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タグ:足利義輝

【新品】【本】石田三成〈秀吉〉vs本多正信〈家康〉 島添芳実/著

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戦国の世に終止符を打ち、260年あまりの太平の世を築き上げた徳川家康。
その家康に仕え、江戸幕府最大の功労者といわれるのが、家康よりも4歳年上の本多正信です。
家康の傍で、天下取りの戦略を練り続けた参謀。。。
家康の知恵袋でした。
本多正信はどのようにして家康に認められ、どのように支えたのでしょうか?

1538年、本多正信三河国に生まれました。
本多家は、藤原氏を始祖とする名門でしたが、若い頃は家康の臣下として足軽よりも身分の低い鷹匠として仕えていました。
そんな正信に大きな転機がやってきたのは、26歳の時・・・。

1563年三河一向一揆です。
一向宗の門徒と家康が激突します。
今川家から独立したばかりの家康が、領国支配を急ぐあまり、一向宗の特権を侵害したことが原因でした。
この時、一向宗の門徒であった正信は、家康に反旗を翻し、一揆軍に身を投じて、家康の首をとるために戦うこととなったのです。
どうして一向宗側に着いたのでしょうか?

本多家は貧しく一向宗に肩入れしました。
当時はまだ家康との固い絆はありませんでした。
正信だけではなく、かなりの家臣が一向宗に加担しています。
困窮のために、家康よりも一向宗に救いを求めたのです。
そして翌年、一揆が収束すると・・・
家康は、一向宗に加担した家臣たちの罪は問わないとし、多くの家臣が家康のもとに帰りましたが・・・。
正信は家康の元には戻らず、身重の妻を残して出奔。
その後の消息ははっきりとは分かっていませんが、諸国を回り、加賀一向一揆に加わったり、三好家の家臣松永久秀に仕えていたといわれています。
久秀は、戦国時代きっての梟雄と呼ばれた人物です。
松永久秀自身は、主人の三好家を乗っ取ったり、室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃して殺害するなど戦国時代きっての戦略家です。
そこで多くの事を学んでいた正信・・・
久秀は正信のことをこういっています。
「剛に非ず 柔に非ず 非常の器である」と。

強いだけでも優しいだけでもない・・・計り知れない器量の持ち主である・・・と。
正信が家康のもとに起算したのは、出奔から20年後の事でした。
”帰り新参”といわれる肩身の狭い立場で、かつ、裏切り者・・・。
槍も剣もあまり使えなかったようで・・・。
家康に仕え、生死を共にしてきた家臣たちにとっては総スカンの存在でした。

広い視野と情報網を持つ本多正信が名参謀となったのは・・・??
1590年豊臣秀吉は、北条氏を倒して天下を統一!!
徳川家康は、家康から北条氏が治めていた関東への転封を命じられ、江戸城に入城。
その頃、家康は、家臣たちを試すためにこんな問いかけをしていました。

「さて・・・力づくでどのあたりまで攻め込むのがよかろう?」

徳川軍が関東から京に攻め上った場合の可能性についてです。
すると・・・ある者は勇ましく「関ケ原」まで。「浜松」まで。
しかし、正信は一言も発しませんでした。

今の徳川は、江戸を出ることはできない・・・。
冷静な状況判断でした。
以心伝心・・・的確な分析能力を読み取った家康は、その通り・・・と、頷いたといいます。
家康を関東に封じ込めたのは、後ろに蒲生氏郷がいたからです。
関東から西に動いた瞬間に、蒲生が攻め込んでくる・・・正信はそれが解っていたのです。
分析や戦略を立てることのできる正信・・・家康の天下取りには必要な人物でした。
また、人を諫めるのも上手でした。

家康の信頼を得た正信は、家康が大きな決断を求められるたびに参謀として意見し、それを家康はことごとく採用していくこととなります。
1592年、朝鮮出兵。
家康は、九州・名護屋城への参陣を命じられます。
しかし、兵を出すのはそこまで・・・というのが正信の主張でした。

「朝鮮出兵は、必ず失敗に終わり、出陣すればただ兵が疲弊するのみ。」

正信は、朝鮮出兵が無謀な戦いであると見抜いていたのです。
幸い、家康は朝鮮半島の出兵は免れ、徳川の軍事力の保持を図ることができました。
正信の読み通り、朝鮮出兵は豊臣政権に多大な打撃を与え、家臣たちに大きな亀裂を与えたのです。

「この戦のあと、殿に天下取りのチャンスがやってくる・・・」

朝鮮出兵のさ中に、豊臣秀吉が62歳で死去。
すると徳川家康の知恵袋・本多正信が動きます。
石田三成ら文治派と、加藤清正・福島正則ら武断派の対立を煽り、秀頼政権の弱体化を図ったのです。
その結果・・・事件が勃発。
朝鮮出兵で身を削って戦った浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政・福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興らが三成を討つべく兵を挙げました。
世に言う”七将襲撃事件”です。

窮地に陥った三成は、屋敷をでると家康の元へ助けを求めます。
家康にとっては、飛んで火にいる夏の虫・・・三成は、反家康勢力の急先鋒で邪魔な存在でした。
そんな三成をどうする??
正信は家康に進言します。
「三成を助けた方が、天下取りには都合がよいと存じます。」
本多正信ならではの考えでした。

三成を殺しても、反家康勢力を一掃することはできない・・・
家康は、三成を隠居させる条件で、七将の怒りを抑えました。
この騒動で、七将を咎めなかったことで、家康は彼らを味方につけることに成功。
そして、三成を生かしておいたことで・・・三成が反家康勢力を集結して挙兵!!
天下取りのために、彼らを討つという大義名分が家康に転がり込んできました。
東西16万の軍勢が関ケ原で激突!!
戦いは、一日で決着がつき、反家康勢力は一掃されたのでした。
まさに、参謀・本多正信の知略が、家康に天下をもたらしたのです。

しかし、家康の命運をかけたこの戦いで、正信は大きな失敗をしていました。
正信は家康の子・秀忠に付き従い、徳川本隊3万8000を引き連れて中山道を・・・。
しかし、真田一族が守る2500の兵・・・上田城を落とせず・・・関ケ原の戦いに後れてしまいました。
正信は武将としての経験は少なく・・・しかし、そんな正信を怒ることはありませんでした。
というのも、、正信の実力は武功ではなく、戦後処理能力にあったからです。
井伊直政らと共に、関ケ原の論功行賞と処罰を行った正信・・・。
石田三成を処刑するなど西軍の武将には厳しく・・・三成の息子の処分については驚くべき進言をします。
「助命するのが徳川の為です。」
西軍を敵に回すのではなく、味方につける・・・恨みを残さない・・・というのが正信の戦略でした。
人の心を知り尽くした知略が、徳川幕府を築いたのです。
恨みの連鎖を断ち切ることによって・・・。

