日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:造士館

その時、勤王志士・朝廷、慶喜政権、江戸幕府らは、西郷隆盛・大久保利通・薩摩藩年表帖 上巻 ペリー来航から王政復古まで、時系列でわかる! [ ユニプラン編集部 ]

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今から140年前の1878年5月14日、東京千代田区の紀尾井坂で事件が起こります。
明治維新を成し遂げた一人の英雄が暗殺されたのです。
殺されたのは、薩摩藩出身の大久保利通!!
大久保は、今の総理大臣である内務卿として、廃藩置県、身分制度改革などを断行。
そのため、武士としての特権を奪われた困窮した士族の恨みを買って、命を落とすこととなりました。
その死の間際まで大切に思っていた一人の盟友・・・それは、西郷隆盛でした。
背広の胸ポケットに・・・西郷の手紙が二通ありました。

「王政復古のことは、外国に良く説明すべし」
もう一つは、大久保の写真を送られた西郷が、あまりいい男ではないと大久保をからかった手紙でした。
西郷は、1877年自決してこの世を去っていましたが、西郷からの手紙を肌身離さず懐に入れていたのです。
その絆はどんなものだったのでしょうか?

大久保利通は1830年、薩摩国高麗町に生まれました。
父は、薩摩藩士の利世、母は薩摩藩医の娘・ふく・・・5人兄弟の長男でした。
大久保家は、下級藩士の家柄で貧しい暮らしでしたが、大久保はひたすら勉強し、学問に秀でていました。
幼い頃、高麗町から下加治屋町に引っ越して・・・運命の出会いが!!
同じ下級藩士の子で、3歳年上の西郷吉之助・・・後の西郷隆盛でした。
二人は、郷中教育という薩摩藩の青少年の教育制度の下、机を並べ学び、切磋琢磨しました。
西郷は大久保を「正助どん」と呼び、大久保は「吉之助どん」と呼ぶ親しい仲になります。
そして、赤穂浪士の討ち入りの日には、二人で夜を徹して「義臣伝」を読み、忠義を貫いた武士に胸を熱くしていました。
そして、二人は藩校「造士館」で学び、西郷は郡方書役助として、大久保は記録所書役助となりました。
そんな若き日の二人に試練が・・・
大久保が20歳の時に薩摩藩のお家騒動・・・お由羅騒動が起こります。
当時の薩摩藩主・島津斉興の家督相続をめぐって、正室の斉彬派VS側室の久光派の内紛です。
その結果、お由羅を寵愛していた斉興によって斉彬派が粛清され、斉彬派に属していた大久保の父・利世が喜界島に流刑となります。
1850年・・・大久保もこれに連座して免職・・・謹慎となりました。
収入を発たれた大久保家は困窮・・・大久保は恥を承知で妹の嫁ぎ先に借金を頼み込みます。
それでも先の見えない生活に大久保は・・・「何も心配することなか」と、安心させようとします。
そんな時、大久保を支えてくれたのが西郷家でした。
大久保は、西郷の家にやってきて、黙って食事をして帰ったともいわれ・・・西郷も大久保を弟のように思っていたようです。
西郷は、このお由羅騒動で、恩師・赤山靱負が切腹しています。
悔しい思い、苦しい思いを共有していました。
大久保の謹慎は3年に及び、解けたのは1853年のことでした。
島津斉興が隠居し、息子の斉昭が藩主となったからです。
復職した大久保でしたが・・・その時すでに、西郷は異例の大出世をしていました。
11代藩主は斉彬の手足となって東奔西走・・・そして大久保は・・・??

