日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:豊臣秀吉

織田信長が、豊臣秀吉が、徳川家康が・・・天下統一を目指して熾烈な戦いを繰り広げた戦国時代・・・彼らの戦場は陸だけではありませんでした。
その一つは・・・海!!
軍船対軍船の戦い・・・その数多ある水軍の戦を勝ち抜き、遂には天下人に恐れられた海の侍たち・・・それが村上海賊です。
当時日本にいたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊のことを日本最大の海賊と評しました。
天下取り目前の信長を、海の戦で完膚なきまでに打ちのめすほどの力を持っていたからです。

近畿、中国、四国、九州に囲まれた瀬戸内海・・・この海は、古くから西国と大坂・京都を結び、年貢や交易のための物資が行き交う大動脈でした。
戦国時代はその沿岸に、周防・長門の大内氏、伊予の河野氏、安芸の毛利氏、それぞれが領土の拡大を目指す戦いの場でもありました。
そんな瀬戸内海を拠点としていた村上水軍・・・その名を一躍とどろかせたのが、海の桶狭間でした。

広島県廿日市市にある厳島神社・・・
海に立つ鳥居で知られ、国保であり、世界遺産です。
この宮島と呼ばれる静かな島が、かつて戦の舞台となりました。
1555年厳島の戦いです。

領国の拡大を狙う毛利元就と、大内氏の重臣で、実質的に権力者だった陶晴賢が厳島で激突したのです。
晴賢は前年に元就によって奪われたこの島を取り戻すために、毛利軍の拠点宮ノ尾城に襲い掛かります。
大軍の敵に囲まれ窮地に追いやられた毛利軍・・・もはやこれまでか!!と思われたその時、数百艘の水軍が現れ陶の水軍を急襲したのです。
これこそが、村上海賊・・・!!
つながりの深かった毛利の援軍として参加したのです。
村上海賊は、瞬く間に陶の海軍を撃退!!
形勢は逆転し、毛利軍の逆転勝利となりました。
奇襲によって形勢が逆転したことによって勝利したことで、織田信長が今川義元に奇襲作戦で勝ったことになぞらえて、後に海の桶狭間ともよばれるようになりました。
陶の水軍を一気に破った村上水軍・・・
その強さの秘密とは・・・??

①船乗りとして優れていた
島が入り組んで、狭い水路、複雑な潮の流れなど難所の多い瀬戸内海で、船を自在に操る高い航海技術を持っていました。
さらに、彼らの使う軍船の強さ!!
当時、大名らが使用する軍船の主力となったのが、全長20mを超える安宅船と呼ばれる大型船で、兵士が乗り、弓矢や槍などで戦いました。
もちろん、村上水軍も安宅船を使っていましたが、違ったタイプの船を駆使していました。
その一つが小早船です。
安宅船は大型船だったので、小回りが利かず、容易に方向転換ができないという弱点がありました。
村上水軍は、全長5mの小早船を操り、スピードと縦横無尽の動きで敵船を攻めました。
もう一つが中型船の関船です。
その鋭い船首で体当たりし、敵船を破壊、時には敵を沈没させました。
こうして海を知り尽くして多様な船を使いこなしていた村上水軍は、瀬戸内海で無敵の存在となっていきました。

村上氏の始まり
・平安時代の村上天皇が祖
・南北朝時代に北畠氏の一族が村上と名乗った
しかし、その出自は定かではありません。

村上家は三家に分かれていました。
因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏です。
この三家は連携しながら沿岸の諸大名と手を組んで拡大していきます。
中でも、海の戦国大名と呼ばれ、大きな力を持っていたのが能島村上氏当主・村上武吉です。

今に伝わる陣羽織があります。
架空の動物で赤面赤毛で猿に似た猩猩の血の色と言われる真赤な生地に、背に記された丸に上の文字は村上家の家紋・・・
これを身にまとい、瀬戸内海をわがものにしていた人物こそ、村上武吉です。
1533年に生れました。
若くして沼島村上家の当主となり、後に能島殿と呼ばれ畏れられる存在になっていきました。
人々は、武吉の何を畏れたのでしょうか?

