙をつき、石田三成は同じ五大老の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、反家康の兵を挙げます。
宗茂は迷うことなく三成に味方しました。
「戦いの勝敗如何を問わず。
 ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ!!」
宗茂は三成に求められた兵を越える4000の兵を率いて8月に上洛。
8月22日、宗茂達西軍は、美濃大垣に進出。
上杉討伐から取って返してくる東軍の大軍勢を待ち受けるためでした。
ところが西軍の大津城主・京極高次の裏切りが発覚!!
宗茂は三成の要請に従い、大津城攻略に矛先を変えることとなります。
琵琶湖の南に位置し、古くから交通の要所として栄えた大津・・・平地に築かれた大津城は、琵琶湖に突き出た湖上の城・・・。
攻め手の攻撃を阻む三十の堀に囲まれた守りの固い要塞でした。
9月7日、宗茂たちの大津城攻めが始まりました。
これに対し、籠城する京極勢は、夜討ちで対抗しようとしました。
しかし・・・
「立花は西国第一の猛将・・・
 世に知られた武勇の達人
 夜討ちの油断をするわけがない」
京極勢は、宗茂を恐れ、守りに徹したのです。

大津城をいかに攻略するか・・・
宗茂たちが注目したのは城の背後の長等山でした。
日本史上大筒を使用した攻城戦は、大津城の戦いが初めてです。
西軍は、長等山から大津城を攻撃!! 
前代未聞の攻撃に、城内は阿鼻叫喚となりました。
9月15日、大津城は陥落・・・京極高次は降伏し、城を明け渡しました。
宗茂達西軍の完勝でした。
同じ日・・・美濃では東西両軍が関ケ原へ転進。
東軍7万5000、西軍8万が激突!!
天下分け目の合戦・・・関ケ原の戦いの始まりでした。
緒戦は一進一退の攻防が続きます。

しかし・・・西軍に組しながら戦いを傍観していた小早川軍・1万5000が突然西軍に襲い掛かりました。
小早川秀秋の裏切りでした。
結果、西軍は総崩れ・・・戦いはわずか半日で東軍の勝利となりました。
大津城にいた宗茂は、まだこの事実を知りませんでした。

1600年9月15日、関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは、戦死する者、敗走する者が後を絶ちませんでした。
宗茂の一代記「立斎旧聞記」には、その後の宗茂の動向が記されています。
翌16日、大津城にいた宗茂に西軍敗北の報せが届きます。
東軍が石田三成の居城・佐和山城を攻めているという情報が入ります。

関ケ原のこと・・・事実であるに違いない・・・
ここは覚悟を決めなければならない・・・

17日早朝、宗茂は大津城を引き払い西へと向かいます。
当時、大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼と西軍総大将・毛利輝元が対陣していました。
西軍が破れた今、どう行動すべきか・・・??
難攻不落の大坂城に籠城して迎え討つ・・・??
大坂城は北と東に川に守られ、南を低湿地が守る天然の要害・・・
秀吉はここに三重の堀を構え、当時最大の城を築きました。

2003年、現在の追手門近くで巨大な堀跡が発見されました。
幅22m、深さ6mの障子堀です。
障子堀は、秀吉を悩ませた関東の雄・北条氏の築城術です。
侵入してきた敵は、細かく仕切られた堀に手間取り、矢や鉄砲の攻撃にさらされます。
堀に落ちた者には逆茂木が待っていました。
大阪城の主要な出入り口3カ所にこのような堀が作られていたとされています。
秀吉が無くなる寸前に作っていました。
秀頼のことが心配で、城をより強固なものにするために掘られたのです。



大坂城を守る??それとも九州へ帰還??
関ケ原の戦いで毛利は動かず、小早川が裏切ったため、西軍は敗北した。
いくら難攻不落の大坂城とはいえ・・・心が一つでなければ籠城戦は出来ない・・・。
九州に帰還しても、宗茂には勝機がありました。
同じ西軍で、武勇の誉れ高い薩摩の島津義弘と手を組むという方法です。
前年、宗茂と義弘は起請文を交わしていました。

「この度の談合について、心の底から残らず互いに語り合ったことは、一切他言しないこと」

島津家は、そもそも立花宗茂にとっては実父・高橋紹運の敵でした。
しかし、秀吉の九州平定後は、親密な間柄になってきていました。

大坂城に籠城する??
それとも、九州に帰還する・・・??

1600年9月17日、宗茂は大坂城に向かいます。
籠城戦に打って出ることを選択したのです。
早速総大将・毛利輝元のもとに使者を派遣。
しかし、輝元は決断できませんでした。

「これから評議を尽くしてご返答申し上げる」

宗茂はあきれ返りました。

「今から評議するなどとは、ことのほか浅き知恵である
 総大将がそうであれば、とても籠城などできまい」

宗茂は軍勢を連れて九州へ帰還することに・・・!!
これにより、大坂城での決戦は幻に終わりました。

10月、急ぎ領国・柳川に戻った宗茂・・・しかし、新たな苦難に直面・・・
東軍の軍勢・4万に、柳川を包囲されたのです。
東軍の武将・加藤清正が降伏を勧めます。

「兵たちの命は、城主が切腹して助けるというのが武将の大法である」

宗茂は自らの命で城兵を守ろうとしたのです。
しかし、清正は宗茂を生かし、全ての兵を助けることを約束。
宗茂はこれに応じ、城を明け渡しました。

1601年3月、立花家改易。

宗茂は一介の牢人となりました。
しかし、宗茂は諦めません。
自ら上洛し、家康との接触を図り、旧領柳川の復活を目指したのです。
何が宗茂を突き動かしたのか・・・??

宗茂は、養子として立花家(戸次家)に入ってきたのでアウェーでした。
なので、家臣に対して心配りができる武将になっていたのです。
家臣の大半は、その後清正に召し抱えられましたが、二十数人は牢人の宗茂に付き従いました。
この家臣たちを路頭に迷わせないためにも、旧領の回復が必要だったのです。
そんな宗茂を乞うっておかなかったのが家康でした。
敵でありながら、宗茂の武勇と人徳を認めていたのです。

1606年、家康の計らいによって陸奥棚倉・3万石を拝領します。
宗茂は大名への復帰を果たしたのです。
その後、大坂の陣で活躍、1617年将軍・秀忠の御咄衆となります。
徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていきます。

1620年11月、宗茂、旧領・柳川に復帰。
関ケ原の戦いから20年の歳月が経っていました。
関ケ原で西軍に属して改易された大名は88家。
立花宗茂だけは、旧領に戻れたのです。

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は、1643年11月25日、76歳の生涯を閉じました。
江戸から明治、そして現代・・・激動の時代を乗り越え、立花家は今も柳川城の中に生き続けています。

立花家に代々受け継がれてきた宗茂の言葉があります。

「領民の幸せこそ 第一の義とせよ」

その思いは、今も受け継がれています。

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