日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:鈴木貫太郎

]今回は、昭和の選択です~~!!

太平洋戦争開戦時の首相・東條英機・・・
東條は、戦後、東京裁判で絞首刑に処せられました。
彼はどうして、無謀と思われるアメリカとの戦争を選んだのでしょうか?
泥沼化する中国での戦争終結、資源獲得、アジア各国の欧米列強からの解放・・・
果たしてそれが、アメリカとの戦争目的だったのでしょうか?
戦争でしか解決できない問題だったのでしょうか??

昭和11年2月・・・
日本を震撼させたクーデター未遂事件2.26事件が起こりました。
事件を主導したのは、天皇親政を訴える陸軍皇道派に近い青年将校でした。
悪しき側近が、天皇の政を誤らせていると訴え、重臣たちを襲撃しました。
高橋是清大蔵大臣死亡、鈴木貫太郎侍従長重傷・・・

事件は天皇の逆鱗に触れ、鎮圧されました。
しかし、これ以降、軍部の圧力が日本の政治に暗い影を落とすことに・・・
この時、東條英機は関東憲兵司令官として満州にいました。
東條は、皇道派と熾烈な派閥争いを繰り広げていた統制派に属していました。
統制派
は、陸軍にはびこる藩閥人事を脱却し、国家をあげての総力戦体制を訴えていました。
東條は、”反満州抗日本”運動の活動家を強引に検挙しながら、2.26事件に乗じて満州の皇道派
を数多く拘束したといいます。
これを実行したのは、東條に直属する関東憲兵隊でした。
当時、満州で経済官僚として親交を深めていた星野直樹・・・後年、星野は、2.26事件発生時の東條の動きをこう記しています。

”少なからぬ者が、この事件に関係し、または興味を持っていたことが分かった
 東條憲兵司令官は、この事実を掴むと、これらの人々を一斉検束した” 

東條が指揮した憲兵隊には、特殊な任務がありました。
関東憲兵隊は、反満抗日運動の弾圧の先兵の役割を果たしていました。
軍事力を背景にした憲兵隊が力を発揮し、東條は期待に応えて、反満抗日運動を抑えることに成功し、関東軍にとって東條の評価が非常に高くなりました。
それは、憲兵全体が思想憲兵という性格を持っていて、東條は憲兵の新たな役割を引き出し、さらに拡充しました。
憲兵を使って実績を上げた東條は、関東軍参謀長を経て、日本陸軍の中枢へと歩みを進めます。

東條英機 「独裁者」を演じた男 (文春新書) [ 一ノ瀬 俊也 ]
東條英機 「独裁者」を演じた男 (文春新書) [ 一ノ瀬 俊也

昭和13年5月・・・
東條は、陸軍次官という重責で中央に復帰します。
実務能力に長けた東條は、あらゆる書類を精読し、何事も几帳面に記録していました。
常に複数の手帳を持ち歩いていたことが、彼を物語っています。
陸軍次官に就任した東條は、民間の生産力の活用と、反勢力の思想の漢詩に取り組みます。
つまり、総力戦体制の構築です。
東條は、次官に就任すると、満州から加藤泊次郎ら子飼いの憲兵たちを呼び戻し、要職に着けています。

昭和15年、日中戦争は開戦からすでに3年・・・
戦線を拡大する日本に、アメリカやイギリスは、中国での利権を独占されると危機感を覚えました。
戦争の早期解決を期待された近衛文麿内閣で、東條は陸軍大臣として初入閣します。

昭和16年7月、南部仏印注進。
ベトナム南部に石油やゴムなどの資源を求めて軍を進めました。
これにアメリカは激しく反発し、中国からの撤兵を要求します。
日本への経済制裁に加え、石油の輸出禁止という強硬手段に出ました。
石油の多くをアメリカの輸入に頼っていた日本には、受け入れられない措置でした。
日本の石油備蓄は2年分しかありませんでした。

昭和16年9月6日、事態を打開するため天皇隣席のもと、御前会議で国策が決定されました。
それは、10月上旬まで日米交渉を行い、まとまらなければ開戦に踏み切るというものでした。
近衛首相や外交筋は、交渉による解決を模索します。
しかし、陸軍は、中国駐兵に固執しました。
陸軍大臣の東條は、その急先鋒でした。
東條は閣議でこう言い放ちました。

「撤兵問題は心臓だ
 志那事変では数十万の戦死者、その数倍の遺族、数百万の軍隊と、一億国民を戦場および内地で辛い目にあわせており、さらに数百億の国費を費やし、ここで巧妙な米国の圧迫に、屈服する必要はない!!」

東條陸相は、頑なに撤兵を認めず、ルーズベルト大統領との首脳会談開催に望みをかけた近衛内閣は瓦解・・・総辞職しました。
戦争を回避するため、次期首相の選任は、緊急かつ最大の課題となりました。
当時、次期首相は、過去の首相経験者で構成される重臣会議で決められ、天皇に上奏されていました。
何人かの名前が上がるが、決め手を欠きました。
対米戦争を引き起こしかねない陸軍を制御できる者が必要でした。
そこで、天皇の側近・内大臣の木戸幸一が提案します。

「東條英機はどうか??」

東條を陸軍大臣のまま、首相をやらせようというのです。
強硬に対米開戦を主張する陸軍を抑えられるのは、東條しかいないと・・・!!
重臣たちの同意を得て、この意見は上奏されました。
昭和16年10月17日、東條英機・・・組閣の大命が下り・・・首相就任。

東條英機は陸軍大臣兼任のまま総理大臣となりました。
世間は、東條の首相就任でいよいよ開戦と受け止めました。
陸軍も戦争準備に前のめりになっていきます。
しかし、就任に際し、東條は木戸内大臣から天皇の本意を告げられます。

「9月6日の御前会議の決定を白紙に戻し、再検討せよ
 10月上旬までに、交渉が成立しなければ開戦する」
この決定を考え直せというのです。

首相となった東條は、最早、開戦のみを主張するわけにはいきませんでした。
東條は、陸軍が用意した閣僚リストに見向きもせずに、自ら組閣に取り組みます。
その人事に、対米戦争回避への意思が読み取れます。
満州在任以来、旧知の星野直樹を官房長官に当たる書記長官につけ、同じく満州で協力関係を築いた岸信介を物資の計画的動員や配分を握る商工大臣に据えました。
その上で、対米交渉を担当する外務大臣に開戦慎重派の東郷茂徳に就任を要請しました。
東條は、こう言って説得したといいます。

「交渉が成立させられるのであれば、自分も成立させたい」by東條英機

東郷は東條の考えを確認したうえで、入閣を決めました。
大蔵大臣となる賀屋興宣も、外交交渉の継続と東條が陸海軍統帥部を抑え込むことを条件に就任しました。
東條自身は、総理大臣、陸軍大臣に加えて、警察を管轄する内務大臣も兼任します。
戦争回避となった場合に、対米強硬論者たちが起こすであろう騒乱を、自らの権限で抑え込もうという意図でした。
2.26事件のような軍事クーデターのような動きがあれば、憲兵を使って未然に防ぐつもりだったと思われます。
東條は、満州以来の腹心・加藤泊治郎を憲兵司令部本部長につけるなどして体制を強化していました。
憲兵は、社会運動を監視し取り締まるだけではなく、社会全体、戦争に対する人々の意識を監視していました。
社会の人々にとっては、驚異の存在となっていきます。
関東憲兵隊司令官としての経験、成功体験によって、憲兵は十分使いでのあるものという認識は、自らが権力者になったとき国内においても実現していったのです。

池上彰と学ぶ日本の総理 第29号 東条英機/小磯国昭/鈴木貫太郎/東久邇稔彦【電子書籍】[ 「池上彰と学ぶ日本の総理」編集部 ]
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東條は、憲兵を情報収集にあたらせ、戦争回避のための治安維持に心を砕いていました。
10月19日、初の閣議後、早速主要閣僚に国策再検討を指示しました。
戦争回避のため、対米交渉を実現させる具体的な道を探ろうというのです。
10月23日午後2時・・・政府と軍の統帥部で、国策を再検討する大本営政府連絡会議が開かれます。
これ以降、詳細な項目ごとに、一週間以上にわたり会議が続きます。
会議は、まずユーロッパの戦況分析に始まりました。
その後、南方資源の需給バランスが議題にあげられ、さらに、開戦した場合の国家財政の検討などが逐一議論されました。
中でも激論が交わされたのが、対米交渉条件の緩和・・・つまり、中国撤兵についてでした。
アメリカとの交渉を進展させるため、撤兵を求める東郷外相・・・
方や陸軍統帥部・参謀総長の杉山元は断固拒否を貫きました。
海軍は、南方の資源を確保できても、長期戦に耐えられないことを理由にあいまいな態度を取り続けました。
船舶の生産量より、沈没させられる方が多いとの見通しから、物資が賄えないとの判断でした。
ところが、会議が始まって1週間がたった10月30日、新たな経済予想が提出されました。
南方を占領できれば、船舶の被害よりも造船量が上回れるというのです。
軍部からの圧力を感じさせる数字でしたが、開戦反対派は言葉を失いました。

会議開始から1週間以上たち、東條には議論は尽くされたように見えました。
首相として、何らかの方針を打ち出す時期に来ていたのです。
東條は、出席者たちに3つの案を提示します。
それが議事録に記録されています。

①戦争することなく臥薪嘗胆す
②直ちに開戦を決意し、戦争により解決
③戦争決意のもとに、作戦準備と外交を併行し、外交を成功するようにやってみたい

いずれの結論に導くのか、煩悶する東條・・・!!
昭和16年11月1日、東條は、この日を最後とする決意で、会議に臨みました。

わずか2週間前、対米強硬論を主張して近衛内閣を退場させた東條・・・しかし、首相になって、開戦へリードしない東條に陸軍内部では侮蔑的な見方が起こります。
陸軍に支えられてきた東條にとって由々しき事態でした。

昭和16年11月1日午前9時・・・大本営政府連絡会議が始まりました。
3つの案から、陸海軍統帥部は第2案・・・直ちに開戦を決意!!
東郷外相、賀屋蔵相は、第3案・・・戦争決意の下、外交を継続を訴えます。
激しい議論の応酬が延々と続きました。
意見が一致しなければ、内閣総辞職しかありません。
しかし、それは時間の浪費にすぎません。
今、この場で結論を出さねばならない!!
なんとか天皇の意に沿うため、東條も第3案に与し、統帥部を説得にかかります。
その結果、ついに統帥部は折れ、戦争決意の下で外交を継続することが決まりました。
すでに日付も変わり、午前1時を回っていました。
しかし、この決定は、期限までに交渉がまとまらなかった場合、アメリカと開戦することを意味していました。
交渉期間は1か月・・・アメリカの要求する中国や仏印からの撤退なしに、交渉の前途はありませんでした。