それは、拠点とした能島にありました。
能島の周囲は850mほど・・・小さな島で今は無人島となっています。
潮の流れが早く、海は渦を巻き、船を近づけることができません。
能島は敵が攻められない天然の要塞だったのです。
能島と鯛崎島が城となっていて、築城は14世紀半ばと考えられています。
能島城は、小さな島全体を城としていますが、上から本丸、二の丸、三の丸、ハナには曲輪・・・
周りが急斜面で切岸となっています。
基本的なお城の構造を島全体で作っていました。

残っている岩礁部分に空いた穴は、船を停めておく杭を刺した穴で、島にはこのような穴が400ほど残っています。
能島村上海賊が大規模だったことがわかります。

敵から攻められにくい天然要塞である能島を拠点に、多様な船を駆使して瀬戸内海に君臨した村上海賊の棟梁・村上武吉・・・
武吉が周囲から恐れられたもう一つの要員は・・・経済力でした。
武吉が能島村上氏の当主となる前は・・・その名の通り、航行する船を襲っては抵抗すれば殺害してでも積み荷を奪う海賊行為を行っていました。
しかし、武吉が当主となると、配下の海賊たちに言い放ちます。

「これからは船を襲うことは許さん!!」

武吉は、略奪行為を一切やめさせました。
その代わりに航行する船から通行料である帆別線を徴収します。
金を支払えば、村上海賊の勢力圏での安全を保証・・・通行料は船の帆の大きさで決められたといいます。
さらに武吉は、上乗りという警護も担当します。
村上海賊が依頼のあった船に乗船するというもので、上乗りが言えば顔パスで、襲われることも通行料を撮られることもありませんでした。
その見返りとして警護料を支払わせたのです。
それらの収入を合わせると、一説には戦国大名の石高に匹敵するといわれています。
武吉は、無敵の水軍と、戦国大名に匹敵する財力を持っていたのです。
それで、周囲から畏れられたのです。
武吉は、瀬戸内海の船の航行を牛耳ることとなり、瀬戸内海の支配者となりました。

1576年、瀬戸内海を支配する村上海賊の頭領・村上武吉に大大名となっていた毛利輝元が、要請します。
「大坂に行ってもらえぬか・・・??」
「大坂・・・??」
輝元が、どうして大坂行きを武吉に要請したかというと、そこには織田信長の存在がありました。

天下布武を掲げる織田信長にとって、長年の障害となっていたのが浄土真宗の総本山・石山本願寺でした。
宗主の顕如率いる本願寺が、10万人の門徒を従え、畿内を中心に一大勢力を築いていたからです。
何としてでも畿内をわがものにしたい信長は、石山本願寺を攻め、遂に寺を包囲して兵糧攻めにします。
それによって、本願寺は兵糧が無くなり風前の灯火に・・・。
この本願寺の危機を知った輝元は、援軍を送ることに・・・!!
本願寺に送る大量の武器や食料を積んだ輸送船の警護を村上水軍に依頼したのです。
要請を受けた武吉は、嫡男・元吉を大将にして村上海賊を大坂に向かわせました。
その数、毛利水軍と合わせておよそ800艘・・・!!
そして、遂に大阪湾から石山本願寺の脇を流れる木津川の河口にやってきたところで200艘の織田水軍と当たります。
世にいう第一次木津川口の合戦です。
その結果は・・・村上水軍を任された元吉が、毛利輝元に報告しています。

”織田の船をことごとく焼き崩しました
 敵方を数百人は討ち取りましたので、首実検のために揃えてお持ちします”

村上海賊との連合軍が、織田水軍に圧勝したのです。
どうして村上海賊は圧勝することができたのでしょうか?
「信長公記」にはこう書かれています。

”海上はほうろく、火矢などと云う物をこしらえ、お味方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢に敵わず”

ほうろくが、織田水軍に有効だったのです。
村上海賊の特色は、ほうろくという小型爆弾のようなものを用いていました。
それ以外にも、村上水軍は
熊手・・・敵や物をひっかけて自分の方に引き寄せる
袖がらみ・・・棘がついていて、相手の衣服に絡めて相手の動きを封じる
村上海賊の勝因は、多様な武器に加え、様々な船による組織的な攻撃力でした。

その戦法は・・・
①射手船・・・火矢や銃弾で混乱させて相手の反撃能力を奪う
②ほうろく船・・・ほうろく玉を投げ入れて、敵船を炎上させる=船は瞬く間に炎上
③武者船・・・兵たちが敵船に乗り込み、敵兵を海に追い落とす
これで織田水軍を壊滅的に追い込んだのです。
海での戦術に優れ、ほうろく玉などの秘密兵器を駆使して圧勝していたのです。
こうして食料や武器などを石山本願寺に届けた村上海賊と毛利水軍の連合軍は、意気揚々と西に帰っていきました。

木津川口の合戦で、織田水軍に勝利した村上海賊の村上武吉・元吉親子は、毛利氏から令嬢が贈られるなど、信頼が厚くなっていきます。
そんな中、木津川口の合戦から2年後の1578年・・・
石山本願寺攻略に執念を燃やす織田信長が、またもや本願寺の兵糧攻めを開始しました。
そして毛利氏は、本願寺に援軍を送ります。
再び村上海賊の出番となりました。
この時は、当主である武吉自らが600艘を率いて、毛利水軍と共に大坂へ・・・!!

