日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:豊臣秀頼

今から400年前の日本に、260年もの長きにわたる平和を実現させた人物がいました。
戦国乱世に終止符を打った英雄・徳川家康です。
家康が築いた天下泰平の世・・・この奇跡は”パクス・トクガワーナ”・・・徳川の平和と呼ばれ、世界にも広く知られています。

しかし、家康75年の生涯は、平和とは程遠い、過酷な試練の連続でした。
幼くして父と母を失い、隣国の人質に・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いなど、あまたの合戦を生き抜き、江戸幕府を開府、そして、大坂の陣で天下人となり、その翌年に死を迎えました。
戦国武将の中で、どうして家康だけが長い平和な時代を築くことができたのでしょうか??

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そんな家康の選択のベスト⑩、最強の家臣ベスト⑩とは??

家康の選択10位・・・今川での人質生活
・今川家の人質となった家康は、空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった。それが後々まで効いてくる。
・少年から青年になるまでの家庭を、当時、東国の都と呼ばれるほど、文化の成熟した駿府で過ごした経験は、家康の自己形成を考えるうえで非常に重要であったと考えられる

徳川家康が今川家に連れていかれたのは8歳の時でした。
人質生活は、それから12年間続きました。
1542年12月26日、三河・岡崎城主・・・松平家の嫡男が産声を上げました。
幼名は竹千代・・・後の家康です。
松平家は、家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げた国衆です。
しかし、東を今川、西を織田に挟まれ、どちらからも領地を脅かされる状況にありました。
そんな不安定な環境が、竹千代の成長に大きく影響します。
母・於大の方の実家と松平家の方針の違いによって両親が離縁・・・3歳で母と離れ離れになりました。
さらに8歳の時、父・広忠が家臣に暗殺されます。
その混乱に乗じたのが、駿河・遠江を治める今川家当主・今川義元でした。
義元は、松平家の嫡男・竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配するようになります。
今川の本拠地・駿府・・・現在の静岡市で過ごすことになった竹千代・・・
8歳から19歳まで続いた人質生活は、家康の人格形成に多くの影響を及ぼしました。

奈良時代に創建されたと伝わる清見寺は、家康ゆかりの寺です。
幼い家康が、学問に勤しんだとされる三畳の小部屋があります。
教育係を務めたのは、太原雪斎。
僧侶でありながら、今川家を重臣として支えた人物です。
論語、教養の書物、兵法書を学びながら育ちました。
太原雪斎から、儒教の経典である四書五経や、孫氏の兵法などを学んだという竹千代・・・
人質という立場ではあったものの、当代随一の英才教育を施されていました。
しかし、若き当主が不在の中、三河では松平の家臣たちが辛酸をなめる日々を送っていました。
満足な録もえられず、農業をして凌ぐ生活・・・
それでも彼らが松平家を離れることはありませんでした。
ある時、三河をを訪れる機会を得た家康は、家臣たちが畑で土にまみれている姿を目の当たりにします。
すると涙を浮かべ・・・

「私の所領が少ないせいで、家中の皆に辛く苦しい生活を遅らせ申し訳ない」

家臣たちの忠義は、若い家康の心に深く刻み込まれました。

家康の選択9位・・・大坂の陣
征夷大将軍を息子・秀忠に譲り、大御所として君臨していた73歳の家康。
天下統一の総仕上げとして臨んだのが生涯最後の合戦・大坂の陣でした。
大坂城から南15キロの位置に建つ堺にある南宗寺。
この寺に、家康にまつわる奇妙な言い伝えが残されています。
徳川家康の亡骸を、しばらくの間納めていた墓の跡があるのです。
家康の墓・・・家康が亡くなったのは、大坂の陣の翌年、駿府でのハズです。
大坂の陣の時に、家康が後藤又兵衛に槍で刺されて亡くなったことを公表するとまずい!!となり、しばらくの間、寺で預かっていたというのです。
こうした死亡説が残っているほど、家康にとって生きるか死ぬかの瀬戸際だった大坂の陣・・・。
戦いは庶民たちをも巻き込み、両軍合わせて10万の死者を出したともいわれています。

大坂の陣で家康と相対したのは、豊臣秀吉亡き後、逞しく成長していた嫡男・秀頼でした。
戦乱の世に終止符を打つために避けては通れない決戦でした。
しかし、家康の前に、三国無双と称えられた大坂城が立ちはだかります。
台地の北端に建つ城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、巨大な惣構えも備えた難攻不落の城でした。
1614年、冬の陣では・・・家康は、総勢20万とも言われる大軍勢で城を包囲します。
しかし、秀頼率いる10万の籠城軍に阻まれ、戦いは膠着。
そこで家康は、一旦秀頼側と和議を結んだ後、城を囲む堀をすべて埋め立て、再び城攻めを行うこととしました。
この策は、後の記録によれば、家康も参陣した小田原攻めの秀吉を真似た策だと言われています。
生涯最大の戦いに、家康は知恵と経験を総動員して臨んだのです。
翌年の1615年、夏の陣が始まりました。
大坂城を丸裸にした家康は、余裕綽々、甲冑も着ずに側近が具足の着用を求めると、大声でこう言い放ちました。

「あの世倅めに何の具足!!」

しかし、戦の一寸先は闇・・・
豊臣方の真田信繁・・・赤備の軍勢が、家康本陣にまで斬り込んできました。
信州・上田を居城としていた真田家は、一度ならず二度までも、徳川軍を打ち負かしている因縁の相手です。
家康は、夏の陣の直前、信濃一国という破格の待遇で調略を図るも、信繁はこれを拒否していました。
真田軍の猛攻を受け、崩れかける家康本陣・・・
もはやこれまで!!家康は自害まで追い込まれました。
しかし、兵力に勝る徳川軍の猛攻で、形勢は逆転!!
大坂城は炎上し、豊臣秀頼は自刃!!
家康は幕府による全国支配を盤石なものとしました。

勝利から2か月後、家康は年号を元和と改めます。
元和とは、9世紀、中国大陸の唐が大乱を平定した際に用いた元号です。
家康は、応仁の乱以来、150年近く続いた戦乱の終わりと平和の始まりを、改元によって高らかに宣言したのです。
これが、家康の亡くなる9か月前のことでした。

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家康の選択8位・・・長篠の戦い
家康の選択7位・・・信康事件

どちらも、家康と信長、武田との三つ巴の戦いでした。
家康、34歳の時の長篠の戦い・・・
信長の勝ち戦として知られていますが、家康にとっても大事な一戦でした。

織田・徳川連合軍・・・信長は、軍勢の後方に・・・
前線に布陣するのは、ほぼすべて徳川の軍勢でした。
家康にとって長篠の戦いは、長年の宿敵・武田との雌雄を決する戦でした。
1575年5月、家康は窮地に陥っていました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川方の長篠城を包囲したのです。
その数、1万5000!!
わずか8000の軍勢しか用意できなかった家康は、同盟を結ぶ織田信長に援軍を要請します。
これに応じた信長が、自ら軍を率いて出陣!!
その数3万!!
織田・徳川連合軍は、3万8000の大軍となりました。
さらにもうひとつ、信長は勝利への秘策を戦場に持ち込んでいました。
突撃してくる武田の騎馬隊に向かって放ったのは、当時最新の武器だった鉄砲でした。
信長が用意した鉄砲の数は、3000丁ともいわれています。
これによって、山県昌景や、馬場信春などの武田の名だたる武将を相次いで討ち果たしました。
信長のもたらした大軍と鉄砲によって、家康は宿敵・武田に勝つことができました。
しかし、信長の力にすがったことで、家康はそののち残酷なジレンマに陥ることとなります。

長篠の戦いの4年後に起きた信康事件です。
この時、家康は38歳!!
家族か、信長か、究極の選択でした。
1579年、家康は、同盟相手の信長から思わぬ命令を受けます。

”信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ”

家康の嫡男・松平信康は、この時21歳!!
跡継ぎにしようという息子の命を奪えというのです。
さらに信長は、家康の正室・築山殿も殺すように命じます。
そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が、夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだとされてきました。
近年では・・・
信長に妻子殺害を命じられる前から、徳川家中に織田ではなく武田と組まんとする派閥が生まれ、内紛状態にあったというのです。
武田と徳川の戦争は、一進一退の膠着状態が続いていました。
この武田とたたかっちえる状況を見直したいという動きがあったのです。
信康は、こうした家臣や築山殿と共に、武田方に内通していたといいます。
父・家康の新織田路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたのです。
徳川家はふたつに分かれてしまうような状況でした。
その中で、家康としてはどちらに行くべきなのか、立場をはっきりと示さなければならなかったのです。

信長の命令によって、選択を迫られることとなった家康・・・
武田に寝返るか??織田との同盟を継続するのか・・・??
家康は苦渋の決断をします。
家臣に命じて築山殿を殺害!!
続いて信康を切腹させました。
家康は、家族の命と引き換えに、織田との同盟を継続したのです。

家康の選択6位・・・三河一向一揆
22歳の若き当主・家康を襲った家臣団分裂の危機でした。
愛知県豊田市にある隣松寺・・・ここに珍しい像が残されています。
20代前半と伝わる家康の木像です。
この頃、三河統一に向け、着々と勢力を拡大させていた家康・・・
しかし、思わぬ敵が足元から現れます。
一向宗の門徒たちによる一向一揆です。
きっかけは、家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことだと言われています。
これに一向宗門徒が反発!!
武装集団が蜂起します。
さらに家康を悩ませる事態が・・・
一揆方に、一向宗門徒の家臣たちがたくさんいたのです。
彼らは離反の理由をこう主張しています。

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきることはない」

家康軍は、内部分裂に陥ります。

1564年1月、ついに大規模な武力衝突が起こります。
一揆勢が家康方の砦に攻め寄せたのです。
乱戦のさ中、銃弾二発が家康に命中します。
鎧が頑丈だったため、命拾いはしました。
しかし、このまま戦いを続ければ、大勢の家臣を失うのは間違いありませんでした。

一揆方と和睦する??それとも、徹底抗戦・・・??

