日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:足利義政

福井市南東部に位置する一乗谷・・・山が迫った細い谷が、南北に長く伸びています。
ここを本拠地としたのが、戦国大名・朝倉義景です。
越前の豊かな実りと、日本海交易がもたらす富・・・
一乗谷の繁栄は、都にまで聞こえました。

朝倉氏が越前を支配することになったのは、義景の治世からおよそ100年前・・・
東軍・西軍に分かれ京都を焼き尽くした応仁の乱に遡ります。
時の朝倉家当主・孝景は、越前の国の守護で幕府の管領でもあった斯波義廉に仕え、西軍の主力を担っていました。
勇猛な朝倉軍に、将軍・足利義政方の東軍は手を焼きました。
そこで密かに孝景に寝返りを持ち掛けます。
その条件は、越前の国の支配権を与えるというものでした。
これを受け入れた孝景は、東軍に寝返り壮絶な戦いの末、越前国主の座を手に入れました。
孝景は、名門・斯波氏にとって代わるという下克上を成し遂げたのです。
朝倉家の礎を築いた孝景は、家訓にこう残しています。

”高価な名刀を一本持っていても、安い槍・百本には勝てない”

台頭する戦国大名の合理的な考え方が随所に出ています。
守護を補佐する立場だったのが、支配していく立場に上った・・・!!
代々朝倉氏が拠点として一乗谷・・・
1967年から始まった発掘調査で、南北およそ2キロにわたる戦国城下町が姿を現しました。
四方に堀をめぐらした1万5000㎡の広大な館の跡・・・。
堀から発見された木簡により、16歳で当主となった朝倉義景の館と確認されました。
敷地内には、15の建物があったことが分かっています。
規模からすると、京都・細川管領邸に匹敵する規模でした。
庭園は、都からやってきた客人をもてなす設えだと考えられています。
義景の館の他にも、いくつもの庭園が戦国時代そのままの姿で発掘され、今も四季折々の姿を見せています。

一方で、一乗谷は強固な城塞都市でもありました。
谷の幅が狭まった南北に箇所には、巨大な土塁が築かれ、外敵の侵入を阻んでいました。
下城度と呼ばれる北側の壁・・・
敵の直進を妨げるため、石垣によって直角に曲がる構造になっています。
使われている巨石は最大45トン・・・!!

町屋一軒一軒に井戸とトイレが必ず一基ある・・・
非常に珍しく、インフラ整備、都市機能がしっかりした城下町でした。
整備が行き届いた一乗谷の城下町には、1万もの人が暮らしていたと考えられています。
中心部にある武家屋敷跡・・・間口30m、奥行き60mという広さです。
武家屋敷の向かいには、幅6mの道路を挟んで商店が立ち並んでいました。
遺跡から様々な生活用品が発掘されています。
舶来品の壺、皿、茶器・・・住民たちの豊かな生活を物語っています。

この頃、一乗谷は京都の人々の疎開先でした。
知識や文化が一気にもたらされる時代が100年間も続いていたのです。
義景は、頻繁にやってくる公家や僧侶といった文化人をもてなしました。

それは、単なる遊びではなく、政治的な行事として最も力を入れていました。
朝倉氏の文化政策・・・
どういった治世を目指しているのかを、文化的場面で知らしめるという意味があったのです。
曲水宴の主賓で将軍・足利義輝の叔父・大覚寺義俊は、越前の平和を静かに収まる国と褒め称えました。
応仁の乱をきっかけに、越前を手に入れ、100年かけて平和で豊かな領国を築いてきた朝倉氏・・・
京都の情勢に通じた五代目の義景は、それゆえに歴史を揺るがす選択を迫られることになります。

1565年、京都で恐るべき事件が勃発します。
畿内を押さえていた三好一族によって、室町幕府13代将軍・足利義輝が殺害されたのです。
この大事件が朝倉義景に千載一遇の好機をもたらします。
次期将軍の有力候補に浮上したのは、義輝の弟・かく覚慶でした。
覚慶はこの時、奈良興福寺・一条院門跡という出家のみでした。
覚慶は奈良を脱出します。
意中の将軍を擁立しようとする三好勢から逃れるためです。
この逃亡を援助したのが朝倉義景です。
そこには、曲水宴での大覚寺義俊とのつながりがありました。
義俊は覚慶の叔父だったのです。
覚慶は還俗して義秋を名乗り、上洛して将軍の座につくことを望みました。
その為、逃亡先から躍進著しい織田信長をはじめ、各地の有力大名に支援を求めます。
近江、若狭、越前、敦賀・・・一乗谷!!
義景は、一乗谷安養寺を御所として、義秋を迎え入れました。
かつて広大な敷地を誇った安養寺・・・
義秋は、ここからも上洛支援を有力大名に呼びかけています。
義秋は、義景を大事に思っていました。
出来れば朝倉の軍事力で、近江、京都に進出してほしいと思っていたのです。
そして自分が将軍に・・・!!
しかし、義景には、すぐに上洛できない事情がありました。
隣国・加賀一向一揆勢が、度々越前朝倉領に侵入を図り、双方が国境に砦を築く緊張関係が続いていたのです。
義秋は、加賀と越前の和談を図っていました。
最終的には和睦が・・・
さらに義秋は、義景の母を従二位という高いくらいにつけ、恩義を売ろうとしました。
1568年4月、義景は自分の館で故実にのっとって義秋の元服の儀を行います。
この時、義秋はその名の文字を改めて、義昭としています。
準備は整った・・・あとは、上洛して将軍・足利義明として名乗りをあげるだけかに見えました。
義景は、当然共に上洛して義昭を将軍の座につけることを希望されていました。
しかし・・・義景は、決めかねていました。

自らの手で将軍を擁立し、天下に号令を下すのか??
信長にその地位を奪われるのか・・・??
残された時間は迫っていました。

1568年7月・・・朝倉義景が足利義明の元服の儀を執り行ってから3か月・・・義昭は越後の上杉謙信に書状を送りました。
そこには、織田信長と上洛すると記されていました。
7月16日、義昭は9か月滞在した一乗谷を出立・・・
義景はその姿を見送りました。
朝倉義景は、次期将軍・足利義明に供することはありませんでした。

義昭と信長との間を取り計らったのは、明智光秀だったともいわれています。
義昭が義景と別れてからわずか2か月余り・・・信長は義昭を奉じて上洛しました。
その翌月、義昭は征夷大将軍となり、室町幕府15代将軍の座につきます。
時を同じくして信長は義景に、新将軍への挨拶に上洛するように命じます。
しかし・・・義景はこれを無視しました。
信長の命令は将軍の命令・・・断ると、将軍に逆らったことになる・・・!!
しかし、言うことを聞けば信長の家臣のようになってしまう・・・!!
信長にとっては・・・いうことを聞かなければ、滅ぼした方が早い・・・!!

