人は食べる。
生きるために、愉しむために、だがしかし、食べることが死を招くこともある。
日露戦争・・・2万7000を超す兵士たちが、食事によって死亡しました。
兵士の命運を握ったのは、文豪・森鴎外でした。
鴎外にはもう一つの顔がありました。
本名・森林太郎・・・職業は陸軍軍医!!
現在の東京大学医学部を19歳で卒業、45歳で軍医のTOPに上り詰めたエリート流のエリートです。
森は、陸軍兵士の食事として、白米に固執・・・白米ばかりを食べ続けた兵士たちが死の病に倒れました。
一方、ライバルの海軍は、麦飯によって市の病を撃退!!
しかし、森は、自らの主張を曲げようとはしませんでした。

「兵士の食事には米が一番!!
 麦飯がその次!!
 洋食はそのまた次である!!」

その結果、日本はある大発見の栄光を取り逃がします。
・・・ビタミン・・・
現在の健康ブームの起源ともいえるビタミン・・・その発見に至る知られざる物語です。

古代中国では医者を4つに分け位を与えました。
位の四番目は家畜を治療する獣医・・・
三番目は外科医、二番目は内内科医、一番位が高いとされたのは食医。
食べ物の力によって病気を未然に防ぐ医師の事です。

1884年8月3日、不思議な事件が報じられました。
広島から上京した藤本信太18歳・・・知人を訪ねる途中、突然路上で倒れました。
激しく苦しみ病院に搬送されましたが死亡しました。
脚気でした。

脚気は神経の病・・・
足がむくみ、進行すると極端に衰弱し、急性心不全で死んでいました。
明治になると日本で大流行・・・年間3万人が死亡し、結核と共に国民病として恐れられました。
特に軍隊では深刻で、多い年には陸軍・海軍の兵士の4割が脚気患者となりました。
富国強兵を推し進める日本にとっての一大事となりました。

脚気の原因は、ビタミンB1の欠乏でした。
ビタミンは、人体の機能を維持する為に必要不可欠な栄養素です。
体内で作ることは出来ず、食べ物から得なければなりません。
当時、軍隊では兵士の食事に白米を支給。
ビタミンB1がほとんど含まれていない白米ばかりを食べた兵士が、次々と倒れて行きました。

白米しか食べないと、ビタミンが採れません。
白米の中に含まれている炭水化物をエネルギーに変えることが出来ないのです。
だんだんと体が弱ってきて、最後は死んでしまうのです。
明治時代、三大栄養素の炭水化物・タンパク質・脂質は既に知られていました。
しかし、ビタミンは、世界のだれもが知らない栄養素でした。
その為、脚気は原因不明の病とされ、誤った説が流布しました。

脚気細菌説・・・来日したドイツ人医師・ベルツらが提唱しました。
しかし、主食が白米でないヨーロッパには脚気がありません。
主張は憶測にすぎませんでした。
ベルツは、のちの東京大学医学部・・・東京医学校で指導していたこともあり、東大医学部出身者を中心に、この脚気細菌説が強く信じられました。

1884年8月24日、横浜・・・
この男も、脚気細菌説を信じた男の一人でした。
陸軍軍医・森林太郎・・・森鴎外です。
脚気対策に苦慮する陸軍の特命を受け、海外に旅立とうとしていました。
当時、22歳・・・明治の日本きってのエリートでした。

1862年、石見国・・・島根県の医師の家に生れました。
教育熱心な母・・・5歳で論語を読み、8歳でオランダ語、10歳でドイツ語を学びました。
森は、11歳で第一大学医学校・・・後の東京大学医学部予科に入学しました。
史上最年少の19歳で卒業し、陸軍軍医となりました。
入隊後、2300ページに及ぶドイツ語の専門書を10か月で翻訳します。
森を高く評価した陸軍の幹部たちは、海外で最新の医学を学んでくるよう白羽の矢を立てたのです。
2か月の船旅を経て、森は目的地・ドイツに到着します。

