日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:錦の御旗

長い日本の歴史では、それまでの世の中をひっくり返す大変革がいくつかありました。

天皇中心の体制を固めた大化の改新
武士が政権を作った鎌倉幕府
武士の世を終わらせ近代国家へと生まれ変わった明治維新・・・。

明治維新は、世界でもまれにみる犠牲者の少ない革命と言われています。
戊辰戦争の戦死者数は約8500人・・・明治10年の西南戦争を含めても約3万人です。
18世紀にはじまるフランス革命の犠牲者はおよそ40万人、アメリカ南北戦争は60万人と言われています。
どうして、日本では犠牲を抑えることができたのでしょうか?

そのヒントは、敗者とされた者たちです。
激動の中、敢えて困難な道を選んだ侍たちの歴史です。

ペリー来航に始まった幕末の動乱・・・
1868年、動乱はついに日本の運命をかけた武力衝突に・・・!!
鳥羽伏見の戦いです。
徳川の世か、新政府の世か、その争いは1年5カ月に及び、戊辰戦争と呼ばれました。
旧幕府軍を率いたのは、徳川慶喜・・・西郷隆盛らの新政府軍の前に敗走。
大坂城に退却し、そこに温存していた巨大な兵力で反撃に出るはずでした。
しかし、その直前・・・慶喜が密かに逃亡・・・旧幕府は総崩れとなりました。

①もしも徳川慶喜が大坂城で戦っていたら??

幕末、幕府は諸外国の圧力に屈して国を開きました。
それまで絶大だった幕府の権威は揺らぎ、乱世となりました。
その中で、天皇を中心とした新たな国家体制を望む声が日増しに高まっていました。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など薩摩・長州の一部は公家の岩倉具視と連携し、密かに倒幕に動き出します。
この動きにいち早く反応したのが、将軍・慶喜でした。
1867年慶喜は討幕派に対して先手を打ちます。
政権を朝廷に返上・・・大政奉還です。

慶喜は幕府がだんだん斜陽化していくのを見ていて、このままの体制では駄目かもしれないと考えていました。
それならば、自分が将軍になった後に、即幕府を廃止してしまえば討幕派の目標は失われる・・・
そこで、新しい政府を作れば、自分が中心に改めてなり、そして日本をリードする考えでした。

大政奉還によって倒すべき幕府を失った西郷と大久保・・・
しかし、徳川を排除した政権実現のためにある計画を実行します。
12月9日、早朝・・・
薩摩兵らが天皇の住む御所を封鎖、王政復古のクーデターです。
慶喜らを中枢から排除し、天皇のもとで新たなメンバーが政治を行う新政府樹立を宣言。
当然ながら、旧幕府側は激怒!!
慶喜は、大坂城に移動・・・1万5000の旧幕府軍を従え、情勢を見守ることにしました。

1868年1月2日、旧幕府軍1万が大坂城から京へ出発!!
目的は、天皇に薩摩の討伐を願い出るためです。
旧幕府軍は、鳥羽街道と伏見、二手に分かれて北上。
京の御所を目指しました。

1月3日、旧幕府軍はその途中で、新政府軍に行く手を阻まれます。
新政府軍の兵は5000!!旧幕府軍は1万!!
そこには倍の兵力がありました。

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しかし敗北・・・
敗北の原因①突然の戦闘開始
1月3日、午後5時・・・新政府軍が鳥羽伏見の戦いの火蓋を切ったとき、旧幕府軍は大混乱に陥りました。
何故なら、旧幕府軍の目的は、あくまでも天皇に薩摩討伐を願い出る為だったからです。
その為、京への登城への途中で戦いになることを想定せず、銃に弾を込めていませんでした。
そして、伏見でも・・・賭場で鳴り響いた銃声が呼び水になって戦闘が始まりました。
伏見には、土方歳三率いる新撰組もいましたが、猛烈な火力に晒されました。
虚を突かれた旧幕府軍は、じりじりと後退します。