1570年4月、信長は突然、越前国敦賀に侵攻!!
次々と朝倉側の城を陥落させます。
しかし、この時、朝倉氏の盟友・北近江の浅井長政が信長軍の日顎を襲いました。
信長は、長政に妹・お市を嫁がせていたことからまさか裏切られるとは思っていませんでした。
朝倉軍は、浅井軍と信長を挟み撃ちにすべく攻撃に転じます。
しかし、信長がいち早く洗浄を抜け出して京都に逃げたため、討ち損じてしまいました。
その5か月後、朝倉軍は信長が押さえている南近江に攻め込み京都に迫りました。
信長が摂津方面で三好と戦っている隙をついたのです。
この時、義景には浅井軍だけでなく比叡山も味方しました。
比叡山が味方したということは・・・宿舎の手配、食糧の炊き出し、武器の補給が潤沢でした。
この時・・・もう一歩攻めれば勝ってたかもしれません。

戦は、義景有利のまま膠着状態に入りました。
季節は冬に向かっていました。
動いたのは信長でした。
和睦朝廷に将軍・義昭を担ぎ出したのです。
1570年11月28日・・・将軍・足利義昭が近江国坂本に下向してきました。
またしても選択を迫られる義景・・・

信長を討ち取るまで戦い続けるか??
それとも、和睦を受け入れ矛を収めるのか・・・??
朝倉家の命運は、義景の決断に迫っていました。

1570年12月・・・将軍・義昭の坂本下向から半月後、遂に義景は和睦に応じ、信長と人質を交換しました。
義景は、一度ならず二度までも信長を仕留める機会を逃したのです。

その後も義景は、信長から攻撃を受ける浅井を助けるため、何度も援軍を出しました。
しかし、いずれも戦地で出の越冬を避け、一乗谷へと帰国します。
屈強な朝倉軍にも、疲労がたまっていきました。
1574年、盟友・浅井長政からまたもや援軍要請が来ました。
しかし、朝倉の主だった武将たちは疲労を理由に出陣を拒否します。
そこで義景は、自ら軍を率いて出陣、浅井領に向かいます。

しかし、この時、浅井方の有力武将が信長方に寝返ります。
浅井本陣と遮断され、止むなく撤退する義景を、信長は自ら追撃!!
逃げる朝倉軍は、信長の軍勢に一気に飲み込まれ壊滅!!
義景自身は、わずかな手勢と一乗谷に逃げ込みます。
観念した義景は、自害しようとしましたが、側近の生死を聞き入れ一乗谷を離れて、一族の朝倉景鏡のもとに逃げ落ちます。
しかし、景鏡の裏切りにあい、義景は自害して果てるのです。
景鏡は、出兵を拒んだ武将の一人でした。

義景が一乗谷を捨てた2日後・・・信長軍は、一乗谷の壮麗な屋敷や寺社のみならず、町家にまで火をかけました。
その炎は、義景が自害した日も燃え盛っていたといいます。
以来400年・・・紅蓮の炎に焼き尽くされた一乗谷は、朝倉氏の栄華と共に永い眠りにつくことになりました。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

朝倉氏と戦国村一乗谷 (読みなおす日本史)

新品価格
¥2,420から
(2021/1/21 17:26時点)

奪うは我なり 朝倉義景 (角川書店単行本)

新品価格
¥1,584から
(2021/1/21 17:27時点)

1465年9月13日、巨大な流星が京都上空に飛来しました。
人びとはこれを”天狗流星”と呼び、不吉の前兆とおののきました。
その2年後、京を焼き尽くす戦乱が勃発!!
11年にわたる応仁の乱です。
武士による空前の長期戦は、将軍継嗣問題、有力大名の家督争い、貿易権益の奪い合い、幕府内の権力闘争など、多くの利害が入り乱れ、京を戦乱の世に変えました。

乱の始まりは畠山義就と畠山政長の家督争いでした。
ここに足利義政・正室日野子と足利義視・義尚親子の将軍継承問題。
山名宗全と細川勝元の権力闘争が絡んできます。

乱の発端となった畠山氏の抗争とは・・・??
京都・観光客でにぎわう神社仏閣の多くが、応仁の乱で被害を受けました。
清水寺も例外ではありません。
清水の舞台へと続く轟門・・・2014年の保存修理工事の際に、門の礎石周辺から焼けた土の層が発見されました。
その年代から応仁の乱の戦火を被ったとされます。
祇園祭で知られる八坂神社にも資料が残っています。
1466年と1477年の地検帳・・・当時の市民の生業や家の大きさがわかる住民台帳ともいえます。
残されていたのは京都の中心部、室町通りと西洞院通の下京2ブロック分です。
二つの帳面を比較すると、乱の後は154軒から60軒と・・・住民や商店が激しく減り、空き地が増えています。
一方で両方に書かれている残った家もありました。
応仁の乱からの復興を生き生きと描いた”上杉本洛中洛外図屏風”には、将軍が暮らし政務を執った室町殿は花の御所と呼ばれ、その壮麗さを誇りました。
市民たちの姿も細密に書かれています。

畠山氏惣領は、持国に子供がおらず、弟・持冨に家督を譲ることになっていました。
しかし、持国は家督継承者を庶子の義就に変え、時の将軍・足利義政もこれを認めました。
これに不満を持ったのは、持冨の子・弥三郎でした。
弥三郎は義就達に戦を挑み勝利!!
将軍・義政はこれに態度を変え、弥三郎を継承者と認めます。
これにより持国は隠居、義就は京を去ることになりました。

畠山家の争いの背後にいたのは、管領の細川勝元と有力大名の山名宗全。
彼等は内紛を煽り、弱体化させることで自分達の権力強化を企んでいました。
それを知った将軍・義政は、幕政の主導権を握らせまいと、勝元の家臣を処罰し、宗全を隠居させました。
さらに、弥三郎に家督を許した4か月後、義就を再び家督に据えます。
この措置に弥三郎は没落、弟・政長に後を託してこの世を去りました。
しかし、義政は、義就が意にそぐわない行動をとるので、政長を家督としました。
細川勝元は、政長に管領を譲り恩を売って後ろにつき、強大な権力を得ます。



室町幕府の中央政府は・・・
将軍の補佐役の管領が大きな力を持っており、細川・畠山・斯波の足利一族のうちの一つだけが就くことができます。
侍所の長官は所司と呼ばれ、侍所所司を務めるのは山名・赤松・京極・一色の家に限られていました。
これらを三管四職といい、彼らを中心に諸大名が連合政権的に室町幕府は運営されていました。
大名達の力をと弱めないと、将軍は上に立つことができませんでした。
細川勝元は、畠山氏の分裂を煽って、政治の主導権を握ろうと考えました。

将軍・足利義政は、正室・日野富子との間に嫡子がいなかったので、後継者として僧侶になっていた弟を還俗させ義視としました。
しかし、1年後・・・義政と富子の間に義尚が誕生。
義政はまず弟・義視に将軍を譲り、息子の成長を待って義尚を将軍にするつもりでした。
義政の真意は、将軍を退いた幕政に影響力を残すことでした。
これに細川勝元も異論はなく、富子も妹が義視の妻で良かったのですが・・・山名宗全はそうではありませんでした。
宗全の考えは、義政の政界からの完全引退でした。
義視が正真正銘の将軍にと思っていたのです。
それでは管領は・・・??
山名宗全は、斯波義廉に娘を嫁がせていました。
斯波家は管領になれる・・・ということで、娘婿を管領にしたかったのです。
そして実権は自分に・・・!!

1466年12月、都を不穏な空気が私費足ました。
家督を奪われ京を離れていた畠山義就が山名宗全の求めに応じて数千の兵を従えて上洛したのです。
幕府の実権を細川勝元と畠山政長に握られた宗全は、これに対抗すべく畠山義就に接近していました。
宗全は勝元とたもとを分かち、政権奪取に・・・!!
義就の軍事力を目の当たりにした将軍・義政は、早々に義就の家督を認めます。
政長は家督を取り上げられたばかりか管領も罷免され、幕府内に居場所を失いました。
新しい管領には宗全の娘婿・斯波義廉がつき、剛腕フィクサー宗全のクーデターは成功しました。

これは終わりではなく・・・11年に及ぶ戦乱の始まりでした。

京都市上京区にある御霊神社・・・管領の座を追われ、京を離れるかと思っていた畠山政長はここに陣を敷いて義就に決戦を挑みます。
将軍・義政はあくまでも畠山氏の騒動として諸大名が加勢することを禁じます。
1467年1月18日、両畠山軍は激突!!
戦は義就の圧勝!!
しかし、敗走する政長軍に山名宗全の配下が追い打ちをかけます。
武士のメンツをつぶされた勝元はおさまらず、各地の軍勢に声をかけて宗全との対立が表面化していきます。

