日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:足利義昭

琵琶湖の北に位置する余呉湖・・・そこは天女が舞い降りた羽衣伝説が残る美しい湖です。
かつてこのおだやかな湖の周辺で、血で血を洗う決戦がありました。
戦いの主役は後の天下人・羽柴秀吉と鬼柴田と呼ばれた猛将・柴田勝家です。
本能寺の変の直後、二人の重臣が天下争奪をかけて激突!!
賤ケ岳の戦いです。
しかし、戦国合戦の多くが、後世に編纂された史料に基づいているのでその実像は明らかではありません。
ところが・・・戦いのさ中に書かれた秀吉の書状に軍事機密が書かれていたのです。
その戦略とは・・・??
そして勝家の山城に隠された知られざる戦いの真相とは・・・??

戦国の覇王・信長のもと、全国で死闘を繰り広げた織田家の武将たち・・・
中でも優れた家臣たちを評した言葉にこうあります。

木綿藤吉
米五郎左
かかれ柴田に
のき佐久間

木綿藤吉とは羽柴秀吉のことで、秀吉は木綿のように貴重な存在だという意味です。
かかれ柴田は柴田勝家を指し、かかれとは、突撃の大音声のこと・・・戦上手な勝家を評した言葉です。
下賤の身ながら知恵と才覚で出世を果たした秀吉、対する勝家は信長の父の代から織田家に仕える筆頭家老。
二人の差は歴然としていました。
ところが・・・1582年6月2日未明、本能寺の変・・・二人の運命を変える大事件が起こりました。
明智光秀の謀反によって織田信長が討たれたのです。
その時織田軍は、それぞれの方面軍に分かれ全国に展開、毛利と対峙していた秀吉、勝家は北陸で上杉と死闘を繰り広げていました。
そこで本能寺の変が勃発、逆臣・明智光秀を討つべく京へ戻ることが武将たちの急務となりました。

この時抜きんでたのが秀吉でした。
毛利との講和に成功した秀吉は、すぐさま上洛の途につき京に・・・
世に言う中国大返しです。

6月13日、山崎の戦い・・・秀吉軍は、京都郊外で光秀軍を撃破。
本能寺の変からわずか11日後のことでした。
弔い合戦に見事勝利した秀吉・・・これまでの序列が崩れます。
秀吉と勝家の対立は、一気に深まっていきます。

6月27日、信長ゆかりの清洲城に織田家の重臣が集まって後継者問題、領地配分を行う清須会議が行われました。
結果、光秀を討ち果たした秀吉は領地を拡大・・・従来の播磨に加え畿内を中心に新しく三か国を手にしました。
一方勝家は、越前加賀の外秀吉の長浜城を獲得、それに配下の武将の領地を入れればようやく秀吉の勢力に拮抗する勢力となります。
琵琶湖の北に位置する勝家の玄蕃尾城・・・ここから秀吉に対抗する勝家の並々ならぬ思いが読み取れます。
玄蕃尾城の本丸は、堀がすごく、これほど巨大な堀をめぐらし、大規模な土塁をめぐらしている城は他にはありません。
その土塁も、物凄い高さで囲っていました。
注目されるのは、柱を支えていた建物の基礎の礎石が残っています。
砦と言うよりは、居城・・・常に置いておくような城・・・念入りな工事をしていたことがよくわかります。
玄蕃尾城は、北陸から近江に向かう玄関口・・・
そこは秀吉に対する勝家の攻めの拠点でもありました。
清須会議以降、秀吉をいかに撃退するか、勝家にとっては非常に大きな課題でした。
この玄蕃尾城を築くことで、北国街道の難所である峠を押さえて、いつでも近江へ進出できるルートを確保しておく・・・これが、秀吉に対して強い圧力をかけることとなるのです。
この後、二人の対立は、全国の大名を巻き込んで拡大していきます。

勝家は信長の妹・お市の方と婚姻関係を結びます。
織田家の一門衆に名を連ねたのです。
それに対し、秀吉が仕掛けます。
10月15日、京・大徳寺で信長の葬儀を挙行します。
参列者は3000人、見物する人は貴賤雲霞の如し!!
織田家の家臣としては、主君の葬儀に参列しないわけにはいかない・・・
これにより秀吉は丹羽長秀、池田恒興ら織田家の有力武将たちを味方につけることに成功します。
勝家を大きく上回る勢力圏を形成します。
秀吉はさらに勢力拡大を図り、周辺の大名たちに書状を送り、信長の次男・信雄を織田家の後継者と為します。
勝家の背後の上杉や、一向一揆の総本山・本願寺を引き込むことに成功します。
本願寺に宛てた秀吉の手紙にこうあります。

”勝家の加賀で一揆を起こし目覚ましい働きをすれば、加賀一国を本願寺に与えるであろう”と。

一方勝家は、信長の三男・信孝をはじめ、織田家重臣・滝川一益や周辺大名に書状を送り、反秀吉勢力の結集を画策します。
勝家は、将軍・足利義昭にも接触を図ります。
もともと義昭は、主君・信長が追放した宿敵でした。
毛利に宛てた義昭の書状には・・・

”勝家と手を結び、秀吉軍を挟み撃ちにすることを急ぐべきである”

そして12月初旬・・・
近江への道は雪に閉ざされ、北ノ庄城にいる勝家は、兵を動かすことができなくなります。
秀吉に好機が到来したのです。
秀吉は、5万の大軍勢で勝家方の城・長浜城を包囲、続いて信長の三男・信孝の岐阜城も包囲、どちらも秀吉の前にあっけなく降伏・・・。
さらに秀吉は、勝家に組する滝川一益の北伊勢に侵攻・・・

いよいよ雪解けの季節が到来しました。
それは勝家軍の襲来を意味していました。
決戦の地は琵琶湖の北の賤ケ岳周辺・・・いよいよ天下分け目の戦いが始まろうとしていました。

sizugatake















滋賀県長浜市・・・長浜城歴史博物館には秀吉の書状が残されています。
天正11年4月3日付の弟・羽柴秀長に宛てた書状です。
賤ケ岳合戦の前にどのように戦うべきか、柴田軍と対峙すべきかを命令した文書です。
秀吉の指示が事細かく書かれています。
普通は細かいことは紙には書きません。
敵に情報が洩れるとまずいからです。

3月9日、勝家、北ノ庄城を出陣。
急ぎ南下し、近江に進出します。
総勢2万と言われています。
勝家は頑張尾城に本陣を構え、別所山などに部隊を展開。
前線の拠点となる行市山には勝家の甥・佐久間盛政が陣を構え秀吉に対峙します。
一方秀吉が前線に到着したのが、勝家から遅れること5日後の3月17日・・・木之本に到着。
秀吉軍、およそ5万と言われています。
北の勝家軍に対し、南の秀吉軍の布陣は、東の山・堂木山を先頭に周辺の山々に砦を築きました。秀吉は木之本に本陣をおきました。
勝家の配下・前田利家が布陣した別所山砦・・・勝家側の戦略が顕著に読み解ける砦跡です。
秀吉の軍勢のいる南の方角には堀をめぐらしていません。
土塁の高まりも非常に低いのです。
別所山砦は、四角形に築かれた曲輪に、周囲に堀を築いただけのシンプルな構造です。
一体どうして・・・??
別所山砦は、実際にここで戦うという者ではなく、非常に簡素な造りでした。
ここで戦うよりは、一時の陣・・・相手に見せかければいいというものでした。

