日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:足利尊氏

歴史の人物たちの肖像画・・・あの偉人の肖像画な別人だった??

聖徳太子・・・

syoutokuこちらは法隆寺が持っていたもので、長年、最古の聖徳太子像だとされてきました。
しかし、近年では、疑問が持たれています。

この絵の最古の文献は、平安時代後期の学者・大江親通の「七大寺巡礼私記」によると・・・
この肖像画に描かれているのは聖徳太子で、古代中国・唐の人によって描かれたものだ、とあります。
しかし、現代になって検証してみると様々なことがわかってきました。
冠と衣装・・・これらは、飛鳥時代のものではなく奈良時代のものです。
これにより、描かれているのは奈良時代の人物では??
さらに、この肖像画に装丁されていた絹地に川原寺とあったので、もともとは奈良県明日香村にあった川原寺のものだったという説が浮上・・・!!
川原寺とは、第38代天智天皇が建立したといわれる寺院です。
そのため、この肖像画は、聖徳太子ではなく天智天皇に関わりの深い藤原氏の誰かでは・・・??といわれています。

聖徳太子と確証がないため、「伝聖徳太子像」と書かれています。



takaujiこの肖像画は、足利尊氏??
かつて教科書では、室町幕府初代将軍足利尊氏とされていました。
しかし、現在は尊氏としては乗っていません。
どうして肖像画ではないとされたのでしょうか?

問題となったのは、花押です。
この花押は、尊氏の嫡男・2代将軍足利義詮のもので、子が父親の頭上に花押を据えることはありえません。

さらに、ざんばら髪で刀を抜き、折れた矢を背負う姿が征夷大将軍に相応しくない・・・この肖像画は尊氏ではないとされました。

では誰なのか・・・??

武具に書かれた家紋は、高氏の家紋です。
このことから、子肖像画は、高師直かその息子の師詮といわれています。

では実際の尊氏は・・・??

takauji2

神奈川県立歴史博物館に尊氏の肖像画があります。

頭には兜をかぶり、背負う矢も折れていません。
これは、江戸時代の模写本で、原本は残っていません。
室町時代にこの絵の原本となった絵のことについて書いた記述が残っています。

そこには、尊氏が紺色の”おどし”を着ていたという記録が残っています。
そしてこれがそれにあたるのではないか?といわれています。
さらに、この絵の左上に”尊氏”の文字があります。
これによって尊氏像であることがわかります。


では原本はいつごろ製作されたのか・・・??
延文三年とあるので、その頃・・・1358年頃かと思われます。
延文三年は、尊氏が亡くなった年に当たります。
追善供養のために、2代将軍義詮が製作を企画したものかと思われます。

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観応元年~3年(1350~52)・・・室町時代草創期、朝廷が二つに分かれ南北朝時代と言われたころ・・・
幕府内の抗争に端を発した全国規模の争いが勃発・・・世にいう観応の擾乱です。
相対したのは室町幕府初代将軍・足利尊氏とその弟・足利直義です。
兄弟喧嘩が全国の武士を巻き込んだのです。

1336年、足利尊氏は京に室町幕府を開きます。
尊氏は政務にはほとんど介入せず、尊氏が執り行ったのは軍事を取りまとめることでした。
武士たちの手柄を査定する論功行賞を行い、恩賞を与える権利(恩賞充行権)を執行することでした。
代わりに政務に当たったのは弟・直義・・・所領の裁判や寺社勢力との土地をめぐる交渉などを一手に引き受けていました。
まさに、兄弟二人三脚で歩み出した室町幕府。
このまま順調に行くと思われましたが・・・幕府内に不協和音が!!
原因は、直義と幕府の重臣・高師直との対立でした。
高師直は主君・足利尊氏に従い、各地を転戦・・・室町幕府樹立に貢献した武将でした。
将軍に次ぐNo,2の執事(のちの管領)として幕府を支えていました。
最も重要な仕事は、尊氏が出す恩賞に関する文書を発給すること。
さらに、京の北朝と吉野の南朝を二人の天皇が存在する中、幕府が支持する北朝との交渉を行っていました。

そうした師直の幕府の権力をさらに強める出来事が・・・
南朝を樹立した後醍醐天皇の遺志を継いだ後村上天皇が幕府を倒そうと画策。
その動きに呼応して・・・1347年河内国で南朝方の楠木正行が挙兵。
尊氏はすぐに討伐軍を派遣しますが、大敗を喫してしまいました。
そこで・・・戦を得意とする師直を、討伐軍の大将として出陣させることに。
すると師直は、1348年1月、見事に楠木軍の城を落としたのです。
さらに、勢いそのままに南朝の後村上天皇に兵を差し向け・・・皇居、公家の邸宅、寺社まで焼き払いました。
こうした師直の活躍によって幕府は危機を回避・・・その軍功によって師直は直義をも凌駕する力を得るように・・・
尊氏が行っていた論功行賞まで行うようになりました。
しかし、師直の恩賞の与え方は問題があったようで・・・
すべての武士を満足させられるほどの恩賞が与えられてはいませんでした。
不満を持った武士たちが、直義につき、高師直との対立を深めたのです。
唐居jの武士たちにとって領地の与えられる恩賞は、何よりも重要でした。
そのため、恩賞次第で誰につくかを決めていました。
さらに直義は師直が論功行賞まで口を出すことにいら立っていました。
そんな中、直義の腹心だった上杉重能と、畠山直宗が直義が信頼を寄せる僧侶を使通じて師直の悪行を密告してきたのです。
師直がこんな暴言を吐いていると・・・
「天皇は、木や金で作った人形で十分・・・生身の天皇は、遠くに流してしまえ」
しかし、これは師直に嫉妬した二人のねつ造でした。
ところが直義はこれを信じてしまいます。

1349年6月、直義は上杉や畠山らと師直殺害計画を立てます。
それは、100人以上の兵を配し、師直を襲わせるというものでしたが・・・この計画は師直の知るところとなって計画は失敗に終わります。
すると直義は、兄である尊氏に直談判に・・・!!
尊氏は弟の言葉を信じます。
師直は執事を解任され、所領も没収・・・幕府から追放されてしまいます。
罷免されてからわずか2か月後・・・師直は5万を超える兵を率いて京に攻め入るというクーデターを決行します。
危険を感じた直義は、兄・尊氏の屋敷に避難するも、師直の軍勢に取り囲まれてしまいます。
師直は、自分を陥れた上杉重能と畠山直宗の身柄の引き渡しを要求・・・

すると尊氏は・・・
「わしに指図するのか??
 家臣に強要されて下手人を出した先例などあるものか?!
 そんなことをするくらいなら討死じゃ!!」
激高する尊氏を何とか治める直義・・・
そして腹心である上杉と畠山を越前国に流罪にし、自身も政務から引退することを師直に約束し、事を治めたのです。
師直のクーデターは、対立する忠直の政務引退という当初の要求以上の大成功を治めます。
しかし、師直はそれにとどまらず、中国地方を統治していた直義の養子・直冬にも兵を差し向けたのです。
ただ冬はそれに屈し、九州へと逃れます。
さらに師直は、越前に流されていた上杉と畠山を殺害させたのです。

九州へと追いやられた直冬は、尊氏の実の子でした。
ところが身分の低い側室から生まれた子であったためか、尊氏に疎まれ、実の子として認められないなど冷たく当たられていました。
それを見かねた直義は直冬を養子にし、可愛がっていました。
それなのに・・・自分だけでなく直冬まで追いやられるとは・・・!!