ドイツでは医学の革命が起きていました。
細菌学です。1876年に、ロベルト・コッホが炭疽菌を発見!!
さらに1882年に結核菌、1884年にコレラ菌を発見しました。
そのコッホのもとで、森は細菌学を学びました。
病気がきちっと目に見えるもので説明できるようになって、合理的・・・
よくわからない方法ではなくて理由のある、根拠のある方法で国民の衛生状態、健康が保てるという意識を持ったのです。
留学中、その後の森の考え方を決定づける出来事がもう一つありました。
ある講演会に参加した時の事・・・
「日本人は、西洋の蒸気船を動かすことはできるが、止め方はわかっていない」
講演者は、日本の外国文化の表面だけを真似していると皮肉を込めて批判しました。
森は、新聞にドイツ語で反論します。

「日本人は、ヨーロッパの文明と文化の価値を評価する知性を十分に備えている
 日本が何を無批判で真似たというのか・・・??」by林太郎

日本を代表してコッホから医学を学んでいるエリート医師・・・森には日本を背負っているという強い自負がありました。
一方、日本では、陸軍だけでなく海軍も脚気に苦しんでいました。
1883年軍艦・龍驤・・・乗組員367名のうち169名が脚気に・・・!!
25名が死亡し、航行不能という事件が起こりました。
立ち向かったのは、海軍軍医・高木兼寛。
薩摩藩の下級武士出身で、高木は脚気の原因は、細菌とは全く違うと考えていました。
その根拠となったのが、高木が学んだ聖トーマス病院医学校・・・イギリス時代に学んだ疫学でした。
疫学は、病気発声の分布などをもとに有効な対策を導き出す学問です。
1850年代、ロンドンでは伝染病コレラが蔓延・・・医師は患者の数を調べ、感染源を井戸と特定、井戸を封鎖して感染拡大を食い止めました。
この疫学を使い、脚気の対策に乗り出した高木・・・
兵士が着る衣服と脚気が関係はあるか??
生活空間では??気温では・・・??
高木はその条件を探りました。
そして2年後・・・高木は一つの結論にたどり着きます。

「脚気の原因は栄養の偏りにあるのではないか?」

白米ばかり食べ、おかずをおろそかにしている兵士が脚気にかかりやすかったからです。
”栄養素が偏っていると病気になるかもしれない”という考え方を初めて提出しました。
食べ物と病気の関係を栄養素のレベルで初めて考えたのです。
高木は、軍艦丸ごと使った実験に着手します。
軍艦・筑波の乗組員333人の食事を白米中心の日本食からパンと肉中心の洋食に切り替えました。
脚気被害をを出した龍驤と同じ航路をたどり脚気の発生率を比べました。
大規模な比較実験でした。
出発して8か月後・・・目的地のハワイについた軍艦・筑波から電報が届きました。

「ビョウシャイチニンモナシ アンシンアレ」

高木は食事によって世界で初めて脚気の予防に成功しました。
そして、日本人が食べなれないパンの代わりに大麦や裸麦を加えた麦飯を導入。
海軍から脚気を一掃する!!
1886年、高木は成果を英語で発表。
白米に偏った食事では、炭水化物が多くなりタンパク質が不足。
麦飯中心の食事は、炭水化物に加えタンパク質が多い。
と主張しました。

脚気の原因は、栄養バランスが崩れることだと考えたのです。
脚気栄養欠陥説です。
しかし高木はビタミンという未知の栄養素には気づいていませんでした。

森を送り出した陸軍は焦り始めました。
陸軍の軍医は、今の東京大学医学部出身者で占められており、脚気細菌説を強く支持していました。
幹部の一人は森に留学の成果を催促します。
ドイツにいた森は、論文を書いて応えます。
「日本兵食論大意」です。

”余ハ東西洋人ノ食ヲ知ル者ナリ”と、大上段から論を説きました。
”米ヲ主トシタル日本食ハ心力及ヒ体力ヲシテ活発ナラシムルコト毫モ西洋食ト異ナルコトナシ”

白米中心の日本食は、栄養面で洋食に劣らず変える必要はないと主張します。

”米食ト脚気ノ関係有無ハ 余 敢エテ説カズ”