衝突から1カ月半・・・家康は決断を下します。
一揆方と和議を結び、敵対した家臣たちを不問に処することにしました。
許された家臣の中には、後に徳川十六神将と呼ばれる蜂屋半之丞や渡辺守綱など、家康の躍進に欠かせない人物が多数含まれています。
後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信ももとは一揆の首謀者の一人・・・
若き家康は、こうして家臣団分裂の危機を乗り越えたのです。

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家康の選択5位・・・本能寺の変と伊賀越え
家康41歳!!
宿敵・武田が滅んだわずか3か月後、家康を襲った絶体絶命の危機・・・その発端が本能寺の変でした。
1582年6月2日、この日、家康は主だった家臣と共に大坂・堺にいました。
長年の武田攻めの労をねぎらうべく、信長から畿内見物に招待されたのです。
そんな家康のもとに知らせが届きます。

21年間、家康と同盟関係にあった信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのです。
これを聞いた家康は狼狽・・・
信長の後を追い、京の知恩院で切腹すると口走ります。
この時、家康を思いとどまらせたのは、本多忠勝はじめ、家臣たちの言葉でした。

「信長公への方向として追腹を切るのと、弔い合戦をして討ち死にするのとどちらが良いとお思いか・・・??」

我に返った家康は、ひとまず三河に戻ることにします。
しかし、この時の家康の手勢はわずか30人余り・・・
京を通れば光秀の手勢に襲われ太刀打ちできない恐れがありました。
そこで家康たちが選んだのが、最短ルートの伊賀越えです。
しかし、この道のりにも困難が待ち構えていました。
まず、家康一行の前に立ちはだかったのが京都・木津川。
地元の漁師から船を借り、なんとか川を渡るも・・・数百人に地侍たちが家康一行を襲撃。
絶体絶命化と思われたその時!!
助っ人が現れました。
地元の伊賀衆200人余りが家康の警護を買って出たのです。
仲介役を果たしたのが、同行していた家康の家臣・服部半蔵正成!!
服部半蔵は岡崎で生まれていますが、父が伊賀の出身でした。
半蔵を通じて伊賀者との結びつきが強かったのです。
こうして家康一行は、丸3日で200キロ以上の道のりを踏破し、岡崎城へ到着。
幕府の記録には、この伊賀越えこそ、家康の生涯にとって艱難の第一・・・もっとも苦しんだ出来事であったと記されています。

家康の選択4位・・・小牧・長久手の戦い
家康43歳・・・
後に天下人となる秀吉と家康、その最初で最後の直接対決が、小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代後期の歴史家・頼山陽は言いました。

「家康の天下をとるは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり」

本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も、巻き込まれることになります。
畿内を中心に急拡大をとげていた羽柴秀吉と対立することになったのです。
戦いは、明らかに秀吉の優勢でした。
徳川軍およそ2万に対し、羽柴軍は10万もの大軍で攻め寄せたのです。
しかし、結局戦いは和睦で幕を閉じます。

愛知県にある小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城です。
かつては信長の居城でもあった山城です。
家康は、如何にして秀吉の大軍に抗ったのでしょうか?

小牧・長久手の戦いの戦いの時に、徳川家康がつくらせた巨大な土塁と堀が残っています。
敵を迎え討つために築かれた高さ8mもの土塁・・・
土手を駆け上ってこないと小牧山城の中心には近づけません。
おまけに、土手の上で鉄砲で迎え撃つことができました。
その奥には大きな空堀があります。
一斉に弓矢や鉄砲で向かってくる敵に対して反撃が出来る!!
当時としては最大級の堀を持っていました。

この巨大な堀が、当時は城を取り囲むように築かれていました。
さらに家康は、山の中腹にも空堀を築き、2重の堀で鉄壁の防御を施します。
小牧山城は、もともと織田も武長がつくった城がありました。
その信長の城は、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城でした。
家康は、信長の造った石垣を一部壊しながら、一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていきました。
小牧山城は、「石垣」の城から「土」の城に変わった珍しい城です。

こうした大土木工事をたった5日で終わらせたともいわれる家康・・・
城を攻めあぐねた羽柴軍とにらみ合いの状態に・・・
しびれを切らして先に動き出したのは羽柴軍でした。
秀吉の甥・秀次が大将となり、およそ2万の兵が密かに南下。
家康の領国・三河への侵攻を試みます。
しかし、敵の動きを察知した家康も自ら兵を率いて密かに小牧山城を出陣!!
羽柴軍を追撃します。
決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。
激しい戦いの様子が、屏風絵に残されています。
先鋒を務めたのは井伊直政。
武田の兵法を引き継いだ赤備えの軍団が、弾丸を羽柴軍に雨のように降らせます。
さらに追い打ちをかけたのが、戦場に突如掲げられた金地に日の丸の扇。
家康の所在を示す馬印です。
家康は小牧山にいると思い込んでいた羽柴軍は驚愕!!
瞬く間に戦意を喪失!!
池田恒興や、森長可など秀吉に与した名だたる武将が討ち死に!!
長久手の戦いでは家康の圧勝に終わったのです。
その後、7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い・・・
5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで、家康強しの評価が轟きます。
これが豊臣政権下でナンバー2となるステップとなったのです。

家康の選択3位・・・関ケ原の戦い
家康59歳の時、天下分け目の合戦、関ケ原の戦い!!
家康の目には、戦いの先にどんな風景が映っていたのでしょうか?
秀吉の死後、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいました。
政権を支える有力大名で構成された五大老筆頭・徳川家康と五奉行の中心人物・石田三成が政権内の主導権を巡り対立!!
武力衝突にまで発展したのです。

1600年9月15日、家康率いる東軍と、三成の西軍・・・
両軍合わせて10万余りの兵たちが、関ケ原に集結しました。
関ケ原の戦いの幕開けです。
戦いの勝敗は、家康が事前に調略を仕掛けた西軍の武将達が次々と味方したことで決しました。
わずか数時間で決着がついたともされています。
ところが・・・実はこの戦い、勝敗の行方は直前までわかりませんでした。
近年、関ケ原周辺で航空機を使った測量調査が実施されました。
空から地方にレーザー光線を当て、地形のデータを読み取る最新の測量方法です。
その結果、驚くべきことが判明しました。
関ケ原古戦場から西に2キロほどの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったのです。
正体不明の巨大な城は、誰が、何のために築いたのか・・・??
地元には、関ケ原の戦いの200年以上前、城があったという言い伝えが残されていました。
そこには、最新の築城技術がなされていました。
そこからこの山城は、豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられるようになりました。
もし、この時、兵を挙げた秀頼が西軍陣地である玉城に入城を果たしたならば・・・豊臣恩顧の武将達で編成された家康率いる東軍は、秀頼に歯向かうことが出来ず、家康は大敗北を喫したと推測されます。
石田三成や大谷吉継たちは、勝利の作戦をしっかり立てていて、少し状況が変われば西軍が勝っていたかもしれません。
もし仮に、毛利輝元やあるいは豊臣秀頼が玉城に来てしまうと、家康がつくった戦略の全体が崩れて行ってしまう・・・!!
なんとしてもそれより前に、今いる西軍の主力部隊と決戦をしなければ勝ち目がなくなるという状況に家康はありました。
しかし、秀頼は決戦場に現れることはありませんでした。
そして家康は決戦を制しました。
関ケ原の戦い・・・それは家康にとってまさに薄氷を踏む勝利だったのです。

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家康の選択2位・・・桶狭間の戦い
今川家で人質生活を送る家康・・・19歳。
その危機は、平和を目指す出発点となりました。
1560年5月、今川義元が1万を超える大軍を西へと進めていました。
目指すは織田信長のいる尾張!!
この時、今川軍の先陣には、若き家康の姿がありました。
義元の命によって、家康は本隊から先行し、今川方の大高城に兵糧を搬入。
しかし、待てど暮らせど義元が姿を現すことはありませんでした。
桶狭間にいた今川本体を、信長がわずか2000足らずの兵で急襲。
義元を討ち取ったのです。
家康のいる大高城にも、信長軍が責めてくることは必定でした。
この時、家康には2つの選択肢がありました。
駿府に戻るか、岡崎へ帰るのか??
密かに大高城を抜け出し、家康が向かった先は、岡崎城でした。
敗戦の将となった家康は、実に十数年ぶりに故郷に帰ることを選択しました。

岡崎城の北3キロのところに立つ大樹寺・・・
家康から5代遡った松平家の先祖が建立した菩提寺です。
岡崎城への道中、織田軍に襲撃された家康は、大樹寺へと逃げ込み、祖先の前で自害しようとしたといいます。
しかし、この時、住職は諌めます。

「厭離穢土 欣求浄土」

浄土宗・仏教書に書かれた一節・・・
乱れたこの世を離れて、清らかな浄土を目指していくという意味です。
戦乱の世の中から平和な、皆が安心して暮らせる社会を作っていくために生を受けてきたのだから、もう一度頑張りなさい

平和な世の中を願った松平家代々の思いをここで断ち切るのか、そう住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと言われています。
岡崎城に入った家康は、これまでの状況を一変させる動きに出ます。
桶狭間の戦いから9か月後、今川義元の首をとった織田信長と和睦。
さらに、義元から一字を授かっていた名前・元康を家康に改めます。
家康は、今川氏への従属関係を完全に断ち、一国一城の主となる道を選んだのです。
家康は自らの旗印に菩提寺で授かった「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻み、平和国家建設の大望を持って戦乱の世に出て行ったのです。

家康の選択1位・・・三方ヶ原の戦い
家康31歳!!
生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦い・・・!!
敗北以上に大きなものを家康は手に入れたとされています。

1572年10月、武田信玄が2万5000の兵を率いて本拠地・甲府を出陣!!
徳川領への侵攻を開始しました。
家康より21歳年上の信玄は、戦国最強ともいわれる武田軍を率い、甲斐の虎と恐れられていました。
武田軍の勢いはすさまじく、徳川方の城を次々と攻略。
なす術のない家康は、武田軍を迎え討つべく浜松城で籠城を決めます。
しかし、ここで信玄は、家康の想定外の行動に出ます。
浜松城に向かっていた軍勢が、突如西へと進路を変えて、家康の前を素通りしたのです。
家康は選択を迫られます。
武田を追撃する??それとも野戦を避けて籠城を続ける・・・??
この時、籠城を勧める家臣たちに対し、家康はこう述べました。

「信玄が領土内を横切るのに、多勢だからといって出陣しないわけにはいかない」

家康は、武士の誇りにかけ、追撃することを選択しました。
12月22日の夕刻、自ら兵を率いて出陣、日が落ちるころ合いをみて背後から武田軍を襲撃しました。
ところが・・・家康の追撃を見越していた信玄は、坂の上で進軍を止め、徳川軍を待ち構えていました。
戦闘はわずか数時間で勝敗が決しました。
徳川軍の惨敗でした。
静岡にある浜松八幡宮・・・
ここに、敗走中の家康にまつわる伝承が残されています。

