日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:豊臣秀次

かつての甲斐国・・・山梨県甲州市にそびえる天目山・・・
1582年、名将武田信玄の跡を継いだ武田勝頼がこの山の麓で無念の死を遂げました。
ところ変わって・・・かつての紀伊国・・・和歌山県の高野山・・・
1595年、天下人豊臣秀吉の養子である秀次が切腹を命じられ、寺の一室でこと切れました。
この二人には、3つの共通点がります。
①歴史にその名をとどろかせる偉大なる父を持っていたこと
②無念の死を遂げたこと
③死後、数々の汚名を着せられたこと
です。

勝頼が自刃し、20代続いた名門武田家が滅びました。
歴史からその名が消えたことで、勝頼のことを不肖の息子、愚将と揶揄しました。
死の直前、養父・秀吉に対し謀反を企てたという嫌疑をかけられた秀次は、暴君・摂政関白と言う悪名を馳せます。
本当にそうだったのでしょうか??
偉大な父の影に隠れ、今まで注目されてこなかった二人の戦国武将の実在とは・・・??

武田信玄の四男として生まれた武田勝頼・・・26歳の時、信玄の指名で後継者となります。
どうして不肖の息子と呼ばれた勝頼が武田家を継ぐことになったのでしょうか?
信玄は、甲斐の隣国だった相模の北条氏康、駿河の今川義元と同盟を結んでいましたが・・・
1560年桶狭間の戦いで今川義元が尾張の織田信長に討たれると、弱体化した今川の領地をとろうと信玄は信長と同盟関係を結びます。
そしてその証として信長の養女が勝頼の正室として迎えられました。
ところが・・・この同盟に、勝頼の兄で信玄の嫡男の義信が猛反発。
義信は今川義元の娘を妻にしていたので、今川家の立場をとっていたのです。
自分に異を唱えた義信に対し信玄は激怒、義信は幽閉され2年後自刃していまいました。
この時、次男・信親は出家、三男・信之もすでに亡くなっていたため、年功序列によって四男の勝頼を新たな後継者に指名しました。
ところが、信玄の家臣たちが猛反発!!
それほど勝頼は、後継者に相応しくない不肖の息子だったのでしょうか?
信玄の側室だった勝頼の母・諏訪御料人は、信玄が攻め滅ぼした信濃の豪族・諏訪氏頼重の娘でした。
諏訪家との融和を図ろうと考えた信玄は、勝頼が生れると諏訪家の男子が用いていた頼の文字を使った名を与え、諏訪家の跡取りにすることにします。
そして勝頼はやがて武田配下の諏訪家の領主として戦に参加するようになります。
このことが、勝頼が後継者に指名された際、大きな問題になりました。
武田の重臣たちにとって、長らく同僚として戦を戦ってきた勝頼が、館となることに反発があったのです。
もう一つは、勝頼はあくまでも諏訪勝頼・・・諏訪家の男であって、武田の人間ではないという・・・
武田家は代々嫡流が家督を継いできていました。
余所の家に養子になっていた人間が武田の家を継ぐということについては根強い反発があったのです。
家臣が勝頼が跡取りとなることに反対したのは、勝頼が”不肖の息子”だったからではなく武田配下の諏訪家の当主だったからです。

こうして勝頼は、家臣の反対を受けながらも信玄の後継者としてはれて武田勝頼を名乗ることとなります。
ところがその2年後、信玄は病死してしまいました。
すると、父・信玄の遺言が、さらに勝頼を苦しませます。
その内容は・・・
”勝頼の息子・信勝が16歳になり次第、家督を継がせ、勝頼はその後見人になること”
勝頼が正当な武田家の跡取りではなく中継ぎであると・・・真の後継者は勝頼の息子・信勝だといっているようなものです。
どうしてこのような遺言を残したのでしょうか?
ゆくゆくは勝頼の息子・信勝が跡を継ぐから・・・と、家臣と勝頼を配慮したものだったのですが、逆効果だったようです。
武田の家臣は、武田二十四将と言われ、一筋縄ではいかない者も多く、信玄と一緒に領土を大きくしてきたという自信もあるので、そんな人たちを勝頼がコントロールするというのは並大抵のものではありませんでした。
信玄が長生きをして、勝頼と家臣たちの関係をうまくつなげるような関係を作っていればよかったのですが、不運としか言いようがありません。

甲斐の虎と恐れられ、戦国最強の武将・武田信玄・・・
対して息子の勝頼は、後世愚将と蔑まれてきました。
織田信長と同盟を結んでいた武田信玄でしたが、越前の朝倉義景や北近江の浅井長政、さらには大坂の石山本願寺などが決起すると、信長包囲網に参戦します。
1573年三方ヶ原の戦いなどで、信長と同盟を結んでいた徳川家康を相手に戦いを優勢に勧めていましたが・・・
そのさ中、持病が悪化・・・甲斐へ戻る途中に亡くなってしまいました。
そんな父の無念を晴らすために、新生武田軍も織田・徳川連合軍に挑んでいきます。

1574年、勝頼は織田の領地である東美濃へ侵攻。
その勢いはすさまじく、1日で18もの城を落とします。
さらに、家康の領地へ侵攻した勝頼は、遠江にある難攻不落の城・高天神城を陥落させ、三河の足助城、野田城までも落としてみせるのです。
焦る家康をしり目に、勝頼が次に狙いを定めたのは、家康の息子・信康が城主を務める岡崎城でした。
勝頼は、徳川家の家臣・大賀弥四郎らと内通し、岡崎城を内外から攻め落とす作戦を立てます。
結局、済んでのところで情報が洩れ未遂に終わり、大賀弥四郎は処刑されます。
もし、岡崎城を占拠されていれば、信長の援護が絶たれ、浜松城にいた家康は孤立し、武田軍によって壊滅状態に追い込まれるところだったのです。
家康を追いつめた勝頼の見事な戦いを伝え聞いた信長は、同盟を結んでいた越後の上杉謙信にこんな手紙を送ります。

「勝頼はまだ若いが、信玄の軍法を守り、表裏をわきまえた武将 恐るべき敵である」

勝頼が侮れない存在であることを認めたのです。
しかし、その一方、勝頼の家臣たちは・・・

”これで勝頼さまは、益々我らの意見を聞かなくなる”

勝利を重ねていく度に、勝頼は独断で動くようになり、家臣たちとの溝は深まるばかりでした。
そして、1575年・・・ついに勝頼は織田・徳川連合軍との大一番を迎えます。
長篠の戦いです。
織田・徳川連合軍3万8千に対し、武田軍はその半分以下の1万5千。
当然勝頼の家臣たちは撤退を進言しますが・・・勝頼はそれを無視して突撃を指示!!
結果、武田軍は惨敗を喫し、信玄以来の家臣たちの多くが命を落としました。
どうして勝頼は無謀な戦いに挑んだのでしょうか?