脚気の原因については一切触れませんでした。
3年後帰国すると、講演会で高木のことを「ローストビーフに飽くことを知らないイギリス流の偏屈学者」と揶揄・・・
白米を否定した高木を西洋かぶれだと攻撃しました。

1889年、森は、白米の栄養に関係のないことを証明する実験を行いました。
陸軍兵食試験です。
兵士18人を3つのグループに分け、白米中心・麦飯中心・パンと肉中心の食事を8日間与え続けます。
そして食べたものと排泄された量を比べ、栄養素がどれだけ体に吸収されたかを計算します。
この実験では、一番優れているのは白米、次いで麦飯、そしてパンと肉は3番目でした。
森は白米の栄養に問題がないことを示すことで、海軍が唱える栄養欠陥説を否定します。

高木は反論しませんでした。
森は、雄弁で文章も、話しても、とっても華麗な言葉を使って・・・
敵がギャフンというような、ぐうの音も出ないような言い方で、やっつけます。
自分から見ればいい加減にみえるような理論を、攻撃するということについては抜け目がない・・・
森鴎外にやられると、再起不能なぐらいに傷ついた・・・という感じになったのです。
以後、高木は科学の表舞台から離れていきます。
しかし、高木の研究は、ビタミン発見の歴史に重要な役割を果たします。
栄養が病気の原因とする高木の論文は、海外の研究者に広く読まれることになります。

日本にこんなに偉大なことをされた方がいたのか??

その高木の論文が、未知の栄養素の発見につながる大きなヒントを後の研究者に与えたのです。

脚気論争の光と影 陸軍の脚気惨害はなぜ防げなかったのか

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一方、陸軍は森の偏食試験の結果を高く評価・・・白米を支給し続けます。
森は、陸軍エリートの階段を上っていきます。

1890年、森は、ドイツ留学の経験をもとに「舞姫」を発表。
軍医の仕事をしながら作家としての名も高めていきます。
その4年後・・・1894年、朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発。
陸軍の食事が試されます。
自らの実権で、白米の栄養価に問題はないと自信を持った森・・・
開戦前、陸軍軍医部にこう意見しています。

「米ノ主食タル価値ハ甚大ナルモノニテ
 副食ニ至リテハ平素栄養上ノ価値甚少シ」

白米を1日6合食べていれば、副食・・・おかずを食べなくても栄養面で問題はないと主張しました。
結果、陸軍では先頭による死者は450人でしたが、脚気による死者4000人という事態を招きました。
日清戦争直後、森は割譲された台湾で兵士の健康管理する最高責任者・台湾総督府陸軍局軍医部長に任命されます。
その台湾で、脚気が大発生しました。
兵士2万3338人に対し、脚気患者21087人!!
実に兵士の9割が脚気を患い、2000人以上が死亡しました。

一方海軍は、麦飯の支給を続けていました。
日清戦争における海軍の脚気患者は僅か34人、いずれも軽症でした。
海軍は白米に固執する陸軍を批判!!
両者のメンツをかけた論争が始まりました。

海軍「脚気は、食べ物で防ぐことが出来る 
    恐れるべき病ではない
    陸軍は猛省すべきだ」

対して陸軍は、ペンネームを使った匿名の投書で海軍が非科学的だと反論!!

「病気を予防し、治療するためには、病原や病気になる仕組みがわからなければいけない
 それは、我々が最も信用している帝国医科大学(東京大学医学部)でもわからないのに海軍にわかるのか?
 科学的にお答えいただきたい」

海軍はすかさず再反論
天然痘が予防接種によって防げることを引き合いに出しました。

「天然痘も病理は不明だが、100年も前にジェンナーによって予防法が確立している
 脚気も同じことで、原因の究明と予防法を混同してはいけない」

そんな中、陸軍では現場の兵士から麦飯を支給してほしいとの声が上がります。
しかし、陸軍軍医部はそれを断固として認めませんでした。
森も、陸軍軍医部を擁護する論文を発表。
森は、麦飯と脚気減少に、因果関係はなく、たまたま時期が重なっただけだと強弁しました。

森が、麦飯採用に関して何らかの提言をしたり、譲歩する態度を示していれば、陸軍全体の態度も変わったのかもしれません。
海軍を見れば、麦飯の採用で明らかに脚気が減っているのに、実験的にも試みなかったという点では責任は大きいのです。

1904年・・・日露戦争で更なる悲劇が起こります。
森は、第二軍軍医部長として従軍・・・軍医部での階級はナンバー2でした。
その森に、戦線の軍医から進言がありました。

「麦飯を支給すべきではないか」と。

しかし、黙殺!!

