ひとつの民族でありながら、二つに分断された朝鮮半島・・・
2018年4月、南北にやっと平和が訪れると思われました。
しかし・・・和解と対立を繰り返す南北の駆け引きは終わることがないのでしょうか??
20年前のあの日、分断を越えるための一歩を踏み出しました。
韓国の大統領・金大中、北朝鮮の最高指導者・金正日・・・
史上初の南北首脳会談は、北朝鮮に変化をもたらすように見えました。
それまで閉ざされていた北朝鮮が、アメリカや日本との関係改善に乗り出します。
さらに、ヨーロッパの国々と国交を結び始めました。
南北の人々を歓喜させた初めての首脳会談・・・あの日の希望は如何にして生まれ、失われていったのでしょうか??
韓国の大統領が初めて38度線を越え、敵対する北朝鮮の首都・ピョンヤンに降り立ちました。
①大統領・金大中
1998年2月、韓国の第15代大統領・金大中・・・
彼には就任した時、ある大きな目標がありました。
「我々は、北朝鮮に南北和解のための特使の交換を提案します
北が望むなら、首脳会談に応じる用意があります」
それは、北朝鮮の最高指導者・金正日総書記と直接対話することでした。
「私は、こうした民族的に重要な問題は、首脳同士が直接会って話し合うのが一番望ましく効果があるとずっと思っていました
なので、私は大統領になった当初から、キムジョン総書記と二人で会談したいと考えていました」
半世紀の間、一度も実現したことのない南北首脳会談・・・
そうすれば、北朝鮮を対話のテーブルに座らせることができるのか・・・??
大統領は、離散家族の再開だけは、何としても実現したいと思っていました。
1950年に起きた朝鮮戦争・・・
北朝鮮の南下から始まったこの戦争は、300万人以上といわれる死傷者と、1000万近くの離散家族を生みました。
当時、20代で海運会社を経営していた金大中・・・
戦争で同じ民族同士が戦う姿を目の当たりにします。
その経験は、彼の人生を大きく変えることとなりました。
「私と家族が生き残ったのは、幸運だったが、朝鮮戦争は骨身にしみた
何のために戦い、何のために死ななければならないのか
戦況が変わるたびに、同族間の殺戮戦が繰り返された
だから一生、民族の和解と戦争のない世を夢見ながら生きてきた」
金大中は、朝鮮半島の平和と統一を目標に掲げ、政治家としての道を歩み始めました。
しかし、80年代には、韓国の大統領を狙ったラングーン事件(1983年)や、大韓航空機爆破事件(1987年)など、北朝鮮のテロ行為により対立は激化するばかり・・・
離散家族の多くが次々と亡くなっていく中、金大中にとって南北の改善は急務となっていました。
打ち出したのは、”太陽政策”です。
閉ざされた北朝鮮を開かせるため、経済支援と交流を通して対話の道を模索します。
「北朝鮮も、こちらが強硬な態度に出ると、韓国や日本に対して危険な存在になり得ます
だから、私たちは北朝鮮に対して、経済的支援を進め、私たちの胸に抱きしめなければならないのです」
しかし、今まで対立を続けてきた北朝鮮に、手を差し伸べるのは容易なことではありませんでした。
北朝鮮は、当時太陽政策を批判していました。
韓国は自分たちを吸収しようとしていると激しく反発したのです。
だから当時、北朝鮮の潜水艦が侵入してきたり、北朝鮮の監視船と韓国海軍との間で銃撃戦があったりと、不安定な状況が続きました。
韓国をアメリカの手先と見なし、対話をしようとしない北朝鮮・・・
どうすれば振り向かせることができるのか・・・??
金大中には、一つの考えがありました。
大統領は、アメリカと北朝鮮が敵対視する限り、朝鮮半島に平和は訪れないと確信していました。
だから、何としてもアメリカを説得する必要があったのです。
北朝鮮は、いずれ崩壊するとみて、強硬な政策を続けてきたアメリカ・・・
金大中は、当時のクリントン大統領に、自ら説得を重ねました。
「ベトナムを見てください
米国はベトナムを仇敵とみて戦争をしたが、結局、敗北しました
その後、国交を結び、経済援助をした結果、今やベトナムは親米国家になりました
共産主義に対するときは、軍事的な力によって、さらなる長髪ができないようにし、その一方で、解放するように誘導すべきです」
ベトナム戦争までも引き合いに出して説得する金大中を、クリントンは積極的に支持するようになります。
大統領は、アメリカをはじめ、日本、中国、ロシア・・・4か国の役割が非常に重要だと考え、強力を求めていました。
北朝鮮が世界に出られる雰囲気を、みんなで作らなければいけません。
そう仕向ける責任が、韓国にあると大統領は考えていました。
北朝鮮との対話に向けた奔走は、2年に及びました。
そして、遂に・・・2000年4月!!
北朝鮮が、首脳会談の開催に合意・・・
その知らせを聞いた金大中は、涙を流したといいます。
大統領は政治家になってから、共産主義と揶揄され、死刑宣告を受け、収監されたこともあります。
アメリカに亡命することを条件に、刑を免れたのです。
様々な苦難を乗り越えながら、平和統一のために努力してきました。
やっと民族の問題を解決できるかもしれない・・・!!
しかし、一つの大きな悩みがありました。
当時、金正日の情報は、ネガティブなものばかりでした。
ベールに包まれていた金正日・・・その声すら公開されたことがありませんでした。
情報が本当ならば、会見の成果は期待できない・・・!!