あの場に信長、家康の二人がいる・・・信玄の果たせなかったこの戦いに勝てば、父を超えることができる・・・??
相すれば、武田家の中での権威を不動のものにできると考えたのです。
勝頼の家臣たちから武田家の跡継ぎとして認められていないという状況を打開したかったのです。

武田家の兵法書「甲陽軍鑑」には、勝頼は”強すぎたる大将”と記されています。
故に自分は父・信玄を超えているのだと過信してしまったのかもしれません。

一説に、家康は長篠の戦いの直前信長にこう迫ったといいます。

「もし信長殿が援軍を送らず、長篠が陥落したら勝頼と手を組み、織田と戦う所存」

それだけ、家康が勝頼率いる武田軍を恐れていたということ・・・
長篠の戦いで勝利した信長が、追い打ちをかけるべく上杉謙信に武田領に攻め入るように要請しますが・・・
なぜか謙信は動きませんでした。
勝頼は、信長の動きを察知して、既に謙信との和睦を成立させていたのです。
家康を追いつめ、信長の動きの先を読む・・・この時、信長42歳、家康33歳、対して勝頼は30歳・・・そう考えると武田勝頼は善戦し、名将の片りんを見せていたのです。

長篠の戦いで、大敗した武田勝頼は、領内での立て直しを図ります。
まず行ったのが検地・・・各農地からの年貢を厳しく定めることで、それまで不安定になりがちだった家臣たちの知行から得られる収入を確定させました。
そして勝頼は、それに見合う軍役を、家臣たちに課しました。
つまり、収入によって保有しなければならない兵士や武器などの数を厳密に定めたのです。
これにより、短期間で武田軍を再強化することに成功します。
勝頼は、商人と職人を管理します。
武具の安定供給、城づくりの際の資材の調達、人足の動員などを迅速に行えるようにしたのです。
さらに、城の移転を進めます。
祖父・信虎、父・信玄は躑躅ヶ崎館を居城としてきましたが、甲斐・駿河・信濃にまたがる領地を治めるには甲府は東に寄り過ぎていたため、勝頼は領土拡大も見据えて韮崎(新府城)を築城し、そこへ武田氏の本拠地を移しました。
東西を川に挟まれ、城を建てた七里岩台地の周囲は、25キロにわたって断崖が続いていて、新府城はまさに自然の要害でした。
新府城は、躑躅ヶ崎館に比べると、はるかに巨大で武田の築城技術を駆使したとてつもない大きいお城です。
他の戦国大名と比べても大きく、集大成の意味もありました。
ところが、そんな新府城を築城した翌年、勝頼は武田家を滅亡に追い込んでしまいます。

しかし、武田家滅亡は、勝頼のせいだけではなかったのです。
勝頼は、周辺諸国との外交交渉を、積極的に行っていきます。
信玄の時代から長年対立してきていた越後の上杉謙信との和睦が成立すると、そこに信玄時代から同盟を結んでいた相模の北条氏政を加え、甲斐・相模・越後の三国による和睦を画策・・・三国で同盟を結べれば、織田・徳川連合軍に十分対抗できると考えたのです。
しかし、勝頼の期待空しく、謙信が氏政との同盟を拒否したことで、あえなく破談に終わってしまいました。
さらに、暫くして予期せぬ事態が・・・氏政が、甲相同盟を破棄して信長と同盟を結んだのです。
勝頼は、西側から織田・徳川連合軍、東側から北条の攻撃を受ける羽目に陥ってしまったのです。
次第に劣勢になっていく勝頼・・・そんな勝頼に対し、家臣たちも不信感を募らせていきます。
そして・・・この最悪の状況の中、勝頼をさらに追いつめる出来事が・・・
1582年2月14日、奇しくも織田軍が武田領に進軍したその日・・・領内の浅間山が噴火しました。
当時、浅間山の噴火は、「東国に政変が起こる」前兆とされてきました。
さらに、この時信長の朝廷への根回しにより、勝頼が朝敵とされていたことから、家臣たちはこう考えたのです。

「帝が信長の必勝を祈願したことで、神は勝頼さまを見限ったのだ」

家臣たちは武田家はもうおしまいだと、次々に勝頼の元を去っていきました。
天にも家臣にも見放されたことで、勝頼は甲斐にある天目山まで逃げのびるも・・・
結局信長軍に追い込まれ・・・妻と息子と共に自刃したのです。
1582年3月11日、武田勝頼自刃、37歳でした。

「勝頼は紛れもない名将であったが、運が尽きてしまいああいう結果に終わってしまった」by信長


天下人の養子にして関白の座にあった豊臣秀次・・・
秀次は死後、殺生関白などの汚名を着せられてしまいます。
が・・・その人生の殆どは、秀吉の言われるままでした。
1568年、秀次は、百姓であった父・弥助と秀吉の姉であった智との間に・・・尾張の農家に生まれます。
しかし、当時織田信長の家臣であった叔父・秀吉の出世によってその人生が激変していきます。

1573年北近江の浅井長政の居城・小谷城攻めの直前、秀吉は浅井の重臣宮部継潤を織田方へ寝返らせるため、甥の秀次を人質代わりに継潤の養子として差し出します。
5歳だった秀次は、宮部吉継を名乗ることになります。
その後、一度は秀吉の元に戻りますが、13歳の頃、信長の家臣・三好康長との連携を深めるために養子に出されます。
自分の子供を政治に利用することは戦国の常でしたが、秀吉と妻・おねとの間には子供がいなかったため、甥である秀次がその代わりに秀吉の出世の道具として使われたのです。
2回目の養父・三好康長は、茶の湯・連歌を嗜む風流人・・・そんな康永から多大な影響を受け、文学や和歌を嗜み、茶の湯においては千利休の弟子だったともいわれています。
そんな教養ある秀次は、後に関白となる秀吉に、公家や諸大名の接待役として重宝されたといいます。

秀次の武将としての才覚は・・・??
1584年、羽柴秀吉が、徳川家康らと相まみえた小牧長湫の戦い・・・
秀吉軍10万に対し、徳川・織田信雄軍はわずか3万・・・
数の上で劣勢だった徳川軍は、小牧山に陣を構え動かずにいました。
相手の3倍の軍を要しながら、手出しできない状況に秀吉は苛立ち始めます。
そこで、池田恒興が、こんな作戦を提案しました。

「家康の本領である三河を攻めるふりをして、徳川をおびき出し、そこをたたいてはいかがなものか」

すると、秀次がこう申し出ます。

「私をその作戦の大将にしていただきたい」

秀吉は、作戦自体には乗り気ではありませんでしたが、秀次が大将を務めるならばと了承します。
秀次は恒興らと共に、意気揚々と出陣します。
ところが・・・家康がすぐにこの作戦を見破り、秀次軍に気付かれないように二手に分かれて追跡し、挟み撃ちにしたのです。
不意を突かれた秀次軍は、壊滅状態に・・・
大将の秀次は、命からがら逃げだしますが、恒興をはじめ、2500人が討ち死にしてしまいました。
この秀次の失態に、秀吉は激怒したといいます。

1583年の賤ケ岳の戦いで、同年代の福島正則、加藤清正らが大活躍をしていました。
秀次は焦っていたようです。
秀吉は怒り、秀次に責任を問う手紙を書いています。

”一時は殺そうと思った”
”今後行いを改めなければ首を切る”

とまで・・・
しかし、その手紙の最後にこうも書いています。

”ゆくゆくは、自分の名代として考えている”