1905年日露戦争集結
陸軍全体で、脚気患者25万人・・・2万7468人が死亡!!
前代未聞・・・古今東西みても稀に見る被害でした。
驕り、エリート意識、これが悲劇の全てでした。

自分が脚気の専門ではないと認めることが出来なかった・・・
エリート意識が強すぎた森林太郎が起こした悲劇でした。

森は、従軍中にこんな歌を詠んでいます。

ますらをの 玉と碎けしももちたり
  それも惜しけど こも惜し釦鈕 身に添う釦鈕

屈強な兵士たちが、幾万も玉のように砕けてしまった・・・
それは惜しいけど、無くしてしまった私の大切なボタン、それも同じように惜しい・・・

陸軍の惨状に対し、海軍の脚気死亡者は3名でした。
世間は陸軍を非難・・・軍医のTOP・軍医総監が責任を問われ辞任に追い込まれました。
代わってその地位に就いたのは、森でした。

1908年、陸軍は、「臨時脚気病調査会」を設立します。
調査会は東京帝国大学医学部の教授や、陸軍、海軍の軍医らで構成されていました。
初代会長となったのは森でした。
その頃、コッホが来日・・・森は、コッホに脚気の研究法について相談をします。
コッホは言いました。

「日本の脚気は伝染病の脚気と栄養不足の脚気の2種類があるのではないか
 東南アジアに、脚気に非常によく似た病気があるからそれを調べてはどうか」

その病気は、オランダ領ジャカルタで、ベリベリと呼ばれていました。
早速森は、現地に調査員を派遣。
すると、現地では意外なことが起きていました。
ベリベリがほとんどなくなっていたのです。
患者にある物を食べさせることで撃退していました。
主導したのは、オランダの医師・生理学者のフレインスとエイクマンでした。
彼等は、麦飯によって脚気を防いだ海軍・高木の研究を発展させ、患者に玄米や豆が効くことを明らかにしていました。
エイクマンらは、玄米に含まれ、白米で失われてしまう米ぬかの中に脚気を防ぐ未知の成分があるのではないかと考えていました。
帰国した調査員は、臨時脚気病調査会で糠が脚気に効果的だと報告します。

報告を支持する者はいませんでした。
調査員は罷免されます。
突破口を開いたのは、医学とは全く異なる分野の男でした。
農学者・鈴木梅太郎です。
静岡の農家に生まれた鈴木は、植物は何故水と土だけで育つのかを解き明かそうと農学を志し、米の研究を始めました。
34歳で東京帝国大学農科大学・・・後の東京大学農学部教授に就任。
鈴木はエイクマンらがジャカルタで行った研究を知り米糠に注目します。
鈴木は米糠から脚気を防ぐ成分を抽出することに成功。
アンチ・ベリベリ・・・脚気に対抗するという意味を込め、アベリ酸と名付けました。
1911年、鈴木は、森が会長を務める臨時脚気病調査で、成果を論文にして報告。

「アベリ酸と名付けたるものは、従来ありふれた物質にあらず
 アベリ酸は三大栄養素とは異なり、生きていくために必要不可欠な全く新しい栄養素だ」

と主張しました。
これを、脚気を治癒する因子という概念ではなく、”高等動物の生育に必須のものである”という概念を伝えました。
まさに、いまでいう”ビタミン”の概念を提出したのです。

ところが、東京帝国大学医学部の委員たちは農学者である鈴木に冷酷でした。

「ぬかで脚気が治るなら、小便を飲んでも治る」

彼等は、農学は高級じゃないと思っていました。
医学というのがプライドのある分野で、他の学問分野とは違うという意識がありました。
従って、病気の解決に関しても、農学あたりから口を出されることに空いて我慢がならなかったのです。
鈴木はアベリ酸を臨床試験で使ってほしいと訴えましたが、断られ続けました。