「雲立の楠」・・・
味方が原の戦いで、この地まで逃げ延びた徳川家康が、楠の根元のウロに隠れて難を逃れたという伝承です。
家康が一心に八幡様に祈りをささげると、瑞雲という吉兆の雲が湧き出て、楠の梢から白馬に乗った白い着物を着た翁が浜松城の方向へ飛び去りました。
家康は、まだ自分に運があることを悟って浜松城に戻りました。
浜松周辺には、権現(家康の神号)谷という地名があったり、八幡様も含めて、匿ってもらった農家の伝承もあります。
浜松市の調査によれば、市内に残る三方ヶ原の戦いの伝承は40以上。
家康の窮地が語り継がれていることが特徴です。
みんな家康に同情的です。
弱き家康、殺されそうな家康を、みんながこぞって匿ってあげた・・・
天下人になり、江戸幕府を作った英雄、東照大権現という仰々しい厳めしい家康ではなく、守ってあげたい弱き家康が伝えられています。

伝承の中には、家康家臣に関するものもたくさん残されています。
その一つが、死を覚悟した家康を諌め、自らが影武者となって討ち死にした夏目吉信の忠義を讃えた日もあります。
この戦いで、家康は1000人もの家臣を失ったといわれています。
自分の未熟さを痛いほど叩き込まれた家康・・・
もし、三方ヶ原での敗戦がなければ、家康の人生は全く違ったものになったかもしれません。

家康が平和の世を切り開くうえで、欠かせない経験・・・
本能寺の変と伊賀越えでは、信長の死を反面教師に持続可能な組織作りとは何かを考え、小牧・長久手の戦いではかつての敵さえ家臣に取り込み力に変える柔軟性を発揮、そして関ケ原の戦いではどんなに理詰めで戦略を練っても最後は勝負は時の運・・・ギャンブルだと悟りました。
桶狭間の戦いでは、平和を目指す原点「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを得ました。
そして、三方ヶ原の戦いでは、人生最大の敗北から自分より優れた者がいることを忘れない謙虚さを学びました。

信長でもなく、秀吉でもなく、家康が平和な世を築けた理由は・・・??

色んな時代のいろんな戦国大名を見てきた家康・・・その中で、戦い方、都市づくり、城づくり、統治・・・すべて学んで、自分の天下に活かしていく術に非常に長けていました。
織田信長からは戦争・合戦で如何にして勝つのかを学びました。
秀吉が認めた戦争しか正統な戦争とは認めない・・・戦争を違法化していく、内戦を違法化していく・・・他の大名は、幕府に許可を得なければ軍事的なことができないようにしました。
そして、家康の残した遺産を後継者たちが上手く理解して応用していった結果が平和な世でした。

戦いの連続を経験し、本当に戦いがない時代になればいいなという思いをずっと持ち続けていました。
関ケ原の3年後、征夷大将軍になった家康は、定を出しています。
その中で、”百姓をむざと殺すまじく候”・・・施政方針を書いた中に、命の大切さを謳っています。
命の大切さを・・・戦いがない時代を実現しよう・・・
家康が一生戦いの連続だったことが、最終的には平和を求める精神になったのです。
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およそ100年続いた下剋上の世に終止符を打ったのは、関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢が相まみえた天下分け目の合戦です。勝ったのは東軍・・・勝因は、西軍の4人の武将達による裏切りがありました。
最も西軍に痛手を与え、得をしたのは・・・??

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明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の戦いの布陣図を見せたところ・・・即座にこう答えました。

「勝ったのは西軍であろう」

西軍は、石田三成が北側の笹尾山に、他の武将達はその周囲に布陣・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上から牽制・・・平地に追い込んで、一網打尽にしようと考えていました。
一方、東軍は、大将の家康以外ほとんどが平地に布陣。
誰の目にも、東軍不利という状況で戦は始まりました。

しかし、この圧倒的な不利な状況が覆ります!!

①松尾山・小早川秀秋(1万5000)
②三成のそば・島津義弘
③家康のそば・吉川広家
④吉川の後ろ・毛利秀元

ここに、西軍大将である毛利輝元はいませんでした。
この時輝元は、大坂城に居たのです。
この4人がなぜ、どんな形で裏切って・・・関ケ原の戦いを左右したのでしょうか??

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時
野外の雨もあがり、霧が立ち込める中、15万もの兵たちが睨み合っていました。
そして、午前8時、ついに天下分け目の火蓋が切られます!!
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早くこの膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に陣を敷く小早川秀秋に攻撃を仕掛けるよう合図します。
しかし、小早川は動きません。
再三の出撃命令にもかかわらず、一向に動こうとしない小早川に三成は苛立ちます。
この時、小早川にいら立っていた男がもう一人いました。
東軍の大将・徳川家康です。
実は、小早川は戦の前からすでに徳川家康と内通し、東軍に寝返るよう説得されていました。
家康は、開戦から4時間後の正午・・・小早川軍に向かって鉄砲を撃ち込ませます。
世にいう”家康の問鉄砲”です。
小早川はこれに怯み、寝返りを決断!!
味方である西軍に襲い掛かったと言われています。

関ケ原の形地から、小早川の布陣する松尾山に発砲したとして・・・その距離1.5キロ!!
有効射程距離はたかだか100mなので、玉は届きそうにありません。
では、小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
当時の大筒では・・・??
実験では、撃ってから5秒後に聞こえましたが・・・大筒の音は聞こえますが、かなり小さいです。
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っているので、聞こえそうにもありません。
問鉄砲が後世の創作だとすると、どうして小早川は寝返りを決断するのに4時間もかかったのでしょうか?
実は、石田三成からも勝った暁には関白の地位と上方で二カ国を加増すると褒賞が約束されていました。
秀秋は、東軍西軍、どちらにつくのか最後まで迷っていた・・・悩んでいたのです。
悩む小早川は、戦局を伺っていたため、4時間もの間動かなかったのです。

そもそも、小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
裏切りの理由その①秀吉への恨み
豊臣秀吉の正室・ねねの甥である小早川秀秋は、3歳の時跡継ぎがいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられます。
ところが、秀吉の側室・淀の方が男子・・・後の秀頼を授かると状況は一変します。
13歳で有力大名・小早川隆景の元へ養子に出されてしまいます。
さらに、秀吉からこんな仕打ちを・・・
秀吉のもう一人の養子であった秀次が、謀反を企てた嫌疑をかけられたことと、それに加担したと噂され、秀秋も当時の領地・丹波亀山10万石を没収されてしまいます。
謀反自体、秀吉のでっち上げかも・・・??
自分を疎んじた秀吉を、小早川は恨んでいたのかもしれません。

裏切りの理由その②三成への憎しみ
丹波亀山を没収された小早川でしたが、その後養父の隆景から領地の一部である九州の筑前国などを受け継ぎました。
そして、15歳の時、秀吉の命令で朝鮮出兵!!
ところが、帰国すると突如越前への減封・転封を命じられたのです。
一説には、五奉行であった石田三成が秀吉に、朝鮮における小早川の失敗を大袈裟に報告したからではないか??と言われています。

開戦から4時間後、1万5000の軍を率いる小早川秀秋が、東軍へと寝返りました。
近くにいた脇坂弾正、朽木元網、小川祐忠、赤座直保・・・それぞれの武将達が、小早川に便乗するように次々と寝返っていきました。
すぐさま西軍は大混乱に陥り、東軍の勝利が確定しました。

「関ヶ原の戦い」



②島津義弘
小早川秀秋が加わったことによって優勢に転じ始めた東軍・・・
家康は、この機を逃さず全軍に総攻撃を命じます。
これに焦った石田三成は、開戦からずっと傍観している島津義弘に出陣を求めました。
ところが・・・島津もまた動かなかったのです。

裏切りの理由その①
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の連合軍を破るなど、勇名を轟かせていた島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参戦したのはわずか1500の兵だけでした。
それは、この時、義弘の兄・義久との対立・・・島津家が二分していたからです。
この時、島津家の実質的な決定権は、兄・義久にありました。
義久は義弘が弟にもかかわらず、”関ケ原には参加しない”と兵を送りませんでした。
本隊は関ケ原にはいかず、義弘の家臣たちが行っていたのです。
”鬼の島津”こと島津義弘66歳!!
百戦錬磨の武将ですが、1500の兵で戦っても勝ち目はない・・・とみて動かなかったのです。

裏切りの理由その②
戦わなかった理由は、合戦前日のある出来事にもありました。
西軍は大垣城に・・・東軍は中山道の宿場町・美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで戦いを繰り広げました。
しかし・・・結果は、西軍の大勝!!
兵たちの指揮は大いに上がりました。
そこで島津義弘は、石田三成にこう提案します。

「勢いをそのままに夜襲をかけてはどうか?」by義弘

「夜襲はかけぬ!!」by三成

この時、三成は家康の東軍は大坂に向かっているかもしれないという情報を掴んでいました。
それを何としても阻止しようと、先回りしたかったのです。
その結果、関ケ原で東軍を待ち構えることになります。
もうひとつ・・・島津軍があまりにも少なかった・・・。
三成としては、あまりにも頼りない・・・!!と思っていました。
自分が軽んじられていると感じた島津義弘・・・
その前の、墨俣の戦いの時も島津軍は三成に置いてきぼりにされていました。
三成に対する不信感がぬぐえませんでした。

小早川軍の寝返りと、島津軍の不戦!!
これによって午後2時、西軍は総崩れとなりました。
主力が次々と敗走するとともに、多くの武将達が討ち死にに・・・!!
これを見た島津義弘は、「さて・・・我らもいかにここから脱出するか」
その大脱出劇が伝説の、島津の退き口です。

関ケ原は、3つの街道が交わる交通の要衝です。
西への逃走ルートは3つ!!
①北国街道を通る北西ルート
ところが、このルートは、敗走して行く西軍とそれを追う東軍の黒田長政や細川忠興の兵で溢れていました。

②中山道を通る南西ルート
東軍に寝返った小早川軍が占拠。

③伊勢街道へと向かう南東ルート
前線まで移動してきていた家康の徳川本体が待ち受けていました。
井伊直政、本多忠勝といった東軍の猛者たち相手に、1500の兵では討ち死にも同然!!

しかし、鬼の島津は、敵中突破!!

