日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:豊臣秀頼

今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

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表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
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水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

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郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
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有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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壬申の乱と関ケ原の戦い なぜ同じ場所で戦われたのか

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京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

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水郷の町として知られる福岡県柳川市・・・
江戸時代、柳川藩10万9000石の城下町として栄えました。
城跡には、明治時代に旧藩主が立てた洋館や、江戸時代の壮麗な大名庭園があります。
ここの旅館を経営しているのは・・・柳川藩主・立花家の子孫です。
戦国大名に連なる家が、今も城内の屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい・・・。

柳川藩の礎を築いたのは、立花宗茂・・・当今無双の勇士と秀吉に称えられ、西国一の猛将と言われていました。
宗茂の戦歴はすさまじく・・・秀吉の天下統一戦争にことごとく参陣、江戸時代には大坂の陣、島原の乱で活躍し、その武勇を轟かせました。
そんな宗茂の生涯で最大の試練となったのは、関ケ原の戦いでした。
東西両軍の決戦は、わずか半日で終了・・・
宗茂のいる西軍の大敗北に終わりました。
決戦に参加することもできず、宗茂は敗者となりました。
しかし・・・宗茂には秘策が・・・??

福岡県柳川市・・・その中心に水堀に囲まれた広大な敷地に柳川城址があります。
資料館には・・・関ケ原合戦時の立花宗茂愛用の甲冑が残されていました。
その甲冑は、戦いの神・摩利支天を模し、鉄の地金が厚く、実践向きです。
体格は非常に大きく・・・身長175cmから180cmの間ではないかと言われています。
天下無双と呼ばれた武将・・・立花宗茂・・・その武勇は、二人の父親から譲り受けたものでした。
宗茂は、1567年、九州筑前の武将・高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂が紹運から譲り受けた刀・・・鎌倉時代の名工長光の剣・・・宗茂が15歳で養子に出されるとき、敵味方に分かれたらこの剣で父を討ち取るようにと言われたという・・・
紹運からは、武将としての覚悟をたたき込まれました。
もう一人の父・養父・立花道雪。
道雪は勇猛果敢で知られているが、彼が与えた刀は、道雪が雷神を一刀両断にしたという名刀・雷切丸。
切っ先が変色しているのは、雷神を切り裂いた証だといいます。
道雪の猛々しさをよく伝えています。
二振りの刀を常に戦場に持ち、武勇に長けた宗茂・・・
道雪から家督を譲り受け立花家を継ぎます。
主は、紹運や道雪が仕えた大友宗麟。
九州北部・6か国を治める大名でした。
海外の文化をいち早く取り入れたキリシタン大名としても知られています。

九州は動乱の時期を迎えていました。
島津が急速に版図を拡大し、大友に迫ってきていました。
同じころ、中央では豊臣秀吉が台頭し、瞬く間に畿内や中国地方を制圧し、四国まで勢力圏を広げていました。
島津の圧迫に・・・1586年4月、大友宗麟、秀吉に救援を求めます。
大友が服属したことで、宗茂も秀吉の配下となりました。
5万の大軍勢を率いて大友領に侵攻した島津軍は、九州の要・筑前に狙いを定めました。
この時、宗茂に任されたのは、北の玄関口・博多湾を押さえる立花山城。
実父・紹運はその先の要衝・岩屋城で南から迫る島津の大軍勢を待ち構えました。
島津軍の猛攻に、紹運はわずか70余りの兵と共に徹底抗戦!!
しかし・・・兵力の差は大きく、7月27日岩屋城は陥落、紹運は自刃し、籠城兵はことごとく討死という非業の死を遂げました。
島津の次の狙いは立花山城・・・大小7つの峰に砦が築かれた山城です。
若干20歳の宗茂は、兵1700と共に籠城しました。
8月、立花山城を囲んだ島津軍は、宗茂に降伏を呼びかけました。
宗茂はこう答えます。
「関白秀吉公のご命令を守るのみ!!
 関白殿を捨ておき、島津に降伏するなど武士のすることではない!!
 実父・紹運はこの義を固く守り、見事に切腹して果てたというのに、自分だけ生き長らえて汚名を天下に伝えるなど、思いもよらぬことである。」と。
宗茂も戦死した父と同じく徹底抗戦を宣言したのです。

大軍勢の島津にどう立ち向かうべきか・・・!!

宗茂には勝算がありました。
籠城から1か月後、総勢20万に及ぶ秀吉の第一陣が九州に迫りました。
秀吉の九州征伐です。
この時を宗茂は待っていたのです。
秀吉軍の到来を聞いた島津軍は、8月25日撤退を開始!!
宗茂はこの機を逃しませんでした。
兵力わずか1500で場外へ出陣!!
撤退するしまずの大軍勢を果敢に追撃!!
宗茂の逆襲は、島津軍には思いもよらないことで、散々に蹴散らされたと言われています。
この時、父の守っていた岩屋城の奪還にも成功しています。
後の秀吉は、宗茂を「真に九州の一物」と、称え、大友の家臣から10万石の大名に取り立てました。
領地は築後の柳川・・・ここに、戦国大名・立花宗茂が誕生したのです。

しかし・・・1588年8月18日、豊臣秀吉死去。
豊臣政権を受け継いだのは、政務を司る五大老と実務を行う五奉行でした。
やがて五大老の筆頭・徳川家康と五奉行の筆頭石田三成の対立があらわに・・・
家康につくのか??三成につくのか・・・??