敗北の原因②錦の御旗
1月5日早朝・・・戦場に錦の御旗が翻りました。
これで、新政府軍が官軍で、旧幕府軍が賊軍であることが示されました。
士気をくじかれた旧幕府軍は、敗走をかさね、大坂へ撤退していきます。
鳥羽伏見の戦いを決定づけた錦の御旗・・・
仁和寺には、実際に戦場で掲げられたといわれる旗が大切に保管されています。

nisiki

















御所にあった布をもらう・・・下賜されるのがこの御旗の価値です。

錦の御旗を最初に掲げたとき、旗を知る者はほとんどいませんでした。
幕府の兵隊が、「この旗はどこの藩のものか?」と、敵に聞きました。
新政府軍「これは錦の御旗だ、我々は皇軍だ」
旧幕府軍「わしらは賊か?」
噂が噂を呼んで、じわじわと賊軍となっていきました。
旗ひとつで戦局が変わる・・・如何なる軍事力でもこれには抗えなかったのです。

新政府側に錦の御旗が翻ったという知らせは、大坂城の徳川慶喜のもとにも届いていました。

「朝廷に対して刃向かう意思はつゆばかりもないのに、何かの誤りで賊名を背負うことになってしまった」by慶喜

朝敵とされたことにショックを受けた慶喜・・・そこには彼の生い立ちが深く関係していました。

1837年、慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族での母との間に・・・水戸藩に生れます。
水戸藩は、天皇を尊ぶ尊王思想の筆頭格でした。
そこで育てられた慶喜は、幼いころから聡明で知られ、徳川の御三卿・一橋家の跡取りになります(1847年11歳)。
1864年、28歳の時、御所の治安維持を任されます。
29歳の時、14代将軍家茂が病死・・・慶喜は、15代将軍となりました。
しかし、家臣たちには慶喜の考えが日によって変わることを揶揄され、”二心殿”と呼ばれました。
1868年1月5日、錦の御旗が翻った日・・・旧幕府軍は大坂方面へ後退・・・
大坂城にいた慶喜のもとで立て直しを図る・・・!!
慶喜は家臣たちを前に檄を飛ばしました。

「この大坂城が、たとえ焦土になろうとも、断固死守しようではないか!!
 予がここで死んでも、忠義の家臣たちが志を継いでくれるだろう」by慶喜

慶喜の言葉に家臣たちは再び奮い立ちました。
大坂湾では、最新鋭の軍監・開陽丸をはじめとする旧幕府軍が、薩摩藩の艦隊を撃退!!
いよいよ反撃開始!!と誰もが確信しました。

ところが・・・1月6日夜・・・慶喜は、密かに開陽丸で江戸へ・・・!!
大坂城に残る家臣のほとんどには、何も告げずに・・・
慶喜の側近は、「なぜですか」と尋ねました。

「あの調子でやらなければ、兵が奮い立たないからだ 方便だよ」by慶喜

その後、大坂城は陥落。
旧幕府軍も瓦解しました。
こうして、戊辰戦争の初戦・・・鳥羽・伏見の戦いは集結しました。

もしも、慶喜が大坂城で戦っていたら??

鳥羽伏見の戦いは勝てたかもしれない。
でも、外国勢力の介入や、内戦の長期化を避けるため、慶喜は大坂城から逃げたのでは・・・??
悪評を背負っても、混乱が起きない道を選んだのです。

鳥羽伏見の戦いを放棄し、江戸に戻った徳川慶喜は、新政府に恭順するとしました。
しかし、新政府には西郷隆盛はじめ、なにがなんでも徳川家を攻撃し、慶喜の命を奪うべし!という人がたくさんいました。
果たして・・・慶喜の運命は・・・??
1868年1月18日、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、錦の御旗を掲げ、京を出発。
東海道、東山道、北陸道の三方向から進軍し、途中にある藩を次々新政府軍に加えて江戸へ向かいました。
一方、江戸では、旧幕臣の多くが徹底抗戦を訴えていました。

”新政府軍の進軍に、江戸は殺気立ち、鎮撫するのは非常に困難である”

新政府軍と旧幕府軍との全面戦争・・・そうなれば、100万都市・江戸が火の海になる!!

