日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:足利義昭

”退く戦は攻める戦より難しい”

戦国時代、撤退戦は武将たちを死の間際に追い込みました。
乱世に幕を引いた天下人・徳川家康も例外ではありません。
生涯で幾度も危険な撤退戦を経験した家康・・・
その中で、今まであまり語られてこなかった戦があります。

”金ヶ崎の退き口”です。

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織田信長が、朝倉氏討伐のために越前へ出兵。
信長と同盟関係にあった家康も、この戦に参陣しました。
戦いを優勢に進めていた織田軍でしたが、浅井長政の裏切りにより形勢が逆転。
信長は、撤退せざるを得なくなりました。
軍の殿・・・つまり、最後尾を任されたのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉でした。
しかし、この時、最も厳しい状況にあったのが、敵中深くまで攻め込んでいた家康でした。
家康の家臣はこう記しています。

”信長は、家康を前線に残したまま、何の連絡もなく退却した”

家康は、信長が撤退したことを知らされておらず、最前線に取り残されてしまったのです。
家康は、いかにしてこのピンチを生き抜いたのでしょうか??
信長、秀吉、家康・・・
戦国の三英傑を窮地に追い詰めた金ヶ崎の退き口・・・
この戦いに徳川家康の視点から迫ります。

1560年、桶狭間の戦いで、織田信長が東海の雄・今川義元を討ち果たしました。
これを機に、今川家中の一武将だった家康は、生まれ故郷の三河に帰り、独立を果たします。
この時、19歳でした。
まもなく、尾張の織田信長と同盟を締結。
西からの脅威を無くした家康は、三河を統一し、版図を拡大させていきます。

1570年、29歳の家康に、同盟相手の信長から書状が送られてきました。
それは、天下静謐のため、各地の領主に上洛を命じるものでした。
家康はこの命令に従って、上洛。
将軍・足利義昭の前で、馬揃えを披露しました。
その盛大さに、多くの見物人が集まったと記録されています。
しかし、華やかな式典の裏で、信長はある作戦を実行しようとしていました。

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1570年4月20日早朝、信長は、3万ともわれる大軍勢で都を出陣!!
その中には、家康率いる徳川勢もありました。
都の西岸を北上した軍は、4月22日、若狭国の熊川城に到達。
この時、家康は城下の得法寺に泊まったといわれています。

この時信長は、3万もの大軍を動員して何をしようとしていたのでしょうか?
信長が、毛利元就に送った書状にはこうあります。

”若狭の武藤と申す者が悪逆を企てているので、成敗しなさいと将軍から命令された”

足利義昭から、若狭国衆・武藤氏の討伐を命じられたと言います。
しかし、4月23日、熊川を出た信長は、武藤氏の西ではなく北へ軍勢を向けました。
その先は越前・・・戦国大名・朝倉氏が支配する地です。
従来、この信長の出兵は、朝倉の当主・朝倉義景が上洛命令に従わなかったためと考えられていました。
しかし、近年違った解釈があります。
信長が、最初から越前攻めを考えていたかは非常に難しい所です。
若狭国は、朝倉方と将軍・信長方で二分されていました。
言うことを聞かない武藤氏が、越前の朝倉に援助を求めたとわかってきました。
それなら懲らしめないといけないと、若狭から越前に入って行ったのでは??

朝倉義景が、反将軍派の後ろ盾になっていたと知り、信長は越前に軍を向けたのです。
4月23日、信長は若狭と越前の国境にある国吉城に入城。
その2日後に、越前の敦賀に進軍を始めます。
狙うは金ヶ崎城と手筒山城・・・2つの山城です。

信長はまず手筒山城への総攻撃を指示、家康率いる徳川勢も、南側から力攻めを行います。
結果、手筒山城はわずか半日で落城。
この時織田軍は、1300人以上を討ち取ったと記録されています。
翌日、信長は金ヶ崎城を包囲。
ここで手柄を立てたとされるのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉です。
城に乗り込んだ木下藤吉郎は、降参すれば命を奪うことはないと説いて開城させました。
越前と畿内を結ぶ要衝・敦賀の全域を易々と占領したのです。

信長は、すぐさま越前のさらに奥へと軍勢を進ませます。
その先鋒を務めたとされるのが、徳川家康!!
4月27日、家康らの先陣は、越前の南北を分ける木ノ目峠に達したと考えられています。
朝倉氏の本拠地・一乗谷まではおよそ50キロ・・・家康は峠を越え、一気に一乗谷へと流れ込もうとしていました。

しかし、その時、信長に驚くべき知らせがもたらされていました。
北近江を治める浅井長政が、朝倉川についたというのです。
長政は、信長の妹婿でもある同盟相手です。
もし裏切った浅井が近江から北上してくれば、信長は朝倉・浅井に挟み撃ちにされます。
一国の猶予も許されない絶体絶命の状況・・・
ここで信長は、”是非に及ばず”と言い捨てました。
後に本能寺の変でも口にする言葉です。
そして、撤退を決断!!
わずかの馬廻りだけを従え、都へ一目散に駆け出しました。
朝倉の追っ手をふさぐ殿は、木下藤吉郎らに託されました。
この時、越前の最も奥まで攻め込んでいた家康は、いかなる状況にあったのでしょうか?
家康の家臣が記した”三河物語”にはこうあります。

”信長は家康を捨て置き、何の連絡もなく宵の口に退却した
 家康はそれを知らず、夜が明けてから木下藤吉郎に知らされ、退却することになった”

危険な最前線に取り残されてしまった家康・・・
ここから決死の撤退戦をすることになります。

信長が退却したことを知らされた家康は、すぐさま兵を集め撤退を始めました。
目指すは、木下藤吉郎ら殿の軍勢が残る金ヶ崎城。
朝倉から奪ったばかりの城です。
この山城は、今は周囲を埋め立てられていますが、当時は三方を海に囲まれた天然の要害でした。
敦賀湾に突き出た金ヶ崎城は、朝倉の追撃を防ぐのに最適の城であったように思われます。
しかし、撤退する家康が、この城に入ったという記録はありません。

その理由の一端が、航空レーザー測量によって見えてきました。
赤色立体図には、細かな地形が視覚化されています。
そこには金ヶ崎城の意外な姿がありました。
それは、朝倉時代に整備された遺構が驚くほど少なかったことです。
南北朝時代に作られたものを、そのまま利用したのではないかと思われます。
南北朝時代の城の遺構は多く確認されましたが、戦国時代の最新の防衛設備は極めて少なかったのです。
山を削って平地を作ったように見える場所・・・それまでは曲輪かと思われていましたが、調査の結果は古墳でした。
朝倉時代のものではなく、新たに確認された古墳です。
城の遺構と思われていたのは、1000年以上前に築かれた前方後円墳でした。
朝倉は、こうした空間に手を付けず、城としての大規模な整備を行っていなかったのです。
実は当時、敦賀では金ヶ崎城のふもとにあった氣比社・・・現在の気比神宮が強い力を持っていました。
氣比社にとって、金ヶ崎城にある山並みは、神が降臨したとされる聖地でした。
朝倉は、こうした事情に配慮したとも考えられます。
金ヶ崎城は、天然の要害であるけれど、自分から反撃するということが籠城するとできない場所でありました。
徳川家康も、ここで残って何かをしようとは思わずに、脱出できる間に脱出して、追撃をかわしながら安全な場所に行く・・・と、考えたと思われます。
金ヶ崎城では、朝倉の追撃を食い止められない・・・
家康は、この城を横目にさらに西に向かいます。
木下藤吉郎ら殿の軍勢も金ヶ崎城を出て西に向かったと考えられます。
背後には、朝倉の追撃軍が迫っていました。
一体どこまで逃げれば助かるのか・・・??

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この時家康が目指したのは、越前と若狭の国境と考えられます。
そこには、国吉城という城があります。
国吉城とはどんな城だったのでしょうか??
登りにくく、ここに山城が無ければ登ろうとは思わない登りたくない山です。
山頂までは急峻な斜面が続き、敵の侵入を防ぎます。
さらに、本丸の手前には、高度な守りの設備も築かれていました。
”連郭曲輪群”があり、5つの階段状の曲輪が並んでいます。
それぞれの曲輪の間には、切岸が築かれています。
攻めよせる敵に、およそ10メートルのがけの上から鉄砲や弓矢で攻撃を浴びせるのです。
本丸までにはこうしたがけが5つ続いていました。
まさに、難攻不落!!
北側は、若狭湾が一望でき、大池もある・・・非常に、防御にも適した立地にある城山でした。
堅い守りを誇る国吉城・・・朝倉氏は、これまで何度もこの城を攻略しようとしていました。
しかし、その度に激しい反撃にあい、失敗。
朝倉義景は、この城について語っています。

”国吉城は、城の守りが固く、自由に攻め寄せられず
 攻めても有利にならない”

国吉城は、家康が逃げ込むのにうってつけの城でした。
織田軍全体の中でも、国吉城に帰れば、国吉城まで撤退すればというところがありました。
朝倉にしてみると、国吉城まで逃げられてしまうと、今まで攻めても落ちない城・・・
そこまで逃げられたら追いかけるのに諦める・・・!!