宗茂に宛てた三成の書状が残っています。
朝鮮出兵での宗茂の功績をたたえたものです。
三成は、宗茂を頼りにしていました。
1600年、家康は謀反の疑いありと五大老のひとり・上杉景勝討伐に動きます。
3万の軍勢を率いて会津に向かいました。
その隙をつき、石田三成は同じ五大老の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、反家康の兵を挙げます。
宗茂は迷うことなく三成に味方しました。
「戦いの勝敗如何を問わず。
 ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ!!」
宗茂は三成に求められた兵を越える4000の兵を率いて8月に上洛。
8月22日、宗茂達西軍は、美濃大垣に進出。
上杉討伐から取って返してくる東軍の大軍勢を待ち受けるためでした。
ところが西軍の大津城主・京極高次の裏切りが発覚!!
宗茂は三成の要請に従い、大津城攻略に矛先を変えることとなります。
琵琶湖の南に位置し、古くから交通の要所として栄えた大津・・・平地に築かれた大津城は、琵琶湖に突き出た湖上の城・・・。
攻め手の攻撃を阻む三十の堀に囲まれた守りの固い要塞でした。
9月7日、宗茂たちの大津城攻めが始まりました。
これに対し、籠城する京極勢は、夜討ちで対抗しようとしました。
しかし・・・
「立花は西国第一の猛将・・・
 世に知られた武勇の達人
 夜討ちの油断をするわけがない」
京極勢は、宗茂を恐れ、守りに徹したのです。

大津城をいかに攻略するか・・・
宗茂たちが注目したのは城の背後の長等山でした。
日本史上大筒を使用した攻城戦は、大津城の戦いが初めてです。
西軍は、長等山から大津城を攻撃!! 
前代未聞の攻撃に、城内は阿鼻叫喚となりました。
9月15日、大津城は陥落・・・京極高次は降伏し、城を明け渡しました。
宗茂達西軍の完勝でした。
同じ日・・・美濃では東西両軍が関ケ原へ転進。
東軍7万5000、西軍8万が激突!!
天下分け目の合戦・・・関ケ原の戦いの始まりでした。
緒戦は一進一退の攻防が続きます。

しかし・・・西軍に組しながら戦いを傍観していた小早川軍・1万5000が突然西軍に襲い掛かりました。
小早川秀秋の裏切りでした。
結果、西軍は総崩れ・・・戦いはわずか半日で東軍の勝利となりました。
大津城にいた宗茂は、まだこの事実を知りませんでした。

1600年9月15日、関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは、戦死する者、敗走する者が後を絶ちませんでした。
宗茂の一代記「立斎旧聞記」には、その後の宗茂の動向が記されています。
翌16日、大津城にいた宗茂に西軍敗北の報せが届きます。
東軍が石田三成の居城・佐和山城を攻めているという情報が入ります。

関ケ原のこと・・・事実であるに違いない・・・
ここは覚悟を決めなければならない・・・

17日早朝、宗茂は大津城を引き払い西へと向かいます。
当時、大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼と西軍総大将・毛利輝元が対陣していました。
西軍が破れた今、どう行動すべきか・・・??
難攻不落の大坂城に籠城して迎え討つ・・・??
大坂城は北と東に川に守られ、南を低湿地が守る天然の要害・・・
秀吉はここに三重の堀を構え、当時最大の城を築きました。

2003年、現在の追手門近くで巨大な堀跡が発見されました。
幅22m、深さ6mの障子堀です。
障子堀は、秀吉を悩ませた関東の雄・北条氏の築城術です。
侵入してきた敵は、細かく仕切られた堀に手間取り、矢や鉄砲の攻撃にさらされます。
堀に落ちた者には逆茂木が待っていました。
大阪城の主要な出入り口3カ所にこのような堀が作られていたとされています。
秀吉が無くなる寸前に作っていました。
秀頼のことが心配で、城をより強固なものにするために掘られたのです。



大坂城を守る??それとも九州へ帰還??
関ケ原の戦いで毛利は動かず、小早川が裏切ったため、西軍は敗北した。
いくら難攻不落の大坂城とはいえ・・・心が一つでなければ籠城戦は出来ない・・・。
九州に帰還しても、宗茂には勝機がありました。
同じ西軍で、武勇の誉れ高い薩摩の島津義弘と手を組むという方法です。
前年、宗茂と義弘は起請文を交わしていました。

「この度の談合について、心の底から残らず互いに語り合ったことは、一切他言しないこと」

島津家は、そもそも立花宗茂にとっては実父・高橋紹運の敵でした。
しかし、秀吉の九州平定後は、親密な間柄になってきていました。

大坂城に籠城する??
それとも、九州に帰還する・・・??