江戸城に戻った徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居・・・新政府に恭順の意を示しました。

「追討使を差し向けられる事態に至ったのは、全く慶喜一身の不束より生じたことである」by慶喜

しかし、
「慶喜の首を引き抜かねばおかれぬ」by西郷隆盛

西郷隆盛率いる新政府軍は、進軍を続行。
慶喜はこの時、徳川の命運を陸軍総裁の勝海舟に一任しました。
西郷は、江戸総攻撃を3月15日に行うことに決定。
両軍の武力衝突は、何としても回避したい・・・そう考えた勝は、西郷に書状を送ります。
3月6日・・・総攻撃の9日前でした。

「我が徳川が恭順を守るのは、徳川とて国家の一員であるゆえ
 今は、兄弟相争う時ではない」

それに対し西郷は、旧幕府側に降伏の条件を示しました。

・徳川慶喜の備前藩へのお預け
・江戸城明け渡し
・軍艦・軍器全ての引き渡し
・徳川家臣の処罰

慶喜の命こそは奪われないが、徳川宗家の存続は危ぶまれる・・・
勝には、到底飲めないものでした。
最悪の事態も想定していた勝・・・恐るべき戦略を練っていました。
その内容は日記に残されています。
島津家が書き残した”勝海舟日記”・・・
江戸総攻撃5日前の3月10日の日記に、勝はこう記しています。

”我も先に市街を焼いて、一戦焦土と化す!!”

新政府軍が来る前に、水から江戸に火を放つという江戸焦土作戦です。
はったり・・・??交渉材料だったようです。
勝海舟は、交渉能力に長けていました。

3月13に理、勝、西郷と直談判!!
西郷が提示した条件に対し、勝はこう訴えました。

・徳川慶喜は水戸で謹慎
・江戸城は明け渡す
・軍艦・軍器の必要数を残して引き渡す
・徳川家臣の寛大な処罰(処刑なし)

もしこの交渉が決裂すれば、江戸がし焦土になる作戦があると伝えていたのかもしれません。
勝と話し合った西郷は、態度を一変させます。

”色々難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします”by西郷隆盛

江戸剃ぷ攻撃は中止、予定日である3月15日の1日前の出来事でした。

その1か月後、勝は江戸城を新政府軍に明け渡しました。
無血開城でした。

江戸総攻撃が起きていたら・・・??
新政府軍の江戸決戦は失敗したのではないか??
結局、明治維新後の日本の近代化が出来たのは、江戸時代の蓄積、土台があったからです。
一切なくなってしまっていたら・・・近代化は50年ぐらい遅れていただろうと思われます。
軍事的に負けても、江戸城攻撃を回避できた・・・それは勝海舟の勝利だったのかもしれません。

「西郷と最後まで闘った男」



江戸城無血開城の後も、新政府軍と旧幕府軍との戦いは終わりません。
会津をはじめ、北陸や東北で多くの犠牲者を出しながら、戦線は北上・・・
戊辰戦争最後の舞台は、北の大地・箱館でした。

旧幕府軍のリーダーとして新政府軍と戦った榎本武揚と土方歳三・・・二人の侍は、戦いの先に何を見たのでしょうか?
1868年4月以降・・・戦いは北へうつっていきました。
東北や越後では、最新の武器を備えた新政府軍が旧幕府に味方する諸藩を圧倒・・・
劣勢に立たされた旧幕府軍の頼みの綱は、世界有数の強さを誇った軍艦・開陽丸を中心とする海軍でした。
開陽丸を指揮するのは、海軍副総裁・榎本武揚です。

やがて、仙台と、土方歳三率いる新撰組も合流。
総勢3000人となった榎本の艦隊は、蝦夷地と呼ばれた北海道へと向かいます。
そこには、榎本の大きな野望がありました。

1836年、榎本武揚は江戸に旗本の子として生まれました。
幼いころから学問好きで、昌平坂学問所に・・・若くしてオランダ語、英語、フランス語を習得。
19歳の頃には、蝦夷地の海洋調査に随行。
箱館にも足を踏み入れていました。
1862年、27歳の時、オランダに留学。
5年の間、西洋の知識を吸収します。
中でも力を注いだのが、海の国際法でした。
その詳細な解説書「万国海律全書」は、生涯、榎本の座右の書となりました。
1867年、幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を発注すると、それに乗って帰国・・・この時、32歳、幕府の若きエリートでした。

一方、土方歳三は、1835年、武蔵国の多摩の農家に生れます。
武士に憧れ、剣術の修行に励む中で、生涯の盟友・近藤勇と出会います。
1863年、29歳の時、近藤と共に上京。
新撰組を結成、藤方は副長となります。
寄せ集めの新撰組を、武士以上に武士を目指すと考えた土方は・・・
武士道に叛いたもの、組を抜けようとしたものは、切腹など、隊士らに鉄の掟を課しました。
ついた異名は、鬼の副長!!