1467年5月26日、細川勝元軍は、花の御所・室町殿の向かいにある山名方の屋敷を襲い占拠。
山名方も宗全の娘婿・斯波義廉らの軍勢が応戦し、戦はみるみる上京一帯に・・・!!
ついに応仁の乱は、本格的な戦闘に突入しました。
翌日の夕暮れまで続いた激戦で、多くの寺院や家屋が焼失しました。

海鮮から二日後、将軍・義政は両軍に停戦を命じます。
これによって一旦戦闘はやんだものの、細川勝元は宗全との戦いを有利にするために、義政に将軍旗を求めました。
これまで中立を保とうとしていた義政を自分の方に引きずり込もうというのです。
圧力に押された義政は、勝元に将軍旗を与えました。
幕府は細川側に組することとなったのです。
かくして室町殿の西に陣取る山名方は西軍、東に陣取る細川方は東軍となります。
義政は弟・義視を東軍総大将にし、応仁の乱は泥沼化していきます。

応仁の乱による混乱で、京では商売が停滞し、食べ物にも不自由する状況に陥っていました。
しかし室町時代は商品経済が発展し、商店や行商による取引が盛んにおこなわれた時代でした。
女性も財産を持つことを認められ、経済活動で重要な地位をしめました。
時代の変化により、女性の社会進出が進んだ時代でした。

更に拡大する戦・・・
山陰から北九州を領国としていた大内政弘が・・・!!
大内は莫大な利益を得る日明貿易や瀬戸内海の制海権を巡って細川勝元と対立関係にありました。
勝元が幕府の覇権を握ることは、大内には見逃せないことでした。
東軍にとっても大軍をもって京に上ってくる大内は脅威でした。
東軍総大将・足利義視は大内の上洛前に西軍に内通する者を粛正しました。
しかし・・・1467年8月23日、遂に大内政弘が3万の軍勢を引き連れて京に現れました。
この時、東軍で思いもよらない事件が起こります。
大内の参戦に恐れをなした足利義視が、室町殿から姿をくらましたのです。
総大将がいなくなってしまった!??
大内の援軍を得た西軍は、室町殿、細川邸を取り囲み、一触即発の事態に至ります。
そして10月2日、室町殿の東、相国寺で大合戦が行われます!!
相国寺に陣を張っていた東軍に、西軍の畠山義就、大内政弘らが攻撃を仕掛けます。
3代将軍・足利義満が建立した大伽藍は、3日にわたり燃え続けたといいます。
その後、西軍は東軍の反撃を受け、寺の蓮池に足を取られて600人もが討たれたといいます。

壮絶な相国寺合戦以降、応仁の乱は小康状態に・・・。
1468年9月・・・きっかけは伊勢に逃れていた足利義視が将軍・義政の要請にこたえて上洛しました。
義視は復帰の条件として、幕府内で自分と対立する勢力の一掃を要求します。
が、義政に聞き入れられず、義視はまたもや出奔。
そしてあろうことか敵方・・・西軍に身を投じました。
奇怪な行動を見せる義視・・・その真意とは・・・??

足軽・・・応仁の乱で存在感を高めた戦力で、東西両軍とも彼らを雇って戦闘を繰り広げました。
略奪や放火によって敵を疲弊させるのが彼らの目的で・・・しかし、それは京都の町や人々に大きな被害をもたらしたのでした。

1469年・・・応仁の乱3年目・・・元号は文明に。
長引く戦乱を避け、公家や僧侶などの知識層は、洛中から逃れていきました。
これが連歌や茶の湯が各地に伝播することとなり、小京都という都市ができていきます。

幕府の中枢を担う斯波家の領国・越前・・・
斯波家は西軍山名宗全の娘婿・斯波義廉と、東軍・斯波義敏に分かれて家督を争っていました。
戦闘の末、越前を平定したのは、東軍の義敏でした。
敗れた西軍の義廉は、猛将として知られた西軍の足利孝景をむかわせ領国奪還に・・・!!
東軍はかねてからこの朝倉に目をつけていました。
西軍主力の朝倉に調略をしかけ、寝返りを誘っていたのです。
朝倉の条件は、自らを主君の領国・越前の守護とすること・・・勝元はこれを認め、朝倉は東軍に寝返ります。

越前を失ったことは、山陰に領国を持つ山名や大内にとって大きな痛手となりました。
それは西軍が日本海側からの補給路を断たれたことを意味していました。

1472年・・・応仁の乱6年目・・・
東軍・細川勝元と西軍・山名宗全は和平交渉に入りました。
しかし、東軍優勢の中の和睦に、畠山義就、大内政弘、足利義視は強く反対し、交渉は頓挫!!

1473年の暮れ・・・応仁の乱から7年目・・・
大きな転機が訪れます。
足利義政が将軍の座を息子の義尚に譲ったのです。
これで長年政権の行方を左右してきた将軍継嗣問題は一応の決着を見ます。
この年の3月18日、西軍を率いて幕府に反旗を翻して来た山名宗全が死去。
その2か月後の5月11日、東軍の総帥・細川勝元も死去。
細川・山名の後継者は和睦交渉を再開し、翌年山名が幕府に帰参することでおさまりました。
しかし、西軍の畠山義就と大内政弘はこの和睦を認めず、徹底抗戦の構えを崩しませんでした。

義政の正室・富子は義視の義理の姉でもあります。
富子は夫・義政と義視の間を取り持ち、1476年・・・応仁の乱10年目で両者の和解を取り付けます。
富子は西軍の好戦派・大内政弘と幕府との交渉を進めます。
その結果、大内は領国4か国の守護職を安堵され、官位も上がるという厚遇を得て和睦。
最後まで矛を収めなかったのは、乱の発端となった畠山義就でした。
しかし、大内が撤退することとなり、孤立した義就も京を去らざるを得なくなりました。
1477年、応仁の乱は11年目にして収束したのでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

新説 応仁の乱 (別冊宝島 2570)

新品価格
¥1,404から
(2019/3/28 23:13時点)


応仁の乱 (双葉社スーパームック)

新品価格
¥1,512から
(2019/3/28 23:14時点)



歴史REAL応仁の乱 戦国時代の幕開けとなった大転換点 日本史上もっとも難解な戦争は、なぜ11年も続いたのか? (洋泉社mook)

価格:1,296円
(2017/7/6 17:26時点)
感想(0件)



今から550年前の1467年(応仁元年)、日本の歴史を大きく変える内乱が・・・応仁の乱が勃発しました。
京を焼け野原にし、11年も続いた日本史上最も難解な紛争です。
どうして難解なのでしょうか?
というのも、戦に至った理由ははっきりしません。
東西27万の軍勢が激突!!誰と誰が戦い、どうして長期化してしまったのでしょうか?
元凶は将軍・足利義政・・・??
全国を戦乱の渦に巻き込んだこの戦いの勝者は・・・??

応仁の乱は、1467年~1477年まで11年に及んだ内乱です。
その原因の一つとされているのが、将軍家の跡継ぎ問題でした。
室町幕府8代将軍足利義政は、息子がおらず、出家していた弟の義視を還俗させて後継者としました。
ところがその直後、正室である日野富子が男子(義尚)を産んだのです。
富子は我が子善尚を将軍に・・・と、義視排斥に動きます。
この将軍跡継ぎ問題に介入してきたのが、幕府の実権を巡り対立していた細川勝元と山名宗全です。
細川家は、代々室町幕府の管領を務める名門の出身・・・
管領とは、将軍の補佐役で幕府のNo,2です。
細川・斯波・畠山の三氏だけがなることができました。
また細川は、土佐・讃岐・摂津・丹波の守護でした。

山名宗全は、侍所で、今日の警備や裁判を担当していました。
但馬・播磨・備後・安芸の守護でもあります。
そんな二人が将軍跡継ぎ問題に乗じて、応仁の乱を起こしたといわれていますが・・・??