1349年8月21日、高師直は、再び執事に返り咲きました。
その2か月後・・・身を引くことになった直義の跡を継いで政務に綾ることとなったのは、尊氏の子・足利義詮でした。
正式な引継ぎを終えると直義は出家し、粗末な家でひっそりと暮らしたのです。
ところが、黙っていなかったのが直義の養子・直冬でした。
九州で味方を募り、勢力を拡大!!
1350年9月、直冬が反幕の兵を挙げます。
10月16日、足利尊氏は直冬討伐を決意!!

自ら兵を率いて28日に師直と共に九州に向け京を出発することに・・・
その2日前・・・直義が密かに京を出ているという知らせが舞い込みます。
師直は、直ちに尊氏に進言します。

「悪い予感がいたします。
 あちらも兵を挙げるやもしれませぬ。
 出陣を取りやめ、直義殿を探した方がよろしいかと・・・」by師直

「予定通り出陣じゃ!!」by尊氏

尊氏は直義のことなど気にも留めていませんでした。
出家した直義に味方する武将などいないと思っていたのです。
それは尊氏の判断ミスでした。
直義は京を出ると石川城へ・・・次々と味方を集めていたのです。
打倒師直!!
各地の武士が次々と挙兵!!
中には師直の恩賞の与え方に不満を持っていた尊氏派の武将もいました。
さすがの尊氏も無視できなくなり・・・直義はさらに禁じ手を・・・!!

河内国に入った直義が向かったのは、幕府と対立していた南朝!!
直義は軟調に和睦を申し入れたのです。
直義は、南朝と手を組むことで、その権威と戦力を利用して尊氏と師直に対抗しようとしたのです。
直義の申し出に南朝では激論が交わされましたが、ここで直義と手を組むことが南朝復活のきっかけになると考えました。

直義が南朝と手を組んだことで、武士たちが直義側にもつくことに・・・
1351年1月7日、直義軍は、京の石清水八幡宮を占拠、師直討伐の準備にかかります。
観応の擾乱の幕開けです。
直冬討伐のために京を出発していた尊氏と師直でしたが、直義が南朝と手を組んだことを知ると急いで戻ります。
1月10日には、山城国山崎に着陣。
15日には義詮も合流します。
しかし、形勢が直義軍に傾くと、尊氏・師直軍は寝返り始めました。
尊氏たちはますます追い込まれることに・・・



そんな中、1351年2月17日、摂津国新出浜で直義軍と尊氏・師直軍が激突!!
尊氏・師直軍は、直義軍に完膚なきまでに叩きのめされるのです。
観応の擾乱第一章は、直義軍の勝利でした。
ところがこの時、戦場に直義の姿がありませんでした。
遠く離れた石清水八幡宮で傍観していました。
直義は師直を粛正し、排除するのが目的で、尊氏と敵対するつもりは全くなかったのです。
2月20日、尊氏と直義の和睦交渉が行われました。
尊氏は和睦の条件として師直の出家を提案し、直義はそれを受け入れます。
その4日後、師直は出家・・・京に帰る途中で斬殺されてしまいます。
犯行に及んだのは、かつて師直に貶められた上杉重能の息子の軍勢と言われています。
差し向けたのは直義だったともいわれています。
1351年2月26日、幕府のNo,2、高師直死去。
その死はあまりにも酷いものでした。

兄・尊氏と和睦を結んだ直義は、尊氏の子・義詮の補佐として幕府に復帰します。
直義の養子・直冬も、幕府の一員となり九州の統治を任されます。
すべて思い通り・・・安堵したのもつかの間、誤算が生じていきます。

直義の誤算①南朝との和睦
南朝との和睦交渉が行き詰まります。
直義は和睦の条件として南朝と北朝がそれぞれ交互に天皇を出し合い一つの朝廷にする・・・ところが、南朝はこれを断固拒否!!
5月15日、5か月に及んだ和睦交渉決裂!!
この交渉失敗によって、直義は幕臣たちからその政治力を疑問視され、信頼を失います。

直義の誤算②恩賞の権限
尊氏に恩賞充行権を残していました。
敗者であるにもかかわらず尊氏は・・・
「わしに従った武士への恩賞を最優先にすべきであろう」と言ったのです。
尊氏は将軍として恩賞を広く与えれば、直義に味方した武士も自分のもとに戻ると考えたのです。
恩賞を与える権限だけは死守したかったので、直義に対して強気に出たのです。
武士に十分な恩賞を与えて満足させないと、自分に従ってくれないことを尊氏は思い知ったのです。
直義の目的は、師直の排除と直冬の容認にありました。
擾乱以前の体制に戻すことを望んでいたので、恩賞充行権を取り上げなかったのです。
しかし、この判断が直義を追いつめていきます。

尊氏は、勝った直義側の恩賞よりも、負けた自分の武士の恩賞を優先します。
直義は自分の配下の者にも平等にというものの・・・それは叶えられませんでした。
勝利に貢献したにもかかわらず、満足に恩賞を与えられなかった武士たちは大いに失望します。
彼らまで直義から離れていきました。

さらに直義の誤算は続きます。
直義の誤算③義詮の反発
義詮が強く反発するようになります。
義詮は補佐の直義が自分の立場を奪いかねないと畏れます。
一説に義詮は自分を将軍に・・・とした高師直に恩義を感じていたので、直義を恨んでいたともいいます。
義詮は土地の所領に関する政務、土地の訴訟をめぐる裁判を管轄する直義に対し、御前沙汰という裁判機関を新しく設けます。
義詮は土地の問題に関して独自に対応したのです。
直義とは別の方法で・・・!!
所領争いの裁判は、元々土地を持っていた寺社側が、代わって土地を得た武士側を訴えるのが殆どでした。
直義は双方の言い分を聞き、吟味して裁定していました。
しかし義詮は寺社側の訴えのみを聞いて裁定。
裁判のスピード化を図ったのです。
これに喜んだ寺社側も直義から離れていき・・・幕府内で孤立を深めていきます。

