日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:近江八幡

滋賀県近江八幡市は・・・近江商人発祥の地。
水郷と古き商家が立ち並ぶ・・・日本経済を築いた近江商人の城下町。
琵琶湖の東岸に位置し、江戸時代全国各地で商売を行った近江商人の城下町です。
商人たちの生活が垣間見ることが出来ます。

八幡山山頂にある近江八幡城。
今ではロープウェーで行きますが、標高285mの八幡山の頂に建てられたお城です。
現在天守は存在しておらず、石垣をみることが出来ます。

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この城を作ったのは、豊臣秀次・・・幻の天下人です。

秀次は、秀吉の甥で・・・
秀吉は、ゆくゆくは跡取りとして養子にしていました。
後継者として帝王学を学んでいきます。
18歳で近江の国の城主となり、24歳で関白宣下され・・・天下人となったはずでした。

秀吉の後継者として秀次しかいない!!と、誰もが思っていたのに・・・
秀頼が生まれてしまいました。
秀次は、関白を剥奪され、追放され・・・高野山へ幽閉されてしまうのでした。
切腹を命じられ・・・享年28歳でした。

しかも、一族は、女性から子供まで・・・すべて処刑され・・・
居城であった八幡山城まで廃城とされてしまうのでした。
秀吉は・・・秀次の存在をすべて消し去ろうとしたのです。

戦国の世にあまりにも理不尽に命を奪われた秀次・・・
しかし、秀次は、ここ近江の地に、偉大な業績を残していました。

秀次が近江八幡城をつくるときに最も大事にしたのが・・・経済の発展でした。

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そこで、琵琶湖から商業船を入れるために、八幡掘を築きます。


琵琶湖から繋がって・・・琵琶湖に帰ることが出来る水路を作ったのです。


この八幡掘が、近江商人発展の基礎となるのです。




どうしてここから近江商人が発展していったのか???
それは、織田信長・豊臣秀次が亡くなったことが発展の理由です。
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信長は、安土で楽市楽座を行っていました。
当時、商人が商売をするためには、領主に税金を払い・・・
商売をするための組合”座”に入らなければいけませんでした。
そして、”市”という商売専用の場所で商売しなければならなかったのです。
一部の豪商だけが儲かる制度でした。
そこで・・・誰もが商売で利益が出るように・・・座と市の制度を撤廃したのが信長だったのです。
座と市に縛られずに自由に商売が出来るということなのです。

ところが・・・信長が死に・・・安土の町は・・・???
安土商人や民衆を引っ越させ・・・招き・・・楽市楽座をやったのが秀次だったのです。
城下町の経済が発展していきますが・・・城下町が出来て10年余りで秀次は自害。。。
城主がいなくなっても自分達で盛り上げていこう!!
と、商人たちが自立し始めるのです。
力を身に着けるために・・・他国へ出ていき大きな商売をする!!
天秤棒を担いで諸国を渡り歩くようになったのでした。
全国へ名をはせる近江商人の誕生でした。

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赤コンニャク・・・
どうしてコンニャクが赤いの???
それには、織田信長が関わっているようです。
安土城下町で”左義長まつり”があり・・・そこではすべてが赤く・・・赤づくし!!

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その赤い短冊を見て、「コンニャクも赤にしろ!!」と言ったとか。。。

安土からやってきた赤コンニャクが近江八幡に根付いたのです。

冠婚葬祭にも赤コンニャクは欠かせません。
赤コン君もいます。



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新町通りは、近江商人の店が立ち並び、国の重要伝統的建造物保存地域となっています。

一番古いのは・・・300年以上経つ旧西川家住宅です。
当時、大坂や京・江戸に店舗を持ち、蚊帳や畳表等の商売で財を成しました。
その西川家には、商売に繋がる様々なアイデアが隠されています。

現代のビジネスシステム・・・本店を近江に構え支店を全国に作るというシステムを作り上げた近江商人。
本拠地の商家は、幼い丁稚を立派な商売人にさせるエリートビジネス養成所でした。
商人の屋敷に住み込みで働きながら、礼儀作法から商売の基本まで、徹底的に教え込まれました。

親元を離れ、単身歯を食いしばりながら立派な商人になっていく若者たち。
近江商人は・・・
「先義後利栄」=義理が先、利益を後に考えれば自然に栄える
「好富施其徳」=富は好し、しかし其の徳を施しなさい
という考え方でした。