金ヶ崎城から国吉城まではおよそ10キロ・・・
金ヶ崎の退き口での家康の撤退戦は、この10キロを逃げ切れるかどうかだったのです。
しかし、その道のりは過酷なものでした。
朝倉の記録には、こう記されています。

”親は子を捨て、郎党は主人を知らず、我一番にとひ引き行く
 進むときは鉄壁をも砕く程の猛勢も、退く時は波の声も敵の寄ると恐れをなし
 後より味方の落来るを 敵の追うかと心得て 同士討ちする族もあり”

敵は朝倉の追撃だけではありませんでした。
朝倉や浅井の息がかかった一揆勢が、家康のいく手を遮っていたともいわれています。
そんな中、家康を守る三河武士は、決死の戦いを続けました。
徳川勢の最後尾にいた弓の名手、内藤正成は、6本の矢で6人を倒す、百発百中の腕前を発揮。
槍の半造と呼ばれた渡辺盛綱は、数十人を突き伏せ、一揆勢を退却させたと記録されています。
壮絶を極めた戦いの末、若狭へ入った徳川軍・・・
しかし、国吉城を目前にして、家康は難しい選択を迫られることになります。

若狭国の国吉城へ向け、およそ10キロの道を戦い続ける徳川軍・・・
ようやく国境を越えてまもなく、家康が目にしたのは味方のピンチでした。
殿として撤退していた木下藤吉郎の軍が、敵に囲まれていたのです。

木下藤吉郎の軍が、敵兵に四方から取り囲まれ、全滅寸前になっていた

そんな窮地に陥っている木下藤吉郎を目の当たりにした家康・・・どうする??

木下藤吉郎が、朝倉軍に囲まれたと伝えられる黒浜は、国吉城まで2キロ足らず・・・
家康は信長の家臣ではないのだから、かまわず城へ行くのが当然だと思われます。
しかし・・・見方を見捨てたとなれば、信長はどう思うのか??
浅井に裏切られた怒りにまかせて、どんな仕置きをされてもおかしくはない・・・!!
救援に行き、信長の覚えをよくしておくべきか??

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国吉城の手前で敵に囲まれた木下藤吉郎の軍勢・・・ 
それを見た家康は、こういったと伝わっています。

「ここで木下藤吉郎が討たれれば、再び信長殿に合わす顔がない」

家康は、木下藤吉郎を救援に行く選択をしました。
朝倉軍に突撃した家康は、水から鉄砲を放ち、木下藤吉郎を救出。
命拾いした木下藤吉郎は

「お陰を被りかたじけない次第」

と、家康に感謝を伝えたと言います。
こうして、危険な撤退戦を生き抜いた家康は、何とか国吉城に到達。
朝倉軍は、ここで追撃をあきらめたと考えられています。

数日後、家康は木下藤吉郎とともに都に帰還。
信長は、殿をやり遂げた木下藤吉郎をほめ、黄金数十枚を与えました。
しかし、家康に褒美があったという記録はありません。

金ヶ崎の退き口からわずか2か月後、家康は再び信長の求めに応じ出陣。
浅井・朝倉との姉川の戦いです。
ここで家康は、朝倉軍を一手に引き受け、さらに窮地に陥った織田軍を救い、勝利に導きます。
同盟締結から信長が死ぬまでのおよそ20年・・・
家康は信長を助けつづけるのです。

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家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

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天下取りへの第一歩、桶狭間の戦い・・・織田信長が、今川義元の大軍を打ち破った奇跡の逆転劇です。
しかし、実は信長には用意周到な作戦があったのでは・・・??
どうして桶狭間の戦いに勝てたのでしょうか??

レジェンド&バタフライ



1560年、27歳の時、桶狭間の戦い!!
この頃、織田家が支配する周りは、敵だらけ・・・!!
危機的状況を打開するために織田家の長男として育てられた信長。
しかし、期待外れの変わり者とみられていました。
信長公記には、従来の信長の姿が描写されています。

”いつも着物の袖を外し、短い袴をはいただらしない格好で、特に見苦しいには街中で栗や柿、うりをかじりつき、人に寄り掛かり、ぶらぶら歩いている”

大うつけ・・・大バカ者と噂されたといいます。
その後、父の病死で当主となった信長・・・
うつけ者が、どうやって強大な今川軍と戦ったのでしょうか??
従来、桶狭間の戦いのきっかけは、今川義元が京の都にのぼろうとしたためだといわれていました。
江戸時代初期に記された信長公記には・・・

”今川義元は上洛し、国家の政治を正すため兵を挙げた”

その為、今川義元が尾張に進軍してきたというものです。
さらに、桶狭間で信長が勝った理由は、これまでは奇襲攻撃だといわれてきました。

”敵の後ろ側へ迂回して移動しろ
 旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣を攻めろ”

信長軍は北へ迂回しながら今川軍に見つからないように丘陵地帯を進み、桶狭間に展開する義元本陣を急襲したというものです。
しかし、近年、研究者が記録を総合的に見直すと、全く異なる戦いの姿が浮かんできました。

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事の発端は、桶狭間の戦いの7年前・・・信長が、19歳で家督を継いだことでした。
それを知った義元は、

「信長はうつけと聞く
 今が大高城を手に入れる好機!!」by義元

大高城は尾張でも大きく重要な城でした。
そこを義元は奪い取ります。
大高城を手に入れたことで、義元は織田家の領地を南北に両断!!
しかも、この大高城は伊勢湾の目の前にあり、海上交易の利益を得られます。
大高城を奪ったことで、織田の経済力に打撃を与えたのです。
また、大高城と同じ年、義元は同じく伊勢湾に面した鳴海城も手に入れ、経済的支配を確固たるものにしました。
信長は絶体絶命の危機・・・!!
しかし、義元の策を読んで、戦略を練っていたのです。

桶狭間の年の前年、1559年26歳の時、信長は大高城のそばに2つの付城・・・丸根砦と鷲津砦を作ります。
さらに、北に3つの砦を作りました。
大高城と鳴海城を砦で囲み、今川軍の兵糧の運び込みを妨害、義元が大高城を助け出陣すせざるを得ない状況を作ったといわれています。
義元が出てくることを見越していたからこそ、付城を作って包囲して、攻め立てたことがきっかけで義元が出てきたのです。
今までのイメージとは違い、信長の方が自ら仕掛けていって義元を誘い込んでいたのです。

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1560年5月12日、今川義元出陣!!
大高城救援に向かう義元・・・道中にあったのが桶狭間でした。
この時、清州城で戦況をにらんでいた信長は、5月19日早朝、出陣!!
向かったのは、鳴海城東に位置する善照寺砦でした。
この砦は、これまで鳴海城を監視する砦と考えられていました。
ところが、砦の構造を丁寧に検証すると・・・
鳴海城の反対側の山の端っこに作った城だったことが分かります。
つまり、善照寺砦からは鳴海城が監視できないのです。
その代わり、南東の方角が一望出来ました。
善照寺砦の南東方面・・・それは桶狭間でした。
信長は最初から、今川軍の行動を読んで、桶狭間方面を監視するためにこの砦を設置してたのです。
今川の軍勢が尾張に向かってやって来れば、いち早くそこでキャッチできる監視塔のような役割を果たしていたのが善照寺砦でした。

記録によると、信長はここで2時間ほど動いていません。
信長が善照寺砦に到着したころ、すでに鷲津砦・丸根砦が今川先陣によって落とされていました。
この状況で信長が桶狭間に向かえば、大高城にいる今川軍に背後をつかれる恐れがありました。
また、最も重要だったのは、義元が今どこにいるのか??という情報でした。
戦全体を一望できる善照寺砦から、大高城の今川軍が動かない・・・義元は桶狭間にいるという二つの条件を見極めていたのです。

さらに、信長は運も味方につけていました。
二つの砦を落した今川軍は、人馬を休め、休憩。
この時、急に天候が激変し、豪雨が降りだしました。
今川軍は雨の中、動きが鈍くなり、火縄銃なども火薬が湿って使えない状況でした。
織田軍は砦に待機し、雨が上がるのを待っていました。
しばらくすると一転、晴れ渡る空~~!!
その時、信長は、

”空が晴れるのをご覧になって、信長は槍をとって大声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃった”

織田軍は、砦から2000の兵で正面攻撃!!
今川軍は総崩れ・・・義元は討ち死に!!

桶狭間の戦い・・・それは、奇跡の逆転劇ではなく、用意周到な戦術家・信長が起こした必然の勝利かもしれません。

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1568年、35歳の時、桶狭間の戦いの8年後、信長は室町幕府の将軍候補・足利義昭と共に上洛。
従来、天下統一のため将軍を利用したとされてきました。
明治期の歴史書には・・・

”信長の上洛は、義昭のためではなく足利氏の代わり天下を平らげんとする意味”

その後、義昭を京から追放し、それに代わって自ら権力を握った事実から、信長のイメージは伝統的秩序の破壊者に・・・!!