この助言を聞き入れた家康・・・三成の子は、処刑されることなく、生き延びることとなります。
一方、豊臣恩顧の武将たちで東軍に加わったものには・・・加増を行います。
先陣を仰せつかり、戦功第一とされた福島正則は24万石→49万石に。
関ケ原の戦いには参加しなかったものの・・・九州で反家康派を抑えた加藤清正は19万石→52万石。
ところが、石田三成本体と華々しく戦った加藤嘉明には10万石→20万石。
この沙汰を知らされた嘉明は怒り心頭!!
家康が50万石への加増を提案したのに、正信が反対し20万石に留まったのです。
怒りの収まらない嘉明は正信と直談判・・・。

「豊臣家に恩がありながら武功をあげた者が大きく加増されれば、恩賞目当てでまた裏切るのでは?と、人に都に大きな疑念を与え、将来、災いをもたらすことになります。
 それでもよければ、更なる加増を考えます。」

正信は、嘉明の子孫の事も考えていたのです。
正信の言葉通り、大幅に加増された福島家、加藤家はおとり潰しの憂き目にあっています。
しかし、正信の一言で、それを受け入れた加藤嘉明の子孫は明治維新まで13代・・・大名であり続けることができました。

正信の処遇は・・・??
正信が大名に列せられたのは53歳の時でした。
幕府成立以降は、相模国玉縄に2万2000石を拝領していました。
他の武将たちが次々と加増を受けても、正信の所領は変わりませんでした。
幾度となく加増の話が家康からありましたが、受けようとはしなかったのです。
「たとえ家が富まずとも、貧しいわけではなく、一生食べていくことができまする。
 それがしにとお考えの領地は、ぜひ武功があったものにご加増をお願い申し上げます。」
そして跡継ぎ・正純に対しても、「3万石を超える加増を受けてはならん!!」ときつく言い含めていました。
人事権を持つ者が、武功をあげずに加増を受けると、周囲の反感を買うと思ったからです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を開きます。
この時、家康は62歳、正信66歳になっていました。
家康はその2年後に、秀忠を2代将軍に付けます。
徳川幕府が世襲制だと天下に知らしめるためでした。
家康自身は大御所となって、駿府からの院政を行います。
正信は江戸で新しい将軍秀忠に仕え、正信の子・正純が家康の側近となって支えます。
どうして秀忠の参謀に着いたのでしょうか?

家康からの伝言を聞けば、全てわかっている正信が秀忠に着いたのです。
そして、正純を家康に育ててもらうという側面がありました。
正信は、江戸幕府を盤石にするために、徳川家臣団の再編成に着手します。
幕府重臣から多くの武功派を粛正する一方、実務能力のある官僚にポストを与えていきます。
正信の標的となった武闘派のひとりが、譜代の重臣・大久保忠隣です。
正信は領地を没収し、一族や親しい大名までも処罰します。
その理由は・・・かつて大久保家に仕えていた金山奉行の大久保長安が、金銀を横領、私腹を肥やしていたことに連座するものでした。
忠隣は、長く家康の天下取りを支え、多くの武功をあげていました。
しかも、父・忠世は正信にとって大恩人でした。
かつて正信が身重の妻を残して出奔した際、ずっと家族を援助していてくれていたのです。
そんな恩人の子である忠隣をどうして処罰したのでしょうか?
私利私欲がなく、清廉潔白・・・しかし、政治はきれいごとでは済まない・・・徳川のために、大久保を処罰したのです。
恩人の息子だからといって許してしまえば、法は立ちいかなくなります。
正信は、戒めの為にも厳しい処罰を下し、江戸幕府の体制引き締めを図ったのです。

江戸に幕府が開かれ、長い戦乱の世が終わろうとしていました。
しかし、徳川家の参謀・本多正信には、生きているうちに決着をつけておかなければならない難題がありました。
大坂城にいる豊臣秀頼です。
1611年・・・家康70歳、秀頼19歳の時に、二条城で会見をします。
現れた19歳の秀頼は、想像以上にたくましく聡明に育っていました。
その姿を見た正信は警戒しました。
秀頼が徳川の天下を脅かす存在になるのでは・・・??
「もし戦が起きたとき、秀頼が求めれば、豊臣恩顧の大名の10人のうち、6人が応じるでしょう。
 早めに征伐を・・・!!」
正信の最後の大仕事が始まりました。
秀頼追い落としの謀略とは・・・??
大坂城に蓄えられた軍資金を減らすために、淀殿の信仰心をくすぐります。
神社仏閣への寄進、建物の改修費用として金銀を湯水のように使わせます。
正信の狙いは、豊臣家を無力化し、淀殿を大坂城から移すことでした。
天下は徳川にあり!!豊臣は無力である!!ことを、知らしめたかったのです。

しかし、徳川の思ったようには行かず、淀殿が大坂城を動くことはありませんでした。
そこで正信は、豊臣家に対し、地震によって崩壊していた秀吉ゆかりの方広寺大仏殿の再建を勧めます。
1614年、豊臣家が巨額の費用をかけて大仏殿を完成させると、徳川方は疑惑を突き付けます。
大仏殿の再建のために鋳造した鐘に見過ごせないものが・・・
その問題とは、鐘に刻まれた「国家安康」・・・家康の文字が分断して呪い、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈っていると非難したのです。
そう、「方広寺鐘銘事件」です。
方広寺鐘銘事件は、完全な言いがかりで、豊臣方は激怒!!
秀頼は、大坂城におよそ10万の兵を集めて籠城、対決姿勢を鮮明にし、最終決戦へ・・・!!
正信の思うつぼ・・・まんまと豊臣方がはめられたのでした。

1614年、大坂冬の陣!!
徳川軍はおよそ20万の兵で大坂城を取り囲むものの・・・最強の城を落とすことは容易ではありませんでした。
自然の川と、幾重もの堀で難攻不落!!攻め込むことはできません。
そこで、この堀を無力化するべく・・・和議を申し出、秀頼の領地を安堵する代わりに、徳川方が大坂城の外堀を埋めるという条件で和議を結びます。
しかし、徳川はその約束を反古にして、外堀どころか、二の丸の堀まで一気に埋め始めました。
病気を理由にのらりくらりと豊臣方をかわし、正信が大坂城に赴いたときにはもう、城は丸裸同然でした。