一方秀吉軍は、勝家軍とは全く異なる戦略の砦を作っていました。
東野山城は・・・至る所で城壁を屈曲させています。
敵が攻めてきても絶対にやっつける気満々です。
横矢掛けもあります。
勝家軍の砦とは違い、秀吉軍の築いた砦軍は、いくつもの曲輪に守られた堅固な軍事要塞でした。
この違いは何を意味しているのでしょうか?
秀吉軍は、強固に作り、最先端の築城技術を惜しみなく注いで造っています。
非常に守りの強い砦群でした。
秀吉の戦略は、専守防衛・・・いかにして敵の進撃を食い止めるか?防衛に徹した戦い方をしていました。
勝家は、周囲を秀吉に組した大名たちに囲まれています。
勝家が近江に進出するためには、琵琶湖の東側を南下せざるを得ません。
一方秀吉軍は、その南下を食い止めるのがこの合戦における両軍の基本戦略と考えられます。
さらに、秀吉の書状には、勝敗を左右する重要な言葉が記されていました。
”惣構え”の文字です。

”惣構えの堀から外へ鉄砲を放つことは言うに及ばず、草刈りの者に至るまで、一人も惣構えの外へ出してはならない”

この”惣構え”とは、何を意味しているのでしょうか?
高さ1mほどの土塁は、昭和30年代までこの地に残されていました。
東山砦から堂木山まで尾根伝いにずっと続いていたのです。
秀吉が築いた惣構えとは、東の山から堂木山を縦断し、街道を遮断した東西500mに及ぶ大規模な土塁の長城であったと考えられます。
惣構えを設けてシャットアウトし、柴田軍を南下させないことが目的でした。
惣構えも、賤ケ岳合戦の中で重要な意味を持っていたのです。
惣構えで、鉄壁の防御ラインを築いた秀吉軍・・・勝家軍は、その突破を試みるも果たせず・・・およそ1か月にわたるにらみ合いが続きました。
ところが、思わぬ方向から敵が出現しました。
北伊勢の滝川一益が、秀吉軍の背後・美濃に進出!!
すでに、降伏したはずの信孝もこれに呼応します。
このままでは、秀吉軍は、連合軍に挟撃されてしまう・・・!!
秀吉に危機が迫っていました。

①防御に徹する・・・??
秀吉の書状にもこう書いています。
”惣構えから先へ、一人の足軽も出さず、守りに徹しさえすれば、敵は動きが取れなくなるであろう”
秀吉軍にとって、防御に徹することが最善の策ではないか?
下手に動くと両軍の均衡は崩れ、惣構えを突破される可能性もあります。

”もし敵が、5日、10日と攻めかけてきたとしても、相手の様子を伺いながら、ゆうゆうと合戦に及ぶべきである”

防御に徹していれば、勝家軍も攻めあぐね、長期の対陣となり兵糧も枯渇・・・
いずれ勝家軍は、北陸に撤退せざるを得なくなる・・・!!

②軍を二手に分け、敵を各個撃破する!!
秀吉の書状には・・・
”秀吉自ら兵を率いて播州へ向かう 
 その間、前線の秀長より注進が来れば、姫路から引き返そうと思うが、日数がかかるであろう
 だが、秀吉が姫路に滞在する間は、決して出撃してはならぬ”

4月3日の段階で、姫路の方に出るといっているのは、毛利が攻めてくるのでは??
毛利軍の県政のために、中国地方に出陣するという意図があったのです。
秀吉は、勝家だけでなく、周囲を敵(毛利・長宗我部・雑賀衆・徳川)に囲まれていました。
敵の動向に気を配り、それに対応しなければならなかったのです。
あくまでも防御に徹するべきか、それとも軍を二手に分けてそれぞれの軍を討伐すべきなのか・・・??
秀吉に選択の時が近づいていました。

4月の中頃・・・秀吉は軍を二手に分けます。
信孝・一馬氏連合軍を討つために岐阜へ向かいました。
秀吉不在の前線は、弟・秀長が担いました。
ところが・・・大雨によって揖斐川が氾濫、岐阜城への道は閉ざされていたのです。
秀吉は、岐阜城からおよそ20キロ離れた大垣城にとどまり、敵の出方を伺いました。
その4日後の4月20日・・・秀吉の不在を知った勝家軍が、突如動き始めました。
勝家方の猛将・佐久間盛政が、惣構えを避け、密かに尾根伝いを伝い、秀吉軍の中ほどにある大岩山砦に突如攻撃を開始、中入りという戦術でした。
思わぬ敵の奇襲攻撃に、奮戦する秀吉軍・・・しかし、この時、秀吉方の有力大名・中川清秀が討ち死に・・・記録には、清秀の外に六百余人が戦死とあります。
秀吉軍にとって大打撃でした。
勢いに乗った盛政軍は、岩崎山砦も陥落させます。
勝家本隊は前進、惣構えに一気に猛攻をかけます。
惣構えを突破しようと攻めたてる勝家、秀吉軍が崩れるのは、もはや時間の問題でした。
しかし、秀吉は、この不測の事態に備えていました。
前線の秀長より注進が来れば、すぐに引き返す・・・秀吉が戻るまでは、勝手に出撃してはならない・・・
揖斐川の氾濫により、岐阜城の敵もまた秀吉軍を追撃することは不可能です。
秀長から注進を受けた秀吉は、作戦通り、すぐさま兵をまとめ前線の木之本を目指します。
大垣からおよそ52キロ・・・その道のりをわずか5時間で駆け抜けたといいます。
木之本へたどり着いた秀吉・・・勝家軍は、未だ惣構えを突破できずにいました。
秀吉は、敵襲で孤立した盛政軍を追撃、その時・・・勝家方の武将・前田利家が、突然陣地を放棄したのです。
秀吉に諜落されていた武将たちが、勝家に見切りをつけた瞬間でした。
これによって、勝家全軍は崩壊・・・戦いは、秀吉の大勝利となりました。

4月23日、秀吉軍、北ノ庄城を包囲。
4月24日、勝家は、お市の方と共に自刃!!
勝敗は決したのです。

戦い直後に書かれた毛利宛の書状で、秀吉はこう豪語しています。

「東は北条、北は上杉まですでに秀吉に従っている
 毛利が秀吉に従うことになれば、日本は源頼朝公以来、一つにまとまる事であろう」

猛将・柴田勝家を下したことで、天下人の後継者となった秀吉・・・賤ケ岳の戦いこそ、まさに秀吉にとっての天下分け目の決戦でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

賤ヶ岳合戦図・小牧長久手合戦図

中古価格
¥2,072から
(2020/2/28 22:43時点)

賎ケ岳の戦い―「秀吉vs勝家」覇権獲得への死闘 (歴史群像シリーズ 15)

中古価格
¥455から
(2020/2/28 22:45時点)

かつての丹波国・・・京都市右京区にある慈眼寺・・・
ここには、とある戦国武将が祀られていますが・・・墨で塗りつぶされて真っ黒です。

mituhide
















その武将とは・・・??