少ない軍勢で、如何にして敵中を突破して関ケ原から脱出したのでしょうか??
島津軍は、笹尾山あたりから南東に進み、徳川本体のわきを通って伊勢街道へと向かいました。
穿ち抜けという島津軍独特の先鋒で、キリで穴を穿つように敵の一点を集中攻撃!!
大将の義弘を通過させたところで、捨てがまり戦法に切り替えます。
狙撃部隊が残って敵を足止めし、その間に本体を先に!!
これを何度も繰り返して、距離を稼いだのです。
島津義弘は、こうして井伊直政や本多忠勝らを振り切って関ケ原を脱出しました。
捨てがまりによって、合戦前に1500の兵だったものが関ケ原を脱出した時には100人も残っていなかったと言われています。

③毛利輝元
中国地方の半分ほどを治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな戦果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後も、豊臣政権を支える五大老を家康と共に務めていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大勝に就任したのは、反家康ののろしを上げた三成に要請されたからでした。

関ヶ原



7月半ば、輝元は、大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀吉の跡継ぎ・豊臣秀頼の補佐を輝元に任せ、決戦の際には、共に出陣させようと考えていました。
関ケ原の戦いは、秀吉の家臣同士の戦い・・・
恩顧の意識が強いうちに、秀頼という息子が出てくることで心理作戦をとろうとしたのです。

合戦間近の9月、三成は輝元に出陣を要請します。
しかし、本人は大坂城にとどまったまま・・・
代わりにやってきたのは、輝元の養子の毛利秀元率いる1万5000の軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原にやってこなかったのでしょうか??
その理由は様々言われています。

①秀頼の母・淀の方が幼い我が子の参戦を拒んだため、補佐役の輝元も出陣出来なかった
②大阪城内に、家康と内通していると噂される増田長盛の軍がおり、その動向を見守っていたから

これらの説に従えば、輝元は秀頼を守るために大坂城にとどまったということになります。
しかし、「家康を気にして関ケ原で戦う気がなかった」ようなのです。
それは、家康に宛ててこんな手紙を送っていたからです。

”三成殿の謀 当方とは関係ない”

と伝え、自身は戦わないという姿勢を見せた輝元・・・その真意とは??
どっちが勝ったとしても毛利家が生き残る可能性を持っておきたかったのです。

この時、輝元は自国の領土拡大のために動いていました。
家康方について関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちの領地に攻め入っていたのです。
東西両軍との関係を保ちながら、自らの野望を叶える・・・毛利輝元、戦略家でした。

岐阜県関ケ原町にある標高104mの桃配山。
東軍の大将・徳川家康が、最初に陣を敷いた場所です。
家康は、この周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは、標高420mの南宮山です。
西軍の多くの武将達が、ここに陣を構えていました。
長曾我部守親・安国寺恵瓊・長束正家・・・そして大将毛利輝元の養子・毛利秀元です。
兵の数を併せると、およそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、最初に戦を仕掛ける先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長宗我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って背後から家康に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の、吉川広家の軍が動こうとしません。
後ろにいた武将が、その理由を問いただすと・・・

「霧が立ち込めて敵の姿が見えない・・・!!」

確かに、前日の雨で周囲は深い霧に包まれていました。
しかし、それから数時間経ち、スッキリと霧が晴れた後も吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、毛利軍のすぐ後ろにいた長曾我部守親です。

「何故早く出陣せんのじゃ!!」

苛立つのも当然のこと・・・吉川が動かないのは大問題でした。
先駆けは吉川家だったのです。
つまり、吉川が動かなければ、後ろの毛利や長宗我部たちも動くことが出来なかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのは、毛利秀元でした。
家臣である吉川の為、言い訳をします。

「今ちょうど兵に弁当を食べさせているところじゃ」

毛利秀元の役職が宰相だったことから、”宰相殿の空弁当”と呼ばれるエピソードです。

吉川広家が動かなかったことで出陣出来なかった兵・・・およそ3万!!
西軍にとってはかなりの痛手でした。
吉川広家の裏切りの理由とは・・・??
吉川広家は、西軍大将・毛利輝元と同じく毛利元就の孫に当たります。
二人はいとこ同士でした。
吉川家は、父の時代から家臣として本家の毛利家を献身的に支えてきました。
その一方で、吉川は家康に近い黒田長政とも通じており、2人が交わした書状には

「行動を共にしていこう」とあります。

早々に東軍有利と見た吉川は、
輝元に東軍につくように進言しようとしていました。
ところがその矢先、輝元は三成らによって西軍大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍についた吉川でしたが、決戦を前に黒田長政の父・官兵衛からこんな書状を受け取ります。

「上方の大名もみな家康公に味方します
 あなたの判断が第一」

東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決意します。
家康に約束します。
この密約が、すでに戦の前にかわされていたことは、家康が構えていた陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは、南宮山の頂上付近です。
家康の陣がある桃配山とは峰続きなので、背後から3万の兵で攻められたらひとたまりもありません。
そんな無防備な布陣が出来たのも、背後を気にせず動けた吉川の寝返りがあったのです。

吉川広家は、家康との間にで、もし東軍が勝った場合、毛利手元への寛大な処遇を取り付けていました。
西軍を裏切ったのは、毛利本家を思ってのことでした。
輝元に大坂城に留まることを強く進言したのは広家・・・全ては毛利を守るためでした。
小早川が昼時迄動かなかったのは、吉川が南宮山の西軍を足止めしているという情報を手に入れていました。
東軍の勝利が確定したので動かなかったのです。

・毛利輝元を大坂城に留まらせる
・西軍3万の軍勢を足止め
・小早川秀秋に寝返りの決断をさせる

裏切り者の中では、最も西軍にダメージを与えたと言っても過言ではありません。

真の裏切り者は吉川広家でした。
こうして関ケ原の戦いはわずか半日で終結。
東軍が勝利を収めました。

西軍を裏切った4人の武将達・・・その後は・・・??

天下分け目の決戦を制し、大坂城に入った徳川家康・・・
東軍の武将達に褒賞を与えるとともに西軍方の処遇も決定します。
戦況を大きく変えた小早川秀秋は筑前30万石から岡山55万石に加増。
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さで亡くなります。西軍の武将の呪いだと噂されました。
戦は傍観していたものの、家康軍に突っ込み逃げて行った島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲のとりなしによって中止。
義弘の隠居を条件に、領地を安堵しました。
西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもあってお咎めなしと思われていましたが、家康が下した処分は・・・身分・所領全てを没収する改易。
家康は、その領地の一部を吉川広家に与えようと考えていました。
これを聞いた吉川は、家康に毛利家の存続を直談判。
自分への褒賞も辞退しました。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石と大きく減封されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川広家には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも勝っていた西軍でしたが、最後は多くの裏切りによって負けてしまいました。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは大名たちにとって裁量が試されるときでもありました。

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「徳川家康 ─決戦!関ヶ原─」



2020年5月、戦国史を揺るがす大発見がありました。
京都御苑の一角で、巨大な城の痕跡が400年ぶりに見つかったのです。
城の名は京都新城!!
当時の資料には登場するものの、その正体は幻とされていた城です。
さらに、金箔河原も出現。
五七の桐と呼ばれる紋様は、豊臣家を象徴するものです。
この城を築いたのは豊臣秀吉。
一代で天下人に上りつめ、戦国乱世に終止符を打った英雄です。
東西およそ400m、南北およそ800mに及ぶ壮大な城郭は、秀吉が無くなる1年前に築かれたことがわかっています。
秀吉が京都新城に込めた狙いとは・・・??



最晩年、病に侵されながら幼い秀頼を後継者と定めた秀吉・・・
徳川家康を信頼し、後事を託しました。
ところが!!秀吉の死後、家康は秀頼から転嫁を簒奪!!
豊臣家は敢え無く滅亡したとされてきました。
しかし、京都新城の発見によって、秀吉が秀頼と豊臣家を守るため周到な布石を打ってきた可能性が出てきました。
知略を駆使して戦国を駆け抜けた秀吉・・・
その最期の戦略、知られざる終活プラントは??

1582年6月2日、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により壮絶な死を遂げました。
本能寺の変です。
この時、織田家の有力家臣の中でいち早く抜きんでたものこそ羽柴秀吉でした。
逆心・光秀を討伐することに成功した秀吉・・・
卓越した軍略で、織田家筆頭・柴田勝家を破り、莫大な経済力で最大のライバル徳川家康を圧倒しました。
しかし、この時秀吉はすでに50歳近かったのです。
天下を掌握し、自らの覇権を維持するためには何をするべきか、盤石な政権を築くことが秀吉の課題でした。
大きな壁のひとつが、出自の問題でした。
九州の有力大名・島津氏は、秀吉の出自をこう記録しています。

”秀吉はまことに由来なき人物である”

農民出身の秀吉を、由緒のない低い身分の者とさげすんでいるのです。
そこで秀吉は、出自の問題を克服するため、朝廷の権威を利用しようとしました。

1584年10月、秀吉は、朝廷から従五位下(佐近衛権少将)に任じられました。
従五位下とは、殿上人として昇殿を許される最初の位です。
さらにその翌年、秀吉は異例の速さで昇進・・・関白にまで上り詰めました。
この時、朝廷から豊臣の氏を賜り、以降、豊臣秀吉と名乗ることとなります。
当時来日した宣教師は、その衝撃をこう記しています。

「秀吉が下賤な家柄から出世し、わずかばかりのうちに突然日本最高の名誉を手にしたことは、日本人すべてを驚嘆させずにはおかなかった」

さらに秀吉は、大名たちの統制をはかるために、独自の戦略に打って出ます。
秀吉の苗字である羽柴の姓を、有力大名に下賜する授姓という政策です。
徳川家康、毛利輝元、小早川隆景・・・いずれの大名も、羽柴と名乗っています。
一国以上もつ大名はほぼ全員が羽柴になって、羽柴姓だらけになる非常に珍しい体制となりました。
家制度、家柄を意識する日本社会の中でなかなかできることではありません。
秀吉は、自分自身が持っていなかったということもあってか、疑似的な一族意識、連帯感を持ちたかったのです。
そうせざるを得なかったのです。
しかし、秀吉にとって最大の問題は後継者問題でした。
秀吉と北政所の間には、実子がいませんでした。
その為秀吉は、信長をはじめ家康や前田利家など有力大名の子供を養子とし、家督相続に備えていました。
ところが・・・秀吉53差の時に淀殿が鶴松を出産。
これで後継者問題はひとまず落着しました。
その翌年・・・1590年7月、秀吉は小田原合戦で北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。
この時点では、秀吉、豊臣家の天下は末永く安泰であるかに見えました。

実子・鶴松を正統な後継者とするため、秀吉はその下地作りを始めます。
有力大名の養子を他家へと転出させる一方、養子同志を婚姻させ、一族の結束を図りました。
ところが・・・そんな秀吉に火が気が襲いかかります。
1591年8月、鶴松死去。
秀吉の後継者問題は、再び暗礁に乗り上げます。
そこで秀吉は、自分の姉の子・甥の秀次を新たな養子としました。
血縁のある者が少なかった秀吉にとって、既に成人し、自らの天下統一を支えてきた武将は秀次しかいませんでした。
1591年12月、秀吉は秀次に関白職を譲ります。
正統な後継者としました。
養子となった秀次に、関白職のみならず聚楽第まで譲ります。
秀吉は、秀次に国内の政を任せると、海外制覇への野望を抱くようになります。
1592年4月、文禄・慶長の役が始まります。
総勢30万の軍勢が、朝鮮に侵攻しました。
鶴松が死んだことで、秀吉は動揺しました。
秀吉自身が大陸に行くということで、国内のことを誰かに任せなければなりませんでした。
そうなると、秀次を跡継ぎにとなりました。
自分が日本を留守にする間の総責任者として秀次を指名したのです。
しかし、1593年8月、秀吉が57歳の時に予想だにしない出来事が起こりました。
淀殿が再び懐妊し、拾・・・秀頼が生まれました。



秀吉の天下を受け継ぐ者はひとりだけ・・・!!
実子・秀頼か、関白・秀次か・・・??
果たして秀吉の選択は・・・??