東軍のリーダー・細川勝元は、教養豊かな政界のサラブレッド。
西軍のリーダー・山名宗全は実力でのし上がった男で剛腕政治家でした。
共に、京の都に本陣をおきます。
東軍本陣は花の御所に・・・西軍本陣は山名宗全邸に・・・。

もう一つあった原因は・・・??
将軍足利家の一門の連なる守護大名・畠山氏です。
河内・越中・山城・紀伊の守護で、細川氏と同じく管領として政務をとっていました。
応仁の乱から遡ること19年・・・1448年に当主・畠山持国にお家騒動の火種が・・・
当主・持国が、後継者である弟の持冨から息子の義就に変えたのです。
将軍義政もこれを許可したので、弟持冨もこれに従いまもなく亡くなってしまいました。
1454年義就が家督を継いだことが納得できない一部の家臣が、持冨の子・弥三郎・政長を担ぎ上げ、義就と争い始めたのです。
将軍・義政は、自ら跡継ぎと認めた義就を支持、しかし、武力衝突で弥三郎・政長が勝利すると、あっさり弥三郎の相続を認めます。
しかし、将軍の権限によって弥三郎を京から追放し、義就を再び畠山氏の当主としました。
将軍には考えがありました。
室町幕府は三代将軍・義満の代が一番華やかで、義政も敬愛する義満の時代に戻したかったのです。
卓越した政治手腕で室町幕府の最盛期を築いた三代将軍・義満・・・
19歳の義政は、義満のように強いリーダーシップを発揮するチャンスだと思っていました。
畠山氏の家督争いは、持国と弥三郎が亡くなったのちも、義就と政長の間で続けられます。

将軍の威厳を示したい義政はさらに介入し、しかし、態度を二転三転・・・
解決するどころか事態を泥沼化させていったのです。
やがて将軍義政は、命令に従わないことが多い義就に対し、追放命令を下します。
これで畠山氏の家督は政長のものに・・・
都を追われた義就は、1462年吉野へ逃亡・・・雌伏して時を待つのです。

1467年(応仁元年)1月18日、畠山義就はついに蜂起。
畠山政長の陣に攻め込みます。
これが、上御霊社の合戦です。
この畠山氏の合戦が、応仁の乱の始まりと言われていますが・・・
この時、義就に決起をそそのかしたのが、山名宗全でした。
山名宗全は、幕府の中心にいる細川勝元に対抗すべく、畠山氏の騒動に便乗することにしたのです。
これを知った細川勝元は、もちろん畠山政長につきます。
将軍が泥沼化させた家督相続争いに、幕府内の権力争いが加わり、両軍の核となる体制が出来上がったのです。
しかし・・・まさかこれから11年にわたって戦うとは・・・誰も知る由がありませんでした。

「上御霊社の合戦」は、一日で決着がつきました。
勝ったのは、山名宗全が味方した畠山義就。
破れた畠山政長は、細川勝元邸に逃げ込みました。
畠山氏の事実上の当主は、政長から義就に代わり、山名宗全は細川勝元から幕府内の権力を奪取!!

どうしてこの局地戦だけで終わらなかったのでしょうか??
その原因も、義政でした。
合戦の前に義政は、細川と山名に対して・・・
「畠山氏の争いへの介入を禁じる。もし力を貸せば、切腹」と、通達していました。
ところが山名宗全は無視して義就に加勢!!
政長を支持していた細川勝元は、将軍の言いつけを守り参戦しませんでした。
そのため、政長は援軍を得られず惨敗したのです。

面目を潰された細川勝元が、反撃を開始!!
畠山氏の内紛で終わるはずだった戦いは・・・それぞれの思惑と結びつき・・・誰も思い及ばない大きな戦いへ・・・!!
1467年(応仁元年)5月26日、細川陣営が山名陣営を攻撃!!
洛北の戦いと呼ばれるこの合戦で、西軍が有利に進めるも決着がつかず・・・
翌日両軍が撤退して終結します。
しかし、市街戦ということもあって、京の都のあちこちで火の手が上がり、多くの民家や寺社が焼けてしまいました。
この時代の戦いは、戦国時代の殺し合いとは違い、放火合戦のようなところがあったのです。
翌日、将軍・義政が再び介入、東西両軍に、
「ひとまず戦いをやめて、指示を待つように」と命じます。
そして畠山義就には・・・
「今日を離れて、争いを避けてはくれぬか・・・」と、和平工作をしようとしましたが・・・

長期化の理由①将軍の無定見
将軍・義政は、戦の長期化を避け、和平工作を試みました。
そんな中、東軍の細川勝元から提案を受けます。
「将軍の御旗を、我が党軍に下さりませぬか。」by勝元
「それは、逆賊を討つときに掲げるものじゃからのう」by義政
「畠山も山名も、将軍様の命に背く者たち・・・逆賊では・・・??」by勝元
「よし、将軍家をお主に任せよう!!」by義政

将軍家を細川勝元に授けたことで、将軍は東軍側に・・・
すると義政は、総大将に足利義視をつけてしまいます。
停戦調整役がいなくなってしまいました。
幕府軍となった東軍も、反乱軍となった西軍も、諸国の守護大名に参陣を求めます。
東軍16万VS西軍11万!!
合計27万もの軍勢が、京の都に集結したのです。
関ケ原の戦いでも、総勢15万8000なのに・・・!!
応仁の乱では、北陸から九州に至るまでの殆どの守護大名が、東西どちらかに参加して戦いました。
大義名分を得た東軍は勢いづきます。
反乱軍となった西軍は・・・次々と降伏する者が出てきました。
山名宗全の息子も・・・
幕府の管領だった斯波義廉も・・・
東軍の勝利は決まったも同然・・・??

しかし・・・
「朝倉孝景の首を差し出すなら、義廉を許そう。」by義政
朝倉孝景は、斯波義廉軍の実質的大将で、義廉にとってはかけがえのない家臣であり、首を差し出すなど考えられません。
斯波義廉は、西軍に残ることにしました。
将軍の失策!!終戦のチャンスを逸してしまいました。

そんな中、山名宗全は、一計を案じていました。
西国一の戦力を擁する守護大名・大内政弘を口説き落とし、京に呼び寄せます。
1467年8月23日・・・大内軍は、道中の東軍を蹴散らし、威風堂々京に入ります。
一説には8万の軍勢を率いて来たとか・・・
これにより形勢逆転!!
大内軍が東寺を占拠し、洛南一帯を西軍が獲得すると、東軍から離脱者が続出・・・。
すると・・・

長期化の理由②総大将の逃亡

西軍に大内政弘が参加したことによって、形勢は逆転!!
東軍総大将の足利義視が逃げ出してしまいました。
それでもなお、東西両軍は激突!!
そのたびに火が放たれ、京の都はいよいよ荒廃していきます。
9月18日、東岩倉の合戦では・・・
戦場となった南禅寺の一部が焼失!!
10月2日~4日の相国寺の合戦では、伽藍が焼け落ちてしまいました。
応仁の乱で、最も規模が大きかった戦いです。
戦火は近隣にも及び、相国寺のとなり・・・花の御所も完焼・・・。
これに激怒した将軍義政は切り札を出します。
御花園法皇に、山名宗全討伐の院宣を要請します。
10月3日、西軍は、山名宗全討伐の院宣によって朝敵とされてしまいました。
朝敵となった西軍は、士気が下がり・・・終息に向かうと思われましたが・・・

将軍義政は、伊勢に隠れていた義視を見つけ出し、京に呼び戻しました。
以前のように東軍で活躍してもらおうと思っていたのです。
しかし、将軍の周囲では、政敵である日野富子の一族が占めており、もはや義視の居場所はありませんでした。
義視は・・・あろうことか、敵に寝返ってしまいました。
西軍は、将軍家の者が加わることを歓迎し、西幕府の将軍として義視を迎えました。
西軍の士気は一気に上がり、戦いは激しさを増していきます。