ところが、近年の研究では信長の違った一面が見えてきています。
どうして将軍・足利義昭と共に上洛したのでしょうか??

1568年、35歳の時、信長は足利義昭と共に上洛。

”将軍上洛のともとして織田信長が参陣する”

しかし、この発見された書状の年を見てみると、永禄9年となっています。
信長は、実際の上洛の2年も前から義昭と共に京を目指す計画を立てていました。
しかし、永禄9年の時点では、桶狭間の戦いで今川義元に勝利したとはいえ信長の周囲は強敵ばかり・・・
いつ攻められてもおかしくないため、上洛など考える余裕はありませんでした。
しかし、信長はそんな状況の中でも、義昭と共に上洛することを考えていました。
信長にとって、義昭と上洛することはどんな意味があったのでしょうか??

1467年、応仁の乱・・・京で始まった権力争いは、全国を巻き込む戦乱へと発展します。
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
そんな中でも信長は幕府の権威を重んじていたことを示す記録が残っています。
上洛の5年前に書かれた室町幕府の家臣の名簿・・・
その中に、”織田尾張守信長”の名が・・・!!
信長も、将軍を支える大名のひとりだったのです。
権威を重んじる信長が、上洛を目指した目的・・・それは、室町幕府の再興を図ったからです。

信長は、特に中央が維持された中で、「自分の領国があるんだ」という考え方の人物でした。
中央も鎮まるべきだという考えから、積極的に動いて行きました。
伝統的秩序に対する信長の思い・・・
新たに見直されている言葉「天下布武」!!
信長が用いたスローガンで、”天下に武を布く”と読めます。
自分の書状に、この正印を押した信長・・・
これまでは、「天下を武力で我がものとする」という意味で捉えられてきました。
しかし、この天下布武・・・当時の使われ方は・・・??
天下・・・今では日本全国という意味ですが、戦国時代、日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、「五畿内の領主は、天下の領主と呼ばれる」
つまり、天下とは、全国ではなく、京都周辺の地域(京・山城・摂津・和泉・河内・大和)を示しているのです。
もう一つの手がかりが、”天下静謐”という表現です。
上洛後の信長が、足利義昭への手紙で使った言葉です。
「天下」すなわち「五畿内」に将軍を置き穏やかに治めることを理想としているのです。
これらの事実から、天下布武の意味を読み解くと・・・

”武力という手段を使ってでも五畿内の平和的秩序を目指す”

というスローガンとも取れるのです。
実際に信長のやったことを見ていくと、乱れていた中央を鎮めるという意味合いが一番強い・・・
安泰を維持していく、そういう世の中を求めていたのです。

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1568年9月、35歳の時に4万の軍勢を率いて京へ!!
立ちはだかる敵を蹴散らします。
遂に、義昭と共に念願だった上洛を果たしました。
10月には、信長の軍事力を背景に、義昭が征夷大将軍に就任。
その後、信長が政権内で担当したのは、義昭が行う行政の監査、京の町の治安維持・・・
あくまで財政や守護の任命などの内政面は、義昭が担当しました。
二人は補い合う関係でした。

しかし、蜜月の時は長くは続きませんでした。
上洛からわずか2年・・・信長の怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉氏の反逆をきっかけに、畿内周辺の有力大名や寺社勢力が信長に反旗を翻したのです。
これに対し、信長は戦を重ね、支配地域を拡大!!
勢いを増す信長に、義昭は不安を抱き始めます。
やがて二人の関係に亀裂が生じていきます。
将軍義昭は、信長と組んで気付いたら周りが敵対者に囲まれてしまっている!!
自分も共倒れになってしまうんではないか??
そんな中、徐々に信長とのすれ違いが生まれてきます。
これに対しの信長は、義昭のふるまいを非難した意見書を送ります。
十七箇条の意見書です。
義昭の怠慢や悪政を、十七条にまとめ、厳しい言葉で忠告しています。

・忠勤の部下を大切にせよ
・えこひいきがあってはならない
・世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

信長としては、中央を治める将軍なんだから、しっかりしなさいということを求めていました。
義昭からすれば、不信感の上に、説教まで・・・!!と、怒りが増大してきていました。

上洛から5年後の1573年、信長40歳の時、義昭は信長に対し挙兵。
しかし、信長の圧倒的軍勢の前になすすべなく和睦するほかありませんでした。
信長は、義昭を都から追放。

「命を助けて後世の人々の評価に委ねようと、恨みを恩で返すつもりで送り届けた」

伝統的秩序の破壊者という信長のイメージ・・・
しかし、その実像は、室町幕府再興を願う武将だったのかもしれません。

将軍を京から追放し、戦を重ねて領地を広げた信長・・・
その強さを支えたのは卓越した経済力でした。
信長は、これまでにない経済政策を次々と打ち出していったパイオニアだといわれてきました。
しかし、そのほとんどは、他の武将のマネだったことがわかっています。
信長は、どうやって経済を発展させたのでしょうか??
楽市楽座とは、これまで商人たちが商売を行う際に、土地の所有者に払っていた税を廃止し、組合に入らなければ商売ができなかったものを緩和、自由な商売を認め、経済を活性化させたものです。
歴史の教科書でも信長の経済政策として取り上げられるので、革新的なイメージと相まって、信長発案の印象がありました。
しかし、近年、戦国時代の都市や政策の計画の研究が見直され・・・
楽市楽座は、信長が実施する以前からありました。
現在残る文献では、近江の戦国大名・六角義賢が1549年に楽市令を出していることが確認されています。
信長が岐阜で初めて楽市政策を始める18年も前のことです。

さらに、今川氏の楽市令・・・信長が楽市楽座を行う前年の1566年に出されています。
治安の悪化で活気が減った富士大宮の市に対して税をとらない楽市にすると書かれています。
こうした先人たちの試みである楽市楽座を信長が取り入れたのは、当時解決しなければならない課題があったからです。
流通経済の乱れ・・・特に、拠点となるところを通らずに、流通が展開してしまう・・・!!
信長としては、戦争が終わった状況でそれを再興していく必要がありました。
足利義昭を追放したのち、世の中の安泰を望む信長にとって、戦によって乱れた町と、流通経済の復興が必要だったのです。
信長は、以前からの楽市政策に、ある改良を加えて城下町の復興を活かします。

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1567年、信長が34歳の時に岐阜城下に楽市楽座令を出します。
最初の条文にこう書かれています。

”この市場に移住するものについては、国内の流通を保証し、税を免除する”

城下に移住する商人たちに限って税を免除!!
定住する人を増やして、城下が栄えることが目的としたのです。

自分の支配地域だけで、戦に必要な物資が全て集まることは、各地で戦っていた信長にとって大きなメリットでした。
そして信長は、経済力を高めるため、当時の日本随一の港・堺に目をつけます。
堺は当時、海外貿易で巨万の富を得ていました。
中国・明との貿易では、1回の航海につき2万貫(20億円)の利益が出ていたともいわれています。
当時の戦国大名の多くは、土地を獲得して年貢による収益を得るのが一般的でした。
しかし、信長は、領地拡大だけでなく、港に目をつけ、貿易での商人たちから税をとることで、収入を増やしました。
さらに貿易港・堺を押さえたことは、戦にも有利に働きます。
その効果が分かる戦いが・・・
1575年、信長42歳の時、武田勝頼の軍と対峙した長篠の戦いです。
織田軍が鉄砲を駆使し、武田軍に勝利したことで知られています。
2019年、合戦場の発掘調査で、織田軍の武器から驚くべき特徴が浮かんできました。
織田軍の鉄砲の玉・・・成分調査をすると、東南アジアの鉛の成分が出ました。
鉛は加工が簡単で、銃弾を大量生産できるため、鉄砲の玉に適した材料です。
しかし、日本ではあまり取れず、十分な量をとるのが難しい素材です。
信長は、堺の貿易ルートを使って、東南アジアから銃弾の原料となる鉛を大量輸入していました。
さらに、このルートで、国内では手に入らない硝石・・・火薬の原料も同時に手に入れていました。
硝石は、国内では取れません。
それを押さえているのは堺の港・・・信長は当然硝石の独占権を握ることとなります。
鉛の弾を輸入していた港は堺・・・堺を押さえていた信長が、圧倒的に鉛も手に入れていました。
武田は鉄砲はありましたが、火薬は作れないし鉛の玉もない・・・
鉄砲はほとんど使えませんでした。

たとえ改革の先頭を走らなくても、先人の成功を取り入れ、プラスアルファ―を加えることで、ライバルを上回る・・・それが織田信長でした。

元は尾張の大名にすぎなかった信長・・・
46歳の頃に安土に居城を移し、所領を大きく広げていました。
その躍進の原動力となったのが、身分にとらわれず重用した家臣たちです。
羽柴秀吉は低い身分から家臣となり、明智光秀は足利将軍の側近の出身、滝川一益に至っては忍者だったという逸話もあります。
一方で、結果が出なければ追放もある厳しい実力主義は、家臣たちとのゆがみを生んでいきます。