後に東條は、首相の責任の重さについてこう語っています。

「近衛には悪いことをした
 陸相として力の足りなかったのは反省している
 首相になってみて、それがよくわかった」by東條英機

そして、交渉期限は切れ、昭和16年12月8日未明・・・遂に太平洋戦争は始まりました。

開戦の翌年、昭和17年早々、日本は破竹の勢いで進軍し、マニラ、シンガポールを占領・・・
議会での東條の勇猛な演説は、幾度となく万来の拍手を浴びました。
東條は、早くから国内情勢にも目を光らせていました。
人々の心を一つにした総力戦体制の構築こそが、戦争の行方を左右すると考えていたのです。
憲兵司令部本部長・加藤泊治郎に、反戦活動やスパイ行為に目を光らせるように指示しています。

山口県の民家で発見された加藤の遺品の数々・・・
その中に、加藤の肉声を記録したレコードがありました。
昭和17年4月24日、加藤はラジオ演説で国民に長期戦を戦い抜くための協力を訴えました。
それは、東條の考えに沿ったものでした。

「国家の総力を挙げて、国難に赴くの極致を発揮し、米英撃滅の一点に集中せねばならぬ今日、総理大臣が一億国民が一切を挙げて、国に報い、国に殉ずるの時は、今でありますと申されたのも、この意と存ずるのであります
 4月18日に国内に少しばかりの敵機の襲来があったからといって、悪質なる批判的言動をなすような事では駄目であります
 我が国はいよいよとなれば、日本全土が丸焼けになっても、思想的に大磐石であると確信しますが、私ども憲兵の立場と致しましては、少しでも思想的より起こる害を少なくしたいと考え、失礼ながら皆様方のこれらの点の関心を高めたいためにほかなりませぬ
 同時に憲兵と致しましては、国民各位が佐渡おけさを歌われようが安来節をやられようが、各自褌をしめ、覚悟を決めての上での適度適当なる慰安行楽等にはともに笑って楽しみも致しますが、悪質なる獅子身中の虫は、発見次第憲兵司令官の命のもとに断固処置するにやぶさかでありませぬ
 ご協力をお願いいたします」

東條は、激務を推して頻繁に民情の視察に赴きました。
庶民派宰相を自己演出して国民をまとめようと懸命でした。

しかし、戦局は悪化をたどり、開戦から1年余りで南方の要衝ガダルカナル島を失います。
懸念されていた船舶の供給も思うように任せず、政府と統帥部は一体感を失っていきます。
なんとか総力戦体制を維持しようと、東條は陸軍統帥部のTOP・参謀総長も兼任します。
しかし、もはや、体制を整えることはできず、サイパン島をアメリカに奪われ・・・
これにより日本本土は、アメリカ軍の爆撃圏内に入りました。
国内には、危機感が満ち、重臣たちも東條を見限る時が来ました。
サイパン島陥落から10日後・・・東條英機は、すべての職を辞しました。


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東条英機暗殺計画 海軍少将高木惣吉の終戦工作 (光人社NF文庫) [ 工藤美知尋 ]
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昭和天皇は、晩年、生涯忘れることがなかった出来事を二つ挙げています。
ひとつは、太平洋戦争を終わらせたときの自らの決断、そしてもうひとつは・・・
二・二六事件です。
昭和11年二月二十六日・・・陸軍の青年交渉が部隊1500人を動かし、重要閣僚ら9人を殺害。
天皇中心の軍事政権を目指し、日本の中枢を4日間にわたり占拠しました。
近代日本最大の軍事クーデターです。
83年経った今年、事件を克明に記した最高機密文書が発見されました。
この極秘文書には、事件の第一報から収束までこれまで知られなかった事実が分刻みで記されていました。

陸軍上層部が事件の裏で進めていた策略・・・海軍と陸軍が臨戦態勢を取り、内戦直前だったという新しい事実・・・。
公にされてこなかった天皇の行動・・・。
日本を揺るがし、今なお多くの謎を残す二・二六事件・・・この事件をきっかけに、日本は軍部の力が拡大し、太平洋戦争に突き進んでいきました。
壊滅的な敗戦に至った日本・・・歴史の転換点となったこの4日間に、一体何があったのでしょうか?

昭和20年9月2日・・・太平洋戦争に敗れた日本が降伏文書に調印・・・
その時、日本の代表団の中に一人の海軍の幹部がいました。
富岡定俊海軍少将です。
終戦の時、海軍軍令部の部長だった富岡・・・かれこそ、二・二六事件の文書を持っていた人物でした。
富岡は、海軍の最高機密文書を密かに保管・・・これまで公になることはありませんでした。
これまでは、事件後の陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきました。
今回発見されたのは、海軍が事件の最中に記録した文書・・・六冊です。
海軍は、極秘の文書には赤い色を使っていました。
作成したのは、海軍のすべての作戦を統括する軍令部でした。
そのトップら海軍の上層部が確認した事実も残されています。
陸軍ではなく、海軍からの資料が残っていたのはとても重要なことです。

2月26日・・・一日目 知られざる事実

降り積もった大雪が、東京の中心部に10センチ以上残っていました。
午前7時・・・海軍軍令部に1本の電話がかかってきました。
警視庁・占領、内大臣官邸・死、総理官邸・死・・・連絡を最初に受けた第一報です。
夜明け前、陸軍青年将校が部隊およそ1500人を率いて決起!!
重要閣僚らを襲い、クーデターを起こしたのです。

後に明らかになる事件の内容を、海軍は発生当初の時点でかなり正確につかんでいました。
首相・岡田啓介は、間違って別の男性が殺害されました。
天皇の側近・斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣は、銃や刀で残虐に殺されました。
警備中の警察官も含むと9人を殺害、負傷者は8人に上りました。
決起部隊を率いたのは、20代、30代の青年将校たちでした。
陸軍の中の皇道派を支持していました。
政治不信などを理由に国家改造の必要性を主張し、天皇を中心とした軍事政権の樹立を目的として閣僚たちを殺したのです。

しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、側近たちを殺害した決起部隊に厳しい姿勢で臨もうとしていました。
事件を起こしたのは、赤坂と六本木に駐屯していた陸軍の部隊の一部でした。
国会議事堂や首相官邸や国の中枢を武装占拠・・・これに対し、陸軍上層部は急遽設置された戒厳司令部で対応に当たりました。
ここに全ての情報を集めて統制していたのです。

ところが・・・極秘文書から、陸軍以外に海軍が独自の情報網を築いていたことがわかりました。
海軍は情報を取るために、一般市民に扮した私服の要員を送り込んでいました。
戒厳司令部にも要員を派遣・・・陸軍上層部に集まる情報を入手していました。
さらに・・・現場周辺に見張り所を多く設置。
決起部隊の動きを監視し、分単位で記録・報告していました。
海軍がネットワークを張り巡らせ、膨大な情報を得ていたのです。
海軍は事件発生直後からどうしてこのような体制を組めたのか・・・??

海軍は事件発生前から陸軍の一部に不穏な動きがあるという情報を掴んでいたのです。
陸軍の青年将校が率いた決起部隊・・・
天皇を中心とする国家を確立しようとクーデターを企てました。
決起部隊に行動を否定した天皇・・・。
双方の動きをめぐる陸軍上層部と海軍との攻防が始まろうとしていました。

極秘文書には、事件初日にその後の行方を左右する密約が交わされていたことが記されていました。
二つの密約・・・
事件発生直後、場所は陸軍大臣官邸・・・
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、決起部隊がクーデターの主旨を伝えます。
陸軍大臣の回答とは・・・??
川島大臣は、決起部隊に軟弱だと詰め寄られ、彼らの目的を支持すると約束させられていたのです。
決起直後に大臣が、決起部隊の幹部に対して「昭和維新の断行を約す」と、約束しているのです。
これを聞けば、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然です。
それ以降の決起部隊の力となってしまいました。
この直後、川島大臣はある人物と接触します。
皇道派の幹部・真崎甚三郎陸軍大将です。
決起部隊が、軍事政権のTOPに担ごうとしていました。
クーデターに乗じて、陸軍上層部の中に軍事政権の樹立を画策する動きが出ていたのです。
一方、別の場所でもう一つの密約が交わされていました。

軍を統帥する昭和天皇・・・事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきました。
しかし、極秘文書には、事件に直面し揺れ動く天皇が書かれていました。
事件発生直後、海軍軍令部総長・伏見宮に宮中で会っていました。
伏見宮は、天皇より26歳年上・・・長年海軍の中枢に位置し、影響力のある皇族でした。
その伏見宮にこう問いかけていました。

「艦隊の青年士官の合流することなきや」

海軍の青年将校たちは、陸軍の青年将校たちに加わることはないのか?と。

天皇の問いに伏見宮は・・・「無き用」言上しています。
その心配はないと語りました。

海軍は決起部隊に加わることはないのか・・・不安を抱く天皇の言葉が初めて明らかになっています。
当時まだ34歳だった天皇・・・軍部の中には批判的な声もありました。
陸軍少佐だった弟の秩父宮などが代わりに天皇に担がれるという情報まで流れていました。
軍隊に人気がある秩父宮と高松宮を軍隊が天皇にしてしまう可能性があるのでは・・・という危機感を持っていたのです。
軍隊の中で天皇の威信が確立できていないというのが昭和初期という時代でした。
事件の対処次第では、天皇としての立場も危ないという状況でした。
決起部隊に加わることはないと明言した海軍に対し、畳みかけるように命令をしていきます。

「陸戦隊につき 指揮官は 部下を十分 握り得る人物を選任せよ」

陸戦隊とは、海軍の陸上戦闘部隊です。
艦艇の乗組員を主に形成されます。
万が一、決起部隊に同調する動きが出てこないか・・・天皇は疑心暗鬼になっていました。
天皇は、陸戦隊の指揮官の人選にまで注文します。
この後、海軍の存在が、天皇の鎮圧方針を支えていきます。