乱の勃発から1年10か月・・・
東西に分かれて戦う大名たちの参戦理由も様々でした。


長期化の理由③複雑な利害関係

家督争いでわかれた畠山氏同様、斯波氏も家督争いで分裂。
赤松氏は、自分たちの領土を奪った山名氏に対抗する為に東軍に参加。
西軍について戦況を覆した大内政弘は、貿易が瀬戸内海の支配権をめぐり、長年細川氏と対立。
丹後の一色氏と若狭の武田氏は、領地問題で反目。
斯波氏と今川氏は遠江の地を争っていました。
京極氏と六角氏は近江を巡って戦っていました。
守護大名たちは、これらの対立構造のまま、応仁の乱に参戦・・・。
異なる思いの中で、誰と誰が結びつき、誰と誰が戦っているのか・・・わからなくなっていきます。


長期化の理由④屋敷の要塞化

応仁の乱が始まると、守護大名はこぞって屋敷に井楼(物見櫓)を作ります。
屋敷の周りには堀を巡らせます。
これが戦を長引かせる原因となります。


長期化の理由⑤戦い方の変化

それまで実戦部隊は、主従関係にある家臣たちでした。
しかし、応仁の乱では、足軽という兵装の歩兵の役割が大きくなります。
足軽の主な任務は・・・略奪、放火でした。
金で雇われた傭兵で、主君への忠義も、武勲という目的意識もなく、戦に対する貢献度は低かったのです。

1471年、京で天然痘が大流行、多くの人が無くなります。
戦をしている場合ではない・・・!!
そんな戦いを、誰がどのようにして終わらせたのでしょうか??


1471年・・・終結の兆しが・・・
きっかけを作ったのは、家督争いのために東西に分かれた斯波義敏と斯波義廉です。
義廉の事実上の大将は、朝倉孝景でした。
朝倉は、西軍の中でも一目置かれて京に陣を置いていました。
ところが、京で戦っている隙に、領地である越前の殆どが東軍の義敏によって制圧されかけたのです。
それを知った朝倉は、すぐさま軍を離れ、義敏攻略に向かいましたが・・・
思わぬ苦戦・・・不利な戦況に追い込まれ、度重なる東軍の誘いに応じ・・・越前守護の任命を条件に東軍に寝返ったのです。
まさに下克上!!
寝返った朝倉が越前を平定したことで、西軍の貴重な補給ルートが絶たれてしまいます。
日本海から琵琶湖を経由する京への大動脈が失われてしまったのです。
西軍の劣勢は、誰の目にも明らかな状態に・・・。

そんな中・・・1472年、細川勝元と山名宗全が和睦交渉を開始。
しかし・・・その翌年、1473年3月、山名宗全が70歳で死去。
その2か月後には、細川勝元が44歳で死去。
細川と山名のそれぞれの息子(細川政元・山名正豊)たちによって、単独講和が結ばれ、やっと和睦が成立。
これによって、今日での戦いは終息に・・・

しかし、各地の守護大名たちは、何年も本国を留守にしていたので、自国の政治がおろそかになってきていました。
各地で争いが起こり・・・京から戦いの場は地方へと移っていきます。
さらに7年も続くことに・・・!!

応仁の乱は、そのように決着したのでしょうか??
この時、京に残っていた西軍の有力大名は大内政弘と畠山義就のみ。
彼らは足利義視を西幕府の将軍に担ぎ上げていたので、義視の手前、戦いを終わらせることができません。
そこで義視は、兄・将軍義政にわび状を・・・
これを受け、義政が義視を粗略に扱わないと・・・
1476年12月、義政と義視の間で和解成立。

障害がなくなった畠山義就は、京から兵を引き上げました。
それから間もなく・・・1477年11月11日、西軍の大内正弘も、周防・長門・越前・豊前の守護の座は安堵という破格の条件で東軍に降伏し、京から撤退。
僅かに残っていた大名たちも国へ帰っていきました。

遂に応仁の乱終結・・・!!

勝者もなく、敗者もなく、何が解決したのか・・・うやむやのままに集結したのでした。
あまりのもあっけない終わりでした。
当事者でさえ、誰が誰のために戦ったのか・・・わからなかったのかもしれません。
京の都を焼け野原にしただけの応仁の乱・・・。

11年間、足利義政を中心とした室町幕府が、その場しのぎの対応を繰り返さなければ、もっと早く終わっていたのかもしれません。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本 (じっぴコンパクト新書) [ 水野大樹 ]

価格:864円
(2017/7/6 17:26時点)
感想(0件)

まんが戦国1000人 応仁の乱から大坂城炎上まで乱世のドラマを読む

価格:2,052円
(2017/7/6 17:27時点)
感想(0件)

足利義政と日野富子―夫婦で担った室町将軍家 (日本史リブレット人)

新品価格
¥864から
(2017/2/22 20:46時点)



室町時代後期・・・未曽有の災害や民衆の暴動が相次ぎ、世は乱れに乱れていました。
足利将軍家の権威は地に落ち、遂には将軍暗殺事件まで起こりました。
そんな中、影の権力者として君臨することとなった女性・・・八代将軍・足利義政の妻、日野富子です。
強欲、淫乱、独裁者??本当に悪女だったのでしょうか??

代々朝廷に仕えてきた日野家は、将軍の正室を輩出する中級公家の一つでした。
中でも富子の伯母に当たる日野重子は、六代将軍義教に嫁ぎ、八代将軍・義政を出産・・・将軍の生母として権力をほしいままにしていました。
ところが、義政は側室に今参局を迎えると彼女にご執心となり、母の言うことより彼女の言うことを聞くようになりました。
「このままでは日野家の権勢が奪われてしまう。」そう感じた重子は、富子を嫁がせることで今参局から義政を取り返そうとしました。
日野家の女性を母とする世継ぎを産ませようとしたのです。
1455年8月27日、富子は16歳で、将軍義政の正室となりました。
この時、義政は20歳、大層な美男子で、芸術にも通じた教養ある人物でした。
しかし、富子を待ち受けていたのは、屈辱的な結婚生活でした。
義政にはすでに数人の側室がおり、中でも今参局に未だ夢中・・・振り向きもされない富子・・・。
しかも、義政は政治に全く関心がなく、昼間っから酒を飲んで、趣味の庭づくりに莫大なお金をかける始末・・・。
富子は耐えるしかありませんでした。

自分の権威を高める手段は・・・正室として世継ぎを産むこと!!
しかし、今参局も黙っていません。
親族の若い娘を側室に迎え・・・日野富子派VS今参局派の女の戦いが始まりました。
そして富子が将軍家に嫁いで4年・・・待望の男子を出産・・・
義政の跡継ぎを産んだ富子の勝利でした。
ところが、喜びもつかの間・・・富子の子は生後すぐに亡くなってしまいました。
この時、都中に不吉なうわさが・・・
今参局が自分の地位を守るために、若君を呪い殺したというのです。
この噂を信じ込んだ義政は怒り心頭!!
大した取り調べもせずに今参局を流罪に!!
今参局の息のかかった者たちも全員都から追放!!
今参局は、身の潔白を証明するために、自害したと伝えられています。
この今参局事件で、将軍の妻としての権威を回復した富子・・・女帝の道を歩んでいくこととなります。
でも、この事件には・・・陰謀が隠されていた・・・??
”今参局が呪い殺したとうわさ”を流したのは、富子の伯母・重子でした。
世継ぎの死というピンチを逆手にとって、将軍義政に告げ口し、今参局派を将軍御所から一掃していたのです。

世継ぎを産んで、その子を次の将軍に・・・!!

