日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:近藤勇

大河ドラマ 新選組! 完全版 全2巻セット DVD

価格:38,880円
(2018/12/22 22:25時点)
感想(2件)



新選組局長・近藤勇。
幕末の京・・・藩幕府勢力に立ち向かった最強の剣客集団・新選組。
局長・近藤勇の掲げるな誠の旗のもと、命をかける若者!!
その実態は、様々な人間の集団でした。
農民、商人、武士でもなれた隊士・・・年齢、出身、思想もバラバラでした。
近藤は、そんな隊士たちを最強組織にするために、改革を行います。
大砲や銃の最新兵器、先頭を最大限高めるために厳しい掟、西洋医学を取り入れた医療改革、
しかし、近藤には、厳しく冷酷な一面もありました。
近藤の掲げる若い理想についていけない若者たちは粛清されていきます。
やがて時代の激流に飲まれ、新選組は内部分裂!!
親しい仲間も去っていきます。
それでも、近藤は自分の信念を貫き通します。
どうして・・・??

義を取り 生を捨つるは 吾が尊ぶ所 
只まさに一死をもって 君恩に報いん

1864年6月5日、幕末の日本を揺るがす大事件が起こります。
京の町の警備をしていた新選組が死闘を演じた池田屋事件です。
新選組は長州藩の過激な面々が放火計画を立てていると情報を掴み、池田屋に急行!!
この時、突入できるものは僅か4人・・・
新選組局長・近藤勇、沖田総司、藤堂平助、永倉新八でした。
この池田屋には、多くの敵が潜んでいるかもしれない・・・
しかし、たった4人で突入!!どうして??

当時、京では過激な志士たちが天誅として要人を暗殺するなど治安が乱れていました。
今日の治安を預かる会津藩は、近藤ら新選組を配下に置いて、市中見回りをさせていました。
しかし、新選組に対し、人々の目は冷ややかでした。
それは、新選組は臨時雇いの新参者だったからです。
身なりも貧しく粗暴な姿は、壬生浪と呼ばれ、蔑まれていました。
そして会津藩藩士の中にもバカにするものもいました。
しかし、近藤は幕府や日本のために、新選組が重要な役目を果たせるという自負を持っていました。

「我々は市中見回りのために募集されたのではない」

自分達を認めさせるには、大きな功績をあげるほかはない・・・
屈辱に耐えながら、近藤はチャンスを狙っていました。
そんな近藤たちのもとへ思わぬ情報が・・・。
それは、長州藩の浪士たちが御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致しようとしているというものでした。
しかも、2日後には祇園祭で多くの人が集まる・・・
計画が実行されれば、被害は計り知れない・・・!!
近藤は、会津藩に報告し、応援を要請!!
午後7時、近藤たちは応援を待たずに出発!!
浪士が潜んでいる可能性がある場所は・・・鴨川を挟んで東と西にありました。
そこで、新選組を二つに分けて、自分たちは西側、副長・土方歳三には東側を捜索させます。
午後10時・・・近藤は、浪士が集まっているという池田屋に到着・・・
しかし、この時、まだ会津の応援部隊は到着していませんでした。

相手は大人数・・・突入すれば4人全滅するかもしれない・・・
しかし、応援を待っていれば手柄は無くなるかも・・・。
千載一遇のチャンス??身の安全を優先??
近藤の決断は、
「御用改めである!!」
20人以上の浪士が待ち受ける中、近藤はたった4人で斬り込みました。
剣の腕では勝っても、数に劣る近藤たちは次第に追いつめられていきます。
そして・・・病をおしての沖田が血を吐きます。
藤堂も額に一撃を受けて流血!!
二人が戦闘不能に・・・
近藤、もはやこれまでか・・・??
その時、近藤を救ったのは、副長・土方歳三の刃でした。
土方たちの応援で形勢は逆転、新選組は長州などの7人を討ち取り、23人を捕縛しました。
会津藩が池田屋に到着したのは、終わった後だったといいます。
近藤たち新選組の活躍は、朝廷にも認められ感謝状が贈られます。
新選組の名を天下に知らしめた近藤勇、この時29歳でした。

1834年、多摩の農家の三男に生まれた近藤勇。
28歳の若さで京の都で新選組局長となります。
どうして、農民の子が新選組の局長になれたのでしょうか?

わんぱくだった近藤はガキ大将でした。
しかし、年下の子は虐めることはなく・・・
近藤が生まれた武州・多摩郡は江戸の西側で守るため幕府の直轄地・天領が多くありました。
甲州街道が東西に走り、人々や物資、情報が行き交い、裕福な農民が多い土地でもありました。
しかし、裕福なことが災いし、強盗が多発!!
そのため、刀を持たない農民でも剣術を習うものがたくさんいました。
1848年14歳の時に、近藤も天然理心流・試衛館に入門します。
めきめきと頭角を現します。
そんな近藤の人生を変える運命が・・・強盗が家の中に・・・!!
すぐさま刀をとって斬りかかろうとする兄に近藤は、
「強盗は今は気が立っているが帰り際には心に隙ができる
 その時を待ちましょう」
そして強盗が引き上げようとした瞬間・・・強盗は突然の大声に驚き、盗んだものを投げ捨てて一目散に逃げだしました。
すぐに追いかけようとする兄を引き留める近藤。
「窮鼠猫を噛むといいますから、追うのはやめましょう」
勇は終始冷静で、無傷で強盗を追い出したといいます。
近藤の豪胆さは瞬く間に評判となり、道場主は養子に迎え、後に道場を継ぐことになります。
こうして近藤は農民から一道場主へとなります。

1860年25歳・・・近藤はツネと結婚。
良妻賢母な女性で、道場に来る若いものもよく見たといいます。
そして道場には、後の新選組を担う若者が・・・
土方歳三、永倉新八、沖田総司・・・彼らは近藤に惹かれ、住み込みで練習します。
道場に入門する人間は、農民、脱藩浪士様々で、稽古の後には近藤を中心に議論に熱中します。

幕末、ペリーが黒船で来航し、開国を迫ります。
この事件は国論を二分します。
開国か??攘夷か・・・??
近藤の理想は、幕府が朝廷と協力して攘夷を行うことでした。

”草莽の野人 国事に周旋”

農民の近藤は、名もなき人であるけれども、国のために一生懸命頑張りたいという思いを持っていました。

1863年28歳・・・チャンスが訪れます。
幕府が腕のたつ浪士を募集します。
任務は、京へ向かう14代将軍徳川家茂の警護でした。
将軍が天皇から攘夷の命令を直に受けるためでした。
朝廷では、外国を打ち払わない幕府に対して不満がたかまっていました。
さらに、過激な長州の浪士たちが暗殺や放火を行い、暴力で政治を動かそうとしていたのです。
将軍のために京へ行く・・・将軍を守るという責任のある任務・・・
身分、出身、家柄を問わないという。。。
近藤たちにとってまたとない機会でした。

”天皇と将軍を守り 奸賊を斬る
 朝廷と幕府、その両方のために自分は戦うのだ”

近藤は、妻や道場を仲間に任せ浪士組に参加し、土方らと共に京に向かいます。
多摩の人たちの期待を背負って・・・!!
しかし、到着した夜、思わぬ事態が待っていました。浪士隊の取りまとめ役が近藤たちを集めて言いました。

「浪士組は幕府に従う義理はない
 天皇のために働き、逆らうものには容赦はしない」

幕府ではなく、朝廷の為だけに働くと言い出したのです。
寝耳に水の発言でした。
近藤は選択を迫られます。
浪士組に留まるのか??信念を貫くのか・・・??