復職した大久保は、薩摩の若手藩士らと、秩序と大義名分を重んじる朱子学の勉強会を開き、藩の力になろうとしますが・・・
彼等が藩を見限り脱藩を画策する思想集団へと変貌していきます。
そこには、藩主・斉彬の存在が大きくありました。
斉彬は黒船来航によって現実味を帯びてきた西欧列強の侵略を警戒し、この国難を乗り切るために、朝廷、幕府、諸藩が一体となって政治を行う挙国一致体制でなければならないと・・・実現に向けて奔走するものの・・・
あくまで幕府が主体となって政治を行おうとする大老・井伊直弼と対立!!
そんな中、1858年7月16日、斉彬が急死してしまいました。
その後を甥の忠義が継ぎます。
しかし、薩摩藩の実権を握ったのは、忠義の父で斉彬の弟・久光でした。
久光は、井伊直弼と対立していた斉彬のことで幕府から追及されないように斉彬の腹心だった西郷を島流しとし、蟄居を命じます。
これに猛反対したのが、勉強会のメンバーで後の精忠組です。
精忠組は大久保がリーダーとなり、蟄居となった西郷精神的な盟主として藩政に異を唱えるようになって過激化していきます。
久光は、幕府に対して恐れを抱いていました。
大久保はそんな態度が不満で、斉彬の遺志を継いでほしかったのです。
そこで大久保は考えます。
「わしらが動いたところで限界がある
 薩摩藩を動かすために、藩の事実上の支配者である久光公を、動かさなければ・・・!!」
しかし、下級武士で久光に会うこともままならない大久保が、どうやって・・・??

そこで大久保は久光に取り入るために策を練ります。

①囲碁

久光公は碁をする・・・相当な碁好きと知った大久保・・・大久保の趣味も囲碁でした。
そこで、久光の碁の相手をしていた碁の名手・吉祥院の住職に弟子入りします。
さりげなく住職に政治の意見を語り、住職を通じて久光の耳に入るようにします。

②書物
大久保は久光が読書家であることを知ると・・・
詠みたがっている本を知人からそれとなく聞き出し、その本を探し出し、藩の政治に対する自分の意見を挟み込みます。
そして久光公に献上し、喜ばせると同時に自分の意見も直接伝えていました。

幕府を恐れる久光に不満を抱く精忠組の薩摩藩士たち・・・
前藩主・斉彬が目指していた薩摩藩が参加する挙国一致体制を実現するため、リーダーだった大久保は大胆な行動に出ます。
精忠組四十数人が脱藩!!
水戸藩など尊王攘夷派の志士たちと共に、挙国一致体制の障害となる大老・井伊直弼たちの暗殺を計画したのです。
この計画が実行されれば、薩摩藩は窮地に陥ってしまう・・・!!
1859年11月5日、誠忠組全員が遺書を認め、船に乗り込もうとしたその時・・・
精忠組の計画を知った久光によって藩主・忠義の名で諭書が出されました。
そこには・・・
薩摩藩は斉彬公の遺志を尊重する。
精忠組の有志達も脱藩せず、協力してほしい。
と書かれていました。
久光が折れたのです。
大久保は、もはや脱藩の必要はないと、血気盛んなメンバーを説得し、計画は取りやめとなったのです。

しかし・・・この騒動は、大久保によって仕掛けられたものでした。
精忠組の中でも冷静で沈着冷静だった大久保は、内心では地方の浪士が幕府首脳を暗殺することは無理だと考えていました。
そこで、精忠組の脱藩計画を久光側に漏らし・・・
慌てた久光は、彼らを引き留めるために慌てて諭書を出すこととなったのです。
大久保は、久光が兄・斉彬と同じく挙国一致体制を目指しているのを知っていました。
久光を促すために、脱藩計画を利用したのです。
そして・・・精忠組を説得したことで、久光の信頼を得ます。
さらに大久保は、久光との交渉の中でもう一つの条件を出していました。
西郷隆盛を奄美大島から戻すことでした。
この転換期に、薩摩にとっても日本にとっても必要な男だと思っていたようです。