ところが、木津川の河口についた武吉は愕然とします。
武吉が目にしたのは、今までに見たこともない異様な船でした。
第一次木津川口の戦いで村上海賊に完膚なきまでに叩かれた信長は、ほうろく玉の攻撃に耐えうる船の建造を志摩の領主であり海賊の頭領・九鬼嘉隆に命じていました。
そこで完成したのが鉄甲船でした。

「多門院日記」によると・・・
”人数五千程乗る横に七間、縦へ十二、三間もこれあり 鉄の船なり”

それは、横幅13m、全長23m、5000人もが乗船できる鉄の船でした。
これを6艘も作らせていました。
銃弾が通らないように、部分的に鉄で船を装甲していたのです。
こうして第二次木津川口の合戦が始まりました。
村上海賊は、ほうろく玉攻撃を繰り出しますが・・・
厚い鉄板で跳ね返され、織田水軍の鉄甲船に全く歯が立ちませんでした。
さらに、信長にはもう一つの秘密兵器が・・・
近づいてくる村上海賊を引き付けて・・・鉄甲船には大砲が装備されていたのです。
その一斉砲撃を受けると、村上海賊は撤退を余儀なくされました。
海戦では無敵だった村上海賊が、最新鋭の武器の前に敗れ去ったのです。
この敗戦を機に、毛利氏の瀬戸内海での影響力が弱まり、2年後の1580年に石山本願寺は織田信長に明け渡されることになります。

当然村上海賊にも、信長による懲罰が待ち受けているはずでした。
武吉と元吉の元に信長から書状が届きます。

”望む事これ有るにおいては いささかも異議なく候 その意を成すべく候”

なんと信長は、希望があれば何でも聞くという寛大な姿勢を示したのです。
どうしてでしょう・・・??
信長は、軍事力に関して陸上は毛利氏に勝っていると考えていましたが、海上の水軍力については毛利氏に劣っていると認識していました。
そこで、武吉の軍事力は織田に欠かせないと考えていました。
そして毛利攻めを任せていた秀吉に対し、村上武吉への調略を命じます。
それを受け秀吉のにこう伝えます。

”能島殿が信長公に味方するなら、所領は伊予十四郡はもちろんの事、四国全土を与えてもよい”

それは、秀吉の常套手段でした。
過大な条件を出して誘いをかけたのです。
一族のごたごたも利用・・・
当時、武吉と元吉の間に隙間風が吹き始めていました。
元吉を揺さぶります。
秀吉は、村上三家の団結を崩そうとも考えていました。
同じように、因島村上氏・来島村上氏にも仕掛けていました。
すると来島村上氏が織田側に寝返ります。
それでも武吉は、信長、秀吉の誘いに首を縦に振りませんでした。
あくまで毛利氏に追従する道を選んだのです。
その理由とは・・・??
毛利氏の必死の引き留め工作がありました。
武吉は、毛利氏と強い絆で結ばれていたため、裏切れなかったのです。

信長・秀吉の誘いを蹴った能島村上氏の武吉ですが、来島村上氏が織田方に寝返ったため、村上家は結束を欠くことに・・・
これで織田軍の毛利攻めが易くなる・・・!!
そんな矢先、1582年6月、家臣明智光秀の裏切りによる本能寺の変で信長が自害!!

これで村上海賊の宿敵が無くなった・・・??新たな敵が現れました。
羽柴から豊臣となった秀吉です。
信長亡き後、天下人を狙う秀吉は、中国、四国、九州を支配下に置き、残すは東北となっていました。
そんな中、ある法令を発布します。
1588年7月8日、秀吉は「海賊停止令」を発布します。
そこには、諸国の海上において速やかに海賊行為をやめよ・・・とありました。
各地の領主に対し、船に関わる全ての人物から誓約書をとって提出するように求めたのです。
船頭や漁師までも・・・!!
もし、海賊行為を行った場合、その海域の領主も罰せられるという「海の刀狩り」とも取れる厳しい令でした。
これによって、武吉は海での警護や通行料の徴収などができなくなってしまいました。
まさに、秀吉の海賊取り締まりは、村上海賊を狙い撃ちしたもの・・・
もはや懐柔ではなく目の敵にし、弾圧したのです。
海賊停止令は、秀吉の天下統一の理念を海にまで及ぼそうとしたものです。
海の世界まで統一する為に、海上交通路も秀吉が支配しなければならないと考えたのでした。
村上海賊は、その障害になると考えたのです。