秀吉から大きな期待を寄せられていた秀次は、秀吉の弟で自分の叔父にあたる羽柴秀長の支援もあり、その後傭兵軍団・雑賀衆・根来衆を討伐する紀州攻め、土佐の長宗我部正親を討つ四国攻めで武功をあげ、愚将の汚名を返上します。
この活躍により、秀次は近江20万石を与えられます。
大坂、京都を拠点にしていた秀吉が、秀次を隣接する近江においたのは、豊臣政権を支える大きな柱の一つとして認めたことの証でした。

豊臣秀吉の甥で秀吉の言いなりの人生を歩んできた秀次・・・一国一城の主になります。
しかし、その後、暴君という汚名を着ることとなります。
秀次は本当路暴君だったのでしょうか?
秀吉から近江20万石を与えられた秀次は、新しい町づくりに挑んでいきます。
その名残が、近江八幡市に残されています。
町を歩いていると真っ直ぐな道が多いことに気付きます。
当時の城下町の殆どが、敵の侵入を防ぐために行き止まりや袋小路を多く設けたのに対し、近江八幡の町は碁盤目状になっています。
秀次は、軍事拠点としてではなく、商業の中心地となるように町づくりを計画。
町にめぐらせた堀を、琵琶湖とつなぐことで舟で直接荷物を運び入れることができました。
さらに、上下水道を整備します。
町家と町家の間に、背割りという溝を作り、生活排水を流せるようにしました。
上水道は、遠方から引いてきた水を、竹の管を通して各緯度に分配し、常時使えるようにしました。
この時代、上下水道を完備した町は他にはなく、秀次の先見性が伺われます。
そして、秀次はインフラを整備したこの町に、信長の死によって活気を失っていた安土から多くの商人と職人を呼び寄せ、楽市楽座のような活気ある商業都市を築き上げたのです。
秀次は、軍事より商業を優先した経済都市を築き上げ、領民から喜ばれる平和な町づくりを実践した名君だったのです。

そんな秀次が、秀吉から跡継ぎとして指名されるのは、それから6年後の1591年のことでした。
この年、秀吉は良き理解者であった弟の秀長と、側室・淀の方との間にもうけた3歳の息子・鶴松を相次いで亡くします。
この時、秀吉55歳・・・自ら築き上げた豊臣政権を守るため、身内である秀次を養子とし、関白の座まで譲ります。
幼いころから秀吉の言いつけを守って生きてきた秀次が、ようやく手にした関白の座・・・喜びもひとしおでした。
ところが・・・その後、摂政関白の汚名を着せられることとなるのです。
そもそも殺生関白といわれるようになったのは、”太閤様軍記のうち”という本の中で、秀次がいろいろ悪事を働いたということが書かれています。
例えば、殺生禁止の比叡山で鹿狩り・・・??しかし、教養のある秀次がそんな大それたことをするのか??
罪もない旅人を千人斬り・・・??秀次は芸術に造詣が深く、秀吉所有の名刀の管理を任されていました。
秀次は、その切れ味を試すために、罪人を使って試し切りをした・・・と考えられます。
悪く、悪く、悪意のある書き方をされています。
”太閤様軍記のうち”は、太閤・秀吉を称賛する書物なので、秀吉に都合の悪いことは捻じ曲げられ、悪事はすべて秀次に押し付けた可能性があります。

秀次の存在は秀吉にとって都合が悪かった・・・??
天下人・豊臣秀吉に対する謀反を企てたとして、養子の秀次が切腹に追い込まれた秀次事件・・・
本当に秀次は謀反を企てたのでしょうか・・・??
1593年、秀吉と側室・淀殿との間に秀頼が生れます。
当然秀吉は、自分の息子・秀頼を跡継ぎにしたいと考えるようになりました。
しかし、すでに養子の秀次に関白の座を譲っていました。
そんな中、1595年、山へ鹿狩りに出かけ戻ってきた秀次に、衝撃の知らせが届きます。

「わしが山で仲間と落ち合い、太閤殿下に謀反を企てていただと・・・??」

秀次は、すぐさま秀吉に事実無根であることを訴えますが・・・弁解する事さえ拒否され、結局秀次は高野山で切腹に追い込まれてしまいます。
本当に謀反を企てていたのでしょうか?
秀次と親交のあった人々の証言によると・・・??

「秀次さまが謀反を企てた?? そんな馬鹿な・・・」by公家・山科言経
「秀次公は、謀反を起こすような方ではない」by前田利家
「秀次は、万人から愛され、野心家ではなかった」byルイス・フロイス

秀次は、謀反を企てるような人物ではないというのです。
では、どうして切腹に追い込まれたのでしょうか??
唯一の手掛かりは、秀吉が自分の養女の婿・吉川広家に宛てた手紙です。
そこには・・・
「自分の思い通りにならなかったから・・・」
秀次の何が思い通りにならなかったからなのでしょうか??
秀吉が、秀次に自分の息子に関白の座を譲れといった事を拒絶したのか??と思われます。

秀次は、謀反ではなく関白の座を譲れという秀吉の言葉を聞かなかったことによる切腹だと考えられます。
それでも怒りが収まらない秀吉は、秀次の正室、側室、子供、侍女など30人を処刑しました。
二度と跡継ぎ問題が起きないように・・・。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

長篠の戦い 300体セット 1575年5月 織田信長・徳川家康・武田勝頼 戦国合戦ジオラマ完成品 戦国 武将 長篠 フィギュア プラモデル 天下布武 風林火山 武田騎馬 鉄砲隊 時代 模型 1/72サイズ

価格:550,000円
(2020/3/14 11:50時点)
感想(0件)

【ふるさと納税】安土信長・豊臣秀次1800ml 2本セット

価格:18,000円
(2020/3/14 11:52時点)
感想(1件)

今回の先生は、橋場日月先生です~~!!

今なお現代人を魅了してやまない戦国武将・・・。
血で血を洗う戦乱の世を勝ち抜くために、彼らが求めていたものは・・・お金でした。
戦国武将は、お金集めに必死でした。

織田信長・・・
当時、京都・大坂にまで勢力を伸ばしていた信長は、京都・大坂から多額の税金を徴収。
裕福な寺院、栄えていた堺・・・など。
この時集めていたお金は、ある金額と一致します。
それは、足利義昭を将軍に擁立する為に京都に攻め入った戦の費用でした。
戦をする・・・それは莫大な費用が掛かるという事。
優秀な武将や兵士を集める給料、費用、食費や刀、鎧、鉄砲・・・攻め落とした城の補修費・・・
何をするにもお金が必要でした。

戦国武将の力とは・・・すなわち資金力!!
腕っぷしの強さや大義だけでは勝てないのです。
天下を取る野望はあるが、お財布事情はギリギリ・・・
信長も資金繰りに悩む若手経営者だったのです。


豊臣秀吉が、信長の時代に大きな力を発揮したのが経費削減で下。
1581年、鳥取城を落とす際に・・・手っ取り早いのは兵糧攻め・・・
お金と時間がかかる・・・三木城の時は2年もかかってしまった・・・。
そこで・・・!!
秀吉は秘策で兵糧攻めを4か月に短縮しました。
その秘策とは・・・??
いつもの3倍の値段で米を買い占めたのです。
秀吉が潜り込ませた商人が、城の倉庫の米も買い占め・・・
この時の経費は2000万円。
しかし、米がない鳥取城はすぐに陥落。
これにより秀吉は、戦の時間を1年8か月短縮し、300億円もの経費削減をしました。

江戸幕府初代将軍・徳川家康・・・

戦国時代の家康は、250万石の大大名でありながら、戦国一のドケチでした。
食事は麦飯、服も質素で、下着も買い換えない・・・
そんな家康が天下人になれたのは・・・??