相次ぐ誤算によって信頼を失った直義・・・
7月19日、直義は尊氏に対し、政務からの引退を申し入れます。
尊氏は直義を説得し、引退だけはとどまらせたものの・・・直義に、政治に対する熱意や意欲はありませんでした。
同じころ・・・南朝が幕府から寝返った武士たちを取り入れたことで力を盛り返し、各地で挙兵したのです。
尊氏は南朝軍を討伐する為に京を出陣!!
多くの武士たちが付き従いました。
そのため、直義は留守を任されることとなりましたが・・・不可解な行動に出ます。
深夜、京を出て北陸へ向かいます。
どうして京を離れたのでしょうか?
直義は、兄・尊氏の出陣は南朝を倒すためではなく自分を包囲する為に、殲滅する為に出陣したのだと考えたのです。
夜陰に乗じて京を出たのです。
それは、直義の誤解ではなかったか??
直義と南朝の講和(和睦交渉)の失敗により、全国各地の南朝方の武士が挙兵したのです。
南朝の武士を討つための尊氏の挙兵を直義は自分を討つためだと誤解したのです。

尊氏は使者を北陸に送り、直義に戻ってくるように説得します。
しかし・・・尊氏の説得にもかかわらず、直義は帰ってきませんでした。
そのうち・・・全国の武士が高氏派、直義派に分かれて、各地で戦乱をおこします。

おさまれと わたくしもなく 祈るわが
    心を神も さぞ守るらむ      by尊氏

闘わなくてもいい相手でした。
早く戦いが終わってほしい・・・

しかし、9月12日尊氏と直義の和睦が成ってからわずか7か月後・・・再び戦うことに・・・!!
二人は琵琶湖の北東にある八相山で激突!!(八相山の戦い)
地の利を得た武士がいた尊氏軍が勝利します。

10月2日、近江国錦織興福寺で和睦交渉を行います。
話し合いは決裂・・・尊氏は・・・??
南朝との和睦交渉を始めます。
敵対していた尊氏に南朝は困惑・・・しかし、尊氏が、今後天皇は南朝の皇族からのみ即位させると提案したことで話はまとまります。
どうして南朝と手を組むことに・・・??
尊氏は直義が失敗した南朝との和睦を実現することで、直義と和睦するつもりだったのです。

11月3日、尊氏の子・義詮が幕府の使者となり、南朝との和睦を締結。
その内容はおおむね尊氏の提案でしたが・・・尊氏は不満を露にします。
そこには、直義を追討せよという文字があり、義詮がその条件を受け入れてしまったのです。
しかし、この条件で南朝との和睦が成立・・・
11月4日、尊氏は京を出発・・・弟直義追討の兵を挙げるのです。

義詮は直義を武力で倒すため、尊氏と共に出陣を希望していました。
尊氏はすべて断っています。
義詮を連れて行くよりも単独の方が直義と和睦できる余地があると考えていたのです。
最後の最後まで、講和を諦めていませんでした。

直義は・・・??
北陸を経由して鎌倉に向かっていました。
11月15日、配下の武士・上杉氏の本拠地・鎌倉に到着。
11月29日、駿河国薩埵山に尊氏軍が3000の兵で布陣!!
大軍を率いて直義も鎌倉を出発し、尊氏軍を包囲します。最後の決戦・・・!!
そこに、直義の姿はりませんでした。
直義は伊豆国府に籠り、そこから一歩も動こうとはしませんでした。
この時直義が読んだ歌が・・・

暗きより 暗きに迷う 心にも
       離れぬ月を 待つぞはかなき   by直義

どうして兄と戦わなくてはならないのか?
どうしてこんなことになってしまったのか?
兄と戦うことはできませんでした。
そして尊氏もまた・・・薩埵山に布陣したまま動こうとはしませんでした。
そんな中、義詮は関東の武士たちに使者を送り、味方になるように促します。
12月15日、これに下野国の宇都宮氏が挙兵し、尊氏側につきました。
一気に直義軍が劣勢に立たされ撤退・・・。
1352年1月・・・直義降伏・・・ついに観応の擾乱第二章は、尊氏軍の勝利に終わります。

鎌倉浄妙寺・・・兄・尊氏との戦に敗れた直義はこの寺に幽閉されることに・・・
直義の体調は悪化・・・
2月26日、奇しくも高師直を暗殺してからちょうど1年後・・・直義は46歳でこの世を去ったのです。
この時、兄尊氏はまだ鎌倉にいました。
戦後処理のために鎌倉に腰を落ち着け、東国の統治に専念することにしたからです。
しかし、弟の最期に立ち会ったのか・・・??それはわかっていません。

室町幕府を二つに引き裂いた観応の擾乱・・・後の幕府を大きく変えます。
積極的に武士に恩賞を与えるようになりました。
武士の室町幕府への忠誠や支持が強まり、政権の基盤が強化されました。
南北朝の争乱が集結し、室町幕府の覇権が確立する意義のある戦乱でした。

全国規模で戦ったことで、武士の数が増加!!
江戸時代まで続く武士中心の世界は観応の擾乱から始まったといえます。



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大楠公として歴史に名を残す英雄・楠木正成。
1331年8月、150年にわたった武家政権鎌倉幕府と後醍醐天皇との対立が表面化します。
我が子への皇位継承を望む後醍醐天皇・・・それを阻む幕府に不満を募らせていました。
天皇へ政の実権を取り戻すことを望んでいたのです。
これに、河内の土豪・楠木正成が呼応します。
武力と財力を備えた有力者だった正成。
権威を振りかざし、権益を独占している鎌倉幕府に憤りを感じていました。
後醍醐天皇の元に馳せ参じ・・・
「天下を改めるには、武略と知謀の二つでございます。」
河内国に戻った正成は、500の手勢で赤坂城で蜂起!!
幕府は30万ともいう兵で赤坂城を攻撃します。
大木や岩、熱湯で撃退する正成。
兵糧攻めに転じる幕府軍に対し、城に火を放ち、夜に紛れて赤坂城を脱出自害したように見せかけます。
幕府軍は、正成たちが自害したと思い込みます。
しかし、敗れた後醍醐天皇は隠岐に流され、正成も行方不明・・・。

赤坂城脱出から1年後、正成は突然紀伊で挙兵!!
神出鬼没の戦いで、河内を取り戻した正成は、金剛山の支脈に千早城を新たに築きます。
1333年2月、鎌倉幕府の大軍が、千早城に襲い掛かります。
正成は、幕府軍に油を浴びせ火を放つなど、奇手、奇策で大軍勢を撃退!!
寺社勢力の協力もあり、籠城は100日にも及びます。
後方からの支援を受ける正成は、反対に大軍勢の幕府軍の兵糧を脅かします。
持久戦に持ち込まれた幕府軍の戦意は、下がる一方・・・。
正成奮戦の効果は、各地に波及していきます。
千早城一つ落とせない幕府は恐るるに足らず!!と。

幕府軍の大将・足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返ります。
尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を壊滅!!
ここに、鎌倉幕府150年の歴史は幕を閉じることとなります。