1588年9月・・・秀吉から毛利方に書状が届きます。

”能島が海賊行為をしているという知らせがあったが言語道断”

禁令を破ったとして武吉を処罰するという者でした。
秀吉は、”赤間関より上国には居ることまかりならざる様に”と、武吉追放を命じます。
赤間関とは今の下関のことで、瀬戸内海から出て行けということ・・・
武吉は、一族配下のものを守るため、従うほかありませんでした。
村上三家のうち、武吉だけが筑前・糸島に移り住むこととなったのです。

1598年、武吉を瀬戸内海から追放した秀吉が亡くなります。
これによって、武吉に再びの活躍の場が・・・!!
再び毛利氏に仕え、所領2万石を得ていた武吉・・・
その際、新たな本拠地としたのが伊予制圧の要衝・竹原鎮海山城でした。
それは、あわよくば天下を狙う毛利輝元の指示によるものでした。

秀吉の死後、実権を握った徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成の対立が激しくなります。
そして遂に三成を中心とした西軍が挙兵したことで、家康の東軍と激突することとなります。
その際、西軍の総大将に担ぎ上げられたのが武吉の仕える毛利輝元でした。

勝てば毛利の天下も・・・!!
この時、武吉68歳、嫡男元吉48歳!!
村上海賊復活のチャンスが。。。!!

1600年7月、西軍の総大将毛利輝元は、秀吉の嫡男・秀頼を守るために大坂城に入ります。
その輝元から武吉が任されたのは、西国にある徳川方の城を攻め落とすことでした。
村上海賊は、阿波・蜂須賀氏を攻略すると、加藤氏の伊予に乗り込むことに・・・!!
9月14日、武吉親子が向かったのは、興居島・・・加藤氏の拠点である松前城に攻め入るためでした。
翌15日、村上海賊は三津浜に上がり布陣します。
まさにその同じ日・・・美濃の関ケ原で天下分け目の戦いが始まりました。
しかし、わずか6時間で東軍が勝利し、毛利輝元は敗軍の将となってしまいました。
16日、敗戦を知らない武吉は、松前城に三千の兵を差し向け、開場を要求・・・
松前城の留守役に開場を受け入れさせます。
あっけない勝利に見えました。
もはや攻め入る必要もない・・・武吉は猶予を与え、一旦引き上げることに・・・。
武吉たちは近くの民家に陣を張り、宴会を開き勝利を祝ったのです。
西軍本体が負けたとも知らずに・・・!!
そしてその日の夜中・・・
兵を整えた加藤氏の軍が、武吉の陣を夜襲・・・間一髪で難を逃れましたが、この戦いで嫡男元吉を失ってしまいました。
村上海賊の完敗でした。
村上氏が持っていた優れた船や熟練した乗組員が力を発揮する余地がなかったのです。
瀬戸内海で百戦錬磨の海の支配者も、陸の上では並の武将に過ぎなかったのです。
その後、関ケ原で西軍が敗戦したことを知ると、武吉は撤退・・・屋代島へと追いやられていきました。
その所領は2万石からわずか1,500石へ・・・付き従っていた者たちも、その財力を失った武吉の元を次々と去っていきました。
そして、1604年8月22日、村上武吉は72歳で波乱の生涯を閉じたのでした。
村上武吉の死と共に、水軍としての村上海賊も終わりを告げました。
しかし、能島の村上一族は、その後船手衆として生き残ります。
江戸時代には、参勤交代の際の藩主の送迎や、朝鮮通信使などの船の護衛を担いました。

南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海に君臨し、そして消えて行った村上海賊・・・
その海の侍たちの勇壮な姿とロマンは、これからも語り継がれていくでしょう。

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今から400年前の戦国時代、誰よりも激しく運命に翻弄され、誰よりも強く生きようとした一人の女性がいました。
淀殿です。
織田信長の姪に生まれ、豊臣秀吉の側室となり、最後は一人の母として徳川家康に立ち向かいました。

天下人・豊臣秀吉の妻として強大な権力を握り、秀吉と共に天下に君臨した淀殿・・・
江戸時代の絵や本では、彼女は冷酷で横暴な稀代の悪女として描かれています。
大坂城を落城させ、我が子と共に死んだ愚かな母・・・??
焼け落ちる大坂城と共に、波乱の生涯を閉じた淀殿・・・その実像とは・・・??