1595年秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹させられる事件がありました。
そんな中、細川忠興の家臣が家康の元へ・・・
「実は我が殿は、秀次様より黄金100枚を借りておりました。
 一刻も早く借金を返し、関係を絶たねば、殿は秀次様の仲間と見なされ、切腹となります。
 どうか・・・お助け下さりませ。
 殿を救うと思うて、金子数枚だけでも貸していただけませぬか?」

戦国一のドケチの行動は・・・??
「・・・では、これを持っていかれよ」

なんと黄金100枚!!
現在の二億円、さらには、「返済は無用じゃ」と・・・
「その代わり、わかっておられますな・・・」
この時の恩を忘れていなかった細川忠興は、関ケ原の戦いで先陣を切って徳川方につきました。
普段ケチケチしてためたお金を、恩を着せるために使った家康・・・この買収戦略があったからこそ天下をとれたのです。

1605年、天下を統一した後も、決して贅沢をすることのなかった家康・・・
しかし、息子に将軍職を譲って大御所となった家康が、不思議な行動に・・・??
家康が金に糸目をつけずに買い始めたものは・・・石でした。
ある日突然大名を招集した家康・・・
「これより江戸城の石垣工事を行う!!
 皆も、協力せい」
庭の石を指し・・・
「大石は一つ白銀20枚(400万円)、小石はひと箱小判3枚(60万円)じゃ」
と、ただの意思を買い占め、高値で売りさばきました。
自作自演の恐ろしいマネー術でした。
当時のスペイン商人の手記によると、城の床がきんぎんの重みで抜けたほど潤っていました。


もう一人の達人は・・・伊達政宗!!
独眼竜で知られ、最盛期には114万石の大大名でした。
そんな政宗は、剛腕なマネー術が目立ちます。
領地でとれる砂金のパワーで、東北を席巻していた政宗は、秀吉にも莫大な賄賂を贈り可愛がられていました。

「ところでお前、会津に攻め入ったようじゃの?
 わしの許しを得ず、勝手に戦を仕掛けるなど、言語道断じゃ。
 仕置に会津は蒲生氏郷に与える!!」by秀吉

会津には欧州に匹敵する金山がある・・・政宗はそれを奪おうと会津を責め取っていました。
しかし、その行動に目をつけられ、よりによって会津はライバル蒲生氏郷の手に・・・!!

「いまに見ておれ!!」

と、政宗は常識外れの行動に出ます。
会津を引き渡す前に、事故に見せかけて金鉱を水没させました。
会津ではその後一切金が採れなくなり、奥州の金が高騰したとか・・・。

さらに江戸時代、政宗は会津への執着を捨ててはいませんでした。

「どうか、会津をお返しいただけませんでしょうか?」by政宗

「お前は素行が悪いから駄目じゃ」by家康

政宗の夢は再び潰えた・・・しかし、そんな中、あるニュースが舞い込んできました。

「いま、江戸は人が急に増えて、米が足りていないそうです。」by家臣
「何・・・??という事は?
 農民たちから余った米を買い占めるのじゃ」by政宗

安く買い占めた米を江戸で高く売るビジネスを始めます。
これにより年間10万石、約45億円の収入を得ました。

江戸っ子の胃袋を掴んだ政宗は、後に天下の副将軍と呼ばれるほどお金の力で幕府の実権を握りました。
しかし、病魔にむしばまれ死を悟ると、お金の力を誰よりも知っていた政宗は、市の3か月前、幕府の閣僚に頼みごとをしました。

「すまぬが少々金を貸してもらえないだろうか」
「して・・・いかほどに・・・」
「銀子1000貫・・・!!」
その額およそ30億円!!
お金がたくさんあるのにどうしてそんな大金を・・・??

「これで仙台藩は安泰じゃ
 わしの死後、仙台藩が無くなれば貸し倒れとなる・・・
 借金があれば、取り潰しになることはない」by政宗

仙台藩は、政宗の死後15代にわたり栄えたのでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

戦略は日本史から学べ 壬申の乱から関ケ原の戦いまで「戦い」のシナリオを紐 [ 橋場日月 ]

価格:1,490円
(2019/9/2 09:20時点)
感想(1件)

【新品】【本】戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」 橋場日月/〔著〕

価格:950円
(2019/9/2 09:21時点)
感想(0件)

<戦国時代>悲運の傀儡関白 豊臣秀次の御放埓【電子書籍】[ 大野信長 ]

価格:103円
(2017/6/5 13:32時点)
感想(0件)



1595年7月15日、驚くべき大事件が・・・
高野山青巌寺の一室・柳の間で、豊臣秀吉の甥で政権No,2だった関白・豊臣秀次が切腹したのです。
「秀次事件」・・・通説では、秀吉に跡継ぎが生れたので、秀次はお払い箱となって高野山へ追放され、間もなく切腹したということになっています。
しかし・・・新事実が・・・??

1568年、織田信長が上洛を果たし、天下統一への足掛かりを掴んだその塗ぢに・・・尾張国大高村で秀次は生まれました。
幼い頃の名は治兵衛・・・両親は、苗字を持たない農民でしたが、やがて運命は一変・・・。
母親の弟が信長の草履番から異例の出世を遂げ、後に天下人となる豊臣秀吉でした。
一生、秀吉に翻弄される生活となります。

1571年、信長に、浅井長政との戦いの最高責任者を任せられた秀吉は、浅井家の重臣・宮部継潤を寝返らせるため裏工作に奔走!!
この時利用したのが、甥の秀次だったのです。
当時秀次はまだ4歳・・・子供のいなかった秀吉は、この甥を宮部家に養子として差し出したのです。
それは、宮部を裏切らないという証建ての人質でした。
この裏工作は成功し、宮部は織田に寝返り、浅井滅亡の引き金に・・・
秀吉は、秀次を実家に戻し・・・またもや三好に養子に・・・。
秀吉は、四国で勢力を拡大する長宗我部に対抗すべく、阿波の有力大名・三好家に接近。。。
秀次を三好康長の養子に出したのです。

さらに・・・本能寺の変で信長が死んだ後・・・清須会議でも秀次を利用。
「池田の娘をもらえ!!」と、池田恒興の娘と結婚・・・池田を味方につけたのです。
こうして秀吉は、清須会議で主導権を握り、天下統一に向けて大きな一歩を踏み出したのです。

1584年、秀吉は徳川家康と、小牧長久手の戦いで激突!!
この時、秀次は秀吉の恐ろしさを身をもって知ることに・・・
17歳になっていた秀次・・・秀吉の甥であるため、経験不足のまま一軍の大将に担がれ、合戦に臨んでいました。
羽柴秀吉軍10万VS徳川家康軍3万!!
ところが、戦は一進一退の膠着状態に・・・
そこで秀次は、池田恒興らとともに、1万6000の兵を率いて出陣!!
家康の領国・三河に向かいます。
しかし、家康に察知され、挟み撃ちに・・・激戦の末、義父・池田恒興をはじめ名だたる武将が討死・・・死者2500人・・・。
秀次大失態!!
秀吉は激しく怒り、敗北の責任をとる書状を秀次に送りつけます。