そこで、金大中は・・・部下に北朝鮮に渡り事前交渉をし、合意文書の作成をし、人となりを見極めることを命じます。
あと2週間・・・!!
北朝鮮は、金大中がピョンヤンについた日に、金日成の墓に参拝することを首脳会談の条件にしました。
しかし、それは受け入れがたいことでした。
朝鮮戦争で、韓国に侵攻した北朝鮮の指導者の墓に参拝をすれば、国民の支持が得られなくなる・・・!!
金大中は、苦しい選択を迫られます。
「首脳会談まで10日も残っていなかった
首脳会談は開かれなければならなかった
国民が歓呼し、世界が声援したのに、開かれないとなると
南と北は天下の笑いものになるだろう
もし、このチャンスを逃したら、今後は首脳会談という言葉そのものを、口に出すことができなくなるだろう」
リスクを背負ってでも、苦渋の選択を決断します。
交渉条件は、階段が成功すれば参拝する道も開けてくるということでした。
金正日と交渉することができるのだろうか??
その夜、電話が鳴りました。
電話の相手は、北朝鮮に渡った部下でした。
なんとか、金正日と面談できたと・・・
「キム総書記は、相手の話に耳を傾け、自ら話すことも好きな人物でした
見識も広く、頭も切れ、物事を即断即決する性格です
話題が飛ぶ傾向はありますが、重要な点はきちんと押さえて結論を出すタイプです」
それを聞いて大統領は安心し、首脳会談の開催に自信を持つようになりました。
金正日は、全く対話のできない相手ではないらしい・・・。
しかし、産廃問題は譲らず、結論を出すことができませんでした。
さらに、金正日は、通常の首脳会談では常識ともいえる事前の協議内容を決めることに強く反対していました。
「南北首脳が会えば、共同宣言を発表しなければなりません
私たちはその草案を北朝鮮に提示したのですが、すべては来てからだの一点張りで、我々が示した案に合意しないばかりか、自分たちの案も出しませんでした
とにかく、細かい心配の種がたくさんありました」
金正日が、会談の席でどう出るのか・・・??
何一つつかめないまま、運命の日を向かえます。
②大統領府の報道官パク・ジュンヨン
ピョンヤンに同行し、大統領の近くで一挙手一投足をメディアに伝える役割をしていました。
ピョンヤンでの3日間の駆け引きとは・・・??
大統領の言動を、常に事細かく記録していたパク・・・
20年前の手帳を、今も大事においています。
大統領に同行し、初めて越えた38度線・・・彼がピョンヤンで見たものは、北朝鮮の意外な姿でした。
2000年6月13日、大まかな日程しか知らずに向かいました。
誰が大統領を迎えに来るのかも、事前に知らされていませんでした。
不安を抱えたまま、ピョンヤンの空港に・・・
パクは、大統領より先に飛行機を降りて、空港の様子を確かめました。
他国との首脳会談では、外務大臣や次官クラスが出迎えに来ることが多い・・・
ここでも同じ状況を予想していました。
その時・・・
「突然歓声が聞こえて、見て見たら、金正日総書記が来ていました
金正日本人だったのです
ビックリしました」byパク
韓国側の誰も予想しえなかった金正日本人による出迎え・・・!!
あの歴史的な瞬間は、唐突にやってきました。
分断55年ぶりの南北首脳の歴史的な出会いです。
パレードが続く盛大な迎え・・・それは、敵対する国の大統領に対して考えられないほどの歓迎ぶりでした。
いよいよ始まった1回目の会談・・・
史上初の首脳会談で、両首脳はどのような話をするのか・・・皆が耳を傾けました。
しかし、その時、パクはある重大なことに気付きます。
「その場に韓国の報道陣が一人もいないんです
これは、大変だ・・・!!
担当者に”私たちのカメラマンは何処にいるのか”と聞くと、
”北朝鮮側が入れないようにしているので扉の外にいる”と言うんです」
報道陣には、北朝鮮の指示に従うように事前に伝えていました。
少しでも会談の決裂に繋がる状況を作りたくなかったからです。
しかし、会場に北朝鮮の記者はいるのに韓国の報道陣は一人もいない・・・
歴史的な会談を、北朝鮮のメディアだけが記録するなどということはあり得ない・・・!!
