最終戦争論 (中公文庫BIBLIO20世紀)

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75年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。
そして、実に多くの尊い命が亡くなりました。
当時、開戦に強く反対した元陸軍幹部がいます。
しかし、その幹部こそ、日本が泥沼の戦争に向かうきっかけとなった満州事変を起こした人物です。

1931年南満州鉄道の線路を関東軍が爆破。
これを中国軍の仕業として、軍事行動を開始したのが満州事変です。
この満州事変の首謀者は石原莞爾。
石原は、政府・陸軍上層部の指示を無視し、独断でことを進めます。
その結果、日本は国際社会から孤立し、日中戦争・太平洋戦争へと突き進んでいきます。

石原は、周囲から”陸軍の異端児”と呼ばれていました。
頭脳明晰ながら、組織に馴染めない変わり者・・・
そんな石原は、満州事変を起こした後、孤立していきます。
満州事変を起こしたのに、日中戦争、太平洋戦争に反対だったのです。
勝てないと踏んだからです。
しかし、そんな石原の思いとは裏腹に、部下や現地軍が暴走していきます。
現場から外され・・・敗戦へと進む日本をただ見ているしかなかった石原莞爾。
その策謀と誤算は・・・??

1889年石原莞爾は山形県鶴岡市で生まれます。
小さい頃から気性が荒く、手に負えない腕白坊主でした。
1902年、13歳の時に、仙台陸軍地方幼年学校に入学。
そして・・・陸軍の異端児となっていくのですが・・・。

どうして、陸軍の異端児と呼ばれるようになったのでしょうか?
陸軍の学校で、ロクに勉強しなかった石原。
しかし、3年間常に成績トップでした。

1907年、18歳で歩兵部隊に配属。
軍隊ではありえない・・・事あるごとに上官に楯突きます。
大人に対する遠慮、上司に対する遠慮、先生に対する遠慮はなく、物事をストレートに・・・
正しいと思ったことは突き進む性格でした。

1915年、26歳で超エリートの陸軍大学校に入学。
その受験の時・・・
「機関銃の最も有効な使用法は?」と聞かれ、
「飛行機に装備し、タタタタと銃射を浴びせることです。」と答えました。
当時の日本の飛行機は、偵察するのがやっとで機銃掃射など想像もしない時代でした。
しかし、石原は、戦闘における飛行機の可能性にいち早く気付いていたのです。

この頃、ヨーロッパでは、第一次世界大戦勃発!!
一方アジアでは、欧米列強による植民地支配が・・・
そして、日本も植民地獲得に躍起になっていました。

陸軍大学校を優秀な成績で卒業した石原は、1923年、34歳でドイツに留学。
今後、日本が直面する戦争に備え、第一次世界大戦の分析をするためです。
精力的に関係者を訪ね歩きます。
そして・・・第一次世界大戦は、軍と軍との戦いにとどまらず、資源、生産力・・・その国の国力が問われる総力戦だったということに気づきます。

総力戦の時代を迎え・・・世界はどう動いていくのか・・・??
石原は独自のシナリオ「世界最終戦論」を築き上げます。
まず、第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパの代わりに、西洋の中心はアメリカとなると予測。
一方、東洋では、日本がアジアの国々を植民地支配から解放し、東洋の中心となると。。。
そして、半世紀ほど後、アメリカと日本の間に最終戦争が勃発!!
戦闘機の発達により、互いの国を直接攻撃できるようになり、最終兵器が登場すると見込んでいました。
この最終戦争の結果、東西文明は統一され、絶対平和がもたらされると考えたのです。

石原は、日蓮宗系の「国柱会」に所属していました。
世界最終戦論は、”この世を揺るがす前代未聞の大闘争が起きる”という日蓮の預言にも合致する!!
このシナリオに、絶対の自信を持っていた石原。

しかし、その最終戦争は、多くの人が犠牲になることを前提としていました。
「最後の大決勝戦で、世界の人口は半分になるかもしれない。
 戦争は最も悲惨なる最も悲しむべき、最も憎むべきもの。
 だが戦争は、文明を破壊しつつも、しかも新文明の母たりしものなり。」

1931年満州事変・・・石原は、世界最終戦争に向けた第一歩を踏み出します。
しかし、政府や陸軍上層部は、戦争不拡大の方針を打ち出し、食い止めようとします。
その中で・・・どうして石原は自分の思惑を実現できたのでしょうか??

1928年39歳の時に、自らの希望で満州・関東軍の作戦参謀になります。
関東軍とは、日露戦争で獲得した遼東半島と南満州鉄道の沿線を守る日本軍のことです。
石原は、世界最終戦争のためには国力の増強が必要だと考えていました。
そのためには、鉄鉱石や石炭、農作物が必要となります。
しかし、日本の国土だけでは・・・
「わが日本の国力は、遺憾ながら頗る貧弱なり。」
そこで石原は、資源や農作物が豊富な満州や内蒙古・・・満蒙を日本の支配下に置こうとしたのです。
しかし、国際情勢は逆の方向に進んでいました。
第一次世界大戦の反省から軍縮・国際協調へ・・・!!