大久保はこの日のことを日記に記しています。

「藩全体で立ち上がってこそ、大偉業が出来る。」

大偉業とは、挙国一致体制・・・更なる作戦を繰り出します。

大久保利通は、西郷隆盛を鹿児島城下に戻すことに成功!!
そして、亡き斉彬の遺志を継いで西郷と共に奔走します。
しかし、外様大名の薩摩藩の言葉が簡単に幕府に通るはずもなく・・・
久光は、自らが上洛して朝廷を動かそうと考えます。
それを実現させるために動いたのが大久保でした。
1862年1月京都・・・島津家と関係の深かった近衛忠煕・忠房親子と対面します。
薩摩藩が目指す挙国一致体制の実現を訴えて、強力を要請します。
そして、近衛親子を通じて、久光が上洛し、幕府の改革を要求する建白書を朝廷に提出することとなったのですが・・・
大久保が準備を整えた上洛に異を唱えたのが西郷でした。
西郷は久光は藩主ではなく後見人だと主張します。
「久光公は、憚ることなく申せば田舎者!!
 しかも不用意であり、今乗り出したとしても、事が成就するとは思えませぬ!!」
この言葉に激怒する久光!!
大久保が仲裁に入り、事なきを得ます。
3月16日、久光は上洛するため、大久保ら1000人を従えて薩摩を出発しました。
上洛に伴う準備を任された西郷は、下関で久光一行の到着を待つように言われていましたが・・・
京都で尊王攘夷派の過激な志士たちによる挙兵の動きがあると知ると、それを阻止する為に、久光の命に背き、無断で京都へ・・・!!
またしても、西郷が・・・!!
激高した久光は、西郷に対して捕縛命令を出します。
4月9日・・・それを知った大久保は、兵庫の浜辺に西郷を誘います。

「最早・・・久光公の怒りを鎮めることは難しい・・・
 きっと吉之助どんは捕縛を免れられない・・・
 そうなれば、吉之助どんは面目を潰されたと切腹をするだろう。
 自分にはそれを止めることもできない。
 吉之助どんが死ねば、自分も生きている甲斐はない
 だからお互い、ここで刺し違えて死ぬことにしよう。。。」by大久保

この言葉が、西郷を動かしました。

「自分はどのような辱めを受けようと、耐え忍び、わしらが目指す前途を見つめるつもりだ。
 自害はしない。
 ここで二人して死んだら、誰が斉彬公のご遺志を実現するのか・・・??」by西郷

こうして西郷は、捕らえられることを受け入れ、沖永良部島に流されたのです。

8月21日武蔵国生麦村で・・・薩摩藩を揺るがす大事件が起こります。
大久保は一部始終を目撃していました。
大久保が久光の行列に付き添っていた時に・・・ 
イギリス商人チャールズ・リチャードソンと遭遇。
警護役が馬を降りて端によれというものの・・・彼等は無視しました。
すると、激怒した薩摩藩士が無礼打ちとして4人に斬りかかったのです。
その結果、一人が死亡し、二人がけがをしました。
世にいう生麦事件です。

イギリスは、悪質な攘夷行動と受け取りました。
怒り心頭のイギリスは、幕府に対して正式な謝罪と、10万ポンド(約370億円)の賠償をもとめてきました。
薩摩藩に対しても、犯人の逮捕と死刑執行、遺族と負傷者に2万5000ポンド(90億円)の賠償を要求します。
もし要求に応じない場合は、軍事行動に・・・!!
横浜に停泊していたイギリス艦隊に恐れをなした幕府は、事件の発生から8か月後、賠償金全額を支払いました。
ところが、薩摩藩は拒否!!

1863年6月・・・薩摩藩との交渉が難航する中、イギリスは軍艦7隻を横浜から薩摩に向かわせ、軍事的圧力で要求をのませようとします。
そして7月・・・薩英戦争火ぶたが切られました。
イギリス艦隊のアームストロング砲が炸裂し、鹿児島城下は火の海となり、街の半分が焦土と化します。
薩摩藩側の中心となったのは、攘夷派の武士たちでした。
この時大久保は、圧倒的なイギリスの軍事力に、攘夷論に限界を感じるようになりました。

9月28日、横浜のイギリス公使館で講和交渉が行われました。
薩摩側は賠償金の受け入れを決めました。
しかし、大きな問題が・・・薩摩藩には賠償に充てる資金がなかったのです。
そこで大久保は??
江戸へと向かいます。
幕府の担当者に・・・
「英吉利の要求通り、賠償金は支払います。
 ただしそのお金は、幕府が用立てていただきたい。」
と、幕府に圧しつけたのです。
幕府はこれに激怒し、拒否!!
すると大久保は幕府を脅します。
「薩摩藩は賠償金を支払えません。
 幕府が支払わないと、また戦争になりますが、それでもいいのですか?」
この大久保の一言で、幕府は賠償金を肩代わりすることになったのです。