隠岐を脱出した後醍醐天皇は、正成に先導され、京都に凱旋!!
1333年6月後醍醐は念願の建武の新政を開始!!
所領争いなどに、前例を省みない判決をし、破格の人事を次々と断行していきます。
痴ほうの土豪に過ぎなかった正成も、天皇の親衛隊長・・・武者所に任命されます。
異例づくめのスタートを切った天皇中心の政治・・・しかし、それはやがて武家だけではなく朝廷内に大きなわだかまりを作ることとなるのです。

鎌倉幕府の大軍との戦いを耐え抜き、建武の新政の立役者となった楠木正成。
地元の墓地には・・・供養塔・見方塚があります。
楠木軍の戦死者は、村人の墓石に囲まれるように祀られていました。
この墓地にはもう一つ正成が立てた供養塔があります。
幕府軍の戦没者が敵ではなく寄手と呼んでいる寄手塚・・・場所は見方塚より小高いところに大きい墓石で建っています。
戦での死者を敵味方なく弔った楠木正成は、平穏な時代の訪れを願っていたのかもしれません。
しかし、鎌倉幕府討幕からわずか2年・・・旧幕府残党を押さえるために鎌倉に下っていた足利尊氏が後醍醐政権から離反します。
反乱の鎮圧後も、上洛の命令に従わず、鎌倉を動かない尊氏を、後醍醐天皇が討伐しようとしたためでした。
ところが尊氏はこの戦いに勝利し、京都を制圧することになります。

比叡山へのがれた後醍醐天皇の元に、正成ら朝廷軍が集結します。
1336年1月、体勢を立て直した朝廷軍は、朝敵となった尊氏軍に総攻撃を仕掛けます。
正成率いる軍勢は、市街戦でも見事な働きを見せ、5万騎ともいわれる尊氏軍を洛中から駆逐しました。
ここで正成は一計を案じます。
自分がまたもや死んだと偽装して、勝ったはずの朝廷軍があたかも散り散りに逃げているように見せかけたのです。
尊氏は洛中に戻るや、逃げる朝廷軍に追手をかけます。
正成の狙いはそこにありました。
手薄になった洛中の尊氏軍に、総力を挙げて襲いかかったのです。
尊氏軍は、慌てふためき逃亡する者、自害する者、中には出家して僧になってしまうものまでいました。
正成はついに、尊氏を追いつめたのです。

しかし・・・優勢の朝廷軍の中から、逃げる朝敵・尊氏軍に付き従うものがたくさんいたのです。
彼等は、所領の拡大など、討幕の功績による後醍醐天皇の恩賞が十分でないと不満を持っていたのです。
混乱する戦場で、正成は選択を迫られます。
尊氏を討ち取る??それとも追撃をやめる??
楠木正成は、現在の兵庫県芦屋の一角で兵を挙げ、足利尊氏との一戦に臨みます。
尊氏を追いつめた正成・・・このまま決着をつけるのか・・・??

終日激戦を繰り替えし、夜になって何を思ったか正成は引きました。
敢えて追撃しなかったのです。
都に戻った正成は、後醍醐天皇に思い切った策を進言します。

「どうか、尊氏卿を召し替えされて、和睦をしていただきとう存じます。
 戦に敗れた尊氏軍に、朝廷方の輩まで付き従っていきました。
 どうか、帝に徳のない事をお分かりください。
 尊氏たちの反撃を受ければ、防ぐ術はございません。
 武略の道においては、いやしき正成に間違いはございません。
 今すぐご決意下さい!!」by正成

しかし、正成覚悟の進言は、一笑に伏され聞き入れられることはありませんでした。
正成の頭の中には、足利尊氏がいてこその後醍醐天皇の政権は続けられると考えていたようです。
足利尊氏をカリスマ的存在として認識していたのです。
正成は、合理的、実利的に選択する面があったと言えます。

正成の進言から2か月後、九州に落ち延びていた尊氏は大軍勢で京都に進軍!!
戦えば明らかに不利な状況で、正成は懇親の武略を巡らします。
それは、天皇を再度比叡山に・・・そして、京都を空にして尊氏軍を引き込み兵糧のルートを絶って市中殲滅戦を展開するというものでした。
正成らしい弱者の兵法でしたが・・・

「戦いもせずに帝が一年も都から逃れるのは、権威失墜につながる。
 今まで勝利してきたのは、武士の戦略ではなく、帝の運によるものである。
 サッサと出陣せよ!!」by公家

討ち死にせよとの命令か??
菊水の旗印の元、僅か500騎で湊川に向かった正成は、尊氏の大軍を前に激闘を繰り広げます。
1336年5月25日、刀折れ、矢尽きた正成は、弟・正季と誓いました。
七たび生まれ変わっても、朝敵を我が手で滅ぼさん・・・後世、七生滅賊という契りを交わし、楠木正成は自刃しました。

その死からおよそ500年後、楠木正成は黒船来航に始まる幕末の動乱で再び注目を浴びることになります。
長州で松下村塾を開いた吉田松陰・・・吉田松陰は討幕を計画したかどで死罪を命じられます。
松陰が死の間際に弟子たちに宛てた遺書「留魂論」・・・松陰はその巻末に、正成の七生滅賊の誓いを歌に詠み込んだ辞世の句を残しました。

七たびも 生きかえりつつ夷をぞ
         攘はんこころ 吾れ忘れめや

正成を忠君の鏡と崇めた松陰の精神は、桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞・・・長州藩士たちに受け継がれます。
正成に、長州藩を重ねたのです。
下級武士にとっての理想像が正成でした。
身分が低かろうと、天皇への忠義の志があれば、政治に参加していい!!
自分達は正成のようになりたい!!
当時の志士たちには「正成をする」という言葉が流行っていたようです。

維新達成後も、学校教育を通して、正成の忠君は広く、深く、人々の心に刷り込まれていきます。
正成が自害の時に誓った七生滅賊は、いつしか七生報国に代わり、太平洋戦争末期、沖縄戦での特攻は正成の旗印から撮って菊水作戦と言われました。
間近に迫った敗戦まで、正成の死に際は、戦意高揚に利用されたのです。

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武家政権による初めての幕府が開かれたのが鎌倉。
その海岸線で、1953年に驚くべく物が発見されました。
900体以上の人骨です。
骨は、14世紀前半のもので、刀傷や打撲痕があり、鎌倉幕府滅亡の際の戦死者ではないか?と言われています。

1333年5月22日、鎌倉は討幕軍が放った火によって炎上・・・6000人以上の死者が出て、鎌倉幕府14代執権北条高時も800人以上の家臣と共に自害・・・
150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
どうして壮絶な最期を・・・??