1600年9月17日、宗茂は大坂城に向かいます。
籠城戦に打って出ることを選択したのです。
早速総大将・毛利輝元のもとに使者を派遣。
しかし、輝元は決断できませんでした。

「これから評議を尽くしてご返答申し上げる」

宗茂はあきれ返りました。

「今から評議するなどとは、ことのほか浅き知恵である
 総大将がそうであれば、とても籠城などできまい」

宗茂は軍勢を連れて九州へ帰還することに・・・!!
これにより、大坂城での決戦は幻に終わりました。

10月、急ぎ領国・柳川に戻った宗茂・・・しかし、新たな苦難に直面・・・
東軍の軍勢・4万に、柳川を包囲されたのです。
東軍の武将・加藤清正が降伏を勧めます。

「兵たちの命は、城主が切腹して助けるというのが武将の大法である」

宗茂は自らの命で城兵を守ろうとしたのです。
しかし、清正は宗茂を生かし、全ての兵を助けることを約束。
宗茂はこれに応じ、城を明け渡しました。

1601年3月、立花家改易。

宗茂は一介の牢人となりました。
しかし、宗茂は諦めません。
自ら上洛し、家康との接触を図り、旧領柳川の復活を目指したのです。
何が宗茂を突き動かしたのか・・・??

宗茂は、養子として立花家(戸次家)に入ってきたのでアウェーでした。
なので、家臣に対して心配りができる武将になっていたのです。
家臣の大半は、その後清正に召し抱えられましたが、二十数人は牢人の宗茂に付き従いました。
この家臣たちを路頭に迷わせないためにも、旧領の回復が必要だったのです。
そんな宗茂を乞うっておかなかったのが家康でした。
敵でありながら、宗茂の武勇と人徳を認めていたのです。

1606年、家康の計らいによって陸奥棚倉・3万石を拝領します。
宗茂は大名への復帰を果たしたのです。
その後、大坂の陣で活躍、1617年将軍・秀忠の御咄衆となります。
徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていきます。

1620年11月、宗茂、旧領・柳川に復帰。
関ケ原の戦いから20年の歳月が経っていました。
関ケ原で西軍に属して改易された大名は88家。
立花宗茂だけは、旧領に戻れたのです。

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は、1643年11月25日、76歳の生涯を閉じました。
江戸から明治、そして現代・・・激動の時代を乗り越え、立花家は今も柳川城の中に生き続けています。

立花家に代々受け継がれてきた宗茂の言葉があります。

「領民の幸せこそ 第一の義とせよ」

その思いは、今も受け継がれています。

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戦国時代、戦いに明け暮れ野望と裏切りが渦巻くイメージですが、天下への野心よりも、家族や親友との絆を大事にし、生き抜いた武将がいました。
前田利家です。
利家とまつは、戦国一のおしどり夫婦と言われ、加賀100万石の礎を築いていきます。
しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

戦国指折りの勇敢さで知られる前田利家・・・
しかし、気が短く、我を忘れる欠点がありました。
怒りのあまり、主人の前で人を切り殺してしまうことも・・・!!
しくじりばかりだった若き利家・・・しかし、周りの人望を集め、大名として加賀100万石の礎を築いていきます。

そんな利家を支えた3人は・・・??
最強の上司・織田信長、風雲児だった信長は、型破りな利家を可愛がりました。
そして一国一城の主となってからは、信長に倣って豊かな国づくりを推し進めていきます。

最愛の妻・まつ、敵の大軍を目の前にしてしり込みする利家を叱ります。
時には夫の代わりに自ら交渉・・・その内助の功とは・・・??

そして親友・豊臣秀吉。
秀吉は、貧しい時代から苦楽を共にした仲間で、家族ぐるみの付き合いでした。
利家は、そんな親友と天下を争うのではなく、あえて家臣の道を選びました。
秀吉も、利家こそが最も大切な家臣と認めていました。
豊臣政権のナンバー2として、加賀100万石の豊かさと華やかな文化の礎を築いた前田利家。
しかし、秀吉の死後、巨大な敵が現れます。

織田信長に仕えた十代の頃、利家は手の付けられない乱暴者でした。
派手な身なりで町を練り歩き、喧嘩となれば喜び勇んで駆けつけます。
利家たちは傾奇者と呼ばれ、周りからはみ出し者として白い目で見られていました。
そんな利家が、天下統一を目指す信長の家臣として活躍、慰霊の大出世を果たしていきます。

1537年、前田利家は尾張国・荒子村の領主の四男として生まれます。
幼名は犬千代。
1551年、14歳の頃、尾張の大名・織田信長に仕えることになります。
暴れ者の利家にとって、戦は格好の場でした。
初めて戦場に出たとき・・・初心者は先輩武者がつきっきりで指導することになっていました。
しかし、利家は先輩の指導を無視し、真っ先に敵陣に斬り込んで首をとってしまいました。
これに驚いた信長は、「肝に毛が生えているようじゃ」と言ったといいます。
以来、利家は戦に出るたびに、武勇伝を作っていきました。
身長182センチで筋骨隆々の利家は、それまでの倍の6メートルを超える槍を自在に操り、”槍の又左”と恐れられました。
そんな利家を信長は、幼名の犬千代から犬、犬!!と、可愛がったといいます。
信長は、部下をよく見ていました。
利家は自分と同じやんちゃなところのあるタイプを見て、面白い男だと思ったのです。
そして利家には「信長様だから、俺を使ってくれる」という強い信念がありました。

1558年、21歳の時に結婚。
相手は、9歳年下のまつでした。
利家とまつは幼なじみで、幼くして父を亡くしたまつは、4歳の頃前田家へ。
乱暴者の利家でしたが、いつもまつのことを気にかけていました。
利発でお転婆なまつと利家は相思相愛だったといいます。
結婚の翌年には長女が生まれ・・・何より利家は家族を大切にしました。