大久保は、1863年には久光の秘書役・御側約に就任します。
そんな大久保の悲願は、前藩主・斉彬の挙国一致体制を確立し、新しい政治の枠組みの中に薩摩藩を組み入れることでした。
しかし、これに大きく反発したのが幕府でした。
朝廷の力を背景に、久光の幕政改革案を飲まされた幕府は、薩摩藩を恨んでいました。

そんな中、1864年1月、久光の提案で京都に新しい政治の決定機関・参預会議ができました。
参預と呼ばれる評議員を幕府と諸藩の有力者から選出し、朝廷がそれを任命・・・。
朝廷から参預に任ぜられた人物が重要な政策を協議するというものでした。
参預として参加したのは、徳川慶喜・松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・・・諸藩からは、藩主や経験者が選ばれ、久光は本来ならば藩主でないので参加できないものの朝廷から「左近衛権少将」の官位を授かり参預として参加しました。
この6人で、日本の重要問題が協議されることとなりました。

ところが・・・会議は、開港していた横浜港を巡っていきなり紛糾・・・
久光は開港を続けるべき・・・他のメンバーも同意しましたが・・・慶喜が反対し、鎖港を訴えたのです。
幕府中心の政治を展開したい慶喜は、薩摩藩が力を持ちすぎることを警戒していました。
どうしても、自分が主導権を握りたかったのです。
そう・・・参預会議は、幕府と薩摩の権力闘争の場となってしまったのです。

慶喜は、攘夷論者の孝明天皇の支持を得ていました。
攘夷思想の孝明天皇に、横浜鎖港を主張し、取り入ったのです。
幕府主導の公武合体を画策したのでした。
大久保の悲願だった参預会議が行き詰ってしまいました。
行き詰ったのを心配した朝廷が設けた酒席で、酔った慶喜が大暴れ!!
久光らを指さし、罵倒したのです。
最早慶喜との話し合いは不可能と・・・幕府を見限って参預辞職を申し出た久光。
こうして新しい政治体制は短期間で瓦解・・・。
薩摩藩が朝廷や幕府と共に政治に参加する道が閉ざされてしまいました。
挙国一致体制が不可能と知った大久保・・・考えを一変させます。

「幕府を倒す!!」討幕へと舵を切ったのです。
奇しくも、久光が参預を辞職したのと同じころ・・・島流しを許された西郷が・・・!!
こうして大久保と西郷は討幕へと突き進むこととなるのです。

王政復古を断行し、新政府を樹立、廃藩置県、版籍奉還などの近代国家への大改革を成し遂げていきます。
大義の為ならば命がけで・・・!!
しかし、二人はやがて決別・・・西郷は西南戦争の首謀者として自決!!
大久保は大改革の反発を一身に受けて・・・
1878年5月14日、道半ばで暗殺されてしまいました。
49歳の若さでした。


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ドラマや小説が話題となって、今年一番注目される歴史上の人物は、地元鹿児島で親しみを込めて「西郷どん」と呼ばれる西郷隆盛です。
新しい国を作るためなら宿敵・長州とも手を組む恐ろしい戦略家??
江戸の町を焦土と化すことなく江戸城を無血開城へと導いた交渉人??
明治維新の最大の功労者とも言われる西郷の原点は、若き日の青春時代にありました。

今年、2018年は明治元年から丁度150年。
近代日本が始まった明治の世の誕生は、命を懸けて戦った多くの志士たちの活躍があったからこそ。
その中でも最大の立役者とされるのが西郷隆盛です。
薩長同盟、江戸城無血開城、廃藩置県・・・その功績は数えればきりがありません。