本能寺の変で主君である織田信長を討った天下の謀反人・明智光秀です。
この木像は、光秀が創建した寺に安置されていました。
肩には明智の家紋、桔梗紋があります。
どうして黒く塗りつぶされたのか??それは、光秀が逆賊とされたからでした。
しかし、最近の研究では・・・??
本能寺の変は、明智光秀が織田信長という鬼を倒しただけ??
天下の謀反人ではなかったのか・・・??

残された資料が非常に少ない明智光秀・・・
信長に仕えるまでの前半生は、ほとんど解らず多くの謎に包まれています。
通説では、美濃国の源氏の名門・土岐氏の一族・・・明智の家に生れたといいます。
室町時代の明智氏は、京都に常駐し、将軍の直臣として高い地位にありましたが、光秀の父に関しては、”光綱・光隆・光国”などの名が上がり、特定に至っていません。
出生地もはっきりせず、現在の岐阜県可児市・恵那市・大垣市・山県市・・・など諸説ありますが、近年では明智城のあった可児市を有力とする声が多くなっています。
生年も謎・・・
光秀を主人公とする軍記物「明智軍記」には、光秀の辞世の句があり、そこに”五十五年の夢”とあることから、亡くなった1582年に数えで55歳・・・それから逆算すると1528年生まれとされてきました。
つまり、光秀は1534年生まれの信長より6歳上。
しかし、明智軍記は光秀の死後100年以上たっている、作者も不明のために信憑性が低いとされてきました。

そして近年別の説が・・・??
本能寺の変の時、55歳・・・それは絶妙な年齢です。
しかし、17世紀成立の歴史書「当代記」には、光秀は羽柴秀吉との山崎合戦に敗れた後、落ち武者狩りで殺された・・・この時の年齢が齢六十七と書かれています。
最近では、1516年生まれという研究者もいます。
1516年生まれならば、信長より18歳年上・・・本能寺の変の際は67歳ということになります。

当時の美濃国は、守護である土岐氏が京都に滞在することが多く、それを美濃に持ち帰っていたため文化風流に富んでいました。
また、学問を重んじる寺も多く、そこには兵法書などが豊富にありました。
美濃国に生れた光秀は、幼少のころから様々な文化に触れ、多くの知識と素養を身に着けたのだと思われます。
そんな文武両道の光秀の前に、大きな試練の日々が待っていました。

1552年頃、油売りから身を起こしたともいわれる斎藤道三が、守護の土岐頼芸を追放し、美濃国を掌握。
明智氏はこの道三に仕えることとなりましたが、1556年4月、道三とその長男・義龍による長良川の戦いが勃発し、道三が討死・・・すると義龍は、道三に仕えていた明智氏を敵とみなし、その年の9月、3000の兵で明智城に攻め入りました。
対する明智方の兵は870人・・・城代を務めていた光秀の叔父・明智光安は勝ち目はない・・・と、光秀に明智の家の再興を頼みます。
明智城を脱出した光秀・・・。

妻・熙子と共に美濃を後にした光秀は、明智軍記によると諸国を放浪・・・極貧の暮らしの中、各地で禅寺を間借りしながら伊達氏、毛利氏、宇喜多氏などの所領を転々とします。
そして、1557年頃・・・越前国へと流れつきます。
福井県にある称念寺・・・光秀はこちらの門前に小屋を建てて住むことを許され、間もなくして朝倉義景に仕官。
この後、出世を果たしたといわれていますが、その理由は・・・??

ある日のこと、義景の前で鉄砲の腕前を披露することとなった光秀は、45mほど離れた的を、次々と打ち抜き、100発中99発命中・・・その褒美として鉄砲隊100人を預けられたといわれています。
これが本当に出世の理由・・・??
諸芸に通じた光秀ならば、鉄砲も上手かったと思われます。
鉄砲の話は作り話の可能性が高く、そもそも光秀がすぐに朝倉義景に仕えたという話そのものが疑わしいと思われます。
越前国に身を置いた光秀が、寺子屋の師匠をしていたという伝承もあります。
お医者さんをしていたという説もあり・・・その素養の高さが目に留まったのではないかと思われます。

1566年9月、光秀が身を寄せていた越前国に、足利義昭が逃げてきました。
前年に兄である室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺され、義昭にも危険が迫っていたため、幕臣の細川藤孝と共に逃亡・・・足利家と関係の深かった朝倉義景を頼って、越前までやってきたのです。
その時・・・明智の名を見つけた細川は、
「将軍の直臣だった明智氏の者か??」と、声をかけたのでは・・・??
光秀の人生が、大きく動き始めた瞬間でした。

そんな中、義昭は朝倉義景に声をかけ、足利将軍家を復興する為に共に上洛してくれるように要請します。
しかし、長男の急死などで気落ちしていた義景は、なかなか腰を上げようとしませんでした。
業を煮やした義昭は、義景を見限り一人の武将に希望を託します。
それが尾張の織田信長でした。
当時の織田信長は、美濃を制圧、その名をとどろかせていました。
思案する義昭に光秀は・・・??
光秀は、細川藤孝に「信長の妻に縁がある」と告げます。
信長の妻とは、正室・帰蝶のことで、帰蝶は美濃の斎藤道三の娘で、一説では母・小見の方は光秀の叔母・・・つまり、帰蝶と光秀は従兄妹になります。
光秀は、その縁を頼りに橋渡し役を買って出たのですが・・・
それによって信長とも運命の出会いを果たすのです。
この頃、信長が細川藤孝に贈った書状にも、

「詳細は明智に申し含めました
 義昭さまによろしくお伝えください」

とあります。

織田信長は、天下布武というだけあって、上洛の機会をうかがっていました。
信長にとって義昭の護衛は渡りに船だったのです。

1568年9月7日、信長は足利義昭を奉じて上洛。
光秀も幕臣として同行したといわれています。
こうして光秀は、放浪の身から歴史の表舞台に出たのです。
この時、通説なら41歳、当代記説なら53歳・・・。
9月26日に京都に到着した信長は、義昭の兄・義輝を殺害した勢力を京都から追い払い、平定。
翌10月、義昭は室町幕府第15代将軍に就任するのです。
光秀の橋渡しによってすべてはうまく行きましたが、光秀自身は複雑な状況になります。
この頃は、幕臣として義昭に仕える一方、信長からも扶持を受けていました。
光秀は二人の主君に仕える両属だったのです。
当時は武士たちは有能な主君を自由に選ぶことができたのです。

1569年、信長は直臣である丹羽長秀、木下秀吉、中川重政らと共に、新参者の光秀を京都奉行に任命します。
そうすれば、足利義昭の監視役とき、教養のある光秀は使えると思われていたようです。
光秀は、信長の期待に見事応え、京都の治安維持や税の徴収などで辣腕を発揮!!
和歌や茶の湯を通じて朝廷との交渉役となり、武骨ものの多い織田家臣団の中でなくてはならない存在となっていきます。
そんな中、光秀のもう一人の主君である足利義昭は、将軍とは名ばかりで実権を信長に握られていることに腹を立て、諸国の戦国大名に信長に圧力をかけるように命じます。
すると・・・光秀は、義昭の監視役としてその動きを逐一信長に報告していました。