逆風の中、1912年8月、ドイツの科学雑誌に鈴木の論文が掲載されます。
その中で、アベリ酸をオリザニンと改名。
オリザとは、ラテン語で米を意味します。
調査会での報告から1年が過ぎていました。
しかし、一歩遅かったのです。
鈴木が論文を提出する半年前の1912年2月・・・
ポーランド人の生化学者フンクが、鈴木と同じく米糠から脚気を防ぐ成分を抽出したと発表していたのです。
フンクはその物質をビタミンと名付けました。
Vital=生命に必要なものという意味を込めて・・・
鈴木は、未知の栄養素発見の栄光をみすみす取り逃がしました。

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一方、森は・・・
フンクがビタミンを発表した2年後に1冊の医学書を送り出します。
脚気の項目は・・・疫種・・・即ち伝染病に分類されていました。
1922年、森は60歳で死去・・・。
生涯、脚気細菌説の誤りを公には認めませんでした。
2年後・・・臨時脚気病調査会は、脚気の原因はビタミンの欠乏にあると認め、解散しました。

未知の栄養素の発見は、世界の科学者たちを突き動かします。
1948年までに13種類のビタミンが見つかりました。
脚気の外に、ビタミン欠乏によっておこる病気が次々と明らかになりました。
大航海時代に船乗りたちを苦しめた壊血病・・・歯茎や皮膚から出血が止まらなくなる・・・
壊血病は、ビタミンCの欠乏が原因だとわかりました。
骨が曲がり、もろくなるくる病・・・カルシウムの吸収に欠かせないビタミンDの欠乏が原因でした。
暗いところで見えなくなる夜盲症・・・鳥眼はビタミンAの欠乏で発症するとわかりました。
そして、1949年以降、生命の維持にかかわるビタミンは、発見されていません。
代わって科学者たちは、僅かであれ健康にかかわる物質を探し始めました。
その数は5万にのぼると言われています。
こうした物資を取り入れた商品が、次々と開発されています。
1991年、日本では特定保健用食品=トクホの制度がスタートしました。
消費者庁の審査を通ると効果効能を表示できるようになりました。
さらに、機能性表示食品の制度によって、健康にかかわる商品がより多く店頭に並ぶようになります。
いまや、このような商品の規模は1兆5000億円を超えています。

米糠からオリザリンを抽出した鈴木梅太郎・・・その成功に至るまで、米の栄養について講演をしたことがあります。
その聴衆の中に、海軍に麦飯を導入した高木兼寛がいました。
高木は公演終了後、鈴木に声をかけました。

「面白い話だった
 これからも研究を続けてもらいたい」

高木は若き鈴木を励まし、開場を去ったといいます。

鈴木梅太郎に関する新しい事実が・・・
1914年のノーベル生理学・医学賞に推薦された人のリストの中に、”Suzuki.U”とありました。
鈴木がビタミン発見の功績によって、ドイツ人科学者からノーベル賞に推薦されていたのです。
湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞する35年も前のことでした。
1929年、ビタミンの研究に対しノーベル賞が授与されました。
受賞者は、ジャカルタで米糠の研究をしていたエイクマンとビタミンの役割を研究したホプキンズ・・・
実は、当時このホプキンズは東京帝国大学の医学部の教授2名が推薦していました。
鈴木の研究を押すことはなかったのです。

鈴木梅太郎の研究は、長い間東京帝国大学医学部が否定し続けてきた成果です・・・
鈴木が先んじて受賞するようなことがあれば・・・耐えられなかったのかもしれません。

ビタミンの研究で、たった一人世界で名を残した日本人がいます。
南極大陸にある高木岬・・・麦飯を導入したあの高木兼寛の名にちなんでいます。
命名したのは、探検隊が脚気に悩まされたイギリス・・・
ビタミン研究の功績者として敬意を表したのです。

高木兼寛の名は、凍てつく大地で輝き続けています。

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