決起部隊の目的を支持すると約束した陸軍上層部・・・
天皇に決起部隊に加わらないと約束した海軍・・・
事件の裏で、相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に一歩踏み出していきます。
天皇は海軍に鎮圧を準備するよう命じる大海令を出します。
天皇が立て続けに三本の大海令を出すのは異例のことでした。

2月27日・・・二日目 海軍の表と裏

極秘文書には戦艦を主とする第一艦隊、第二艦隊の動きが詳細に記録されています。
天皇の命令で大海令を受け、全国に部隊を展開する極めて大規模な作戦でした。
大分の沖合で演習中だった第一艦隊は直ちに動き始めます。
長門など戦艦4隻をはじめ、巡洋艦や駆逐艦、9隻の潜水艦、戦闘機、爆撃機の飛行機隊・・・第一艦隊全体が、東京を目指しました。
鹿児島沖で訓練をしていた第二艦隊は、大阪に急行します。
全国に決起部隊に続くことを海軍は警戒していたのです。

午前8時・・・横須賀から出動した陸戦隊の4つの大隊が東京・芝浦埠頭に到着していました。
これまで陸軍の事件として語られてきた二・二六事件・・・実は海軍が全面的にかかわる市街戦まで想定されていたのです。

この時、陸軍の不穏な動きは広がりを見せていました。
東京を中心とする陸軍の第一師団・・・決起部隊の大半が、この部隊の所属でした。
第一師団の参謀長が・・・
「決起部隊もまた日本人 天皇陛下の赤子なり
 彼らの言い分にも理あり
 決起部隊を暴徒としては取扱い居らず」
と漏らしています。

クーデターに理解を示すかのような陸軍幹部の発言・・・
もし・・・陸軍第一師団が決起部隊に合流したらどうなるのか・・・??
海軍は、陸軍と全面対決になることを警戒していました。

午後2時・・・海軍軍令部の電話が鳴りました。
電話の相手はなんとクーデターを起こした決起部隊でした。
この事実は、極秘文書によって初めて明らかになりました。
決起部隊はどうして海軍に接触してきたのでしょうか?
それは、海軍の内部にも、決起部隊に同調する人物がいたからです。

当時取調べを受けた人物の一覧も残っていました。
宮中顧問官退役(海)中将・小笠原長生・・・天皇を中心とする国家を確立すべきだと常々主張し、皇室とも近い関係にありました。
事件発生直後、伏見宮をたずね、決起部隊の主張を実現するように進言していたのです。
小笠原は、有力な海軍大将らと接触し、働きかけを続けていたことが記録されています。

海軍にまで接触を試みてきた接触部隊は要求してきます。

「よく物のわかる将校一名 来部せられたし」

決起部隊は、モノの分かる将校一人で来るように言ってきます。
これに対し、岡田為次参謀が、課長の命により同部に・・・
決起部隊の司令部でこう語ります。
「君たちは初志の大部分は貫徹したとして打ち切られてはいかがか・・・」
決起の主旨を否定せず、相手の出方を伺います。
この時、すでに天皇の名を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍・・・
その事実を伏せたまま、この部隊から情報を集めていきます。

天皇の鎮圧方針に従う裏で、決起部隊ともつながっていたのです。
一方この日、陸軍軍上層部も新たな動きを見せます。
天皇が事態の収束が進まないことにいら立ち、陸軍に事態の鎮圧を急ぐように求めていたのです。

午後9時・・・戒厳司令部に派遣されていた海軍軍令部員から重要な情報が飛び込んできました。
真崎甚三郎大将が、ある陸軍幹部と会い極秘工作に乗り出したという情報でした。
相手は石原莞爾大佐・・・満州事変を首謀した人物です。

二人が話し合ったのが、青年将校の親友を送り、決起部隊を説得させるという計画でした。
この説得によって事態が収束するという楽観的な考えを持っていました。
真崎・・・約70%成功スルモノト観察
石原・・・成功ハ殆ド確實
一方、従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決めていました。

海軍は、情勢をより厳しく見ていました。
決起部隊の考えを密かに探っていた海軍の岡田中佐・・・午後10時30分の報告

”真崎ら郡司参事官ノ説得ニ封シテ一部ノモノハ強硬
 尚解決シ居ラズ”

海軍は、決起部隊が説得に応じず深刻な事態に陥る可能性が高いと見ていました。

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2月28日・・・三日目 内戦の危機
朝からみぞれが降っていました。
午前5時・・・天皇が出したある命令を巡って、事態は大きく動きます。
決起部隊の行動は、天皇の意思に背いていると断定する奉勅命令です。
直ちに元の部隊に戻らせるよう命じるものでした。
事件発生当初は不安を抱く言葉を発していた天皇・・・
奉勅命令によって、自らの意思を強く示したのです。
しかし、海軍はこの天皇の意思に反する動きを掴んでいました。

11時5分・・・小藤大佐ガ戒厳司令部ヨリカケタル電話ノ傍聴

海軍が傍聴したのは、奉勅命令を決起部隊に伝える役目を担っていた小藤恵陸軍大佐の電話です。
奉勅命令を伝えるために決起部隊と面会してきた小藤・・・この結果を電話で報告している時、海軍軍令部員は傍で聞いていました。
そして、小藤が天皇の重大な命令を決起部隊に伝えなかったという事実を知ったのです。

”奉勅命令ハ師団司令部ニテ握リツブシ居レリ”

決起部隊との衝突を恐れ、奉勅命令を伝えられずにあいまいな態度を取り続けていたのです。
しかし、小藤とのやり取りや態度などから、部隊は奉勅命令を出し自分達を反乱軍と位置付けたことを知ります。
天皇が自分たちの行動を認めていないこと・・・そして陸軍上層部がもはや味方ではないことを確信したのです。
奉勅命令をきっかけに、事態は一気に緊迫していきます。
同じころ、決起部隊と面会を続けていた海軍の岡田中佐は、交渉が決裂したと報告します。

”決起部隊と海軍の関係、交渉の結果は合致することを得ず
 決起部隊首脳部より、海軍を敵とみなす
 海軍としては、直ちに芝浦に待機中の約三ケ大隊を海軍省の警備につかしめたり”

天皇に背いたとみなされ、陸軍上層部からも見放された決起部隊・・・
期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、敵対関係になり、絶望的な状態に陥ります。
鎮圧に傾く陸軍、そして海軍陸戦隊・・・。
決起部隊との戦いが現実のものになろうとしていました。

全軍にガスマスクを・・・
市街戦で催涙ガスが使われる可能性があるとして、ガスマスクが陸戦隊に配られました。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思わぬ連絡が入ります。
決起部隊の首謀者のひとり磯部浅一が、ある人物との面会を求めてきました。
海軍はこの極秘情報を入手!!

”決起部隊の磯部主計、面会したき申し込み 山下大尉”

陸軍近衛師団の山下誠一大尉でした。
磯部の二期先輩で、親しい間柄でした。
山下がいる近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊です。
追いつめられた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手掛かりを求めてきたのです。
二人が面会したのは文部大臣官邸でした。
天皇のために決起した自分達を、なぜ、鎮圧するのか?
磯部は問いました。
「命令により出動した」by山下
一方山下は、決起部隊から攻撃することになった場合、磯部はどうするのかと問いかけます。
「空中に向けて射撃するつもりだ」by磯部
天皇を警護する近衛師団に向かって発砲することはできないと言った磯部・・・
しかし、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていました。
「我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか?」by山下
「断じて反撃する決心だ」by磯部
山下は説得を続けますが、二人の溝は次第に深まっていきます。

「我々からの撤退命令に対し、なぜこのような状態を続けているのか}by山下
「本計画は、十年来熟考してきたもので、何と言われようとも昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」by磯部
もはやこれまでと悟った山下は、
「皇族の邸宅を傷つけないように気をつけろ」
とだけ磯部に告げました。
極秘文書に記録された二人の会話はここで終わっています。

共に天皇を重んじていた二人・・・再び会うことはありませんでした。
説得工作が失敗すれば総攻撃するという陸軍情報部の計画が、現実味を帯びていきます。
天皇に訴える道筋が、次々と絶たれていった決起部隊・・・
自分達は天皇に背いたわけではないと、市民に向け主張し始めます。
極秘文書には、現場の緊迫した状況が書かれています。

決起部隊の拠点・・・料亭・幸楽。
集まった群衆に対し、自分たちは間違っていないと主張していました。

”一日モ早ク悪イモノヲ殺ス
 国民ノ腹ノ底ニアル考ヘヲ 我々カ寛行シタノタ
 上御一人ヲシテ御安神遊サル様
 国家皆様モ安心シテ生活スルコトカ出来ル様ニ 出動シタモノテアル”

天皇と国民のために、クーデターを起こしたと訴える決起部隊・・・
事件の詳細を知らされていない人々の発言も残されていました。

「是レカラ尚国賊ヲヤッテ仕舞ヘ」
「腰ヲ折ルナ」
「妥協スルナ」
「諸君ノ今回ノ働キハ 国民ハ感謝シテ居ル」

2月29日・・・四日目 最後の賭け
午前2時40分・・・安藤・新井両部隊は、秩父宮電荷を奉戴し、行動す・・・。
決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥ります。

「安藤大尉の一行が、「トラック」にて東久邇宮邸に向かうとの情報あり
 霊南坂方面にトラック20台・・・
 突破せられざるよう、極力阻止要す」

決起部隊のトラックが包囲網を破ったという情報も入ってきました。
鎮圧部隊は皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置、戦車も配備して守りを固めます。

午前6時10分・・・
決起部隊が現れたのは、天皇を直接補佐する皇族の邸宅でした。
陸軍参謀総長・閑院宮です。

氷点下まで冷え込んだ中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていました。
閑院宮をを通じ、天皇に決起の想いを伝えることに一縷の望みを託していたのです。
しかし、閑院宮は現れませんでした。
決起部隊は、昭和天皇に決起の本当の意図を理解してもらいたいということで、天皇に近い皇族に接触をしようとしていました。

早朝・・・陸軍はついに鎮圧の動きを本格化させます。
海軍司令部は、周辺住民に避難を指示!!
住民1万5000は、着の身着のまま避難所へ・・・。
武力行使に備え、劇場や学校など頑丈な建物に身を寄せます。
一触即発となった鎮圧部隊・・・そして決起部隊・・・
東京が戦場になろうとしていました。

兵士の多くは、事前に詳細を知らされないまま上官の命令に従っていました。
国会議事堂に迫りくる戦車の音・・・決起部隊は自分達が鎮圧の対象となっていることに気付きます。
引き金をひけば玉が出る・・・どうして撃ち合わなければいけないんだろう・・・。
同じ日本人同士なのに・・・!!