ところが、石原に思わぬチャンスが・・・!!
1929年世界恐慌です。
日本も失業者があふれ、大不況!!
疲弊した農村では、娘の身売りが後を絶ちませんでした。
この深刻な不況に・・・国民の不満が高まっていました。
石原は、この機を捕らえます。
「現下の不況を打開し、東洋の選手権を獲得するためには、満蒙問題の解決は刻下第一の急務と言わざるべからず。」
満蒙を手に入れることが不況対策に・・・!!
石原の指導の下、関東軍は満蒙制圧の具体的な計画を練り上げていきます。
最大の問題は、戦いを始める大義名分でした。
そこで・・・謀略をめぐらせます。
満鉄を自ら爆破し、それを中国軍のせいにし、攻め込む口実を作ろうとしたのです。
計画の決行は、1931年9月末を予定。
しかし、情報が洩れ・・・石原の暴走を止めるために、上層部が満州へ!!
この動きを知った石原は、すぐに計画の実行に踏み切ります。
9月18日夜10時半ごろ・・・満州・柳条湖付近・・・関東軍は、自作自演で満鉄を爆破。
これを中国軍のせいにして攻撃を開始します。
翌日には、満鉄沿線の都市をほぼ占領!!
しかし、石原にとってはここからが正念場!!
当時の中国軍は27万人、これに対し、関東軍は1万人。
満州全体を占領するには、兵力の増強が欠かせません。
そこで石原は、朝鮮半島に駐留する日本軍の協力を得ようとします。
が・・・そこには問題が・・・
当時は朝鮮半島は日本。
中国に来てもらうということは、国外派兵ということになってしまうのです。
国外派兵を行うには、天皇の許可が必要だったのです。
しかし、政府は戦争不拡大の方針で、天皇の許可が下りる見込みはありませんでした。
そこで・・・一計を案じます。
北の吉林に攻め入ることで、わざと南を手薄にし、朝鮮からの出兵を促そうというのです。
吉林への攻撃が始まりました。
すると・・・朝鮮半島の駐留軍が独断で満州へと出兵!!
石原の狙い通りとなりました。

そして、陸軍での実務メンバーも、石原に協力。
関東軍だけでなく、陸軍の多くのセクションを巻き込んでいくことで、規模を大きくし、既成事実を膨らませることでもう後戻りができなくする・・・!!
この機を逸さずに、満州を日本の勢力下におくことが、世界最終戦に繋がる決定的なもので、非常に強い信念をもって、計画通りに迷いなくやったのです。

時の総理大臣・若槻礼次郎は、この動きを問題視し・・・しかし、陸軍の幹部は、この越境は、事態に敵か気宇に対処したものと、強硬に主張しました。
これに対し若槻は。。。
「すでに出動せる以上、致し方なきにあらずや」
石原たちの行為を、政府が追認したのです。

石原の思いのままに進んでいく・・・これは、現場がやって政府が追認するという下剋上を植え付けてしまいました。
1932年、43歳の時に「満州国」建国!!
満州国建国から3年・・・1935年、46歳で参謀本部の作戦課長に・・・!!
極秘書類を見て驚愕します。
満州事変のあと、ソビエトが極東の軍備を強化していたのです。
兵力は日本の3倍、戦車や航空機の数は5倍・・・

「満州事変後2,3年にして、驚くべき国防上の欠陥を作ってしまった。」

これに対抗するために、石原は国力の増強に努めます。
そして打ち出したのが・・・ソビエトを参考にした1937年「重要産業五か年計画」です。
5年間で鉄などの生産を2~3倍、さらに航空機の生産を10倍にするというものでした。
この5か年計画を達成するまでは・・・5年間は戦争をしないと打ち出します。

しかし・・・現地の軍は、日中戦争を開始し、戦線は拡大!!