「私は大きな声で
”何を言うか、南北首脳が初めて座って話をされるのに・・・ 早く入ってくるように伝えろ!!”と言いながら、急いで扉を開けました。
それで、両首脳の様子を撮影することができたんです
今思い返すと、ゾクッとします
もし、取れていなかったら、どのように報道されたかわかりません」byパク
この時、金正日の声が、初めて世界に報道されました。
初日の会談は、わずか27分・・・顔を合わす程度で終わりました。
歓迎に驚かされたのもつかの間、パクは、北朝鮮の二面性に不安を抱くようになりました。
6月14日・・・2日目の午後3時・・・
いよいよ本格的な首脳会談が行われようとしていました。
和やかな雰囲気で向かい合った金大中と金正日・・・
しかし、記者たちが退場した後、雰囲気は一変しました。
早速、金正日が別の表情を見せたのです。
当時、会談に参加していたイム・ドンウォン
「北朝鮮は、会談が始まるや否や、その場をしはいする為に私たちに圧力をかけてきました
キム総書記が、こんなことを言い出したのです
”昨日、南のテレビ番組を見て知りましたが、北朝鮮の国旗を掲げた大学が、検察の取り調べを受けているようです
これはどういうことですか
こんな状況で首脳会談をして何の意味があるんですか”
と、いきなりけんか腰だったんです」
イムは、会談で有利に立つための北朝鮮の戦略だったとみています。
緊張感漂う中始まった南北首脳の綱渡りは、3時間50分もの間続くことになります。
会場の外で、ただ成功を祈っていたパク・・・
会談が終わるや否や、大統領の下へと駆け寄りました。
「あらゆる努力を尽くし、渾身の力を振り絞った」by金大中
パクの手帳には、大統領が金正日について語ったことがこう記されています。
”博識で合理的、納得したら受け入れる
相互にとって何が一番利益になるのかを考えている”
疲労困憊するほど会談は難航していましたが、一定の会話ができたと手ごたえを感じていました。
「二人は南北共同宣言に完全に合意しました
皆さん祝福してください」
会談の結果は、期待を越えるものでした。
両国が力を合わせて統一問題を自主的に解決していくこと・・・
社会、文化、経済など、あらゆる分野で交流をはじめ、双方の信頼を固めていくことが決まりました。
さらに、合意文書には、”金正日のソウル訪問”まで明記されていました。
ようやく両首脳は、共同宣言に完全に合意・・・
しかし、その裏では、またもや韓国メディアが決定的な瞬間を取り逃しかねない事態が起きていました。
それは、常に大統領から目を離さなかったパクが、トイレに行った時の事・・・
会場の外にいる韓国の報道陣を見かけます。
「私のテーブルにいた北朝鮮の幹部に”なぜカメラを入れないのか”と言ったんです
すると隣の人が、”そういえば、先ほど両首脳が前に出て合意したと発表していましたが、誰も撮影していませんでしたよ”というのです
私は唖然としました」byパク
もっとも重要な合意の場面で、北朝鮮はまたしても韓国メディアを締め出していたのです。
しかし、この歴史的な場面は何としても記録に残さなくてはいけない・・・!!
悩んだ末、パクが選んだのは・・・
「大統領の左側に行き、
”さっきお二人が合意したと発表した時、記者がいなくて撮影できませんでした
大統領、申し訳ありませんが、もう一度お願いします”と言ったんです
これは、報道官としてはやってはいけないことです
演じてくださいということですから・・・
でも、その時、キム総書記がパッと立ち上がって
”私たちが役者になりましょう”と言ったんです」byパク
実は、合意発表の前、金大中はこんな言葉を残しています。
「汲む総書記が”役者になりましょう”というから、もう一度やります
二人は南北共同宣言に完全に合意しました
みなさん、祝福してください」
報道陣を厳しく規制しながらも、寛大さを見せる北朝鮮・・・その意図はつかめないまま、翻弄されていくしかありませんでした。
パクの一瞬の判断で、なんとか記録することができたこの場面は、今や初の南北首脳会談の成功を象徴するシーンとなっています。
一方、金日成主席の墓への参拝問題で、頭を悩ませていたイム・・・
参拝を行わずに済むように、裏で交渉を続けましたが、結論に至りませんでした。
しかし、会談後の晩餐会の時、金正日はイムを呼んでこう告げました。
「イムさんの勝ちです
あなたの言うとおりにしましょう
参拝はしなくて大丈夫です」
多くの人の努力によって、成功したかに見えた南北首脳会談・・・
握手から始まった両首脳の挨拶は、3日目にハグに代わっていました。
このままいけば、南北和解への道を順調に歩んでいく・・・はずでした。
会談から2か月後には、離散家族の再開が実現され、朝鮮半島を一つに結ぶ鉄道の復旧工事も始まりました。
さらに、経済、社会、文化など様々な交流が行われるようになりました。
しかし、南北の融和ムードは長続きしませんでした。
その理由の一つは、会談の見返りとして韓国から北朝鮮に多額の不正な送金が行われた疑惑が浮上したことでした。
③記者・キム・ダン
会談当時、ソウルのプレスセンターで取材をしていた彼は、南北首相の歴史的な出会いに感動した一人でした。
しかし、2年後、その裏に隠された真実に近づくことになります。
90年代に実在した韓国の工作員ブラック・ヴィーナス・・・
この映画は、核開発の実態を探るため、ブラック・ヴィーナスが北朝鮮に潜入するという実話をもとにしています。
キム・ダン・・・彼はこの映画の原案者で、ブラック・ヴィーナスを始めて取材した記者です。
北朝鮮に関する工作や情報収集などを行う韓国の情報機関”国家情報院”・・・
キムは、この組織を25年にわたって取材してきました。
数々のスクープをものにしてきたキム・・・情報機関の内部に深く入り込んだ彼だからこそ、南北首脳会談の裏に隠された真実にたどり着くことになります。
初となる南北首脳会談は、韓国に多くの感動と衝撃を与えていました。
北朝鮮との融和ムードが漂っていた韓国・・・
金正日の人気は高まり、彼の訪問を歓迎する団体までもが登場しました。
当時、週刊誌の社会部にいたキム・・・
実は、会談から4か月後、北朝鮮の変化を取材しに、ピョンヤンに渡っています。
その時、北朝鮮の高官の取材に成功・・・
そこで分かったのは、北朝鮮が会談をきっかけに変化を図っているということでした。
「北朝鮮の高官が、クリントン大統領の訪問を確信していたと、記事にしました
アメリカの大統領がピョンヤンを訪問するということは、米朝が国交を結ぶという話に繋がります
だから、北朝鮮は、南北関係と米朝関係の改善を通じて、国際社会に出るチャンスを掴もうとしたんです」byキム
本格的に、アメリカとの関係改善に動き出した北朝鮮・・・
2000年10月、北朝鮮の特使がアメリカを訪問
はじめてとなるアメリカ大統領との会談を心待ちにしていました。
しかし、少しずつ歯車が狂い始めます。
北朝鮮が期待していた米朝首脳会談は、結局開催できず、北朝鮮を悪の枢軸と名指ししたブッシュ政権が登場
20001年1月20日、ブッシュ大統領就任式
米朝関係は冷却化していきます。
さらに、南北関係も新たな局面を迎えました。
会談から2年後、金大中政権が終わりを迎えるころでした。
韓国国内で、ある疑惑が浮上します。
それは、首脳会談の対価として、韓国から北朝鮮に対して多額の送金が行われたという疑惑でした。
”金で買った会談ではないのか??”と、ささやかれ始めます。
その時、キムは1本の電話を受けました。
情報源によれば、送金は首脳会談で韓国と北朝鮮をつないだ”現代”という財閥が行ったもので、送金の際に、国家情報院が便宜を図ったという・・・
国家情報院にパイプのあるキムなら、疑惑の裏どりがとれるのではないか??とのことでのタレコミでした。
キムは、半信半疑で取材に取り組みます。
関係者をしらみつぶしに当たっていきます。
しかし、誰も口を割りません・・・
残された選択肢は、一人しかいませんでした。
現役の国家情報院のTOP・・・その男は、会談後に就任しているため、疑惑とは無関係でした。
真実を話す可能性はあると、小さな希望を抱きました。
彼には、一度取材経験があり、直接電話をかけました。
どんな反応をするのか??