淀殿はもともと茶々という名でした。
淀殿と呼ばれるようになったのは、天下人・豊臣秀吉の側室となってからです。
京都の南にある淀城・・・秀吉から城ひとつ与えられるほど愛され、家臣から淀殿と呼ばれた茶々。
しかし、茶々にとって秀吉は、実の両親を死に追いやった仇でした。

どうして親の仇を夫としたのでしょうか?

茶々が生れたのは、1569年、琵琶湖を望む交友の要所・北近江でした。
父はこの一帯を支配した戦国大名・浅井長政、母は織田信長の13歳年下のお市でした。
天下取りを目指す信長の意向で、お市は政略結婚として浅井長政に嫁ぎ茶々を産みました。
お市は、戦国一の美女・・・茶々もその美貌を受け継ぎ、美しい女性でした。
茶々が生れた翌年には次女・初が生れ、1573年には三女・江が生まれます。
政略結婚でしたが、仲の良かった父と母・・・家族と一緒に平穏な日々を送っていました。
しかし、運命の歯車は動き出していました。

父・長政が、越前の朝倉氏と組み、織田家を裏切って攻撃します。
長政の裏切りに怒った信長は、近江に出陣!!
姉川の戦い・・・浅井・朝倉の軍と激闘の末、蹴散らします。
長政も粘りよく戦ったものの・・・2年後、遂に城に追いつめられてしまいます。
浅井三代記によると、城が攻め落とされる直前・・・

「そなたは信長の妹なのだから、ここで死ぬことはない
 信長の元に送り返すから、生き長らえて菩提を弔ってほしい
 今、花のような姫たちを殺すのは不憫だ・・・
 理を曲げて逃げてほしい」by長政

父・長政は白と共に自刃。
5歳の茶々は、母と妹たちと共に城を脱出しました。
この時、茶々の腹違いの兄・万福丸は、秀吉の手で串刺しにされたといいます。
その後、伯父・信長の元に引き取られた茶々たち・・・
しかし、9年後・・・またもや運命の荒波が・・・!!

1582年、茶々、14歳の時に本能寺の変!!
信長は、天下統一目前で命を落とします。
信長を失った織田家で、後継者争いが始まります。
名乗りを上げたのは、有力武将の羽柴秀吉と柴田勝家。
秀吉は巧みな計略で、実質的に織田家の主導権を握ります。
お市は、対抗馬の柴田勝家の元に嫁ぎます。
秀吉を嫌っていたから・・・とも言われています。
この時、茶々14歳・・・母と二人の妹と共に、現在の福井県にある勝家の城で暮らし始めました。
しかし、ここでも平穏な生活は1年だけ・・・

1583年、15歳の時・・・賤ケ岳の戦い
秀吉を、織田家の当主と認めない勝家は、秀吉と衝突!!
戦う道を選びます。
しかし、大敗・・・!!
茶々たちの暮らす勝家の城も、秀吉の大軍に囲まれてしまいました。
その時、秀吉からの使者が・・・!!
母・お市と三姉妹は助命するという・・・。
しかし、母は申し出を拒否、そして、15歳の茶々に二人の妹を託し、三人だけで秀吉の元に行くように命じます。
この時、茶々は、母から弁財天の小さな像を託されます。
父・浅井長政と、母・お市は弁財天を篤く進行していました。
自分は浅井の血をひく娘だ・・・相当強く意識したと思われます。
そして、母・お市は、夫・勝家と共に自ら命を絶つのでした。

秀吉の保護された茶々たちは、織田の血をひく娘として多くの縁談がありました。
そして秀吉からも、茶々に使者が・・・
「私と一緒になっていただきたい」
天下一の美女・・・お市に憧れていたという秀吉。
秀吉が母に似た美女となっていた茶々に迫ってきたのでした。
秀吉は、かつて父・浅井長政を攻め、弟・万福丸を殺され・・・母も死に追いやり・・・何人も身内を滅ぼされた仇・・・
しかし、茶々はこう秀吉に返事をしたといいます。

「このように親なしになって秀吉さまを頼みにするからには、どのようにも秀吉さまの指図通りにしますが、先に妹たちの縁組を整えていただき、秀吉さまとのことはどのようにもしていただきたい」

秀吉に、妹たちにしっかりとした嫁ぎ先を探してくれるならば、側室になってもいいといったのです。
二人の妹を守っていかなければ・・・!!