そんな幸せからどん底に落ちたきっかけは、髪をかく道具”笄(こうがい)”でした。
ある時、利家の笄を、信長に仕える茶坊主が盗んだのです。
利家は信長に処分を願い出ます。
しかし、信長は些細なことから茶坊主を処分せず、それどころか仲間からは・・・

「たかが髪かき道具一つ、傾奇者のくせに情けない!!」

と噂され、遂には盗んだ茶坊主にまで馬鹿にされてしまいました。

「なぜ、盗まれた自分が笑い者にされねばならぬのか??理不尽な!!」by利家

遂に利家は、信長の前で茶坊主を斬ってしまいました。

余りの乱暴ぶりに怒った信長は、
「犬を討て!!」
死罪にしようとします。
その後、家臣の懸命の嘆願で死罪は免れたものの、利家は織田家から追放されてしまいました。
浪人となった利家は、家族を残し、一人放浪生活・・・
食べ物を得るのも一苦労・・・この頃の生活が、利家の金銭感覚に大きな影響を与えました。

「ともかく金を持てば、人も世も恐ろしくは思わないものだ。
 金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」by利家

なんとか信長の家臣に復帰したい信長・・・しかし、おいそれと許してくれるはずもない・・・
利家は驚くべき行動に出ます。
勝手に戦場に出て、織田軍として戦ったのです。
ここで利家は、敵方の強者の首をいくつもとり、大手柄をあげます。
当時、名誉挽回の近道は、戦で目覚ましい働きをすることでした。
利家は、体を張って信長の信頼を得、家臣に復帰したのです。

この頃利家は、生涯の親友と出会います。
織田家の家臣となっていた後の豊臣秀吉です。
年齢も近い二人はすぐに意気投合!!
秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家とまつだったともいわれています。

1569年、32歳の時、前田家の当主だった兄が隠居、兄が次の当主に義理の息子を指名しましたが、それに信長が”待った”をかけます。
「利家という実弟がおるであろう。
 利家に譲るがよい」by信長
この一言で、当主は利家に決まり、祝の席が設けられました。
この時、利家の武勇を褒めていた客人たちが、そんな利家を蔑ろにするとは・・・と、兄の悪口を言いはじめます。
すると利家は、強い口調で言いました。
「兄を謗れることで称えてくれる心遣いはありがたいが、そのようなお世辞は無用にしていただきたい。」by利家
褒めたつもりの客人たちは、利家に唖然としたといいます。

この頃信長は、破竹の勢いで領地を拡大していました。
天下統一への道をひた走っていました。
1575年、38歳の時、長篠の戦い!!
最強の武田の騎馬隊を封じるには、膨大な鉄砲を用いて絶え間なく攻撃を仕掛けるしかない!!
この戦で利家は、戦術の要・鉄砲隊の指揮隊長を任されました。
信長の思惑は的中し、利家たちは大手柄を立て、戦を勝利に導きました。

1581年、利家44歳の時、これらの功績から能登国を与えられます。
はみ出し者が、信長に取り立てられ、一国一城の主にのし上がったのです。

1582年、45歳の時に利家に大きな転機が・・・主君・信長が、家臣・明智光秀の謀反に斃れたのです。
本能寺の変です。
仇である光秀を討ったのは、親友の秀吉でした。
秀吉はこの功績で、信長の後継者争いに躍り出ます。
裏切りが当たり前の戦場で、器用に立ち回る才能は利家にはありませんでした。
利家は秀吉から絶大な信頼を寄せられ、政権のナンバー2になるのです。
どうして右腕になり得たのでしょうか・・・??
信長の死後、後継者を決める清須会議が開かれます。
幼い跡継ぎを立て実質的な当主の座を狙う秀吉VSあくまでも織田家を守ろうとする柴田勝家・・・
両者は激しく対立します。
その間で板挟みになる利家・・・
勝家は利家の上司であり、かつて信長を怒らせてしまった時に死罪から救ってくれた大恩人、秀吉は親友・・・家族ぐるみの付き合いでした。
11人の子供を授かった利家とまつは、四女・豪を養女に出すほどでした。
恩義をとるか、友情をとるか・・・苦渋の決断でした。

1538年、46歳の時、賤ケ岳の戦い!!
悩んだ末に利家は、恩義をとり勝家側として出陣します。
ところが戦闘が開始すると、利家は戦場から撤退するのです。
自分の城に引きこもってしまいました。
勝家に味方するも、秀吉を攻めることができなかったのです。
利家の撤退により、一気に秀吉軍の優勢に傾きます。
結果、勝家は敗走!!