1579年、46歳の時に安土城が完成。
信長は安土城に身を置き、各方面の統治を自らの有力家臣たちに任せるようになります。
広い領国を、ひとりでは見切れないためです。
この時信長は、家臣たちに厳しい統治のルールを課します。
柴田勝家らが越前を治める際に、信長が勝頼に送った書状が信長公記に残っています。

”不法な税は取るな
 ただし事情がある場合は我々に尋ねよ
 そして裁判は公正に
 双方が納得しないようなら、我々に伺いを出して判決せよ”

そして、各地を治める家臣たちのもとに与力と呼ばれる信長直属の配下たちを監視役、目付として付けました。
信長は、部下を監視し、支配に揺るぎがない体勢を築いていこうとします。
しかし・・・お互いを離反させるような、仲良くさせないような仕掛けが多すぎて、織田か診断の中がぎすぎすしていました。
そこが、信長流人事の欠点でした。
そして、仕事ぶりがよくない家臣を罵倒!!
信長の父の時代から織田家に仕えていた尾張出身の重臣・・・佐久間信盛。
佐久間は、本願寺と戦う前線の指揮官でしが、目立った功績はあげていませんでした。
そこで信長が、佐久間信盛に送りつけた手紙には・・・

”丹波は明智が平定し、目覚ましい活躍をしている
 秀吉も数カ国で”功績をあげている
 それに引き換えお前は、5年間、感心する功績を一度もあげていない
 剃髪して高野山へ行け”

信長は、他の武将の名を上げて、佐久間を激しく批判します。
そしてこの手紙ののち、佐久間信盛は追放・・・2年後に、失意のうちに亡くなります。

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さらに、この状況に不安を抱いた人物がいました。
明智光秀です。
光秀は、佐久間が指揮していた本願寺攻めに参加。
祖の指揮官であった佐久間が追放処分になっていることが、穏やかではありませんでした。
手柄なき者は去れという露骨な人事・・・
武将達の神経を逆なでするようなことも、平気でやるのがこの頃の信長でした。

実力主義の信長軍団・・・しかし、一方でこの頃から信長は、長男・織田信忠に家督を譲り、次男・織田信雄には伊勢を与えるなど、息子たちを重用し始めます。
こうした信長の対応は、家臣たちの間にほころびを生んでいきます。
荒木村重、松永久秀といった家臣たちは、織田家の中での立場を不安視・・・
信長に対して反旗を翻しました。
そして、家臣の恐怖や不満が、形に立って現れたかのような事件が起きます。

本能寺の変です。

京の本能寺に滞在していた信長を、家臣・明智光秀が襲いました。
本能寺は炎の包まれ、信長はこの世を去りました。
1582年・・・織田信長死去、享年49歳。

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戦国時代、甲斐の虎と畏れられた英雄がいました。
武田信玄です。
言わずと知れた戦国時代最強の猛将です。

信玄を描いた肖像画・・・

IMG00437
















柔和な表情を浮かべたその姿は、従来の姿とは全く異なっています。
今、信玄の実像は大きく変わり始めています。
そんな信玄が、生涯最大の敵と向き合ったのが、1572年10月・・・2万5000の大軍勢を率いて西へと進行した西上作戦です。
尊厳を前に、後の天下人・徳川家康は大惨敗!!
怒涛の快進撃で、西を目指す信玄!!
信玄の目的とは何か??



武田信玄の名が天下にとどろいたのが、上杉謙信との死闘・川中島の戦いです。
5度にわたる国境をめぐる謙信との戦いは、およそ12年に及びました。
しかし、信玄最大の敵は謙信ではなく、後の天下人・徳川家康と織田信長でした。
ことの発端は、桶狭間の戦いで今川家の当主・義元が撃たれてから8年後・・・
1568年12月、武田・徳川が密約を結び今川に侵攻・・・
それぞれ今川領を割譲しました。
ところが、これが対立の火種となります。
信玄が家康との密約を破り、国境の大井川を越え、家康の遠江へと侵攻したのです。
どうして、信玄は密約を破ったのでしょうか?
国境の大井川を基準にというあいまいな共通の理解はあったようです。
しかし、状況次第によって・・・と考えていたようです。
もうひとつ、両者の関係は、信長を通じてなされています。
つまり、両者の本当の意図が伝わっていたかどうかはわからないのです。

この頃信玄は、信長と同盟関係にあり、一方信長は、信玄だけでなく家康とも同盟を結び、両者の仲介を果たしました。
ところが、信玄が徳川領へ攻め込むことで、家康と敵対・・・さらに、今川家の当主を庇護した北条、積年のライバル・上杉謙信と、信玄は周りを敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥りました。
その起死回生の秘策として、信玄は、とんでもない手に打って出ます。
信玄は、10年以上抗争を繰り広げた宿敵・上杉謙信と和睦を試みます。
川中島の戦いから5年後のことです。
しかし、同じ頃、家康も謙信との同盟締結を進めていました。
家康は、武田家と織田家の婚礼を妨害するなど、信玄と信長の同盟をも破たんさせようと画策していました。

これを知った信玄も黙っておらず、家康は口先ばかりの嘘つきだと非難!!
信長に、家康との同盟関係を解消するように迫りました。
さらに、信玄はそれまで敵対関係にあった北条とも同盟を締結、信玄にとって当面の敵は家康のみとなりました。
こうして、信玄の西上作戦の下準備は着々と整えられていきます。
信玄が、傘下の武将に宛てた手紙には・・・

”3年にわたるうっぷんを晴らさなければならない”

3年にわたる家康との抗争・・・しかし、実は信玄の恨みは一人家康のみに向けられたものではありませんでした。
信玄は、家康だけではなく、織田信長との対戦にも向かっていきます。
信玄の恨みは、家康ばかりでなく、その背後で糸を引く信長にも向けられていきます。



一方信長は、この頃窮地に立たされていました。
浅井・朝倉、本願寺や一向一揆の勢力、そして松永久秀など、周囲を反信長勢力に囲まれていたのです。
信玄にとって、遂に3年のうっぷんを晴らす機会が訪れます。

1572年10月信玄挙兵!!
家康・信長打倒の兵を挙げました。
総勢2万5000の大遠征軍!!
信玄のその後の命運を左右する西上作戦が始まろうとしていました。

1572年10月3日、信玄は2万5000の大軍勢を率いて、甲府を出陣!!
これまで信玄率いる武田軍の進行ルートは、甲府から北上し、険しい峠道を越え、徳川領の遠江を目指したと言われてきました。
しかし、それまでとは全く違うルートが浮上してきました。
新説のルートでは、信玄はそのまま南下し、東海道を西へと進軍します。
つまり、信玄は険しい山道での行軍を選ばず、徳川領まで最も近い平坦ルートを選択したことになります。
さらに、新説を裏付ける信玄の言葉が残されています。

「高天神城を下し、明日陣を進め、天竜川を越え、家康の居城・浜松へ向けて出馬する」

その日付は10月21日・・・
書状にある高天神城は、信玄と家康の国境近くに築かれた徳川方の城です。
甲府を10月3日に出陣した信玄は、その18日後、徳川領の高天神城あたりに出現したことになります。
従来のルートでは、ありえない道行でした。
徳川の”当代記”の中で、この時の武田軍のルートが遠江に向かうにあたって、高天神城を通って・・・とあります。
つまり、甲府から高天神城を通っていたと考えられます。

100キロ以上の道行きをどのように行軍したのか??
山梨県には信玄の棒道と呼ばれる道が残されています。
馬が3頭ぐらい並んで走っても問題がない広さです。
当時としては大きな道路でした。
武田の軍勢は、甲府から今の静岡県清水や、静岡市周辺まで2日、3日かかってしまいます。
信玄はこれだけの道幅の道路を領国全域にこまめに整備していました。
それが、他の大名に比べて行軍の迅速さの差につながったのです。

これまで信玄本隊が行軍したルートとされたのは、別動隊の道行でした。
信玄は、敵の目を欺くために、様々な策を弄して進軍していたのです。
信玄のこうした陽動作戦に翻弄され、謙信や、家康、信長は、信玄本隊がどこに向かっているのか把握することができなかったとみられています。
かくして信玄は、突如姿を現し、高天神を降伏させ、遠江国衆を下して西へ向かいました。
すでに家康の居城・浜松城は目と鼻の先・・・しかし、信玄は、急に北へ進路変更し、二俣城を目指しました。
信玄はどうして浜松城ではなく、二俣城を目指したのか??
そこには、信玄ならではの戦略がありました。