1459年夏・・・日本全土を天変地異が襲います。
豪雨、地震、その後3年にも及ぶ日照り・・・
これによって大飢饉が発生し、死者は都だけで8万人以上!!
この国難に際しても、義政は対策を施さないばかりか、将軍を辞めたがっていました。

しかし、富子には世継ぎがいません。
そこで、一刻も早く隠居をするために、義政は、富子に内緒で養子をもらうことにしたのです。
白羽の矢が立ったのは・・・当時、仏門に入っていた弟・義視です。
しかし、兄の優柔不断な性格を知っていた義視は・・・
「後に男子が生れても、その子は出家させ、決して跡継ぎにはしないでください。」
義政は、この意見を受け入れ、義視を還俗させたのです。
義視の後見人は、管領・細川勝元・・・義政の隠居生活計画が着々と進んでいきます。
そんな時・・・富子が懐妊したのです。
「もし男子が生れてくれば、本来ならこの子が世継ぎとなるはず・・・」
そして・・・1465年11月23日・・・富子は男子を出産。
将軍の世継ぎ候補が二人・・・これが、幕府を揺るがす大事件へと発展していきます。

優柔不断で政治的決断能力のない義政・・・
富子は動き出しました。
義視をどうにか・・・しかし、後ろ盾は細川勝元・・・。
そこで富子は、細川勝元のライバル・山名宗全に接触、味方につけることにしました。
しかし・・・この世継ぎ争いが、やがて京の町を焼き尽くす戦となっていくのです。

日野富子が男児を産んだことで、跡継ぎの座を巡って大混乱が起きました。
候補は二人・・・初代将軍・義政と富子の間に生まれた義尚(山名宗全)VS義政の弟・義視(細川勝元)。
そこに・・・有力大名の畠山氏が分裂してそれぞれにつき・・・一触即発の事態に陥っていました。

1467年5月26日、遂に両者が京の都で激突!!応仁の乱です。
激しい戦いが繰り広げられ・・・はじめは山名率いる西軍が、細川率いる東軍を圧倒していたのですが、やがて東軍が将軍御所と朝廷を制圧。
権力の中枢を押さえたことで形勢逆転!!
我が子善尚を将軍にするために、西軍に加勢していた富子ですが、御所が東軍に包囲されてしまうと、なすすべなく・・・。
総勢27万人が動員されたと言われる応仁の乱・・・
京の都は瞬く間に廃塵に帰し、その争いは全国へ広がっていきました。
将軍家の御家騒動が、大乱に発展してしまったのです。
戦が始まって6年・・・
1473年、長引く戦況に嫌気がさした義政は、ようやく決断します。
後継者に9歳になった義尚を選び、将軍職を譲って正式に隠居・・・
幾万もの命、そして京の都の被害と引き換えに、富子は義尚を将軍の座につけるという望みを果たしたのです。

応仁の乱を起こしたのは、本当に日野富子だったのでしょうか??
実は、後継者争いが起きる前に、細川勝元と山名宗全の対立構造は将軍後継争い以前からありました。
もはや武力衝突は避けられなかったようです。
細川、山名は、戦いを始めるきっかけを探していたのです。
たまたま足利家の家督相続争いがあったので、富子は戦の口実として利用された・・・巻き込まれたのでしょう。
本当の張本人は・・・細川勝元??
義視の後見人になったころから、虎視眈々と勢力拡大を狙っていました。
つまり、富子や宗全は、且元にとっては邪魔な存在だったのです。
富子は応仁の乱に対しては蚊帳の外・・・
富子は義尚が次の将軍となることだけを願っていました。
母親としての当たり前の強い思いだったようです。
富子は自分の権勢よりも、戦の終結を望んでいたようです。

富子は応仁の乱で莫大な富を蓄えました。
諸説ありますが・・・総資産70億円!!
どうやってそれだけの財産を築けたのでしょうか?

①コメの買い占め
戦によってコメ相場が急騰すると読んだ富子は、米を買い占め値段を吊り上げ大儲け。
②関所を設ける
戦のための物資の運搬が多くなると、京の七口に関所を設けます。
関所で人や物に関銭を課したのです。
③商人から税金を徴集
酒屋や高利貸しが儲かっていると聞けば、税金を徴集、幕府に入るお金を着服・・・??
④大名同士の訴訟に介入
大名達が領地問題で訴訟を起こした場合、判決を有利にする見返りとして、賄賂を受け取っていたと言われています。
強欲な守銭奴と呼ばれるようになってしまいました。
富子の権力の源泉は財力・・・
頼りない夫・将軍義政に代わって、蓄財に励み、幕府の財政を支えたのです。
稼いだお金を大名などに貸し、利息で財産を増やしました。
貸しはがしもやっているのです。
そのお金の使い道は??

義尚が9代将軍となっても終息を見ない応仁の乱・・・
京の都はすっかり荒廃し、公家や役人も多くが家を失って、路頭に迷っていました。
すると富子は・・・ため込んだお金を活用!!
焼け出された公家や幕府の人々を室町第に迎え入れ、食事や物資を振る舞ったのです。
そして・・・戦をしている大名たちにつぎ込みました。
領地を留守にしていた大名達・・・土地は荒れ果て、戦費はかさむばかり・・・巨大な借金をしながらの泥沼の戦いをしていました。
例えば・・・畠山義就に1千貫(1億5000万円)を貸し与えます。
資金を得た義就は、すぐに京とを引き上げ、河内国に帰っていきました。
富子が大名たちに金を貸したのは、利息で儲けるだけでなく、国元に帰る費用をねん出し、早く戦を終わらせようとしていたのです。
大名達は富子から資金を得たことで、潮が引いていくかのように京を離れ、領地に戻っていきました。
1477年11月11日・・・戦いが始まってから10年の月日が流れていました。
荒れ果てた京の都を復興させるために、寺社などに多額の寄進をする富子。
強欲ではなかったのです。

応仁の乱のさなか・・・室町第で大スキャンダルが・・・それは富子と後土御門天皇です。
将軍の正室と、天皇との密通疑惑・・・
応仁の乱を避け、天皇が富子のいる室町第に御座所を移したことから噂が一気に広まりました。
密通の噂はあっという間に広がり・・・義政の知るところとなります。
しかし、この噂はデマで・・・天皇のお相手は富子ではなく富子の侍女でした。
侍女が天皇の子を身ごもったことで、富子の疑いは晴れたのでした。

応仁のさなか・・・息子の義尚に将軍の座を譲った義政ですが、その後も相変わらず大酒を飲んで遊んでいました。
富子は幼い将軍を支え、幕府を支えていました。
義尚の教育にも力が入ります。
我が子を立派な将軍にしなければ・・・!!
しかし・・・義尚は、成長するにつれて・・・父親同様酒にぼれていきます。
反抗的になり、自分の髪の毛を切り落としてしまいました。
このままでは・・・!!富子は大いに悩みます。

1488年、義尚が病に倒れました。
1か月の闘病ののち、奇跡的に回復!!
死に直面したことで、心を入れ替え、酒を断ち、武芸に励むように・・・将軍としての自覚が芽生え始めました。
1489年、戦に出陣します。
幕府の権威を取り戻すために、近江の六角高頼が寺社の所領を横領しているという訴えに応じ、1万の兵をもって攻め込ました。
それは、富子が夢にまで見た将軍の勇士でした。
しかし、この戦いが長期戦となったために、義尚は陣中で酒を飲むことが多くなり、体調を崩します。
富子が駆けつけて、看病するもむなしく1489年に死去。。。25歳の若さでした。

将軍に代わり、幕府軍撤退の指揮を執ったのは富子でした。
我が子の亡骸と共に京に帰ってきたのです。
我が子を将軍にするために一生懸命尽力してきたのに、将軍にしてしまったが為に失くしてしまいました。

富子は掴んだ権力を失う・・・??
しかし、富子は義尚に万が一のことがあった時のために、かつての敵・義視の子・義材を義尚の養子に迎えていました。それも、夫の義政に一言の相談もなしに・・・。