”天皇の為だけではない、我々は将軍のために働きに来たのだ”

234人の浪士組から、近藤たちは脱退し、壬生浪士組を結成しました。
24人でしたが、あくまで信念を貫いたのです。
壬生浪士組は、ほどなく新選組となる・・・。
近藤が局長となったのは28歳の時でした。

近藤たちは壬生・八木邸で寝食を共にしながら、京都の治安を守る活動を始めました。
翌年、池田屋事件で名をあげる近藤たち。
入隊希望者が増え、200人近くに膨れ上がります。
古臭いイメージが新選組には付きまといますが、新しい面が多く・・・
西洋医学をいち早く取り入れたり、西洋の知識をどんどん吸収していました。
新しいシステム・論理を持つ集団になって・・・そのベンチャー企業の若き社長が近藤でした。

近藤は、新選組を最強集団にしていくために、合理的な組織改革を行います。
隊士の健康管理
人数が増えたため、新選組の宿舎はすし詰め状態・・・夏は暑さと不衛生な状態で・・・けが人や病人の数は全体の1/3もありました。
このままでは市中見回りに支障が出る・・・と、ある人物を訪ねます。松本良順です。
最先端の西洋医学を身につけた医者でした。
江戸にいた良順を招き・・・
衛生面の改善・・・浴室を作り隊士を清潔に
           病室を作る
台所の改革・・・・・残飯で不衛生だったので、残飯はブタや鶏に食べさせて綺麗に
           豚や鶏も食べさせます
これらは、近藤の主導のもと即実行されました。
おかげで70人以上の病人がすぐに回復。
こうした改革を行いながら、近藤たちは再び大きな手柄を立てます。

1864年禁門の変
池田屋事件以降、京を追いやられた長州藩士が、勢力挽回を狙って武力で御所に突入しようとします。
御所を守る会津藩と共に、新選組も斬り込む・・・??と思いきや、近藤が主力としたのは鉄砲でした。
軍備面でも改革を行っていた近藤です。
新選組は西洋式の軍備を取り入れて日々訓練をしていました。
新選組を強くするためなら、どん欲に、スピーディーに取り組む近藤です。

鳥羽伏見戦いの前までの新選組隊士の死者数は46人・・・
その中で敵に殺されたか病死の者は僅か6人でした。
残りの40人は、粛清や切腹で命を落としていました。
これは、近藤が隊士たちに厳しい規律を守らせた結果でした。
それは・・・局中法度!!
副長・土方歳三と作ったと言われています。

一、士道に背きまじきこと
一、局を脱することを許さず
一、勝手に金策致すべからず
一、勝手に訴訟取り扱うべからず

これが守られない場合は、例外なく切腹!!従わない場合は粛清されました。
更に近藤は、市中見回りの際にも死を恐れずに戦うために、死番を作ります。
4人一組で見回りをし、敵と遭遇した場合最も危険な先頭を、日替わりで担当するというものです。
死番に当たった隊士は、見回り中、ずっと死の覚悟を持たばなければならない・・・
さらに新選組内で切腹が行われる際には、あえて新人隊士に介錯をさせました。
人を斬ることに慣れさせるためです。
隊士たちは、本来の武士ではないものも多く、近藤も武家の出身ではありませんでした。
”真の武士でありたい”という近藤の思いが、隊を強固なものにして行ったと考えられます。
当時の会津藩手紙に近藤の評価が残っています。

”50人を超える烏合の衆は、近藤一人の力でまとまっている”と。

カリスマ・近藤勇のトップダウンで最強組織となった新選組・・・。
しかし、近藤は傲慢な態度をとるようになり、新選組は内部分裂を起こしていきます。
発端は、参謀役の伊東甲子太郎との確執です。
伊東は幕府の権威が失墜していくのを見て、幕府の代わりに天皇中心の政治体制になることを強めます。
幕府を第一に考える近藤たちとは行動を共にできない・・・
そう考えた伊東は新選組を脱退!!
近藤についていけない隊士も、次々と脱退を申し出ます。
しかし、近藤は逆らうことを許さず、伊東を暗殺・・・他の隊士たちも切腹などして殺してしまいます。
そんな頃、幕府から新選組の隊士すべてが幕臣に取り立てられます。
多摩の農家に生まれた近藤にとって、幕府の直参となるのは光栄なことでした。
遂に、誰もが認める立派な武士になった・・・この時32歳でした。
しかし、近藤の志とは反対に、時代は大きく動いていきます。

1867年10月、大政奉還!!
徳川慶喜は将軍を朝廷に返上し、徳川幕府が終わりを告げます。
幕臣となってからわずか4か月・・・近藤が命をかけて守ってきた幕府は、もはや無くなったのです。
1868年1月鳥羽・伏見の戦い。
新選組は旧幕府軍として薩長の新政府軍と戦うも、負けを重ねます。
さらに新政府軍に錦の御旗があがり・・・新選組は朝敵の汚名を・・・!!
徳川慶喜は江戸に帰還し、新政府に恭順の意を示します。
しかし、近藤は徹底抗戦を唱え、出陣します。
目指すは甲府城!!
西から甲州街道を東に進んでくる新政府軍を食い止めようとしたのです。
近藤は、隊士の前で言います。

「戦いに勝てば、俺は10万石の大名。
 皆にもそれぞれの地位を与え、甲府城へ慶喜公をお招きしたい。」

近藤は、およそ170人の部隊を率いて甲府城を目指します。
しかし、途中で新政府軍が一足先に甲府に入ったと連絡が・・・その数1200人!!
圧倒的な勢力差に不安がる隊士たち。。。
近藤は、
「遅くとも、明朝に援軍が間に合う筈であり、共に戦う!!」

援軍が来るというのは苦し紛れの嘘で、隊士たちの士気を高めるものでした。
1868年3月、甲州勝沼の戦いで、新政府軍を前に大敗。
永倉らは会津での戦いを進言します。
しかし、近藤は新選組の方針を無断で決めたことに腹を立てこう言います。

「私の家臣となって働くのなら、同意しよう」

同志だと思って行動と一緒にやってきたのに、家臣として扱われることに激怒!!
近藤のもとから去っていきました。
近藤は、副長・土方歳三と再起をかけます。

江戸に戻って200人近くを募集し、千葉・流山に布陣!!
しかし、丁度隊士たちが訓練で出払っていた時・・・近藤たちは新政府軍に包囲されてしまいました。
もはや最期か??
武士らしく切腹しようとする近藤・・・

「ここで切腹するのは犬死に!!
 運を天に任せて出頭し、説き伏せるのが得策だ!!」by土方歳三

土方の強い説得で、大久保大和で投降。
正体を隠してその場を切り抜けようとします。
しかし・・・見破られてしまい・・・
味方であるはずの幕府からも、
「近藤の罪は、天下の人々が知るところであり、徳川慶喜の意に反するもの
 許容できない大罪である」と言われてしまいました。
1868年4月25日、近藤勇斬首!!