1868年、34歳の時に戊辰戦争勃発。
旧幕府軍は劣勢になり、配送をかさねる中・・・盟友・近藤勇が新政府軍に処刑されてしまいます。
もはやこれまでか・・・

「このまま終わっては、地下の近藤とまみえることができようか!!」by土方歳三

土方は、あくまで新政府軍の戦う道を模索していました。

同じく幕臣だった榎本武揚・・・しかし、土方とは違い、この戦いの先を見据えていました。

「薩摩長州など強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収したのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by榎本武揚

1868年9月、榎本と土方は仙台で合流。
仙台城で旧幕府軍会議が行われます。 
榎本は、土方ら旧幕府軍に自分の最終目的を伝えました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by榎本武揚

徳川家に仕える家臣やその家族は、30万人・・・!!
しかし、新政府は、徳川家の収入を400万石から70万石に削減してしまいます。
収入が1/6以下では、彼等を養いきれない・・・!!
路頭に迷う家臣たちを集め、蝦夷を開拓しながら北方警備にもあたる・・・
それが榎本の戦いの後の野望でした。

10月12日、総勢3000人を乗せた榎本艦隊は、仙台から函館へ出航!!
土方はその時の心境を友人への手紙に記しています。

”到底勝算があるにあらず
 我ら闘こうて快く死せんのみなり”

10月20日、蝦夷・鷲の木に上陸
1週間足らずで現地の新政府軍を破り、函館を制圧!!
榎本たちは、五稜郭を拠点としました。

新政府軍と戦ううえで、榎本が最も大切にしたのは外交でした。
箱館に在留する諸外国の領事に榎本はこう説明しています。

”我々は、反逆者でも逆賊でもない
 祖国の地で誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちである”

榎本たちが暴徒と見なされ、諸外国が新政府軍に味方をしたら・・・勝ち目はない!!
そこで榎本は、中立を守るように諸外国と交渉をかさねます。
そして、遂に、
「榎本たちは略奪者ではない
 しっかりと組織された軍隊を備えた政府である」
榎本は、自分たちを事実上の政権と認めさせることができたのです。
諸外国は、中立の立場を表明しました。

諸外国としては、勝ち馬に乗るつもりでした。
しかし、なかなか見極めきれなかったのです。
旧幕府側の圧倒的に近代化された海軍力が、ミリタリーバランスを保っていたのです。
そのミリタリーバランスが、諸外国を揃って中立で見守る立場に置いたのです。
榎本の外交を成功させた強大な海軍力・・・これが、旧幕府軍の生命線でした。

榎本海軍の切り札・開陽丸・・・!!
飛距離4キロのクルップ砲!!
開陽丸には、操船に長けた船員がたくさんいました。
それが、開陽丸の強さの源でした。
最大500人の兵を乗せることができました。

榎本艦隊は開陽丸を持っている・・・それが抑止力にもなっていました。
簡単に新政府軍も攻撃できなかったのです。

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1868年11月、旧幕府軍松前城を攻撃!!
土方を隊長とする旧幕府陸軍は、蝦夷地の南部を治めていた松前藩を攻略・・・北へ逃げる敵を追って江差へ・・・!!
榎本は、土方たちを海から援護しようと開陽丸の出撃を決断します。
ただ・・・それは・・・

「江差までつれて行って、大砲の2,3発でも撃たせてやろう」by榎本武揚

土方率いる義陸軍ばかりが活躍していたため、海軍にも功績を与えようという榎本の海運への計らいだったのです。
しかし、この判断が悲劇を生みます。
11月15日夜・・・江差沖に停泊中の開陽丸は、暴風雨に襲われました。
激しい波で、岸へ押し流され座礁・・・!!
大砲を撃ち、その反動で岸から離れようとするも沈没してしまいました。
榎本は、土方たちと共に沈みゆく開陽丸を見つめていました。