この時、秀吉は勝家が敗走する途中、利家の城に立ち寄っています。
利家にその本心を聞こうとしたのです。
しかし、利家は部屋に籠って出て来ません。
秀吉に会わせる顔がない・・・??
このままでは本当の敵となってしまう??
危機感を抱いたまつは、秀吉にこう言います。
「このたびのご戦勝、おめでとうございます。」秀吉の価値をたたえることで、利家が敵対したのは本意ではないと伝えたのです。
すると秀吉は、
「豪姫も立派に大きくなっておるぞ。」と、まつの想いに気付き、娘の話に花を咲かせます。
最後に秀吉は言いました。
「勝家を討つため、利家殿のお力添えをといただきたい。」by秀吉
まつはこの申し出を、利家に相談することなく承諾します。
そして、利家に勝家を討ちに出るように促したのです。

まつが、利家に対し、これからは秀吉と一緒に・・・むしろ、秀吉の下で働いた方がいいという・・・
女性の目でそれまでの秀吉の信長から抜擢された動きを見ていて、信念を持っていたのでしょう。
戦は、秀吉軍の圧勝に終わります。

1583年、46歳の時、二国(加賀・能登)を与えられ、居城を金沢城に移します。
最大のライバルを倒した秀吉は、残る敵対勢力と戦い、天下人への道を歩んでいきます。
秀吉に味方する利家にも戦いの火の粉は降り注ぎます。
秀吉の敵・かつての同僚・佐々成政が攻めてきたのです。
成政は利家とは何かにつけて反目していました。そう・・・笄事件の時も・・・!!
成政は、末森城を攻撃してきました。
積年の恨みを晴らすとき!! かと思いきや、利家が向かったのは机でした。
兵の数を計算します。
浪人時代にお金で苦労した利家は、大軍を動かすのにいくらかかるかを計算するのが常でした。
その間にも、成政の勢いで、末森城は落城寸前・・・!!
ところが、成政より兵の数が少ない利家は、ぐずぐずと計算するばかり・・・
遂にまつはこう叫びます。
「この度は、この金銀をお持ちになって槍をお突きになるのが良いでしょう。」byまつ
日頃、兵を蓄えるより蓄財に熱心だった利家・・・そんなに金銀が大事なら、金銀に槍を突かせたらよいでしょう。と、強烈な皮肉で尻を叩いたのです。
この檄で目を覚ました利家は、数で勝る成政軍をなんとか撃退し、城を守ったのです。
やがて、秀吉軍の火星に寄って、成政は降伏!!
夫の影日向となって働いたまつの愛情を、利家は裏切ることはありませんでした。
1585年、48歳の時、越中国を与えられ、三国を領有することとなった利家。
加賀100万石の礎となっていきます。
1590年、53歳の時、秀吉は関東を支配下に・・・天下統一!!
天下人となった秀吉は、益々利家を頼ります。
利家が任されたのは、主に大名間の調整役です。
利家は、裏表のない人物として、暑い信頼を寄せられていました。
秀吉配下の諸大名で、こんな会話がなされたといいます。

「位も石高も、利家は家康より低いけれども、5倍も人望があり、城中でも、道中でも、人々に敬われている。」

己の信じる道を進んできた利家の真っ直ぐな生き様が、秀吉政権の右腕として欠かせない存在となっていたのです。

現在でも名勝・兼六園、加賀友禅、輪島塗・・・見事な工芸品・・・北陸には加賀100万石の文化が息づいています。
その礎を築いた利家は、領国経営で卓越した手腕を発揮します。
加賀100万石の国づくりの秘密とは・・・??
1585年、48歳の時、利家は北陸3か国の強大な領地を得ました。
金沢に入った利家が初めに行ったのは・・・
「まずは、検地をおこなう
 そして、正確な石高を見定める」by利家
性格な検地こそ、領国経営の基礎。
これは織田信長を真似たものです。
前田利家は、経済の重要性をかなり認識していました。
前を走っていた、信長や秀吉を真似ています。
そして細かい検地をおこないました。
それを支えたのは、利家の得意・そろばんでした。
普段から携帯用のそろばんを持ち、米やお金の収支を計算していました。
そして、このそろばんを使う部署を作ります。
御算用場と呼ばれる経理専門の部署です。
最盛期には150人もの武士が、この加賀の経理を取り仕切りました。
年貢や支出を計算し、合理的な領地経営、無駄のない経営を行いました。

利家が経済に関心を持つようになったのは、浪人時代と言われています。
信長から追放され、酒を煽っては喧嘩の日々・・・ある時、熱田神宮の神職の基に身を寄せました。
神職に書庫に閉じ込められた利家は、こう言われます。
「強いばかりが人の道ではない。
 中国や日本の古い書物を読みなさい。」
このことがきっかけで本を読むようになり、国づくりに大いに役立てられました。
利家は後に勉強の大切さを述べています。

「武道ばかりを重んじてはいけない。
 文武二道の侍は まれだか よくわきまえて良いものを探し出しなさい。」by利家

本の重要性を終生持ち続けました。

信長に大きく影響を受けた利家の国づくり・・・しかし、信長を見習わなかったこともあります。
それは、家臣を監視する目付を置かなかったことです。
当時の大名家では、目付を置くことが当たり前でしたが、利家は家臣たちがお互いの監視をすれば疑心暗鬼になると、目付を置かなかったのです。
信長と同じく、家臣たちに強い忠誠心を望んだ利家・・・しかし、その方法は、信長とは真逆で、家臣たちに温かく接することでした。