三女・江・・・11歳で秀吉が仮親となり、尾張の佐治一成に嫁ぎます。
次女・初・・・京極高次に嫁ぎます。
秀吉の申し出があってから4年・・・妹たちが無事に嫁いだのを見届け、1588年、20歳の茶々は秀吉の側室となるのでした。
秀吉は52歳でした。

秀吉の側室となった事で、茶々の運命は大きく変わっていきます。
庶民から関白まで上り詰め、あらゆる望みをかなえた秀吉が、唯一叶えられなかった望みは、世継ぎでした。
茶々は側室に入ってから1年後・・・秀吉を狂喜乱舞させます。
1589年、21歳の時に待望の男の子・鶴松を産みます。
秀吉は、茶々が出産する為にわざわざ淀に城を建てさせます。
茶々が淀殿と呼ばれたのも、この頃とされます。
秀吉にはおね・・・北政所がいましたが、世継ぎを産んだことで淀殿の立場は北政所と同じ正室となりました。
鶴松出産の褒美として茶々がねだったものは・・・
それまで許されなかった父・長政の十七回忌、母・お市の七回忌の法要をお願いしています。
浅井を大切にする気持ちが、淀殿の中にはずっとあって、その一心でした。
淀殿は、戦災の為に失われていた両親の面影を、供養のために書かせています。
これが、今も残っている唯一の肖像です。

1590年、秀吉は小田原攻め・・・北条氏を降伏させます。
豊臣日に歯向かうものはなくなり、秀吉は天下統一を果たします。
しかし・・・1591年、茶々23歳の時、病弱だった鶴松が3歳で死去。。。
秀吉の落胆は激しく・・・
しかし、その2年後の1593年、25歳で男の子を出産。
秀吉は大喜び・・・その子こそ、後の当主となる秀頼です。
淀殿25歳、秀吉57歳の時の子でした。

この頃、秀吉が淀殿に送った手紙が残っています。

”ひろい(秀頼)にお乳を十分に与えなさい
 お乳が足りないときは(お乳が出るようお前が)飯を多く食べなさい”

想いが天に通じたのか、秀頼はすくすくと育っていきます。
無ず子を溺愛する秀吉に、淀殿は褒美を願い出ます。
浅井家の菩提寺の建立です。
その時建てられた寺は、今も京都に・・・

1598年、30歳の時に醍醐の花見・・・淀殿を始め、多くの側室、一族、重臣たちを率いて盛大な花見を催します。
今も伝わる醍醐の花見です。

しかし、この時、すでに秀吉は病魔に侵されていました。
その年の8月・・・秀吉は有力な大名を五大老、有能な五人の家臣を五奉行とし、秀頼を支える体制を整えます。
そして、大老の筆頭・・・徳川家康の手を握ってこう言いました。

「どうか、どうか、秀頼のことをよろしく頼む」

天下人秀吉は、62歳の生涯を閉じました。

大坂城には、淀殿や家族が残っていました。
秀吉を長年支えていた北政所は、出家して大坂城を出ていきました。
一説では、世継ぎを産んで我が物顔の淀殿を快く思わず出ていったといいます。

しかし・・・
秀吉が死んで2年後・・・大老の筆頭・徳川家康が、密かに勢力を拡大していました。
それを察知した秀吉の家臣・石田三成が反徳川の狼煙を挙げます。
1600年、関ケ原の戦いです。
この戦い、淀殿にとっては同じ豊臣の家臣である家康と三成の・・・いわば家臣同士の内紛・・・積極的にかかわりませんでした。
しかし、ある知らせが届いて否応なく、この戦いに巻き込まれることに・・・。
それは、妹・初の命が危ないという報せでした。
東軍について大津城に立てこもった京極高次とその妻・初が西軍に取り囲まれ、命が危ないというのです。
この時、淀殿が協力を仰いだのが北政所でした。
淀殿と北政所は、いがみ合っていたわけではなく、お互いの役割を理解しあっていました。
淀殿と北政所はそれぞれの使者を一緒に大津へと送り込みます。
そして二人の名で、両軍に停戦を求めたのです。
大津城は無血開城・・・淀殿は、無事に妹・初の救出に成功するのでした。

1614年11月、淀殿のいる大坂城に向かって、20万もの徳川の兵が攻め寄せました。
大坂冬の陣です。
豊臣方は、大坂城に籠城・・・難攻不落の大坂城を攻めあぐねる徳川軍・・・
戦は豊臣方の優位でした。
しかし、家康から和平を持ちかけられるとあっさり受け入れてしまいます。
どうして和平を結んだのでしょうか?