ここまで愚弄されるとは!!
豊臣方は、再度挙兵します。
これこそ、正信が待っていた瞬間でした。
こうして堀のない大阪城は、大坂夏の陣(1615年)であっという間に落とされ、豊臣家は滅亡・・・
江戸幕府は名実ともに盤石となったのでした。
凄まじい本多正信の策略・・・。
諸国放浪でいろいろな主人に仕え、鷹匠であったことがこの策略、謀略に長けていた理由なのかもしれません。

1597年4月17日、徳川家康は、豊臣家の滅亡を見届けた翌年この世を去りました。
その2か月後・・・6月7日、家康に仕えた本多正信も後を追うように亡くなります。79歳でした。
所領は2万2000石のまま、生涯、つつましく精錬に生きたのでした。
そんな正信の信念は、息子・正純に厳しく言いつけられていました。

「決して3万石以上を拝領してはならぬぞ。」

ところが、正純はその言葉を守らず、宇都宮藩15万5000石を拝領。
すると、謀略が正純を待ち構えていました。
武功もなく出世した本多親子に対して、不満を持っていた重臣たちからの謀略が・・・

1622年、2代将軍徳川秀忠が家康の7回忌のために日光に赴いたとき・・・
正純は、将軍暗殺の疑いをかけられます。
正純の居城・宇都宮城に宿泊予定の秀忠を釣り天井で殺そうとしていると・・・。
根も葉もない作り話でしたが・・・正純は拝領してしまったことで、周囲の嫉妬を煽って、親の言いつけを守らなかったことで、自ら墓穴を掘ってしまったのです。
正純は、将軍・秀忠への謀反の意志ありとして、領地没収、出羽国・横手へ流罪となってしまいました。

父・本多正信の戒めを守らなかった故に、他の重臣たちの謀略で潰されてしまいました。
正純は失脚してしまったものの、正信が作った徳川幕府は平和な世をもたらしました。
もし、正信が家康の参謀でなかったら・・・天下は家康のものとなったのか・・・??

「およそ主君を諫める者の志
   戦いで先駆けするよりも大いに勝る」by徳川家康

本多正信の功績は、どんな武将よりも徳川家康に評価されていたのでした。



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越後の龍・上杉謙信・・・語り継がれてきたその姿は、まさに英雄!!
生涯戦績70勝!毘沙門天の化身とされ、助けを求められればそれに応えどこにでも向かう!!
無欲にして義の武将・・・しかし、全く違う顔のあることが判ってきました。
その手掛かりが、上杉家に代々伝わる国宝・洛中洛外図屏風。
天才絵師・狩野永徳の作とされ、京都の風俗が絢爛たる色彩に書かれています。
その中・・・塗りの輿に乗って都大路を進むのが・・・一説に上杉謙信だと言います。
この絵を描かせたのは、時の室町幕府将軍・足利義輝。
越後の一大名と京都の将軍・・・二人の間に太いパイプが伺えます。
幕府再興のために上洛する謙信・・・これが、謙信の人生、戦国の世を大きく変えるターニングポイントでした。
この時、謙信が都でかわした契約書が残っています。
上杉謙信・・・その知られざる野望とは・・・??

1530年長尾景虎(謙信)は・・・越後守護代・長尾為景の子として生まれます。
1548年、父の死後、19歳で長尾家の家督を継ぎ守護代へ!!
直面したのは、国内の政治的混乱でした。
その頃の越後は、幕府が任命した守護である上杉定実を、守護代である長尾家が補佐。
強大な軍事力で民衆を押さえていました。
しかし、父・為景の死を好機と見た国衆の一部が反乱を起こします。
1550年には、上杉定実も死去。。。上杉家は断絶。
この非常事態に謙信が切り札としたのは、室町幕府でした。
謙信一行の姿が描かれたと言われる洛中洛外図屏風。
先頭の馬には毛織物製の豪華な嵓飾りが・・・本来、守護にしか使えないものです。
幕府はそれを謙信に与え・・・謙信は越後の主としての資格を得たのです。
それも、定実の死から二日後に・・・。

どうしてそんなことが可能だったのでしょうか?
謙信と義輝の間で暗躍していたのが、神余氏・・・京都在住の武士です。
この人物こそキーマンで・・・神余氏と契約を交わして、越後の代弁者として活動してもらったのです。
神余氏は、3代にわたって越後の特務機関として働きました。
貴族が主催する連歌の会や、酒宴にもぐりこみ、集めた情報を謙信に送っていたと考えられています。
謙信は、きわめて活発な諜報活動を行い、幕府との関係を築いていたのです。
幕府の権威を背景に、政治力をつけていく謙信・・・
将軍義輝が謙信に送った書状には・・・
太刀一腰と金子三千疋を受け取った・・・謙信は、金品や名馬などを贈り、義輝と親密な関係を結んでいたのです。
ではその費用はどのようにして賄ったのでしょうか?
謙信の中央工作を支えたのは、新潟県小千谷市・・・麻織物です。
青苧・・・木綿が一般的となるまでは、麻織物が珍重されていました。
謙信は、その栽培と生産を奨励し、越後に巨大な繊維産業を作り上げました。
越後上布・・・京大坂の商人は越後を訪れ、競うようにして青苧を買いました。
それこそが謙信の狙いでした。
謙信が領内に出した触書には・・・
”青苧座の船は、積荷の量を調べ税を課す”
青苧を越後の外に出すという行為に、税をかけたのです。
生活に欠かせない繊維の流通を押さえ、巨大な富を得た謙信は、その富で中央工作を行い、越後支配を盤石なものにしたのです。

しかし・・・1553年・・・謙信が頼みとする将軍・足利義輝が京都を追放されてしまいました。
黒幕は三好長慶・・・近畿から四国にかけて13か国を支配していた大大名です。
三好長慶は、将軍を上回る実力を持つと西欧諸国にも認められていました。
この都での政変・・・上洛し、・三好を屠殺すべし・・・
1559年謙信は越後を発し上洛・・・その数五千!!
軍事力を背景に将軍家の復権を図る!!
謙信・・・起死回生の賭けが始まりました。

北陸道を西へ向かい京を目指す謙信と五千の兵・・・
領内を通過する大名に根回ししていたので、道中は非常に順調・・・
中でも三好の専横に反発する朝倉義景、六角承禎からは盛大にもてなされ、三好討伐の意を新たにします。
4月27日、上杉軍上洛!!
ところが・・・驚くべき知らせが・・・!!
甲斐の武田信玄が信濃に軍事行動を開始した!!というのです。
当時、甲斐の国主となっていた信玄は、徐々に領土を北に拡大し、謙信とは川中島で3度戦っています。
謙信上洛に当たっては、将軍・義輝が仲介し、両者は和平を結んでいました。
信玄は、一方的にそれを破ったのです。
このまま京で三好を討つのか??
領国に戻り、武田の侵攻に備えるのか・・・??
どうする??謙信!!