利家は、自ら家臣たちに手紙の作法を教えます。

「どんな書状でも、筆先で相手を満足させることが大事。」

豪快な見た目からは感じることのできない細やかな心遣いで周囲からの人望を集めていきました。
こうした利家の下で、豊かな文化を花咲かせていったのです。

どうして金沢で和菓子作りが盛んになったのでしょうか?
それは、信長の影響・・・茶の湯です。
茶の湯を嗜んだ利家・・・和菓子作りは茶の湯には欠かせません。

1598年8月、利家61歳の時・・・。
天下人・豊臣秀吉が死去・・・
この時、次の天下を狙える人は二人いました。
徳川家康と前田利家です。
しかし、利家が自ら天下をとろうとすることはありませんでした。
どうして、天下のナンバー2を貫いたのでしょう。
秀吉は死ぬ間際、利家や家康を始め諸大名を枕元に呼び、遺言を託しました。

「どうか、くれぐれも息子・秀頼のことを頼む。
 私が死んだ後は、家康が政治を取り仕切り、利家が秀頼の世話役となって成人するまで面倒を見てやってほしい。」by秀吉

秀吉に後を託されたものの、利家も病に伏せることが多くなってきていました。
1599年元日、京都・伏見城に病をおして赴く利家。
そこで、7歳の秀頼と共に諸大名の新年のあいさつを受けます。
秀頼の世話役という役割を忠実に努めようとしました。
そして、秀頼を大坂城に移すという遺言を実行しようとします。
しかし、それに反対する人物が・・・徳川家康です。
諸大名の中でも家康の官位と石高は群を抜いていました。
天下は実力のある者の持ち回り・・・次の天下人を狙っていました。
秀頼の権威が高くなることを恐れた家康は、

「そう急ぐことでもない
 4月か5月でいいではないか」by家康

しかし、利家はこの意見をはねつけます。

「もう、ご遺言を忘れたのか??」by利家

正月10日、遺言通り、秀頼を大坂城に移す利家。
そこでも、秀吉の意志を忠実に守ろうとしました。
それを無視して、天下人への道を着々と進んでいく家康。
秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の婚姻を行い、徳川の勢力拡大を図ります。
家康の行動を受け、豊臣派と徳川派に分かれて対立します。
一触即発!!
家康はいずれ自分に反対する勢力と戦いをも辞さない思いはあったようです。
天下への野望をあらわにする家康に対して、直談判を決意する利家!!
単身、家康の屋敷に乗り込もうとします。
息子が一緒に行くと進言すると・・・

「家康が我らを斬らぬということは、百にひとつもあろうはずはなく、斬るのが必定
 そんな時、そなたは兵を据え置き、出陣して、弔い合戦を行い、勝利を得ようと思わんのか。」

利家は己の命と引き換えに、家康を攻めて豊臣家を守ろうとしたのです。
しかし、言えた巣の態度は・・・利家を盛大にもてなし、ごもっともと受け入れたのです。
当てが外れた利家ですが、家康の口約束を得ただけで帰ることになってしまいます。
その2週間後・・・利家の病状が悪化・・・
利家を慕う大名が大勢見舞いに来る中、意外な人物がやってきます。
徳川家康でした。
昔から一緒に、信長、秀吉の下で苦楽を共にした仲間のひとりとして病気見舞いに出かけたのです。
豊臣政権を守るために、一生努力してきた前田利家に敬意を表すという意識がありました。
家康の訪問から1か月後・・・
1599年閏3月3日、前田利家死去・・・享年62歳でした。

利家の最期を悟ったまつはこう語りかけました。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。
 ですから、この経帷子をお召しになって下さい。」
しかし、利家は断ります。
「これまでに、多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。
 もしも地獄に行ったら、閻魔を相手にひと戦してくれよう。
 かえすがえすも秀頼さまのことをお頼み申す。」by利家

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戦国の世を生き抜き、齢62にして天下人となった徳川家康。
それからおよそ10年・・・天下統一の総仕上げとする最後の戦いに挑みます。
大坂の陣です。
難攻不落の大坂城を2度にわたる合戦で攻略・・・豊臣家を滅亡へと追い込むのです。
しかし・・・炎に包まれたその城には、家康最愛の孫・千姫がいました。
その生涯は悲劇に満ちていました。

徳川家康の孫娘・千姫は1597年4月11日に京都伏見で生まれます。
父・秀忠、母はお江です。
誕生の地・御香宮神社には、貴重な品が・・・贅を尽くした神輿が残っています。
これは、千姫の初節句に寄進したものです。
その重さは2トン・・・江戸時代から昭和35年まで、祭りで実際に担がれ、人々に親しまれてきました。
そこに込めた父・秀忠の思い通り、健やかに育った千姫・・・。
しかし、千姫の行く先には数々の悲劇が待ち受けていました。

①政略結婚
千姫が生まれた頃、天下を治めていたのは豊臣秀吉でした。
祖父・家康は五大老のひとりとして豊臣政権を支える一大名にすぎませんでした。
そんなある日・・・病に伏していた秀吉に、家康はこう言われます。

「徳川殿の孫娘を秀頼の正室に迎えたい。」

秀吉は、秀頼との婚姻を持ちかけたのです。
そこにはある思惑がありました。
秀吉は、秀頼と千姫を結婚させることで、自分が死んだ後も家康を豊臣家に従わせようとしたのです。