最期は、武士として切腹することも許されない・・・33年の生涯でした。
近藤の時世の詩が残されています。

義を取り 生を捨つるは 吾が尊ぶ所 
           快く受けん 電光三尺の剣
只まさに一死をもって 君恩に報いん

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

新選組 なぜ戦い、何を目指したのか。 (洋泉社MOOK)

価格:1,296円
(2018/12/22 22:26時点)
感想(0件)

新選組を歩く 幕末最強の剣客集団その足跡を探して [ 星亮一 ]

価格:2,592円
(2018/12/22 22:29時点)
感想(1件)

大河ドラマ 新選組! 完全版 第壱集 DVD-BOX 全7枚セット

価格:19,440円
(2018/3/17 16:44時点)
感想(5件)



今から150年ほど前の文久3年2月・・・。
幕末の風雲急を告げる京都に、江戸から浪士たちの大集団がやってきました。
勤王の志士たちが恐れた戦闘集団・・・後の新選組です。
その中心人物は・・・局長・近藤勇、鬼の副長・土方歳三。
旧幕府軍が戊辰戦争で惨敗を重ねる中、彼らは武士として幕府に忠義を貫き戦い続けました。
彼らはなぜ、最期まで戦う道を選んだのでしょうか?

尊王攘夷運動の高まりとともに、不穏な空気が立ち込める京都・・・
その京都で警護に当たっていただんだら模様の羽織姿の集団が、彼らはもともと14代将軍家茂が上洛するにあたっての護衛役として幕府にお金で雇われ江戸からやってきた浪士たちでした。
その後も京都に残り、治安維持の名のもとに、幕府に刃向かう過激な尊王攘夷の志士たちを次々と粛正していきます。
そんな新選組の名を一躍世に知らしめたのが”池田屋事件”です。
長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちが、御所に火を放ち、時の孝明天皇を長州に連れて行こうと計画!!
その情報を新選組が入手します。
元治元年6月5日・・・京都三条木屋町・・・池田屋に潜んでいることを突き止めると、近藤勇、沖田総司らわずか4人で踏み込みます。
応援も駆けつけ2時間の戦闘の末、7人を殺害、4人を捕縛しました。
新選組は、彼らの配下である京都守護職&会津藩主である松平容保から絶大な信頼を得ていました。
200人を超える大組織へと成長していきます。
しかし、この時新選組は、京都守護職会津藩御預・・・あくまでも浪士の集団でした。
それでも近藤や土方は、粉骨砕身、幕府に尽くしていくのです。
どうして幕府への忠誠心が強かったのでしょうか?

それは・・・武蔵国多摩にありました。
天保5年、多摩・・・上石原村の農家の三男として生まれた近藤勇は、15歳・・・若くして天然理心流に入門。
やがて剣の腕を認められ、天然理心流の宗家・近藤家の養子となり跡を継ぎます。
甲州街道の宿場町日野・・・ここにある剣術道場に、出稽古によく通っていました。
そしてそこで、運命の出会いを果たすのです。
同じ多摩の農家の出である土方歳三です。
二人は・・・「いつか幕臣となって、幕府のために働きたい」と厚く語り合ったといいます。
幕府の直轄地だった多摩は、年貢の優遇など多大な恩恵を得ていました。
戦があった時には、兵士として参戦する”八王子千人同心”という農民たちも多く、幕府への忠誠心が強い土地柄でした。
そんな土地で育った二人が、我等こそが真の”幕府侍”であると思うことは、ごく自然なことでした。

彼等が京都に来て4年経った慶応3年6月・・・
近藤のもとに嬉しい知らせが舞い込みます。
それまでの功績が認められ、新選組隊士全員が幕臣に取り立てらることになったのです。
二人の夢がかなった瞬間でした。

しかし、その4か月後・・・第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上してしまいました。
慶応3年10月14日大政奉還、12月9日王政復古の大号令・・・。
およそ260年続いた徳川幕府が終わりを告げるのです。
そんな中、徳川慶喜は、自身の内大臣の辞退・所領の返上を命じる新政府の処分に反発する暴発をおさえるために京都から大坂城へ・・・それに伴い、新選組も京都を離れ、伏見に・・・
新選組は、いつでも幕府のために戦う覚悟を決めていました。

慶応4年1月3日・・・鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりです。
京都伏見に近い鳥羽街道で、新政府軍と旧幕府軍が激突!!
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍はおよそ5000!!
これに対し、旧幕府軍は15,000!!
数の上では旧幕府軍が圧倒的でした。
新選組は、旧幕府軍の司令部があった伏見奉行所に陣取り、薩摩軍の本陣があった御香宮神社を急襲、痛手を与えます。
しかし、その後、新選組ら旧幕府軍は苦戦を余儀なくされます。
原因は・・・鳥羽伏見の戦いで指揮を執っていたのは、局長の近藤勇ではなく副長の土方歳三でした。
半月ほど前、近藤は仲間割れした新選組隊士に右肩を狙撃され、大坂城で治療を受けていました。
この近藤の不在が、新選組が苦戦した要因でした。

戦略に長けた近藤が居なかったことで、隊士たちは戦場で臨機応変に動くことができませんでした。
新選組ら旧幕府軍は追いつめられます。
薩摩軍のはなった大砲が、伏見奉行所の火薬庫に直撃!!
大爆発を起こしたのです。
新選組ら旧幕府軍は、奉行所からあえなく撤退・・・
1月5日、淀千両松まで撤退・・・そこで敵を迎え討ちます。
新選組は得意の剣術によって善戦しますが、大砲や小銃を中心とした新政府軍の攻撃が始まると形勢は逆転・・・新選組隊士の戦死者は10人、負傷者は25人に上りました。
新選組を含む旧幕府軍は、大坂からの援軍を待つため、老中・稲葉正邦の居城である淀城に・・・体勢を立て直そうと考えます。
四方を川や池に囲まれた堅固な淀城を拠点と戦い、巻き返しを図ろうとしたのですが・・・。
新政府軍の圧力によって、稲葉家の家老が中立を決意!!
土方らは入城を拒否されます。
味方のまさかの裏切り・・・もはや、なすすべはありませんでした。