陸軍の鎮圧部隊も、戦地とおなじような感情を抱いていました。
もし撃ち合いになったら・・・??

海軍陸戦隊は、攻撃準備を完了していました。
実行直前だった陸戦隊の作戦内容が極秘文書にありました。

「攻撃目標 内務省 外務省間の道路上の敵
 進撃命令はラッパ符「進め」
 本大隊(陸戦隊)の全部を率い、直ちに出撃し、敵を撃滅す」

この時、第一艦隊は、東京芝浦沖に集結していました。
極秘文書に記された第一艦隊の配置・・・一線に並んだ戦艦・・・世界最大級の主砲を供えた戦艦長門など、第一艦隊は命令を待っていました。
もし、決起部隊との戦闘が始まったら・・・海軍軍令部は、状況次第ではある作戦の実行を想定していました。

「艦隊から国会議事堂を砲撃」

当時、対処に当たっていた軍令部員の名前が残っていました。
矢牧章中佐・・・艦隊が攻撃することになった場合の重大さを証言しています。

「芝浦沖から国会議事堂まで4万メートル飛ぶ・・・
 陸軍(決起部隊)がもし考え違いして「やろうじゃないか」なら・・・千代田区は無くなってしまう・・・」

天皇は、時々刻々と入る情報を聞き取り続けていました。
事件発生から4日間・・・鎮圧方針を打ち出して来た天皇・・・最終版・・・陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていました。
午前8時10分・・・戒厳司令部情報・・
ついに、陸軍鎮圧部隊による攻撃開始時刻が決定します。
8時避難完了・・・8時30分攻撃開始・・・!!
攻撃開始に当たり、戒厳司令部がラジオで流したニュースの内容が極秘文書に残されていました。

「戒厳司令部発表
 南部麹町付近に銃声聞こえるやもしれず
 市民は落ち着いて低いところに居てください
 建物などの援護物を利用し、銃声の反対に居るが安全なり」

いつ攻撃が始まるかもわからない中、海軍は最前線で様子を探っていました。
その時、追いつめられていた決起部隊の変化に気付きます。

「10時5分頃、陸軍省入り口に於いて、決起部隊の約一ヶ小隊重機銃二門 弾丸を抜き整列せり
 三十名の決起部隊降伏せり
 
 11時45分、首相官邸屋上の「尊皇義軍」の旗を降せり
 12時20分、首相官邸内に万歳の声聞ゆ」


最後まで抵抗を続けていた決起部隊に海軍は注目していました。
12時40分・・・残るは山王ホテルの250名
指揮官安藤・・・安藤輝三大尉の部隊・・・鎮圧部隊は攻撃を決めました。
最後の指揮官の安藤の一挙手一投足が書かれています。

安藤大尉は部下に対し、君達はどうか舞台に復帰してほしい
最後に懐かしい我が六中隊の歌を合唱しようと自らピストルでコンダクトしつつ中隊歌を合唱
雪降る中に第一節を歌い終わり、第二節に移ろうとする刹那、大尉は指揮棒代わりのピストルを首に・・・
合唱隊の円陣の中に倒れた

14時25分、戒厳司令官より軍令総長あてに、午後1時平定・・・

日本を揺るがした戦慄の4日間・・・
陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けました。
事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家にあると断定・・・
弁護人なし、非公開、一審のみ、の暗黒裁判ともよばれた軍法会議にかけました。
事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑したのです。
陸軍は、組織の不安は取り除かれたと強調、一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていきます。

現に目の前で、何人も斬り殺され、銃で殺される事件を見て・・・
政治家も財界人も、陸軍の言うことに対し、本格的に抵抗する気力を失っていきます。
これが二・二六事件の一番のその後の大きな影響力の最たるものです。

34歳で事件に直面した天皇・・・
軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通しました。
クーデター鎮圧の成功は、結果的に天皇の権威を高めることにつながります。
二・二六事件を通して、軍事君主としての天皇の役割がすごく強くなってしまって、天皇の権威、神格化が進んでいったのです。
二・二六事件後、日本は戦争への道を突き進んでいきます。

高まった天皇の権威を軍部は最大限に利用。
天皇を頂点とする軍国主義を進めていきます。
軍部は国民に対して命を捧げることを望んでいきます。
昭和16年真珠湾攻撃・・・日本は太平洋戦争に突き進んでいきます。
天皇の名のもと、日本人だけで310万人の命が奪われました。
壊滅的な敗戦・・・二・二六事件から、わずか9年後のことでした。

戦後、天皇は忘れられない出来事を二つ挙げています。
終戦時の自らの決断・・・そして・・・二・二六事件。

戦後天皇が、もしこの事件をおもいを持っていたとすれば、これは後の戦争に突き進んでいく一つの契機になった事件・・・自分が起こした強い行動は、戦争に突き進んでしまった要因の一つではないか?と、戦後色々な思いを持っていたのかもしれません。

晩年、天皇は2月26日を慎みの日とし、静かに過ごしたといいます。
二・二六事件を記録し続けた海軍・・・その史実を一切公表することはありませんでした。
どうして海軍は、事実を明らかにしなかったのでしょうか?

極秘情報・・・
海軍が事件前に入手した情報です。
その内容は詳細を極めていました。
2月19日・・・事件発生の7日前・・・東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に機密情報をもたらしていました。

「陸軍、皇道派将校らは、重臣暗殺を決行する
 この機に乗じて、国家の改造を断行せんと計画」

襲撃される重臣の名前が明記されていました。
襲撃の木城となり得るのは、岡田首相、斎藤内府、高橋蔵相、鈴木侍従長等なりと・・・
そして次のページには首謀者の名前も書かれていました。

香田清定・栗原安秀・安藤輝三

事件の1週間前に、犯人の実名までも海軍は知っていたのです。
海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた・・・
しかし、その事実は闇に葬られていました。
その後、起きてしまった事件を記録した極秘文書・・・
そこに残されていたのは、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿でした。

事実とは何か・・・??
私たちは、事実を知らないまま再び誤った道に歩んではいないか・・・??
時を超えてよみがえった最高機密文書・・・
向き合うべき事実から目を背け、戦争に突き進んでいった日本の姿を今、私たちに伝えています。

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昭和20年8月15日正午・・・
国民に太平洋戦争が終わったことが告げられました。

戦後、昭和天皇は、戦争終結についてこう述べています。
「朕と肝胆相照照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ。」
鈴木とは・・・齢78にして、内閣総理大臣となり終戦へと導いた鈴木貫太郎です。
しかし、戦争終結に至る日々は、まさに命がけでした。

昭和20年、太平洋戦争は最終局面を迎えていました。
3月10日には東京大空襲、大阪、名古屋でも、大規模な空襲が続き、主要都市が次々と焼き尽くされていきました。
4月1日には、アメリカ軍が沖縄本島上陸。
およそ3か月にわたる沖縄戦では、民間人10万人を含む約20万人が命を落としました。
4月5日、戦局を打開できないまま、小磯内閣が総辞職、鈴木貫太郎に組閣の大命が下ります。
天皇の諮問機関である枢密院の議長を務めていた鈴木は、この時78歳。
どうして老齢な鈴木に大命が下ったのでしょうか?

現在の大阪府堺市で生まれた鈴木は、海軍兵学校を卒業後、軍人としての人生を送って行きます。
海軍の要職を歴任し、大将13年には連合艦隊司令長官に・・・!!
この頃、昭和天皇と出会ったことが重要でした。
鈴木が指揮する海軍の大演習を昭和天皇が視察され、見事な統率力を持った鈴木を信頼していました。
その後、昭和4年、62歳の時に天皇の側近中の側近・侍従長になります。
この時、昭和天皇は27歳。
鈴木は侍従長として7年・・・天皇の傍で篤い信頼が得ていきます。
また、鈴木の妻であるたかは、昭和天皇が4歳の頃から宮中で10年もの間、宮中で養育係を務めており、天皇は・・・
「たかは、本当に朕の母親と同じように親しくした」としています。
鈴木夫妻は、昭和天皇にとって信頼のおける特別な存在でした。
この経歴こそが、老齢にもかかわらず、総理大臣への要請の理由の一つでした。
しかし、鈴木は・・・
「鈴木は、一介の武人です。
 鈴木は軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日まで自分のモットーにしてまいりました」
さらに、高齢や、耳が遠い事を理由に断ります。
すると天皇は笑みを浮かべこう言いました。
「鈴木の心境もよくわかる
 しかし この国家危急の重大時期に際して もう他に人はいない
 頼むからどうか気持ちを曲げて承知してもらいたい」

この言葉に、鈴木は覚悟を決めました。
そして、1945年4月7日鈴木内閣発足
組閣後、大宮御所に伺った鈴木に皇太后は涙ながらにこう言いました。
「若い陛下が国運荒廃の帰路に立って日夜御苦悩遊ばされている
 鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである
 どうか陛下の親代わりとなって 陛下の御軫念を払拭してほしい」

天皇の心のうちとは・・・??
それは、本土決戦を前に何とかして戦争を収拾したいということでした。
ところが、鈴木は親任式の談話でこう語ります。
「今は国民一億のすべてが国体防衛の御楯たるべき時であります
 私はもとより老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で国政の処理に当たります
 諸君もまた 私の屍を踏み越えて 起つの勇猛心をもって 新たなる戦力を発揚し 共に宸襟を安んじ奉られることを 希求してやみません」

なんと、国民に戦争継続、徹底抗戦の発言をしたのです。
これには理由がありました。
後に自伝で述べています。
「国民よ私の屍を越えて行け」の真意は・・・
第一は、今の戦争は勝ち目がないと予測していたので、大命が下った以上、機を見て終戦に導くそうなれば殺されるということ。
第二は自分の命を国に捧げるという忠誠の意味です。

この時、鈴木貫太郎が目指していたのは、終戦に他なりませんでした。
しかし、どうして戦争継続、本土決戦を言ったのか??
それは、陸軍によるクーデターを恐れていたからです。
鈴木貫太郎と陸軍というと、2.26事件があります。
当時、侍従長だった鈴木は、陸軍青年将校たちのターゲットとされ、4発の銃弾を浴びせられ、瀕死の重傷を負います。
「止めだけは、どうか待ってください・・・!!」
夫人の嘆願によって、鈴木は一命をとりとめていました。
あの時のようなクーデターを起こさせてはならない・・・!!