当時の秀次側近の記録には、秀頼と秀次の娘が婚約を結ぶべきと秀吉が命じたとあります。
つまり、秀吉は、当初秀頼を関白・秀次の後継者とすることでこの問題を平和裏に解決しようとしていました。
秀頼が順調に成人を迎えるのか??
もちろん確証はありませんでした。
その期間は、秀次に安定して関白職を任せておけるようにしたいと思っていたようです。

1594年4月、秀吉に病魔が襲い掛かります。
病名は明らかではありませんが、当時の記録には・・・
秀吉は意識不明となり、小便を垂れ流したとあります。
同じ頃、秀吉の朝鮮侵略は膠着状態に陥り、出陣した将兵の間に厭戦気分が蔓延していました。
先の見えない対外戦争・・・自らの病・・・徐々に疑心暗鬼が生じた秀吉は、自らの後継者問題に残酷な決断を下すことになります。

1595年7月3日、奉行衆が秀次を詰問。
秀次とその家臣たちが、秀吉に対する謀反の談合をして、武具などを準備していたためだという・・・
その5日後には、秀次の関白職を剥奪し、高野山に追放。
そして・・・7月15日、秀次は切腹して果てました。
享年28歳とされています。

京都市にある秀次の菩提寺・瑞泉寺・・・
ここに、事件のあらましを記録した縁起絵が伝えられています。
京・三条河原で秀次の正室や側室34人、そして秀次の子供5人が次々と処刑されました。
秀吉は、秀頼の将来に禍根を残さぬように秀次の一族を抹殺しました。
さらにその矛先は、関白の政庁だった聚楽第にも向けられ、跡形もなく破壊しました。

事件後、秀吉は有力大名たちに起請文を提出させます。
第1条にはこうあります。
秀頼に対し、いささかも裏切るような心を持たず、お守り申し上げること。
非情な手段で秀次を排斥した秀吉は、こうして実子・秀頼を正統な後継者と定めたのです。

2020年5月、京都で戦国史に新たな光を当てる大発見がありました。
京都御苑の南東の一角で、秀吉が築いた城の堀跡の一部が見つかったのです。
地中深くから現れたのは、戦国時代に多く見られる自然石を積み上げた野面積の石垣です。
こうした石が、5,6段積み上げられ、その高さは2m以上あったと推定されます。
この城は、当時の記録に新城と記録されていることから京都新城と呼ばれています。
秀吉が後継者となる秀頼のために築いた城です。
さらに、堀跡からは、京都新城の性格をうかがわせる貴重な遺物が発見されました。
金箔瓦です。
金箔が施された瓦には、豊臣家を象徴する五七の桐と、天皇の象徴・菊の紋様が書かれていました。
京都新城は、豊臣の権威というだけではなく、公家の権威、両方兼ね備えたお城でした。
堀跡が発見されたのは、京都御苑の仙洞御所内の一角でした。
その後の調査で、堀の幅はおよそ20mあることがわかりました。
京都新城は、東西400m、南北800mにも及ぶ巨大な城郭だったと推測されています。

江戸時代初めに描かれた絵図・・・京都新城の北側は、公家屋敷に囲まれ、天皇の御所である内裏があったことがわかります。

京都新城とはどのような城だったのでしょうか??
京都市にある西本願寺に、戦国時代に築かれた貴重な建物が保存されています。
国宝・飛雲閣・・・桃山文化を代表する建築のひとつです。
池に面した三層に築かれた楼閣は、来客をもてなす場として使用されていました。
飛雲閣は、これまで聚楽第の遺構と考えられてきました。
しかし、その建築年代が聚楽第より新しい京都新城の年代に位置することから、最近の研究では飛雲閣が京都新城から移築されたものだと推定されています。

京都新城は、周囲を巨大な塀で囲み、塀の中に深い堀が築かれ、城内には庭園の池に面した公家屋敷風の建物などが立ち並んでいたとされています。
聚楽第の中心部とほぼ同じ大きさで、当時、洛中に作られたお城としては最大級でした。
豊臣政権の威信をかけて作られたお城でした。
秀吉が、秀頼の為この地に城を築き始めたのは、1598年4月。
亡くなるわずか1年前のことでした。



秀吉は、どうしてこの地に城を築いたのか??
京都新城の北側に当たる場所に、秀吉が城を築いた理由を紐解くものがありました。
土御門第跡・・・もともとは、藤原道長が屋敷を持っていた場所でした。
時の最高権力の所在したところが豊臣政権の本拠である・・・そんなメッセージが込められていました。
平安貴族を代表する道長の屋敷跡を取り込み、公家屋敷に隣接した場所に城を築いた秀吉。
それは、秀頼を公家と一体化させようとしたためではないかと思われます。
当時、秀頼の年齢は5歳・・・豊臣政権の頂点に君臨するにはあまりにも幼過ぎました。
秀吉は、秀頼を公家化することで、豊臣家を永続させようと目論んだのです。
最晩年の秀吉が築いた京都新城・・・果たしてそれは、秀頼を公家化しようとして築かれたのでしょうか??

1597年4月15日、秀吉は秀頼や家康などを伴い京都新城に入城。
この時、秀頼は朝廷から破格の待遇を受け、わずか6歳で家康に次ぐ位階・従二位権中納言を授けられました。
ところが・・・京都新城から伏見城に戻った秀吉は発病し、そのまま寝たきりの状態になったといいます。
幼い秀頼に、いかに豊臣家を継承させるべきか??
病床の秀吉は、最終的な決断を迫られました。
5月、秀吉は、大坂城の強化を命じます。
そして、秀頼の居城を京都新城ではなく、大坂城と定めたのです。
2003年の大坂城の発掘調査で見つかった全長240mに及ぶ障子堀の跡・・・堅固な大坂城の防御力をさらに高める目的で、秀吉が命令した普請の跡だとされています。
秀吉は、大坂城を改造するだけでなく、有力大名を家族ごと城内に人質として住まわせます。豊臣家を継ぐ秀頼には、朝廷の高い官位だけでなく、武家の棟梁としての働きを期待したのです。
7月15日、秀吉は、有力大名を集め、死後の政権運営を11箇条にまとめたものを披露します。
そこに記されたのは、秀頼を支える大名たちの役割です。
伏見城には徳川家康が居住し、大坂城は秀頼の居城であるから前田利家がお守り役としてすべてお世話願いたい。
秀吉は、特に徳川家康と前田利家に秀頼を盛り立ててくれるよう依頼しました。
そして、8月5日、秀吉は、家康たちにあて最後の遺言を書き残しました。

”かさねがさね秀頼のこと、頼み申し候
 何事もこの他に思い残すことなく候”

この13日後、豊臣秀吉死去。
享年62歳でした。
そののち、秀頼は新たな豊臣政権のTOPとして君臨。
幼い秀頼を石田三成などの五奉行や、徳川家康を筆頭とする五大老が補佐する体制が整えられました。
ところが、やがて徳川家康がその本性をあらわにします。
秀吉が生前に定めた御掟にはこうあります。

”諸大名間の縁組は上様の御意を得て決定すること”

家康はこの御掟に反し、諸大名との姻戚関係を独断で結びました。
さらに家康は、伏見城に居住という秀吉との約束を破り大坂城に入城し、そのまま居座るばかりか新たに天守まで築きました。
家康は専横を極めました。
それを激しく糾弾したのが五奉行の石田三成でした。
やがて二人の対立は、家康を盟主とする東軍と、三成の西軍に二分。
全国を巻き込む内乱へと発展しました。
そのさ中、1600年8月29日、西軍が京都新城の堀や石垣を破壊。
史料には、禁裏のご近所の故なりrとあります。
天皇の御所が、両軍の戦いに巻き込まれないよう配慮したといいます。
秀頼の退去後、京都新城には北政所が移り住んだと記録されています。
この時の破壊に、彼女がどうかかわったのか、真相は定かではありません。

その15日後・・・9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが勃発。
戦に勝利した徳川家康は、やがて征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
豊臣家が滅亡したのは、そのわずか12年後のことです。

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「日本一の兵(つわもの)」・・・と敵からも称賛された戦国武将・・・
天下人、徳川家康の首まであと一歩と迫った男、真田信繁・・・真田幸村です。
信繁が名を上げたのは、大坂冬の陣!!
最大の激戦地で、彼の作った出城があの”真田丸”でした。

長野県上田市にある眞田神社・・・
真田家代々の武将が祀られています。
ここは、戦国時代、真田家が守り抜いた場所です。
真田は、億差上手で知られる徳川軍の攻撃を二度も退けています。
一体どうやったのか??

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1571年、真田信繁は真田家の次男として生まれます。
父は真田昌幸・・・兄は信之です。
当時、真田家は、武田信玄の配下で、わずかな領地を治めていました。
ところが・・・
1582年、武田家が滅亡。
すると、周辺国の北条、上杉、徳川が、旧武田の領地に勢力を拡大。
昌幸は家を守るためにその時々の有力な大名に忠誠を誓うことで生き残りを図ります。
その為次男の信繁は、上杉景勝をはじめとする有力武将に何回も人質として送り出されました。

信繁の初陣について、後世の軍記物にこう書かれています。

当時真田家が仕えていたのは徳川家康でした。
その徳川は、敵対する北条と和睦、すると、家康は昌幸にこう言いました。

「沼田を北条へ渡せ」by家康

「沼田は、家康より与えられた領地ではない
 アクマで真田が自力で獲得したものだ
 到底、承知できるものではない」by昌幸

家康は、命に背いた真田を討つべく、上田城に攻めてきました。(1585年第1次上田合戦)
立てこもる眞田の兵は2000!!
徳川の兵は7000!