鎌倉幕府は、「御恩と奉公」でした。
武士は領地を認め手柄によって新しい領地をもらい(御恩)、将軍のために命をかけて戦う(奉公)関係でした。
この信頼関係が、鎌倉幕府の基盤となっていましたが、これを揺るがす大きな事件が・・・!!
元寇です。
神風が味方して撃退しましたが・・・大きな問題が残りました。
国内の戦いに勝利したのであれば、奪い取った土地を恩賞として御家人たちに分け与えることができたのですが・・・モンゴル軍を追い返しただけでは得られる土地がなく、武士たちに満足な恩賞を与えることができませんでした。
それにもかかわらず、モンゴル軍の3度目の襲撃に備えて、九州北部の守りを備え、九州の御家人たちは大きな負担を強いられたのです。
十分な御恩を与えられないまま奉公だけを強要される・・・
御家人たちの不満は日に日に大きくなり、幕府に対する忠誠心も薄れていきました。
この頃の幕府の情勢はひっ迫していました。
鎌倉幕府は直接支配していたのは東国だけでした。
西国は、朝廷に任せるというのが基本姿勢でした。
しかし、元寇に当たってほったらかしだった九州の防衛を幕府が担うことになります。
鎌倉時代後半、幕府は組織面でも運用面でもパンクしてしまっていたのです。
そうした状況の中、1316年、北条孝時が14代執権に就任。
孝時は得宗という北条氏直流の当主一族のTOPでした。
しかし、「太平記」によると・・・政治に意欲がなく・・・つまり、得宗に政治力の行使を求めないようになっていたのです。
将軍もお飾り、得宗もお飾りだったのです。
御家人たちの不満は爆発寸前・・・!!
新しく即位した後醍醐天皇が幕府転覆を画策し、時代は大きく動きます。

どうして後醍醐天皇は討幕を・・・??
この頃、朝廷は持明院統と大覚寺統の二つに分かれていました。
幕府の取りなしによって、交互に皇位を継承する両統迭立となっていました。
しかし、これに納得できない後醍醐天皇は両統迭立を原則とする幕府が不満で、天皇を中心とする政治体制を望んでいました。
襲撃先に定めたのが、朝廷の監視役・六波羅探題でした。
襲撃の日は1324年9月23日!!
この日は北野天満宮でまつりが開催されることとなっていて・・・そこでは毎年激しい喧嘩が・・・!!
喧騒に紛れて・・・と思っていたのに失敗!!
同士のひとりが、計画を漏らしてしまったのです。
窮地に立たされた後醍醐天皇はしらを切り、処分を免れます。
が・・・幕府からの監視がきつくなってしまいました。

後醍醐天皇の妃が妊娠・・・安産祈願のために、天皇は延暦寺や仁和寺などを参詣・・・
さらに奈良でも寺社もうでをして穏やか・・・??
しかし、安産祈願はただの口実で、再び倒幕に向けて寺社勢力を味方に付けようと画策していました。
皇子のひとり・護良親王を比叡山に入れ、僧兵相手に武芸の訓練をさせていたといいます。
ついに挙兵・・・??
またしても側近の一人が密告!!
二度目とあって幕府の怒りは大きく、後醍醐天皇の側近たちは斬首刑に・・・。
後醍醐天皇は、三種の神器を携えて京を脱出!!
笠置山に逃げ込むと、山中に立つ寺院を皇居とし、討幕の狼煙をあげるのです。
これに呼応するように、幕府に不満を持っていた武士たちが挙兵!!
その中に、後醍醐天皇に忠義を尽くしたとされる楠木正成も・・・!!

「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし、策略を巡らせれば勝喜もあるでしょう。」by正成

後醍醐天皇との謁見を済ませた正成は河内の国に戻り、赤坂城で挙兵!!
1331年9月2日、笠置山の戦い!!
天皇軍3000に対し、幕府軍7万5000!!
地の利を生かし善戦する幕府軍!!

赤坂城でも開戦!!
楠木軍500に対し、幕府軍20万!!
兵力の差は歴然で、敗北は確実と思われましたが・・・
正成の奇策が幕府軍を苦しめます。
城の中から丸太や巨石を投げつけます。
熱湯を浴びせたり、巨大な藁人形で敵を混乱。

鎌倉幕府は武士の集団で、大軍を派遣して押しつぶせると思っていました。
正成は山岳ゲリラ戦で、幕府軍は精神的に追い詰められていきます。
笠置山の天皇軍が力尽き、後醍醐天皇が捕らえられると状況は一転・・・
笠置山の幕府軍が赤坂城攻めに合流し、城を取り囲み持久戦に持ち込みます。
籠城を余儀なくされた正成に策はなく・・・
すると正成は、城に火を放ち、その混乱に乗じて行方をくらませました。
幕府がいくら探しても正成は見つかりません。
捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐島に流されてしまいました。
しかし・・・死んだと思われていた正成が赤坂城を奪還!!
河内・和泉を制圧し、新たに千早城を築き、幕府軍を迎え討つ準備を整えます。
護良親王も吉野で挙兵!!
奈良・吉野から討幕の命令を発布!!

千早城での戦い・・・相手は100万??
それでも蹴散らす正成!!
1333年2月・・・後醍醐天皇が幕府軍の隙をついて隠岐島を脱出!!
鳥取県の船上山で挙兵!!
全国の武士に、討幕の綸旨を出します。
鎌倉幕府は制圧しようと関東の有力御家人を西国に派遣します。
そのうちの一人が足利高氏です。
これは、元服の際に、北条高時から一時もらっていました。
幕府の命を受けた高氏は、京に入り、船上山に出陣。
しかし・・・その道中で立ち寄った丹波の篠村八幡宮で耳を疑うような宣言をします。
「勅命に従って討幕の兵を挙げる!!」
どうして幕府を裏切ったのでしょうか??
高氏は、後醍醐天皇から討幕の綸旨を受け取っていました。
足利家を守るため、北条氏を裏切る準備は以前からしていたのです。
再び上洛した尊氏は、六波羅探題に攻め入り、そして怒涛の攻撃によって僅か1日で敵を壊滅!!