鈴木は、戦争を終わらせるために、組閣にも慎重になります。
終戦を望んでいた鈴木は、和平派の東郷茂徳外務大臣、海軍での信頼の厚い米内光政海軍大臣らを入閣させます。
そして・・・本土決戦を叫ぶ陸軍の暴発を危惧していた鈴木は、陸軍大臣に阿南惟幾を希望、陸軍に打診します。
すると、陸軍側から3つの条件が出されます。
①戦争の遂行
②陸海軍の一体化
③本土決戦必勝のため陸軍の策を実行すること
でした。

これを飲まなければ、阿南を入閣することができない・・・。
とりあえず、鈴木は「まことに結構なり」と、戦争継続を前提とする条件を飲んでしまいました。
なぜなら、阿南惟幾を陸軍大臣にしたかったのです。
鈴木が侍従長だったころ、阿南も侍従武官として天皇の傍にいたことにあり、その働きぶりや人となりを身近で見ていました。
この人なら、決して裏切らない・・・!!
鈴木の信頼で来る男でした。
阿南なら、戦争終結を受け入れてくれるのでは・・・??
陸軍のクーデターを抑え込んでくれるのでは・・・??
と思っていたのかもしれません。

こうして動き出した鈴木内閣でしたが、日本の戦況は厳しいものでした。
ヨーロッパ戦線では、日本と三国同盟関係にあったイタリア・ドイツが連合国軍に降伏します。
日本は、ただ一国で、世界を相手に戦うこととなったのです。
そんな中、B29爆撃機が東京に襲来、火の手は折からの強風にあおられて皇居である宮城内にまで及び、宮殿の一部など、多くが焼失しました。

「この時の総理は、当時進行していた和平への道を一日も早く達成しなければならないと 胸底深く誓ったに違いありません。」by書記官長・迫水久常

1945年6月22日、戦争に関する決定機関である最高戦争指導会議を開くべく、鈴木貫太郎総理を始め東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長・・・6人のメンバーが集められました。
そして、昭和天皇の言葉が伝えられます。
「戦争の終結についても この際 従来の観念にとらわれることなく 速やかに具体的研究を遂げ これの実現に努力するよう望む」

戦争終結を望む意思を天皇が明確に表明したことを受け、鈴木は中立条約を結んでいたソ連の仲介によるアメリカ、イギリスとの和平交渉に動き出します。
しかし、ソ連に仲介を打診するも、話しは一向に進みません。
そんな中、7月26日・・・
アメリカを中心とする連合国側が日本に降伏を求めてきました。
ポツダム宣言です。
連合国側は、降伏に伴い・・・日本の占領、日本軍の武装解除、戦犯犯罪人の処罰を求めてきました。
そして、これ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全な壊滅しかないと・・・!!

7月27日朝、政府は会議を開き、これを検討します。
その結果、ソ連からの回答を待つことに・・・。
暫くは、ポツダム宣言に対する意思表示を明確にはしないという方針をとります。
そんな政府の動きを新聞はこう表現します。
7月28日朝「政府は黙殺!!」
これが日本の運命を大きく変えます。

この黙殺という言葉が、「無視する」「拒絶する」と解釈され、世界に伝わってしまいました。
連合国側は、日本は降伏する意思はないと判断!!
8月6日、広島に原爆投下!!
およそ14万人の命が失われました。
更に8日、日ソ中立条約を結んでいたソ連が無視し、宣戦布告。
翌日、日本が支配していた満州国に侵入してきました。
突然のソ連参戦に首脳たちは愕然とします。
ソ連を仲介役とする和平の道が完全に絶たれてしまいました。

この危機に、9日10時30分に最高戦争指導会議を開きます。
議題はただ一つ・・・ポツダム宣言を受諾するか否か!!でした。
受諾に前向きな会議ではありましたが、日本側の条件を付けるかどうかで終戦派と戦争継続派で意見が分かれます。

終戦派の東郷外務大臣の条件は”国体護持”一つ!!
天皇制の維持のみを提示しようとするものです。
これに反対したのは阿南惟幾。
受諾するのは国体護持は当然で、他の条件も付けるというものでした。
阿南の条件は・・・
①占領は出来るだけ小範囲に、しかも短期間であること。
②日本人自らで武装解除
③戦犯処理は日本人の手に任せること
でした。

この時、鈴木は一言も発しませんでした。
戦争の始末をつけるために・・・!!
会議は紛糾する中、長崎に原爆投下!!
それでも意見はまとまらず、決定は臨時閣議に持ち込まれることとなりました。
しかし、そこでも結論は出ず・・・。
鈴木は最後の手段を使わざるを得なくなります。
鈴木は夜の9時まで続いた閣議を休憩にすると、天皇の下へ向かいました。
そして、天皇隣席の下、御前会議を願い出るのです。
天皇はこれを承諾。
こうして、8月10日午前0時3分、御前における最高戦争指導会議が始まりました。
議論は相変らず紛糾し、平行線をたどります。
すると午前2時ごろ・・・それまで黙っていた鈴木が立ち上がり口を開きます。
「議論を尽くしましたが、決定に至らず
 しかも事態は一刻の猶予も許しません
 誠に異例で恐れ多いことながら、聖断を拝して会議の結論と致したく存じます。」
なんと鈴木は、天皇に決めてもらうという聖断という異例の決断をしたのです。

大日本帝国憲法において、天皇は政府の決定事項に対して裁可を与える存在・・・
天皇に政治的責任を負わせないために、天皇自身が政治的意思決定をすることはありませんでした。
それにもかかわらず、ポツダム宣言を受諾するか否かの重要な決断を、天皇に仰いだのです。

沈黙を守り、議論を聞いていた天皇は、鈴木に促される形で話し出しました。
「本土決戦、本土決戦というけれど・・・
 いつも計画と実行とは伴わない
 之でどうして戦争に勝つことができるか
 もちろん 忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など 其等の者は忠誠を尽くした人々で それを思ふと実に忍び難いものがある
 しかし 今日は忍び難きを忍ばねばならに時と思ふ
 自分は涙をのんで原案(外務大臣案)に賛成する」

この聖断により、国体護持という条件だけを付けてポツダム宣言を受諾することが決定しました。

連合国側にその旨を伝えます。
回答が来たのは8月12日のことでした。
しかし、連合国側の文面に、政府内が再び紛糾します。
かかれていた内容は・・・??
”天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官のsubject toに置かるるものとする”
このsubject to の解釈で意見が分かれました。
外務省は、「制限の下に置かれる」・・・終戦へ導こうとしましたが・・・。
陸軍は「隷属する」という意味で、天皇の尊厳を冒涜すると主張し、国体の維持は貫けないとして本土決戦を主張します。
「これでは外と戦争をしながら、内戦状態にもなりかねない・・・!!」by鈴木貫太郎
そこで、8月14日、再び御前会議を開きます。
全員一致の形での閣議決定を取りたかった鈴木・・・どうすればいい・・・??
内閣閣僚全員に向かって天皇の御聖断をうかがっていただく形に・・・。
しかし、ここでも、阿南は終戦に強く反対します。
本土決戦を主張!!
鈴木は再び天皇に聖断を仰ぎます。
すると・・・

「朕の考えはこの前申したことに変わりはない
 これ以上 戦争を続けることは無理だと考える
 この際 先方の申し入れを受諾してよろしいと考える」
 自分は如何になろうとも 万民の命を助けたい 
 国民に呼びかけるのが良ければ、朕はいつでもマイクの前も立つ」

涙をぬぐいながらのお言葉でした。

そして鈴木は言います。

「我々の力が足りないばかりに
 陛下には何度も御聖断をわずらわし 大変申し訳ございません
 臣下としてこれ以上の罪はありません 
 只今陛下のお言葉をうけたまわり 日本の進むべき道がはっきりしました
 この上は 陛下の御心を体にして 日本の再建に励みたいと決意しております」

会議の出席者たちは涙をこらえきれませんでした。
そして同じく8月14日午後11時に「終戦の詔書」が発せられることとなりました。
祖の御前会議で聖断によりポツダム宣言受諾が決まった後、徹底抗戦を訴え続けてきた阿南陸軍大臣に陛下は慰みの言葉をかけます。
「阿南 お前の気持ちはよくわかっている 
 しかし 朕には国体を護れる自信がある」
阿南は陸軍省へ戻りました。
若い将校たちは、「どうして徹底抗戦を訴えていたのに戦争終結を受け入れたのか?}と怒りの表情で訴えてきました。
これに対し、「聖断が下ったのである!!不服の者は自分の屍を越えて行け!!」
聖断と聞き、将校たちも引き下がらずを得ませんでした。

この日の夜遅く、阿南は鈴木総理の下を訪れます。
「終戦の義が起こりまして以来、総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います。
 私の真意はただ一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、この点、どうぞご了解くださいますように。」
そこには、阿南なりの考えがありました。
もし、戦いを続けるのなら辞職して、内閣を瓦解させればよかったのです。
阿南を鈴木のことをよく理解していて、戦争終結を考えていました。
ただ、陸軍に背かれないように・・・中心となる将校を誤魔化して、欺いてでも戦争を完結する気持ちだったのです。
阿南は、終戦の妨げとなる陸軍の暴発を阻止する為に、徹底抗戦を主張する態度をとり続けていました。
阿南を陸軍大臣に任じた鈴木の想いが伝わっていたのです。
鈴木はこの時、阿南に言葉をかけています。
「あなたの想いはよくわかっております。
 しかし、阿南さん、皇室は必ず御安泰ですよ。
 私は、日本の前途に対しては決して悲観しておりません。」
一礼して静かに去っていく阿南を見送った鈴木は、
「阿南君はお別れを言いに来たのだな・・・。」

午後11時過ぎ、玉音放送の録音が行われていました。
そんな中、陸軍で不穏な動きが・・・。
戦争継続を掲げる一部将校がクーデターを計画。
終戦を告げる玉音放送を阻止すべく宮城を占拠。
玉音版を奪うために、宮内省内を探し回るのです。
襲撃は深夜零時すぎ・・・録音を終え、昭和天皇が帰った後でした。
臨時侍従室の金庫に入れてあり、小さな金庫の前には、雑多な書類が積んであるだけでした。
彼等は、玉音版を見つけることができず、結局クーデターに失敗。
このクーデターは、鈴木総理に身にも起こります。
8月15日午前4時過ぎ・・・陸軍大尉に率いられた兵士たちが鈴木貫太郎邸を襲撃、放火します。
鈴木は襲撃の恐れがあるとの情報を得ていたので、間一髪、逃げることができました。
丁度その頃・・・陛下の放送を拝聴するに忍びないと、陸軍大臣阿南惟幾が自決!!

