オールカラーでわかりやすい!戦国史

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私たちが魅了する名城・・・それはかつて、戦国大名が、意地とプライドをかけて築いたものでした。
強く賢く勝ち抜いた者たちが主・・・勝者・・・城は、成功の証でした。

広島城・・・江戸時代の初め、意地をかけた対立事件が起こりました。
征夷大将軍VS広島城主・福島正則・・・。
福島正則は、猛将と知られた戦国武将でした。
正則は、豊臣秀吉のもとで武功を上げ、天下取りを支えました。
戦国大名として関ケ原の戦いでは、徳川家康に味方し、先陣を切ります。
強い男・福島正則。。。この正則と対立したのが、江戸幕府2代将軍徳川秀忠!!

秀忠は正則よりも18歳年下・・・子供のようなものでした。
対立のきっかけは・・・広島を襲った大雨で、川が決壊!!
広島城の大部分が破壊されました。
正則は、城の修復を実施!!
ところがこの改修工事が大問題に発展します。
広島城改修を知った秀忠は激怒!!
その理由は、武家諸法度・・・城については厳しい決まりがあったのです。
”城を修築する際には、必ず報告しなければならない”のです。

秀忠は、改修工事はこの一文に反するとしたのです。
広島城のほとんどを壊すように正則に言いつけます。
正則59歳・・・苦しい選択でした。
これは、徳川幕府と諸大名の関係を決めた事件といえます。


1582年本能寺の変、天下統一を目前にした信長の死によって、その後継者争いが始まりました。
1583年賤ヶ岳の戦い・・・天下取りへの大きな一歩を踏み出した羽柴秀吉に従っていたのが23歳の福島正則でした。
秀吉に仕え始めたとき・・・石高はわずか200石でした。
この賤ヶ岳の戦いで一番槍の功績をあげ、秀吉に大きく貢献しました。
正則は賤ヶ岳の七本槍として名を上げました。
これが秀吉に認められ、石高は5000石に・・・!!
この後も秀吉の戦場には正則の姿が・・・秀吉の天下とりを支えたのです。
1595年正則は35歳で清洲城主・・・24万石の大名となりました。
清須城は、豊臣政権で特別な意味を持つ城・・・
この城は、正則が城主になる前は、関白の豊臣秀次が城主でした。
そのあとに、正則が入った・・・秀次の跡を受けて、豊臣氏を支える存在である・・・!!
わずか200石の小姓から有力大名へ・・・!!
戦場の実力でのし上がった男・・・それが福島正則でした。

一方、江戸城・・・250万石の大大名の息子として大事に育てられた徳川秀忠。
秀忠の少年時代に秀吉が天下統一を達成しました。
なので、戦を知らないまま成長します。
秀忠は、「父君の御庭訓をかしこみ守らせられ」・・・家康に従順な息子でした。
歳の差は18歳・・・育った時代も環境も違う二人・・・。
時代の流れが二人を手繰り寄せていきます。
1598年天下人・豊臣秀吉死去。。。享年62歳。
豊臣政権は大きく揺らぎ始めました。
跡を継いだのは、わずか6歳の豊臣秀頼。
この天下人を誰が支え、権力を握るのか・・・??
豊臣政権内部で権力闘争が勃発!!
それは、最大の実力者・豊臣秀吉と豊臣政権の実務官僚・石田三成との戦いでした。
数多くの戦いを潜り抜けてきた家康は、正則ら武将の信頼が厚く・・・
三成は、家康を豊臣の敵として糾弾!!
秀頼を守るべく軍勢を集めていました。

秀頼を囲う三成とどう戦うのか・・・??
小山評定で・・・
家康は、自分につくか、三成につくか・・・武将たちに判断させようとします。
その時・・・正則が口火を切りました。
「秀頼公の名を借りて、勝手な振る舞いをする三成を討つべし!!」
豊臣家乗っ取りをたくらむ三成が許せない!!
この猛将の叫びが、武将たちを結束させたといわれています。

しかし・・・正則は小山評定には参加せず、すでに戦場に向かっていたという節が出てきました。
家康が正則に宛てた小山評定6日前・・・7月19日の書状には・・・
「早々の御出陣ご苦労のことです。
 上方で石田三成に何やら不穏な動きがある。
 急いで人数・軍勢を登らせてもらいたい。」
つまり、正則は、小山評定よりも前に、いち早く戦場に向かっていたというのです。
家康は、正則に家康の軍事力の中核として期待していたようです。

1600年9月15日。。。関ケ原の戦い!!
家康の東軍の先鋒は福島正則!!
この時正則は、自らの3倍もの敵を引き付けて戦います。
激闘を続ける福島勢・・・やがて戦況は東軍有利に・・・!!
戦いは半日で決着がつきました。
福島正則・・・40歳、見事に家康の期待に応えます。

一方秀忠はこの時・・・

主力3万を率いて、家康の待つ戦場に向かっていました。
ところが上田で真田の抵抗に遭い軍勢はストップ!!
関ケ原の戦いに間に合わなかったのです。
秀忠の失態・・・歴戦の勇者・福島正則ここにあり!!