浜松城に近い二俣城を押さえることは、常に家康の本拠地・浜松に匕首を突き付けるような状況になります。
要害堅固な二俣城・・・しかし、思わぬ弱点がありました。
城内には井戸がなく、直接川から水をくみ上げる井戸櫓を築き、水の出を確保していたのです。
そこに目をつけた武田軍は、大量のいかだを川に流し、井戸櫓を破壊!!
水の手を断たれた城は、わずか半月余りで開城しました。
その後、信玄は二俣城付近に対陣、用意周到な信玄は、次なる目標・浜松城への振興のため、城の改宗や軍事道路の普請を進めました。



この頃になってようやく信長は、信玄の狙いが同盟者・家康の領国にあったことに気付き、烈火のごとく怒ります。
信長が謙信に宛てた手紙には・・・

”信玄の所行、寔に前代未聞の無道なり
 未来永劫にわたり、信玄と二度と交わることなどない”

そして・・・万全の体制を整えた信玄は、家康の本拠地・浜松城を目指します。
信玄対家康・・・遂に両者の戦い・・・三方ヶ原の戦いとなります。

静岡県浜松市・・・信玄と家康の決戦は、東西10キロ、南北15キロに及ぶ三方原台地の上で行われました。
広大な大地の上のどこで・・・??具体的なことは明らかになっていません。
しかし、地元では、信玄率いる大軍勢が大地を登り進軍した道が信玄街道という名で伝わっています。

1572年12月、浜松城を素通りした信玄軍2万5000・・・そのあとを家康軍が追撃!!
三方ヶ原の戦いの火蓋が切られました。
ところが、信玄は追撃してくる家康軍を待ち受けていたのです。
夕刻に始まった戦いは、既に夜半には勝敗が決していたといいます。
信玄の戦術に翻弄され、家康は大敗を喫するのです。
信玄は、わずか半日で家康軍を撃破したのです。
信玄は、信長と家康が合流して武田と決戦という状況を防ぎたかったのです。
各個撃破!!これが、次の信長との戦い・・・おそらく戦場は美濃!!
ここで、家康に大きなダメージと武田に対する恐怖心を与えておく・・・これが、信玄の目的でした。
浜松城に逃げ帰った家康を横目に、信玄は西へと軍を進めます。
ところが、浜松城からおよそ10キロ先の刑部で行軍を休止したのです。

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信玄に一体なにが・・・??
12月28日の信玄の書状には・・・
「今こそ信長滅亡の時期が到来したというのに、兵を払って帰国したとはなんとも驚くべき話である」
信玄が、兵を払って帰国したと非難した相手こそ、越前の朝倉義景でした。
信玄の信長に対する作戦は、浅井、朝倉、本願寺など畿内周辺の反信長勢力と連携し、信長を宝することにあります。
しかし、朝倉勢が兵を引き上げたことで、信長包囲網の一角が崩れたのです。
ところが、信玄には更なる秘策がありました。
信玄が足利義昭に宛てた書状には・・・

”早く、信長、家康以下の凶徒を誅戮すべき旨、お下知を賜わりたい”

三方ヶ原の戦いで家康を破る信玄の行いは、信長と義昭政権に対する謀反となります。
それを信玄は、将軍を味方に引き入れることで、自分の行いを正当化させようとしたのです。
信玄の秘策とは、将軍・足利義昭を味方につけ、反信長勢力をまとめることでした。
この後、いかに信長と決戦を行うべきか・・・慎重に戦略を建てる信玄!!

徳川領にとどまり家康を討つ??それとも、西へ向かい信長を討つ・・・??

家康と信長を討つべく信玄が企てた西上作戦・・・信玄は、刑部に対陣した後、三河への侵攻を開始。
信玄は信長との決戦を視野に入れ、西へ向かうことを決断したのです。
申した信玄の行動に対し、謙信は不吉な予言を語っています。

”信玄が信長・家康に手を出したのは、まさにハチの巣に手を差し入れたようなもの
 今後、無用なことを招くであろう”

しかし、謙信の予言に対し、信玄が西へ行軍を続けることで、戦局は大きく変わり始めました。
東美濃・近江の国衆、伊勢長嶋・三河の一向一揆も次々と信長と敵対!!
そして、遂に将軍・足利義昭も挙兵しました。
信長に反する全ての者たちが信玄の西上を心待ちにしていたのです。

その矢先・・・
1573年4月12日、信玄は病の為死去・・・享年53・・・あまりに突然の死でした。
病床にあった信玄は、重臣を呼び寄せうわごとを繰り返したといいます。

「明日には我が武田の旗を瀬田に立てよ」と

琵琶湖の南に位置する瀬田は、古来東国から京へ向かう玄関口です。
信玄が最後に夢見たのは、信長軍を倒した後、武田の軍勢が瀬田を渡り、花々しく上洛を果たした姿だったのかもしれない・・・。
信玄の死によって、反信長勢力は瓦解しました。
信玄の死から3か月後、将軍・足利義昭は信長軍の猛攻を前に破れ、室町幕府は滅亡・・・。
反信長勢力の筆頭だった浅井・朝倉も戦いに敗れ去ります。

武田信玄の突然の死は、反設永陣営の武将たちの命運をことごとく左右し、そして、信玄最後の敵となった信長と家康が天下の覇権を握り、新しい時代を切り開いていくのです。

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室町時代後期・・・11年もの長きにわたって続いた内乱・応仁の乱によって、室町幕府の権威も、朝廷の権威も失墜・・・
そんな荒廃した京の都に天下布武を掲げた男がやってきました。
戦国の革命児・織田信長です。
そして、この信長に、朝廷の復権を託したのが、第106代正親町天皇でした。

正親町天皇が、践祚・・・天皇の地位を受け継いだのは、1557年・・・41歳でした。
しかし、即位の礼が行われたのは、それから3年後の1560年でした。
どうして即位の礼はすぐに執り行われなかったのでしょうか?
即位の礼には、莫大な費用が必要でした。


室町時代、朝廷はそうした行事の資金調達を幕府に頼っていたのですが、応仁の乱が1467年から1477年も続いたことで、幕府の権威が失墜。
財政も逼迫し、その力を頼ることもできなくなっていたのです。
しかも、幕府の力が弱まったことで、御料地(皇室所有の土地)からの収入である年貢が朝廷に入って来なくなりました。
力をつけた諸国の大名たちが後領地を支配し、横領していたからです。
こうして朝廷自体の財政も困窮していたため、正親町天皇の祖父に当たる後柏原天皇は、践祚から即位の礼まで21年、父である後奈良天皇は即位の礼まで9年執り行えませんでした。
後奈良天皇に至っては、直筆の書を売って、生活の足しにしていたと伝えられています。
そして、応仁の乱の終結からおよそ80年・・・正親町天皇の世となっても御所の崩れた塀が直せずに、二条の橋の上から御所の中のあかりがみえたといわれるほど経済的に困っていました。
応仁の乱によって、朝廷及びスポンサーである幕府が税制難に陥っていたため、正親町天皇の即位の礼を執り行うことができなかったのです。
践祚から3年後の1560年・・・安芸国の戦国大名・毛利元就から、銭2千貫(約3億円)の献金を受け、即位の礼を執り行います。

幕府の権威が回復すれば、おのずと朝廷が持ち直す・・・
それを好機とみたのが大名達でした。
大義名分を得て、京の都に自らの力を示すことで、乱世を優位に勝ち抜こうと考えました。
その一人が、天下を狙う織田信長でした。
桶狭間の戦いで、今川義元を討ち、その名を天下にとどろかせた尾張の戦国大名・織田信長は、虎視眈々と上洛の機会を伺っていたのです。

1565年5月19日、前代未聞の事件が起こります。
畿内を支配していた三好長慶の養子・義継ら三好勢が、将軍御所を襲撃・・・!!
室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害してしまったのです。
これによって、次期将軍候補となったのが、当時、興福寺・一条院門主で義輝の弟・覚慶(足利義昭)でした。
しかし、暗殺事件から3年後、14代将軍についたのは、三好勢が擁立した義昭の従兄弟・義栄でした。
そんな中、義昭に味方する者が現れます。
織田信長です。
天下取りの為、上洛したい信長は、義昭に付き従っていくという大義名分を得て、京の都に登ろうとします。
この時、信長は、朝廷の権威回復を命じる綸旨を正親町天皇から直接賜わることで、大義名分を得ていたのです。
その綸旨は特別なものでした。
臨時のあて先は、幕府の管領か、大名縁故の公家に限られていました。
当事者の大名に、直接充てられることは、異例のことだったのです。
この信長に宛てた綸旨が、個別大名あての綸旨の最初の事例となったのです。
信長は、帝に頼りにされていたのです。

足利義昭につき従い、朝廷の権威を回復するためという大義名分を掲げた信長は、6万の兵を率いて京の都へ・・・!!
義昭と信長が、都に近い摂津国の芥川城に陣を構えたことを知った正親町天皇は、”めでたき”として、勅使を派遣、義昭には太刀を、信長には酒などを贈りました。
こうして、1568年9月、信長はついに上洛を果たします。
すると、間もなくして、将軍・義栄が病死・・・
これによって、義昭が15代将軍に就任するのです。
将軍宣下を下したのは、正親町天皇でした。
その後、信長は御所を修繕、さらに、正親町天皇の皇子・誠人親王の元服費用も差し出します。
その金額・銀1万疋(1200万円)・・・これは、信長が天皇から賜った綸旨の中で命じられていたことでした。