どうして政敵の息子を養子にしたのでしょうか?
どうにかして室町幕府を存続させるためには、血筋的に義材を養子にするしかなかったのです。
足利将軍家を絶やさないために・・・苦渋の決断でした。
この富子が相談なしに決めたことに対し、怒った義政は、自ら将軍に返り咲こうとします。
しかし・・・翌年の1月・・・長年の不摂生が祟り、息子の後を追うのです。
義政の死を機に出家した富子ですが、陰の実力者として義材を将軍に就けるために暗躍します。
その甲斐あって、義材は10代将軍に就任。
ところが、またもや富子は疎んじられます。
義材は言い放ちます。
「今後、政治への口出しは無用に願いたい。」by義材
義材は、富子を権力の座から降ろすために幕府の財政権を剥奪!!
さらに、将軍が政治を行う室町第の近くにあった富子の住まい・・・小川殿を破壊し、義政の別荘だった東山山荘に追いやりました。
「こんな仕打ちを受けるとは・・・!!」
1490年6月、富子の怒りに火をつける事件が勃発!!
親しい人たちを招き、観世座を呼んで能を楽しもうとしていた時・・・
将軍義材の父である義視が、観世座に圧力をかけ、参加を辞めさせたのです。
集まった人たちは散会することとなり、富子の面目は丸つぶれ!!
屈辱的な仕打ちに対し、復讐に燃える富子は、義視のライバルだった細川政元と共謀し、反撃の機会を待ちます。
大御所の義視が亡くなったことを機に、義材は畠山氏を征伐するために京都を離れ、河内国へ・・・。
それを知った富子は、突如として亡き夫の異母弟の息子・足利清晃(のちの義高)を担ぎ出します。
なんとか復讐を遂げた??
留守中に、将軍を取り換えてしまったのです。

これに諸国の大名が従ったので、義材は降伏を余儀なくされたのです。
こうして権力の座に返り咲いた富子は、観世座を招き、盛大な祝賀会を開いたとされています。
クーデターによって再び権力を手に入れた富子・・・
しかし・・・新しく11代将軍となった・義高は、義材に肩入れし、将軍となったことを根に持っていました。
富子に東山山荘から出るように・・・さらに富子の協力者だった細川政元も、将軍の後見人となったことで手のひらを返したように、富子と敵対します。
失意の中・・・1496年、日野富子死去。。。57歳でした。

富子が応仁の乱を終わらせようとした頃に詠んでいたのは・・・

「偽りの ある世ならずは ひとかたに
         たのみやせまし 人の言の葉」

結局最後まで裏切られ、失意の中亡くなります。
その後、11代将軍・義高と後見人・細川政元との間に対立が・・・。
弱体化する幕府に代わって・・・諸国の実力者たちが台頭し・・・いよいよ、群雄割拠の時代に突入していきます。
皮肉にも、室町幕府の安泰を願う富子の死が、戦国の世の幕開けとなったのです。




↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

新品価格
¥972から
(2017/2/22 20:47時点)

世界の辺境とハードボイルド室町時代

新品価格
¥1,728から
(2017/2/22 20:48時点)

利休にたずねよ (PHP文芸文庫)

新品価格
¥905から
(2016/6/27 16:32時点)



雷鳴とどろく京の町・・・1591年2月28日、ひとりの茶人が切腹して果てます。
茶聖と謳われた千利休です。
その首は、橋のたもとに置かれ、無残にも木像の足で踏みつけられるようにして晒しものにされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉!!

しかし、もともと利休を寵愛していたのは秀吉でした。
どうして秀吉は利休に近づいたのでしょうか??

1522年、堺の魚問屋の長男として生まれた千利休。
幼名は与四郎。。。父・与兵衛は、海産物の取引をする傍ら、所有していた倉庫を貸し付けることで財を成した堺きっての豪商でした。
しかし、千家は武家で・・・祖父・千阿弥は、室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行でした。そんな祖父のセンスを引き継いだのかもしれません。


利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で反映し、戦国大名の武力に頼らず「町衆」という有力商人たちが自ら治めていました。
そんな町衆の間で流行っていたのが茶の湯。。。
社交や商談の際には欠かせませんでした。
そして・・・そこで、豪商たちは名物と呼ばれた中国の高価な茶道具を手に入れるようになります。
商人の子・利休もまた、茶の湯に親しみ、19歳の時に当代第一の茶人・武野紹鴎に弟子入りします。
さらに、茶の心に通じるとして南宗寺で禅宗を学び、宗易という名をもらいました。

1540年父が亡くなり、家督と商売を継いだ利休・・・
商人として生きることとなります。
堺の豪商たちと、茶会で交流を深めます。
茶人として、商人としての地位を確立し、政治・経済・文化を問わずして人脈を広めていきました。

1568年47歳の時・・・天下布武をかかげた織田信長が大軍を率いて美濃から上洛!!
15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目を付けたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫(1000憶)を献金するように命じました。
堺には富だけでなく、他にも魅力がありました。
鉄砲の産地を抑えること・・・
民衆たちの自治的なものを抑えること・・・
そこで信長は、当時堺で流行していた文化・・・茶の湯に目をつけます。
町人でもあり、茶人でもある今井宗久、津田宗及・・・そして千利休。。。
信長の三番手の茶頭となった利休・・・3000石という破格で抱えられました。

しかし、利休61歳の時、本能寺の変!!
信長の死から10日余り、謀反人・明智光秀を討つことで・・・天下取りの第一歩を踏み出した秀吉が近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き政務を行っていた秀吉は、そこで茶室を作り、茶会を開こうとします。
利休はその時の気持ちを・・・
「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している」としています。
信長の三番手の茶頭だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのでした。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の名品を堺の商人から買い上げて、武功を揚げた家臣に与えて人心を掌握し、強い主従関係を築いていたのです。
土地には限りがあるのであげ続けることはできない・・・その代わりに茶道具を・・・!!と、信長は思っていたのです。
手柄を立てたものに、茶会を開く権利を与える・・・「茶湯御政道」を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、茶室が政治の場となっていきました。

そのやり方を、秀吉は継承したのです。

さらに、秀吉は利休の情報力を必要としていました。
堺の商人には情報が詰まっていました。
貸し倉庫業の利休の下には、全国のたくさんの情報が入ってきたといいます。

利休、半年後の手紙には・・・
「秀吉公が只今山崎から大坂にうつられたため、細々とお見舞いを申し上げなければならないので、堺には申し訳ないが、われながらおかしいくらい浮き浮きした気持ちでいる」と、書いています。
そして、その秀吉の天下取りに大いに貢献していくのです。

1584年3月・・・秀吉は、敵対する織田信雄と徳川家康との同盟軍との戦に臨みます。
小牧長久手の戦いです。
この時利休は、京や堺から戦場の秀吉と書状を交換し、周りに支持を出しています。
また、秀吉が大坂城に戻ってから、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り合い、秀吉に戦況を伝えました。
右近と織部とは、茶を通じて師と仰がれていました。

利休は、茶人ネットワークを駆使し、情報集めに奔走します。
秀吉の信頼を勝ち取っていきます。
利休は、茶頭は権力者の後ろ盾が必要だと思っていたのです。
そして、地位の向上も・・・!!
まさに、運命共同体となっていきました。

1585年、秀吉が関白に就任!!
姓を豊臣と改め、本格的な政権をスタートさせます。
すると秀吉は、利休を弟・秀長と同じく側近に!!
利休64歳の時でした。

1586年4月・・・秀吉のもとに一人の武将が・・・豊後・大友宗麟です。
九州で勢力を強めてきた島津義久の侵攻に脅かされていると、秀吉に助けを求めて大坂城にやってきました。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々の事は宗易(利休)に、公儀の事は宰相(秀長)が存じておるため悪いことはないはずだ」
豊臣政権では、外交が秀長、内政は利休となっていました。
実際に大坂城で利休とあった宗麟は、その格別の権限に驚いたといいます。