「北朝鮮に、2240億ウォンを送ったんですか??」
「ああ・・・2240億!!」
これは本当だと確信しました。
トップは、キムが真実にたどり着いていると思い、名前を伏せることを条件に口を開いたのです。
取材を重ねると、具体的にわかってきました。
それは、政府関係者が、初めて送金を認める大スクープでした。
現代は、北朝鮮で30年間、事業を行うため、先行投資として巨額の資金を渡していました。
しかし、北朝鮮への送金の際、国家情報院が手を貸したことや、送金が会談の前に行われたことから、会談の見返りだったという可能性が高くなりました。
2003年1月29日、キムは、いよいよ記事を掲載します。
”ヒョンデ 北朝鮮に2240億ウォンを送金
首脳会談の前に国家情報院が便宜を図る”
はじめて送金の事実が明らかになったこの記事は、国を揺るがすスクープとなりました。
金大中政権のバトンを受け継いだ廬武鉉政権は、この問題を裁判にかけることにします。
結局、違法な方法での送金と認められ、送金の便宜を図った政府関係者らが罪に問われました。
金大中の右腕だったイムも、有罪判決を受けました。
しかし、スクープを出したキムは、政権側に立てばそうせざるを得ない事情があったと考えています。
「誰もできなかったことをするためには、道を開拓する必要があります
だから、送金は避けられないことだったのかもしれません
ある意味、これ以上の工作などありませんから、一国家に働きかけてその指導者を引っ張り出して、改革開放に導く・・・それが上手くいって、北朝鮮が変わっていれば、こんなに大きな工作は他にないです」byキム
国内で高まる批判の声・・・
太陽政策への国民の関心も、失われていくことになります。
さらに北朝鮮も、送金の関係者を有罪にした廬武鉉政権に不信を抱きます。
そして、金正日がソウルを訪問することもありませんでした。
あの首脳会談の評価は、韓国の中でも分かれています。
金大中政権は、北朝鮮を延命したことには違いありません。
すでに、資金は底をついていました。
アメリカは、秘密資金のありかを押さえにかかっている状況でした。
結局、金一族に出口を与えて、体制を維持させたことになりました。
2005年2月、北朝鮮は公式に核兵器を保有していることを宣言・・・
しかし、いつから開発していたかは、明らかにされていません。
あの時の支援があったから・・・??
核を作ることができたのは、あの時の送金があったからなのか??
会談は、当時、変化を求めた北朝鮮の人々に対するショーであって、核兵器を作るための時間稼ぎだったのか・・・??
しかし、南北が対話を続けていることが大切です。
2018年には南北関係がとても良好でしたが、長く続かなかったのは、前の会談からすでに11年の空白があったからです
その間、交流を積み重ね、信頼をしっかり築き上げていたうえであれば、関係はさらにステップアップできたかもしれません。
長年の空白や、政権ごとに代わる政策は、その度m南北関係を白紙に戻してしまうので、改善すべきかもしれません。
南北関係の抜本的改善は、未だに大きな課題として残されています。
「文大統領が、金正恩と板門店で会って、ピョンヤン市民の前で演説したりと言いムードでしたが、突然南北共同連絡事務所が破壊されるとはだれにも予想できませんでした
結局これは、アメリカと北朝鮮の関係がうまくいかないと、いくら南北関係を改善しても、一瞬で崩れてしまうということです
それを誰よりも知っていたのが、金大中大統領で、彼のようにアメリカの信頼と支持を得ながら政策を進める必要があると思います」byキム
初の南北首脳会談から20年・・・
その後、計4回の首脳会談が行われてきました。
朝鮮半島で核を無くし、今も休戦状態にある戦争を終わらせようと、前向きな共同宣言が何度も行われてきました。
しかし、その後の北朝鮮の核開発のこともあり、南北関係は行き詰ったままです。
朝鮮半島の人々の統一への思い・・・
今まで重ねてきた会談・・・
そして、合意を導くために奔走してきた人々の努力が報われる日が来ることを願わずにはいられません。
南北を分ける軍事境界線から、およそ20キロ・・・北朝鮮から近いところに統一村があります。
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2018年4月、南北にやっと平和が訪れると思われました。
しかし・・・和解と対立を繰り返す南北の駆け引きは終わることがないのでしょうか??