”暗夜に灯火を失ったようだ”

土方歳三嘆きの末・・・この松の下で、榎本と共に開陽丸を見ていた土方があることをしました。
真偽は定かではありません・・・が・・・
土方が何度もたたいたのでこぶが出来て曲がった・・・と。

1868年12月15日、榎本たち旧幕府軍は、蝦夷地の全域を制圧、各国の領事にその領有を宣言します。
さらに、日本初の選挙を実施、榎本が総裁に、土方が陸軍奉行並に選ばれました。
ところが、それから2週間もたたない12月28日・・・
榎本に衝撃的な知らせが舞い込みます。
諸外国が中立の撤回を布告したのです。
開陽丸が沈んでしまったことで、局外中立を保っていた諸外国からすれば軍事力に大きな違いが出てくる・・・榎本政権の行き先を見切ったのです。

このすぐ後、アメリカは新政府軍に細心の軍監を譲渡しました。
甲鉄と命名された協力な軍監です。
これで、旧幕府軍と新政府軍の海軍力は逆転してしまいました。

1869年4月9日・・・新政府軍が総勢7000人で攻撃開始。
上陸後、三方向に分かれて箱館に進軍しました。
迎え撃つ旧幕府軍にとって、開陽丸の不在はあまりにも大きかった・・・
甲鉄で、新政府軍が制海権を握ります。
旧幕府軍は、陸軍の攻撃に加えて、海からの艦砲射撃に晒されます。
しかし、海から遠い山の中に陣取る土方の部隊は違いました。
狭い一本道を見下ろす場所に銃を置き、登ってくる敵を待ち受けます。
やがて、新政府軍の兵が・・・1日に3万5000発もの銃弾を浴びせ、新政府軍を撃退したのです。
その夜、土方は、兵士に酒をついで回り、労をねぎらいました。

「少ない兵力で、大軍相手に良く守っていてくれている
 たくさん褒美を与えたいが、酔って軍規を乱すと困るので、今日はいっぱいで我慢してくれ」by土方歳三

しかし・・・その他の地域では、旧幕府軍は敗北続き・・・遂には、土方を含む全員が箱館へと撤退していました。

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5月11日・・・新政府軍は、函館へ大攻勢をかけます。
その結果、台場を守る新撰組が孤立してしまいます。
土方は、周りが止めるのも振り切って救援に向かいます。
一本木関門に到着すると、逃げようとする見方に檄を飛ばしました。

「俺はここで指揮を執る!!
 突撃せよ!!」by土方歳三

しかし、その直後・・・一発の銃声と共に崩れ落ちました。
銃弾は、腹部に命中・・・土方歳三35年の生涯でした。

武士を貫いて死んだ土方の死は、近世から近代への転換とも受け取れます。

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榎本武揚もまた、死を覚悟していました。
妻に手紙を送っています。

”もはやこの世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺のふたをしめた後にわかる”

新政府軍の軍監甲鉄は、五稜郭へ繰返し砲撃!!
五稜郭が作られた時代、
海から2キロ以上離れた五稜郭には大砲の玉は届かないはずでした。
しかし、甲鉄の玉の飛距離は4キロ・・・
海から球が届くほど進化していました。

5月13日、新政府軍は榎本に投降を求めます。
榎本はこれを拒否!!
死を覚悟し、新政府軍の大将に宛ててある書物を送りました。
オランダ留学以来、榎本が肌身離さず持っていた「万国海律全書」です。

「この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである」by榎本武揚

将来、日本が外国と交渉する際に、この本を役立ててほしい・・・そう願いました。
そして、武士らしく、自決のために短刀を手にしました。
しかし・・・刀を素手で掴んだ部下が、懸命に説得します。

5月18日、榎本は降伏・・・その日のうちに五稜郭を手放しました。
1年5カ月にも及ぶ戊辰戦争は、こうして終わりました。

しかし・・・戦いの行方を決定づけた開陽丸の沈没・・・。
②もしも開陽丸が沈まなかったら??
新政府軍に甲鉄が与えられなかったかもしれません。
そして、旧幕府軍は、開陽丸などの軍監がある!!
開陽丸には絶大な威力がありました。
しかし、榎本は、勝っても喜べませんでした。
何故なら、豊富な物量を誇る新政府軍にいずれは屈することになると読んでいたからです。

