嵐に弄ばれた少年たち 「天正遣欧使節」の実像

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カトリック総本山のバチカン・・・
ローマ教皇をいただく聖地として多くのキリスト教信者からの信仰を集めています。
今から400年ほど前、この地を訪れた日本人がいます。
それが、天正遣欧少年使節・・・伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンです。
4人の少年たちは、戦国時代にローマ教皇に会った日本人としてその名を刻むこととなります。
少年たちのその後は、戦いの連続でした。
当時の日本は戦国の乱世・・・人々は死と向き合いながら生きなければなりませんでした。
苦しみの中、人々が救いを求めたのがキリスト教でした。
信者の数は爆発的に増加、40万近くに達します。
戦国の世=キリシタンの世紀だったのです。
日本の信者を導くために帰国した遣欧使・・・その4人を待っていたのは、変わり果てた祖国でした。
激しさを増していく切支丹弾圧!!
戦乱を終わらせた天下人は、キリスト教に魂の救済ではなく。。。
キリスト教は有害である!!
切支丹への迫害が進む中、遣欧使節はそれぞれの道を進むことに・・・。

1582年、一隻の南蛮船が長崎からローマに向けて出港しました。
そこに乗っていたのが、天正遣欧少年使節でした。
伊東マンショ・千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンです。
4人は武士の子供たちで、この時13歳前後。
熱心な切支丹でした。
彼らはどうしてローマに送られたのでしょうか?

1549年遣欧使節が送られる30年ほど前、キリスト教伝来。
イエズス会・フランシスコザビエル達です。
ローマ教皇を頂点とするカトリックの一派で、この頃、布教のために宣教師を世界に派遣していました。
この中で、信者の獲得に成功したのが日本でした。
遣欧使節が送られる直前の1581年には切支丹の数は15万に達していました。
大名から農民まで爆発的に広がり、戦国時代は切支丹の世紀と呼ばれることになりました。
これほどまでに、キリスト教が広まった背景には、戦国の世相が関わっています。
絶え間なく続く戦、疫病、飢餓が蔓延・・・人々は生きる幸せを見いだせなくなっていました。
絶望の中、キリスト教のある教えが人々の心を掴むのです。

ドチリナ・キリシタンには・・・
”後生(来世)に扶(助)かる道”と書かれています。
この教えを信じれば、あの世ですくわれると説いたのです。
日本人にとって死というものが身近な時代、明日死ぬかもしれない、来年かも知れない・・・
次の世界で素晴らしいことが待っている・・・
神様は耳鼻深いと説く宣教師はついて行きたい存在でした。

戦国の人々のニーズを満たし、急激に広まったキリスト教・・・
イエズス会の宣教師・ヴァリニャーノは、日本での布教の効果をローマ教皇に宣伝するために、遣欧使節を派遣することを思いつきます。

ヴァリニャーノは、キリシタン大名の親類や、ゆかりの者を選び出します。
伊東マンショ=大友宗麟
千々石ミゲル=有馬晴信
原マルチノ・中浦ジュリアン=大村純忠
キリシタン大名たちの代理のようでした。

一国の支配者である大名たちまでキリシタンに・・・
イエズス会での評価もあがるだろう・・・うってつけの人選でした。
一行は2年半の歳月をかけてヨーロッパへ。。。
1583年3月23日、ローマ教皇・グレゴリウス13世に謁見。
教皇は心を打たれて、滝のように涙を流した・・・。
感激するローマ教皇・・・この涙の裏には、当時のカトリックが置かれていた厳しい現実がありました。
当時ヨーロッパではプロテスタントが台頭し、カトリックと争っていました。
イギリス、ドイツ北部がプロテスタントの支配下となり、信者を失ってきていました。
こうした中、遣欧使節ははるかユーラシア大陸の東の王様がカトリックに改宗したことを知らせる存在だったのです。

「かつて我々が努力によって得たイギリスは失われました。
 しかし、ご覧ください。
 地球を一回りしなければならないほど離れた国が改宗しました。
 我々が失ったものを補って余りあることです。」

遣欧使節は、スペインの国王やフィレンツェのメディチ家などでも大歓迎を受けます。
更に、イタリア、ドイツでも彼らを称える出版物が・・・!!
その数は確認できるもので70以上・・・ヨーロッパで一大ブームを起こしました。
遣欧使節の派遣は見事に成功し、ローマ教皇はイエズス会に巨額の援助を約束します。
はるか東の島国から来た少年たちは、キリスト教世界のヒーローとなったのです。

1590年、天正遣欧少年使節、日本に帰国。
少年たちは20代の青年に成長し、キリスト教会のために尽くそうという熱い信念が・・・
しかし、彼らが見たのは、出発の頃とは全く違っていた日本でした。