朝廷から錦の御旗を与えられ、官軍となった新政府軍の勢いが増すと、旧幕府軍の兵士たちは恐れをなし、次々と逃げ出したのです。
そんな中、大坂城で治療中だった近藤勇が動きます。
15代将軍だった慶喜に・・・
「まだ策はあります。
 このままでは東照大権現に申し訳が立ちません。」
東照大権現として崇められていた家康の名をだし、慶喜に徹底抗戦を求めますが。
1月6日午後9時・・・慶喜は夜陰に乗じて大坂城を脱出、幕府の軍艦で江戸に逃げ帰ってしまいました。
旧幕府軍の敗戦は決定的となりました。
新選組も江戸へ撤退・・・この時、隊士たちは90人になっていたといいます。
鳥羽伏見の戦いの敗戦を受け、江戸城内は、新政府に対する教順派と抗戦派に分裂!!
教順派の代表は、幕府の重役であった勝海舟でした。
勝は、新政府軍に恭順することで、徳川家を存続させようと考えていました。
一方新選組は抗戦派・・・戦うことにこだわりました。

鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸総攻撃に向けて進軍を開始します。
そんな中、新選組局長・近藤勇は幕府の直轄地だった甲州の治安維持を命じられ甲陽鎮撫隊を結成。
しかし、近藤と土方は、新政府軍に恭順しなかったことから朝敵と見なされ、命を狙われていました。
近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名を変えて素性を隠すことに・・・。

また、土方は刀や槍で戦う時代は終わったと痛感、軍備を西洋化し、自らも断髪、洋服に身を包みます。
慶応4年3月1日、150人の兵を率いて甲府へ・・・
しかし、先に甲府についた新政府軍に、甲府城にいた幕臣たちが降伏したために城を奪われてしまいました。
これを聞き、甲陽鎮撫隊から脱走兵が続出し、兵は120人ほどに減ってしまいました。
それでも近藤たちは、勝沼宿まで兵を進めます。
およそ2,000人の新政府軍と戦うために!!

3月6日正午ごろ・・・両軍が激突!!
しかし、僅か2時間ほどで鎮撫隊は壊滅状態に・・・。
それでも近藤と土方は戦うことを諦めませんでした。
兵を集めながらも幕府の直轄地・流山に移動!!
この地の豪商の屋敷に陣を構え、徹底抗戦の構えを見せますが・・・予想をしなかったことが起こりました。
4月3日、新政府軍に包囲されてしまいました。
この時ほとんどの兵士たちが軍事教練に出ていたので本陣には数人しか残っていませんでした。

「最早、切腹するしかあるまい・・・」by近藤
武士として散ろうとする近藤に対し・・・
「いけません、このままでは犬死です。
 ここは運を天に任せ、出頭すべきです。
 生きていれば、きっと反撃の機会はあります!!」by土方

近藤は、土方の言葉に出頭を決意。
この時、土方が近藤に出頭を勧めたのは、大久保大和という偽名を使っていたので、新政府軍に近藤であるとバレないのでは?と思っていました。
偽名とバレたときの秘策として・・・
新政府軍と強いパイプのある勝海舟に助命嘆願の手紙を書いてもらうというものでした。
4月4日の勝の日記には・・・
「土方歳三来る 
 流山顛末を云う」
土方が勝に面会したのは事実ですが、勝が助命嘆願したという記録は残っていません。
勝海舟は教順派なので、近藤の嘆願を書くことはあり得なかったでしょう・・・
土方の目論見はハズレ・・・さらに、新政府軍の中に、元新選組隊士がいたために近藤の素性がバレてしまいました。
4月25日・・・近藤勇は朝廷に背く逆賊として、切腹を許されず斬首・・・まだ35歳でした。
切腹を許されなかったことは無念であったことでしょう。

土方はこの後、僅か残り少なくなった新選組の隊士を率いて、下総の旧幕府軍に合流・・・
そこで、旧幕府軍総督・大鳥圭介と出会います。
土方は、鳥羽伏見の戦いの実戦経験が評価され、参謀として迎えられました。
1,000人の先鋒隊を率いて、宇都宮城を一日で落とします。
新政府軍は震え上がったといいます。

近藤勇亡き後、新選組の土方歳三は、米沢、仙台と東北各地を移動していきます。
共に新政府軍と戦ってくれるよう交渉するためでした。
しかし・・・米沢藩も、仙台藩も新政府軍の遺体する降伏を決めていたのです。
東北諸藩に味方になることを断られた土方でしたが、仙台で隊士を募り、新選組は150人に増えていました。
そして・・・ここで一人の男と出会います。
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。
榎本は新政府軍から開陽丸をはじめ8隻の軍艦の引き渡しを求められていました。
しかし、榎本はこれを拒否して仙台へ向かいます。
ところが仙台藩が新政府軍に降伏してしまったために、軍艦を率いて蝦夷へ向かうことを決めます。
幕府が倒れたことで生きる道を失った幕臣たちと共に、蝦夷で蝦夷共和国を建国しようと考えていたのです。
土方は榎本と蝦夷へ行くことにします。

明治元年10月20日・・・土方たちは、蝦夷の鷲ノ木浜に到着。
その後、二手に分かれて箱館の五稜郭に向かいました。
五稜郭は、幕府が箱館開港に向けて元治元年に完成させた西洋式の城郭・・・上から見ると星形が特徴です。
土方たちは、新政府の占領下にあった五稜郭を瞬く間に占拠。
中にあった箱館奉行所に陣を張ります。
さらに、蝦夷を支配していた松前藩の居城・松前城も1日で落としてしまいました。
蝦夷でもなお戦い続ける土方・・・一矢報いることが近藤勇の精神を継承する最後の誠である・・・。
勝つ、負けるという打算を超えたところに土方の境地があったのです。