「わが甥であることを鼻にかけ、傲慢である!!
 一時は秀次を殺そうと思った
 今後行いを改めないようであれば、首を切る」

再び同じ失態を演じたら、秀吉は自分を見限るに違いない・・・!!
秀次は・・・それ以後、武功を治めるために、獅子奮迅の働きをします。
1585年四国攻めでは副将を勤め、1587年九州攻めでは京を守り、1590年小田原攻めでは豊臣軍の先鋒として出陣し、秀吉の信頼を得ていきます。
そして・・・秀吉の養子のひとりとなったのです。

秀吉の問題は・・・実の子がいなかった事・・・
そんな秀吉に吉報が・・・
1589年側室・茶々が、鶴松を出産。
秀吉、54歳の時でした。
秀吉の喜びようは尋常ではなかったものの・・・
1591年3歳で鶴松が夭折・・・。
だれに豊臣家を継がせる・・・??
秀吉の養子は7人・・・うち、血縁関係のある者は3人・・・
秀勝は、朝鮮出兵の際に病死。
秀俊は、のちに小早川家に養子。
残った血縁関係のある養子は秀次のみ・・・
秀吉は、24歳の秀次に関白の座を譲ります。
豊臣家の後継者は秀次だと、天下の宣言したのです。
とはいっても、関白・秀次は名ばかりで、太閤となった秀吉が、実質的最高権力者でした。
1593年8月3日、茶々が再び男子を出産しました。
後の豊臣秀頼です。
57歳の秀吉は秀頼を溺愛し、この子に豊臣家を継がせたい・・・というのが望みとなりました。
しかし、秀頼を後継者とするためには、秀次に譲ってしまった関白の座を取り戻さなければならない・・・
この子が大きくなって自分がいなくなった時、秀次はそれを許すのだろうか・・・??
この頃秀吉は、秀次に約束します。
「日本を5つに割り、そのうち4つをお主に与える・・・」
秀次は、秀吉が秀頼を後継者にしようと思っていることを悟ってしまいます。
自分は豊臣政権にとって何なのか・・・??
秀頼の誕生によって、秀次の運命は再び大きく変わることに・・・。

滋賀県近江八幡市を本拠としたのは、秀次18歳の時でした。
近江の5郡を任され、43万石の領主となった秀次は、琵琶湖の東岸に城を築きます。
八幡山城です。
原野だった土地を、安土や近隣から人を集め、一から城下町を作りました。
秀次の建設プランは画期的。
今もその道幅は変わらず、碁盤の目になっています。
城下町は、敵が容易に攻め込めないよう、道を複雑に作るのが常識でしたが、近江八幡は住民が生活しやすいように碁盤の目に作られたのです。
縦12筋、横4筋の整然とした街並みで、商人、職人たちは無償で住居を貸与され、楽市楽座の特権も与えられました。
軍事より経済を優先した秀次・・・。
その結果、近江商人が生まれ、町が発展していきます。
秀次は城を守るための堀にも別の機能を持たせます。
八幡堀は東西は琵琶湖に通じており、水路・運河としての役割をし、近江商人たちの物資の運搬に非情に役立ち、近江商人たちが発展していきます。
”琵琶湖を通る船は、八幡堀を通らなければならない”と定めたことで、町はさらに賑わいます。
秀次は、ひたすら領民のためのインフラ整備に努めます。
背割という下水溝も作らせ、生活排水を八幡堀に流れるようにします。
飲料水などの上水は、良質な水が湧く遠くの水源から地中に埋めた竹の管で引き入れました。
当時としては前進なシステムです。
”開町の祖”秀次なのです。
戦が終わったら国がどうあるべきか・・・その理想郷を作ろうとしていたのかもしれません。

その矢先に秀頼が生まれました。
頑張れば頑張るほど、秀吉にとって疎まれる秀次・・・。
1595年7月3日、秀次の住まいだった聚楽第に、突然石田三成ら3人の奉行がやってきます。
秀次に謀反の疑いがあり、取り調べに来たというのです。

秀次の噂・・・
鹿狩りに名を借りて山に入り、反秀吉一派と謀反のための話し合いを持った。
戦に備え、大将用の武具を用意していた。
身に覚えのない秀次は、誓詞を認めます。
”神仏に誓って自分は無実である
 謀反の疑いは、根も葉もないこと。”
取り調べから2日後・・・
伏見城にいた秀吉は、直接話がしたいと、秀次に登城を命じます。
秀次は、無実を訴えようと伏見城に登城・・・!!
そこで思わぬ事態が・・・!!
伏見城についても中に入ることさえ叶わず・・・。
秀吉は、秀次を呼んでおきながら、弁解を聞いてしまうと許してしまう・・・??と、面会しなかったのか・・・??
ここで二人が話し合っていれば、歴史は変わっていたのかもしれません。

秀吉は弁明の機会を与えないばかりか、追い打ちをかけます。
秀吉に拒絶され、高野山へと言われてしまいました。
7月8日、言いつけに従って、紀州の高野山へ・・・!!
7月10日、従者らと共に高野山へ到着。
ところが急転直下、7月15日、福島正則らが秀次の元を訪れ、三成ら五奉行の連書による秀吉の命を届けに来たのです。
「秀次に切腹を命じる!!」
切腹に追い込まれた秀次は、高野山・青巌寺・柳の間で、28年の短い生涯を閉じたのでした。

しかし、近年新しい説が・・・??
秀吉に対する復讐説です。
謀反の疑いをかけられた秀次は伏見城を訪れますが、秀吉に面会を拒まれ高野山行きを命じられますが・・・
自らの意志での可能性もあります。
どの資料にも、「追放」という言葉がありません。
あくまで秀次の意志による出奔・・・??
当時の高野山は、入ってしまえば俗世間からの死・・・政治の世界からは引退すると意思表示だったのでは・・・??
謀反の気持ちはない!!とのアピールだったのでは・・・??
運命の7月15日、高野山の秀次のもとに、福島正則がやってきますが・・・
その手紙の一人の名前が間違っており、もう一人は伏見にいなかったので署名できない者も・・・。
手紙の信憑性に欠けるのです。
事件当時の資料によると、秀次が切腹する3日前に書かれた文書には・・・
”秀次を高野山に住まわす”=禁固刑と、書かれています。
勝手に高野山に行ってしまった秀次を、秀吉は禁固刑にしたのでは・・・??
秀吉の命令は切腹ではなかった・・・??

また、切腹の場所は・・・青巌寺は、秀吉が生母・大政所のために創建した菩提寺。。。
秀吉にとって特別な場所でした。
ここで秀次が切腹・・・秀吉が母の菩提寺を血で汚す命令をしたのか・・・??
ではどうして秀次は切腹したのでしょうか??
秀次は早く許してほしいが、いつまで・・・??
自分の無実を証明するためには切腹しかない・・・??
秀次は無実を訴えるために切腹した??