越後防衛策・・・??
しかし、信玄は謙信が帰国をすることは想定内。
この頃都では、謙信が帰国を望んでいるとの知らせを聞いた将軍が謙信の忠節に疑いを持ちはじめたという噂が・・・広がっていました。
一説には、背後には信玄の情報工作があったと言われています。
このまま帰国すれば、その信頼を完全に失ってしまう・・・。

京都制圧策・・・??
朝倉、六角の大名は、幕府支持の思いが強いので、三好に対抗できる・・・??
進むべきか退くべきか・・・??

思わぬ人から第三の選択肢が・・・!!
関白・近衛前久・・・姉が将軍義輝に嫁いでいることから、両者は親密な関係にありました。
前久は、幕府が弱体化し、大名達が勝手に領地を奪い合っていることを憂いでいました。
そんな折、幕府の危機を救うために上洛した謙信の行動は、前久を動かしたのです。

そして・・・京都近くの近江坂本で二人は密会・・・
この時、前久が謙信に渡したのは、自らの血文字の誓いの文書・・・

”才覚の及ぶ限り、心から馳走いたす”

便宜を計って、関東管領職を継承できるようにお膳立てを・・・というのです。

関東管領は、関東公方(足利氏)に次ぐ関東のNo,2の役職です。
しかし、当時、その秩序を脅かしていたのが関東の北条氏康でした。
北条氏は、早雲以来、その勢力を北に伸ばし、上野にまで及んでいました。
時の関東管領・上杉憲政は、越後へ逃亡!!謙信に匿われていました。
前久は、その地位に謙信をつけようとしました。
「密事は決して他言いたしません。」by前久
密事とは・・・??
関東の軍勢で上洛し、三好、松永を一掃し、京都の政治も一気に掌握!!
東国と畿内から、戦国の時代を変えていこうとしていたのです。
謙信が東国支配の要として幕府を支えるというものでした。

これが関東進出策・・・??
しかし、武田に加え、北条と戦うというのは、これまでの小競り合いではなく大戦になる・・・!!
越後に戻る??都に残る??関東を平定し再び京に戻る・・・??

関白・近衛前房との面会から5日後・・・謙信は将軍義輝と面会。
この時、義輝から下された御内書に・・・謙信の関東管領内定が・・・!!
謙信は、関東進出策を選びました。
そしてその効果は絶大!!
越後だけではなく、信濃などの周辺領主が、謙信に祝いの太刀を献上。
中には、武田にいたはずの真田家も・・・!!
一旦帰国し、関東に乗り出す・・・しかし、武田、北条の二正面作戦はいかにも分が悪い・・・
しかし、謙信には秘策が・・・!!
甲府市勝沼・・・周囲に堀をめぐらせた要塞が・・・要塞の館の主は、信玄のいとこにあたる勝沼信元。
親族衆筆頭として本家に次ぐ軍事動員力を誇っていました。
甲陽軍鑑には・・・勝沼五郎殿内通・・・謙信は、信元への裏切り工作を進めていたのです。
信玄の信濃進出の留守を狙い、信元が本拠地の甲府を襲って、新上杉政権を樹立し、背後から信玄を襲う策略でした。

万全の手配りを終え・・・
1560年8月関東へ出陣!!
北条氏の支配に不満を持っていた人々は、謙信の元へ馳せ参じ、その数11万!!
圧倒的な戦力を誇る連合軍は、各地で北条を撃破!!
1561年3月には、本拠地小田原城を包囲!!
一方氏康は、ゲリラ戦を展開し、戦況は膠着状態に・・・!!
3月・・・謙信は鶴岡八幡宮で、正式に関東管領に就任。
東国からの幕府再興に向けての第一歩でした。
しかしその帰り道、事件が起こりました。

甲陽軍鑑には・・・
忍の成田長泰がかしこまっていると・・・謙信が他の者より図が高いと言って、持っている扇で顔を二回打った・・・余りに屈辱に、成田は謙信に無断で帰国!!
他の武将も、ことごとく陣を引き払ってしまいました。
11万の大軍が・・・空中分解してしまったのです。
原因は、謙信と諸将の意識の差にありました。
彼らは謙信の家臣ではない・・・と、思っていたのです。
さらに背後で予期せぬ事態が・・・
勝沼信元の裏切りが発覚!!成敗されてしまいました。
信玄は、上杉軍を信濃から追い出すべく、進攻を開始!!
越後攻略の起点となる海津城の整備を始めました。
本国を襲われかねない事態に、関東攻略を諦め、越後へと帰国・・・。
再び関東を攻略するためには、信玄を討ち取るしかなくなってしまったのです。

1561年9月10日、両雄は4度川中島にあい見えました。
第4次川中島の戦い・・・上杉軍は、信玄本陣めがけて正面突破を敢行!!
信玄の弟・信繁を討ち取る大戦果をあげます。
残るは、信玄ただ一人・・・!!
謙信が自ら信玄に斬りかかったのがこの時です。
しかし、あと一歩まで追いつめたとき・・・武田の別動隊が、救援に来たのでした。
戦況は逆転、謙信は軍を退かざるおえなくなります。
関東進出策は、ここに潰えたのです。

1565年5月・・・時代が大きく動きました。
将軍義輝が、三好一族によって暗殺されたのです。
1566年3月・・・謙信の元に、一通の書状が・・・差出人は、義輝の弟・義昭!!
「上洛し、幕府を再興する手助けをしてほしい」・・・と!!
しかし、武田と北条の泥沼の戦いをしていた謙信に余力はありませんでした。

1567年、義昭を奉じて京都に入ったのは・・・尾張の新興大名・織田信長でした。
信長は、都から三好の勢力を一掃!!
義昭を将軍に就け、室町幕府再興を果たすのです。
再び幕府の権威の元、秩序ある時代が来るのだろうか・・・??
しかし、信長の行動は、謙信の想像をはるかに超えていました。
1573年、信長は義昭を都から追放!!
200年以上続いた室町幕府は終焉を迎えるのです。

信長許すまじ!!