若い頃の西郷は・・・とても壮絶なものでした。
1827年、鹿児島城下にある下鍛治屋町で、父・吉兵衛と母・マサの長男として生まれました。
7人兄弟の長男で、通称は吉之助でした。
西郷家の家柄は、「御小姓組」と呼ばれる下級武士で、暮らしは貧しく、冬になると1枚の煎餅布団を兄弟で取り合って寝たといいます。
同じ下鍛冶屋町出身で3歳年下には大久保利通がいました。
幼なじみだった二人・・・薩摩藩は、郷中教育であったので、地域の団結心があり、勉強、遊びで仲が良かったようです。
幼いころから文武両道だった西郷でしたが、13歳の時に事件が起きます。
藩校・造士館からの帰り道、突然何者かに襲われ右腕を負傷・・・後遺症で右腕は使えなくなり、武術で身を立てることを断念し、学問に精進するようになります。

1844年、18歳で「郡方書役助」を拝命、郡方は藩の農政を担当する役職で、郡奉行のもとで、農家の指導監督を行っていました。
しかし、薩摩藩士として働きだした西郷が目の当たりにしたのは、過酷な脳槽統治制度によって役人に苦しめられている農民の姿でした。
当時の郡方たちは、その年の年貢の量を決める権限を持っていたので、取り立てを勝手に厳しくしたり、賄賂をもらって手心を加えるという不正を行っていました。
矛盾だらけ・・・西郷は、この現状を変えなければ!!と、建白書を藩に改革を訴えます。
しかし、何度書いても西郷の建白書が取り上げられることはありませんでした。

厳しい取り立ての背景には・・・
ペリーがやってくる前から、薩摩藩の支配下にあった琉球に、イギリスやフランスの軍艦がやってきていました。
武力をちらつかせながら通称を迫っていたのです。
それに対抗する為に、薩摩藩は鹿児島城下に砲台を作るなど軍備の近代化を余儀なくされ、その費用を捻出しなければなりませんでした。
外圧がもたらした財政難は、藩内に深刻な対立をもたらします。
そして、西郷の運命を変えていくのです。

西郷隆盛が下級武士として農村を回っていた頃、「お由羅騒動」勃発!!
事の発端は、10代薩摩藩主・島津斉興の後継者問題でした。
通常であれば、正室との間にできた長男・斉彬が後を継ぐのですが・・・
江戸にいる斉興と斉彬に対し、薩摩では政を任されていた側室の子・久光に権力が集中していったのです。
これが疑心暗鬼を呼びます。
薩摩にいる斉彬支持の藩士たちがこのままでは久光が藩主になってしまうのではないか?と誤解したのです。
そして、斉彬派と久光派に分裂してしまいました。
そんな中、悲劇が続きます。
斉彬の子・寛之助が病気で死亡し、翌年には篤之助も死んでしまいました。
そのため、斉彬派の藩士たちは、この不幸を断ち切るために、祈祷をします。
すると・・・修験者の頭の中に女の顔が浮かんだとか・・・
その顔を、久光の母・お由羅ではないのか、と考え、斉彬まで呪い殺されるのでは??
と、お由羅暗殺を計画します。
これがお由羅を寵愛する斉興の耳に入ります。
激怒した斉興は、斉彬派に対して切腹や遠島など、厳罰に処分をしました。
処分者は50人にも上りました。
このお由羅騒動は幕府の知るところとなり、斉興は騒動の責任を取らされて隠居に・・・。
結局家督をついだのは、正室の子・斉彬でした。
1851年のことです。
この騒動は、藩士・西郷隆盛に大きな影響を与えることとなります。

切腹を命じられた藩士の中に、西郷の父が仕えていた赤山靱負がいました。
若き西郷は、誠実な赤山を兄のように慕い、尊敬していました。
そんな赤山の切腹の介錯をしたのが、西郷の父・吉兵衛だったともいわれています。
西郷は、赤山が切腹の際に着ていた血染めの肌着を父親から渡され、様子を聞くと、夜通し泣いたと言われています。
西郷24歳の時のことでした。
さらに、西郷の幼馴染・大久保利通の父・利世も事件にかかわったとして島流しに・・・
大久保利通自身も職を追われ、収入が無くなり厳しい生活を余儀なくされました。
敬愛する師の死・・・身近な大久保家への仕打ち・・・無念でした。
藩を変えたい西郷は、学問に打ち込み、青年下級武士のリーダーとして頭角を現していきます。