真言宗の高僧・木喰応其の書によると・・・
「関白殿、十五日の四つ時に切腹
 無実だからこのようなことになった」
と書かれています。

さらに秀次の切腹にはもっと深い意味が・・・??
積年の秀吉に対する感情の爆発・・・??
幼いころから秀吉の重圧、ストレスの中で生きてきていました。
それが最終的に命を懸けた切腹を選ばせた理由なのでは・・・??

幼い秀頼の後見になれる自分が死ねば、秀頼は困るのでは・・・??
そんな反抗・・・復讐があったのかもしれません。

豊臣政権の不信感につながりかねないこの事件・・・
そこで秀吉はその懸念を拭い去るために・・・秀次は大悪人だったとすることにします。
高野山に葬られていた秀次を掘り起こし、謀反人として京の三条河原でさらし首に・・・!!
””院の御所 手向けのための かりなれば 
            これをせっしゃう かんぱくといふ”
という落首が・・・!!
正親町上皇の喪中にもかかわらず、関白は狩りをして殺生を行った・・・
その関白はもちろん秀次のこと。
秀吉の思惑通り、さらし首になった秀次は悪人のイメージが・・・!!
「摂政関白」となったのです。
そして切腹から半年後の8月2日、前代未聞の事態が・・・
聚楽第で生活していた秀次の妻子たちが市中引き回しの上、三条河原に集められました。
その数三十数人・・・
正室・一の台をはじめ・・・年齢も様々・・・少女から乳飲み子まで・・・
秀次の首を拝ませると、次々と殺していきました。

あまりの無慈悲な光景に、見物人は皆涙し、役人たちも目頭を押さえたとか・・・
遺体は無造作に穴にほうり込まれました。
穴を埋めるとそこには塚が築かれ、秀次の首を納めた石櫃が置かれました。
都の人は、やがてそこを「摂政塚」と呼ぶようになるのです。

どうして罪のない妻子まで・・・??
秀次の切腹は、豊臣政権にとって想定外の出来事でした。
これをそのままにしておくと、無実の訴えを豊臣政権が認めたことになってしまう・・・。
秀次の無実を信じる者たちが生き残っていると、復讐の大義名分ができてしまう・・・。
秀吉の死後、秀頼が対象になってしまう・・・。
また、聚楽第を破壊、堀を埋め、高く積み上げられた石垣を壊し・・・徹底的に壊したので、現在聚楽第の遺構は残っていません。

秀次に近い人々や物が消え去った・・・やっと秀次事件が終わったのです。
その3年後、秀吉は62歳でその生涯を閉じました。
秀頼は僅か6歳でした。
その後、徳川家康が台頭し、政権トップの不在が関ケ原の戦いを招きました。
もし、秀次が生きていれば・・・家康は天下をとれたのでしょうか?
豊臣家滅亡のカウントダウンは、秀次の自害から始まっていたのかもしれません。




↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

関白秀次の切腹

新品価格
¥1,080から
(2017/6/5 13:33時点)

落日の豊臣政権: 秀吉の憂鬱、不穏な京都 (歴史文化ライブラリー)

新品価格
¥1,836から
(2017/6/5 13:34時点)

落日の豊臣政権: 秀吉の憂鬱、不穏な京都 (歴史文化ライブラリー)

新品価格
¥1,836から
(2016/9/8 14:10時点)



関白・秀次の死の後、秀吉は伏見に政治の拠点を移す。
大名たちも伏見に移り、心機一転を図ったが、
それはさらなる異変の前兆でもあった。



maru













真田信繁は、秀吉の肝いりで大谷吉継の娘・春を性質に迎えました。
これで、大谷吉継とのパイプが繋がったわけで・・・
当時の婚姻とはこんなもの。
武家の場合、家と家を繋ぐものが多かったのです。
お兄ちゃん(信幸)もそうですしね。
でも、この場合、秀吉の肝いりということで、秀吉に忠義を尽くさなければならなくなりました。
なので、秀吉側もお世話をするのもお仕事なのです。

maru2












で・・・息子たちは聞きたいことが・・・
母・薫の出自です。
菊亭晴季卿の娘だと聞かされていましたが・・・??
父によると、娘ではなく侍女だったのです・・・!!

そう・・・こんな片田舎に来てくれる公家などいなかったのです。
って、これは、この二人の兄弟にはかなりショック!!
当時は今以上に、母の位がモノを言いました。
きっと菊亭晴季卿の孫!!っていうプライドがあったと思うんです。
母の位が低いと子に出されましたからね・・・。
なので、すごくショックなはずです。

maru3













母・薫に挨拶する春・・・
そんなことは知らずに自分が菊亭晴季卿の娘だと自己紹介する薫・・・
その薫を受けて・・・

「晴季卿は流罪、親類縁者に至るまで、ことごとく罰せられたと聞きました。
 よくぞ御無事で・・・!!」by春

「早く嫁に出されたのが良かった様じゃな。」by薫

これは何のことかというと・・・前に、関白・秀次の妻の父が菊亭晴季卿だという話が出ました。
実は、菊亭晴季卿は、秀吉の関白就任に尽力した男です。
で・・・もっと勢力の拡大を図り・・・秀次に娘を娶らせていたのです。
つまり・・・秀次に嫁いでいた晴季卿の娘も斬首されているのです。
そう思うと・・・公家の女子供まで・・・となると、やっぱり無残かも・・・??
でも・・・侍女も殺されてるからさあ・・・
「早く嫁に出されたのが良かった様じゃな。」by薫
は、当たっているのでしょう。


その頃秀吉は・・・

maru4













老いとは恐ろしい・・・
おねしょをしちゃったようです。
そんなこんなも三成&信繁で処理です。

maru5













お髭が無くなっていることに気付く信繁・・・
先月から付け髭にしたそうです。

ま、もともと薄いんですけどね、秀吉。

「殿下が心配です。
 近頃同じことを何度も言われる。」by信繁

「昔からだ。
 お怒りになると、ご自分を制することが出来なくなる。
 それも今に始まったことではない。
 私はお主よりずっと長く、殿下にお仕えしている。
 変わりようは誰よりもわかっておる。」by三成

しかし・・・三成の顔は冴えない・・・。

「拾が元服するまでは、関白は置かぬと決めた。
 それまでは、お前たち奉行衆が相談の上、政を行え。」by秀吉。

maru7













その頃・・・おねは秀吉の大好きな生煎餅を作っていました。
元気のない秀吉&きりも元気づけてくれるようですよ。

その頃・・・信幸に、昌幸パパが遊郭に行っているのが発覚!!
そこへ大工の吉蔵を探してきりがやってきました。
何を取りに・・・??

maru10













これをガラシャ様に・・・!!

で・・・ついでに薫に会いに来たきり・・・
普請場に昌幸パパがいなかったことを話しちゃいました。

そうそう、こんなところに・・・

maru12













そして・・・昼間から太夫と遊ぶ殿を見たくない・・・昔の殿はどこに行かれた・・・と、嘆く出浦昌相。。。

その頃太閤殿下は家康に・・・。

「わしは政の仕組みを考え直す時が来たと思っておる」と、相談。

三成には拾が元服するまで関白は置かぬ・・・それまではお前たち奉行衆が相談の上、政を行え・・・と言っていたのに・・・

「わしが隠居した後も、拾が元服するまで関白は置かぬつもりだ。
 政は徳川殿を要とした大名たちの合議で進めていって欲しい。」by秀吉。

maru8













???な、三成です!!
言ってたことと違うじゃないの・・・!!??