1600年、関ケ原の合戦に勝利した家康は、実質的ナンバー1となります。
しかし、淀殿はそのことをさほど深刻に考えていませんでした。
というのも、家康はじめ全員、秀頼に忠誠を誓っていたからです。
その間、家康は着々と豊臣の力を削いでいきます。
家康は秀吉の代行として、領地を淀殿に相談せずに諸大名に分け与えます。
そのため、200石以上あった豊臣の領地は半分以下になってしまいました。
さらに家康は、京都南にある伏見城に居を構え、それまで大坂城にいた多くの大名を伏見へ集めてしまいます。
秀頼の周りから大名がいなくなっていく・・・流石の淀殿も、不信感が増していきます。

淀殿の医師の診察記録・・・家康が伏見城に移って2か月後のもの・・・
不食、めまい・・・淀殿は、気がめいり、食欲がなくなりめまいに苦しんでいました。
この時、淀殿33歳・・・。
その心の支えは、大坂城と秀頼でした。
家康は、あくまで豊臣家の家臣・・・!!
秀頼が成人すれば、豊臣家に天下は戻るはず・・・!!

1603年、家康は朝廷から武家のTOPである征夷大将軍に任じられます。
同じ年、家康の孫・千姫が、秀頼に輿入れ。
そのため、淀殿は家康の忠誠を信じて疑わなかったといいます。
しかし2年後・・・愕然とする出来事が・・・!!
1605年、家康は将軍職を嫡男・秀忠に譲ります。
家康亡き後、徳川家が代々将軍となって政権を担っていくことを全国に知らしめたも同然でした。
淀殿も秀頼が成人するまでのつなぎであると思っていたのに・・・!!
徳川家が将軍職を世襲するとなると、諸大名の大阪場慣れが始まる・・・!!

1614年、淀殿と家康が対立する決定的な事件が・・・!!
淀殿の肝入りで改築工事がされていた方広寺・・・鐘楼に納められる鐘には”国家安康”の文字が刻まれていました。
これを見た家康は、自分の名前を分断して呪う行為だとして猛反発します。
淀殿にとっては言いがかりにしか思えない行為・・・淀殿は、家康の誤解を解くために、最も信頼する家臣を使者に出します。片桐且元です。
且元の父は、長政の家臣でした。淀殿にとって且元は二代にわたって自分たちに仕えてくれる数少ない身内と言える存在でした。
この時、淀殿か且元に送った手紙には・・・

「私と家康の間柄を、親密なものに戻せるかどうかは、すべてあなたにかかっています。
 私はしっかりとした親を持っておらず、相談する相手もいないので、あなただけが頼りです。」

しかし、徳川方との交渉が難航・・・且元は一か月近くも戻ってきませんでした。
戻ってきた且元は、事態を治めるために家康が出した条件を淀殿に伝えます。

秀頼が大坂城を出て国替えをする・・・!!
または、淀殿を人質として徳川へ差し出す!!

豊臣家を一大名に落とす厳しい条件でした。
淀殿にとって飲めない理不尽な要求・・・
このため、使者を務めた且元にも疑惑の目が向けられます。
ことごとく対立していた家臣たちは、この機に乗じて且元を暗殺する計画も・・・!!
且元も、危機を察して病気を理由に屋敷に引きこもってしまいました。

しかし、淀殿は且元を信頼していました。

「決して親子ともどもあなたをおざなりにはしていません
 長年の温情をどうして忘れることができましょうか
 あなたをひたすら頼みにしています」

しかし、手紙を送った甲斐もなく、且元は淀殿の元を去ってしまいました。

一方家康は、豊臣側から正式な答えがないことで大阪城攻めを決断・・・
諸大名を集め進軍します。

1614年11月、大坂冬の陣・・・
豊臣方は、浪人などを集め、10万の兵で大坂城に立てこもります。
取り囲む徳川方は、その倍の20万です。
難攻不落の大坂城・・・その理由は、城の三方向を外堀、内堀、さらに河出囲んでいる構造にありました。
徳川方も、その方向からは攻めず、堀のない南の方から攻めていました。
しかし、そこには真田氏の最強の砦・真田丸が・・・!!
真田丸の戦いでは、徳川は2万の戦死者を出し惨敗・・・こうした戦いで、豊臣方が優勢でした。
負け戦が長引けば、徳川方に離反者が出るかもしれない・・・。
家康は、和平を申し込みます。
豊臣方にしてみれば、応じる必要はない・・・
しかし、淀殿は徳川方とあっさりと和平を結んでしまいます。
しかも、大坂城の外堀を埋めるという徳川に都合のいい条件を、受け入れたのです。

和平を結んでわずか半年後・・・大坂夏の陣・・・!!
家康が豊臣方を攻め、大坂城は落城し、豊臣方は壊滅・・・!!
女性である淀殿は、城を落ち延びる選択もありました。
しかし、淀殿は、息子秀頼と共に、大坂城でその命を落とすのです。

