日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:賤ヶ岳の戦い

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滋賀県長浜市にある賤ヶ岳・・・
今から430年前の1583年、賤ヶ岳の戦いが繰り広げられました。
戦ったのは・・・織田信長亡き後天下をとろうとした羽柴秀吉と、織田家存続のための忠義を誓った柴田勝家でした。

1582年6月2日・・・本能寺の変・・・天下統一目前にして織田信長が明智光秀の謀反によって無念の死を遂げます。
その後、群雄割拠で天下取りの野望を強く抱いていたのは、織田家家臣・足軽から成り上がった羽柴秀吉でした。秀吉は天下取りに邁進します。
賤ヶ岳の戦いの発端は・・・清須会議でした。
信長の後継者を決める会議・・・主な出席者は、秀吉のほかに・・・羽柴秀吉、家老・丹羽長秀、家老・池田恒興、筆頭家老・柴田勝家・・・・
勝家は、織田家存続のために、信長の三男・織田信孝を後継者に・・・しかし、事前の裏工作で、丹羽長秀と池田恒興を取り込んだ秀吉は、まだ3歳だった信長の孫・三法師を後継者としたのです。

織田家での立場を有利にした家康に対し、筆頭家老としてのメンツをつぶされた勝家・・・
二人はやがての戦の準備を始めていきます。
秀吉は、巧みな交渉術で、織田信雄、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀長、中川清秀、蒲生氏郷、細川忠興を取り込んでいき、着実に勢力を広げていく秀吉。

勝家は、一旦北陸に戻り、陣営拡大を図るものの交渉がままなりません。
味方は織田信孝、滝川一益、前田利家、佐久間盛政・・・。

12月7日、秀吉は琵琶湖北部にある長浜に先制攻撃をかけます。
長浜城は、勝家の養子・柴田勝豊が守っていましたが、戦となった際には勝家軍の最前線基地となる重要な城でした。
どうしても落としておきたい秀吉は、勝家親子の仲の悪さを利用し、勝豊を調略してしまいました。
12月20日、雪深くなる越前の間に、勝家の包囲網を調略しにかかります。
まずは織田信孝、しかし、このまま戦えば、主君である織田家に謀反を起こすことに・・・??

信孝が、安土城に入ることになっていた三法師を抱え込んで岐阜においていて、手放さなかった・・・
ことを理由にして攻めた!!と、大義名分を作りました。
そして、信孝と不仲だった信雄を利用し、自らの正当性を主張します。
追いつめられた信孝は、父・信長の家臣たちを頼りますが、そのほとんどは、すでに秀吉に懐柔されていました。
信孝はやむなく降伏し、三法師を渡し、岐阜城に蟄居します。
一方三法師を手にした秀吉は、利用し始めました。
三法師が入る予定だった安土城・・・戦で焼失していた安土城再建に向けての仮の館の建設を提案します。
「安土城を築くための木を切らせてほしい。」
これに対し勝家は、
「三法師様の為ならば、喜んで受けよう。」と、快諾します。
が・・・木の伐採の本当の理由は・・・??
近江、越前にかけて木を切らせ・・・切った材木を放置!!切株を勝家の方に向けて・・・道をふさぐ障害物としました。

1583年2月16日、秀吉は勝家が築いた包囲網を崩そうと、滝川一益に兵を向けます。
しかし、一益は””引くも滝川、進むも滝川””の名将!!
攻守ともに得意としていました。
準備万端にした秀吉は、数万の兵をもって三方から敵陣に攻め込みますが・・・
伊勢亀山城の守りは固く、苦戦を強いられます。
そんな中、一人立ち向かう男が・・・25歳の男・米田是政です!!
是政が三の丸に火を放ち、敵兵を城に閉じ込めると、戦況は一転!!
秀吉軍は鶴嘴で石垣を崩し、本丸へ・・・!!
その是政の奮闘ぶりに城は陥落寸前!!


この状況に危機感を覚えた勝家は、ついに出陣します。
3月9日、越前を発った勝家軍は・・・未だ溶けぬ雪をかき分けて南へ・・・!!
3月12日、柳ケ瀬に到着します。
ここに陣取って、秀吉との決戦に備えます!!