「かしこまりました。」by家康

「拾のこれからは、徳川殿、そなたにかかっておる!!
 どうか、頼みますぞ!!」by秀吉

何かが違う・・・??


その頃、きりはガラシャの元へ・・・

maru11













吉蔵の作ったクロスをもって・・・。

真田では・・・詰問される昌幸パパ!!

maru13












父上が仕事もせずに、女のところに行っていたのではないのか・・・!?
逃げ出す出浦昌相・・・。

もちろん、普請なんかしてない昌幸パパ・・・伏見城が平城だったことに初めて気が付いた模様。

maru14












やっと立ち上がりますよ!!
難攻不落の城を造るために・・・!!

そして・・・秀吉は・・・家康を呼び出し・・・
またもや徳川を中心とした大名の合議で行ってほしいという。
これで二回目・・・。

自分の意見に満足している秀吉。
同じことを二度も言われてびっくりする家康。
そして・・・苦虫をかみつぶしたような三成・・・。


どうして2回も言われたのか・・・??
急かされたのか・・・??と、不審に思う家康に、はぐらかす三成。。。

殿下が危うい事を、誰にも悟られてはならない・・・!!
殿下から目を離さないように・・・。
吉継にそう命令される信繁。。。
そんな吉継も、体調が思わしくないよう・・・。

伏見城・・・昌幸の作ったジオラマが完成しました。
完ぺきに・・・見事な守り!!
完ぺきな城を造りたくなったと思う昌幸。。。
生き生きと・・・しかし、考え方が変わってきたようです。
そして、子供のできた信幸。。。しかも二人!!
生き方・・・そして世代が変わりつつあるようです。


またもや徳川殿を呼べという秀吉・・・
政は徳川を中心とした合議で・・・と言い出しました。
三成は・・・そのことは既に徳川も了承済みだと秀吉に報告します。

殿下がすでに命じたこと・・・しかし、その前に、三成ら奉行衆で行えと言ったことも・・・!!

頭が真っ白になってしまった秀吉・・・自分の老いをまざまざと見せつけられてしまいました。。。
慰める信繁。。。


「捨が元服するまでは生きていたいんじゃ。。。
 ただ、生きているだけではいかん!!
 捨がわしのようになりたいと思う、そんな父親であらねばならん!!
 死にとうない・・・死にとうない・・・!!」

maru15













何もないところから、何もかも手に入れてきた秀吉・・・やっぱり最後に行きつくところは不老長寿・・・!!
老いには勝てないのか・・・!!

老いてきたと心配する三成に・・・
「あなたたちが何もかも押しつけとるからでにゃあですか!!」byおね
一喝されてしまいました。
そうですね・・・この豊臣子飼いがしっかりしていればねえ・・・
ほんと、秀長・・・秀次・・・次々とな亡くなっちゃって、っていうか、秀長は病気だから仕方ないけど、秀次はどうにかできたんじゃないかと悔やまれます。。。

元気が出るように、拾との接触を増やそうという三成ですが・・・
茶々に拒否られてしまいました。。。

「拾に太閤殿下の置いた姿を見せたくないのです。
 拾にとって、思い出の中の父親は、権威に満ちた天下人でなければならないのです。
 老いさらばえた、惨めな菅田など見せたくありません。」by茶々

「お気持ちはごもっともながら、殿下の御心をお察しくださ・・・。」by信繁

「察したうえで申しておるのです・・・!!」by茶々

ああ・・・厳しいですね・・・
やはり、このお方も高貴な姫なのでしょう。。。そう、織田の誇りを、浅井の誇りを受け継いでいる女なのです。


近い将来・・・この世はどうなっていくのでしょう・・・??
弟に問いかける兄・信幸。。。
豊臣の世は続くのか・・・??

そうして・・・真田兄弟はどうする・・・??

信幸は・・・わからないと言いながらも・・・
「俺は徳川の婿だ。
 もし世が乱れて、その時徳川につくことが真田を利するならば・・・
 俺は迷うことなく徳川につく!!

 源次郎・・・お前はいささか豊臣家に深入りしすぎたようだ。
 お前は真田家のために太閤殿下のおそばにいるのだぞ。
 それを忘れるな・・・!!」by信幸

「かしこまりました。」by信繁

「もう一度尋ねる・・・殿下のお具合はどうだ。。。?」by信幸

「何も変わったところは義ざいません。」by信繁

ああ・・・二人の兄弟の決定的な瞬間です。。。
お互いがお互いに・・・袂を分かってしまった瞬間でした。


文禄5年6月27日。
京、大坂、堺一帯に原因不明の灰が降った・・・
人々は天変地異の前触れではないかと恐れた。
そして・・・

maru16












閏7月13日未明・・・
マグニチュード8ともいわれる大地震が伏見を襲った。

余震の続く中・・・昌幸が真っ先に向かったのは伏見城でした。

この地震によって完成間近の伏見城は天守が倒壊・・・位置から造り直しとなった。


ということで・・・天変地異が・・・自然もわかっているんですね・・・。
政権の終焉を・・・!!


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

清須会議

新品価格
¥400から
(2016/9/8 14:10時点)


<豊臣秀吉と石田三成>「奉行派」の真の実力 (歴史群像デジタルアーカイブス)






関白秀次の切腹

新品価格
¥1,080から
(2016/9/1 15:08時点)



拾の誕生によって、関白秀次は居場所を失う。
追いつめられた秀次は、関白の座を放棄するという前代未聞の行動に出た。

受難・・・誰の受難・・・??もちろん、秀次の受難でしょう。。。

何もかもが嫌になって・・・すべてを放り出してしまった秀次・・・。
きりに説得されるも、どうしても太閤に弁明できない秀次・・・。

その頃、聚楽第では上を下への大騒ぎ!!
って、もちろん、秀次がとんずらしたことは内密に、信繁たち中での大騒ぎ!!
伏見の大谷吉継の耳に入れるため、出発するという信繁。。。


maru1












その頃、昌幸パパと信幸は、太閤に命じられてた城普請!!
弟のお情けで官位をもらったと・・・官位を返上したい信幸ですが・・・。
それよりなんか考えでもあるのか、自分が任された城普請を信幸にさっさと預けてどっか行っちゃいました。
何を想う・・・??信幸パパ!!