1570年1月・・・信長は義昭に対して五か条の条書を突き付けます。
そこには・・・”重要な政治や軍事は信長が執行する 将軍は口出しするな”と記されていて、信長の印と共に光秀の署名がありました。
中立的な立場にいた光秀が、信長側に立ったのです。
どうして信長を選んだのか??
将軍・義昭よりも、天下統一に邁進する信長の将来性に賭けたのです。

織田家臣団の中にあって知略に富んだ交渉人として貢献する明智光秀・・・
さらに武将としてもその力を見せつけていくこととなります。

信長から政治に口出しするなと言われた将軍・義昭は、それに従うことはなく水面下で動きます。
朝倉義景を味方に付けようと画策します。
義景がこれに応じたため、1570年4月20日、大軍を率いて朝倉攻めに出発します。
光秀もこれに参戦・・・光秀にとって義景は、根無し草だった自分を拾い上げてくれた恩人・・・しかし、主君と決めた信長のために迷いはありませんでした。

4月25日、越前国に入った織田軍は、圧倒的戦力で金ヶ崎城と天筒山城を落とします。
織田軍が取った朝倉郡の首は1300以上だったともいわれています。
勢いそのままに朝倉義景のもとに攻め入ろうとした信長に・・・とんでもない情報が・・・!!
信長と同盟を結んでいた北近江の浅井長政が突然反旗を翻したのです。
長政の正室は、信長の妹のお市の方でした。
浅井氏に絶対の信頼を寄せていた信長は、言葉を失うほど狼狽したと言われています。
このまま残れば朝倉軍と浅井軍に挟みうちされるのは必死!!
家臣たちに説得された信長は、止む無く撤退を決意します。
戦において最も難しいのが退却戦・・・
本体を無事に退却させるためには、最後尾の殿が身を盾にして敵の追撃を食い止めなければなりません。
この難役に名乗りを上げたのが木下秀吉でした。
秀吉は金ヶ崎城に残って朝倉軍の追撃を必死に食い止め、兵の大半を失ったものの時間を稼ぎ、無事に帰還しました。
金ヶ崎の退き口と呼ばれるこの退却は、秀吉の武功として広く知られていますが・・・??

資料には「金ヶ崎城に 木藤 明十 池筑 その外残し置かれ・・・」とあります。

木藤=木下秀吉
明十=明智光秀
池筑=池田勝正

のことです。

つまり、この三人の共同作戦でした。
しかも、勝正は、多くの鉄砲を用意して参陣しています。
つまり、池田勝正と明智光秀が主力だった可能性が高いのです。
にもかかわらず、秀吉一人の武功とされているのは、太閤記に秀吉の武功ばかりが書かれています。
謀反人となった光秀の武功など、無用だと意図的に書き残さなかった可能性があります。
秀吉やその家臣によってかき消された光秀の功績は他にもあったと思われます。

信長の危機を命がけで救い、益々信長の信頼を得た光秀ですが、その一方で・・・
ルイス・フロイスは・・・
「織田家にあって、光秀は余所者・・・
 ほとんどすべての者から快く思われていなかった節がある
 また、光秀は裏切りや、密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的。
 己を偽装するのに抜け目なく、戦においては謀略の達人であった」と言っています。
浮いた存在だったようです。

フロイスは、キリスト教の受け入れに批判的だった光秀を、快く思っていなかったようですが・・・。
しかし、主君のためならば、残忍なことも、汚いこともするという一面が、光秀にはあったようです。

織田信長と対立していた石山本願寺法主の顕如が、浅井長政や朝倉義景に反信長連合を呼びかけます。
これに呼応した浅井・朝倉連合軍は、京都へ向けて進軍を開始し、比叡山延暦寺に布陣します。
すると信長は延暦時に対し・・・
「我が方に味方するなら山門領を安堵しよう
 それが無理ならばせめて中立を守って欲しい」
と、申し入れ、さらに
「味方もしない、中立を守らないというのであれば、敵とみなして焼き払う」
と脅しをかけました。
しかし、延暦寺はこれを聞き入れずに、無視・・・!!

翌年・・・1571年9月・・・ついに信長は、比叡山焼き払うように光秀に命じます。
比叡山延暦寺は、平安時代から朝廷の鎮護の役目を担ってきた由緒ある寺院です。
焼き打ちなどすれば、朝廷、更には京都の人々からの非難を免れることはできません。
通説では、光秀はこれに強く反対した!!

光秀の反対を押し切って、信長が比叡山の焼き打ちを決行!!
執拗な焼き打ちは4日間にわたって行われ・・・男女合わせて3000人以上が落命しました。
しかし、その真相は・・・??

近年の研究によると、光秀は比叡山焼き打ちには反対していないようです。
むしろ、忠実に比叡山の焼き打ちを実行しました。
その大きな根拠は、比叡山山麓の土豪に宛てた光秀の書状です。
そこには・・・

・弾薬の補給
・抵抗する集落の皆殺し

焼き打ちを実行するための細かな指示が書かれていました。
つまり、比叡山の焼き打ちに反対せず、入念な下工作をして信長の命令通りに実行したのです。
やはり謀略の達人なのか・・・??

しかし、この焼き打ちは、近年の発掘調査によってちょっとした山火事程度だったという説も出てきています。

光秀は、信長に反対せずに焼き打ちを実行したものの・・・それは脅し程度のもので、虐殺ではなかった可能性が高いのです。
1571年12月、光秀は比叡山焼き打ちの褒美として近江国志賀郡5万石を与えられ、さらに琵琶湖の湖畔に城(坂本城)を築くことを許されました。
これによって、光秀は延暦寺の監視と、琵琶湖水運の権利獲得を任されたのです。
これは、一国一城の主になったということ・・・
この時点では、まだ織田家臣団で一国一城の主になったものはおらず、新参者の光秀が第一号だったのです。

光秀は築城の名人で・・・ルイス・フロイスも、
「築城について造詣が深く、優れた築城手腕の持ち主」と評し・・・坂本城については、
「安土城に次いで豪壮絢爛な城」と絶賛しいます。
坂本城は、特殊な構造で、城から直接琵琶湖に船で出ることのできる攻めの拠点の城でもありました。
天下統一に突き進む信長・・・光秀は、何を見て付き従っていたのでしょうか?

1573年、室町幕府15代将軍・足利義昭は、再び信長討伐を掲げますが、全く歯が立たずに降伏・・・
7月、義昭は信長によって京都から追われ、室町幕府は事実上滅亡しました。
これによって信長は畿内をほぼ制圧!!
残るのは丹波国のみとなります。
京都に近い丹波国には、朝廷や将軍の領地が多く、義昭を蔑ろにする信長に良い感情を持っていない土豪が多く、なかなか手が出せずにいました。
しかし、丹波国を攻略し、畿内全土を掌握しなければ、天下布武は実現できない!!
そこで、1575年信長は丹波国を攻めるべく兵を起こし、その総大将に光秀を任命しました。
光秀は、期待に応えるべく奮戦し、4年の月日を費やして、丹波の城を次々と制圧・・・
1579年丹波国平定。

信長は大いに喜び・・・
「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と光秀を絶賛しました。
そして、その丹波一国が光秀に与えられるのです。
丹波一国は29万石に相当し、近江国の志賀郡と合わせると光秀の所領は34万石・・・まさに、大出世でした。
丹波国の領主となった光秀は、福知山城などを築き領地経営に着手。
自らが考える理想の国づくりをしていきます。

