どんな難題や大ピンチもとんちで解決・・・小坊主一休さん。
一休さんこと一休宗純は、、室町時代を生きた実在の禅僧です。

絵本やテレビアニメでお馴染みの一休さん。
中でも有名な話が、室町幕府三代将軍足利義満に招かれたときの事・・・
「あの屏風に書かれたトラを捕まえてみよ」by義満
そして縄を手に取りこう答えます。
「準備ができました。
 それではここからトラを出してください!!」by一休
一休のとんちに将軍も天晴!!

ある商家が一休を家に招きますが、その家の周りは濠で巡らされています。
「このはしわたるな」と、立札が書かれていました。
ひらめいた一休は、臆することなく橋を渡っていき・・・
「はしをわたるなと書いてあったので、真ん中を歩いてまいりました。」by一休

意地悪な難題を突き付けられても機転を利かせる小坊主・一休・・・
これらのエピソードの元となっているのが、江戸初期に出版された「一休咄」に書かれています。
降りかかった難題を解決する一休の明快なストーリーが人気を呼んで大ヒットしました。
その後もいくつも一休本が出版され、とんちの一休さんというイメージがつきました。

このとんち話は実話なのでしょうか?

ほとんどすべて、後世に作られた創作で・・・しかし、一休と全く関係がないかというとそうではない・・・。
一休の生涯を弟子たちがまとめた「一休和尚年譜」には、とんちにつながるエピソードがあります。
実際には、義満ではなく4代将軍・義持に会っていたといいます。
つまり、一部の史実を元に創作されたものです。
実際の一休は・・・ひげ面で髪を伸ばしたお世辞にも愛くるしいとはいえない型破りな僧侶でした。
そういった風貌から、破戒僧と呼ばれていました。
そして人生もまた型破りでした。

・出生の秘密
京田辺にある酬恩庵一休寺は、一休が再興した寺です。
宝物殿には一休ゆかりの品が大切に保管されています。
一休が履いていた靴・・・23cmほどで動物の皮で作られ、ボロボロに履き潰されています。
さらに、一休の出生の品もあります。
時の後小松天皇から拝領した青磁の鉢・・・この鉢を特別に大切にしていた理由は・・・
ふたりの間柄にありました。
一休の母・伊予の局は後小松天皇の側室で、一休はその二人の間にできた子供だったのです。
しかし、天皇の子でありながら、1394年1月1日、京都・嵯峨野で人目をはばかるように生まれます。
幼名は千菊丸・・・当時は、60年にわたって分裂していた南朝と北朝が3代将軍足利義満の画策により統一・・・南朝の後亀山天皇が、三種の神器を北朝の後小松天皇に渡したことで、後小松天皇が正当な天皇となりました。
ただ・・・統一したとはいえ、北朝の南朝に対する不信感は根強いまま・・・
そんな中、一休を身籠った伊予の局は南朝出身だったことから、後小松天皇に近づいたスパイであるとあらぬ噂をかけられ、宮中を追われたために、人知れず一休を産むことに・・・。
この命を案じた母は、6歳になった我が子を臨済宗の安国寺に預けます。
周建と名付けられた小坊主は、才能を発揮していきます。
中でも禅問答である公案が得意でした。
幼いころから禅問答を得意としていたことから、とんちの一休さんのモチーフになったようです。
13歳になると東山建仁寺に入り、漢詩を作ることを日課とします。
生涯にわたって作られた詩は、知られているだけで1060に及びます。
詩作の喜びを知り、悟りを開くため修行に励む一休・・・
しかし、21歳になったある日・・・真冬の琵琶湖で入水自殺を図るのです。

どうして一休は死のうとしたのでしょうか?
当時、室町幕府は京の主だった寺を管理していました。
一休が修行していた寺もその一つで、手厚く保護されていました。
そのため、僧侶は権力と結びつき、賄賂によって地位や権力を手に入れるようになり、堕落していました。
「ここにいて、この先、真の悟りなどあるのだろうか。」
一休は疑問を感じるようになります。
そして、権力と結びつくことを拒んだ一休は、高僧として知られた謙翁宗為の門をたたき、ただひたすらに厳しい修行の日々を過ごすのです。
しかし、門下となって4年・・・心酔していた謙翁宗為がこの世を去ってしまいます。
極めて真っすぐで真面目だった一休・・・一休の自殺未遂は、謙翁宗為の死で心の支えが無くなってしまったからでした。

しかし、一休は死に切れませんでした。
残されたのは全の道だけ・・・と新たな師を求めます。
京都を去って、近江堅田へ・・・祥瑞庵の華叟宗曇禅師の門をたたきます。
華叟は、俗化した都の宗教界に嫌気がさしていた人物で、その志の高さに強く共感したのです。
入門が許されなければ死ぬ覚悟でした。
甘えや妥協を許さない華叟は、門を閉ざし、一休の入門を拒んだのです。