衝撃の知らせが・・・最新鋭の軍艦・開陽丸が暴風雨により江差港で座礁・・・。
一隻で新政府軍の軍艦の全てを上回る能力を持つといわれていた開陽丸を失うことは大きな痛手でした。
一方、新政府軍の船は蝦夷へ・・・。
旧幕府軍は明治元年12月15日、蝦夷の平定を宣言し、「蝦夷共和国」樹立。
榎本武揚が共和国の総裁に選ばれ、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並でした。
新政府軍は旧幕府軍を一掃しようと蝦夷へ軍隊を向わせます。
明治2年4月箱館戦争開戦!!
土方は新政府軍を迎え討つために江差方面に・・・
その途中の二股口が主戦場となります。
二股口は急な崖を擁する山に囲まれ、谷底を深い川が流れる天然の要害・・・。
土方は周囲の山に塹壕を掘り、新政府軍を待ちます。
土方郡300に対し迫る新政府軍600!!
劣勢の中、戦いが始まりました。
新政府軍の猛攻にもひるむことなく、果敢に抗戦する土方!!
16時間に及ぶ戦いの中で、3万5000発の弾丸を打ち込み、見事新政府軍を退却させます。
激しい銃撃戦となった箱館戦争を含む戊辰戦争の一連の戦いは、最新鋭の銃を使った近代的な戦争の幕開けともいえました。
ミニエー銃は、フランスで開発された先込式のライフルで、銃身の内側にライフリングといわれる溝が刻まれていました。弾が自転しやすくなってより真っすぐに遠くまで飛ぶ仕組みになっていました。
有効射程距離も旧式銃(火縄銃・げべーる銃)の3倍の270㍍・・・箱館戦争ではこのような高性能な武器を使った激しい戦いとなったのです。
そして、土方はその銃撃戦で命を落とすことになります。

明治2年4月13日、旧幕府軍と新政府軍が箱館近郊二股口で激突!!
旧幕府軍を率いる土方歳三の活躍によって、一旦新政府軍は撤退しますが・・・その10日後、猛攻を仕掛けてきました。
この時も、12時間の激戦の末、土方が二股口を死守・・・劣勢にあった旧幕府軍で一人気を吐き武士の意地を見せます。
そんな中、木古内方面で戦っていた大鳥圭介の軍が総崩れに・・・そのまま新政府軍がなだれ込んでくれば土方軍は挟み撃ちとなって退路を断たれてしまう・・・。
土方は止む無く函館まで退却・・・
5月11日午前3時新政府軍による箱館総攻撃・・・!!
僅か4時間ほどで箱館の街の大部分が制圧されてしまいました。
それでもなお、瀬新選組の隊士たちは箱館湾に面した弁天台場で籠城し抵抗します。
そんな仲間たちを救うために、五稜郭から向かう土方・・・。

土方の護衛役で常に行動を共にしていた立川主税によると・・・。
”土方、兵を率いて一本木より進撃す”
そして、一本木関門から異国橋まで2キロ近く敵を追い払います。
その後、一本木関門に戻ってきた土方は、味方の兵に向かって叫びます。
「前進せよ!!この策から退く者は・・・容赦なく斬る!!」
兵士たちは誰一人退くことなく果敢に立ち向かっていきます。
ところが・・・5月11日午前10時ごろ・・・
一発の銃弾が馬上にいた土方を貫きます。
立川が駆けつけたとき、すでに土方は息絶えていました。
土方は狙撃されたとも、流れ弾が当たったともいわれています。
立川の日記によると・・・”敵丸腰間を貫き遂に戦死”とあります。
 
一発の銃弾によって命を落とした新選組副長・土方歳三・・・。
土方は誰に撃たれたのでしょうか?
松前藩は、もともと新選組を配下においていた会津藩と交流がありました。
幕府側の藩でしたが、藩内での権力闘争で新政府へ恭順するようになったのです。
箱館戦争に松前藩は新政府軍として参加していました。
そして一本木に・・・。
そしてその八番隊の中に、土方を撃った者がいるのではないか??
松前藩氏・米田幸治??
米田幸治は天保14年うまれの松前藩士で若いころから銃の名士とされ、箱館戦争時は八番隊の小隊司令士となっていました。
そんな米田が土方を撃ったという資料が残されています。
米田の孫が書いた本によると・・・。
”” 御祖父米田幸治中尉が箱館戦争において脱走幕軍豪将土方歳三を討ち取った””
米田は土方を撃ったことを家族にだけが語っていたようです。

「部下が銃を撃てなかったので、その銃を取り上げ彼の方に乗せ、太刀打ちの構えで引き金を引き、やってくる武士を撃った。
 すると馬上の武士が落ちた。
 銃撃がやんだので、武士の死体を見に行き、陣羽織を裏返すと土方と書いてあった。」

米田の証言が事実ならば、幕府のために忠義を尽くして来た土方は、かつては幕府側で味方だった者の銃弾に散ったということなのです。
土方の死から7日後・・・明治2年5月18日、箱館戦争終結。
戊辰戦争は終わりを告げます。
最期まで忠義を貫き、戦い続けた新選組・・・局長近藤勇と副長土方歳三・・・
幕府の直轄地の農民に育ち、同じ夢を見て切磋琢磨し、幕臣にまでとりたてられました。
その恩を忘れず、最期まで武士としての意地を貫き戦い続けました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

500円クーポン発行中!大河ドラマ 新選組!! 土方歳三最期の一日

価格:4,212円
(2018/3/17 16:44時点)
感想(0件)

新選組そのはじまりと終わり 幕府に忠義を尽くした男たち (サンエイムック 時空旅人ベストシリーズ)

価格:859円
(2018/3/17 16:44時点)
感想(0件)

土方歳三最後の戦い 北海道199日

新品価格
¥1,836から
(2018/1/6 06:41時点)


今年の1発目は私の大好きな”歳さん”で!!

かつて、司馬遼太郎はこう言った・・・。
「京は季節の都である」
四季に彩られた都を血に染めた男・・・新選組副長・土方歳三です。
黒船来航をきっかけに、国論は攘夷と開国にわかれ・・・250年続いた徳川幕府は大きく揺らぎました。
この争乱に乗じ、幕府転覆に暗躍する藩士、浪士たち・・・。
鬼の副長土方歳三は、局長・近藤勇と輩を屠り、新選組隊士をも鉄の掟で葬りました。
幕末維新の時代・・・何が土方を駆り立てたのでしょうか? 