はじめは家康が優勢でした。
徳川の兵は、手柄を立てようと城内になだれ込みます。
それが真田の狙いとも知らずに・・・!!
狭い通りに入ると、隠れていた真田兵が一斉射撃!!
慌てて撤退しようとする徳川軍に対し、別の城に潜んでいた兄・信之が挟み撃ちにしました。
真田は3倍の兵をもろともせずに、徳川軍に勝利し、家康を蹴散らします。

1587年真田家は新しく有力武将を探し、その配下となりました。
豊臣秀吉です。
信繁は、またしても人質となり、秀吉のもとに送られます。
しかし・・・これが幸運をもたらします。
秀吉に気に入られた信繁は、馬廻りに抜擢されます。
24歳の時には、宮中の官位を授かり、大名に取り立てられます。
さらに、豊臣の姓を名乗ることを許されました。
そして、秀吉の重臣・大谷吉継の娘と結婚。
豊臣家の家臣としての地位をゆるぎないものとしました。

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ところが・・・1598年、秀吉が死去。
やがて、秀吉の部下・石田三成と天下を狙う徳川家康が対立。
関ケ原の戦いへと発展します。
石田三成の西軍につくか、それとも徳川家康の東軍につくか・・・判断を間違えれば一族滅亡の危機でした。

1600年7月、栃木県佐野市にある犬伏で、真田家の3人が話し合いをしました。

「我は石田方につこうと思う」by昌幸

信繁もこれに同意・・・
しかし、兄・信之はこれに反対します。
信之は、家康の重臣・本多忠勝の娘と結婚していました。

「今更、逆心を企てるのも不義というものではないでしょうか」by信之

互いに譲らず、激論の末・・・

「親子離れ離れとなる
 それが家のために良いことであろう」by昌幸

真田親子は、西軍と東軍に分かれる道を選びました。
後に、犬伏の分かれと言われた話し合いです。
一方、徳川の軍は岐阜に兵を進めようとしていました。
信濃には上田城がある・・・
無視すれば、後ろから西軍と挟み撃ちにされる恐れがありました。
家康は軍を分け、秀忠に東山道を西へ向かわせます。
真田を討ち、その後合流して西軍との決戦に参加する予定でした。
その数3万8000!!
対する昌幸と信繁の兵はわずか5000!!

1600年第2次上田合戦・・・
数で劣勢の真田軍は、城に敵を引き入れると、集中砲火!!
退却する秀忠軍に、信繁が追い打ちをかけると敵は総崩れ・・・
またも、真田は徳川を退けたのです。

予想外の足止めを受け、秀忠軍は関ケ原の戦いに間に合わなかったと言われています。
勝利に意気上がる信繁のもとに、思わぬ知らせが・・・
関ケ原の戦いで、石田三成率いる西軍が敗北!!
わずか1日のことでした。
昌幸、信繁親子は、西軍として奮闘しましたが、最後は孤立無援となって降伏します。

真田に二度も苦杯を飲まされた家康は、死罪を命じます。
しかし、徳川方についた兄・信之の必死の嘆願で、なんとか命だけは取られずに済みました。
真田親子は流罪と決まりました。
この時、信繁30歳でした。

1603年、関ケ原の戦いで勝利した家康は、江戸幕府を開きます。
それから11年・・・戦国時代最大の戦い・・・大坂の陣が始まります。
この時信繁は、大坂城の南に出城を築きます。
真田丸です。

1600年、30歳・・・
和歌山県九度山町・・・関ケ原の後、信繁と父・昌幸は、ここに幽閉されていました。
高野山の人里離れた寺・・・ここで信繁は、7人の子供を授かります。
さらに、16人の家臣を養わなけれBならず、生活は苦しかったのです。
救いの手を差し伸べたのが、兄・信之でした。

故郷・上田で、十万石ほどの大名となった信之は、昌幸と信繁に仕送りを続けていました。
領地が与えられているわけではなかったので、お金については本当に苦労していたようです。
高野山周辺には行くことができました。
畑を耕したり、村人といろんな活動をしたり・・・それなりの自由はあったようです。
そんな中、信繁の楽しみは・・・酒でした。

生きてはいても、先が見えない幽閉生活・・・

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1611年・・・九度山に来てから11年目・・・信繁は41歳になっていました。
父・昌幸が64歳でこの世を去ります。
故郷・上田に帰ることは、叶わぬままでした。

41歳の信繁は、故郷・上田の親族に向けて・・・

”私も去年から、急に年もとり、ことのほか病気がちになりました
 歯も抜け、髭なども黒いところはあまりありません”

1614年・・・幽閉生活14年・・・秀吉の息子・秀頼の使者が来ました。
背景には、豊臣と徳川の深刻な対立がありました。
江戸幕府の開設後も、大坂城にいる秀頼が、大きな影響力を持っていたからです。
発火点は、寺の鐘でした。
方広寺・・・寺の鐘に”国家安康”とあります。
家康を、安の字で分断すると、徳川が糾弾する騒動となったのです。
これをきっかけに、開戦の機運が高まっていきます。
秀頼のもとには、職を失った武士、牢人が続々と集まっていました。
信繁は、秀頼の要請に応えようと、長男と共に九度山を脱出!!
大坂城に向かいました。
日頃から信繁と親しくしていた地元の人々は、誰一人、徳川に密告しませんでした。

信繁が大坂城についた頃、集まった牢人は10万に膨れ上がっていました。
城で開かれた軍議には、豊臣家の重臣・大野治長をはじめ豊臣恩顧の大名・長曾我部守親、毛利勝永、そして信繁は参加しました。
信繁は、城の外に打って出るべきだと主張します。
しかし、賛同する者は現れませんでした。
大野治長たちが選んだのは、籠城策です。
秀吉の築いた大坂城の守りの固さは、絶大だったのです。
意見が受け入れられなかった信繁・・・しかし、切り替えて、籠城策の中では最善と思う手を打ちます。
大坂城の南側・・・後に、真田丸と呼ばれる出城です。
真田丸は、大坂城から独立した出城と考えられています。
ここで、徳川の大軍を迎え撃つ・・・いよいよ、大坂の陣が始まろうとしていました。
この時・・・信繁44歳!!

1614年11月、大坂冬の陣が始まりました。
豊臣10万に対し、徳川は20万!!倍の兵力差です。
しかし、信繁は、真田丸で徳川の大軍をことごとく迎え討ち、一躍有名を馳せます。
予想外の苦戦を強いられた家康は、和睦を選ばざるを得ませんでした。
実戦経験が豊富なわけでもない・・・なのに、どうして家康を苦しめることができたのでしょうか?

全国の大名を動員した20万の徳川勢に、大坂城は完全に包囲されました。
最前線の真田丸には、信繁率いる6000の兵が立てこもります。
彼等の姿は、敵からもひときわ目を引きました。
寄せ集めの牢人たちを集め、士気を高めるために信繁が用意したのは赤備え・・・!!
徳川勢にとっては、格好の標的でした。
真田丸に向けて兵を進めます。

「攻め潰してやろうと襲い掛かってくる敵に、そう簡単にはやられはしない」

家康の命令により、徳川の兵は真田丸に不要に近づかずにいました。
信繁は部下に命じて、敵をあざけり挑発させました。
これに我慢できず、一部の兵が突撃を開始!!
すると・・・他の部隊も遅れまいと、雪崩をうって真田丸に押し寄せます。
徳川勢は、大きな空堀にどんどん落ちていきます。
そこで・・・当時のイエズス会の文献には

”あらしのように銃撃したため、大虐殺が繰り広げられた”

と記されています。

家康は、不甲斐ない味方の姿を見て、こうこぼしたといいます。

「戦い慣れない者が多すぎる
 足手まといになっただけだ」

関ケ原などの大きな戦いが終わった後は、合戦がない時代が続きました。
なので、実戦経験の乏しい人が増えてきていました。
大名も代替わりした家が多く、部隊を統制しきれず、前線の武士たちが動くことを止められませんでした。

豊臣勢が夜襲に備えて堀に提灯をつるしていましたが・・・
徳川軍は、弾除けとして竹を束ねた盾を作り、塹壕を掘り進めていました。
しかし、真田丸に向かう兵は、塹壕を掘っていません・・・孤立した出城に過ぎないと、真田丸を見くびっていたのです。
激戦となったのは、たったの1日でした。
それでも文献にはこう記されています。

”徳川方の死者、その数を知らず”

一説では、大坂冬の陣で討死した徳川勢の8割は、真田丸のこの一戦の犠牲者だといわれています。

徳川勢は、真田丸を攻略できず、戦いは膠着状態に・・・
正面突破が難しいと見た家康は、裏から手をまわ層としました。
信繁の叔父を密かに派遣し、味方になれば10万石を与えるという条件を示します。
しかし、信繁は・・・

「高野山で、困窮していたところを秀頼様に召し出され、一つの曲輪を預けられたことは幸運であり、その恩があるので徳川につけと言われても困る」

すると家康は、条件をさらに上げ、味方になった暁には信濃一国を与える・・・と伝えます。
しかし、これに信繁は激怒!!
家康は諦めるしかありませんでした。
信繁の奮戦で、戦いは1か月以上!!
その為、徳川勢の20万は野営を強いられます。
士気が低下し、寝返るものを恐れた家康は、水面下で和睦交渉を進めます。
それと並行して、大坂城に昼夜を問わず大砲で揺さぶりをかけます。
すると、その中の1発が、淀殿が居住する御殿を直撃!!
侍女が死亡するという事態となりました。
動揺した秀頼や淀殿は、家康との和睦に応じることにしました。
信繁は、戦いを続けるべきだと主張したと言われています。
ある資料には・・・信繁は、これで徳川方が油断するとふみ、家康の襲撃を企てたといいます。
しかし、家康は、豊臣の牢人たちが和睦に不満を募らせていると警戒していました。
その為、信繁は奇襲を断念したといわれています。

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12月19日、大坂冬の陣集結。
豊臣と徳川に和睦が成立!!
大坂冬の陣は終わりました。
家康は、秀頼の身の安全と、領地の安堵を保障する見返りとして、大坂城の堀を埋め立てるという条件を出します。
その結果、真田丸も取り壊されました。
戦いが終わって1か月後、信繁は故郷・上田の姉にあてて手紙を送っています。

”まずまず無事に済み、私も死なずに済みました
 明日になればどうなるか、わからぬ状況ですが・・・”

この時、信繁45歳でした。

大坂冬の陣が終わり、つかの間の平和が訪れました。
講和によって、堀はすべて埋められました。
しかし、集まった牢人たちは居座り続けていました。

「諸大名は、家康を恐れて我らを召し抱えてくれない
 再び戦をして報奨金をもらうしかない!!」

それが彼らの言い分でした。
大坂城の重臣たちは、和平派と再戦派の真っ二つに分かれ、秀頼も考えを決めかねていました。

1615年3月、信繁は、義理の兄に手紙を送っています。

”秀頼様のご寵愛は、程よいものではありますが、何かと気遣いが多いです

 定めなき世の中ですから、一日先のことは全くわかりません
 私などのことは、この世に生きている者とはお思いにならぬようお願い申し上げます”

大坂に、再び戦の気配が漂ってきました。

4月4日、徳川家康、大坂へ!!
豊臣方の牢人が、大坂城で戦の準備をしているとの知らせを受けたからです。
信繁は考えます。
堀が無ければ、籠城は不可能だ!!
野戦で決着をつけるしかない!!
信繁は、作戦を進言します。
秀頼が陣頭指揮を執り、畿内を押さえて徳川を迎え撃つと!!
しかし、豊臣の重臣たちは、京への秀頼の出陣に同意しません。
結局、大坂城の南で決戦に・・・!!