20年前のあの日、分断を越えるための一歩を踏み出しました。
韓国の大統領・金大中、北朝鮮の最高指導者・金正日・・・
史上初の南北首脳会談は、北朝鮮に変化をもたらすように見えました。
それまで閉ざされていた北朝鮮が、アメリカや日本との関係改善に乗り出します。
さらに、ヨーロッパの国々と国交を結び始めました。
南北の人々を歓喜させた初めての首脳会談・・・あの日の希望は如何にして生まれ、失われていったのでしょうか??
韓国の大統領が初めて38度線を越え、敵対する北朝鮮の首都・ピョンヤンに降り立ちました。
①大統領・金大中
1998年2月、韓国の第15代大統領・金大中・・・
彼には就任した時、ある大きな目標がありました。
「我々は、北朝鮮に南北和解のための特使の交換を提案します
北が望むなら、首脳会談に応じる用意があります」
それは、北朝鮮の最高指導者・金正日総書記と直接対話することでした。
「私は、こうした民族的に重要な問題は、首脳同士が直接会って話し合うのが一番望ましく効果があるとずっと思っていました
なので、私は大統領になった当初から、キムジョン総書記と二人で会談したいと考えていました」
半世紀の間、一度も実現したことのない南北首脳会談・・・
そうすれば、北朝鮮を対話のテーブルに座らせることができるのか・・・??
大統領は、離散家族の再開だけは、何としても実現したいと思っていました。
1950年に起きた朝鮮戦争・・・
北朝鮮の南下から始まったこの戦争は、300万人以上といわれる死傷者と、1000万近くの離散家族を生みました。
当時、20代で海運会社を経営していた金大中・・・
戦争で同じ民族同士が戦う姿を目の当たりにします。
その経験は、彼の人生を大きく変えることとなりました。
「私と家族が生き残ったのは、幸運だったが、朝鮮戦争は骨身にしみた
何のために戦い、何のために死ななければならないのか
戦況が変わるたびに、同族間の殺戮戦が繰り返された
だから一生、民族の和解と戦争のない世を夢見ながら生きてきた」
金大中は、朝鮮半島の平和と統一を目標に掲げ、政治家としての道を歩み始めました。
しかし、80年代には、韓国の大統領を狙ったラングーン事件(1983年)や、大韓航空機爆破事件(1987年)など、北朝鮮のテロ行為により対立は激化するばかり・・・
離散家族の多くが次々と亡くなっていく中、金大中にとって南北の改善は急務となっていました。
打ち出したのは、”太陽政策”です。
閉ざされた北朝鮮を開かせるため、経済支援と交流を通して対話の道を模索します。
「北朝鮮も、こちらが強硬な態度に出ると、韓国や日本に対して危険な存在になり得ます
だから、私たちは北朝鮮に対して、経済的支援を進め、私たちの胸に抱きしめなければならないのです」
しかし、今まで対立を続けてきた北朝鮮に、手を差し伸べるのは容易なことではありませんでした。
北朝鮮は、当時太陽政策を批判していました。
韓国は自分たちを吸収しようとしていると激しく反発したのです。
だから当時、北朝鮮の潜水艦が侵入してきたり、北朝鮮の監視船と韓国海軍との間で銃撃戦があったりと、不安定な状況が続きました。
韓国をアメリカの手先と見なし、対話をしようとしない北朝鮮・・・
どうすれば振り向かせることができるのか・・・??
金大中には、一つの考えがありました。
大統領は、アメリカと北朝鮮が敵対視する限り、朝鮮半島に平和は訪れないと確信していました。
だから、何としてもアメリカを説得する必要があったのです。
北朝鮮は、いずれ崩壊するとみて、強硬な政策を続けてきたアメリカ・・・
金大中は、当時のクリントン大統領に、自ら説得を重ねました。
「ベトナムを見てください
米国はベトナムを仇敵とみて戦争をしたが、結局、敗北しました
その後、国交を結び、経済援助をした結果、今やベトナムは親米国家になりました
共産主義に対するときは、軍事的な力によって、さらなる長髪ができないようにし、その一方で、解放するように誘導すべきです」
ベトナム戦争までも引き合いに出して説得する金大中を、クリントンは積極的に支持するようになります。
大統領は、アメリカをはじめ、日本、中国、ロシア・・・4か国の役割が非常に重要だと考え、強力を求めていました。
北朝鮮が世界に出られる雰囲気を、みんなで作らなければいけません。
そう仕向ける責任が、韓国にあると大統領は考えていました。
北朝鮮との対話に向けた奔走は、2年に及びました。
そして、遂に・・・2000年4月!!
北朝鮮が、首脳会談の開催に合意・・・
その知らせを聞いた金大中は、涙を流したといいます。
大統領は政治家になってから、共産主義と揶揄され、死刑宣告を受け、収監されたこともあります。
アメリカに亡命することを条件に、刑を免れたのです。
様々な苦難を乗り越えながら、平和統一のために努力してきました。
やっと民族の問題を解決できるかもしれない・・・!!
しかし、一つの大きな悩みがありました。
当時、金正日の情報は、ネガティブなものばかりでした。
ベールに包まれていた金正日・・・その声すら公開されたことがありませんでした。
情報が本当ならば、会見の成果は期待できない・・・!!
そこで、金大中は・・・部下に北朝鮮に渡り事前交渉をし、合意文書の作成をし、人となりを見極めることを命じます。
あと2週間・・・!!