利休は、どうしてそれほどまでに力を持ったのでしょうか?
そのカギを握っていたのは秀長。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を超える所領を持つ大名でした。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取仕切っていました。
そこに近づいてきた利休・・・郡山城に相当な金銭が蓄えられており、そのお金は利休の援助だったともいわれています。
秀長と親密な関係をもって、豊臣政権の中枢に食い込んでいった利休・・・
温厚で人望のある秀長は、利休のよき理解者で、秀吉との間の緩衝材となり、利休は自分の意見を主張することが出来たのです。
もう一つ、秀長に取り入った理由は・・・??
当時、秀吉には子がおらず、跡継ぎは秀次?でしたが、まだ秀長にも可能性は残っていました。
秀長に接近したには、秀吉死後の自らの地位を確保するためだったのです。

政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を身に着けた利休・・・。
農民出身といわれる秀吉は、権威づけのために官位を利用しようと朝廷に近づきます。
1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭である利休に茶を点てさせようとしました。
しかし。。。問題が・・・利休は、一介の町人だったので、禁中に入ることが出来なかったのです。
そこで利休は考えます。
「僧侶になろう!!」
そしてこの時、天皇から授かった号が、利休居士でした。
この時、64歳!!千利休の誕生でした。
宮中に招かれた天下人・秀吉の茶頭・・・絶大な影響力を持つようになり・・・
茶器の値段は、利休がつけるとまで言われました。
茶の判断が、利休の判断となっていきます。
茶席で利休のお眼鏡にかなうかどうか・・・それが、武将たちの出世にも影響したといいます。

おまけに、茶会=今の料亭のような場所になっていきます。
利休は常に政治の裏工作を知っていた・・・ということになっていきます。
利休の力、恐るべし!!

京都にある北野天満宮・・・1587年10月1日、ここで秀吉主宰の「北野大茶湯」がされることとなります。
茶会開催に先立ち、京都・奈良・堺などでは・・・
「10月1日から10日間の日程で、北野社で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問」
この時、身分の隔てなく平等に参加を許したのは・・・6月に九州平定が行われたので、武士や公家だけの支配者階級だけではなく、一般庶民まで秀吉によって平和になったことを広く知らしめるためでした。

秀吉が天下人であることを示す大事なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す書状を書き・・・茶会成功に力を注ぎます。
利休の取仕切った北野大茶会の全貌とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂から運ばれます。
さらに、800ともいわれる茶席がたち、1000人を超える人が訪れたといいます。

大成功を収めた大茶湯・・・豊臣政権の安定を印象付けます。
その立役者・利休を株をあげます。

寵愛された利休・・・どうして秀吉の逆鱗に触れたのでしょうか?
1591年2月13日・・・利休は秀吉から、突然京を出て、堺で謹慎せよと命じられます。
北政所が利休に密使を遣わします。
「関白様によく謝罪をするように!!」
しかし、利休は拒みます。
そして・・・淀川を渡り堺に帰ってしまいました。
どうして頭を下げに来ないのか・・・??秀吉は怒り狂います。
2月26日・・・京へ戻るよう利休に命じます。
3000もの上杉の軍勢に利休の屋敷を囲ませ逃げないようにさせます。
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉の言い分は二つ・・・

一つは一体の木像でした。
京都・大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺です。
北野大茶湯ののち・・・利休は自費で山門を寄進します。
その壮麗なたたずまいから、当時の利休の財力が伺えます。
この利休の寄進に感謝した大徳寺はお礼に、門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし・・・その木像が問題となります。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れます。
「門をくぐるたびに、利休の足の下をくぐれというのか!!」
これは調べれば、利休がやったことではないとすぐにわかるので、切腹の口実に過ぎないと思われます。

もう一つは、利休の着服。
利休は、当時、自らが制作した茶器を売って、莫大な利益を得ていました。
秀吉側はこれを不正行為としたのです。
無価値なものを高値で取引し、唐物の茶器と交換するなど・・・相場が崩れてしまいます。
しかし、利休が天下人の茶頭を利用して高値で売っていたのではなく、利休の茶道具の素晴らしさが人に認められた結果でした。

どちらも表向きの理由と考えられます。
その真相・・・本当の要因は・・・??

①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは、大陸進出!!
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり以前から考えられていたようです。
その朝鮮出兵に反対したために秀吉の怒りを買ったのでは??
史料は残っていません。が、堺商人の利休としては、博多の商人が潤うのは・・・許しがたかったのかも・・・??

②秀長の死
1591年1月・・・利休の絶大な支持者だった秀長がこの世を去ります。
これによって秀長と利休による政権システムが崩壊し、反利休勢力が・・・!!
石田三成を筆頭とする五奉行です。
太閤検地をし、外様大名たちにも大きな影響力をもっていた三成が、政権を担うようになっていきます。
三成としては、利休は煙たかったかもしれませんが・・・バックには秀吉がついていたでしょう。
もし、秀長が死んでいなければ、利休の切腹はなかったかもしれません。

③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となった60歳を過ぎた頃から、茶の湯の革新に取り組みます。
それまで大名たちがありがたがっていた高価な唐物ではなく、近くにある雑器に美を見出していきます。
”利休好み”の茶器を生んで、”侘び茶”を大成させていきます。
これに対し、秀吉は”派手好み”という趣味の違い・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計で、僅か三畳には利休の詫びの精神が盛り込まれていたといいます。
問題だったのは趣味の違いでなく・・・躙り口にありました。
誰もが身をかがめ、頭を下げて入らなければなりません。
もちろん、武士は刀が邪魔になるので、外に置いておかなければなりません。
利休は小さな脇差でも外に置いておかせたといいます。
”茶室の中では誰もが平等”僅か二畳の中でひざを突き合わせ侘茶の精神を作る舞台装置だと考えていました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
二人の間に大きな溝が出来たのは、1590年の小田原討伐が終わったころからでした。
秀吉の考えが変わったのです。
身分制度を確立しようとしていたようです。
4年前の北野大茶会では、身分を問わずと言っていたのに・・・!!

利休の茶席での平等は、秀吉にはなかったという事でしょうか??
下剋上を凍結させるために、士農工商を確立させようとした・・・つまり、平等を謳う利休が邪魔になってきたのでした。

堺の商人上がりの茶人たちも没落していきます。
これは、堺の商人たちの必要性が無くなってきたことを示していました。
利休も同じ運命・・・??
秀吉の新しい社会秩序に最も目障りだったのが、利休だったのです。

遂にその日が訪れます。
2月28日・・・切腹を見届けに来た武士たちと最後の茶の湯を楽しみ、介錯人を願った弟子に・・・
「すぐには解釈するな、手を挙げたときに首を打て!!」
表では雷鳴がとどろいていました。

利休は腹を十文字に切ると、裂いた腹からはらわたを引き出し、そこでようやく首を打たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔が常識だった・・・しかし、大政所、北政所がとりなして、切腹となりました。
秀吉は持ち込まれた利休の首を見ることもせず・・・
京の橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると、あの山門の木像の足で踏ませるようにして晒しものにしたといいます。

あまりにもひどい仕打ち・・・そこまでしなければならなかったのか・・・??
しかし、この後秀吉は大政所に手紙を書いています。
「昨日、利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
さらに4年後には、利休の子孫に千家の再興を許可しています。
利休の処罰を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、政治家でもあった利休・・・70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた侘びの美は、日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。



↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

ペンブックス6 千利休の功罪。 (Pen BOOKS)

新品価格
¥1,620から
(2016/6/27 16:32時点)

日本人のこころの言葉 千利休

新品価格
¥1,296から
(2016/6/27 16:33時点)

このページのトップヘ