すると道は一つ・・・どこで負けるのか・・・??
北方警備、蝦夷地の開拓などを任されるような形で新政府と交渉したかったのでは??
旧幕臣たちの居場所を作りたかったのです。

彼等はどうして敗北を自ら受け入れたのでしょうか?
いかにどう負けるのか・・・??
家族や知人を救うため、負け方を探ってきた戦いでした。
今の時代をどう未来につなぐのか??最善の選択をしたのです。
そこには、日本ならではの負け方の美意識がありました。
その美意識が、犠牲の少ない革命につながったのです。

徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、政治の表舞台から去り、77歳で人生の幕を閉じました。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた
 私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」by慶喜

榎本武揚は、北海道開拓を進める新政府軍に重用され、後に外交でも活躍します。
明治政府が作った北海道開拓使には、榎本と共に戦った旧幕府軍の幹部が登用されていきました。
北海道開拓に尽力したのは旧幕臣のエリートだけではありません。
北の大地に移住し、開拓に汗を流した者の多くは、旧幕臣や戊辰戦争で負けた藩の貧しい侍たちでした。
仙台藩の伊達家は、朝敵の汚名をすすごうと積極的に開拓に参加。
有珠に赴いた彼等は、現在の伊達市の礎を築きました。

そして、1874年、屯田兵制度が始まります。
兵員として北海道の開拓と警備にあたったのは東北の侍たちが中心でした。

箱館山には榎本が仲間と建てた石碑が残っています。
”碧血碑”・・・箱館戦争で戦った旧幕府の戦友たち800人を弔うものです。

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なんだか恐ろしい・・・今回の副題は、「慶喜の首」です。
慶喜の首には、どれだけの家臣の首がかかってるのか?と思うと、口にするのも恐ろしいわ~~!!

よくわかんないけど、歴史的には鳥羽伏見の戦いかな??

京の守りとして天子様に仕える新政府軍・・・
都を追われた旧幕府軍は、大坂城から御所に向けて進軍開始・・・。
1868年1月3日の鳥羽伏見の戦い!!

「こいでよか・・・」by吉之助

??何がこれでいいって言うんだ・・・。

兵力で勝る旧幕府軍に劣勢の新政府軍!!

「退くな~~!!退いてはいかん!!」by吉之助

と、前回の戦の鬼が続いているようです。

おゆうが作った偽の錦の御旗・・・これは史実かも知れんことをやっているからだけど・・・今できたの??
戦って傷つく兵士たちを見てショックの信吾!!
そこへ、錦の御旗登場!!

錦の御旗で形勢逆転!!と言っても、勢いづく吉之助ばっかり!!
普通、錦の御旗が出てくると、幕府軍が焦るシーンが絶対あるんですけどね・・・。
形勢逆転もわからんわ・・・。

戦いをやめさせようとして信吾撃たれる!!
首を押さえて・・・首を撃たれてたら即死なんじゃないの・・・??と、冷静に思ってしまうほど迫力なし!!

「信吾はんやおへんか・・・!!西郷さまの弟御です。助けておくれやす!!」byお虎

お虎はもういいよ・・・ゲンナリ・・・と思う反面、このキンチョーなシーンで、西郷どんの弟だから助けてほしいって・・・どうよ??
助からんとか、大事な人の弟だとか・・・私情満載な発言の中・・・私は知っている・・・。
信吾は第1話のOPに出ていたじゃない・・・。と。
ふ~ん・・・吉之助の弟だから助けるんだ・・・なんて思うとシラケちゃうわ・・・。

西郷どんは一応軍議中ですが、あんまり何を言っているのかもわからない・・・
と思っていたら、ケガしてる信吾のところに行ってやれなんて話・・・するか??武士が・・・!!
私情を挟むな!!と、戦いに突き進む西郷!!