長引く戦で疲弊した農民のために年貢の引き下げ、商業地では地場産業を奨励、水害から町を守るために福地山城下を流れる由良川の堤防を造成しました。
ケガを負った家臣には手紙を書いたり薬を渡し心配りをし、敵対した相手でも降伏後は自分の家臣に組み込むことが多かったといいます。
光秀の優しさは志賀郡でも変わらず・・・
西教寺には・・・戦で命を落とした明智軍18名の供養米を供えた際の寄進場状が残されています。

本来は、温厚、温和な人物であったと思われます。
誰もが幸せに暮らせる国を築きたかったのです。
信長の天下統一は、この国を豊かにするに違いない・・・そのために、自分の粉骨砕身お仕えしなければ・・・と思っていた光秀は、本能寺の変の1年前、家中軍法を作っています。
戦場での雑談や抜け駆けを禁止するなど細かな規定が18か条にわたって記されていますが、その結びには光秀のこんな言葉が・・・

「落ちぶれた身から信長様に拾ってもらった私が、莫大な軍勢を任されたからには、明智家の法度が乱れていると
”武功がない人間だ”とか”国家の穀潰しで公務を怠っている”と嘲笑され迷惑をかけてしまう
 抜群の働きを見せれば、速やかに信長様のお耳に入ることだろう」

信長への感謝と兵を預かる責任感を家臣たちに表明したものです。
しかし、その一方で、天下の謀反人となる変を起こすのです。
明智光秀は謀反人なのか?名将なのか?
光秀は、名将になった故に謀反人になったのでは・・・??
天下統一を目前にした信長は、天皇を超える存在になろうとしていました。
信長が、社会を乱す鬼となってしまったと感じた光秀は、自分の最後の大仕事として鬼を退治しようとしたのでは・・・??
信長の最後の城・安土城は、天皇を迎え入れる際の御幸の御間より、信長の暮らす天守の方が高い位置にありました。
自分は天皇を超える存在であるという強烈な意思を示したのです。
また、晩年の信長は、敵将の生首を蹴飛ばしたり、それまで以上に傍若無人な振る舞いが目立つようになってきていました。
その鬼を退治したのが本能寺の変・・・
謀反の後、もし光秀の天下が続いていれば、どんな理想の国を築いていたのでしょうか?

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれるとうれしいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

信長を殺した男明智光秀の真実 [ 跡部蛮 ]

価格:1,100円
(2020/1/26 18:06時点)
感想(0件)

明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫) [ 小和田哲男 ]

価格:682円
(2020/1/26 18:07時点)
感想(5件)

1982年6月2日未明・・・
京都本能寺で突如炎が上がりました。
わずかな手勢で宿泊していたのは、天下の織田信長!!
その最も信頼する家臣・明智光秀が襲ったのです。
事件当日光秀には、中国地方で戦う羽柴秀吉の応援に向かう筈が、突然軍を本能寺に向けます。
夢にも思っていたなかった光秀の謀反・・・信長は寺に火をかけ、奥に入って自刃しました。
日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変・・・いまだに謎が多く、光秀の動機について数えられないほどの説が語られてきました。
真実は何なのか・・・??

①怨恨説
これまで通説そして長く信られてきた怨恨説・・・映画やドラマなどで常に描かれてきた信長による光秀への暴力的叱責・・・怨恨説は、光秀が恨みを募らせて謀反を起こしたというものです。
この説の根拠の一つとされているのが、1582年の「惟任退治記」です。
本能寺の変の4か月後、羽柴秀吉が書かせたもので、光秀を討伐したという記録です。
この資料には、光秀が謀反を起こした動機について、こう書かれています。

「決して当座の思い付きではなく、積年積もる逆意があって、この時が好機であると決断したのである」

主君・信長を殺害するまでに、積もりに積もった逆意とは・・・??
光秀の信長に対する恨みの理由に関して、後世の資料では様々なエピソードがありますが、その中でも有名なものが”徳川家康の饗応役解任”をめぐる確執です。

本能寺の変の2週間前、信長は同盟相手の徳川家康をねぎらうために、安土城で盛大にもてなすことに・・・饗応役としてその仕切りを任されたのが、明智光秀でした。
光秀は、各地から山海の珍味を集め、豪勢な料理の準備に余念がありませんでした。
しかし・・・接待の食事に出した魚から悪臭が漂っていたとして信長が激怒、光秀は足蹴にされたと言います。

信長からの暴力的な叱責は、宣教師ルイス・フロイスの記録にも見ることができます。

”人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度足蹴にしたということである”

信長の光秀に対する激しい叱責と、積年の恨みが光秀が謀反を起こす理由だったのか??

怨恨説の中にはもう一つ・・・斎藤利三をめぐる怨恨説があります。
斎藤利三は、光秀の右腕ともいわれた明智家の重臣です。
本能寺の変から遡ること1か月、斎藤利三は明智家のために他の織田家の家臣から家老の一人を引き抜きました。
これを聞いた信長は、織田家家臣団の規律を乱すとして激怒、利三の切腹を命じるほどの激しい怒りでした。
このエピソードは、利三に家老を引き抜かれた稲葉家の記録「稲葉家譜」に書かれています。
1582年5月27日、光秀は、利三の監督責任を問われ、叱責を受けたと言われています。
この時、あるアクシデントが起こり、光秀のプライドがズタズタになります。
殴ったはずみで、”かつら”が取れてしまいました。
光秀は、髪が薄いことを気にして、普段から付髪をしていました。
人前であからさまに付髪を取られてしまったのは、屈辱でした。
この事件が起きたのは、本能寺の変の4日前です。
公衆の面前で潰された武士の面目・・・これが本能寺の変に向かわせたのでしょうか?

怨恨説の根拠は、後の時代に書かれた二次資料です。
一次資料には、光秀が信長を恨んでいたという記録は残っていません。
怨恨説の否定材料となる一次資料は・・・??
本能寺の1か月前の信長の最後の朱印状が細川家に残っています。
あらゆる軍事情報は、光秀を通じて送るように命じています。
虐めるどころか、光秀あっての近畿の軍事政権であると信頼していました。

光秀が信長を恨んだエピソードは、後世の脚色で、一次資料には見られません。
おおむね否定です。

②共謀説

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、光秀についてこう評しています。

”彼は裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、計略と策謀の達人であった”

計略に長けた光秀と何者かが手を組んで本能寺の変を起こしたのか・・・??
数ある共謀説の中でも代表的なのが”朝廷共謀説”です。
朝廷と光秀が共謀して信長を殺したというものです。
だとしたら、朝廷が信長を亡き者にしようとした理由とは・・・??
本能寺の変の前年、信長は京都で馬揃えを行いました。
馬揃えとは、今の軍事パレードです。
しかも信長の馬揃えは、かつてないほどの壮大なものでした。
朝廷共謀説によれば、信長は軍事力で朝廷を威圧するためのものだったのでは・・・??と言われています。
自らの軍事力を見せつけたうえで、これまでにない要求をします。
”三職推任”です。
三職とは、朝廷の最高職「太政大臣」、天皇の補佐「関白」、武家のTOP「将軍」という天皇の除く最高権力・・・信長はこのうちのどれかに自分を推薦するように天皇に迫ります。
三職を与えるかどうかを決めるのは、天皇の専権事項・・・
信長の要求は、天皇の権力を蔑ろにするような前代未聞の暴挙でした。
朝廷にとって信長は危険な存在・・・
そこで朝廷は、公家とも親しい文化人の光秀に近づき、謀反を共謀したというのです。