そんな頃、時代は大きく変わろうとしていました。
1853年黒船来航・・・幕府に開国を迫ります。
幕府はこの要求に対し、右往左往するばかりで、対策は何も取れず・・・
薩摩藩主になっていた斉彬は、この状況を目の当たりにし、徳川政権の終焉が迫っており、薩摩藩ら雄藩が政権に参加し、挙国一致で外圧に対抗することを考えていました。
翌年、西郷28歳の時、西郷に命が下ります。
1854年参勤交代のお供の命です。
斉彬が初めて参勤交代で江戸にのぼるにあたり、西郷を連れて行きたいというのです。
この下級武士・西郷の大抜擢の意味は・・・??
藩政、農政に対する意見書を読んだ斉彬が、西郷を高く評価したのだといわれています。
江戸藩邸についてからは「庭方役」に抜擢されます。
表向きは庭の手入れですが・・・そこで斉彬に直々に命令されるという隠密のような役割をする役職でした。
西郷は、この庭方役抜擢を機に、斉彬の命で諸藩を行き来するようになり、人脈を広げていきます。
数か月前まで農村を回っていた薩摩の下級武士が、幕末の政治の裏舞台で暗躍することになったのです。

ペリー来航の少し前・・・江戸では問題が発生していました。
13代将軍徳川家定の世継ぎ問題です。
家定は子供がおらず病弱で、京都から夫人を迎えるも、公家出身の正室が2人続けて亡くなってしまいました。
「家定の次の正室には丈夫な武家の娘が良い!!」と、白羽の矢が立ったのが島津家でした。
島津家は、将軍家に正室を送り込んだ事のある唯一の大名でした。
11代将軍・家斉の正室・広大院がそうでした。
家斉は、将軍在位50年、子供も50人以上!!
ということで、島津家との縁談は、吉例と見なされていました。
この縁談話に、斉彬は幕府との強いパイプができると思っていましたが、斉彬には年ごろの娘がいませんでした。
そこで、一族の今和泉家から養女を迎えることに・・・それが篤姫でした。
しかし、花嫁が見つかっても斉彬には一つ懸念がありました。
将軍家に嫁いだ篤姫が、田舎者と蔑まれ、薩摩の屈辱となるのではないか??
そこで、薩摩の威光を示そうと、江戸城に持ち込む調度品を豪華に・・・と考えます。
それを任されたのが、西郷でした。
西郷は庭方役として全国を回っていたからです。
西郷は、斉彬の「金に糸目はつけるな」という言葉通り、薩摩藩77万石の威光を見せつけるべく、薩摩、琉球王国はもちろん、江戸や京都にまで問い合わせ、豪華、珍重な花嫁道具の調達に励みました。
最高の職人の手による装飾が施されています。
そして、1856年11月、篤姫は大奥入りを果たします。
その時の様子は・・・
薩摩藩別邸から江戸城に向かう花嫁行列は、先頭が江戸城に入っても最後尾はまだ渋谷を出発していないという長い行列でした。
そして・・・江戸中にその威光を示したのです。

1856年、30歳になった西郷は、薩摩藩主斉彬に度々呼び出され密談するという、絶大な信頼を得ていました。
斉彬は、親交のあった越前藩主・松平春嶽に・・・
「拙者には、随分と家来がござるが、いざという時に真に役立つ人物は西郷吉之助けという者だけで、わが藩の貴重な宝でござる。
 ただし、独立の気性に富んでいるものでござれば、拙者でなければ使いこなせませぬ。」と、後に言ったとか。
どうして西郷は信頼されたのでしょうか?
西郷は、天性の人たらしと言われ、人脈づくりが上手かったようです。
しかも、正義感が強く、信頼できる忠誠心を持っていました。