大谷吉継の元へやってきた信繁・・・
朝鮮から帰ってきて・・・吉継は調子が悪いという・・・。

「心当たりがある。。。」と、大坂へ行く信繁・・・聚楽第に行く吉継。
どうにもこうにも人騒がせな秀次さんです。

で、どっかに行ったって・・・吉野太夫のところでした。
その頃・・・

maru2













真田の家風には慣れたか??とか、人と話すときは相手の目を見なさい!!みたいな話をしています。
ただ・・・この時代、目を見るのは無礼だったと思うのですが・・・
そんなことは全く気にならない大河です。

その頃大坂城では・・・??
秀次君、見~付けた!!と、信繁に見つけられてしまいました。

maru3













「殿下~そこにいるのはわかっていますよ。」by茶々。
って、この殿下はこちら。

maru4













「関白殿下!!」by大蔵卿局

「聚楽第には戻れぬ!!」と、駄々をこねる秀次。。。

maru5












そして・・・京にある真田屋敷に来てしまった秀次・・・。

なんとここで、母が公家の出であることを言ってしまう信幸。
「菊亭様でございましたよね・・・菊亭晴季卿・・・」by稲
なんと、菊亭様は、秀次の妻の郷らしい・・・
妻の姉・・・??と不思議がる秀次に、
「別の菊亭かと存じます。もうこの話は・・・」by薫

なんと、この大河では、嘘をついていた設定になってましたね。
実際は、よくわからないというのが本当なんです。

そんな一言多かった稲に・・・

maru6












「無礼ではございませんか??」とこうが詰め寄ります。
そして、徳川への文を破り捨ててしまいました。
「真田の内情を伝えるのがあなた様のお役目なら、それを押し止めるのがわたくしの役目・・・!!」byこう
「おこう・・・そなた、旦那様の前の奥方だったそうですね。
 わたくしが知らぬと思ったか・・・!!」by稲
「そうであろうがなかろうが、わたくしは、真田家をお守りするだけにございます!!」byこう

おお!!こう、かっこいいですね。稲もかっこいいです。
この戦国時代、実家に嫁ぎ先の内情を伝えるのは当たり前のことでした。
その点、こうはいとこ同士だったから、そんなことはなくお気楽夫婦でいられたでしょうけど、それはそれで領地拡大なんかにはトンと無縁になってしまうし、なかなか難しいものがあります。
それに、稲は一応家康の養女ですから、こんなふうにこうがずかずかやってくることはできません。
茶々の大蔵卿局的な人に阻まれていたはずです。

表向きは流行り病とした秀次・・・。

maru7













秀次の娘・たかは何もかも知っているかのような賢い娘・・・。
信繁にマリア様を託すのでした。

太閤殿下に呼ばれた信繁・・・どうする??
「お主だけが頼りじゃ・・・」by秀次

maru8











呂宗助左衛門の話で盛り上がり中!!
話は秀次・・・ではなくって、嫁とりの話でした。
大谷吉継の娘・春!!
なんでも、秀吉は信繁を傍に置いておきたいのだという・・・。
どうする・・・??

そして・・・三成にばれていた秀次のとんずら・・・。
これもどうする・・・??

maru11












ついにばれてしまった・・・!!
分不相応の仕事をさせるのは可哀想だというのは北政所。
それでも、豊臣で残っているのは秀次だけ!!という秀吉にそれを自らの口で伝えてほしいと願い出る信繁。

しかし・・・高野山へ逃げてしまいました・・・!!

高野山・・・青厳寺・・・そこにいた秀次。。。

「生まれ変われるなら・・・もう二度と叔父上の甥にはなりたくない・・・」by秀次

maru13












「従五位下であったかな・・・お主の位・・・何やら不服だとか・・・
よもや返上したりはせぬな。
あれは、私が関白として行った数少ない事の一つだ・・・。」by秀次

そう信幸に語る秀次。。。
もう気持ちは決まっているかのような優しい顔をしていました。
もともとこんな優しい性格なんでしょうね。

「高野山には、わしの命令で蟄居したことにしよう。
 謀反の疑いありと・・・一月ほど謹慎させてから、疑いが晴れたことにして連れ戻す。
 すぐに使いを高野山へ出し、あいつにそう伝えよ・・・!!」by秀吉

秀吉も辛そうです。
それを面白がる徳川の人々・・・!!

死者が来る前日・・・大坂へは行かないという秀次。
もう・・・豊臣の家に私の居場所はない・・・
使者は追い返してくれという秀次にできないという信繁。
大きく頷く秀次は何を想う・・・??

謹慎すれば許してくれる・・・そう使者となってきたのは福島正則でした。
しかし・・・

maru12












目をかけていたのに自害したことに、怒り狂う秀吉!!
「人の情けを踏みにじりおって!!」by秀吉

「悪いのはあいつじゃ・・・!!
 わしが怒らせたらどんなに恐ろしいか、孫七郎に見せてやる・・・!!
 秀次は、謀反が発覚してわしの命で腹を切ったことにする。
 首は三条河原に曝せ!!
 それから妻と子供はことごとく殺せ・・・!!
 謀反人の身内じゃ!!当然であろう!!」by秀吉

躊躇する三成・・・

「なんだ、その顔は・・・!!
 お前にできないのなら、わしが直々にやるまでだ!!
 いつものわしと思うな!!」

秀吉の怒りはすさまじかった。
三条河原に曝された秀次の首の前で、その子供、妻、側室、侍女に至るまで30人以上が処刑された。

ちなみに史実は・・・幼い子どもから侍女まで39人、京の三条河原に曝された秀次の首の前で斬り殺され、「畜生塚」と呼ぶ穴に投げ捨てられた。といわれています。
 


ここまでしなければならなかったのか・・・??

家臣たちにも動揺が走ります。

そんな中・・・からくり部屋を発見する信繁。。。
そこにいたのは・・・??

maru16













秀次の娘・たかでした。
どうやったら助けることが出来る・・・??

秀次を想い泣く秀吉・・・
そんな秀吉に、吉継の娘・春との婚儀を進めてくれるように願い出ます。
そして・・・妻にしようと心に決めていた女子がいる・・・と、告白します。
その女子を側室としたいと・・・それが、”たか”でした。

怒るものの・・・結局は許してくれる秀吉・・・
もし、男子が生まれた場合は仏門へ・・・という命とともに。。。

実際に、秀次の娘の一人が、信繁の妻となって子を産みます。
このたかがモデルとなっているのは確かでしょう。
でもそうすると、年齢が・・・??

が・・・このドラマでは・・・呂宗助左衛門に預け、ルソンへ・・・!!

そして秀吉には死の影が・・・!!


秀次の死に関しては、色々な説があって・・・
秀次が本当に殺生関白だったから・・・とか、
耄碌した秀吉によって・・・とか、
秀吉の痴呆によって・・・とか、
秀頼のために・・・とか、
そして自刃・・・とか・・・

色々言われています。

今回は、この自刃を取ったわけですが、秀吉による一族皆殺し・・・
これは本当にひどかったのか・・・??
よく考えてみました。
例えば有名ですが、家康は信長の命令で、長男・信康&築山殿を自刃させています。
血のつながった親子でさえ殺される・・・
これまた信康に非があったのかもしれませんが・・・でも、そんな時代です。

秀次に謀反・・・としてしまえば、一族皆殺しとなるでしょう。
ただ、恐ろしい位に秀吉に親族のいなかったことが、悲劇に拍車をかけていますね。
家康なんかは16人子供がいるので、それこそ信康がいたことすら忘れてしまいそうです。
可哀想ですが・・・。


なので、やっぱり親族が少なかったこと・・・
秀頼ひとりにすべてがかかってしまったことが豊臣の悲劇だと思うんです。
そして・・・その悲劇は、秀頼が大事な大事な秀吉によって・・・目が摘まれていってしまった・・・。
異様な悲劇に仕上がってしまいます。



↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

豊臣家の人々 (中公文庫)

新品価格
¥946から
(2016/9/1 15:09時点)

敗者烈伝

新品価格
¥1,728から
(2016/9/1 15:09時点)

このページのトップヘ