遺書にはこうありました。
”一死を以て大罪を謝し奉る”と。
陸軍の責任者として、その罪は我が死をもってして償う・・・!!

終戦を告げる玉音放送は、8月15日正午からラジオで全国に放送されることとなりました。
前日の14日の午後9時、15日の午前7時21分に放送を聞くようにアナウンス、新聞も号外で告知しました。
8月15日正午、朝から太陽が照り付ける中・・・
終戦の詔書が流れます。
日本の敗戦を伝えた昭和天皇の5分間の肉声・・・。
しかし、この時、玉音放送を理解できた人は少なかったのです。
ラジオの雑音が多くて聞こえず、文語体なので格調が高すぎて理解できなかったようです。
それにもかかわらず、首を垂れ涙しました。
それまで昭和天皇は現人神で、肉声を聞いた人はいませんでした。
ラジオで直接聞けた高揚感・・・直接国民に語り掛けてくれている・・・というだけで感極まったといいます。

内容は・・・
①国体の護持
②国民への慰労と慰霊
③軍部に対する牽制
④天皇は国民と共にあるという決意
でした。

玉音放送・・・堪え難きを耐え 忍び難きを偲び・・・の堪え難きをの後に一瞬の沈黙があります。
その沈黙に、国民と一緒にやっていくという・・・堪え難きを耐えて遺書にやっていこうという昭和天皇の想いがこもっています。
昭和天皇の二度の聖断、そして、終戦へと導いた男たちの命がけの行動が戦争を終わらせたのです。
玉音放送が無事済んだ8月15日午後2時・・・最後の閣議が開かれ、全閣僚の辞表が取りまとめられ、鈴木はそれを天皇に奉呈します。
天皇は・・・「苦労をかけた」と労いました。
僅か4か月の鈴木内閣・・・苦難と激動の日々でした。

鈴木貫太郎は死の間際こんな言葉を残しています。
”永遠の平和 永遠の平和”と。

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今から80年ほど前の首都・東京で、昭和の日本を震撼させた事件が起きました。
舞台は政治の中心・永田町周辺・・・。
平均年齢27歳。陸軍の青年将校二十数人が企てた2.26事件です。
総勢1483人の部隊が、僅か数時間で帝都の中枢を占拠しました。

1936年2月26日・・・東京は一面の銀世界、夜明け前・・・静寂の中にある東京の街で、えもいわれぬ緊張感が・・・
陸軍第一師団歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊です。

東京六本木にある国立新美術館・・・かつて、ここに決起した青年将校たちの多くが所属した陸軍第一師団の兵舎がありました。
昭和11年2月26日、午前4時半ごろ・・・永田町に向けて決死の覚悟で出発したのは27歳の栗原安秀中尉率いる第一師団歩兵第一連隊273人。
彼等の標的は、時の総理大臣・岡田啓介でした。
5時頃、首相官邸に到着。
総理官邸を包囲し、挺身隊が塀を乗り越えて中から鍵を開け、決起隊を中に入れると・・・彼らは屋敷の窓を壊して侵入・・・護衛警官の大半を軟禁し、一部の警官と銃撃戦をすると、岡田総理を探し回ります。
すると・・・一人の兵士が中庭に逃げていく老人を発見、発砲します。
まだ息があるのを確認した栗原中尉は、兵士にとどめを刺させ、すぐさま部屋に会った写真と見比べ、本人であると判断!!
そして、総理官邸を占拠してしまったのです。
この間、僅か1時間ほどでした。
青年将校たちは、時を同じくして5カ所で襲撃事件を起こしていました。
赤坂に向かったのは、中橋基明中尉率いる第三連隊125人!!
標的は、高橋是清大蔵大臣でした。
2階で寝ていた大臣を襲い、軍刀で切りつけ殺害します。

天皇の側近たちも標的に・・・。
安藤輝三大尉率いる第三連隊200人は、麹町にある鈴木貫太郎侍従長官邸でした。
取り囲まれると、鈴木貫太郎は「話せばわかるから・・・」といったといいます。
しかし、「問答無用!!」と、拳銃でこめかみと腹部を撃たれ倒れました。
安藤大尉は鈴木侍従長を寝床に運ばせ一部始終を正座をして見ていた夫人に・・・
「最後のトドメを刺させていただきます。」by安藤
「どうかトドメだけは待ってください。」by夫人
「では・・・これ以上のことは致しません。」by安藤
このことが幸いし、鈴木侍従長は一命をとりとめます。

内大臣・斎藤実の自宅を襲撃したのは、坂井直中尉率いる第三連隊で215人で、立ちはだかる夫人を押しのけて、40発以上もの銃弾を内大臣に浴びせます。
これに参加していた高橋少尉と安田少尉は、30人の兵を引き連れ、杉並の荻窪に会った教育総監へと向かいます。
教育総監とは、陸軍大臣、参謀総長と並ぶ陸軍三長官のひとりで、この時の教育総監は渡辺錠太郎でした。
事件の日、渡辺は娘と一緒に寝ていました。
襲撃の一部始終を目撃していた娘・和子は・・・
「私は、兵士たちの声で目を覚ましました。
 父を見ると、枕元においてあった拳銃を構えていました。
 立てかけてあった座卓の後ろに行くように目で促したため隠れると、父は少し安心したような顔をしました。
 それから間もなくして、隣の部屋の襖がほんの少し空いたかと思うと、軽機関銃の重臣だけのぞかせて、父の足をねらって撃ったのです。
 父は銃の名手で3発ほど応戦しましたが、命は奪えませんでした。
 それなのに彼らは、父にとどめを刺して引き上げていきました。」

決起部隊は、要人を暗殺するだけではなく、警視庁も占拠、朝日新聞社を襲撃、陸軍大臣官邸を占拠・・・青年将校らは、僅か数時間で永田町周辺を占拠してしまったのです。

陸軍の青年将校ら1483人が起こした2.26事件・・・。
彼等は次々と政府要人を襲撃していきます。
その武力蜂起の理由とは・・・??
青年将校たちは、永田町の一角の陸軍省へも向かいます。
そして、敷地内にあった陸軍大臣官邸を占拠。
川島義之大臣の面前で、用意してきた決起趣意書を読み上げます。

当時の日本は世界恐慌のあおりを受けていました。
主力の輸出品であった生糸とコメの価格が大暴落。
追い打ちをかけるかのように、東北、北海道を大凶作が襲います。
長引く不況にもかかわらず、政治家は財閥と癒着し、私利私欲をむさぼるばかり・・・。
青年将校たちは、そんな政治に不審を募らせていきました。
更に彼らは、世界的に軍備縮小の機運が高まっていたことに大きな不安を覚えていました。
浜口雄幸内閣は、平和外交へと舵を切り、1936年ロンドン海軍軍縮条約締結・・・アメリカ、イギリスとむすびます。
岡田内閣では、大蔵大臣の高橋是清がこれ以上軍事予算を増やすことはできないと発言していました。

軍備を拡大しないと、大国ソ連の脅威にさらされてしまう!!
青年将校たちは、軍部中央を助けるために決起したと思っていたでしょう。
軍部拡大を拒む政治家たちを排除し、昭和天皇の元、軍部による新しい政治を・・・と考えたのです。
自分達の手で昭和維新を成し遂げるのだ!!と。

青年将校たちは順調に事が運んでいると思っていました。
しかし・・・総理官邸で・・・。
写真で死亡確認した人は、岡田総理ではありませんでした。
彼等が射殺したのは、義理の弟で総理大臣秘書官だった松尾伝蔵でした。
二人はよく似ているといわれていました。

襲撃の時、総理本人は・・・??
襲撃に一早く気付いた松尾伝蔵によって寝室を抜け出し、風呂場に身を隠していました。
その後、中庭に逃げた伝蔵が間違われてしまったのです。
岡田総理は隙を見て女中部屋に隠れ、押し入れに入って洗濯物に紛れて息をひそめていました。
そのことをもう一人の秘書官・迫水久常が知ったのは襲撃から3時間以上たった8時半ごろ・・・
占拠する将校に頼み込んで、総理の亡骸を確認する為に官邸内に入ることを許された迫水は、女中に「ケガはなかったか?」と、声をかけます。
すると女中はしきりに押し入れの方を気にしながら、「お怪我はありませんでした。」
迫水は岡田総理が無事であることを確信しました。
午前11時過ぎ、迫水は決起隊の包囲網をかいくぐり宮内省へ向かうと、岡田総理が生存していることを報告。
そして、宮内大臣に総理大臣救出のための近衛師団の出動を要請します。

「しかし、近衛師団長にこのことを話せば、陸軍の将官たちの耳にも入るかもしれぬ。
 彼らはどっちの味方かわからんから、非常に危険だ。」

そう忠告を受け、迫水は断念・・・救出を考えながら、時間は過ぎていきます。
そんな中、海軍大臣が宮内省にやってきます。
すぐに救出の相談をするものの・・・
「とんでもない、そんなことをして、海軍と陸軍の戦争になったらどうする!!」
きっぱりと断られてしまいました。
その頃総理官邸では、岡田総理のいびきを隠すため、女中が寝たふりをして骨を折っていました。
迫水に救いの手が差し伸べられたのは翌日の事・・・。
軍事警察である憲兵たちが救出を手伝うと申し出てきたのです。
憲兵たちは襲撃直後総理官邸に急行、岡田首相が生存していることを密かに確認していました。
迫水は青年将校たちに交渉します。
岡田首相の家族や慰問客が首相官邸に入ることを認めてほしいと交渉します。
その弔問客に紛れさせて首相を救出しようというのです。
許可を得て、憲兵と弔問客が官邸内に・・・。
すぐさま、総理に礼服に着かえてもらい、目がねとマスクで変装。
岡田総理は嘆き悲しむ弔問客を装いながら、憲兵に抱きかかえながら玄関へ向かい無事脱出しました。