そして、新田義貞も挙兵!!
足利尊氏が六波羅探題を攻め落とした翌日の5月8日、関東でも討幕の狼煙があがります。
上野国を本拠地とする御家人・新田義貞が、地元の生品神社で挙兵しました。
義貞が討幕を決意した理由は・・・当時、新田氏が置かれていた状況にありました。
源氏名門の出でしたが、始祖が頼朝と不仲だったので、足利氏の方が立場が上で、新田氏の方が格下でした。
30歳を過ぎた新田義貞が無位無官だったのに対し、足利尊氏は従五位下・治部大輔に任ぜられていました。

新田は単独で挙兵したのではなく、高氏が義貞挙兵のうらにいたと思われます。
新田氏は足利氏の中に組み込まれていたのです。
挙兵を決意した義貞でしたが、兵の数は僅か150.
ところが、生品神社から鎌倉街道を進み続けると・・・越後国の新田一族2000、甲斐源氏・信濃源氏の一派5000が参陣!!
太平記によれば翌日には足利尊氏の嫡男・千寿王が合流。
新田・足利連合軍となったことで、東国の武将たちが次々と参陣し、その夜には20万の大軍勢となりました。
一方、義貞挙兵の知らせを受けた幕府は、鎌倉に近づけまいと6万の兵を差し向けます。
5月11日午前7時ごろ・・・両軍は、現在の埼玉県所沢市小手指で激突!!
戦いは、一進一退!!多くの死者を出しましたが、この日は決着がつかず!!
12日、夜明けとともに再び激突!!
幕府軍は左右に広がって挟み撃ちにしようとしますが、義貞は逆手にとって手薄になった本陣を攻撃!!
「勝利は見えた」そう考えた義貞は、翌日、翌々日を休息日にあてました。
しかし、その間に・・・北条高時の弟・泰家の10万の援軍が合流していました。
そうとは知らない義貞は、翌日、幕府軍の猛反撃を受けて苦戦!!
義貞の本陣も総崩れとなってしまいました。
その時、幕府の本拠地である相模の武将たち6000が新田軍に参陣!!
相模は、御内人とよばれ、将軍ではなく北条得宗に仕える武士でした。
そこの人までも暴れ出した・・・それは、潜在的な幕府の不満が大きかったのです。
義貞軍は、幕府軍に奇襲をかけて圧勝!!
討死寸前で家臣に救われた泰家は、鎌倉に逃げ帰りました。
鎌倉に南下した新田軍・・・次々と武士たちが合流し、鎌倉の手前では60万人になっていました。

鎌倉は、相模湾と三方を山に囲まれた自然の要害。。。
出入口は、鎌倉七口しかありません。
そこで義貞は、化粧坂切通し、巨福呂坂切通し、極楽寺坂切通しの三方から侵入しようとします。
幕府軍は守備を固めます。
鎌倉幕府存亡をかけた最後の戦いが始まりました。
5月18日、午前6時ごろ・・・
新田義貞が地鳴りのような声と共に60万の兵で鎌倉攻めが始まりました。
義貞率いる本隊は、化粧坂で幕府軍と激突!!
全軍の2/3が投入されたといいます。
対する幕府軍は3万!!
巨福呂坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍6万!!
幕府軍の大将は、16代執権赤橋守時で奮闘しました。
極楽寺坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍5万!!
幕府の猛攻を受けますが、果敢に突撃!!

なかなか落とぜず、焦る新田義貞・・・!!
地の利を生かして守りを固め、新田軍の侵入を防ぐ幕府軍に対し、策を講じます。

「陸路が駄目ならば海からじゃ!!」by義貞

稲村ケ崎の先端から鎌倉の市街地へ入ろうとしました。
切り立った崖は容易に進むことtができませんが・・・??

義貞は、稲村ケ崎の難所を、5月22日に突破しようと考えていました。
その理由は、この日が大潮だったからです。
午前4時ごろ・・・兵を進め、歩いて回り込んだと考えられます。
自然現象を巧みに利用して、由比ヶ浜への上陸を成功させた新田軍は、周辺の民家に次々と火を放ちます。
そして、その火が浜風に乗って広がるのに乗じて市街地に攻め入ったのです。
思いもよらない海側からの攻撃に慌てる幕府軍!!
鉄壁だった切通の守りも次々と破られます。
最早、幕府軍の敗北は決定的でした。
しかし、幕府軍は最後まで鎌倉武士の意地を見せます。
火は燃え広がって、北条執権邸にまで・・・。
高時は、側近らと共に菩提寺だった東勝寺に逃げ込みます。
鶴岡八幡宮の南東600mのところにあったとされる東勝寺・・・ここが、鎌倉幕府終焉の地となったのです。
「もはやこれまでか・・・」
皆、最後の時を覚悟していました。
するとそこへ、最前線で戦っていた高時の側近・長崎高重がこう告げます。
「敵の手にかからぬうちにご自害すべき時ですが、最後の御奉公として今一度敵を蹴散らしてまいります。
 どうかそれまでお待ちください。」
そう言って駆け出すと、150の兵と共に新田軍に突撃!!雷神のごとく戦った高重は、東勝寺に戻ると、

「敵はそこまで迫りつつあります。ご自害ください。
 この高重が、切腹の手本をお見せして、冥途の先導を致しますゆえ」
皆がこれに続き切腹!!
側近たちの見事な切腹に高時も・・・高時もこと切れると皆も自害・・・その数 870人に及んだといいます。

武家政権が生まれ変わるための産みの苦しみだったのかもしれません。
150年続いた鎌倉幕府は終わりを告げたのでした。
鎌倉での死傷者は6000人以上・・・幕府滅亡に心を痛めた後醍醐天皇は、足利尊氏に命じて執権の屋敷跡に寺院を建立し、北条氏の霊を弔いました。

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鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代に至る歴史を描いた軍記物「太平記」。
楠木正成の生涯は、ここに書かれた晩年の5年以外はほとんどわかっていません。
正成は鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇の建武の新政を実現させる原動力となった人物でした。
その戦い方は型破りなものでした。
当時の常識からは考えられない戦いで、僅かな手勢で大軍を翻弄します。

「知謀を用いれば、幕府軍など恐るるに足らない。」

まさに、戦の天才でした。
しかし、本人がどのような思いを抱き、何のために戦っていたのか?それは謎です。
突然、歴史の表舞台に登場して活躍しますが、実像は何もわかっていません。

かくたる資料の残っていない楠木正成・・・どのような立場の人間だったのでしょうか?
かつて正成は悪党と呼ばれる鎌倉幕府と対立した武装集団だと考えられてきました。
しかし近年、鎌倉幕府に仕える御家人のひとりとされています。
それではどうして幕府を倒そうとしたのでしょうか?

正成は、鎌倉時代末期の1294年?に、河内国に生まれています。
正成とゆかりのある河内長野の観心寺・・・少年時代この建物で、学問を学んでいたといいます。

この頃、人々の暮らしは困窮していました。
きっかけは2度にわたる元寇・・・御家人たちは、重い負担に耐え戦ったにもかかわらず、ほとんど恩賞を得ることはできませんでした。
その影響が、社会全体に広がっていました。
鎌倉幕府の執権・北条孝時は、政治に興味がなく、田楽、闘犬に興味を持っていました。
鎌倉幕府は、東国の武士を中心とした武家政権です。
組織の末端にいて、正成は、恩恵を受けていなかったのでは??
西国の武士である正成は、東国中心の幕府に不満を持っていたのではないか??
正成は、武士であるとともに土地の利を生かして商売をしていたようです。
河内は川と川に挟まれ、交易が便利なところでした。
運送業の元締めをやっていたと思われます。
城を持ち、兵士がたくさんいる鎌倉武士とは全く違う武士だったのです。
この頃、交易は人々にとって重要な収入源となっていました。
しかし、鎌倉幕府は関所を設け、税金を取ろうとしました。
幕府に対する人々の不満は募っていきます。
そんな中、打倒鎌倉幕府と挙兵したのは後醍醐天皇でした。
1331年、正成38歳の時、建武の新政!!
天皇が直接国を支配する体制を復活させるのが狙いでした。
謎だった正成の生涯も、ここからの5年間は多くの資料が残されることとなります。
河内周辺で名が知れ渡っていた正成は、天皇に呼び出されます。
この時、正成は
「天下統一を目指すには、武力と知謀の2つが必要です。
 知謀を用いれば、武力に強いだけの幕府軍など遅るるに足らないでしょう。」と言ったとか。
正成は、地域に閉じこもらず、京都(六波羅探題)に頻繁に出入りしました。
その中で、天下の動静をいち早くわかっていたのです。
「鎌倉幕府はもう長くはない・・・」と。
鎌倉幕府から寝返り、後醍醐天皇にかけてもおかしくはありませんでした。