イエズス会共謀説
さらに、朝廷以外にも、公家と親しかったイエズス会・・・
キリスト教の布教のために、イエズス会は本能寺の変の33年前から日本で活動を始めました。
この時彼らは、中国進出のために日本での基盤を固めるべく、信長を経済的に支援していました。
ところが、信長がほぼ天下を収め、手中に収めると・・・天下人として振る舞うようになり、イエズス会にとってコントロールできない存在となってきました。
ルイス・フロイスは、イエズス会を震撼させた信長の言動を記しています。

「途方もない凶器を盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないというに至った
信長はあろうことか絶対的な存在であり、キリスト教の守ですら否定し、自分はそれよりも上の存在だと言い出したのだ
神を冒涜する信長を許してはならない」

イエズス会は信長に次ぐ実力者だった光秀に近づき、共謀して信長を暗殺した??
信長を亡き者にしたい朝廷、そしてイエズス会・・・それらの巨大組織が光秀と繋がって本能寺の変を起こしたのか・・・??
イエズス会の重要人物の一人・宣教師オルガンティーノは、安土にいたものの本能寺の変の後、明智軍を恐れ、批難したと言われています。
イエズス会と明智が繋がっていたとすると、オルガンティーノの動きは説明がつきません。

朝廷共謀説、イエズス会共謀説は、根拠となる資料が乏しく否定。

③鞆幕府推戴説

広島県福山市にある惣堂神社・・・
厳重に保管されている御神体は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。
広島と足利義昭、本能寺の変の関係とは・・・??
本能寺の変の9年前・・・1573年に室町幕府が滅亡。
信長に槙島城の戦いで敗れ、京都から追放された足利義昭・・・
これをもって、室町幕府が滅亡したと言われています。
しかし・・・京都追放後、義昭は広島県福山市の鞆の浦に毛利氏の庇護のもと、鞆幕府と呼ばれる勢力を存続・・・
将軍として再起を図ろうとしていました。
しかし、どうして鞆の浦・・・??
港からほど近い小松寺・・・
ここは、室町初代将軍・足利尊氏が京都で幕府を開く直前戦勝祈願のために立ち寄ったとされる寺です。
再び上洛を果たし、幕府復興を目論む義昭にとって、鞆の浦は縁起のいい場所でした。
さらに、鞆の浦は、海流が満潮時に丁度ぶつかる瀬戸内海屈指の交通の要所でした。
四国・九州から、人、物、そして情報が集まり、戦力的にも有利な場所でした。
義昭は、京都から広島に逃れ、信長と敵対する西国の大大名・毛利氏らと組み、打倒信長を画策していたのです。

義昭が御所として使ったとされる常国寺・・・
今でも足利将軍家の家紋「足利二つ引」が掲げられています。
寺に伝わる羽織は、義昭が地元の有力者に贈ったものだとされています。
そこには、将軍家など権力者だけに許されていた紋「九七桐」が使われています。
光秀が鞆の浦で京都奪還を望む義昭に近づき「本能寺の変」を引き起こした??

義昭の野望と、光秀の深いつながりを示す証拠が本能寺の変から10日後に書かれた「土橋重治宛光秀書状」に書かれています。
秀吉との最終決戦・山崎の戦いを控え信長と敵対していた勢力に宛てた協力を求める書状には・・・


「上意への奔走を命じられたことを、お示しいただき、ありがたく存じます
 しかしながら、(将軍の)ご入洛につきましては、すでにご承諾申し上げています。」

信長亡き後、上意が使われる人物は、義昭以外に他ならない・・・??
その義昭の入洛・・・光秀自身既に承諾している・・・??
光秀が、鞆幕府を推戴していた証拠なのでは・・・??
光秀は、室町幕府復興の大義のために、本能寺の変を起こしたのか・・・??
義昭の入洛について承諾しているという光秀の書状から、光秀が義昭を担ごうとしていたことはわかるものの、問題は、光秀と義昭が結びついたのが、本能寺の変の前か、後か??
書状が本能寺の変の後に書かれていることから、光秀が自分の正当性を示すために義昭の権威を利用したのかも??

光秀と義昭のつながりは、変の前→義昭と計画的に行われた謀反
へんの後であれば、謀反の大義名分のために推戴したのでは・・・??と思われるのです。

将軍義昭を再び京都に迎え入れるために奔走した光秀、最近、義昭と光秀のつながりが発見されました。
そもそも、明智光秀に関する信頼できる資料は非常に乏しく、前半生は謎に包まれています。
本能寺の変を起こした時の年齢も、明智軍記=55歳、当代記=67歳と、言われています。

光秀に関して最も信頼されている古い記録は、本能寺の変の15年前、永禄10年の「永禄六年諸役人附」です。
そこには、光秀が越前国の足利義昭陣営の足軽衆であったと記されています。
信長に会う前、光秀は足利義昭の家臣でした。
当時義昭は、将軍だった兄を殺され、京を追われ朝倉氏のもとに身を寄せていました。
幕府とつながりの深い朝倉氏のもとで、上洛に必要な大名を探していました。
そこで目をつけたのが、美濃で力をつけてきていた織田信長でした。
その時、義昭と信長を結びつけるために出てきたのが明智光秀です。
この時、若く見積もっても40歳・・・出自もわからない光秀が、どのようにして義昭と結びついたのでしょうか?
長い間謎となっていました。
そんな中、2017年、熊本で・・・謎に迫る発見が・・・!!
「針薬法」と呼ばれる書物は、細川家の家老米田家に残された光秀本人が語った新資料です。
資料には、永禄9年の物と書かれていますが・・・これが事実なら、光秀に関する一番古い資料となります。
その奥書には・・・
”明智十兵衛光秀は、近江国高嶋の田中城に籠城していた”
光秀は、永禄9年(1566年)以前に武将として活躍していたことがわかります。
どうして明智光秀は、主君・織田信長を討ったのか・・・??