1587年天下統一を目前にした豊臣家康は・・・伴天連追放令を出していました。
宣教師(バテレン)たちに日本から出て行くように迫ったのです。
キリスト教への取締が始まりました。
この頃、キリシタン大名の数は増え、九州だけではなく全国に広がっていました。
彼らが宣教師を通じ、スペインやポルトガルと結びつくようなことがあれば、秀吉には大きな脅威となります。
宣教師・フロイスは秀吉の言葉を書き記していました。
「キリスト教は、領主や貴族にまで信者を獲得しようと活動し、決断力は一向宗よりも強固である。
 全国を征服しようとしていることは、疑いの余地はない。」
1597年秀吉の命により、キリシタン26名の処刑が行われる事件が起こり、処刑場となった長崎には記念碑があります。
宣教師だけでなく、子供までもが殺されたのです。
しかし、この弾圧は・・・秀吉の思いとは正反対の方向へ・・・!!
事件の知らせがヨーロッパに届くと、26人を称える運動が発生!!
犠牲者を英雄のように・・・絵画や印刷物が・・・!!
これには殉教という特別な概念が関わっています。
殉教とは、迫害に対し信仰を守り命を落とすこと・・・
キリスト教が誕生して以来、1500年以上にわたって称えられてきた行為でした。

日本では26人もの人が殉教の道を選んだ・・・宣教師たちの日本での布教熱を燃え上がらせます。
秀吉の伴天連追放令をよそに、信者の数は増え続けます。
一方、帰国した遣欧使節は、増加する信者を導くために、聖職者の道を目指し勉学に励んでいました。
彼らが目指したのが司祭。
司祭はキリシタンにとって重要な儀式を行います。
”ゆるしの秘跡”と呼ばれる儀式です。
イエス・キリストに代わって、ゆるしの言葉を与える権限を持つのが司祭です。
1608年・・・伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンが司祭に・・・。
この時、彼らは40歳前後・・・日本のキリシタンのリーダーとしてその未来を担うこととなりました。
その中で一人加わらなかったのは・・・千々石ミゲル・・・
彼は、イエズス会を脱会・・・記録によると、病気によってイエズス会を去ったとされています。
しかし、ミゲルの脱会にはもっと根深いものが・・・??
ミゲルが後に仕えた大村家の書物によると・・・
「キリスト教は来世での救済を説いてはいるが、本当は国を奪う謀をしている・・・」
ミゲルの脱会の裏には何があったのでしょうか?

長崎県南島原市は、ミゲルが少年時代に過ごした地です。
戦国時代、この地方はほとんどの人がキリスト教徒となっていました。
多数派となったキリシタンが寺院や神社を襲い始めました。
攻撃を逃れるために、仏教徒たちは近くの洞穴に仏像を隠すものの、キリシタンたちに見つかってしまいました。

”キリシタンの少年たちが仏像を引きずり出し唾を吐きかけた
 これらの仏像は、直ちに割られ、薪になり、我々の炊事に役立った”

その後もミゲルは、長い年月、異文化、異民族を軽視するヨーロッパ人宣教師を見続けたのではないか?と思われます。
キリスト教が持つ世界こそが最高だという、それが布教先の伝統文化などを壊し、衝突を繰り返していたのです。
千々石ミゲルは当時のキリスト教布教の中の問題から脱却するために、イエズス会を離れたのです。

しかし、多くの摩擦を繰り返しながらキリシタンは増え、1600年ごろには30万人に達していました。
1612年伊東マンショ病で死去。
日本人司祭として人々を導く重責は、原マルチノ、中浦ジュリアンの二人にかかっていました。

1603年、徳川家康が江戸幕府を開きます。
家康はカトリックであるスペイン、ポルトガルと貿易をするため、キリスト教への大規模な取り締まりはしませんでした。
その間に、信者の数は増加・・・1614年には37万人となっていました。
もしかすると、キリスト教が日本で全面的に認められる日が来るかもしれない・・・。
原マルチノ、中浦ジュリアンは期待を持ち始めていたのです。
しかし、1614年最悪の事態が・・・!!
家康が、日本にいる宣教師たちに突如、国外追放を命じたのです。
慶長の禁教令です。
日本のキリスト教布教の拠点だった長崎では、これまでにない迫害が繰り広げられます。

”異教徒たちは、小躍りして喜び、教会を破壊し始めた。
 見るに堪えがたい光景だった。”