「それでも私は一日中庵の前で、こうして頭を地につけ入門を願いました。」

息詰まる空気の中・・・3日たち、5日たち・・・不動の姿勢でいる一休を見た華叟は、驚くべき言葉を発します。

「水をかけ、某でたたいて追い払え!!」

しかし、一休は動じません。

「ただ、私は全の道を極めたい その一心でいました」

華叟はついに門を開きました。
仏法に権力を持ち込むことを嫌った華叟は、その志の高さからか暮らしぶりは貧しさを通り越し、極貧でした。
華叟や弟子たちは、まともな食事もとれず、庵では薬草を売って命を繋いでいました。
一休は、上流階級向けの香袋や雛人形作りの内職をして、生計を支えていたといいます。
苦しい日々の中、平家物語を聞いた一休は、この上ない無情を感じ・・・

「有漏路より 
 無漏路に帰る一休み
 雨ふらば降れ
 風ふまば吹け」

と歌を読みました。
華叟はこの歌の中から、一休を与えました。
一休宗純の誕生です。

ある夜の事・・・琵琶湖でこぎ出した船の中で座禅を組んでいた一休は、暗闇で鳴くカラスの声を聴き・・・

「カラスは見えなくてもそこにいる
 仏もまた見えなくとも心の中にある」

これを聞いた華叟は、一休を後継者と認め、印可状を授けることに・・・
しかし、一休は頑としてこれを受け取りませんでした。
当時印可状を欲しいと躍起になっている者はたくさんいましたが、一休は悟りは紙面では伝えられないと考えていたのです。
不伝の伝と考えていたのです。

悟りを開いた一休・・・奇抜な行動が目立ってきました。

・破戒僧の秘密
悟りを開いた一休は、髪を伸ばし、ひげを伸ばし始めました。
暮らしぶりも禅僧に非ず・・・公の場で酒を飲み、女好きを公言します。
著書「狂雲集」でも書いています。
一休は美女に目がなく、ナンパまでしていました。
人々は、一休のことを破戒僧と呼ぶようになります。
一休42歳、大坂・堺にいた頃・・・一休は外出する際には、長さ三尺の刀を持ち、その鍔をたたきながら歩きました。
禅僧が刀をもって歩くなど、正気を疑われる行いです。
町の人が一休に尋ねます。

「剣は人を殺すためのものでしょう?
 和尚さんは、何のために剣を持っているのですか?」

すると一休はその剣を抜いて見せました。
中身は木刀でした。

「あなたたちは何もご存じないようだが、今あちこちの贋坊主どもはこの木剣のようなものではないか
 鞘に納まっていれば立派に見えるが、鞘から抜けば中身はただの木片に過ぎない」

と説いたのです。

一休が最も嫌ったのが偽善でした。
偽悪になることで、偽善をあぶり出す・・・当時の仏教界の現状・・・権力者やお金持ちに近づいて仏法を商売道具にしているのではないか??
当時の禅僧を批判するパフォーマンス・・・身をもって禅の姿を伝えていたのです。

「有難そうな経文の巻物など、もともと便所のチリ紙とおなじようなものじゃ
 言葉をもてあそぶ紙切れに過ぎない
 臨済宗の開祖・臨済義玄は、有難いお経で何のためらいもなく尻を拭いたそうじゃ」

経文にとらわれてしまっては、仏の知恵とは外れてしまう
それのみを深く追求するようになってはならない・・・ということを言っているのです。
常識は時にひとを責めたり、苦しめたりします。
全ての物を捨てて「無」になれというのが一休の・・・禅の教えでした。

・破戒僧の教え
一休は、広く庶民たちにもわかるように禅の教えを説いていきます。
その一つが「一休骸骨」と呼ばれる法話集です。
仏教の教えが、優しい言葉と多くの挿絵で書かれています。
登場するのはユーモラスな骸骨!!
話は、墓場に迷い込んだ僧が、酒宴で骸骨に出会う場面から始まります。

「くもりなきひとつの月をもちながら
    うき世の闇に まよひぬるかな」

くもりなき月=菩提心という清らかな心・・・
人間は、清らかな心を持ながら、どうして闇の中を迷わなければならないのか??
これに対し一休は、迷う心・・・煩悩があればこそ菩提心があると説いています。
よって煩悩があって迷っても、菩提心があれば願わなくても仏になれると説き、

「人間 死んで皮が破れてしまえば、どんな人間も骸骨に他ならない」

貧しい人も裕福な人も、一皮むけば骸骨・・・こうした教えを、各地を巡って説いていきます。
地位や身分にとらわれず、人々に接した一休・・・その常識にとらわれない自由で奇抜な説法は、人気を集めて、人々の信頼を得ていきます。
しかし、その日々は孤独との戦いでした。
一休寺に肖像画が・・・そこに直筆の言葉が残っています。