正親町天皇は、美濃を平定した信長を、”古今無双の名将”と褒め称えたうえで、宮廷費用の献上を求めています。
具体的には、禁裏御料(美濃・尾張)の回復と、嫡男の元服費用の献上でした。
大義名分を得、上洛を果たした信長は、正親町天皇の望みを叶えることで、礼をつくしたのです。
この時、正親町天皇52歳、信長35歳、自らの目的のために、互いを必要としている二人でした。

信長は、正親町天皇の望み通り、各地の大名に支配されていた御料地や公家の領地を取り戻しました。
さらに、公家が借金を返さなくていい徳政令を発布するなど、朝廷の財政回復に貢献していきます。
1570年には、21カ国に及ぶ大名に、禁裏御修理・武家御用を理由に、上洛して朝廷と幕府に三礼すべきという旨の書状を送ります。
この要請に、多くの大名が応じるも、中には拒む者もいました。
越前国の戦国大名・朝倉義景です。
そこで、信長は、朝倉攻めの為、京の都を出発・・・
すると、この信長の出陣に当たり、正親町天皇は
”内侍所に祈祷を命じる”
など、信長の為の戦勝祈願を行います。
具体的には、御所の内侍所だけではなく、石清水八幡宮でも大規模に戦勝祈願を行っています。
戦国時代、朝廷は中立を保っていたので、天皇が戦勝祈願をすることは久しくありませんでした。
このことから、正親町天皇が信長を信頼し、天下を取る人物と見込んでいたことがわかります。



ところが、朝倉攻めの途中、信長は同盟関係にあった北近江の戦国大名・浅井長政の裏切りに遭い、いったん京の都に逃げ帰ります。
そして、軍勢を立て直し、今度は裏切った浅井攻めに向かいます。
その信長に、正親町天皇は使者遣わしこう述べます。

”今日 出陣の由 聞こし召され やがて本位に属し 上洛待ち思し召しの由”

この天皇の言葉に対し、信長は

「たとえ近江に滞在しようと、また、美濃に帰ったとしても、今進めている禁裏修造については、奉公たちに堅く申し付けるのでご安心ください
 やがて上洛いたしましょう」

そう天皇に伝えるよう頼んだといいます。

信長が危機に瀕した際に、正親町天皇は見限らなかったのです。
このやり取りから、2人の関係は揺るがないものだったと思われます。
信長はこののち、正親町天皇に何度も救われることになります。

1573年8月・・・信長が浅井攻めを行ったその年の8月・・・
勢力回復を目指す三好勢が摂津国で挙兵。
信長は、将軍・足利義昭と共に出陣!!
6万の軍勢で三好勢を圧倒するも、浄土真宗の大坂本願寺が突如挙兵したことで形勢が逆転!!
本願寺に呼応して、浅井・朝倉が出陣!!
さらに、甲斐の虎・武田信玄も信長打倒に乗り出しました。
これによって、義昭・信長連合軍は、三好・本願寺・浅井・朝倉・武田などに包囲されてしまいました。
窮地に立たされた信長・・・
そんな信長の様子を知った正親町天皇は、勅書を出します。

”天下静謐のために 公方(将軍)の義昭が出陣している
 また 信長も同然である
 それなのに、一揆をおこし 敵対しているとのこと まことに不相応のことである
 早々に戦いをやめるように”

天皇から本願寺に停戦命令がでたのです。
しかし、この勅書が本願寺に届くことはありませんでした。
というのも、信長が大坂本願寺を相手にしていたことで、近江の守りが手薄に・・・
そのすきを突き、浅井軍が南近江を攻め、山城国に入り、山科・醍醐の集落に放火・・・
勅使が大坂に向かうことができなかったのです。

その後、戦は長期化・・・京の都を守るために、正親町天皇は再び勅書を出します。
これによって、信長は、浅井・朝倉と和議を結ぶことに成功するのです。
信長が天皇に頼ることで、天皇を和平の調停役にしました。
以降、信長は、危機に陥るたびに正親町天皇の力を借りて立ち直るのです。
これに対して天皇は、信長から何を得ようとしていたのでしょうか??
それは、”天下静謐”でした。

1573年、将軍・義昭が信長を見限ります。
反対勢力についたことで、またもや信長は窮地に立たされます。
和議を申し出るも、義昭は二度も拒否。
結局、この時も正親町天皇の勅命で和議が成立します。

窮地を脱した信長は、最大の脅威だった武田信玄が病で死去すると反撃に出ます。
京の都から義昭を追放、室町幕府を滅亡へと追い込みます。
さらに信長は、長く続いていた大坂本願寺の戦いでも正親町天皇の勅命を利用し、和議が成立。
こうして正親町天皇は、信長を信任し、後ろ盾となることで戦国時代を終わらせようとしたのです。
正親町天皇は、まさに信長の保護者だったのです。

正親町天皇、信長と対立!!
権威を失墜し、財政も逼迫していた朝廷を、なんとか立て直したいと考えていた正親町天皇・・・
朝廷の威光を利用して、天下をその手に治めたい信長・・・
互いの望みを叶えるため、蜜月の関係を築いていました。
しかし、そんな2人の関係に水を差す行動を信長がとります。
1569年、正親町天皇は、日本に伝来したキリスト教を排除する綸旨を出していました。
それにもかかわらず、信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと面会。

「帝や公方の意向を心配する必要なし
 すべてはこの信長の権限の中にある」

信長は、キリスト教布教の自由を保障しました。



さらに、信長は、東大寺・正倉院に収蔵されている天下第一の名香・蘭奢待を切り取ってしまいます。
蘭奢待は、奈良時代に唐から聖武天皇の手に渡ったと伝わっています。
その文字の中に、東・大・寺の名を隠した雅な呼び名がつけられた蘭奢待は、権威の象徴とされ、時に権力者が求めてきました。
しかし、正倉院は、勅封・・・天皇の命により封印されていると天皇の許可なく開けることはできないとしていました。
信長が、正倉院の蘭奢待を切り取ったことに関し、天皇は前関白への手紙で
”今度 不慮に勅封を開かれ候て・・・”
そう記したことから、蘭奢待切り取りは天皇の本意ではなく、信長が強引に正倉院を開けさせ行ったことと言われてきました。

しかし、手紙には続きがありました。

”聖代の余薫をおこされ候 この一炷にて、老懐をのへられ候はゝ祝着たるべく候”

切り取った蘭奢待を楽しんでほしいと書かれてあったのです。
もし天皇が、信長による蘭奢待切り取りを忌々しく思っていたならば・・・こんなふうには思っていないでしょう。
信長は、事前に正親町天皇の許可を受け取っており、朝廷が勅使を派遣し、勅封を開けています。
そして、東大寺の大仏師によって、一辺3センチ四方に2個切り取られたものを、信長は待っていた多門山城で受け取っています。

武力で強引に開けておらず、威圧することなく、謙虚に振る舞い、慣例に従って勅封を開けたのです。
この時、信長は切り取った蘭奢待の一つを正親町天皇に献上しています。
そして、天皇はこれを受け取っているのです。

正親町天皇、信長に譲位を迫られる!!
1573年、織田信長は、正親町天皇に進言をします。

「譲位されてはいかがでしょうか?
 勘定はこの信長が献上いたしますゆえ」

これについても、正親町天皇が邪魔になった信長が強く譲位を迫り、天皇と激しく対立したと言われてきました。
ところが、近年、天皇から信長への宸筆の返書が発見され、事実と異なることがわかってきました。
正親町天皇宸筆による信長への返書には、こう書かれていました。

”譲位は後土御門天皇以来の望み”

正親町天皇も譲位を望んでいたというのです。
”譲位は、後土御門天皇以来の望みであり 久しく叶わずにいたところ この度の申し入れは奇特であり 「朝家再興」の時である”

実は、1464年、後花園天皇が後土御門天皇に譲位して以来、正親町天皇の世になるまで100年以上もの間譲位は行われていませんでした。
応仁の乱以降、財政がひっ迫し、即位の礼や大喪の礼でさえ行えずにいた朝廷において、譲位などもってのほかだったからです。
まず、譲位の儀式に多額のお金がかかります。
そして、譲位して上皇が成立すると。上皇の住まいとなる仙洞御所を整えなければならなくなります。
そして、上皇と天皇、二重の行政組織を敷く必要があったのです。
戦国時代はそんな余裕はありませんでした。
莫大な費用が掛かるため、長年できなかった譲位が再び行えるならば、朝廷の権威が回復すると考えたのです。