1577年9月、謙信は、加賀国・手取川で織田軍と激突!!
上杉軍は1000人以上討ち取る大勝利を挙げます。
謙信は、家臣に書き送っています。
「この分では天下への道も容易いものだ。」と。

信長にとって代わって、幕府を自分が支える・・・
謙信は、そんな道筋を見据えたのでしょうか??
しかし、1578年3月9日・・・春日山城で出陣の準備をしていた謙信は、突如発病!!
4日後にこの世を去るのです。
1578年3月13日、上杉謙信死去・・・享年49歳でした。
新潟県上越市にある上杉氏の菩提寺である林泉寺・・・
謙信自ら筆を取った言葉が残されています。
「大夢」・・・人生は夢幻のようだという仏教の無常観を表しています。
人生は夢のごとし・・・しかし、謙信は一途にその夢を生きたのかもしれません。



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決戦!川中島

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長野県北部に位置する盆地・善光寺平・・・
今から450年ほど前、戦国最強と謳われた二人が刃を交えました。
甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信です。

12年間、5回にわたり激突した川中島の戦いです。
どうしてこの場所で5回も戦わなければならなかったのでしょうか?

武田信玄は、1521年武田守護・武田信虎の嫡男として生まれました。
21歳の時に、悪政をしいていた父を追放し権力を握ると・・・隣国信濃に割拠していた国衆を攻略し、信濃のほぼ全域を手中に納めました。

信玄から遅れること9年・・・春日山城で・・・
1530年越後守護代・長尾為景の末子として生まれます。
19歳で家督を相続すると、混乱していた越後を瞬く間に混乱していた越後を瞬く間に統一。
そんな中、信玄と謙信の運命を変える川中島の戦いが・・・!!

きっかけは・・・
1553年4月春日山城に、北信濃の国衆・村上義清がやってきて・・・
「信玄に我が居城を落とされたので、援軍をお願いしたい。」と言ってきたのです。
当時の信玄・謙信の唯一の緩衝地帯・北信濃は、勢力の小さい国衆・・・村上家・島津家・高梨家・・・が治めていました。
代々上杉との結びつきが強く、反武田としていました。
信玄の侵攻に、上杉を頼ってきたのでした。
義の男・謙信はこれに応じます。
しかし、この時、謙信にも信玄の侵攻を食い止める必要がありました。
越後、春日山を守るために!!
春日山城から川中島までは、直線距離で僅か50km。
北信濃を信玄に取られてしまうと、春日山城も危機に・・・!!
もう一つ互いが争う原因は、善光寺にありました。
善光寺は、川中島の戦いの場となった盆地の中にあって、この寺を支配することが戦のもう一つの目的でした。
善光寺は無宗派なので、一生に一度は善光寺参りと言われるように、全国から人々がやってくる経済の一大拠点だったのです。
善光寺を支配するということは、庶民に対して大きなアピールとなり、また、経済的にも大いに潤うという事なのです。
1553年8月、上杉謙信出陣!!
迎撃するために信玄も出陣!!そこが犀川と千曲川の間にある川中島だったのです。
12年間、5度にわたる戦いが幕を開けました。
この時信玄33歳、信玄24歳でした。

第1次川中島の戦い
両軍は、川中島で小競り合いを演じますが、上杉軍が優勢となると信玄は、塩田城に撤退し、籠城してしまいます。
川中島一帯を支配下におさめた謙信は、ひと月ほどで兵を引き上げていきました。
最初の戦いは、謙信の勝ちのような形となりました。

第1次の戦いで、川中島一帯の支配権を取られてしまった信玄は、侵攻を諦めたわけではありませんでした。
1554年駿河・今川義元、相模・北条氏康と三国同盟を結び、南の安全を万全に確保すると、北に!!
危機を感じた北信濃の国衆・高梨政頼、村上義清が謙信に助けを求めます。

1555年7月、謙信と信玄は、犀川を挟んで対峙することに・・・!!
第2次川中島の戦いです。
しかし、この2度目の戦いも小規模でした。
半年間にらみ合いを続け・・・この朝廷に乗り出したのが、今川義元でした。
義元は、境界を犀川と定め、武田がすでに攻略していた土地を返還するという信玄にとっては不利な条件で和睦させます。
武田軍の補給がこれ以上続かず、戦をすることが出来なくなっていたのです。

1557年、第3次川中島の戦い
信玄がこの講和を破ります。
信玄の動きを知った謙信は、北信濃に出てきます。
川中島で戦いますが・・・この時も、信玄は積極的ではありません。
謙信にけしかけられるも応じず。。。しびれを切らした謙信は、4か月後越後に帰っていきました。

どうして3度対峙するも小規模だったのでしょうか??
それは、戦の発端です。
謙信は、あくまでも助けを求めてきた国衆たちのために出陣!!
「義」の武将と言われるように、領土的野心はありませんでした。
謙信は、越後防衛のため・・・それ以上は戦う必要がなかったのです。

信玄が守りに徹したのは・・・
謙信の兵力があまりにも強い事を知っていたので、出来るだけ損害を出さずに個別に戦っていました。
つまり、謙信の方が、決着を付けたがっていたのです。
信玄はその意図を見抜いていました。
なので、専守防衛、籠城・・・な作戦をとっていました。
つまり、第3時までの戦いが小規模だったのは、武田信玄が積極的に攻めなかったからなのです。

さらに、戦のもう一つの理由だった、善光寺・・・
第3時の戦いの間に、それぞれが、「越後善光寺如来堂」「甲斐善光寺」と移したとし、ある程度の経済的安定を達していました。
激しい戦を繰り広げる必要性がなかったのです。
周辺の村々で受けた人々の被害は甚大で、農地は荒れ果て、農民の1/3が巻き込まれ亡くなったり離散したと言います。

第4次の戦いの直前、川中島西部の6つの村は、戦で家や農地が荒らされては困ると、武田上杉両軍に、村を戦場にしないように願い出ます。
すると村にあった杉に幕が張られ、これが停戦ラインとなり村は守られました。
そして、この幕の向こうで行われたのが、激戦!!第4次川中島の戦いです。
ついに両雄が激突!!


長野県長野市八幡原史跡公園は、最も激戦となった4度目の戦いの舞台となった場所です。
1560年、信玄が上杉軍に備えるために、軍師・山本勘助に命じて川中島の近くに海津城を築城したことでした。
1561年8月14日、北信濃から1万8千の兵が・・・北信濃から武田を追い出すべく春日山城を出陣!!
善光寺に5千の後詰を残し、川中島の妻女山に1万3千の兵が!!
狼煙によってこれを知った信玄は、8月18日に1万7千の兵を出し、甲府を出発!!
29日には3千の兵が籠る海津城へ!!
これまでの戦いに比べ、両軍ともに圧倒的な数です!!
雌雄を決する時が・・・!!