幕府への不満を自分だけでなく、畿内・西国の武士や民衆がもっている・・・
そういう人たちが、正当に評価される新しい社会を望んでいたのです。

後醍醐天皇が挙兵したのは京都にある笠置山。
鎌倉軍はこれを取り囲むように・・・正成はその背後をつくかのように、地元赤坂城で挙兵しました。
しかし、2週間後には後醍醐天皇のいた笠置山が陥落!!
大軍が赤坂城へ・・・!!
対する正成の手勢は僅か500!!
幕府方はつぶやきます。
「哀れな敵の有様や。
 こんなにわか作りの城では一日も持つまいよ。
 楠木の首をとって恩賞に預ろう。」
それでも正成の軍は奮闘、相手を寄せ付けません。
そこで幕府軍は、城を包囲し、兵糧攻めに・・・十分な食料を蓄えることができていなかった正成・・・ついに、自ら城に火を放ちます。
しかし、これも正成の計略でした。
自害したと見せかけ、再起するための時間を稼ごうとしたのです。
かつて、後醍醐天皇に正成はこう宣言していました。
「合戦の一時の勝ち負けを重視なさらず、たとえ負けてもこの正成が生きている限り、天皇の御運は必ず開くと思っていただきたい。」

1332年・・・赤坂城の戦いから1年・・・再び楠木正成が歴史の表舞台に・・・!!
そして、ありとあらゆる戦術で鎌倉幕府軍を翻弄し、戦の天才を見せつけます。

戦術①偽装工作
正成の最初の狙いは、赤坂城の奪還でした。
目をつけたのが兵糧部隊でした。
正成は兵糧部隊を襲うと、俵に武器を隠し、相手から奪った武具を味方につけさせ、城から見えるところで兵糧部隊が襲われているふりを演じさせました。
城にいた軍は、味方が襲われていると救援に・・・偽の兵糧部隊は城内に・・・
兵糧部隊は、隠してあった武具で城内をかく乱!!
正成はあっという間に赤坂城を奪い返しました。
その後、周辺地域を制圧した正成は、1333年鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題のある京都へ・・・。
知らせを受けた鎌倉幕府は精鋭部隊500騎を出します。
正成軍2000・・・。
相手の数の少なさを知った部下たちは真っ向勝負を主張します。
しかし、正成は・・・
「わずかな軍勢で攻めて来るからには、生きて帰ろうとは思っていないはずだ。
 そんな相手と戦ったら、味方の大半は必ず討たれる・・・。」
正成はすぐさま撤退。

戦術②心理作戦
夜・・・幕府軍のいる山々に何万ものかがり火が・・・緊張が走ります。
「正成の大軍に取り囲まれている・・・」
しかし、せめては来ませんでした。
翌日の夜、またもや何万ものかがり火が・・・。
さらに次の夜も・・・眠ること出来ない幕府軍は、疲労がたまり撤退していきました。
このかがり火は、正成は地元の農民5000人を動員して演出したものでした。

「優れた武将は、戦わずして勝つ」

苛立ちを募らせた鎌倉幕府は、正成を討つために大軍を送り込んできました。
正成は、金剛山にある千早城に立て籠ることに・・・
攻め寄せる幕府軍2万5000!!
これに対し、正成軍は僅か1000!!
1333年、40歳の時、千早城の攻・・・。
ここで正成は、今までの常識とはかけ離れたゲリラ戦を展開します。

戦術③ゲリラ戦
これまでの戦いは、「我こそは・・・」と名乗りをあげて一騎打ちをするのが常でした。
が、正成は真っ向勝負をしようとはしませんでした。
敵が攻め寄せてくると、弓で大量の矢を浴びせかけます。
相手が城にのぼろうとすると、丸太、岩を落とします。
更には、煮立った油や糞尿までも浴びせました。

自分の戦力は素人の戦力・・・素人が一番強いのがゲリラ戦だとわかっていたのです。
ゲリラは山岳地帯・・・身を隠しながら、敵の動きを封じて叩く!!
複雑な地形や道を選び、そこに敵を誘い入れ叩く!!
相手が警戒して敵が近づかなくなると・・・

「それなら相手を騙して目を覚まさせてやる!!」

戦術④だまし討ち
正成は夜中に大量の藁人形を城の外に出します。
城内の兵が打って出たと思った幕府軍は、猛烈な勢いで襲い掛かります。
しかし、そこに・・・大量の岩が・・・。
幕府軍は、止む無く兵糧攻めにすることに・・・。
ところが、一向に効果が出ません。
正成は、兵糧攻めに対して、万全の準備をしていたのです。

戦術⑤兵糧攻めへの対応
まず、水は城内に300の水桶を用意し、金剛山の隠された水源から十分に確保していました。
食糧は、山の抜け道を利用し、周辺の村々から調達していました。
やがて驚くべき事態が・・・幕府軍の方が飢え始めます。
正成が近隣の住民たちに幕府軍の補給部隊を襲わせたのです。
幕府軍の兵士たちは、戦意を失い、戦場を離れる者もあらわれました。
千早城の攻防が始まってから3か月・・・幕府は大軍を送り込みながら、僅か1000人の城を落とせずにいました。
この噂は、諸国を駆け巡り、幕府の権威を一気に失墜させることに・・・。
そして、幕府の有力御家人だった足利尊氏が反旗を翻し、京都の六波羅探題に・・・。
同じく、有力御家人だった新田義貞が鎌倉を攻めます。
こうして、鎌倉幕府は滅亡したのです。

鎌倉幕府が滅亡したのち、後醍醐天皇による天皇主導による政治が復活しました。
建武の新政です。
しかし、まもなく共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏が後醍醐天皇に反乱を起こします。
この時、楠木正成は後醍醐天皇側につき、足利尊氏と対峙することに・・・。
どうして正成は、尊氏と対立する道を・・・??
正成は、下級武士であったにもかかわらず、河内・摂津を授かりました。
さらに、新政権の中枢を担うという破格の待遇でした。