それが、莫大な富を生むことになるのです。

現代に通じる日本経済の屋台骨を作り上げた近江商人。
そんな彼らをはぐくんだ近江八幡には・・・損得勘定抜きで温かく迎えてくれる人たちが待っています。

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今回のTHEナンバー2は、豊臣秀次です。

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秀吉によって後継者とされながら、死へと追いやられた人物です。

京都・三条河原に立つ瑞泉寺に、関白になりながら汚名を着せられて切腹した男、豊臣秀次が眠っています。

豊臣方の書物には、悪逆非道な摂政じゃなくて、殺生関白として書かれています。

その首塚も、「悪逆塚」とされていました。

武功夜話によると、
「殺生関白として汚名、天下に、後の世に伝う」とあります。
後世では、殺生関白で、女好きとされている秀次、これは、秀吉の腹心があげつらったものです。

しかし、近年の研究によって、それは捏造であることが解りました。追い落とした秀吉が、大げさに書かせた悪人像だったのです。

かつて治めた、滋賀県近江八幡市では、町おこしの英雄とされ、地元有志によって結成された「秀次倶楽部」なるものがあり、愛されています。


秀次は、No,2になるべくして生まれてきました。
生まれたのは、1578年、秀吉の姉「とも」と、「やすけ」の子でした。この年、信長は上洛し、秀吉は京都奉行に抜擢された年でした。

この秀次、子供のいなかった秀吉が政略の道具として使います。

2歳の時に、浅井家の重心・宮部継潤を寝返らせるために養子に・・・2回目は阿波に勢力を誇っていた三好康長に・・・。将棋の駒のように生きてきました。

自らの存在を主張したのが16歳の時。
1584年小牧・長久手の戦いでした。池田恒興が三河への奇襲攻撃を提案します。乗り気でない秀吉に、

「それがしが、大将として参ります。奇襲の件、是非ともお許しくださりませ。」と願い出ます。

が、これが失敗し、裏目に。。。見るも無残な大敗北でした。
この結果、秀吉は家康と講和せざるを得なくなります。

秀吉が、秀次に宛てた手紙には・・・。
「秀吉の甥であることを鼻にかけ、傲慢な振る舞いが目立つ。ただ今のように、無分別で、うつけであるならば、人に恥であるからお前を斬らなければならない。」

と、書かれています。
少ない身内なので、他人の目もあることだし、叱責することで、やる気を引き出させたかった、愛情の裏返しでした。

後のない秀次、
1585年根来・雑賀衆攻略。
    四国・長宗我部氏攻略。
豊臣家の勝利に大きく貢献します。

これを機に、秀吉は関白に就任、天下取りに大手をかけます。
本当は、将軍になりたかった秀吉、しかし、将軍になれるのは源平藤橘の四氏のみ・・・。
そこで、秀吉は、近衛前久の猶子となって、関白に就任したのでした。この関白とは、天皇に次ぐ地位で、摂関家の一員となったのです。

当時の公家は貧乏で、沢山の賄賂を使って養子にしてもらったのです。


秀次は、武勲を認められ、近江八幡市 43万石の八幡山城主となります。18歳の時でした。

この近江八幡で才能が開花、政治家としての手腕が発揮されることになります。

安土のような商業都市として発展するように・・・。
綿密な都市計画を立てます。
町を碁盤の目のようにします。これは、豪胆な平和宣言です。というのも、戦国時代は城までの道は、攻めにくいようにカギ状になっていたり、蛇行していたりしていたからです。

人々を職業別に住まわせ、安土の商人を積極的に誘致します。

琵琶湖と小海八幡を繋ぐ運河、八幡掘を開発。琵琶湖を通る商業船は、必ず近江八幡を通るように条例を作りました。これは、信長の影響が強く、楽市楽座や、平和になった時の城下町作りと言えるでしょう。
これが、近江商人の発展を促します。

背割水路を作り、人々の上水道・下水道として活用。これは、当時としては例がなく、画期的なことでした。
近隣の村人の水争いを調停
町人の納税を免除
労働奉仕の義務を廃止