「敵が来たならば戦い、討ち死にするつもりだ」by秀頼

1615年4月27日、大坂夏の陣!!
徳川勢15万、信繁たち豊臣勢5万!!
しかし・・・戦力の差は歴然!!
豊臣方は、大坂城の南10キロの地点から大坂城に後退していくしかありませんでした。
5月7日、追い込まれた豊臣側は、一大決戦に出ます。
この時、豊臣の重臣が味方の全軍に向けて指令を出します。

「真田、毛利とよく相談するように
 迂闊な戦いをしてはならない」

最後の最後になって、信繁はようやく自分の考え通りに全軍を動かすことができたのです。
信繁こそが頼りになる武将だ!!
信繁が考えた起死回生の策は・・・??
信繁たちが総力をかけて闘い、徳川勢の主力をひきつけます。
その間に、奇襲部隊が迂回し、手薄となった家康本陣を一気に襲撃する!!
目指すは、家康の首!!
ところが、ことは作戦通りに運びませんでした。
奇襲部隊が配置につく前に、戦が始まってしまいました。
信繁は、それでも秀頼が出陣すれば、士気が上がると考えます。
信繁は、一緒に出陣した息子・大助を呼び寄せ、大坂城に戻って秀頼の出陣を乞うように命じます。
大助は、共に戦って最期を迎えることを願いますが、信繁は許しませんでした。

「お前が私と一緒に死んだら、誰が私に二心がないことを明らかにするのか
 行って、秀頼公を生死を共にせよ」

その間、戦いは信繁の考え以上に早く進み、激しい乱戦となります。
もはや、奇襲部隊が家康に迫ることは不可能でした。
万事休す・・・??
その時、信繁が目にしたのは、徳川勢に起きた異変でした。
味方に裏切者が出た!!という噂が流れると、気弱な兵が、我先にと逃げ出したのです。
天が与えた最後の好機!!

信繁は、一直線に家康の本陣へと突き進みます。
信繁の突進のすさまじさに、徳川勢は押される一方!!

”重臣たちは逃げ出し、家康の周りに残ったのはひとりだけだった”

家康は、徳川家の馬印が倒れるのも構わず、逃げだします。
家康は、二度、切腹を覚悟したといいます。

戦場を稲妻のような速さで家康に迫る信繁・・・
その姿を見た兵は、こう呼びます。

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しかし・・・ようやく徳川勢の援軍が駆けつけると・・・信繁はあと一歩及びませんでした。

大坂城の4キロ南にある安居神社・・・ここで信繁は討ち死にします。
45歳の生涯でした。

信繁を討ち取った武将によると・・・

”馬で高き所に乗り上げたときに、よき敵と遭遇
 言葉をかけ、互いに馬から降りて槍で組みあい討ち取った”

その夜、大坂城は落城し、大坂の陣は終わりを告げます。
信繁の武勇は、徳川勢にも鳴り響いていました。
信繁にあやかりたいと、その首から紙を抜いて持ち去る者が絶えなかったといいます。

信繁の息子・大助は、秀頼とともに自害。
しかし、真田家は、兄・信之によって受け継がれ、信濃国・松代藩として江戸時代を生き抜いていきます。
真田家の宝物を保管した「吉光御腰物箱」・・・
中にある文書には、西軍・石田三成から眞田家に送られた書状もあります。
兄・信之が入れたものだと考えられています。
幕府から謀反の嫌疑を受ける危険を冒してでも、昌幸と信繁が生きた証は真田の家宝として守られました。

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1598年8月18日、天下人がこの世を去りました。
貧しい農民の出身とされ、そこから異例の出世を遂げた豊臣秀吉です。
2020年、秀吉にまつわる歴史的大発見が立て続けに報じられています。

2020年5月「幻の城」京都新城の遺構が発掘される
     6月「駒井日記」の自筆原本の一部が発見される

こうした新発見により、秀吉の新たな人物像が明らかになるのでは??と、注目されています。
そんな秀吉が天下人となったのは、最後までて期待していた北条氏を攻め落とし、奥羽を平定し終えた1591年、秀吉が55歳の時でした。
天下統一を果たした秀吉は、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し、鎌倉幕府を興した源頼朝の像に向かってこう語ったとつたえられています。

「わしと同じく天下を取った頼朝公は、友のようなものである
 しかし、貴殿は帝の末裔であるが、わしは全く何もないところから天下を取った
 それは何事につけ、いつも心を働かせ、素早く動いたからである」

中国大返しも、尋常ならざる素早さでした。
まさに知略とスピードで、天下人となった秀吉・・・。
そんな秀吉の最後とは・・・??

1591年、天下統一を成し遂げたとの年、秀吉に不幸が訪れます。
側室・淀の方との間にようやく授かった男子・鶴松がわずか3歳で亡くなりました。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を養子に迎えると、関白職を譲り、自らは太閤と呼ばれるようになります。
しかし、隠居したわけではなく・・・その目は、海を越え、世界に向いていました。

鶴松を失くした1591年8月・・・
秀吉は、”唐入り”を全国に布告します。
唐(から)とは、当時の明のことで、秀吉は明を征服する為に、まずは朝鮮半島への進軍を計画します。
その狙いは、これまで海外への領土拡張や、途絶えていた明との貿易を再開するためなど、様々な説が唱えられてきました。
しかし、それらとは別の狙いがあったのでは??

秀吉の唐入り計画は、国際的要因が大きかったのでは??
当時、スペインは、世界征服を狙っていました。
その対象には、当然明、日本も入ります。
秀吉は、東アジアの政府苦悩野望を止めるために、機先を制するためだったのでは??
スペインによる日本征服を阻止する為に、その足掛かりになる明を先に支配下に置こうとしたのです。
肥前国・名護屋に拠点の城を築き始めます。
着工からわずか半年で完成した城の総面積は、当時の大坂城の次の規模を誇る約17万㎡。
秀吉の並々ならぬ意気込みが伺えます。

1592年4月、秀吉は唐入りの布告通り、16万の軍勢を朝鮮半島に送ります。
第1次朝鮮出兵・・・文禄の役です。
釜山に上陸した日本軍は、わずか半年で朝鮮の首都を占領し、全羅道を除く朝鮮半島のほぼ全域を制圧します。
この報せを受け、気を良くした秀吉は、5月18日、京都にいた関白・秀次に書状を送ります。
そこには驚くべき構想が書かれていました。

「三国国割構想」です。

・明国を支配した暁には、今の帝(後陽成天皇)に明の都・北京へ移っていただき、秀次が大唐関白となる
・日本での新たな帝は今の帝の皇子(良仁親王)か、帝の弟君(智仁親王)
・朝鮮統治は、秀次の弟である秀勝か宇喜田秀家が行うとする

日本・明・朝鮮を近親者などで統治し、秀吉はアジアの盟主となる壮大な計画でした。
さらに秀吉は、この時フィリピンも視野に入れていたといいます。
フィリピンがスペインに支配されていたことが理由でした。
秀吉は、フィリピンのマニラにいたスペイン人のフィリピン総督に、こんな親書を送っています。

”速やかに日本に使者を寄越して服従せよ!
 もし遅れれば、兵を派遣する!!”

恫喝とも取れる強い態度には理由がありました。
スペインによる日本征服計画を強くけん制し、抑制する効果があったようです。
現に、総督はマニラに戒厳令を敷き、秀吉が攻めてくるのではないか?というスペイン側の記録が残されています。
一説に秀吉は、この時ヨーロッパと香辛料貿易が盛んだったインドまで攻略するつもりだったともいわれています。
しかし、その広大な構想は、行き詰まりを見せます。

朝鮮半島で快進撃を続けていた日本軍でしたが、明の援軍が到着したことによって膠着状態に・・・
1593年3月、明(14代皇帝・万歴帝)との講和交渉が始まりました。
5月23日、秀吉は名護屋城で明の勅使と会見・・・
朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲することなど7つの条件を提示しました。
しかし、結局、秀吉の要求は明に受け入れられず、交渉は決裂してしまったのです。

この年、側室・淀の方との間に拾(秀頼)が授かります。
秀吉は、新築された伏見城に二人を伴って移り住みました。
その時、秀次の側近だった駒井重勝が書いた日記にも、秀頼のことが書かれています。

”御ひろい様
 一段とご息災に御座候”by駒井日記

将来は、お拾様と秀次の娘を結婚させ、舅と婿の関係とすることで、両人に天下を受け継がせるのが秀吉の考えでした。
当初は養子の秀次と、実の子である秀頼を共に盛り立てて行こうと考えていた秀吉でしたが、天下人も人の子・・・我が子がかわいくなります。
秀次に譲った関白に秀頼をつかせて自分の後継者にと望むようになります。

気持ちの変化は行動にも表れたようで・・・秀頼の生まれた4か月後・・・

”秀吉公が定めた「尾州国中御置目・について、一書をもって秀次公に申し上げる”by駒井日記

当時、尾張は秀次の領地でした。
しかし、この日記が書かれる前の月、秀吉が突然尾張を視察・・・
故郷である尾張の荒廃した様子をその目で確かめると、新たな定めを作る順守するように秀次に命じました。

御置目には、田畑が荒れた現状などを憂いたうえで、
・堤防を築き洪水対策を行う
・普請に従事する農民に酒や餅を配る
・陰陽師に土地を祈祷させる

尾張を復興するように書かれていました。

秀次は焦ります。
秀吉から命令されたということは、尾張を統治する者として、そして秀吉の後継者としてダメ出しを食らったようなもの・・・
関白の座を秀頼に譲らせるための秀吉の圧力・・・こうして秀次への圧力は始まっていたのです。

1595年、秀次が突如秀吉から謀反の疑いをかけられたのです。
なかなか関白の座を譲らない秀次に、秀吉が業を煮やし、謀反の疑いをかけたともいわれています。
そして・・・7月15日・・・
秀次は、無実を訴えながら、高野山で切腹・・・
その首は、京都・三条河原に晒され、さらに一族39人を見せしめのために同じ河原で処刑されたのです。
秀吉が亡くなる3年前のことでした。