本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

新品価格
¥1,760から
(2020/1/21 11:33時点)



④構造改革反発説
光秀は、信長の行った革新的な構造改革に反発し、変を起こしたという説です。
世は戦国時代、自分たちの所領や領地を守り、いかにして拡大するか・・・??
大名たちによる限られた土地の奪い合いは、100年近く続いていました。
そんな時代を終わらせるべく、信長が出した全く新しい思想は・・・預治思想です。
土地はあまねく天の物・・・それを預けられ、治める・・・この思想が、信長の革命的な思想なのです。
土地はすべて天からの物で、天下人に与えられたものであり、各大名はその土地を預かっているだけ・・・
そうすることで、土地の奪い合いは無くなる・・・預治思想は、秀吉・家康に受け継がれ、幕藩体制の礎となっていきます。

天正8年・・・1580年8月、信長は大和一帯を治める筒井順慶に居城ひとつを残して他の大和一帯の城をすべて破壊するように一国城割を命じました。
領地・城の管理は、従来の各大名の権限で、それを信長は奪い、自ら差配、それまでの権力者とは、一線を画す命令でした。
そして天正8年を機に、
天正8年 大和 城割 検地
      摂津 城割 検地
      河内 城割 検地 
      和泉 城割 
      丹波 城割 検地
      丹後 城割 検地
天正9年 越中 城割
      能登 城割
      伊賀 城割
光秀や秀吉などの家臣の領地で、石高を調べる検地を次々と行い、領地管理を徹底管理させていきます。
さらに、長年自らに仕えてきた宿老に対し・・・
滝川一益 伊勢長島→上野厩橋
越前府中 江千仙府中→能登七尾
細川藤孝 山城青龍城→丹後宮津
見ず知らずの土地に国替えを命じました。
全ては、天下人を中心とした集権国家にするためのもの・・・まさに、国の形を劇的に変える構造改革をしようとしていたのです。
そして次なる国替えは光秀だった・・・??
江戸時代にまとめられた「明智軍記」によれば、「丹波・近江を召し上げ出雲・石見を与える」と言われたと言います。
丹波の地は、光秀が4年の歳月をかけて平定した土地です。
新しい国の形を探して信長が行った構造改革・・・しかし、旧来の常識にとらわれる家臣たちにとっては、あまりにも革新的過ぎたのでは・・・??

革新的なのは信長か?光秀ら家臣たちか??
革命家・信長と旧来型の家臣・光秀・・・そうした従来の評価は近年大きく変わってきています。
信長の革新的の象徴とされる安土城・・・信長は土の城から城郭へと進化させ、城革命を成し遂げたと言われてきました。

しかし、光秀と親交のあった吉田兼見によると・・・
「坂本城の天守を作るところを見せてもらった」とあります。
坂本城とは、安土城の4年前に建築が始まった光秀の城です。
信長よりも早く、荘厳な天守を築いていた可能性があるのです。
さらに、京都市に残る周山城は、東西に800m、南北に620mの広大な山城で、天守の役割をする建物もありました。
当時の一般的な城は土塁・・・周山城は石垣・・・広大で巨石を積み上げた総石垣の山城は、他に例がありません。
さらに、家臣たちを統率する規律も、時代を先取りしたものでした。
「明智光秀家中軍法」によると・・・
当時の軍は、いろいろな出自の者が集まる寄せ集めでした。
家中軍法では、こまごまとした規律が定められています。
戦場での雑談や抜け駆けの禁止が徹底され、織田家はもとより他の大名家に軍法が存在しない中、明智家だけに存在した法律・・・そのあまりの革新性に、江戸時代につくられた偽の文書ではないかとも言われていました。

革命家と言われてきた信長・・・
朝廷が執り行う儀式には、多額の資金が必要で、それを援助するのは伝統的に室町幕府が行うものでした。
しかし、室町将軍・義昭を追放した後は、信長が変わって経済的援助を行い、朝廷を支えていました。
さらに、岐阜城に入ったのち、天下布武の印を使い始めた信長・・・天下統一を目指し、天下人となる決意表明ととられがちですが・・・
信長にとって戦の目的は、天下統一ではなく、各地で起きる反乱を鎮め、朝廷を中心とした伝統的な秩序を守るためでした。
信長は、次の時代を作った革命家ではなく、最後の戦国大名だったのでは・・・??

この頃、信長が使っていた”天下”という言葉も、最近解釈が変わってきています。
天下とは室町幕府、朝廷、京都のこと・・・??
天下布武は、日本全土を支配するのではなく、近畿一円では・・・??
従来のイメージと異なる信長と光秀の人物像・・・
ここから本能寺の変の真相に、新たな説が見えてきます。

⑤暴走阻止説
信長の暴走を止めるために、本能寺の変を起こした・・・??
1580年、石山本願寺との戦いが終わり、畿内を平定。
しかし、信長は戦いをやめることはありませんでした。
全国各地の自らに従わない勢力に対し、兵を送り、武力で押しつぶそうとしました。
信長の行動は、武力に任せるという旧来の戦国大名と何ら変わりのないものでした。
既に中国地方での毛利との戦いは6年に及び、上杉とも戦いは続いていました。
長引く戦と、拡大する戦線・・・織田家臣団は、疲弊しつつありました。
そんな中で、信長は更なる戦を決定します。
四国攻めです。
尾張の見えない戦の日々・・・そんな信長に最も危機感を持っていたのは光秀でした。
織田家の有力者たちに任された地域を見ると、秀吉の中国地方、柴田勝家の北陸地方に対して、光秀は信長のおひざ元・畿内周辺を任されていました。
さらに、光秀と軍事行動を共にする大名を含めると、京をぐるりと包囲しているのがわかります。
信長の暴走を止められるのは、畿内を任され、軍事的No,2だった光秀のみ・・・??
本能寺の変の動機に関して、自筆の書状が残っています。
”明智光秀覚条々”(1582年6月9日付)によると・・・
本能寺の変の後、細川藤孝に対して自ら筆をとっています。
ここに書かれた動機こそ、この説の大きな根拠になっています。
本当に光秀は、信長の暴走を止めるべく本能寺の変を起こしたのでしょうか?
本能寺の変は、光秀が天下を取るためではなく信長の時代を終わらせ、次世代に渡すためだった可能性も・・・??

⑥四国説
2014年、歴史界を驚かす、驚きの発見がありました。
”石谷家文書”によると・・・明智光秀の重臣・斎藤利三と土佐の長曾我部元親がやり取りした膨大な数の手紙によると・・・
注目されたのが、四国説です。
長曾我部元親は、四国統一を目指していた戦国大名でした。
元親は、信長と同盟関係にあり、その取次ぎを務めていたのが光秀でした。
戦いで勝ち取った土地は、自分のものにしてよいという信長のお墨付きをもらい、敵対する三好家と戦い続けた元親・・・四国統一目前でした。
ところが、状況は一変・・・本能寺の変の前年・・・信長は突然長宗我部ではなく三好家と接近・・・元親が戦いで勝ち取った四国の一部を三好家に返上を要求します。

「元親のために光秀は尽力している」

手の平を返す用に領地を奪われる立場となった元親のために、奔走していた光秀・・・
その結果、ようやくたどり着いた妥協案は・・・??
本能寺の変の10日前、元親から光秀の重臣・斎藤利三に出された手紙です。

「信長との間を始終取り計ららってくれたことは忘れない
 阿波国内の主要な山城は明け渡す」

領土の返上を渋っていた元親の説得に成功した光秀・・・
しかし、信長は情け容赦ない決定を下します。
長宗我部を滅ぼすと・・・!!

光秀の人力空しく、四国出兵が決まります。
元親討伐軍が四国渡航予定の6月2日未明・・・光秀は本能寺の変を決行したのでっす。
この四国政策の手のひら返しが本能寺の変を引き起こさせた・・・??