北朝鮮は、金大中がピョンヤンについた日に、金日成の墓に参拝することを首脳会談の条件にしました。
しかし、それは受け入れがたいことでした。
朝鮮戦争で、韓国に侵攻した北朝鮮の指導者の墓に参拝をすれば、国民の支持が得られなくなる・・・!!
金大中は、苦しい選択を迫られます。
「首脳会談まで10日も残っていなかった
首脳会談は開かれなければならなかった
国民が歓呼し、世界が声援したのに、開かれないとなると
南と北は天下の笑いものになるだろう
もし、このチャンスを逃したら、今後は首脳会談という言葉そのものを、口に出すことができなくなるだろう」
リスクを背負ってでも、苦渋の選択を決断します。
交渉条件は、階段が成功すれば参拝する道も開けてくるということでした。
金正日と交渉することができるのだろうか??
その夜、電話が鳴りました。
電話の相手は、北朝鮮に渡った部下でした。
なんとか、金正日と面談できたと・・・
「キム総書記は、相手の話に耳を傾け、自ら話すことも好きな人物でした
見識も広く、頭も切れ、物事を即断即決する性格です
話題が飛ぶ傾向はありますが、重要な点はきちんと押さえて結論を出すタイプです」
それを聞いて大統領は安心し、首脳会談の開催に自信を持つようになりました。
金正日は、全く対話のできない相手ではないらしい・・・。
しかし、産廃問題は譲らず、結論を出すことができませんでした。
さらに、金正日は、通常の首脳会談では常識ともいえる事前の協議内容を決めることに強く反対していました。
「南北首脳が会えば、共同宣言を発表しなければなりません
私たちはその草案を北朝鮮に提示したのですが、すべては来てからだの一点張りで、我々が示した案に合意しないばかりか、自分たちの案も出しませんでした
とにかく、細かい心配の種がたくさんありました」
金正日が、会談の席でどう出るのか・・・??
何一つつかめないまま、運命の日を向かえます。
②大統領府の報道官パク・ジュンヨン
ピョンヤンに同行し、大統領の近くで一挙手一投足をメディアに伝える役割をしていました。
ピョンヤンでの3日間の駆け引きとは・・・??
大統領の言動を、常に事細かく記録していたパク・・・
20年前の手帳を、今も大事においています。
大統領に同行し、初めて越えた38度線・・・彼がピョンヤンで見たものは、北朝鮮の意外な姿でした。
2000年6月13日、大まかな日程しか知らずに向かいました。
誰が大統領を迎えに来るのかも、事前に知らされていませんでした。
不安を抱えたまま、ピョンヤンの空港に・・・
パクは、大統領より先に飛行機を降りて、空港の様子を確かめました。
他国との首脳会談では、外務大臣や次官クラスが出迎えに来ることが多い・・・
ここでも同じ状況を予想していました。
その時・・・
「突然歓声が聞こえて、見て見たら、金正日総書記が来ていました
金正日本人だったのです
ビックリしました」byパク
韓国側の誰も予想しえなかった金正日本人による出迎え・・・!!
あの歴史的な瞬間は、唐突にやってきました。
分断55年ぶりの南北首脳の歴史的な出会いです。
パレードが続く盛大な迎え・・・それは、敵対する国の大統領に対して考えられないほどの歓迎ぶりでした。
いよいよ始まった1回目の会談・・・
史上初の首脳会談で、両首脳はどのような話をするのか・・・皆が耳を傾けました。
しかし、その時、パクはある重大なことに気付きます。
「その場に韓国の報道陣が一人もいないんです
これは、大変だ・・・!!
担当者に”私たちのカメラマンは何処にいるのか”と聞くと、
”北朝鮮側が入れないようにしているので扉の外にいる”と言うんです」
報道陣には、北朝鮮の指示に従うように事前に伝えていました。
少しでも会談の決裂に繋がる状況を作りたくなかったからです。
しかし、会場に北朝鮮の記者はいるのに韓国の報道陣は一人もいない・・・
歴史的な会談を、北朝鮮のメディアだけが記録するなどということはあり得ない・・・!!