やっと、錦の御旗でオロオロする慶喜登場!!
味方の兵を残して、僅か4日で大坂城を抜け出す慶喜・・・。
薩摩隼人たちはまたまたエイエイオー!!です。

しつこく信吾の元へ行け!!と言われるのを断って御所に向かう吉之助。
って・・・ほんと、信吾のところに行け行けって、話しに水差さないでよね・・・
それとも、信吾のところに行かないことが戦の鬼なの??
もっと、戦で鬼になってほしいわ・・・。

船で逃げている慶喜・・・その慶喜をバカにして狂ったように笑いだすフキ・・・。
「この船は・・・きっと沈みます!!
 罰が当たったんですよ・・・。
 慶喜さまにも、この私にも。
 もうすぐ海の藻屑とやら・・・ですね。

 天下の将軍様がこんな風に死んでいくのかと思ったら、なんだか可笑しくて・・・」byフキ

この後、何とか無事に江戸にたどり着きました。

う~ん・・・その場で成敗してやれよ・・・慶喜・・・。
江戸でも・・・ウナギを食べる慶喜・・・。
って・・・ウナギ必要か??

江戸にいることを勝つに怒られる慶喜。
その言葉が・・・
「まさか江戸前のウナギを食いたくて舞い戻ったと・・・。
 ウナギなんぞ、食ってる場合かい・・・!!」by勝

はい・・・この勝も、成敗でしょう。
幕臣の勝が、こんな言葉を使うなんて・・・ほんど・・・気になって身が入らないわ・・・。

「戦に負けたのも、徳川の名を血に貶めたのも、皆あんただ・・・!!
 あんたは、徳川の恥だよ・・・」by勝

勝は、最後まで慶喜を生かそうと頑張ったんだよ・・・
最後は江戸を火の海にしてまでも守ろうとしたのに・・・なんだよ、この演出・・・!!

「あなたは、西郷さまから逃げただけです。
 言っていたではありませんか。
 どこまで追ってくるんだって・・・。
 あなたは、西郷さまが恐ろしいから逃げたんです。
 謝ればいいではありませんか。
 あの方は、心根のお優しい方です。

 あなたが心から悔い改め謝れば、必ず許してくださいます!!」byフキ

??身の程知らずが~~~!!
慶喜、手打ちにしてください!!
普通はカッコいい言葉だから書き起こすんだけど・・・あまりにも開いた口が塞がらないアホな台詞に書き起こしちゃいました。
こんなこと、誰が言うか~~~!!
何で、下級武士に天下の将軍様が謝らんといかんねん!!
助けてくれた慶喜になんてこと言うねん・・・!!

だから・・・最初っからフキ・・・っていうか、お芳は新門辰五郎の娘のままで良かったんだよ・・・。
それなら、勝海舟と協力して逃げる算段のドラマができたのに~~~!!

「俺の前から失せやがれ!!」と、慶喜に言われ、
「いいんですね。私、本当に行っちゃいますよ!!」って・・・どれだけ自信過剰やねん!!
どこでも行けや~~~!!
と、その高飛車具合に、こっちが反吐が出るわ~~!!
おっと・・・下品で失礼・・・。
余りのひどさに我を忘れてしまいました。

やっぱり、当時の女性のリアルを書いてくれないとな・・・
こんな女いないわ・・・
と思っていたら、
「哀れだね・・・あんた・・・」by勝
??哀れって・・・フキに捨てられたことが??何が・・・??
取り乱してるところが・・・??
海舟・・・あんたも幕臣なら、敬語使いなさいよ~~~!!

信吾のいる治療場に、外国人がやってきました。
なんと医者だといいます。
「助けておくれやす!!お願いします!!」
と、優先的に信吾を手術。
この西洋の手術によって、多くの新政府軍の人々の命が救われたそうですが・・・
そんなこんな・・・本当はキンチョー感半端ないこの状況で必要か・・・??

なんと・・・京に医師を招き入れたのは、吉之助が信吾のために天子様に頼んだらしい・・・。
??なんだ・・・鬼になったんじゃなかったの??
公私混同も甚だしいな・・・。
こんな西郷・・・見たくないわ・・・。

多くの命を救いたい!!とか戦争始めたの自分じゃん・・・。
鬼が弟のためにそこまでしたとか・・・そんな話・・・ダメだろ・・・。
弟のためだからやっちゃダメなんじゃないの??って思う私は古いんだろうか??