一方勝家出陣の知らせを受けた秀吉は、陥落寸前の亀山城に少しの兵を残し、勝家との戦に向かいます。
3月17日、柳ケ瀬から12キロ離れた木之本に陣取ります。
秀吉軍4万VS勝家軍2万の激突!!1か月以上に及ぶ戦いが始まりました。


標高421mの賤ヶ岳に本陣を置いた羽柴秀吉と柴田勝家は、戦を有利にするために、お互いに得意の布陣をします。
柴田勝家軍は、秀吉軍の半分の兵力しかなく、圧倒的に不利でした。
なので、得意の山岳戦に持ち込もうと、深い場所に陣を構え、長期戦を狙いました。
尾根に沿って横並びに配備し、敵が谷間に入ってきたら攻撃する!!
そして、少しずつ敵を倒していく方法です。

これに対して秀吉は、得意の平地戦に持ち込もうと、本陣、賤ヶ岳、余呉湖湖畔に横3段の部隊を配置しました。山から下りてきた勝家軍を平地で迎え撃ち、突破されてもその次の部隊で撃破するというものでした。
兵力で圧倒的な秀吉は、短期戦を狙っていたのです。

勝家の陣営に発砲して挑発する秀吉!!
長期戦に持ち込みたい勝家は応じません!!
戦が思うように動かないため、敵陣の様子を偵察しようとして高台に上った秀吉は驚きます。
想像以上に勝家軍の体制が巧妙だったのです。
短期戦は困難だ・・・秀吉は長期戦へと変えます。
柔軟な秀吉・・・整備を急がしたのが、陣城と呼ばれる砦です。
城内には武器、武具の保管場所や厩、台所、傷の治療場までありました。
この戦では、勝家も多くの砦を作りましたがそのほとんどが簡単なもので・・・それに対し、秀吉の築いたものは堀も深く、随所で屈折する守りの堅いものでした。

両軍が築いた砦は、戦国史上最多の20ヶ所以上!!
にらみ合いが続くこと1か月近く・・・膠着状態を破ったのは、勝家軍でした。
秀吉が近江に去ったことで息を吹き返した滝川一益が、北伊勢で挙兵します。
これに乗じて岐阜で蟄居していた織田信孝も兵を挙げました。
両軍で秀吉を挟み撃ちにしようとしたのですが・・・
秀吉はこの挑発に乗りました。
4月17日総兵力の2万の兵を率いて信孝のいる岐阜城を攻めたのです。
秀吉が本陣を離れた!!と、勝家に伝わります。
真っ先に動いたのは、勝頼の甥で鬼玄蕃の異名をとる佐久間盛政でした。
攻め込むなら秀吉のいない今しかない!!
と、秀吉に奇襲をかけたい!!と、申し入れました。
奇襲部隊が秀吉軍に気づかれないように奥まで入り込み、すきをついて攻撃を仕掛ける!!

4月20日午前2時!!
盛政は8000の兵を率いて出陣!!
あまり秀吉軍の守りの薄い余呉湖西岸ぞいを進軍していきます。
空が白み始めた頃・・・秀吉軍の大岩山砦を攻撃!!
虚を突かれた秀吉軍は戦うも午前10時・・・遂に陥落!!
およそ1000人の兵は討ち取られてしまいました。

盛政隊の猛攻に恐れをなしたのか隣の岩崎山砦の兵は、一戦も交えることなく敗走!!
これにより盛政は二つ目の砦も陥落させます。
柴田勝家に勝機が見えたその時・・・!!
深追いはいけない・・・それが鉄則!!勝頼は撤退をするように言いますが、盛政は勝家の命令を無視し、敵陣深くに留まり続けます。

岐阜に向かっていたはずの秀吉軍が・・・戻ってきました。
途中で大雨に遭い、吉備川と長良川が氾濫したために、大垣で足止めを食らっていたのです。
そう・・・まるで、天が秀吉に味方しているかのように・・・!!
4月20日正午、盛政の奇襲攻撃を聞いた秀吉は叫びました。
「我、勝てり!!」

秀吉は大垣から本陣のある木之本までのおよそ5kmを、わずか5時間で駆け抜けました。
世にいう”美濃大返し”です。
舗装されてもいない山道を時速10km以上!!
総重量30キロの具足をつけての奇蹟の移動でした。
どうして美濃大返しは可能だったのでしょうか?
槍をもって具足でつけての時速10kmは無理なので、身軽になって走ります。
当時はお貸し具足というのがあり、長浜城にあるそれを使って手ぶらの兵たちにその武具を使わせたようです。
また、この美濃大返しを可能にした立役者が秀吉の側近・23歳だった石田三成です。
兵站部として緻密な計画を立て・・・人員・装備の調達や輸送を管理していました。
沿道の民家に握り飯や替え馬などを用意させていたようです。
全てを手配し、マネージメントしたのが三成だったのです。
美濃大返しで高い評価を得た三成は、秀吉の重臣として天下統一へと向かうこととなります。
4月20日午後4時、秀吉は、機関の準備が整うと、すぐに大垣を出発!!
秀吉隊・1万5千の激走大移動!!
5時間後木之本へ到着した秀吉軍・・・大岩山で野営をしていた佐久間盛政は、赤々と灯る無数のたいまつに秀吉の帰還を知り驚愕します。
そして真夜中・・・盛政は闇夜に紛れるように撤退を開始します。
この時を待っていたかのように、秀吉は総攻撃を命じます。
50キロも走ってきて・・・敵も疲弊しきっているに違いない!!
攻撃は明日だ・・・!!と思っている盛政のスキを突いたのです。