「私は大きな声で
”何を言うか、南北首脳が初めて座って話をされるのに・・・ 早く入ってくるように伝えろ!!”と言いながら、急いで扉を開けました。
それで、両首脳の様子を撮影することができたんです
今思い返すと、ゾクッとします
もし、取れていなかったら、どのように報道されたかわかりません」byパク
この時、金正日の声が、初めて世界に報道されました。
初日の会談は、わずか27分・・・顔を合わす程度で終わりました。
歓迎に驚かされたのもつかの間、パクは、北朝鮮の二面性に不安を抱くようになりました。
6月14日・・・2日目の午後3時・・・
いよいよ本格的な首脳会談が行われようとしていました。
和やかな雰囲気で向かい合った金大中と金正日・・・
しかし、記者たちが退場した後、雰囲気は一変しました。
早速、金正日が別の表情を見せたのです。
当時、会談に参加していたイム・ドンウォン
「北朝鮮は、会談が始まるや否や、その場をしはいする為に私たちに圧力をかけてきました
キム総書記が、こんなことを言い出したのです
”昨日、南のテレビ番組を見て知りましたが、北朝鮮の国旗を掲げた大学が、検察の取り調べを受けているようです
これはどういうことですか
こんな状況で首脳会談をして何の意味があるんですか”
と、いきなりけんか腰だったんです」
イムは、会談で有利に立つための北朝鮮の戦略だったとみています。
緊張感漂う中始まった南北首脳の綱渡りは、3時間50分もの間続くことになります。
会場の外で、ただ成功を祈っていたパク・・・
会談が終わるや否や、大統領の下へと駆け寄りました。
「あらゆる努力を尽くし、渾身の力を振り絞った」by金大中
パクの手帳には、大統領が金正日について語ったことがこう記されています。
”博識で合理的、納得したら受け入れる
相互にとって何が一番利益になるのかを考えている”
疲労困憊するほど会談は難航していましたが、一定の会話ができたと手ごたえを感じていました。
「二人は南北共同宣言に完全に合意しました
皆さん祝福してください」
会談の結果は、期待を越えるものでした。
両国が力を合わせて統一問題を自主的に解決していくこと・・・
社会、文化、経済など、あらゆる分野で交流をはじめ、双方の信頼を固めていくことが決まりました。
さらに、合意文書には、”金正日のソウル訪問”まで明記されていました。
ようやく両首脳は、共同宣言に完全に合意・・・
しかし、その裏では、またもや韓国メディアが決定的な瞬間を取り逃しかねない事態が起きていました。
それは、常に大統領から目を離さなかったパクが、トイレに行った時の事・・・
会場の外にいる韓国の報道陣を見かけます。
「私のテーブルにいた北朝鮮の幹部に”なぜカメラを入れないのか”と言ったんです
すると隣の人が、”そういえば、先ほど両首脳が前に出て合意したと発表していましたが、誰も撮影していませんでしたよ”というのです
私は唖然としました」byパク
もっとも重要な合意の場面で、北朝鮮はまたしても韓国メディアを締め出していたのです。
しかし、この歴史的な場面は何としても記録に残さなくてはいけない・・・!!
悩んだ末、パクが選んだのは・・・
「大統領の左側に行き、
”さっきお二人が合意したと発表した時、記者がいなくて撮影できませんでした
大統領、申し訳ありませんが、もう一度お願いします”と言ったんです
これは、報道官としてはやってはいけないことです
演じてくださいということですから・・・
でも、その時、キム総書記がパッと立ち上がって
”私たちが役者になりましょう”と言ったんです」byパク
実は、合意発表の前、金大中はこんな言葉を残しています。
「汲む総書記が”役者になりましょう”というから、もう一度やります
二人は南北共同宣言に完全に合意しました
みなさん、祝福してください」
報道陣を厳しく規制しながらも、寛大さを見せる北朝鮮・・・その意図はつかめないまま、翻弄されていくしかありませんでした。
パクの一瞬の判断で、なんとか記録することができたこの場面は、今や初の南北首脳会談の成功を象徴するシーンとなっています。
一方、金日成主席の墓への参拝問題で、頭を悩ませていたイム・・・
参拝を行わずに済むように、裏で交渉を続けましたが、結論に至りませんでした。
しかし、会談後の晩餐会の時、金正日はイムを呼んでこう告げました。
「イムさんの勝ちです
あなたの言うとおりにしましょう
参拝はしなくて大丈夫です」
多くの人の努力によって、成功したかに見えた南北首脳会談・・・
握手から始まった両首脳の挨拶は、3日目にハグに代わっていました。
このままいけば、南北和解への道を順調に歩んでいく・・・はずでした。
会談から2か月後には、離散家族の再開が実現され、朝鮮半島を一つに結ぶ鉄道の復旧工事も始まりました。
さらに、経済、社会、文化など様々な交流が行われるようになりました。
しかし、南北の融和ムードは長続きしませんでした。
その理由の一つは、会談の見返りとして韓国から北朝鮮に多額の不正な送金が行われた疑惑が浮上したことでした。
③記者・キム・ダン
会談当時、ソウルのプレスセンターで取材をしていた彼は、南北首相の歴史的な出会いに感動した一人でした。
しかし、2年後、その裏に隠された真実に近づくことになります。
90年代に実在した韓国の工作員ブラック・ヴィーナス・・・
この映画は、核開発の実態を探るため、ブラック・ヴィーナスが北朝鮮に潜入するという実話をもとにしています。
キム・ダン・・・彼はこの映画の原案者で、ブラック・ヴィーナスを始めて取材した記者です。
北朝鮮に関する工作や情報収集などを行う韓国の情報機関”国家情報院”・・・
キムは、この組織を25年にわたって取材してきました。
数々のスクープをものにしてきたキム・・・情報機関の内部に深く入り込んだ彼だからこそ、南北首脳会談の裏に隠された真実にたどり着くことになります。
初となる南北首脳会談は、韓国に多くの感動と衝撃を与えていました。
北朝鮮との融和ムードが漂っていた韓国・・・
金正日の人気は高まり、彼の訪問を歓迎する団体までもが登場しました。
当時、週刊誌の社会部にいたキム・・・
実は、会談から4か月後、北朝鮮の変化を取材しに、ピョンヤンに渡っています。
その時、北朝鮮の高官の取材に成功・・・
そこで分かったのは、北朝鮮が会談をきっかけに変化を図っているということでした。
「北朝鮮の高官が、クリントン大統領の訪問を確信していたと、記事にしました
アメリカの大統領がピョンヤンを訪問するということは、米朝が国交を結ぶという話に繋がります
だから、北朝鮮は、南北関係と米朝関係の改善を通じて、国際社会に出るチャンスを掴もうとしたんです」byキム
本格的に、アメリカとの関係改善に動き出した北朝鮮・・・
2000年10月、北朝鮮の特使がアメリカを訪問
はじめてとなるアメリカ大統領との会談を心待ちにしていました。
しかし、少しずつ歯車が狂い始めます。
北朝鮮が期待していた米朝首脳会談は、結局開催できず、北朝鮮を悪の枢軸と名指ししたブッシュ政権が登場
20001年1月20日、ブッシュ大統領就任式
米朝関係は冷却化していきます。
さらに、南北関係も新たな局面を迎えました。
会談から2年後、金大中政権が終わりを迎えるころでした。
韓国国内で、ある疑惑が浮上します。
それは、首脳会談の対価として、韓国から北朝鮮に対して多額の送金が行われたという疑惑でした。
”金で買った会談ではないのか??”と、ささやかれ始めます。
その時、キムは1本の電話を受けました。
情報源によれば、送金は首脳会談で韓国と北朝鮮をつないだ”現代”という財閥が行ったもので、送金の際に、国家情報院が便宜を図ったという・・・
国家情報院にパイプのあるキムなら、疑惑の裏どりがとれるのではないか??とのことでのタレコミでした。
キムは、半信半疑で取材に取り組みます。
関係者をしらみつぶしに当たっていきます。
しかし、誰も口を割りません・・・
残された選択肢は、一人しかいませんでした。
現役の国家情報院のTOP・・・その男は、会談後に就任しているため、疑惑とは無関係でした。
真実を話す可能性はあると、小さな希望を抱きました。
彼には、一度取材経験があり、直接電話をかけました。
どんな反応をするのか??