京都の夏の華・祇園祭・・・153年前のそのさなかに、事件は起こりました。
1864年6月5日・・・新選組が一躍その名をあげた池田屋事件です。
この時討幕を目論む一派は、京都に火を放ち、混乱に乗じ天皇を長州に連れ去ろうと計画していました。
その集会に僅かな手勢で乗り込んだ新選組・・・
凄惨な斬りあいの末、数人をその場で殺害し、多くの討幕派を捕らえました。

この時、新選組副長・土方歳三が身に着けていたのが残されています。
古くから甲州街道の宿場として栄えた日野・・・
1835年土方歳三は、武州(武蔵国)石田村に豪農の六男として生まれました。
土方が暮らした家は、歳三の兄の子孫が受け継ぎ資料館として公開されています。
土方は、この鎖帷子をつけて池田屋に駆け付けたと言います。

kusari
槍で突かれたような跡、補修された跡・・・土方の汗がしみ込んだ防具からは、自らの命と引き換えに、幕府への忠義の姿が浮かびます。


土方家には、歳三の遺品以外にも武具が伝えられてきました。
武州は天領なので、徳川に何かあったら馳せ参じる気概が農民にもあったのです。




土方が生れる1年前、局長となる近藤勇も武州上石原村に生まれています。
幼いころから剣術に秀でた近藤は、27歳で天然理心流を継承し、土方は門人として腕をあげました。
1歳違いの二人は、幕府への忠義の心を育み、激動の時代を二人三脚で歩むこととなります。

この頃、250年続いた徳川幕府は大きく揺らいでいました。
ペリー来航以来、国論は、攘夷と開国に分かれ・・・幕府は、朝廷に攘夷実行を約束したものの、道筋は見えていませんでした。
政治の中心地・京都には、強硬な攘夷派の藩士や浪士が集まり、幕府寄りの人物を殺害するなどのテロ行為に及んでいました。

そんな中、朝廷への攘夷対策言上に14代将軍家茂の上洛が決まります。
その警護のために、江戸城下で腕に覚えのある者が募集されます。
土方や近藤は迷うことなくこれに参加し、運命の地・京都へ・・・!!
京都での土方たちは、京都守護職・会津藩主・松平容保の預かりの身分となり、京都の治安維持を担うこととなります。
新選組は取締に当たり、過激な攘夷派の殺害を厭わず、討幕運動への脅威となっていきます。
新選組の命知らずの戦いと強固な結束は、厳しい大規によるものでした。

第一 指導を背くこと
第二 局を脱すること
第三 勝手に金策を致すこと
第四 勝手に訴訟を取り扱ふこと

四箇条を背くときは
切腹を申し付くること

切腹の理由は・・・
新選組は、正式な武士ではありません。
町人、農民からも入隊していました。
本来の武士ならば、閉門、蟄居など、段階を追った処分ができましたが、彼らが差し出せるのは・・・自分の命だったのです。
新選組が殺した敵は26人ですが、約40人が粛正されています。
正式の武士に侮られないように、より武士らしく生きる・・・それが、ポリシーとなっていました。
内部の粛正を続けながら、新選組を維持し、京都の治安維持に努める土方・・・。
当時、土方が使っていた刀は・・・「大和守源秀圀」です。
直刃で、波紋が真っすぐになっており、まさに人を斬るための・・・戦うための刀でした。
近藤勇が長曽祢虎徹・・・他の隊士たちもブランド刀を好むのに、土方はブランド物よりも実際によく斬れる刀を好んでいます。
土方の愛刀の柄の中には・・・「幕府侍土方義豊戦刀」と名がきられています。
義豊とは土方の諱で、戦刀とあるので、戊辰戦争でこの刀を使ったと考えられています。
1868年正月・・・戊辰戦争は、京都郊外・鳥羽伏見で始まりました。
新選組は、銃や大砲を上手く使う新政府軍に敗れ、江戸に逃れることに!!
江戸にもどった土方は、旧幕府の役人に鳥羽伏見での戦いを語ります。
「最早、武器は砲でなくてはいけない。
 私は剣を帯び、槍を執ったが、一切役に立たなかった。」
幕府侍・土方は、西洋の最新銃器を見せつけられ、自らも洋装へ・・・!!

鳥羽伏見での敗戦後、江戸に戻った新選組は、旧幕府軍の責任者・勝海舟の配下となりました。
勝は、西郷隆盛との会談で、江戸城を無血開城に導き、徳川家の存続を図ろうとしていました。
しかし、土方は、幕府侍として応戦を考えていました。
鳥羽伏見での敗戦から3か月後・・・土方は、およそ200人の新選組隊士を引き連れて、近藤らとともに江戸川を渡りました。
仁を構えたのは、現在の千葉県流山!!
対陣の表向きの理由は、幕府寄りのこの地の反乱を鎮めるためでした。
しかし、土方の本意は、新選組を近代的な様式部隊に訓練することでした。
新選組が会津軍の一員として戦う??
時代は、洋式訓練、銃や砲の訓練・・・。
流山では・・・近藤は大久保大和、土方は内藤隼人という偽名を使っていました。
これは、新政府軍の追撃をかわすためだったと言われています。

新政府軍の動きは早く・・・土方らの流山着陣の翌日、新選組の本陣は、多数の新政府軍に取り囲まれてしまいました。
この時、隊士たちは野外訓練に行っており、本陣には土方・近藤以外には数名しか残っていませんでした。
ここまで鯛を引っ張ってきた近藤は、観念しました。

「最早これまで!!切腹いたす!!」by近藤勇

土方・・・どうする??

近藤を切腹させる??それとも、最後まで死力を尽くして新政府軍と戦う・・・??
それとも近藤を出頭させる・・・??

近藤と共に死を選ぶのか??一縷の望みにかけるのか・・・??

新政府軍に包囲され、切腹を覚悟した近藤勇・・・
この時・・・

「ここで割腹するは犬死になり。
 運を天に任せ、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん」by土方

土方は、偽名を貫き近藤を出頭させ、生き抜くことを選びます。
近藤は、大久保大和として悠然と敵陣に乗り込みます。
土方は急いで江戸に走ります。
走った先は、旧幕府軍責任者・勝海舟の元!!
近藤出頭の翌日の勝の日記には・・・

慶応四年四月四日
土方歳三来る
流山転末を云

とあります。

土方は、勝に近藤の処遇を託し、旧幕府陸軍と合流。
新政府軍の手に渡っていた宇都宮城を様式訓練をしていた隊を指揮して陥落させます。
銃砲を駆使しての見事な勝利でした。
しかし・・・戦闘中に足を怪我した土方は、会津に入って治療に時間を有します。
そこに、追い打ちをかける悲報が・・・
新政府軍に出頭した近藤は、間もなく素性が露見し、罪人として斬首の末、首を京都三条河原に晒されました。
新政府軍の熾烈な攻撃の前に、土方が身を寄せた会津の命脈は尽きようとしていました。
しかし、土方は、近藤の最期を知って以降、常に口にしていました。

「近藤と共に死ななかったのは、ひとえに徳川家の冤を雪ぐためだ。
 万一赦されたら、何の面目をもって地下の近藤に見えんや」と・・・。

土方は、まだ戦いを終えるわけにはいきませんでした。
近藤は、「大久保大和などという者はいない」と、幕府に捨てられる形となりました。
彼らの組織自体が、幕府にとっても邪魔なものになりつつあったのです。
土方も・・・自分達は、和平路線の中で生きていくのではなく、徹底抗戦で生きていくという思いを強くしていました。
自分達が武士としての理想を追求したのにという怨念みたいなものが、近代的なエネルギーに昇華していったのです。
会津を脱出した土方は、榎本武揚と仙台で合流!!
蝦夷地を目指す決心をします。