本能寺の変が起こった1582年、信長はすでに家督を信忠に譲っていました。
二人を同時に討たなければ、謀反は成功したとは言えない・・・
ところが、当初信長と別行動をとるはずだった信忠が、予定を変更。
二人が急遽、兵を伴わずに京都にいることになりました。
これが決定したのは、本能寺の変がおこるわずか3日前のことでした。
中国出兵が決まっていた光秀のもとには、1万3000余りの軍勢が・・・!!
光秀にとってありえないほどの好条件が重なったことが、本能寺の変の大きな要因の一つになりました。
四国をめぐる信長の判断が、光秀を追いつめ、織田家家臣団の問題が表面化し、本能寺の変につながった可能性が高いと思われます。

⑦秀吉陰謀説
四国説で浮き彫りになった光秀と秀吉による織田家臣団のNo,2争い・・・
ここからまことしやかに囁かれているのが・・・秀吉陰謀説です。
本能寺の変の直後の光秀について、京都・吉田神社の神官・吉田兼見・・・
朝廷にも深くかかわり、光秀と頻繁に行き来する間柄の吉田兼見によると・・・
本能寺の変当日の兼見の日記には、

”光秀は信長方を悉く討ち果たし、大津に異動した
 私は馬に乗って粟田口まで走り出て光秀に対面し
 吉田家・吉田神社の領地を保証してくれるよう直接頼んだ“

兼見だけでなく、京都の多くの勢力が光秀を謀反人として扱うことはなかったようです。
その後、安土城に入城した光秀のもとに、朝廷からの勅使が訪れました。
これは、朝廷が光秀を次の天下人として認めた可能性を示しています。
本能寺の変後、光秀の動きは順調に見えました。
しかし・・・
それを打ち砕いたのが、秀吉の中国大返しです。
本能寺から200キロも離れていた高松城から毛利との講和を結び、京都に取って返した秀吉・・・
変からわずか11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦いで光秀は秀吉に破れました。
本能寺の変で最も得をした人はだれか・・・??
天下人の道を歩み始めた秀吉です。
どうして秀吉は、こんなに早く変の情報を入手し、動くことができたのか・・・??
秀吉は本能寺の変に何らかの形で関わっていたのか・・・??

秀吉の陰謀である可能性は低いが、秀吉は光秀の謀反を予知していた可能性は高いと思われます。

本能寺の変の直後から、光秀は味方になってくれる織田家家臣団を取り込むべく各所に書状を送り、援軍を頼みました。
敵対勢力・・・最大の秀吉を制すれば、謀反は成功するはずでした。
光秀が最も頼りにしていたのが、細川藤孝・忠興親子でした。
藤孝は、光秀が信長と出会う前からの長い付き合いで、当時光秀の与力大名として軍事行動を共にする間柄でした。
息子の忠興は、三女のガラシャが嫁いだ相手・・・つまり、娘婿でした。
当然彼らの援軍を得られるであろうと思っていた光秀・・・
ところが、本能寺の変を知ると、細川親子は信長の喪に服すると出家、光秀とは組まないという意思を示しました。
さらに、娘婿の忠興は、たまを離縁、幽閉します。
思いもよらない細川親子の反応・・・
光秀はどう受け止めたのでしょうか?
本能寺の変の7日後・・・
光秀が細川家に送った書状によると、細川親子の出家に対し、抗議しながらも、今からでも味方してほしいと強く要請しています。
にもかかわらず、細川家が動くことはありませんでした。
細川家のこの判断によって、光秀の運命は決まりました。

秀吉による中国大返し、それでももし、秀吉の通り道にある丹波で細川が迎え撃てば、秀吉の足止めができたかもしれない・・・
しかし、細川は動かず、実に三倍の兵力を引き連れた秀吉と・・・
1582年6月13日、山﨑の戦い!!
光秀を撃破した秀吉は、信長の後継者の地位を手繰り寄せました。
本能寺の変の1か月後・・・光秀に組しなかった細川家に宛てた秀吉の文書が残っています。
”羽柴秀吉血判起請文”によると・・・花押の上に秀吉の血判が・・・今に残る秀吉唯一の血判です。
細川家によって、400年以上大切に保管されてきました。
秀吉はこう書いています。

”この度のご不慮(信長が自刃に追い込まれた本能寺の変で)
 細川家の行動は「比類なき頼もしさ」であった”と。

そして秀吉はこう続けます。

”これからは、ごく親しい関係を結び
 表裏なく、公私とも抜かりなく協力していこう”

そこには、細川家に対する最大の感謝が伺えます。
しかも、書かれたことが真実であることを誓う、熊野神社の護符の裏紙が使われ、この誓いを破ったら、日本中の神の罰を受けてもいいとまで書かれています。

本能寺の変で、中世が終わり近世が始まる・・・国家の在り方を江戸時代につなげる転換期でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

「本能寺の変」はなぜ起こったか 信長暗殺の真実 (角川文庫)

新品価格
¥638から
(2020/1/21 11:33時点)

明智光秀伝: 本能寺の変に至る派閥力学

新品価格
¥1,430から
(2020/1/21 11:34時点)

明智光秀って、紹介するにはいろいろエピソードがあって・・・
でも、本当のことはあまりよく知られていないという・・・なんとも難しいキャラです。
が、色々話があるのにわからないってことは、いろんな話が作れるってことで、ドラマとしては面白くなるのかもしれないですね。

mituhide













先日紹介しましたが、「麒麟がくる」では長谷川博己さんがやってくれます。

mituhide2



















明智光秀は、みなさんご存じだと思いますが、本能寺の変で織田信長に謀反を起こし、でも・・・根回しが不十分で誰も味方がおらず、中国大返しで意気揚々な羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、三日天下で終わる・・・あの光秀です。

後に世を治めるのが、光秀のライバルであった秀吉や家康だったので、なかなかいいところは書物として残されていないというのが現状です。
だから、光秀のことはよくわからないんだと思います。

光秀の本姓は、源氏、清和源氏の家系で、土岐氏の支流である明智氏の出身です。
糟糠の妻は熙子、子供にはあの細川ガラシャもいます。

私のイメージでは、武闘派で田舎者の多かった織田家臣団にあって、唯一の知性派だったと思います。
もちろんそこは信長も一目置く・・・というか、光秀の公家とのあれこれを最大限に利用します。
そうして、真面目で使い勝手のいい光秀・・・
だからこそ、一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。

ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

後に信長に領地を取り上げられますが・・・
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域もあるほどです。

聞けば聞くほど・・・光秀のことを知りたくなります。
大河ドラマでは、どんなふうに色付けしてくれるのか・・・とっても楽しみです。



「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

明智光秀・秀満 ときハ今あめが下しる五月哉 [ 小和田 哲男 ]

価格:2,700円
(2019/9/24 23:45時点)
感想(0件)

信長を殺した男明智光秀の真実 [ 跡部蛮 ]

価格:1,080円
(2019/9/24 23:46時点)
感想(0件)

経済で読み解く織田信長 [ 上念司 ]

価格:1,199円
(2019/1/13 22:40時点)
感想(4件)



群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

【中古】 織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 / 武田 知弘 / ソフトバンククリエイティブ [新書]【ネコポス発送】

価格:1,124円
(2019/1/13 22:40時点)
感想(0件)

ウッディジョー リアル木製模型 安土城 織田信長 日本製模型 木製 1/150サイズ 150分の1サイズ 木製模型 模型 木製 城 木製 模型 キット 木製模型キット 日本製 インテリア 詳細再現 自由研究 コレクション ジオラマ

価格:31,110円
(2019/1/13 22:42時点)
感想(0件)

このページのトップヘ