「この100年間、東海の禅界で瘋癲の限りを尽くしてきたのがこの妖怪のような男
 今日の日本に禅はない。
 だれかこの一休の面前で禅を語ることのできる者がおるか」

この乱れた時代・・・
正当な禅の教えを伝えていく自負と重責・・・そんな一休が二度目の自殺を図ります。

・二度目の自殺
54歳になった一休は、突然寺を出て、山中へ分け入り、一切の食事を断ち、餓死しようとします。
大徳寺の以遠力争い・・・の中で、35人の禅僧が獄につながれてしまいます。
同じ禅僧の失態を前に、一休は恥ずかしさに耐え切れなくなり、山中で自殺を図ったのです。
この時、一休を思いとどまらせたのが、義理の兄弟だった後花園天皇でした。
天皇は、直ちに勅を出します。

「けっしてそのようなことをしてはならない
 そうなれば、仏法も、王道も滅びてしまうだろう
 師よ どうして朕を見捨てるのか
 師よ 国を忘れるのか」

自殺を思いとどまった一休は、京都を転々としながら修行します。
そして63歳の時、臨済宗の高僧・大応国師が建立し、戦火で焼かれ荒廃していた妙勝寺を恩返しにと20年以上もかけて修復し、再興します。
これが、酬恩庵一休寺です。
仏の恩に報いるという意味で、一休が名付けました。
しかし、再興のさなか、応仁の乱が勃発します。

寛正年間のはじめ・・・台風や洪水などの天災に見舞われ、飢饉が重なり、わずか2か月で8万の餓死者を出したと伝えられています。
疫病も広がり、鴨川は死体で流れが堰き止められるほどだったといいます。
一休の嘆きと怒りは権力者たちに向かいます。

・権力者への怒り

時の将軍・8代義政は、財政が破たん状態であったにもかかわらず、花の御所を造営・・・その妻・日野富子は将軍を無視して権力をふるい私腹を肥やしました。
そんな日野富子について一休は・・・

「俗世の女人の厄いは、脚の裏についた煩悩の紅い糸だ
 天下の老禅師もこの強欲には手を焼いている」

世俗の塵にまみれた貪欲な女性が権力を握れば、決まって騒ぎが起きるというのです。
一休74歳の時、その懸念は敵中!!
1467年応仁の乱勃発。
富子が実子である義尚を将軍にしようと画策し、西軍と東軍が対立!!
十数年にわたり内乱が繰り広げられ、主要な戦場となった京都は、壊滅的な被害を受け、すっかり荒廃してしまいました。

1474年、82歳になった一休に、勅命が下ります。
消失した大徳寺の住職になるように・・・と。
すぐさま再建に取りかかりますが、それには今のお金で数十億円が必要でした。
一休は自らの足で京都や堺を回り、再建のための寄進を求めます。
すると・・・武士や商人、庶民までもが寄進をしてくれました。
そして5年後の1479年、一休86歳の時に大徳寺の仏殿は完成します。
しかし、一休は住職にもかかわらず、大徳寺には住まず、生活の拠点としていた酬恩庵から25キロの道程を輿に乗ってわざわざ通ったといいます。

それは、一人の女性の為でした。
一休77歳の時・・・盲目の女性は名を森女といい、一休よりも50歳も若かったのです。
一休は、酬恩庵に住まわせた森女と一緒に居たいがために、わざわざ酬恩庵から通ったのです。
森女は一休にとって大事な存在で、一休の晩年の仕事を支える精神的支柱となりました。

酬恩庵一休寺にある虎丘庵は、応仁の乱の中、一休が自ら京都の東山から移築した庵です。
一休はここで、晩年、最愛の人・・・森女と暮らしながら詩作にふけりました。
死が二人を分かつまで・・・

京田辺にある酬恩庵一休寺・・・
ここに一休の木造が安置されています。
87歳の時に弟子に作らせたもの・・・ありのままの姿を後世に残そうと、等身大に・・・。
自分の毛髪やひげをそりつけさせたといいます。
今でも植え込んだ跡が残っています。
禅僧は髪を剃るもの・・・形式にとらわれずに・・・一休最後のメッセージでした。
木造が完成した翌年・・・1481年10月、一休は熱病が悪化、その1か月後・・・座禅の姿で眠るように亡くなりました。
11月21日、88歳の生涯でした。

そして死の間際にこう一言・・・
「しにとうない・・・」
悟りを得た高僧とは思えない・・・人間らしい、一休らしい最期の言葉でした。

一休辞世の詩・・・
「長い間花の下で 詩情を磨いてきた
 わしの一生涯の風流は、無限の情の中にあるのだ」

そんな一休を慕い、風流の心を受け継いだ者たち・・・
茶道・村田珠光、連歌・宗祇をはじめ、俳諧師や絵師たちなど・・・今に伝わる日本文化のパイオニアたち・・・
一休の美意識と精神は、文化となって連綿と受け継がれていったのです。

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