「到底勝算あるに非らず。
 我等戦ふて快く死せんのみなり。

 吾輩は、已に死神にとりつかれたる也。
 死すへきときに死すれば則ち可なり。」と、松本良順に送っています。

かつて蝦夷地と呼ばれた港町・箱館・・・
市街地の中央に広がる五稜郭は、西洋の城郭を真似て作られ、その中心には箱館奉行所が置かれていました。
土方がここに入城したのは、1968年(明治元年)10月26日のことでした。
死神に取りつかれた男・土方は、蝦夷地でも鬼神の如く戦います。
上陸から1か月足らずで新政府に恭順していた松前藩を駆逐!!
翌1869年(明治2年)4月9日、新政府軍は大挙して蝦夷地に上陸します。
土方は、上陸地から最短ルートの山中・・・二股口で新政府軍を迎え討ちます。
敵が真下に見える場所に塹壕が作られていました。土方がそこで指揮していたのかもしれません。

土方率いる旧幕府軍は、巧みに築いた塹壕から一日3万5000発を新政府軍に浴びせ、撃退します。
再戦でも、熱を帯びた銃身に水をかけながら堡塁を守ります。

蝦夷の陸軍の戦い、これをもって最も烈しとなす

しかし、土方の奮闘虚しく・・・他の守りが突破され、土方は五稜郭への撤退を余儀なくされたのです。

1869年(明治2年)5月11日、箱館山を越えて、新政府軍の大攻勢が始まりました。
土方は、箱館港と五稜郭の中間にあった一本木関を死守するべく指揮を執ります。
そして・・・土方歳三享年35歳・・・
奇しくも、流山でわかれた盟友・近藤勇と同じ年でした。

土方の死後1週間・・・五稜郭は新政府軍に明け渡され、日本の近世から近代への架け橋となった内戦は終わりを見るのです。

戊辰戦争の激戦地・福島県会津若松・・・戦争のさ中、山麓の寺に罪人として首を落とされた近藤勇の墓が建てられました。
それは山腹にひっそりとたたずんでいました。
この墓が建てられたときの逸話・・・
この当時、侍のような姿がよく目撃されています。
それが・・・土方歳三ではなかったか・・・??
近藤の墓と肩を並べるようにして建てられた土方の慰霊碑。
幕府への忠義に生き、盟友への信義に死んだ土方歳三・・・。
150年前、近代明治に舵を切った日本に、彼の居場所はありませんでした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

明治維新 血の最前戦 ―土方歳三 長州と最後まで戦った男

新品価格
¥1,728から
(2018/1/6 06:41時点)

合本 燃えよ剣(上)~(下)【文春e-Books】

新選組検定公式ガイドブック

新品価格
¥1,620から
(2015/7/6 10:55時点)




最近更新が遅いのは、忙しいのか??それともな感じですが、頑張って完走したいです。

いよいよ、待ってましたの「池田屋事件」です。
そう、あの「池田屋事件」です。

京都から追放された長州&七卿・・・
萩に戻った晋作は、脱藩の罪で野山獄に繋がれることとなりました。

「突然重役に取り立てられたと思うたら、今度は獄の罪人か・・・ まことに面白い!!」

って、野山獄に繋がれたのは、自分が脱藩したからですよ・・・。

松陰先生と同じ獄の同じ部屋に繋がれて・・・
「先生・・・」
感慨深そうにしている晋作のもとへやってきたのは妻の雅ではなく文。。。
「私に何か力になれることはございませんか?」by文。
それは奥様に言うべきだろう・・・??

文に京都の様子を報告し、玄瑞への手紙を託すのでした。

そこへ、子供ができたと報告に来た雅・・・文・・・どうしてそこに座ってる・・・??
邪魔モンです・・・。


寿・・・美鶴さまに文の新しい家を紹介してもらったとか・・・
新発派と割拠派に分かれていて・・・前回久坂に一杯食わせてやろうと企んでいる椋梨藤太に・・・反対の立場の椋梨家に、よく頼めたものだと思ってしまうのは、私だけでしょうか??
絶対におかしいと思う。。。

京に届いた晋作の手紙・・・
緊急事態に、桂さんは宮部鼎蔵と会ってくるんだって・・・。
って、京都部隊ですが、ほとんど紹介されていないので、何をやっている人なのか分かんないんじゃないかなあ・・・。
ちなみに宮部鼎蔵は、もともと肥後藩士でしたが、七卿落ちと共に一旦長州に行っています。
この頃・・・長州藩士たちと志を同じくする者たちは、脱藩せざるを得なくなり・・・
長州を頼っていたような節があります。
なので、同じような立場の真木和泉(この作品ではいなかったことになっている・・・)なんかも、宮部鼎蔵と同じような立場だったんじゃないかなあ・・・??

お・・・どぶろっくの茶番だ・・・。

池田屋という最高潮に向って話が進むのかと思いきや・・・山口に帰ってくるという玄瑞。。。

hana5











その頃、伊之助は武器商人のグラバーと商談中。
伊之助・・・あまりの活躍ぶりに・・・本当だったのか??勘ぐる私がいます。。。
グラバーと懇意なのは龍馬なのでは・・・??
ま、長州征伐の前だから、諸外国も長州藩にまだ武器を売って良かったのかな・・・??
ちなみに、薩長同盟を締結したのはもちろん討幕で一致したのでしょうが・・・
戦争したくても武器を輸入できなかった長州が、グラバー⇒亀山社中⇒薩摩藩⇒長州藩と、手に入れるためでもあります。

山口に帰ってきた玄瑞は、兵を率いて京に上るという・・・。
ちなみに、玄瑞は戦にはしたくなかった・・・というのに間違いはないようです。
そう、来島又兵衛がひとりで悪者か・・・??
長州藩の汚名を濯ぐために頑張りますよ!!玄瑞!!


京都では・・・八月十八日の政変は、中川宮の仕業であることを稔麿がききつけてきました。
お・・・いよいよ池田屋事件ですか・・・??

宮部鼎蔵も出て来てますが、どうして偉そうにしているのか??
そこまで偉い人物なら、もっと描いて欲しい・・・。
歴史ファン、松陰先生をこよなく愛するビビる大木さんが演じているけど、どう思っているのかなあ・・・??