二人の婚礼を待たずに・・・
1598年8月18日、秀吉死去。。。
その後を狙って天下取りに動いたのが徳川家康でした。
豊臣家に忠義を尽くす石田三成と激しく対立!!
そして・・・秀吉の死から2年後・・・関ケ原の戦いが起こります。
戦いに見事勝利した家康は・・・3年後に・・・1603年に征夷大将軍となります。
これによって、豊臣家の五大老から天下人へ・・・!!
徳川の世が訪れたのでした。
そんな中、家康は秀吉との約束を果たすのです。

孫娘・千姫と、豊臣秀頼との縁組です。
この時、秀頼11歳、千姫は7歳になっていました。
どうしてここに来て千姫を豊臣家に嫁がせたのでしょうか?
家康は、秀吉との約束を守ることで、豊臣家を尊重しているとアピールしたかったのです。
淀の方・・・豊臣家に忠誠を誓っていた大名たちの多くが、徳川家はまだ豊臣の一家臣だと思っていました。
彼等は、秀頼さまが成人すれば、家康は政権を返すと思っていたのです。
そんな豊臣恩顧の大名達を納得させるためにも、
豊臣家と良好な関係を保っていると見せたかったのです。

1603年7月28日、千姫、伏見から大坂城に向かいます。

この時、千姫にお供した船は、1000艘以上・・・
前田利長、細川忠興、黒田長政が警護を務めるなど、盛大な輿入れでした。

祖父・家康の思惑で、僅か7歳で豊臣家に嫁いだ千姫。
嫁ぎ先の大坂城の暮らしは・・・??
姑となった淀の方が教育しました。
豊臣家にふさわしい最高の教養を身に着けるために・・・!!
我が子のように幼い千姫を養育しました。

しかし・・・千姫の幸せは長くは続きませんでした。
祖父・家康の思惑は・・・??
家康は・・・上洛した際に、秀頼に二条城にまで来るように要求・・・
秀頼が求めに応じて対面します。
久し振りの秀頼に驚きます。
19歳になった秀頼は、身長190㎝以上の聡明な男に成長していたのです。
この時、家康70歳。。。!!
徳川家安泰のために、豊臣家を潰しにかかります。

1614年11月大坂冬の陣!!
この戦いが千姫の運命を大きく変えるのです。

②夫・秀頼との死別
秀頼を総大将とする豊臣方は、全国から寄せ集められた浪人を含め15万!!
対する徳川方は20万で大坂城を包囲!!
兵の数では劣りながらも善戦する豊臣軍!!
徳川方は、巨大な堀を前に攻めあぐねていました。
そこで・・・和睦に持ち込もうとしますが、豊臣方がこれを拒否!!
徳川方が放った砲弾が淀の方のいた御殿を直撃!!
お付きの者が死傷したことで、淀の方がおびえだし、一転して和睦を受け入れるのです。
和睦の条件は、秀頼の領地を安堵する代わりに、大坂城の堀の一部を埋めるというものでした。
しかし、家康の策略により、堀の殆どを埋められてしまいました。

すると家康は、防御力が落ちた大坂城を一気に攻め落とそうとします。
1615年5月大坂夏の陣!!
総勢5万5000の豊臣方。
それを15万という兵力で大坂城を包囲!!
数の上で一方的に勝る徳川軍が、豊臣方の武将を次々と討ち取っていきます。
そして豊臣方の立て籠もっていた城が炎上!!
中の千姫たちに危険が・・・!!
落城寸前!!
千姫は、火の手を避けるために、秀頼や淀の方、お付きの者たちと糒櫓に避難します。
侍女たちは、この時、櫓から千姫を逃がそうとしていました。
それを察してか、淀の方は千姫の振袖を膝で押さえていたといいます。

が・・・大野治長が、秀頼と淀の方の助命嘆願の為、千姫を家康の元へ向かわせたといいます。
豊臣家のために城を出たのです。

夫秀頼らの助命嘆願のために、大坂城を出て茶臼山に向かった千姫・・・。
豊臣家の命運は、千姫に託されていました。
千姫は、徳川方から攻撃されないように葵の御門入りに衣を身にまとっていました。
そして、二の丸を出たところで・・・徳川方の坂崎直盛に出会います。
この坂崎の護衛によって家康のいる本陣に・・・!!

しかし、その判断は、秀忠に任せると家康は言い出しました。
父・秀忠の岡山砦に向かう千姫。
そして、秀頼と淀の方の助命嘆願をしますが・・・。

「なぜ、秀頼と共に自害しなかったのだ??
 夫を置いて一人城を出るとはどういうことじゃ!!」

と、激怒しました。

千姫の助命嘆願が受け入れられることはなく、5月8日秀頼と淀の方は大坂城の中で自害・・・豊臣家滅亡。
燃え上がる大坂城が見えた千姫・・・二人の自害を聞いて、ただただ泣き崩れたといいます。

家康は、徳川家が権力を掌握するためには、豊臣家を滅ぼすしかないと考えていました。
豊臣家と運命を共にしようと思っていた千姫は、自分だけが生き残ってしまったことに苦しみます。
病に伏せる千姫・・・。