「北朝鮮に、2240億ウォンを送ったんですか??」
「ああ・・・2240億!!」
これは本当だと確信しました。
トップは、キムが真実にたどり着いていると思い、名前を伏せることを条件に口を開いたのです。
取材を重ねると、具体的にわかってきました。
それは、政府関係者が、初めて送金を認める大スクープでした。
現代は、北朝鮮で30年間、事業を行うため、先行投資として巨額の資金を渡していました。
しかし、北朝鮮への送金の際、国家情報院が手を貸したことや、送金が会談の前に行われたことから、会談の見返りだったという可能性が高くなりました。
2003年1月29日、キムは、いよいよ記事を掲載します。
”ヒョンデ 北朝鮮に2240億ウォンを送金
首脳会談の前に国家情報院が便宜を図る”
はじめて送金の事実が明らかになったこの記事は、国を揺るがすスクープとなりました。
金大中政権のバトンを受け継いだ廬武鉉政権は、この問題を裁判にかけることにします。
結局、違法な方法での送金と認められ、送金の便宜を図った政府関係者らが罪に問われました。
金大中の右腕だったイムも、有罪判決を受けました。
しかし、スクープを出したキムは、政権側に立てばそうせざるを得ない事情があったと考えています。
「誰もできなかったことをするためには、道を開拓する必要があります
だから、送金は避けられないことだったのかもしれません
ある意味、これ以上の工作などありませんから、一国家に働きかけてその指導者を引っ張り出して、改革開放に導く・・・それが上手くいって、北朝鮮が変わっていれば、こんなに大きな工作は他にないです」byキム
国内で高まる批判の声・・・
太陽政策への国民の関心も、失われていくことになります。
さらに北朝鮮も、送金の関係者を有罪にした廬武鉉政権に不信を抱きます。
そして、金正日がソウルを訪問することもありませんでした。
あの首脳会談の評価は、韓国の中でも分かれています。
金大中政権は、北朝鮮を延命したことには違いありません。
すでに、資金は底をついていました。
アメリカは、秘密資金のありかを押さえにかかっている状況でした。
結局、金一族に出口を与えて、体制を維持させたことになりました。
2005年2月、北朝鮮は公式に核兵器を保有していることを宣言・・・
しかし、いつから開発していたかは、明らかにされていません。
あの時の支援があったから・・・??
核を作ることができたのは、あの時の送金があったからなのか??
会談は、当時、変化を求めた北朝鮮の人々に対するショーであって、核兵器を作るための時間稼ぎだったのか・・・??
しかし、南北が対話を続けていることが大切です。
2018年には南北関係がとても良好でしたが、長く続かなかったのは、前の会談からすでに11年の空白があったからです
その間、交流を積み重ね、信頼をしっかり築き上げていたうえであれば、関係はさらにステップアップできたかもしれません。
長年の空白や、政権ごとに代わる政策は、その度m南北関係を白紙に戻してしまうので、改善すべきかもしれません。
南北関係の抜本的改善は、未だに大きな課題として残されています。
「文大統領が、金正恩と板門店で会って、ピョンヤン市民の前で演説したりと言いムードでしたが、突然南北共同連絡事務所が破壊されるとはだれにも予想できませんでした
結局これは、アメリカと北朝鮮の関係がうまくいかないと、いくら南北関係を改善しても、一瞬で崩れてしまうということです
それを誰よりも知っていたのが、金大中大統領で、彼のようにアメリカの信頼と支持を得ながら政策を進める必要があると思います」byキム
初の南北首脳会談から20年・・・
その後、計4回の首脳会談が行われてきました。
朝鮮半島で核を無くし、今も休戦状態にある戦争を終わらせようと、前向きな共同宣言が何度も行われてきました。
しかし、その後の北朝鮮の核開発のこともあり、南北関係は行き詰ったままです。
朝鮮半島の人々の統一への思い・・・
今まで重ねてきた会談・・・
そして、合意を導くために奔走してきた人々の努力が報われる日が来ることを願わずにはいられません。
南北を分ける軍事境界線から、およそ20キロ・・・北朝鮮から近いところに統一村があります。
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