など、町人の働きやすい、暮らしやすい町として発展しました。

1589年北条・小田原攻めに参加、敵の前線を叩きます。
秀吉の天下統一の実現でした。

1591年秀吉長男鶴松が2歳で病死。
秀吉は、秀次を養子として跡取りにします。この時は、本気で後継者として指名したのです。

秀吉は55歳で大公となり、秀次は24歳で関白となりました。
しかし、実際は、秀吉の傀儡政権・・・。

この、正式な後継者に任命されたことが、秀次の人生を一変させるのです。
小田原攻めで弟・秀長を失った秀吉、後継者の秀次は、世間的にも遜色ないほどに育っていました。

若くして関白となってしまった秀次。秀吉から聚楽第と黄金1万両を引き継ぎます。
古典文学や芸能に精通していた秀次は、朝廷との関係を円滑化、連歌の会や茶会を開きます。
後陽成天皇には、六国史を献上して、朝廷との関係が深まります。

それは、武官ではない文官としての天性の素質でした。
他にも、五山文学の復活、勉強をする僧侶への援助など、本来の関白として文化人や教養人を重視します。

が、秀吉にとっては・・・。朝廷とつるまれるのは困る・・・。と、だんだんと距離が開いていきます。

1592年朝鮮・明国の侵略に乗り出す秀吉。秀次は、そのことに批判的だったが、表には出しませんでした。

1593年秀頼が誕生。
秀吉は、秀次を関白に任命したことを後悔します。「自分の血を分けた子に・・・。」

はじめは秀次をたてて、秀頼と秀次の娘との婚約話を持ってきました。次は、日本の4/5は秀次が、残りの1を秀頼が治めるという提案をし、懐柔しようとします。

もちろん、「ノー」はないと思っていました。
が、秀次は態度を保留。「関白の任命権は天皇=秀吉では取り上げられない」

苛立つ秀吉。

しかし、思いもよらない事態が起こります。

1595年7月3日  石田三成が秀次の元を訪ねます。
「御謀反の子細御せんたくしたき・・・」
秀次は、身の潔白を訴えるも晴らせず・・・。
これは、関白から引きずりおろす口実だったとされていますが、三成が本気で疑っていた可能性もあります。

それは、秀次は、朝鮮出兵で財政難となっていた毛利輝元・細川忠興の借金の願いを受けたので、聚楽第の金蔵から諸侯に金を貸し付けていました。これが、秀吉の猜疑心に火を付けたのです。
「何か、企んでいるのでは?」

当時の秀吉は、猜疑心の塊でした。それは、朝鮮出兵には反対する武将もたくさんいたのです。その急先鋒が、徳川家康。家康は、北条を抑えるという大義名分のもと、一人も兵を出していません。そして、この武将たちも、平和志向の人が増えてきていたのです。


7月8日釈明させるため、伏見城に呼び出すも、会わずに石田三成から「豊臣家からの追放」を伝えられます。領地、聚楽第、官位の剥奪・・・。

高野山に出家させるも、
7月15日切腹を命じます。
高野山の僧侶は怒り、抗議を検討します。当時は、仏門に入ることで俗世から切り離されます。仏門に入った限りは、切腹を命じられることなどなかったのです。

しかし秀次は、切腹を受け入れました。自分の身の潔白のために。

「月花を 心のままに 見つくしぬ
       何か浮世に  思い残さむ」

切腹は、武士の名誉の死、切腹をすると家族の命は守られるというのが通例でした。
しかし、正室、側室、5人の子供を含む39人が三条河原で処刑されました。
血筋はすべて断つ!!

ここまで、10日、秀次を陥れるための先頭は三成でしたが。。。必要以上に追いやります。

巷では、秀頼は、大野治長の子とか、三成の子とか・・・。
あれよあれよと秀次は切腹へ、とことん残虐に、陰惨に、根絶やしにされてしまいました。

秀吉の異常な憎しみを感じさせる蛮行です。これで、秀吉の血を引くのは秀頼のみとなりました。秀頼かわいさのあまり、血筋を弱めてしまいました。

秀次を殺してしまった時点で、豊臣家滅亡のシナリオは始まっていたのです。


もしかすると、秀次が尊敬していたのは秀吉ではなく、信長ではなかったでしょうか?

平和な都市づくり、日本国の経営、安土城には楽市楽座、学校、セミナリオ、病院が整っていました。
日本国民のための日本国。

もし、秀次が生きていたら、関ヶ原はなかったのかもしれません。

勝者の歴史によって、秀次は数々の汚名を着せられ、貶められます。

しかし、
1611年豪商・角倉了以が、一族を弔うために瑞泉寺を建立。秀次の母日秀が弔いのために瑞龍時を創建、現在は近江八幡に移築されています。

秀吉は、次世代のNo,1を自らの手で葬ってしまったのかもしれません。

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