しかし、この後、伊勢国に一向一揆、武田氏との長篠の戦いが起きるなど、信長が各地に出陣しなければならなくなったため、攘夷は実現しませんでした。
譲位の話が再び持ち上がったのは、9年後のことです。
1581年、安土城下で厄除けのお祭りである左義長(信長の当時は爆竹をならし馬を走らせた)を行った信長は、これを京の都でも実施しようとします。
すると、朝廷から観覧したいという陽性が来たため、京都御馬揃え・・・軍事パレードを行うことにします。
この馬揃えの準備を任されたのが、明智光秀でした。
織田一門総勢6万の面々が行列を作って本能寺から正親町天皇が待つ内裏まで、6時間もかけてパレードを行いました。
観客はおよそ20万・・・天下統一目前の信長の力、その勢いに京の民衆や武将たちも改めて驚かされました。
この時、正親町天皇は、信長を左大臣に任じようとします。
朝廷は高い位を信長に与え、朝廷の権威回復にもっと尽力してもらおうと考えていました。
ところが、信長はこれを断わります。

「譲位と即位の礼が済んだのちにお受けいたします」

こうして再び、譲位の実行が検討されることとなります。
譲位について朝廷が陰陽師に占わせたところ、

”御譲位のこと 当年は金神によりご延引きの由”

陰陽道で金神は、包囲の神とされ、金神のいる方角への移動や移転は凶でたたられると言われていました。
譲位をすれば、誠仁親王の二条御所から禁裏御所への移動は金神のいる方角に当たっていました。
朝廷は今回の譲位を断念・・・また、先送りとなりました。



1582年、織田信長は正親町天皇が望む譲位をいまだ実現できずにいました。
しかし、朝廷の権威回復の為尽力し続けていました。
応仁の乱以降、久しく途絶えていた伊勢神宮の神事・式年遷宮(新しい社殿を作りご神体を遷す神事)復興もその一つです。
銭3千貫という大金を寄進します。
その後も、必要に応じて寄進すると正親町天皇に申し出ます。
この時、伊勢神宮の内宮の遷宮が120年ぶりに復興されました。
信長が寄付をするときには気前が良く、多めに寄付しています。
石清水八幡宮、熱田神宮にも多額の金銭を寄進して保護しています。
そんな信長に、正親町天皇と朝廷も応えます。

1582年武田氏滅亡・・・
すると、凱旋した信長に、朝廷が官職を与える三職推任の話が持ち上がります。
三職とは・・・関白、太政大臣、征夷大将軍のこと・・・。
それらのいずれかに信長を任じようというのです。
朝廷側の公暁・勧修寺晴豊、京都所司代・村井貞勝との間で非公式の会談が行われました。
結果は・・・晴豊の日記には・・・

”関東を討ち果たされて珍重なので将軍に任じたいと申し入れるための使者である”

このことから、朝廷は信長を将軍に推認することを決定しました。
武田氏を滅ぼし、北条氏も信長に従属していたため、関東を平定したことになり、将軍宣下の条件が整ったのです。
信長が、征夷大将軍に任じられれば織田幕府が誕生することになったのですが・・・
実現しませんでした。

この年・・・1582年6月2日、信長の家臣である明智光秀が、謀反を起こしたからです。
本能寺の変です。
これによって、信長は命を落とします。
49歳でした。

この時、信長が無くなってしまったため、官職の推任に対する信長の考えや、政権構想についてもわかっていません。
ただ、正親町天皇と信長の関係は、最後まで極めて良好だったのです。
信長は破壊者の側面が強調されてきましたが、実は勤王家で、伝統と格式を重んじる保守主義者でした。
天皇の後ろ盾による武家政権を打ち立てることを目指していたのではないか??と思われます。



10月・・・正親町天皇は、信長に太政大臣従一位を送っています。
朝廷の財政・権威回復に力を尽くしてくれた信長への最大のねぎらいと敬意の証だったのかもしれません。
そして、正親町天皇は、信長の仇である光秀を討った羽柴秀吉に太刀を贈っています。
秀吉は、信長の後継者としての地位を確立・・・
天下統一に邁進します。
そして、信長が実現できなかった正親町天皇の譲位の準備もまた引き継ぐのです。

織田信長が実現できなかった正親町天皇譲位の準備は、羽柴秀吉に引き継がれ、着々と進められていきます。
1584年、秀吉は「仙洞御所」の造営を開始、その建築費用や即位費用など(銭1万貫・15億円)の拠出を約束します。
こうして、朝廷は、政治的にも経済的にも安定。。。
譲位の準備も進み、悲願だったその日を正親町天皇は心待ちにしていました。
しかし・・・度重なる不幸が襲います。
1585年11月29日深夜・・・M8ともいわれる大地震が発生・・・近畿・東海・北陸を襲います。
正親町天皇のいた京の都は御所を含め大きな被害はありませんでしたが、被災地の被害は甚大で、多くの犠牲者が出たことを知ると、天皇は大井にうれいたといいます。
さらに・・・1586年7月24日、正親町天皇のあと即位するはずだった誠仁親王が35歳の若さで薨御。
誠仁親王が亡くなった理由は、”わらわやみ”と言われる間欠熱の一種でした。
あまりに突然亡くなったので、はしか説、自殺説が飛び交いました。

我が子を無くした正親町天皇は、食事が喉を通らなくなるほど深い悲しみに触れました。
譲位はそんな中、行われました。
正親町天皇は、誠仁親王の皇子で孫にあたる和仁親王に譲位・・・こうして・・・
1586年、第107代後陽成天皇が践祚。
11月25日、即位の礼が執り行われました。
正親町上皇この時69歳・・・後陽成天皇は15歳。
実に120年ぶりの譲位でした。

正親町天皇は、30年という在位期間の中で、逼迫していた朝廷の財政と権威を見事に回復させます。
そこに、織田信長という存在は欠かせませんでした。
互いの距離をうまく保ちながら、それぞれの主張を曲げることなく心砕く・・・二人だからこそできたのかもしれません。
江戸時代に入り、朝廷は江戸幕府の統制下におかれます。
しかし、その権威が脅かされることはありませんでした。
それは、朝廷の立て直しに力を注いだ戦国のミカド・正親町天皇の功績だったのでしょう。
1593年、正親町上皇崩御・・・77歳でした。

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愛知県半田市にある浄顕寺・・・ここに、戦国時代に描かれた珍しい仏画が残っています。
”血判阿弥陀如来絵像”です。
仏画の裏に記された名前と、生々しい血判・・・その数342人。
農民や武士、僧侶など、さまざまな階層の人々は、当時一向宗と呼ばれた門徒たちでした。
人々の血判は、ある人物に対して徹底的に戦う決意でした。
彼等が激しい怒りを向けたのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
そして、この一向宗の門徒を率いたのは、大坂に本拠を構えた本願寺第11代門主・顕如です。
信長生涯最大の敵ともいわれています。
一向宗との戦いは、信長が制圧するまで11年もかかりました。
どうしてこれほどまでに苦戦を強いられたのでしょうか?

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戦国の覇者・織田信長・・・
その名を天下に広く知らしめたのは、1568年、足利義昭を奉じて上洛したことに始まります。
信長は、征夷大将軍となった義昭や、朝廷の権威を背景に、次々と近隣の武将たちを攻略。
1570年、姉川の戦いでは越前の朝倉と、北近江の浅井を破り、その武威をとどろかせました。

そんな信長が次に狙いを定めたのは、大坂の地でした。
「信長公記」にこうあります。

”大坂は日本一の境地なり”

境地とは、交通、経済、防御に秀でた優れた土地のことを刺します。
信長は、大坂こそが、日本一だと称賛したのです。
周囲を多くの河川で囲まれた大坂は、水陸交通の要衝でした。
都がおかれた京や奈良、貿易が盛んな堺を結ぶ拠点であり、さらに、西に面した瀬戸内海を通じて、朝鮮、中国、南蛮などの異国とも通じる富貴の湊でした。

信長の野望に危機感を抱いた大坂本願寺・・・。
後に名付けられた石山という地名から、石山本願寺とも呼ばれています。
当時、一向宗と呼ばれた仏教宗派の一大拠点だった本願寺は、大坂を中心に越前、伊勢、近江、紀伊など、日本各地で勢力を拡大。
西方極楽浄土の仏・・・阿弥陀如来を信仰する門徒たちは、一向・・・ひたすら念仏を唱え、来世に救いを求めました。
こうした門徒は、全国数十万に及んだといいます。
孤の一大宗教勢力を率いたのは、本願寺第11代門主・顕如。
勇ましい武者姿の肖像画も残されています。
顕如率いる一向宗は、巨大な宗教勢力というだけではなく、本願寺は当時最新の鉄砲に習熟した紀州・和歌山の雑賀衆を傭兵として雇用するなど、戦国大名に匹敵するほどの武装集団でした。

1570年、顕如は、大坂に狙いを定めた信長から、最後通告とも思われる要求を突き付けられました。
顕如が門徒にあてた書状によると・・・

”信長が、上洛を果たして以来、様々な難題を持ち掛けられた
 これまで信長の要求に応じてきたにもかかわらず、今度は本願寺を破却するとの意向を告げてきた”