どうして家康は厳しい弾圧と、宣教師たちの追放を始めたのでしょうか?
その理由の一つが豊臣家の存在です。
幕府の体制強化を望む家康にとって、秀頼は最後の生涯でした。
当時秀頼は、家康に対抗するために大坂に人を集めていました。
そこには、キリシタンの武将や宣教師がいました。
家康は、37万人もいるキリシタンが結束して秀頼に味方し、自分に敵対することを恐れたのです。
そしてもう一つ・・・イギリスやオランダなどのプロテスタント勢力との貿易です。これらの勢力は、宗教を持ち込まず貿易だけを行ってくれていました。
家康は新しい選択肢を手にいてたのです。
追放令を受け、原マルチノと中浦ジュリアンらイエズス会は次のような対抗策を出します。
①宣教師8割を海外へ退去
幕府に従っているかのように見せます。
②宣教師2割を日本に潜伏
布教活動を継続させる。
海外に退去する者と、日本に潜伏する者・・・2つに分けて、乗り切ろうとします。
イエズス会の決定は、マルチノとジュリアンの二人の未来を引き裂くことに・・・
ジュリアンは日本にとどまり布教、マルチノは海外に退去することになりました。
しかし、この命令は、日本を去らなくてはならないマルチノにとっては大きな矛盾をはらんでいました。
司祭を含む宣教師たちのほとんどが海外に退去した後には、37万人ものキリシタンたちが日本に残されることとなります。
僅かに残った司祭では、膨大な信者に許しの秘跡を行うのことはできない。。。
罪が許されなければ、天国への道が閉ざされてしまう。。。
その結果、救済すべき信者に大きな苦しみが残ることに・・・!!
しかし、マルチノにはイエズス会に従い、日本からの退去以外に道はありませんでした。
マルチノは、語学が堪能で、”日本支社のカリスマ支店長”のような存在でした。
当然、日本側はマルチノが残るだろうと思っていたのですが、イエズス会は・・・
日本人に人気があるので、マルチノを日本に置いておくと「独立して起業してしまう」・・・ヨーロッパ人の手を離れた独自の日本人教団になってしまう・・・と恐れたようです。
ジュリアンは”現場のモーレツ営業マン”で、いつも現場で身を粉にして働いていました。

別々の道を歩むことになった二人・・・
1614年11月、原マルチノたちイエズス会士は日本を去りました。
転居先に選んだのがマカオ。
マカオは中国大陸の沿岸にあり、イエズス会が拠点にしていた港町です。
長崎とは貿易船で結ばれていて、日本の情報も入ってくる絶好の場所でした。

イエズス会が建てた世界遺産・聖ポール天主堂・・・
この天主堂は、アジアで最も壮麗な教会とされていました。
この教会の建築に関わったのが、日本を追放された日本人キリシタンたちでした。
教会の建設に参加した日本人たちは、大きなプロジェクトに加わる喜びを感じる一方で、徳川幕府のキリシタン弾圧が終わり、祖国に帰れる日を待ちわびていました。

原マルチノも、マカオで日本の帰国準備をしていました。
マルチノは語学に才能長けていたので、多くのキリスト教に通じる書物を翻訳。
それらは活版印刷で刷られ、日本での布教を担う宣教師の養成に使われました。
マカオで仲間を増やすマルチノ・・・あとは、日本で禁教令が解かれるのを待つだけでした。
しかし・・・思い通りにはなりませんでした。
家康の後を継いだ二代将軍・秀忠は、キリスト教への弾圧をさらに強めていきます。
1622年元和の大殉教・・・長崎でキリシタン55人が処刑されました。
火あぶりにされる宣教師、首を斬られる信者・・・当時幕府は鎖国へと踏み出しつつあり・・・キリスト教容認の必要性が無くなっていました。
日本にとどまった中浦ジュリアンは、追手から逃げながら布教を続けていました。
この頃、激しい弾圧に屈し、キリスト教を捨てるものが出て来ていました。
ジュリアンは農民に変装し、村々をまわり、信者たちを励まし続けます。
ジュリアンがイエズス会に出した手紙が残っています。
1621・・・元和の大殉教の前に書かれたものです。
”決して終わらない迫害の中、私には4000人もの信者の世話が任されています。
 キリスト教会のために働く力は、まだ十分に残っています。
 ローマからお送りくださった「信仰心を呼び起こす品々」も、信者たちに分け与えました。
 この品々によって記された愛情を深く感謝します。”
信仰心を呼び起こす品々・・・最近発見されたそれは、”メダイ”でした。
中浦ジュリアンが布教活動をしていく中で、地域の人にも配られたもののようです。
ジュリアンの活躍によって、一度は信仰をやめた人々が再び信仰を取り戻していきます。
メダイが発見されたのが、原城跡。。。島原の乱の舞台でした。
天草四郎の元に、3万を越えるキリシタンが集結・・・幕府に反旗を翻したのです。
ジュリアンが布教を行った人々も、この乱に参加。
信仰のために、壮絶な戦いに・・・。
そしてこの地域の住民のほぼ全員が命を落としたのです。
潜伏してから18年後・・・ジュリアンはついに捕らえられ、5日間に及ぶ拷問に耐えたのち殉教・・・
60代半ばだったと言われています。
最期の言葉は・・・
”私はローマを見た中浦ジュリアン司祭だ”
マカオに追われたキリシタンたちが建てた聖ポール天主堂。。。
日本で命を落とした殉教者の遺骨は、家族や仲間の手によってこの地にもたらされました。
そして、信仰を最後まで貫いた証として、今も崇められています。
原マルチノは日本での殉教の話を聞いてどう思ったのでしょうか?彼の言葉は残っていません。
徳川幕府のキリシタンへの弾圧は、さらに激しさを増し・・・日本に戻る道は完全に閉ざされてしまいます。
祖国の仲間や信者を思い続けて15年・・・マルチノは異国の地でその生涯を閉じたのでした。
1629年原マルチノ死去・・・
日本でキリスト教が許されるのは、200年以上後の、明治の代を待たなければなりませんでした。




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