逃げる盛政隊を追いつめる秀吉軍!!
一斉に敵軍に攻め込んでいきます。
最前線で活躍したのが、若武者・・・のちの賤ヶ岳七本槍です。
一番首を上げたのは、23歳の福島正則です。
そのほかにも、肥後の虎・22歳の加藤清正、片桐勝元、糟屋武則、平野長泰、脇坂安治、加藤嘉明・・・。
みな、20代から30代・・・若くて体力があったことで、過酷な移動に耐え活躍できたのです。
この戦で武功を上げた7人は、秀吉の天下取りを支えていくこととなります。

七本槍の猛攻の前に、必死の抵抗もむなしく・・・戦場となった余呉湖湖畔は修羅の場と化し、湖は両軍の血で真っ赤に染まったといいます。
撤退しながらも応戦する盛政、次々と討ち取られていく中でも勝負を捨てません。
前田隊と合流するまでは・・・!!
体制を整えて反撃に出るために・・・!!
しかし、その一縷の望みも、前田隊の突然の戦線離脱によって消え去ります。

柴田勝家からすると裏切りとなりますが、織田家家臣と言う意味では同格です。
大将と運命を共にするのではなく、勝ち馬に乗るのが当然なのですが・・・
利家は、親父殿と呼んでいた勝家についていましたが、秀吉とは幼いころから苦楽を共にしてきた親友でした。
どちらに着くか・・・??その決断に、中立を保つために戦場を退いたとも、秀吉との間に戦を前に土壇場で兵を引くという密約をしていたともいわれています。
利家の戦線離脱に、盛政隊は前後から秀吉軍の猛攻を受け、4月21日正午盛政隊総崩れ・・・。

盛政隊が崩れると、勝家本隊でも脱走者が続出し、残った兵はわずか3000だったといいます。
勝家は残りの兵で、最後の一戦交えようとしますが、家臣たちの説得に止む無く越前への撤退を始めました。
こうして賤ヶ岳の戦いは、秀吉の圧勝に終わりました。
秀吉が美濃から帰ってきて、わずか1日も経っていませんでした。
秀吉軍の中には、勝家の助命嘆願を願うものもいましたが、秀吉は
「池辺に毒蛇を放ち、庭前に虎を飼うようなものだ。」と、受け入れませんでした。

4月24日、越前に戻った柴田勝家は、秀吉軍の追撃を受ける中、お市の方とともに自害!!
城内にあった火薬に火を放ち、天守ごとと吹き飛ばす壮絶な死。。。

賤ヶ岳の戦い・・・秀吉にとっては、天下取りの最大の戦いでした。

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織田信長に仕えた大物家臣といえば・・・
柴田勝家と丹羽長秀です。
秀吉が姓を名乗るときに、この2人にあやかって、”羽柴”秀吉と名乗ったのは有名な話。

信長が、浅井長政を討ち滅ぼした時、朝廷の許可のもと部下たちに官位を与えました。
秀吉は”筑前守”、明智光秀は”日向守”、勝家は修理亮、滝川一益は”左近将監”、荒木村重が”摂津守”で・・・
長秀には越前守を与えようとしました。
すると・・・長秀は、今までどおりでいいと言い張って、さすがの信長も折れる他なかったとか・・・。
長秀は、忠実であったものの融通の利かない頑固者でした。

織田家臣のなかでの出世頭はもちろん”秀吉”。
勝家はそれを快く思わず敵意むき出しのバチバチ状態でしたが、長秀は秀吉を庇う立場をとります。
なので、信長の死後も、長秀は秀吉に味方しています。


1582年6月の本能寺の変後、秀吉は信長の敵・光秀を討つべく中国大返し!!
同じころ、四国征伐に備えて摂津・住吉の浦にいた長秀は、途中で秀吉軍と合流しています。

清州会議も、秀吉と勝家の権力争いの場になりましたが、長秀は秀吉と同じく信長の嫡孫・三法師を推しています。

でも・・・秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家を破ってから、丹羽家に陰りが見え始めました。
天下をとった秀吉に・・・下僚だった秀吉に臣従しなければならなくなったのです。
さらに・・・秀吉は、信長の三男・信孝を自害させ、小牧の戦いでは次男・信雄を攻撃しました。

怒った長秀は、越前府中の居城に籠もり、秀吉の招きに応じなくなります。
長秀にとっては織田家は主家。。。その主家の子供を次々と手にかけ、天下取りに突き進む秀吉に我慢ならなかったのです。

そのうち長秀は、持病が悪化し床に臥せるようになりますが。。。
1585年4月に突然病床で自害します。
勝家のように秀吉と戦うこともできず、前田利家のように従うこともできず・・・
自害は長秀の最大の抵抗だったのでしょう。

長秀は、腹を切り開き病巣を抉り出し・・・
握りこぶし大だったその病根を遺書と共に秀吉に送らせたと言われています。
秀吉も腰を抜かしたことでしょう。

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