1600年11月・・・正則40歳の時、関ケ原の戦いの功績で新しい領地が与えられました。
広島県・・・安芸・備後49万石・・・倍の石高となりました。
広島城は、大きな天守に小さな天守が二つ連なり、規模は当時最大級のものでした。
天下一の城・・・敷地も今よりもはるかに広大で・・・今の広島市の中心部のほとんどが敷地で・・・
防御設備として天然の川を外堀として使い、櫓の数は88、鉄壁の城でした。

ところが・・・衝撃的な出来事・・・徳川家康征夷大将軍に就任!!
これは、正則達大名が、家康に従わなければならないことを意味していました。
1605年家康は、将軍の地位を息子・秀忠に譲ります。
将軍は代々徳川家が継いでいくことを示します。
そして、大名たちの力を削いでいく家康・・・!!

家康は、正則たちに江戸城の増築を命令します。
征夷大将軍の城・・・従わざるを得ない正則・・・!!
それ以外にも名古屋城の普請!!
この城は家康の息子とはいえ、一大名の城の普請・・・侮辱・・・!!
しかし、猛将・福島正則と言えども、他の大名が積極的に手伝う中、正則だけが拒否することなどできませんでした。
豊臣政権から徳川政権への完全なる移行!!

1614年、正則54歳で、家康が豊臣秀頼打倒の兵を挙げます。徳川の政権を確固たるものにするために・・・!!
大坂の陣で家康が諸大名を動員した総数は、およそ20万!!
ところが、そこに福島正則の姿はありませんでした。
江戸に留め置かれたのです。
秀吉や秀頼との結びつきが強かったから・・・
もはや邪魔者と化した正則・・・!!

一方大軍勢の指揮を大将として任されたのが36歳となった将軍・秀忠!!
「秀忠が武家を動員して戦争に勝てるのか・・・??」それが大坂の陣の意味でした。
秀忠は圧倒的な軍事力で秀頼を追いつめていきます。
1615年5月・・・まさのり55歳の時についに、豊臣家滅亡!!
福島正則の唯一の願い・・・秀頼の助命は叶わなかったのです。

天下を手中に入れた徳川親子・・・次の狙いは・・・
大坂の陣終結2か月後・・・1615年7月、武家諸法度発布!!
内容は13か条!!
諸国の城の修理と言えども、必ず報告しなければならない・・・
新しい城の建築は禁止・・・
戦国の世ならば自由にできたことをことごとく禁止したものでした。
戦の時代はもう終わった・・・それを大名に知らしめたのです。
人生をかけた豊臣が滅び、世の中も太平に向かう中・・・猛将・福島正則の出番はなくなりつつありました。

大坂の陣から2年後・・・
1617年、57歳の正則。。。
すでに老境に差し掛かっていましたが、運命の大災害・・・広島が大雨に見舞われます。
城の外堀としていた川が決壊!!
広島城は大洪水に見舞われました。
広島城本丸・二の丸・三の丸・総構の櫓・塀・・・
正則にとって広島城はプライドの象徴!!
元の姿を取り戻すために、城の修築を命じます。
形のそろった石垣は、敵に攻撃されにくい・・・広島城は、さらに守りの堅い城へと生まれ変わり、この改修工事に正則も満足なのでした。

しかし、この改修工事が二代将軍・秀忠の逆鱗に触れるのです。
この修築は、武家諸法度に背いている・・・!!
武家諸法度には城の修築について・・・
”諸国の城の修理といえども、必ず報告しなければならない”
正則の行為は、その条文違反・・・??

秀忠は正則に・・・
”本丸だけはそのままにして、二の丸、三の丸、城の囲いまで残すことなく破却するように!!”
つまり、本丸以外はすべて壊せ!!というものです。
そうなると、防御力はゼロに等しく、広島城は丸裸・・・城としての役割を成しません!!

正則・・・どうする??


正則は、秀忠の側近・本多正純に、城改修の申請をしていました。
にもかかわらず、秀忠が聞いていない・・・??

将軍・秀忠の命令に正則は・・・
正則が崩した石垣は、外からはほとんどわかりません。
防御の重要性のない石垣・・・本丸内部を破壊します。
城の破却を、本丸の石垣と櫓のみとしたのです。
城の一部だけ壊す・・・秀忠の言うように、すべて壊すことなど正則にはできませんでした。

その対立は、日本中に知れ渡ります。またもや戦乱になる??その可能性は・・・??
幕府は有力大名の家臣を呼び出し伝えます。
「福島正則の件は城を壊すことですでに決着した。
 正則を処分することはない。」と。

ところが・・・将軍・秀忠が下した処分は、改易!!
1619年6月2日、正則59歳の時・・・正則から安芸・備後49万石を取り上げ4万石の地へ・・・!!
戦場を駆け巡りのし上がった正則の戦人生は事実上終わりを告げたのでした。

この当時、城割といえば「防御をなくすこと」というのが秀忠の当たり前となっていました。
これからの平和な時代、籠城するような城は必要なかったのです。
戦国の猛将・福島正則が、幕府への対応のまずさで改易となったことは、全国の大名たちを震え上がらせます。
広島城改修事件・・・この事件で将軍の権威は絶対的なものとなって・・・その後、江戸幕府は大名の反乱もなく、250年保ち続けるのです。

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