「こうしてめでたく幕府に勝てたのは、お前が私の味方として戦ってくれたからだ。
 心から礼を言う。」by後醍醐天皇

「我々の力ではなく、全て天皇の徳によるものでございます。」by楠木正成

正成は、戦いで亡くなった味方を弔うために、慰霊碑を立てたといわれています。
さらに、敵の兵を弔うための慰霊碑も・・・。
しかも、味方の慰霊碑よりも大きいものにしました。

1334年建武の新政が始まりました。
後醍醐天皇は、綸旨を次々とだし、社会の改革を進めようとします。
しかし・・・それは、人々の期待を裏切るものでした。
一刻も早く天皇の権威復活を目指す後醍醐天皇は、天皇の暮らす内裏を造営・・・
その費用を賄うために、農民に従来より重い年貢を課すことに・・・。

「幕府が滅亡して暮らしが楽になると喜んでいましたが、今は昔より重い年貢や労役に苦しんでいます。
 自分たちの暮らしはどうなるのでしょうか?」

討幕に加わった武士たちも不満を募らせていきます。
公家に対して恩賞が手厚かったのに対して、武士への恩賞は僅かでした。
そして、従来所有の土地に対しても新たに綸旨が必要ででした。
結局、武士たちは、綸旨を求め天皇の元へ殺到!!
政府は混乱し、一度認められた土地が没収されることも・・・。
こうした中、社会は乱れ、御所の近くに落首が立てられるほど・・・。

この頃都にハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨

後醍醐天皇自身が、手段は構わないので天皇の権威を再構築しようと綸旨を乱発し、結果的には綸旨の権威を失わせ・・・それは、天皇自身の政治的権威を失墜させることとなったのです。

1335年、正成42歳の時に、足利尊氏が、武士たちの不満を背景に後醍醐天皇に反旗を翻しました。
そして、京へと攻め上っていきます。
後醍醐天皇は、すぐに綸旨を出しました。

「足利尊氏たちが、反逆を企てているので、征伐されるべきである。」by後醍醐天皇

正成は、後醍醐天皇の言葉に従って、尊氏軍を迎え討つことに・・・!!
正成と一緒に戦った人たちは、家来ではなく仲間で、一方的に命令することはできません。
個人で判断できるなら、尊氏につくという選択もあったでしょうが、それは仲間を裏切る形となってしまうので、正成にはできませんでした。
尊氏は、与えられた時代の中で、自分の立場をよくわかっていました。
正成は、時代の中で何が自分に要求されているのか・・・社会との関係でものを考えるのではなく、自分との関係でものを考えていました。 
後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏、あくまで天皇の味方をする楠木正成・・・二人の戦いが始まりました。
そして、正成は尊氏を追いつめます。
正成はあえてとどめを刺しませんでした。
九州へ落ち延びていく尊氏・・・。

楠木正成最後の戦いとなった湊川の戦い・・・
足利尊氏軍35,000に対し、楠木正成軍700!!
それは、死ぬことを覚悟した戦いでした。
どうして死ぬことを選んだのでしょうか?
尊氏を撃退した時、正成は不思議な光景を見ます。
敗走する尊氏軍に味方が追従していたのです。
戦いに勝利した正成は、後醍醐天皇の一つの策を進言します。
正成と共に後醍醐天皇に従っていた新田義貞を討ち取ったうえで、足利尊氏を召し出し和睦せよというのです。

「尊氏は、西国の武士たちを味方につけ、一月後には京都へ攻め上がってくるでしょう。
 その時は、彼らの進撃を止めるすべはありません。
 天皇の武士でさえ、尊氏について行ってしまいました。
 これを見て、天皇の徳のなさを思い知って下さい。」by正成

正成は、天皇に武士から尊敬を集める尊氏を、是非味方につける必要があると訴えます。
正成は、足利尊氏を人間的に評価していました。
だから、足利と組めと・・・足利を呼び戻し政権にいれれば、なんとか持ちこたえて、崩壊を免れると考えていたのです。
しかし、正成の進言が受け入れられることはありませんでした。
正成の予測通り・・・
1336年、正成43歳の時に尊氏が西国の武士を味方につけて、再び挙兵!!
この時、新田義貞の軍が兵庫で尊氏を迎え討つことに・・・。
そして、正成にも新田軍と戦うことを命じられます。
それではk地目がないと感じた正成は、別の案を提案します。

「尊氏軍は、これまでにない雲霞のごとき大軍でありましょう。
 そのため、新田を京都へ呼び戻し、天皇は比叡山へお移り下さい。
 そして、尊氏軍を空の京都へ誘い込んで、兵糧攻めにし、南北から挟み撃ちにすれば、勝利出来ましょう。」

しかし、天皇の側近の一人が言い放ちます。

「戦いもせぬうちに都を捨てて、比叡山に逃れることは、天皇の権威失墜につながる。
 これまでのこちらは大軍を退けてきた。
 それは武士の戦略によるものではなく、ひとえに天皇の御運が天命にかなっているからである。」と。

正成は、最後にこう言い残しました。

「この上は、異論を申すまでもありません。
 天皇は大敵を打ち破る策を立て、勝ち戦に導くというお考えではなく、討ち死にせよとのご命令なのですね。」

正成は、討幕戦の主力でありながら、尊氏が兵を進める際には新田義貞が総大将・・・。
その点で、排除されているという孤立感がありました。

1336年5月25日、正成は、湊川で尊氏軍と激突!!
3万5000の尊氏軍に対し、正成軍は僅か700!!
圧倒的な兵力の差にも関わらず、6時間もの間戦い続けたといいます。
そして正成は、生き残った70名ほどの部下と共に、民家に逃げ込みました。
最期の時・・・正成は共に戦い続けてきた弟に尋ねます。

「生まれ変わったら、何を望む?」

「七度生まれ変わっても、同じ人間に生まれ、朝敵を滅ぼしたい。」

「その望みは同じだ。
 すぐさま生まれ変わって、この願いを遂げよう。」

二人は、お互いを刺し合い果てました。
正成、43歳でした。

楠木正成、最期の戦いとなった湊川の戦い・・・
その直前、正成は共に戦いたいという正行に、地元・河内に帰るように命じました。
桜井の別れです。

「一族の誰でも生き残っている間は、命を投げ出して戦い、後代に名誉を残しなさい。
 それが、お前にできる親孝行だ。」

正成の死後、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れました。
これに対し、尊氏は京都で別の天皇を擁立。
二人の天皇が並び立つ、南北朝時代が始まります。
対立が続く中・・・南朝の後醍醐天皇崩御(1339年)。
そこに現れ、南朝のために力を尽くした武将がいました。
正成の息子・正行でした。

武家と天皇の狭間で死んでいった楠木正成・・・
その後の時代の移り変わりを、どんな思いで見つめていたのでしょうか?


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