信長は、顕如に対し、大坂からの退去を求めたのです。
9月、ついに本願寺は、反信長の兵を揚げました。
足掛け11年に及ぶ長きにわたる戦いの始まりでした。
挙兵した本願寺勢は、大坂周辺の織田軍を一気に攻勢、精強誇る織田軍を、わずか1日で退けることに成功しました。

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本願寺の強さの秘密とは??
後の天下人・豊臣秀吉によって築城された大坂城・・・それまでは、本願寺の本拠地でした。
織田軍を寄せ付けなかった本願寺の強さ・・・その立地とは??
堀や土居、あるいは土塁、防御のための土の土手・・・それぞれの町の周辺にめぐらせて、自主的な防御が出来ています。
河川を天然の要害となし、海抜30mに及ぶ上町台地の戦端に築かれた本願寺。
堅固な防御施設に囲まれた戦国大名の城下町を彷彿とさせます。

上町台地の自然にも秘密がありました。
比高差、落差があり、天然の城壁となります。
例え法下としても、織田軍は崖の下から包囲することになります。
どう攻めるのか??
それは、天然の要害でした。

さらに本願寺を難攻不落の要塞にしたのは、台地上でも豊富に得られた湧き水でした。
台地・山の上というのは弱点もあります。
なかなか水を得にくいということでした。
水かなければ、長期の籠城を戦うことはできません。

強敵・本願寺と戦端を開いた信長・・・
まもなく、思いもよらない勢力に囲まれることになります。
当時、最強と謳われた武田信玄が、反信長を掲げて参戦。
翌年、信長が擁立した将軍・足利義昭も本願寺に与し、反旗を翻しました。
敵の包囲網・・・信長は、その中心となった本願寺を攻略するため、各個撃破で挑みます。
敵勢力が分散しているうちに、それぞれ個別に打ち破るというものです。
1573年7月、将軍足利義昭を降伏させたことを皮切りに、宿敵・朝倉、浅井を一気に滅亡にまで追い込みます。
これによって、畿内周辺の敵は、本願寺を残すのみとなりました。

大坂本願寺の挙兵以降、各地で織田軍に抵抗をつづけた一向宗の門徒たち・・・
この一向一揆に対し、信長は強硬な作戦に打って出ます。
1574年9月、長嶋一向一揆・・・せん滅
この時、男女2万人を焼き殺したと言われています。
さらに1575年8月、総勢4万人を超える大軍勢で、越前一向一揆・・・せん滅
いっきに参加した人々を皆殺しにしました。
各地の一向一揆を容赦なく弾圧し、本願寺の孤立を図った信長・・・


1576年5月、ついに本願寺の攻略に取り掛かります。
織田軍は、大軍勢で本願寺を囲みます。
ところが・・・本願寺は、数百丁もの鉄砲を駆使し、攻め寄せる織田軍をことごとく蹴散らしました。
さらに、前線に向かった信長は、足を撃たれ負傷・・・
信長が戦場で負傷したという記録は、本能寺の変を除いてこの時だけです。
戦線は膠着しました。
信長は、力攻めを諦め、敵の武器や兵糧の輸送を断つ持久戦に転じます。
本願寺の南に堅固な天王寺砦を築き、西は荒木村重、東は明智光秀と、織田軍精鋭の武将に本願寺を包囲させました。
しかし、本願寺を完全に包囲するためには、海に面した木津川口を封鎖しなければなりません。
信長は、急遽水軍を編制・・・木津川口の封鎖を試みました。
この織田軍の包囲作戦に対し、本願寺が救援を求めたのは信長と敵対し始めていた毛利輝元でした。
本願寺は毛利と同盟を結び、兵糧の輸送を依頼します。
当時、瀬戸内海を制していた毛利水軍の中核を担っていたのは村上海賊でした。
本願寺への兵糧輸送を阻止すべく、木津川口を封鎖しようつする織田軍・・・
対する毛利水軍は、淡路島に終結後対岸に移動、鉄砲に熟達した雑賀衆と合流・・・その数800艘にのぼりました。
7月13日、毛利水軍は300艘からなる織田水軍の防衛線を突破すべく、攻撃を開始します。
この時、勝敗を決したのが村上水軍のほうろく火矢です。
球体の鉄や鉛などの内部に、黒色火薬を詰めた新兵器です。
信長公記はこう伝えています。

”海上ほうろく火矢などというものを作り、味方の船を取り囲み、繰返し投げ入れて織田方の船を焼き崩した”

木津川口の戦いに呼応して籠城していた本願寺勢も陸上で包囲する織田軍を責攻めてました。
本願寺勢の勝鬨は、大坂に響き渡りました。
信長は、本願寺勢の猛攻を前に、またも大敗を喫したのです。

信長の窮地は、木津川口の戦い敗北の後も続きました。
追い打ちをかけたのが、松永久秀叛逆!!
久秀は、本願寺包囲戦の要となる天王寺砦を守っていました。
ところが、それを放棄し、軍を撤退・・・本願寺と内通した裏切りでした。
さらに、荒木村重謀反!!
村重もまた本願寺と通じていました。
信長の痛手は大きかった・・・!!
荒木村重は、信長軍の中では摂津担当でした。
本願寺の北側エリアを中心的に任されていました。
本願寺方に渡ると、西日本から本願寺へ向かう船、様々な物資が容易く入って来れるのです。
これは、信長が摂津を掌握していたことを考えると、形勢逆転となるのです。

この機を逃さず、毛利水軍を動き始めていました。
本願寺に兵糧を輸送するため、織田水軍の倍以上に当たる600艘もの軍勢が、淡路島に集結していました。
度重なる家臣の叛逆、迫りくる敵の大船団・・・!!

本願寺と和議を結ぶ??それとも本願寺との戦いを継続する??

これまで信長は、鉄甲船を準備したと言われてきました。
ところが、他の資料には、その記述がありません。
しかも、信長の船を実際に見学した宣教師はこう記しています。

”その船は、日本国中最も大きく、また華麗なるものにして、ポルトガルの船に似たり
 船には、大砲三門を載せ、無数の大なる長銃を備えたり”

こうしたことから、信長が新たに建造したのは船体を鉄で覆った鉄甲船ではなく、大砲と長銃を備えた南蛮船のような大船だと、近年では考えられています。
この大砲があれば、さすがの敵も、木津川口に近づくことさえできまい!!

毛利水軍との戦いを避けて、本願寺と和議を結ぶべきか??
海戦に挑み本願寺との戦いを継続すべきか??

信長は、本願寺と和議を結ぶと見せつつ、新たに建造した大船を木津川口に配置。
和戦両様を見せていました。
そんな信長に対し、優位に進めていた本願寺が和議を結ぶいわれはありませんでした。
その2日後、大坂湾で戦端が行われました。

11月6日、第2次木津川口の戦い!!
戦いはどのように展開したのでしょうか?
11月6日、淡路島に拠点を置いた毛利水軍600艘が、大坂湾を進み、木津川口に船を進めます。
織田水軍は、巨大軍船を軸に、船を並べ、それを待ち受けました。
両軍の船が近づいたとき・・・織田の巨大軍船の大砲が火を噴きました。
この攻撃で、毛利水軍の大将が乗った大船を大破させました。
織田水軍は、大砲などの重火器による集中砲火で敵に大打撃を与えて行きました。
しかし、織田方の一方的な勝利というわけではありませんでした。

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開戦の後も、本願寺に兵糧を運び入れていた毛利軍・・・
第2次木津川口の戦いに勝利したとはいえ、海の搬入路の完全封鎖は不可能でした。
そこで信長は外交策に出ます。
まず、荒木村重配下の武将たちを次々に調略。
村重を孤立させることに力を注ぎます。
本願寺への兵糧輸送を阻止するべく、豊後の大友、肥前の宇喜多と同盟を結び、東西から毛利本国に圧力をかけて行きました。
これによって、毛利は自衛の戦いを余儀なくされ、本願寺の兵糧輸送にまで手が回らなくなってしまいます。

1569年、荒木村重の居城・有岡城陥落。
信長は、大坂湾周辺の制海権を取り戻すことに成功します。
そして・・・1580年4月、深刻な兵糧不足に陥った本願寺は、朝廷を介し信長に和議を申し入れます。
信長もこれを受け入れ、最終的な和睦が成立しました。
その結果、顕如は大坂を知り沖、紀州に逃れます。
門徒たちも、無事に大坂を退去。
当時の信長にとって、大坂の地を手に入れることこそ、最も重要な目的だったのです。

こうして信長は、足掛け11年に及んだ本願寺との戦いに幕を閉じ、ようやく畿内統一を果たしました。
ところが・・・そのわずか2年後、本能寺で明智光秀に打たれることとなります。
信長が、日本一の境地とたたえた大坂は、後継者の秀吉に受けつがれます。
秀吉は、ここに当時日本最大の大坂城を築城し、天下統一を成し遂げたのです。

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