陸軍の青年将校が武力蜂起した2.26事件・・・。
26日に青年将校たちは、早朝から午前中にかけて政府要人を襲撃し、警視庁、陸相鑑定などを占拠。
それから事件収束まで4日を擁することになります。
彼等の決起という未曽有の事態に困惑したのは陸軍上層部でした。
川島陸軍大臣召集の元、この事態をどう治めるのかが話し合われました。
一部には武力討伐を主張する強硬派もいましたが、ひとまず説得による撤退をさせようとします。
この決断には、青年将校たちが占拠していた場所に関係していました。
皇居に砲弾が飛び込むようなことは絶対に避けたかったのです。
在外公館もあり、国際問題にもなりかねませんでした。
穏便に済ませたかったのです。
さらにこの時、上層部には思惑がありました。
青年将校たちの決起を利用して、自分たちの思い通りになる内閣を作ろうと考えていました。
陸軍上層部は、決起部隊に文書を届けます。
「陸軍大臣告示」・・・そこには、
決起の主旨については、天皇陛下のお耳にも届きつつある。
諸君らの行動が国を守り、確固たるものにしようという熱い思いに基づいていることは認める
これを聞いた多くの青年将校たちは、決起の主旨が天皇陛下にまで届いた、自分たちの行動が認められたと湧きたちます。
昭和維新の道が開けたのだ!!と。

2月27日午前3時ごろ・・・厳戒令公布
事態に対応する為に、九段の軍人会館に戒厳司令部が設置されます。
司令官についたのは、香椎浩平陸軍中将でした。
香椎司令官は、青年将校たちに決起部隊に命令います。

「戒厳部隊下に入り、麹町地区の警備にあたれ。」

これは、青年将校たちを反乱軍ではなく、友軍として自らの指揮かに置くというものでした。
友軍によって、決起部隊の勝手な行動を抑えられるのでは・・・??
穏やかにさせたうえで、青年将校たちを説得し、撤退させようとしたのです。
宮中にも穏便な解決に向けて動いている男がいました。
陸軍大将で軍部の人間として常に天皇に仕えていた侍従武官長の本庄繁でした。
当初から青年将校たちの考えに理解を示していた本庄は、天皇陛下に理解してもらおうと尽力します。
27日・・・本庄侍従武官長は天皇陛下に訴えます。

「かれら将校の行為は、陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、統帥権を犯す甚だしきものであり、もとより許されないことです。
 しかしながらその精神は、陛下と国家を思うあまりのものであり、必ずしも咎める事ではないかと思うのですが・・・。」

「朕が最も頼りにする老臣を殺戮したことは、真綿にて朕の首を絞めることと等しき行為である。」

天皇は怒っていました。

しかし、本庄侍従武官長はこの日、13度も天皇の前に出て訴えたといいます。

「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧にあたらん!!」by昭和天皇

昭和天皇は、最後まで青年将校たちに同情することも同調することもありませんでした。

「陸軍大臣告示」は、上層部が考えた詭弁でした。
実際には天皇は強く反発していたのです。
昭和天皇は、側近であった斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長が斬殺、襲撃されたことに強い怒りを感じていました。
若い青年将校たちが政治に口を出すことに強い権を漢を持っていました。
早く鎮圧することを望んでいたのです。

青年将校は、国家のためにやったことなので、昭和天皇に自分たちの思いが伝わると思っていたのです。
天皇の怒りを買ってしまったことは、青年将校たちにとって大きな誤算であり、衝撃でした。
天皇の支持を得られなかったことは、青年将校たちの決起が失敗に終わる大きな要因でした。
が・・・ほかにも要因はありました。

2.26事件の裁判記録は、公開後も閲覧は厳しく制限されてきましたが・・・。
そこには意外な事実がありました。
高橋是清大蔵大臣を襲撃した中橋基明中尉は、裁判で蹶起趣意書について聞かれると・・・
「決起後、総理官邸で見ました!!」
蹶起趣意書もみずに事件を起こしていたのです。
中には蹶起の理由さえわかっていない者もいました。
決起隊のメンバーは、一枚岩ではなかったのです。
中心メンバーでも、決起の時期についても意見が分かれていました。
磯部浅一によると・・・
安藤輝三大尉は時期尚早と思っていたようです。
安藤は青年将校のリーダー格でしたが、決行を決意したのは最も遅かったのです。
それまででも、軍部の青年将校たちが政治家や軍幹部を襲撃する事件が頻発していました。
安藤は軍の上層部と「武力蜂起を起こさない」と、約束をしていたのです。
決起隊1483人のうちの半分以上が安藤の兵でした。
安藤無くして計画の成功はありませんでした。
磯部は、一生懸命蹶起の必要性を安藤に説きます。
青年将校たちの間でかなり激しい論争があり・・・結局強硬派に押し切られて蹶起したのです。
青年将校たちの結束が強くなかった事、意見の相違があったことが蹶起失敗のもう一つの原因でした。
2月28日午前5時、奉勅命令発令!!
「決起部隊は所属原隊に帰れ」
それは、帰らなければ討伐するという最後通告でした。

驚いたのは、青年将校たち決起部隊でした。
自分達は官軍でその行動を認められていると思っていたのに、突然反乱軍となってしまったのです。
彼らの行動を半ば容認していた陸軍も、大元帥である天皇の命令により、手のひらを返したように決起討伐へと向かうのです。
事件発生から3日・・・戒厳司令部は青年将校たちが占拠する永田町界隈に、2万人の鎮圧部隊を出動させ完全包囲!!
周囲の交通、通信機関を遮断するように命令!!
そのうえで撤退するように最後まで説得を試みますが、青年将校の殆どが応じませんでした。
占拠している総理官邸からは、自分たちを鼓舞する万歳や軍歌が・・・。
街頭に出て演説をする者も・・・。
しかし、頑なに見えた決起部隊が、銃撃戦を交えることなく帰っていくこととなります。
28日深夜・・・反乱軍となった決起部隊の一部が戒厳司令部に連れてこらたときのこと・・・。
「おまえらの上官は、間違った考えから恐ろしい反乱を起こして今や逆賊として討伐されようとしているのだ。
 それでもお前らは、その上官の命令に従うのか??」戒厳司令部参謀
「どうしてよいかわかりません。」by兵士
兵士たちは今にも泣きだしそうな顔をしていました。
そんな尋問の様子をじっと聞いていたのは・・・陸軍省新聞班の大久保弘一少佐でした。
「彼等は本当のことを知らないんだ・・・何も知らずに上官に引きずられているだけなんだ・・・」
大久保は、何も知らずに蜂起させられた兵士たちに現状を教え、撤退を促すビラを撒くことに・・・。
すぐさま彼らの気持ちを動かす文面を考え批准勧告の原稿を書き上げて3万枚を刷ります。
翌29日午前8時過ぎ・・・飛行機から永田町に撒かれました。

「下士官兵に告ぐ
 今からでも遅くはないから原隊へ帰れ
 抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する
 お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」

何が起こっているのか、何をしているのかわからなかった者たちにとって、このビラは絶大な効果を・・・。
ラジオも流され、「手向かわないように」と、ビルの上にアドバルーンがあげられました。
午前9時30分・・・決起隊の一部が帰り始めたとの報告が入りました。
次々と部隊は帰っていき、午後3時、戒厳司令部が事件の終結を宣言!!
首都東京を震撼させた大事件が幕を閉じたのでした。

蹶起した青年将校たちの裁判が行われたのは、事件から2か月たった4月28日。
軍法会議によって裁かれることに・・・
非公開、弁護人なし、上告なし(一審制)という厳しいものでした。
政府や陸軍は青年将校たちの論争を封じるために、迅速に片付けようとしたのです。
死刑17人、無期懲役5人、有期禁錮2人
その僅か1週間後・・・1936年7月12日死刑執行
事件後内閣は総辞職し、廣田弘毅が第32代内閣総理大臣となります。
が・・・思わず事件の余波が・・・
軍部に逆らうと、武力蜂起するかもしれないという恐れから、政治家たちは発言を抑えるようになったのです。
陸軍の責任は免罪されてしまいました。
そして、陸軍は組閣の人選にまで横槍を入れる用に・・・
内閣に圧力をかけ、軍部大臣現役武官制・・・陸軍、海軍大臣は、現役の大将・中将に限るという制度まで認めさせてしまいました。
”軍部の意向に沿う内閣でなければ、軍部から大臣を出さない”といわれる可能性があり、この後軍備拡大の時代へと突き進んでいくのです。

この事件の後、日本の軍国主義は急激に加速!!
そして、戦争の泥沼へとはまっていくのです。
歴史の大きな転換期に起こった2.26事件・・・もしこの事件が成功していたら、日本はどうなっていたのでしょうか?
起こらなかったらどうなっていったのでしょうか?
戦争へと突き進んでいった軍部。
2.26事件から5年後には太平洋戦争が開戦。
しかし、徐々に敗戦の色が濃くなっていきます。
そんな中、総理大臣に就任したのが、2.26事件で奇跡的に一命をとりとめた鈴木貫太郎でした。
鈴木は、軍部の強い反対にあい、再び命を襲われる危険にありながらも、戦争を終わらせ、日本に平和を取り戻したのです。

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あ~、”暑い夏”ですね・・・今回は、昭和の選択です。

平成27年に一般公開紗沙汰「皇居地下防空壕」。
平成20年8月10日、日本はここで大きな決断をしました。
「ポツダム宣言受諾の決断」です。
それは、あまりにも十十五犠牲の上の決断でした。
軍民合わせて20万人を越える死者を出した沖縄戦・・・広島、長崎に落とされた原子爆弾、9月まで続いたソ連軍の対日参戦・・・
どうして日本はもっと早く終戦を決められなかったのでしょうか?

早期降伏を阻んだのは、アメリカの条件だった無条件降伏。
敗戦後の国の形を完全に勝者にゆだねると受け取られたのです。
無条件降伏にあらざる和平・・・という懸命の努力をしていました。
起草者は東郷茂徳・・・終戦外交の中心となった外務大臣でした。
東郷の下した決断の裏には・・・??