1857年、西郷は、密使として島津斉彬の書簡を越前藩主・松平春嶽に届けます。
そこには、次期将軍を誰にするのがいいのか??斉彬の考えが記されていました。
将軍・家定と篤姫の輿入れが進む一方で、病弱な家定に跡継ぎができなかったら?と、次期将軍選びが水面下で進行していたのです。
彦根藩主・井伊直弼などが推していたのが、紀伊藩主・徳川慶福12歳でした。
これに対して、薩摩や越前などの雄藩は、外国にも対応できる有能な者が次期将軍になるべきだ!!と、推していたのが、徳川一門の一橋家当主・一橋慶喜でした。
慶喜は、幼いころから学問に優れ、不世出の英資と言われた人物です。
慶福を推す南紀派VS慶喜を推す一橋派・・・一橋派の密使として奔走したのが西郷だったのです。
西郷は、京都に向かい、有力公家・・・摂関家である近衛家に接触、次期将軍は慶喜に・・・という孝明天皇の勅命をもらおうと工作します。
この時知り合ったのが、近衛家に出入りしていた清水寺成就院の元住職・月照でした。
その月照の見識の深さに感銘を受けた西郷は、親交を始めました。
西郷が奔走する中、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任・・・
状況は一変して・・・大老の強権で、慶福を将軍にしてしまいました。
慶喜擁立に奔走していた西郷の努力は報われませんでした。
そんな西郷に追い打ちをかける悲報が・・・
西郷を抜擢し、一橋派の中核メンバーだった斉彬が1858年死去。
斉彬の突然死のの知らせを京都で受けた西郷は、

「もはや、何の生きがいがありもうそうか・・・
 帰国して御墓前で殉死し、お後を追いもうそう・・・」by西郷

その西郷を止めたのは、月照でした。

「今や、あなたは薩摩の西郷ではない。
 天下の西郷天下の西郷である!!
 今こそ、斉彬公の御遺志を受け継ぎ、国家のために働かなくては・・・!!」by月照

この言葉で、死を思いとどまった西郷でした。
斉彬の遺志を継ぐことが、生きること!!
しかし、その頃井伊直弼は、尊王攘夷派を徹底的に弾圧し始めていました。
安政の大獄です。
さらに、朝廷と組んで慶喜を擁立しようとしていた一橋派への締め付けも行われました。
遂には、西郷と共に動いていた月照にも、幕府の追及が・・・!!
そこで西郷は、命の恩人・月照を、薩摩に匿おうと画策します。
薩摩へと向かいますが、斉彬公が亡くなった薩摩藩は弱腰で、西郷の帰郷は受け入れたものの、幕府との関係悪化を危惧して月照を拒否。
日向への追放を命じました。
薩摩では、日向送りとは、そこで殺害せよということでした。
つまり、藩は西郷にそれを行うように命じたのです。
しかし、恩人を殺すことなどできない西郷・・・。

そこで・・・追いつめられた西郷は、月照と共に、薩摩の錦江湾に向かいました。
1858年11月、二人は入水自殺を図ったのです。
西郷隆盛が入水する前に詠んだ歌は・・・

”ふたつなき
   道にこの身を 捨て小舟
      波たたばとて 風ふかばとて”

死を固く決意していました。
そして、月照も・・・

”大君の 為には何か 惜しからむ
     薩摩の迫門に  身は沈むとも”

こうして入水自殺を図った二人でしたが、天は西郷が死ぬことを許しませんでした。
月照は死に・・・西郷は奇跡的に一命を取りとめたのです。

西郷ひとりだけが生き残る・・・
辛い日々が続き、後の生き方に影響を与えます。
すでに自分は死んだものだと、理想に邁進するのです。

島津斉彬亡き後藩主となったのは久光の子・忠義でした。
西郷隆盛の新しい試練が始まります。
藩主は忠義でしたが、実権は父親の久光が握っていました。
久光は尊王攘夷派ではなく、公武合体派でした。
攘夷派の西郷は邪魔ものでした。
久光・忠義親子は、幕府の関係悪化を避けるために、幕府と対立していた月照と関係が深く、尊王攘夷派だった西郷を奄美大島に島流し・・・蟄居を命じます。
こうして、西郷は歴史の表舞台から消えることとなりました。