どうして大坂城と運命を共にしたのか・・・??
大坂冬の陣の後、家康はあっという間に外堀を埋めました。
しかし、条件にはなかった内堀まで埋めてしまったのです。
堀を失くした大坂城は、最早どこからでも攻められるので、防御力の大半が削がれてしまいました。
戦が始まる前、淀殿は家康から”徳川の家臣としてなら豊臣家を存続させる”という屈辱的なことを言われます。
この時、仲介役となったのが、淀殿の妹・初でした。
初は、かつて関ケ原合戦の時に、淀殿に命を救われていました。
今度は自分が・・・と、初が淀殿を説得します。
降伏の条件を飲むように説得し続けます。
しかし、初の言葉に耳を貸さず、家康の家臣となることを拒否。
徳川方の大坂城総攻撃が始まります。
戦いが始まってなお、初は説得し続けますが、城を脱出せざるを得なくなります。
この頃、大阪城にいたのは、戦闘経験の乏しい家臣だけでした。
徳川方が豊臣方を圧倒・・・大坂城は落城寸前に追いつめられます。

しかし、淀殿には最後の切り札・・・千姫が残っていました。
千姫は家康に対しての人質・・・千姫が逃げ出さないよう、淀殿は千姫の袖を捕まえていました。
しかし、千姫は一瞬のスキを突いて逃亡・・・
徳川方の手引きで大坂城を脱出したといいます。

意気消沈する淀殿・・・そんな中、前線からは秀頼出陣の要請が・・・
前線で指揮をあげてほしいと何度も言われるも、淀殿はそれを許しませんでした。
やがて豊臣方は総崩れとなり、大坂城は炎に包まれました。
5月8日、秀頼と淀殿は大坂城で自害・・・秀頼23歳、淀殿47歳でした。
淀殿は、大坂城と共に滅びる道を選びました。
しかし、母から受け継いだ弁財天は無事でした。
落城前に徳川に使者を送り、三女・江に弁財天を託していたのです。
今は、父母を弔うため、淀殿が立てた菩提寺に今も祀られています。

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今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

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表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
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水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

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郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
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有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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来年の大河ドラマは、「麒麟がくる」です。
今年は歴史ものではないので、ただ単に楽しく大河ドラマを見ることにした私。
でも、「いだてん」も、楽しく見させてもらっています。

来年は、戦国時代ということで、心が躍ります~~!!
しかも、明智光秀ってことで、気になってるんです!!

主人公の明智光秀は長谷川博己さんです。

kirin















長谷川博己さんと言えば・・・

yae












「八重の桜」の川崎尚之助を思い出します~~!!
個人的にはちょっと華がないかなあ・・・とも思うんですが、この大河で化けてもらいましょう!!

NHKさんによると・・・

「麒麟がくる」は、大河ドラマの原点に戻り、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、各地の英傑たちが天下を狙って、命をかけ愛をかけ戦う、戦国のビギニングにして「一大叙事詩」です。

脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。
大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生にも光があてられます。物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。

若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る…
「麒麟がくる」―新たな時代の大河ドラマの始まりです。

そして、NHKで放送されるオリジナルストーリーということになります!!

王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。
応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから
解放してくれるのは、誰なのか・・・
そして、麒麟はいつ、来るのか?
若き頃、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として
勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、
多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、
戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。
従来の価値観が崩壊し、新たな道を模索する現代の多くの日本人に向けて、
同じように未来が見えなかった16世紀の混迷の中で、
懸命に希望の光を追い求めた光秀と数多くの英傑たちの青春の志を、
エネルギッシュな群像劇として描き、
2020年、新たな時代を迎えるすべての日本人に希望と勇気の物語をお届けします。
明智光秀とはいったい何者なのか?
麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか・・・
今、すべてが、始まる──


タイトルの「麒麟(きりん)」は、王が仁のある政治を行う時に頭上に現れるとされる中国の伝説の霊獣・・・
その麒麟が明智光秀なのか・・・??
ということです。

私は信長は、外様の光秀と秀吉をとっても評価していて・・・でも、秀吉は絶対に家臣だと思っていただろうけど、光秀は自分に持っていない品格を持ち、都ともつながりがあると・・・家臣だけど一目置いていたと思います。
そんな光秀だからこそ、信長を天下人にするわけにはいかなかったのかも・・・??
今までの大河では、謀反人としての光秀が書かれてきましたが、本当の光秀・・・家族思いで、家臣思いで、領民思いという非の打ち所のない光秀がやってくるのかもしれません。

とにかく楽しみですね~~!!


「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

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京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

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