昭和20年4月1日、アメリカ軍はついに沖縄本島への上陸を開始しました。
戦局が日増しに悪化する中、4月7日に発足した鈴木貫太郎内閣・・・
外務大臣は東郷茂徳・・・開戦時の外相として、戦争を止められなかったことを悔いての入閣でした。
組閣から2週間後の4月22日、新外相東郷に陸軍からある相談が持ち掛けられました。

「ソ連が対日参戦しないように外交を強化していただきたい。」

その頃、満州からは、ソ連軍増強の知らせが続々と入っていました。
本土決戦を想定し、兵力を日本国内に移動させつつあった陸軍にとって、中立国・ソ連の参戦は、断じて避けなければなりませんでした。
この申し出に東郷は・・・「軍部の希望を利用して、急速和平に導くことに決意した。」とあります。
すでに敗色濃厚なものの、和平には多くの困難が・・・
最大のハードルが、アメリカの無条件降伏です。

昭和18年1月、カサブランカ会談でルーズベルト大統領が提唱したもので、日本にとっては軍の解体や政治経済、天皇制という国体にまで連合国の意志を強要される可能性がありました。
米英との交渉をほのめかすだけで、軍の反発が・・・
2.26事件のようなクーデターにもつながりかねない・・・??
そんな状況下での対ソ交渉要請を、東郷は突破口ととらえていたのです。
5月11日、統合により時局収拾への新しい枠組みが・・・
最高戦争指導会議構成員会議・・・軍の圧力を防ぐために、参加メンバーは・・・
首相・鈴木貫太郎、外相・東郷茂徳、海軍大臣・米内光正、陸軍大臣・阿南惟幾、参謀総長・梅津美治郎、軍令部総長・及川古志郎でした。
極秘のうちに討議が開かれました。
戦争終結が、初めて国のTOPの間で共有されました。

6月3日、駐日ソ連大使マリクへの接触を開始した東郷・・・
しかし、ソ連の返事は一向に煮え切りません。
マリクはクレムリンから訓令を受け取っていました。
「この会談の内容を、モスクワに報告するだけに止めること。
 ただし、電報ではなく、船便を使うように。」

すでにこの年の2月、ヤルタ会談にて米ソの間にソ連対日参戦の密約がなされていました。
その準備が整うまでの時間稼ぎをしようとしていたのです。
東郷も、事態を楽観していたわけではなく、
「ソ連からは、七、八分色よい返事はあるまい・・・
 ソ連以外のルートも考えねばならぬ。」と思っていたようです。

海軍少将・高木惣吉・・・米内光正海軍大臣の元、独自に終戦に関する研究に着手していました。
昭和20年3月には・・・アメリカに降伏することは、我国の資本社会主義機構の維持には有利だが、敵の軍門に下る形となり、国民的感情に忍び難い・・・と書いています。
ソ連とは、米英に対する利害は多いため接近はたやすいが、共産主義に晒され社会が不安定化する・・・
終戦から5か月も前に、高木は、米英に降伏した場合と、ソ連に仲介を頼んだ場合を緻密に考えていたのです。

第二次ぜ回大戦が終わった後の世界は、アメリカとソ連の二大勢力になる・・・それを予測し、アメリカのみへの降伏ではなく、ソ連もあっての東アジアの将来を考えていたようです。
二つの国が東アジアでせめぎあう状況で、日本は上手く戦後の復活が出来るのか・・・??
と、考えていたようです。
東郷は、高木の研究内容を高く評価し、その後の終戦外交に反映させていったようです。

ところが・・・ヨーロッパの戦況は、東郷たちの思いよりも大きく動いていました。
5月8日、ドイツ無条件降伏・・・6月には米英ソ仏による分割占領が行われていました。
ソ連大使マリクを介した日本の交渉は、遅々として進まず・・・
そんな中、東郷をさらに追いつめる状況が・・・
ベルリン近郊のポツダムで、米英ソの首脳会談が行われる・・・??
ソ連の参戦など、日本に対する決断がなされる公算が高い・・・その前に、和平の意志を伝えることが急務でした。
7月10日、東郷は高木と会見・・・
近衛特使派遣計画・・・近衛文麿を特使としてソ連に派遣する・・・??
そこには東郷の別の思惑もありました。
形の上ではソ連との交渉であるものの、一転対米交渉にも代えられるようにしていたようです。
しかし・・・すでに7月7日、アメリカ代表団はポツダムに向けて出発。。。
7月12日、東郷は最後のカードを切ります。
モスクワ大使館に緊急電報を・・・!!
「ソ側に対し、戦争終結に関する大御心を伝えておくことが適当。。。」
当時の日本では、天皇陛下の意志を持ち出すことは最後・・・それ以上のことはない。。。
天皇陛下の意志を明確に書いて、その意思を体現する為に近衛が行く。。。
東郷和平工作の最高峰でした。
しかし、モスクワ対財ソ連大使・佐藤尚武によると・・・ソ連の対応は冷ややかなものでした。
ソ連代表団は、既にポツダムに出発しようとしている・・・
出発前に回答することは、事実上不可能・・・。
最早、会談前の交渉は不可能なのか・・・??東郷、絶対絶命・・・!!

昭和20年7月17日ドイツ・ポツダムで米英ソの首脳による会談・・・。
病死したルーズベルトに代わり、アメリカ代表となったトルーマンは、ルーズベルトを引き継ぎ「対日無条件降伏案」をチャーチル、スターリンに示しました。
7月20日、モスクワ発緊急電報が、東郷に重要な決断を迫ります。
「このままではアメリカの本土決戦という最悪の事態が待っている・・・
 国民すべてが戦死を遂げても、国家を救うことはできない・・・7000万の民草が枯れてしまえば、陛下おひとりの御安泰があり得るだろうか・・・??」
佐藤は、もはや対米交渉を打ち切り、米英に無条件降伏し、皇室の存続を図るのみと主張しました。
しかし、東郷はまだあきらめず・・・翌21日の電報では・・・

「対ソ交渉の目的は、無条件降伏にあらざる和平を得るためのものなのだ。
 我々は、その大御心が米英側に徹底するよう極力努力する必要がある。」by東郷

これら日本の電文を逐一傍受していたアメリカは、対日交渉の判断材料としていました。
”天皇の心からの戦争終結の意志・・・”
これらがアメリカにどう映ったのか・・・??

7月27日午前5時・・・アメリカの短波放送が、日本に対して重大な放送を流し始めました。
ポツダム宣言・・・13条からなる日本への降伏勧告です。
報告を受けた東郷は、すぐさま外務省へと向かい、幹部と共に宣言の検討に入ります。
宣言は、日本国に対し戦争終結の機会を与えることを謳い、拒否すれば、日本の国土は完全に破壊されると通告していました。
対ソ交渉に進展が見られない中これを受けるのか??東郷・・・??

第5条以降には・・・
軍国主義の駆逐、指定地域の占領、戦後の日本の領土などが連ねられており、無条件降伏の条件が書かれていました。
どうしてトルーマンは、無条件降伏から後退したのでしょう・・・??
最大の要因は、5万人近くの死傷者を出した沖縄戦にありました。
これ以上損害を出さず、戦争を終結させることはトルーマンにとって至上命題となっていました。
ヤルタ密約通りソ連が対日参戦すれば、早期に集結可能だが、それは戦後東アジアにソ連の勢力拡大というデメリットもはらんでいました。
ポツダム宣言はトルーマンにとっての妥協の産物だったのです。


しかし、武装解除、戦争犯罪人の処分を連合国が行うというのは一方的で問題がある・・・??
これでは軍は、あくまで本土決戦に固執するのは火を見るより明らか・・・
それに、どうして宣言にソ連が名を連ねていないのか・・・??
米国主導での降伏を強いられるのか・・・??
ソ連との交渉の余地は・・・??

ポツダム宣言の即時受諾か、ソ連との交渉継続か・・・??

7月27日午前11時・・・東郷、ポツダム宣言について昭和天皇に説明。

「これを拒否するような意思表示をすれば、重大な結果が起きるでしょう。
 慎重に扱ったうえで、ソ連の返答を待つことにしたいと存じます。」

東郷は、対ソ交渉継続を選んだのです。
直後に開かれた厚生委員会議では、東郷の予想通り、軍部はポツダム宣言に強く反発、拒否を示します。
しかし、鈴木と東郷の必死の説得によって宣言を保留し、対ソ交渉で事態の打開を図ることにしました。

しかし・・・28日の新聞には・・・
”政府はこの宣言を黙殺、聖戦をあくまで完遂する!!”と書かれています。
この新聞発表によって、局面が大きく動きます。
8月6日午前8時15分・・・アメリカは広島に原爆投下!!
そして、8月9日未明・・・150万を越えるソ連軍が国境を越えて満州になだれ込みました。
報告を受けた日本政府は、その日・・・8月9日の午後11時50分、御前会議を招集します。
そして・・・8月20日午前2時30分・・・昭和天皇の聖断が下りました。

日本政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するその要求を含包し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾すると回答したのです。

日本の運命を決めたポツダム宣言受諾。
東郷にはソ連参戦によって、アメリカの譲歩を引き出そうとしていたようで・・・
8月12日、日本の降伏受諾を受けたアメリカからの回答「バーンズ回答」には、東郷か渇望していた一文が・・・
「最終的な日本国の政府の形態は、日本国民の自由に表明する遺志により、決定せらるべきものとす。」
日本への譲歩を嫌ったトルーマンによって、ポツダム宣言に記載されなかった条項・・・
ここに東郷は、天皇制を認めるアメリカの意志を受け取ったのです。
降伏受諾を、天皇、軍部にも、説得できる一文でした。

8月14日、ポツダム宣言の最終的な受諾を通告しました。
戦後、アメリカ主導の資本主義体制の下で、国家を再建するという基礎は固まり、国体も守られました。
ところが・・・統合の予想もしなかった事態が・・・
ソ連は、日本の降伏通告後も戦争を継続したのです。
戦争の終結は9月5日。。。満州、朝鮮半島北部、北方四島を占領したのちです。
この間、日本の戦死者は、軍・民間人を合わせて22万人と言われています。

戦後の極東軍事裁判・・・東京裁判において東郷は、20年の有罪判決を受けます。
戦争犯罪人として収監されていた巣鴨プリズン・・・後に、「時代の一面」としてまとめられた手記は、過酷な獄中生活の中で執筆されたものです。
ソ連のしたたかさを見抜けなかったことについて東郷は・・・「迂闊」という言葉で表現しています。

敗戦から5年が経過した昭和25年7月23日、東郷は病で死去・・・享年67歳でした。

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