1860年・・・一年後・・・奄美大島から遠く離れた江戸で大事件が!!
水戸藩の脱藩者と薩摩藩士が尊王攘夷派の弾圧を続けていた大老・井伊直弼を桜田門外で暗殺!!
世に言う桜田門外の変です。
大老の暗殺によって、幕府の権威は失墜!!
今こそ幕府、朝廷、雄藩が力を合わせるべきでは・・・??
それは、まさに、亡き斉彬が思い描いた挙国一致体制そのものだったのです。
斉彬の教えを受けている西郷・・・
薩摩藩のためには、今こそ西郷の力が必要だ・・・そう考えたのは、西郷の幼馴染・大久保利通でした。
大久保は、お由羅騒動で失職していましたが復帰し、藩主の秘書的存在「御小納戸役」に出世していました。
大久保は、藩主・忠義に西郷の復帰を願います。
それが認められ、奄美大島から3年ぶりに鹿児島に帰ってきました。

その頃幕府は、大老井伊直弼の暗殺で衰えつつある幕府の権威を復活させようと、朝廷と融和を図る公武合体を目指していました。
島津久光は公武合体の一翼を担うために上洛することに・・・!!
それに待ったをかけたのが、復職したての西郷でした。
西郷は言い放ちます。
「久光公は、憚ることなく申せば田舎者!!
 しかも、不用意であり、今乗り出したとしても事が成就するとは思えませぬ!!」と。
かつて藩主の座を争った斉彬と比べられ、久光は激怒!!
この時は大久保が仲裁に入り、西郷は事なきを得ますが・・・
結局久光は出発を後らせたものの上洛を決意!!
西郷は、先発隊として出発し、長州・下関で久光を待つことを命じられます。
しかし・・・京都で尊王攘夷の過激派たちによる挙兵の知らせを受けた西郷は、過激派たちの企てを阻止すべく、久光を待たずに勝手に京都に向かってしまいました。

この西郷の行動に再び激怒!!西郷を捕らえるように命じます。
捕らえられた西郷は、一切の弁明を許されず薩摩に強制送還!!
島流しとなりました。
奄美大島から戻って僅か4か月のことでした。
西郷は徳之島に流され、沖永良部島に・・・。
西郷を待ち受けていたのは、想像を絶する過酷な日々でした。
格子で囲われただけの広さ4畳ほどの獄舎に、風雨を遮ることもできずに、海の波しぶきも飛び込んできます。
やがて西郷は風土病に感染・・・生死を彷徨うこととなります。
瀕死の西郷を見かねた島の代官・黒葛原源助は、座敷牢を作りそこに西郷を移すという願いを藩に申し出ました。
そして、その建設をあえて遅らせ・・・その間に自宅に住まわせ妻・マツに看病させました。
マツは、大久保利通の父・利世が代官傅役として島に赴任したときに、島の妻との間にできた娘でした。
奇しくも幼なじみとの縁が西郷の命を助けたのです。
島の人々の好意によって徐々に回復する西郷・・・。
そして、島での暮らしを通じて一つの生き方にたどり着きます。

”敬天愛人”

敬天愛人とは、天を敬い人を愛すること・・・
そんな西郷は突然鹿児島への帰還が許されます。
それは、島流しから2年後のことでした。
そこには「御側役」になっていた大久保の進言があったといいます。

西郷には尊敬する人物がいました。
フランス皇帝””ナポレオン・ボナパルト””です。
当時、ナポレオン伝が志士たちの間で愛読されており、西郷もそれを読んだのでしょう。
一介の軍人に過ぎなかったナポレオンが、フランスの英雄となり、皇帝となる・・・そして、やがて敗軍の将となり二度にわたって島に流されます。
西郷は、自分と似ているナポレオンの人生に共感したのかもしれません。
若くしていろいろ経験し、大きな人物へと成長した西郷は、こののち、歴史の表舞台へと駆けあがっていくのです。

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