どうして第4次川中島の戦いは大規模なものとなったのでしょうか??
お互いに、相手を戦い潰そうと覚悟を決めての戦いでした。
それは、第3次の戦いの後、お互いの立場が大きく変わったことが関係しています。
武田信玄は、1558年に第13代将軍・足利義輝に信濃守に補任されています。
名実ともに、信濃の支配者となり、信濃の平定は、信玄にとっての大義名分となったのです。
謙信は、1561年に関東管領・上杉家を継いでいます。
この関東管領は、鎌倉公方の補佐役ということで、関東支配を任されたという正当性があり、関東の北条を攻めるためには、北条の同盟国であった武田が邪魔だったのです。

両者に大義名分が出来たので、決着をつける必要があったのです。

1561年第4次川中島の戦い
先手を打つ信玄!!
1561年9月9日深夜・・・
海津城から別動隊1万2千が出発します。
謙信の布陣する妻女山の裏手に回るためです。
信玄自らは、本体8千を率いて八幡原へ!!
夜明けとともに別動隊が、裏から奇襲をかけ、攻めて謙信たちを妻女山から追い落とし、待ち伏せしていた本体と挟み撃ちにしようと考えていました。
啄木鳥戦法で、軍師・山本勘助が授けたと言われています。

しかし、これは謙信に見破られました。
海津城からの夕飯の支度の煙がいつもより多いことに気付いた謙信は、武田軍がその夜に動くことを察知!!
別動隊が来る前に、ひそかに妻女山を降りると、武田本体が向かっていた八幡原に先に布陣!!
作戦が見破られてしまった武田軍は、序盤で劣勢になってしまいました。

もう一つの理由が・・・気象。
9月10日早朝、武田・上杉両軍は、八幡原の至近距離に布陣していました。
戦いがあったこの日、今の暦に直すと10月中旬。
この時期は、盆地である川中島は、特に寒暖差が激しく、さらにこの場所は川が多く流れていて・・・
川中島では秋から冬にかけて、先が10mも見えない濃い霧(蒸気霧)が発生するのです。

決戦前日の放射冷却、9月10日は冷え込みました。
濃い放射霧が起こり、武田軍本体と上杉軍本体は、お互いの距離感がつかめないまま布陣することとなりました。
そして夜が明け霧が晴れると・・・目の前に敵が・・・!!
啄木鳥戦法を見破っていた上杉軍は、敵が近くにいることを想定していましたが、武田軍は、よもや目の前にいるとは思わず、劣勢となります。
上杉軍は、「車がかり」の陣形で襲い掛かります。
その激戦の中・・・信玄の弟・信繁が討ち死にします。
信繁は武田家のNo,2で、軍略・見識共に優れていた、戦国屈指の武将でした。
真田信繁の名は、父・昌幸が、武田信繁のような名将になってほしいと付けたと言われています。
この戦で啄木鳥戦法を提案した山本勘助も、責任を感じ、敵陣に突っ込んで壮絶な最期を遂げます。

戦の中盤・・・有名な信玄と謙信の一騎打ちが・・・!!
謙信は、武田軍の陣中深く白馬を走らせ、信玄の本陣に突撃!!
信玄に真っ向から斬りつけました。
信玄は手にした軍配でこれを受け止めます。
三度振り下ろされた刀によって、信玄の軍配はズタズタになったと言われていますが・・・
信玄の部下の助太刀で、謙信はその場を去り、決着はつかなかった。。。
これは本当にあったのでしょうか・・・??

しかし・・・これが語られたのは江戸時代の事。
「甲陽軍鑑」で書かれています。
伝承はあったようです。が、断定はできていません。
謙信が刀を抜いて戦ったということは間違いありません。
が、相手が信玄だったということはわからないのです。

啄木鳥戦法を見破られているとも知らず、上杉軍の背後に回ろうとしていた別動隊は・・・??
1万2千が妻女山につくも、もぬけの殻・・・
作戦失敗に気付くも、時すでに遅し!!
本体の危機に山を駆け下ります。
そして、別動隊によって挟み撃ちにされてしまった上杉軍。。。
形勢逆転!!
謙信は、即座に撤退し、命からがら引き揚げて行ったのでした。
激闘の4時間!!

武田軍  死者4,600余人   負傷者13,000余人
上杉軍  死者3,400余人   負傷者  6,000余人

こうして日本の合戦史上最大の激戦は、終わりを告げたのでした。

3年後・・・最後の戦い・・・第5次川中島の戦いとなりますが・・・激戦とはなりませんでした。
にらみ合いが60日間続き、撤退します。

川中島の戦いは、12年間で5回にわたって繰り広げられた理由は・・・
謙信が北信濃の国衆を助けるためだったことと、信州善光寺がもたらす利権をめぐってのことでした。
もう一つ目的があったと言われています。
それは・・・戦が行われた季節の秋・・・!!
どうして5回の川中島の戦いは秋に行われたのでしょうか?

信濃国は、武田信玄と上杉謙信の取り合いの場となっていました。
信玄は信濃の土地を自らの領地とし勢力を拡大していきましたが・・・
謙信は領土的野心はありませんでした。もちろん信濃も奪っていません。
領土の取り合いでなければ、二人の目的は・・・??

ルイス・フロイスは、日本の戦についてこう書いています。
「われわれヨーロッパでは、土地や都市や村およびその富を奪い合うために戦う。
 日本では、戦争はほとんどいつも、小麦や大麦、米を奪うために行われる。」と。

日本の戦争は、領土を奪うためではなく食料を奪うためでした。
謙信も例外ではなく、今でこそ米所の新潟は、当時の米は寒い所では育ちにくく、よそから奪う必要がありました。
謙信は生涯を通じて10回以上関東に出兵していますが、食料確保のためだったと言われています。
1566年謙信が小田城を攻め落とした時は・・・謙信の指図で捕虜たちの人身売買が行われていました。
しかし、これは当時の戦国大名が皆やっていたことです。
東日本は激しいもので、武田信玄もやっていたことです。