秀吉は、聚楽第まで潰してしまいます。
そして、伏見城を増改築して豊臣政権の中心に据えようと、聚楽第の周囲にあった諸大名の屋敷も伏見へと移転させます。
ところが、1596年閏7月・・・M7.5の直下型地震・・・慶長伏見地震です。
被害は甚大で、大坂、堺、兵庫では多くの家が倒壊し、京都では伏見城、東寺、天龍寺などが倒壊し、死者は1000人を越えたと伝えられています。
この時、秀吉は伏見城にいたようです。
「当代記」によれば、城内で数百人が亡くなったものの、秀吉はなんとか無事で、台所で一晩過ごしたといいます。
そして翌日からは、伏見城から1キロ離れた木幡山に仮小屋を建て、避難生活を送ったと言われています。
この地震がきっかけで、この年の10月17日、「文禄」から「慶長」に改元されました。

文禄の役で、明との講和交渉が決裂した豊臣秀吉は、二度目の朝鮮出兵を決めます。
そして、1597年2月・・・配下の武将たちにこう命じます。

「全羅道をことごとく成敗し、忠清道にも侵攻せよ!!」by秀吉

これによって、総勢14万の軍勢が対馬海峡を渡り、第2次朝鮮出兵「慶長の役」が始まりました。
日本軍は、朝鮮水軍を壊滅させると、わずか2か月で慶尚道、全羅道、忠清道を制圧、反撃に出た明・朝鮮連合軍を蔚山の戦いで撃破し、朝鮮半島南岸の拠点を確保するのです。

和菓子 豊臣秀吉が名付けた 御城之口餅 15個入

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この時、秀吉61歳、まだ気力も体力もみなぎっていました。
秀吉に重用された戦国の名医・曲直瀬玄朔が記した「医学天正記」にはこんな記録が残されています。

「秀吉公が感冒を患ったので、桔梗湯を投与した」

感冒とは風邪のことですが、これ以外に秀吉が大きな病にかかったという記録は残っていません。

秀吉は、東寺が好きで近江長浜城や姫路城には入念に湯殿を作らせたといいます。
天下人になってからは、番医というお抱え医師団を形成、24時間体制で常勤させ、自分だけでなく、身内や大名たちの病も診察させたといいます。
ルイス・フロイスによると、秀吉は大坂城だけで300人の側室を有し、国中の美人や若い人妻の中で秀吉から逃れられた者はない・・・といわれています。

そんな秀吉のスタミナ源とは・・・??
秀吉が若い頃から好んだ食材は、ドジョウでした。
カルシウムが多く、アルギニンが豊富に含まれています。
秀吉は、若い頃、ドジョウを売って生計を立てていました。
どんなふうにして食べていたのでしょうか??

ドジョウ汁・・・ささがきしたゴボウとドジョウとネギを味噌で煮込んだものです。

元気の源です。

2020年5月、日本の城郭史を揺るがす大発見がありました。
豊臣秀吉が最晩年に築いたと言われる京都新城の遺構が派遣されたのです。
京都新城は、関白・豊臣秀次の屋敷だった聚楽第を取り壊した2年後の1597年、天皇が暮らす御所の南東に築かれたとされ、当時は太閤御所などと呼ばれていたことはわかっていました。
しかし、資料が少なく、遺構も見つかっていなかったため、正確なな場所や規模は不明のまま・・・幻の城と呼ばれてきました。
しかし、2019年11月から始められた発掘調査で、遂に京都御苑の傍にある京都仙洞御所の一角から南北8mにわたる石垣の一部が出土したのです。
その石垣は、野面積みの石垣で、秀吉の時代によく用いられた工法でした。
さらに、豊臣家が用いた桐紋が入った金箔瓦の破片も出土したため、この遺構は秀吉が築いた京都新城の一部に間違いないとされたのです。

京都新城からわかる秀吉の政治構想とは・・・??

秀吉は、5歳になった嫡男・秀頼のために、新しい城を築こうと考えました。
破却した聚楽第があった場所ではなく、天皇のいる御所のすぐ近くに建てよと指示したのです。
秀頼が、御所(内裏)の近くに住むことは、摂関家としての豊臣家の象徴行為でした。
秀吉は、秀吉が将来、関白になることを想定して、京都新城を御所の側に建てたのです。
関白となった秀頼の存在を天皇や公家たちにアピールするために建てられたのです。
急ピッチで築城された京都新城は、5か月で完成!!
1597年9月、秀吉は秀頼と共に入居しました。
そして、秀頼の元服の儀を行うのです。

しかし、その夢はうたかたの如く消えます。
秀吉の死後、1599年、秀頼は大坂城へ移ります。
その為、京都新城が使われたのは、わずか1年ほどでした。
その後、関ケ原の戦いで京都新城が破却されます。
今回発見された京都新城の遺構は、まさに秀吉の夢の跡でした。

1598年3月15日、京都醍醐寺三宝院の裏の山ろくで、後世に語り継がれる盛大な花見が催されました。
天下人・豊臣秀吉の醍醐の花見です。
700本の桜を植樹し、女房、女中衆1300人を招いたというまさに空前絶後の花見でした。
当日は、絶好の花見日和で、秀吉は、終始上機嫌だったといいます。
女房、女中衆全ての着物を新調し、途中でお色直しまであったと言われています。
贅の限りを尽くしたまさに、天下人・秀吉らしい豪遊でした。
平穏に見えますが・・・目下、朝鮮出兵中でした。
戦のさ中です。
1598年5月3日、秀吉は、朝鮮の状況を聞き、激怒します。
蜂須賀家政・黒田長政がその日の先鋒であったにもかかわらず、戦をしなかったというのです。

「臆病者めが!!」by秀吉

この時、年が明けたら福島正則、石田三成、増田長盛ら3人を大将とする第3次朝鮮出兵を計画していました。
そんな野望を熱く語っていた2日後・・・秀吉は、突如倒れてしまいました。

1598年5月5日、秀吉は、極度の下痢に襲われます。
当初は軽く考えていましたが・・・倦怠感と脱力感を訴え、食欲も減退・・・
尿失禁や手足の痛みの症状が出てきました。
しかし、やがて病状は回復・・・
秀吉は、翌年の再出兵に向けて、朝鮮の築いた城に兵糧や弾薬などを備蓄するように命じたほどでした。

ところが・・・
8月5日、秀吉の病状は再び悪化・・・
死期が近いことを知った秀吉は、徳川家康をはじめとする五大老に宛てた遺言状を書きます。

「くれぐれも秀頼のことが成り立つよう、五人の方々に御頼み申す
 何事もこの他には思い残すことなく候」

そして、この13日後の1598年8月18日、秀吉は62歳でこの世を去りました。
戦国の世を駆け抜けた波乱の生涯でした。

発病から3か月後に亡くなった秀吉・・・その死因は何だったのでしょうか?
秀吉の死因についての記録は少なく、今も謎に包まれています。
数少ない記録であるイエズス会宣教師フランシスコ・パシオの「日本年報」には・・・赤痢を患ったとあります。
高熱と激しい腹痛と下痢が続きます。
しかし、下痢の症状から亡くなるまで3か月あまり・・・秀吉の死が赤痢によるものならば、もっと早く命を落とすのでは・・・??
パシオは、秀吉が「時ならず胃痛を訴えた」とも書き残しています。
このことから、胃がんだったのでは??という説もあります。

尿失禁、手足の痛みがあることから、脚気という説もあります。
脚気は、悪化すると尿失禁、手足の痛み、歩行困難、錯乱などの症状が出る病で、ビタミンB1の不足により発症します。
日本人の主食である米と大きく関係しています。
米の灰が部分には、ビタミンB1が豊富に含まれていますが、精米して白米にすると、ほとんどなくなってしまいます。
その為、白米ばかり食べた結果、ビタミンB1が不足して脚気になるというのです。
そもそも、平安時代ごろから米を精米して食べる習慣はありましたが、当時、白米は貴族たちの食べる高級食でした。
秀吉の時代も同じで、貧しい頃には白米など食べられず、雑穀米でビタミン不足にはならないのですが・・・
出世していくにつれ、白米を好むようになり、ビタミンB1が不足し、脚気になった可能性が高いのです。

脚気で死に至ることはあるのでしょうか?
衝心脚気の可能性が高いと言えるでしょう。

1598年8月18日、天下人・秀吉が波乱の人生に幕を下ろしました。
遺言に従い、秀吉の亡骸は火葬されずに伏見城内に甕に納められて安置されました。
さらに、秀吉の死は公表されず、徹底的に隠されました。
その理由は・・・??
丁度その頃、朝鮮半島には、大名や武士などが出兵している段階でした。
その段階で、日本側の最高権力者の死が敵国に伝わると、日本の兵たちが帰国できない可能性があったのです。

朝鮮半島からの帰国命令が出され、引き揚げが開始されたの、秀吉の死から2か月後の10月・・・
そして、引き揚げの目途がついた翌年・・・1599年1月5日、石田三成ら五奉行によって秀吉の死が公表されました。
4月、伏見城内にあった秀吉の亡骸は、京都阿弥陀峰山頂にうつされ、密かに埋葬されました。
秀吉は、死後、自分を新八幡として神格化するように遺言していました。
秀吉は、対外戦争のさ中に亡くなっていく・・・日本を守りたいという遺志が「新八幡」という神号に込められていました。

ところが、神号を授ける後陽成天皇が秀吉に与えたのは、「新八幡」ではなく、「豊国大明神」でした。
秀吉の後継者である秀頼や、正室のおね、豊臣政権で最も力を持っていた徳川家康の意向を受けてのことだったといいます。
豊国大明神・・・豊芦原中津国を省略したもので、秀吉が日本を代表する存在であることを強調する意味が込められていました。
「新八幡」=武の神ですが、「豊国大明神」=武の神でした。
意味合いとしては同じようなものでした。
当時は、朝鮮半島から撤退するも、明や朝鮮との戦いが終わったわけではなく、秀吉亡き後も国内情勢も不安定な状態・・・内憂外患がある中で、秀吉の遺族や家康たちは、秀吉を豊国大明神という日本の象徴として神格化、国内外にいまだ豊臣政権が盤石であることを知らしめようとしたのです。
こうして秀吉は、死後、神となりました。

しかし、後を継いだ徳川家康によって、豊臣家は滅亡してしまいます。
その家康は、1604年、秀吉の七回忌に「臨時大祭礼」を開催しましたが、京都の人々にとって秀吉は生前、都を大改造するなど京都に活気を与え、好景気を与えた大恩人・・・そんな秀吉を敬い、祭りに熱中する京都の人々の太閤贔屓を目の当たりにして、家康、怯えたのかもしれません。
家康は、秀吉を祀る京都豊国神社を破却するよう命じます。
秀吉は、死してもなお、家康を恐れさせていたのです。

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