「宮部殿!!古高俊太郎が新選組に捕えられました!!」
「なにい!!」

hana6











これだけで意味の分かるのは歴史ファンですがもっと説明してほしいの・・・。
おまけに拷問を近藤さんがやってます・・・
駄目ですよ・・・近藤さんは、いい意味でお山の大将でないと!!
そこは歳さんに任せてください。
でも・・・この際、新選組メンバー不在で良いです。。。だって、イメージが・・・


そんな私の憂慮をよそに、池田屋じゃなくって、いなくなってしまった久米次郎を探す文。。。
要らぬ心配でした。
で、なんと、道端で出会った文と玄瑞なのです。
ここで・・・トントンと話が進むわけでもなく・・・ホームドラマが入るのでした。

長州が京都炎上に乗じて天子様を長州へ連れ去る計画・・・もちろん、こちらは新選組側のデマということで話は進んでいきます。
そうか・・・だから、古高俊太郎が白状した風になってないのか・・・。
ま、それが新選組によるねつ造でも、ねつ造なように白状させてくれても良かったのにね。。。

「御用改めである!!」by近藤勇。

ここだけは、よくある新選組に描かれているわ・・・。


でも・・・なんで桂さん居んの・・・??
桂さんは早く来過ぎたから一旦戻ったんじゃ・・・。このままならまさに逃げの小五郎になっちゃいますよ・・・!!

稔麿は、先生に背を向けたから、もう二度と背を向けたくない!!と池田屋に戻っていきます。
そう、男には、死ぬと解っていても戦わない時がある!!

亥の刻の池田屋事件・・・でも・・・どうしてそこに昼間の玄瑞一家の団らんが入る???
と思ったら、九一たちから池田屋事件の結末を聞く羽目になるのです。。。
文と仲良く家族をしている時・・・

「京で一大事が起きました!!」by九一

hana2













こんな感じ・・・と、宮部鼎蔵は自刃、稔麿は・・・と、回想の如く寂しい終わり方。。。

池田屋事件当時、稔麿がもともとどこにいて、どこで誰に殺されたのか、自刃したのか、諸説あってはっきりしていません。
それなら・・・史実が解らない=おにぎり作って頑張る文よろしく、稔麿の死ももっとカッコよく書けたんじゃないかなあと思います。
ほら・・・総ちゃんなら、黒猫を斬ろうとして斬れずに・・・というテッパンがあるでしょう?

hana












そうではなくって、自由にできるからこそ、もっとカッコよく描いて欲しかったのですが・・・。
瀬戸康史君はとっても頑張ってましたよ。


入江一家も兄弟三人で寝て・・・

文を前に語る玄瑞・・・
稔麿を語るも高ぶってきて・・・いきなり
「戦になっても構わん!!」と言い出しました。
来島又兵衛の暴走で治めるんじゃなかったの・・・??
稔麿が死んで泣きじゃくる玄瑞に、涙ひとつこぼさず冷静に判断する文・・・。
稔麿のためにも、理想の国を作ろうなんて話を始めました。

おまけに、家族の夢では、文がおにぎりを握っているのだそうだ・・・。
そんなこんなで、1500人の兵を連れて京に出発する玄瑞でした。

「久坂玄瑞様、行ってらっしゃいませ・・・!!」by文

稔麿・・・可哀想・・・
命を懸けたのに、もっと感情移入してあげたかった・・・というのが本音でした。
そう、殺陣のシーンに回想とか入るの、勢いがなくなってほんとゲンナリします。
テンポが命の殺陣・・・どうしてこうなるかなあ・・・??


そう言えば・・・梅兄も近藤先生やっていましたね。
hana4









私、原田泰造さん、結構好きなんですが・・・
そう、これですよ、これ!!
こちらは龍馬伝での”池田屋事件”!!
今回の池田屋事件を見て思ったのは・・・
大河Fanは、「奇をてらった脚本なんか好きじゃない」ってとこかな??
歴史はそこにあるもので、どうやったって変えることはできません。
だからこそ、みんなのイメージを打ち破ったような脚本はきっと嫌なんです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。


にほんブログ村

ここまでわかった! 新選組の謎 (新人物文庫)

新品価格
¥864から
(2015/7/6 10:56時点)

新選組100話 (中公文庫)

新品価格
¥1,028から
(2015/7/6 10:56時点)

新選組と見廻組

価格:1,188円
(2015/7/2 21:17時点)
感想(0件)



THE 歴史列伝 ~新選組スペシャル~観ました。
今回は、大好きな新選組でした

近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八たち・・・有名どころを2時間という短い時間で紹介してくれました。

ゲストは漫画家の黒鉄ヒロシさんと、作家の伊東潤さんでした。

内容はよくある感じのお話・・・というか、2時間でキャラの濃い5人を紹介するのは無理だと思うので、さっとうわべを通った感じがしましたが・・・

rekisi

写真について・・・
ま・・・近藤さん、歳さん、新八っあんはともかく・・・斎藤一(左端)出てました??写真も本人かどうかビミョー。。。

おまけ総ちゃんですが・・・右から2番目・・・ホントに総ちゃん??イメージ画像では??



歴史には、勝者の歴史と敗者の歴史とがあって・・・
私達は薩長の勝者の時代に生きています。
なので、新選組という敗者の歴史は歪曲されている可能性もあって・・・
何が本当で何が本当でないか??
解らない部分がたくさんあります。
で・・・もしかすると、どちらも本当かも知れませんしね。

ただ、史実はどうであれ、ゲストのみなさんの”新選組”に対する愛が感じられました。
それを思った時に、ふと、最近の歴史番組があんまりおもしろくない原因?のようなものが浮かんできました。

最近の歴史関連の番組は、ナビゲーターなる俳優さんが出てきます。
あ・・・この歴史列伝も六平さんですが・・・。
男性、女性・・・私が頭に浮かぶだけでも6人ぐらいいるんです。
でもね、本当に歴史が好きなのかしら??みたいな人もいるでしょう??
なんか興ざめしてしまいます。

もし、ナビゲーターを使うとして挙げるなら・・・
「ザ・プロファイラー」のV6の岡田准一くん・・・”官兵衛”ですね。
あとは、今回の大河ドラマで宮部鼎蔵を演じているビビる大木さんとか・・・
歴史が大好きなんですオーラを目一杯に出していて、子供のように目の輝いている人が良いなあ・・・って思うのです。

それと、ゲストの人数人と対談するのが良いですね。
いろんな方向からの意見があって、目からウロコなお話が聞ける可能性大ですから・・・。
期待を持たせるような?もったいぶったよく判らないVTR流すんだったら、討論してほしい。。。

今回のTHE歴史列伝、新選組への愛がたくさん詰まっていました。
史実を知っている人でも、愛のあるお話を聞くことができたら有意義な2時間になると思うんですよね。

そんな歴史番組、やってくれないかなあ・・・。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

500円クーポン発行中!大河ドラマ 新選組!! 土方歳三最期の一日

価格:4,212円
(2015/7/2 21:17時点)
感想(0件)

本格派 新選組隊士の衣装一式 洗える着物お仕立て上がり羽織袴装束8点セット(新撰組仮装用)【smtb-k】【ky】

価格:36,000円
(2015/7/2 21:18時点)
感想(0件)

このページのトップヘ