川中島の戦いが、秋にやっていた・・・収穫期にやっていたのは、収穫期に合わせて農作物を略奪するためだったのです。

5回の戦いの勝者は・・・??
川中島一帯は武田の領土となり、謙信は高梨、島津、村上を本領に返すことはできませんでした。
武田の優位となったのです。
が・・・謙信は、この時、自分を頼ってきた国衆を家臣として組み込むことが出来るようになり・・・謙信も大いに利得があったようです。
川中島の戦いで、お互いをライバルと認め合うようになった信玄と謙信。
しかし、お互いの戦いに時間を費やしている間に、周りはすっかり変わっていました。
信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ・・・
これを契機に、信長が一気に躍進し、天下取りに進んでいきます。

川中島があったために、謙信と信玄は西に向かうことが出来ません。
早期に決着がついていたら、お互いがもっと西に進出していた可能性があります。
12年にわたる川中島の戦いが、信長の勢力拡大につながってしまったのです。

戦国の龍虎と称えられた信玄と謙信。
川中島の戦いが、こんなに長く続かなければ・・・戦国の勢力図が変わっていたかもしれません。




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1577年10月10日、一人の戦国武将が大和国・信貴山城で、爆死を遂げました。
その武将とは、戦国時代の大悪党と呼ばれた松永久秀です。

信長は、家康にこう言って紹介しました。
「この老人は、これまで人のせぬことを3つした。
 将軍の殺害に主君への謀反、奈良の大仏殿を焼いたことだ・・・!!」
信長は恐れ、傍に置いておきたいと考えました。
宣教師・ルイス・フロイスも、天下を掌握していたのは松永久秀だとしています。

松永久秀とはどんな人物だったのでしょうか??

冷酷無比で知られる織田信長・・・しかし、そんな信長が、一目置いていたのが松永久秀です。
久秀は、1510年京都・石清水八幡宮のあたりで生まれたと言われています。
久秀が生まれた室町時代後期・・・権力を持っていた足利将軍家と守護大名の力が弱まり、代わりに実際に領地を治めていた守護代・国衆などが武力と経済力を持ち、政治に影響力を持つようになっていました。
そのため、主君をうらぎる下剋上は当たり前・・・阿波出身の三好長慶もその一人でした。
主君の細川家(晴元)に反旗を翻して中央に進出し、畿内5か国に加え、丹波、讃岐、播磨・・・当時の戦国大名としては最大の規模を誇っていました。
久秀は、この三好長慶の右筆として仕えていました。
やがて才能を買われて武将として取り立てられると、外様でありながら三好家の親族と同じぐらいに出世していきます。
そんな中、久秀が主君を裏切ったという噂が・・・!!
当時、三好政権は、長慶の4人の弟たち(野口冬長・十河一存・安宅冬康・三好実休)によって支えられていました。
中でも、安宅冬康は重要な地位にいたのですが、長慶は冬康は城に呼び出すと謀反の疑いで自害させたのです。
この時、冬康の謀反を吹き込んだのが、松永久秀と言われています。
この前年、三好家の嫡男・義興が22歳の若さで病死していますが・・・これも、松永久秀が毒殺したともいわれています。
三好家を滅亡へと追い込み、下剋上を考えているのだと・・・??
事実、三好長慶が存命中はそむいたりしたことはなさそうですが、ルイス・フロイスは、「天下の再興統治権を掌握していたのは、松永霜台(久秀)であった。」と書き記しています。
当時、室町幕府より力のあったと言われている三好長慶よりも、久秀は力を持っていた・・・??
それは、久秀が置かれていた異様な立場に関係しています。
久秀は50歳で、室町幕府のお供衆に就任します。
お供衆は、将軍に付き従い、外出のお供や給仕を務める役職です。
つまり、三好家の家臣でありながら、幕府の仕事もこなしていたのです。
そのため、幕府の儀式の際には役人として参加し、主君・三好長慶よりも上座に座ることがあったので、主君への裏切りは久秀の立場が招いた周囲の誤解だったと噂されてしまいました。

将軍殺害・・・??
1565年、二条室町の将軍の御所を、突如1万2000の三好の兵が取り囲みました。
御所内には、13代将軍足利義輝が・・・!!
必死の抵抗を試みますが・・・義輝はついに殺されてしまいました。
この時、義輝の子を身ごもっていた侍女や、義輝の弟をはじめ200人近くが無残に殺されました。
あまりにも凄惨なこの事件・・・裏で糸を引いていたのは久秀・・・??

権力の回復を望んでいた義輝は、実質的権力者の三好に大きな不満を抱いていました。
そんな中、1564年三好長慶死去、これを好機と義輝は幕府の権力を復活させようとします。
が・・・長慶の死後も幕政を支配しようとした三好家の家臣たちは、義輝を殺害してしまったのです。
襲撃の際にの軍勢に、久秀の嫡男・久通がいましたが、本人は大和国にいて、襲撃には加わっていません。
その興福寺には、将軍の弟・義昭がいました。
兄が殺されたことで、自分の身を心配した義昭は・・・久秀から「義昭殿の命をとるつもりはない」と、書状を受け取っています。
そんな助けていた久秀が、本当に黒幕だったんでしょうか??
確実な資料はありませんが、情報は知っていたようで・・・それを止めた形跡はありません。
黙認だったようです。

義輝暗殺後、三好家は意のままに操れる義栄を14代将軍とします。
一方久秀も、興福寺の勢力を破り、大和国の一部を支配、信貴山城・多門山城を地盤を固めます。
しかし、三好政権の長慶が亡くなってから・・・三好家(三好長逸・三好政康・岩成友通)との間に争いが・・・!!
1566年、14代将軍義栄が久秀討伐令を出させます。
久秀も反撃を開始!!三好三人衆の高屋城を攻めますが、堺への撤退を余儀なくされました。
そして、三人衆側の1万5000の兵に包囲されてしまうのです。

戦国時代堺は貿易港として経済的に発展し、会合衆という商人たちによって自主的に運営されていました。
会合衆たちと親交のあった久秀、臙脂屋と能登谷に和睦の仲裁を依頼します。
武士の支配の入らないところで、交渉をしてもらったのです。
久秀が戦に負けたことを正式に公表することを条件に、戦は終わりました。三人衆は兵を引き上げます。
しかし、久秀は反撃に出ました。