どうして石原は、これを止められなかったのでしょうか?
関東軍は、石原が日本に帰ったのち、ある計画を進めていました。
内蒙古を中国から独立させ第二の満州国を作ろうとしていたのです。
石原はこの計画をやめさせようとします。
ソ連の脅威が迫る中、中国とのもめ事は得策ではないと判断したのです。

しかし、石原の前に一人の男が立ちはだかります。
関東軍第二課長・武藤章です。
「私はあなたが満州事変で大活躍されました時分、大いに感心したものです。
 あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で実行しているものです。」

言葉を失った石原・・・
満州国建国の際、自ら作り出した下剋上の風潮が、自分自身につき返された瞬間でした。
さらに・・・
1937年盧溝橋事件勃発!!そしてこれによって日中戦争勃発!!
数発の発砲を機に、武力衝突に発展したのです。
石原が5年間戦争をしないと言っていから、僅か2か月後のことでした。

この時、作戦部門の実質的最高責任者となっていた石原は、戦線不拡大の方針を打ち出します。
かつて対立した武藤が、真っ向から対立!!
石原は、近年中国で反日感情が高まっていることから中国との戦争は長期となり、国力が持たないのでは??と、主張します。
これに対し、無糖は対支一撃論を主張!!
一撃与えれば、中国はすぐに屈服すると思っていました。
この・・・中国はすぐに屈服するという考えは、当時の軍部に広がっていました。
その根拠は、満州事変の際に、1万の関東軍が27万の中国軍を制圧できたことにありました。
そして石原は、重大な決断を迫られることになります。

武藤ら戦線拡大派は、中国への派兵を要求します。
石原は、この派兵に断固反対!!
そこに思わぬ情報が・・・!!
南方にいた中国の精鋭部隊6万が、北京へ進軍しているというのです。
このまま放置すれば、北京にいる日本軍と在留日本人が危機・・・皆殺しにされてしまう・・・!!
石原は、やむなく派兵案に同意!!

「結局、第一線でごたごたがあり、しかも派兵するには数週間かかる・・・
 不拡大を希望しても、形勢逼迫すれば、万一の準備として動員を必要とすることになるわけであります。」

しかし、石原が得た情報は誤りでした。
この中国の精鋭部隊はわずかだったのです。
派兵を認めてしまっている・・・北京で日本軍が攻撃を開始。
もはや打てる手はなかったのです。
その後、上海に戦争が拡大。
苦戦が続く中・・・石原は、さらなる派兵を認めることに・・・
戦争を食い止めることができなかった石原・・・日中戦争勃発の2か月後、自らの意志で参謀本部を去ったのでした。
その後も戦線を広げる日本は、南京に進軍!!
当時、急速に発達したラジオや新聞がこれを報じます。
その活躍が日本中に伝えられていきます。
国民は、日本軍の勝利に熱狂!!
戦勝ムードに沸き返ります。
しかし、中国軍の抵抗は続き、日中戦争は泥沼化。
武藤らが主張した対支一撃論は、夢物語に終わります。
やがて日本は、太平洋戦争に突き進んでいきます。

参謀本部をやめた後、1937年48歳で関東軍の参謀副長となり再び満州へ。
そこで上官となったのが東條英機でした。
石原が参謀本部で中国との戦争を食い止めようとしていた時、東條は戦線拡大を主張していました。
そんな二人は真っ向から対立!!

1940年東條が陸軍大臣に・・・!!
国の招来を託せる人物ではないと激しく糾弾する石原。
業を煮やした東條によって、1941年52歳で予備役に編入されます。
実質的に、陸軍から追い出されてしまったのです。
1941年石原は、郷里に・・・山形県鶴岡市に戻ります。

この年、アメリカは日本への制裁措置として石油の輸出を停止、軍部の中で、”アメリカとの戦争止む無し”の声が出始めました。

「石油が欲しいからと言って、戦争する馬鹿があるか。」

しかし、日本は・・・
1941年12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争を始めてしまいます。
そして翌年には、ミッドウェー海戦で敗北!!
追い込まれていきます。
年の暮れ・・・上京した石原が会ったのは東條でした。

「今後の戦局についてどう考えているんだ?」by東條
「戦争の指導など、君にはできないくらいなことは、最初からわかっている事だ。
 このままで行ったら、日本を滅ぼしてしまう。
 だから、君は一日も早く総理大臣をやめるべきだ。」by石原

1945年8月15日敗戦。

敗戦後、石原は、全国を遊説・・・
将来を悲観する人々に、こう演説しました。

「みなさん、敗戦は神意なり。
 負けて良かった!
 勝った国は今後、益々軍備増強の躍進をするであろうが、日本は国防費が不要になるからこれを内政に振り向ける。
 敗れた日本が、世界史の先頭に立ち腑がくるのですよ。」by石原

会場ではすすり泣く声が・・・

その後、東條は、極東国際軍事裁判で裁かれ、絞首刑となりました。
一方石原は、証人として喚問されるも、罪を問われることはありませんでした。

敗戦から4年・・・マッカーサーに宛てて、「新日本の進路」を書き送ります。

「最終戦争が、東亜と欧米との両国家群の間に行われるであろうという予想した見解は、はなはだしいうぬぼれであり、明らかに誤りであったことを認める。」

一月後・・・
1949年8月15日、石原莞爾死去。
敗戦の日からちょうど4年後の8月15日でした。


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