大坂の陣の後、江戸に戻った千姫は、江戸城北の丸にあった御殿で暮らし始めましたが・・・。
夫・秀頼を救えなかったことで心に大きな傷を負い、病に伏せるようになります。
家康は・・・再婚相手を探すことにしました。
候補に挙がったのは・・・
大坂城から千姫を連れ帰った坂崎直盛。
家康は、千姫を助けたものには、千姫を嫁にやると言っていました。
ところが・・・この約束を反古にしてしまいます。
1616年正月・・・鷹狩りに出かけた家康は突然病に・・・駿府城で床に伏せっていました。
多きの見舞客の中には、孫娘・熊姫も・・・熊姫は、息子・本多忠刻とやってきていました。
忠刻は、桑名藩主・本多忠政との間にできた嫡男で、眉目秀麗と評判でした。
そんな忠刻に・・・家康は忠刻の祖父・忠勝(徳川四天王)を思い出しました。
坂崎直盛は、豊臣家五大老・宇喜多家の出身でした。
対して本多忠刻は徳川四天王・本多忠勝の孫・・・。
坂崎よりも、長く忠義を果たしてくれている本多家に嫁ぐのが幸せだと・・・千姫と忠刻の縁談を進めることにしました。

当時は夫に離縁されない限り結婚はできませんでした。
秀頼は、九州まで遁れて生き延びたという噂まで出ていましたが・・・。
このままでは再婚できない・・・と、家康は・・・。
満徳寺・・・妻が満徳寺に弟子入りすれば、夫と離縁できる習わしとなっていました。
家康は、千姫を満徳寺に入れることで、秀頼との縁を切ろうとしたのです。
千姫の場合、特別に撃場である刑部卿局が寺に入り、千姫は江戸城で修業するという形がとられました。

家康は、4月17日75歳の生涯を閉じました。
再婚する千姫の姿を見ることはなく・・・。
5か月後、千姫は本多忠刻と再婚。
桑名藩主となった本多家が、翌年姫路藩15万石の藩主となり、千姫も姫路城へと移りました。
本多家に結婚祝いとして10万石が与えられました。
忠刻は、姫路城西の丸に二人の御殿をもうけ、それを囲むように日本一の櫓を建てるのです。
夫の心遣いに癒された千姫は、長女・勝姫、嫡男・幸千代を授かります。
ようやく訪れた心の平安・・・しかし、不幸が襲います。

③相次ぐ家族の死

幸せな暮らしをしていた千姫・・・
1621年幸千代、3歳で夭折。
千姫はもう一度子宝に恵まれるようにと、城の傍に天満宮を建て、羽子板などを奉納します。
そして、朝に夕に櫓から見える天満宮に祈りました。
しかし・・・流産を繰り返します。
そんな千姫が、藁をもすがる思いで頼ったのが、占いでした。
それによると不幸の原因は、秀頼の祟りだというのです。
驚いた千姫は、秀頼のために仏像を彫らせます。

その願いもむなしく・・・子が生まれることはありませんでした。
そんな中、1626年参勤交代で江戸から戻った夫・忠刻が病に倒れてしまいました。
介抱するも・・・この世を去ってしまいました。
またしても夫に先立たれてしまった千姫・・・。
そして・・・熊姫、お江の死・・・。
愛する人々を次々と失った千姫は、この時30歳。
娘・勝姫を連れて失意の中江戸へ・・・。
天樹院となり、仏門に入ります。
そんな千姫を気にかけていたのが弟である三代将軍家光でした。
千姫には、江戸城の竹橋御殿で暮らし、500石が与えられました。
ここで、娘・勝姫と何不自由なく暮らすことに・・・
千姫は、家光の子・綱重の養育を任されたことで、大奥にも影響力を持つようになっていきます。

1628年千姫に嬉しい出来事が・・・
娘・勝姫が、鳥取藩主・池田光政と結婚。
二人の夫婦仲は良く、5人の子供に恵まれました。

千姫にはもう一人守りたい人が・・・
古都・鎌倉・・・東慶寺。
ここに千姫が守り続けた人物・東慶寺第20世住持天秀尼でした。
かつての夫・秀頼が側室との間にもうけた一人娘です。
秀頼は千姫との間に子は出来なかったものの、一男一女をもうけていました。
二人の子は、大坂の陣で大坂城から逃げだすものの、徳川に捕まってしまいました。
そして、豊臣家の血を絶やさねば・・・と考えていた家康によって、息子・国松は市中引き回しの上、京都・六条河原で斬首刑に・・・。
この時、国松は8歳でした。
娘もどうなるのか・・・千姫が家康に懇願します。
「秀頼殿の娘を、私の養女にさせてもらえぬでしょうか?」
そんな千姫の必死の嘆願に折れた家康。
娘は家康の命により、東慶寺に入れられて出家し、生きていくこととなったのです。
出家させて結婚できなくさせることで、処刑せずとも豊臣家の血を絶やすことができたのです。
千姫は終生天秀尼の事を気にかけ、何通もの手紙で強い絆で結ばれていきました。

天秀尼のいた東慶寺も縁切寺で、天秀尼はそこで夫と離縁できずに駆け込んでくる者たちの保護に努めていました。
千姫も縁切寺で救われた一人・・・。
千姫は、不幸な女性を天秀尼の寺で救いたいと思うようになります。
東慶寺の縁切り・・・二人は、東福寺の「縁切寺法」を幕府に認めてもらうため動きます。
その思いが通じ、東慶寺は幕府公認の縁切寺となり、その後200年以上、女性を守り続けました。

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