1567年10月10日、奈良大仏殿が・・・火に包まれ、安置されていた大仏も火に包まれ、甚大な被害が・・・!!
出火の原因は松永久秀だったのでしょうか??
堺の戦いの翌年、三好三人衆に追いつめられた久秀に好機が訪れます。
それは、三好家の正式な後継者となった義継から・・・
三人衆によって冷遇されてきた義継が久秀に保護を求めてきたのです。
大義名分を手に入れた久秀・・・三好三人衆は、大和国で久秀と領地争いをしていた筒井順慶と手を組み、久秀の本拠地である多門山城の攻略に取り掛かります。
この時、本陣として選んだのが東大寺でした。
敵の進軍を知った久秀は、城を出て東大寺戒壇院跡地に陣を置きます。
両軍は6か月にわたり戦いを繰り広げますが、数に劣る久秀は、追い込まれていきます。
そこで、本陣に奇襲を・・・!!
敵の本陣に夜襲をかけたのです。
すると、放たれ火が大仏殿に・・・??
この火災について・・・猛火天に満ち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった・・・と、書かれています。
巨大な大仏殿を一瞬で焼き尽くした猛火・・・
当時の大仏殿は、現在の大仏殿よりも幅約86m長いものでした。
また、この戦で大仏の下のほうが被害が少なかったということが分かります。
つまり、下から炎上したのではなく、天井に炎が・・・柱などの構造物は炎上しなかったと思われています。
東大寺の記録には、「西の回廊に火が懸かる 火を消すと雖も西風頻りに吹き・・・」とあります。
このことから強風にあおられ西の回廊から大仏殿に燃え移ったと思われます。
真っ先に火が着いたのは、組物の部分では??
毎秒1~2メートルで!!
屋根の内側から大仏殿を炎で包んだと思われます。

出火元と原因は・・・??
勧進所(穀屋・穀物倉庫)から出たといわれています。
穀屋で発生した兵火が、法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼し、丑刻には大仏殿が焼失した!!
と、書かれています。
穀屋は、両陣営の中間地点に当たり、最も激しい戦闘がされていました。
つまり、火災の原因はどちらか・・・??特定することはできません。
が、どうして松永久秀がやったということになるのでしょうか??
地元の人間ではなく、外部から入ってきた人間だったので、嫌われていたという側面があります。
旧勢力側からすると歓迎されない人物だったのです。
歴史の展開の中で、悪く言われてしまうことになります。

三好三人衆は撤退し、この戦いには勝利した久秀、しかし、三人衆の攻撃は止まらず信貴山城は陥落!!
これによって窮地に追い込まれた久秀!!
織田信長に目をつけます。
桶狭間で今川義元を破った信長が、勢力を拡大!!
そして、天下取りのために京に上ると、足利義昭を将軍にしようと画策します。
これに反発した三好三人衆は・・・信長に敗れ阿波に・・・!!
こうして、義昭が15代将軍となり、それを庇護する信長が幕府の実権を握ると・・・久秀が動き出しました。
信長に取り入るために・・・
信長が茶の湯に傾倒していることを利用!!
なんと、久秀は名の通った茶人だったのです。
三代将軍義満が持っていたという茶入「つくも茄子」を一千貫(1億5000万円)で手に入れ、信長に譲ることで機嫌を取り取り入ることに成功します。
これによって久秀は2万の援軍を得て、筒井順慶を追い出し、大和国を平定することに成功します。
しかし、ここに想定外の事態が・・・!!
義昭と信長の関係が悪化!!
義昭は武田信玄などと接触し、信長包囲網を展開!!
これを見た久秀は、信長をあっさり裏切り、将軍に着きます。
将軍側の包囲網には信長でもかなうはずはない!!
しかし、久秀の読みは外れ・・・武田信玄が病死!!
さらに義昭も信長に敗北・・・室町幕府が滅亡してしまいました。

信長に反旗を翻した久秀軍も、多門山城を包囲され・・・降伏を与儀なくされます。
自分を裏切った者に容赦しない信長ですが、この時は大和国の支配権を奪っただけで、命まではとりませんでした。
どうして・・・??

久秀が、堺の商人と密接な関係があるという事、鉄砲の生産地、海外との交易・・・その軍事力、経済力を手に入れようとしたときに、久秀を利用しようとしたのです。
笹井を支配するために・・・!!
そして、久秀の築城術も手に入れようとしていました。
見事に作られた多門山城・・・のちの天守閣を思わせる四層の楼閣・・・豪華な壁画・・・壮麗な御殿・・・。
多門櫓は久秀の考案とされています。
信長が築いた安土城は、この久秀の多門山城を参考にしたともいわれています。

合戦の城から見せるための城へ・・・!!
それは信長からではなく、久秀からだったのです。
戦乱の世、城は重要な砦!!
人々がひれ伏する城を手に入れようとした信長なのです。
しかし、久秀はまたもや信長に逆らいます。

天下統一の信長の前に立ちはだかったのは・・・本願寺11代宗主・顕如。
1570年石山本願寺に籠城!!
以後、信長と10年にわたり石山合戦が始まります。
1577年、久秀は、信長軍の一翼となって石山本願寺を包囲していましたが、突如陣地を離れ、信貴山城に立てこもってしまいました。
またもや信長を裏切った久秀ですが・・・
一つは越後の上杉謙信!!
謙信が上洛の動きを見せていることに気付いた久秀は、本願寺派と組めば信長を討てると考えたからです。
そして、もう一つは、信長によって奪われていた大和国の支配権でした。

久秀の二度目の裏切りに激怒した信長は、明智光秀、筒井順慶らに信貴山城の包囲をさせます。
しかし、説得をも試みる信長・・・!!
久秀の持つ茶道具の名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば、命を助けるというものでしたが・・・
「わしの首と、この平蜘蛛の釜だけは信長には見せはせん!!」
拒絶した久秀!!
10月5日、織田軍4万の総攻撃が始まりました。
これに対する久秀の軍勢は8000余り・・・。
抵抗を試みるも追い詰められていきます。
久秀は、家臣・森好久に命じ、石山本願寺に援軍を要請!!
城を出た森は、鉄砲衆200人を引き連れて戻ってきました。
10月10日、織田軍の総攻撃が再び始まりました。
押し返す久秀軍!!
突如天守に近い三の丸から火の手が上がりました。
火をつけたのは、森好久が連れてきた鉄砲衆・・・実は彼らは敵の兵士たちでした。
森は本願寺に行くと見せかけて、敵の筒井順慶の陣地に・・・!!
そこで鉄砲衆200人を信貴山城に招き入れていたのです。

鉄砲衆の反乱により大混乱!!
久秀軍は後がない・・・!!
久秀は天守閣に火を放ち・・・信長が熱望した平蜘蛛の茶釜に鉄砲の火薬を入れて・・・爆破!!
城とともに焼け死んだといわれています。
68歳の生涯でした。

その茶釜は願い通り信長に渡ることはありませんでしたが・・・
久秀の首は安土へ・・・
体は久秀のライバル・筒井順慶によって信貴山城近くの達磨寺に葬られたといわれています。


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