関東を征伐する為に京を出発する西郷・・・って、征伐だって・・・悪モンなんだな・・・。
「西郷はん~~!!」と、信吾と一緒に来るお虎。
??歩けんの??信吾・・・そんな重症じゃないやんか・・・天子様にお願いするほどの・・・!!
って思っちゃったわ・・・。

でも・・・関東に行ったら、もう、所かまわず叫んだり、抱き着いたりするお虎は見なくって済むのね・・・良かった。

don2
















慶喜は寛永寺で謹慎中。
そこへ一人でやってきた勝海舟・・・
「奴らはあんたのお首が欲しいんです!!」by勝
あちゃー・・・そんなこと、口にしていいんかい??

戦うべきだという勝に、このままでは日本は異国の物になってしまう!!と、戦うことを断念する慶喜。
ま、徳川を世界の笑いものにしたくないとかそれがなんだかはわからないけど、戦うべきだと言った勝に、もう戦わないと慶喜が言ったのは本当です。

「どんな沙汰でも甘んじて受けよう。」by慶喜

最後はカッコいいですね。慶喜!!
でも・・・よく考えたら、慶喜がフランスに薩摩を売り渡そうとしていたから戊辰戦争が始まったってことになってたんじゃないの??
それなら精神崩壊したフキのあやふや情報で、吉之助が兵を挙げたってことになるじゃないの??
こんなの・・・たくさんの人が死んでいるし・・・これからも死ぬのに本末転倒だ・・・。

慶喜にいきなり山岡鉄舟を引き合わせる勝・・・。
どこにいたんだよ・・・控えてるにせよ・・・。やっぱり「西郷どん」は、セキュリティーZEROなのですね・・・。
でも、私の大好きな藤本隆宏さんなので許す~~!!

一人で駿府に行く山岡・・・
ここら辺も、藤本さんの熱演も残念ながら一人で行けちゃうところがリアリティーなし!!
どうやって、どの信念で行ったのか・・・そこは書いてくれないのね・・・。

don3















交渉のために切腹しようとする山岡ですが・・・
「いまこの国で・・・酷い殺し合いをしている場合でしょうか?
 この命と引き換えに、我等が願い・・・天子様へお伝え願いとう存じます。」by山岡

「何故・・・あの慶喜公のためにそこまで・・・??」by吉之助って・・・馬鹿か??吉之助はバカなの??
将軍様だからだよ!!幕臣だったら守るだろ??
情に訴えて、情に絆され勝と会うことになった吉之助でした。

本当の交渉はこんなもんではありません。
もっと、現実的なものとなっています。
本当の交渉がどんなものだったのか??それはこちら「江戸城無血開城 勝海舟の知略」

お食事処でご飯を食べている嫌われ者の西郷たち・・・
磯田屋で女子たちと遊びたかったとか訳の分からんことをまた・・・と思っていたら・・・聞き覚えのある女性の声が・・・。
幾島でした。
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーンお虎がいなくなったのに、新しい強敵登場!!
それにしても、この期に及んで女遊びをしたいんか??と、腹立たしい限りです。
女遊びは歴史には残せないけど、そこここでやってるじゃんよ~~~!!

幾島に導かれ・・・なんと、大奥に入ってしまう西郷どん。。

don4















そこには懐かしい天璋院がいました。

もう・・・江戸城無血開城されてるじゃん・・・!!

先日、「ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年」という映画を見ました。

内容は・・・花輪君家に何人かの子供たちがホームステイに来て、おじいちゃんと同じマルコという名前からまるちゃんに興味を持った少年がまる子の家に泊まるというお話しで・・・
おじいちゃんのマルコは亡くなったので、その思い出を探しに日本に来た・・・みたいな内容でした。
ちびまる子ちゃんということで、子供にもわかりやすい起承転結な作品となっていました。
お話しはすべて回収し、最後はどうなるか、わかりきっているのにクライマックスで泣いてしまいました。
よくできた作品でした。

歴史のお話も、見る側はどうなるか解っていてそれでも作品にする・・・それが、脚本家さんの腕の見せ所だと思います。
たくさんの人が死んできている「西郷どん」ですが、あまりにも内容が浅く・・・涙も出ません。

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江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。。。
慶喜といえば、大政奉還によって幕府から政権を独断で朝廷に返還。。。
そして新政府軍との戦いに敗れたアンチヒーローとして知られていますが・・・
その政治手腕が再評価されてきています。

慶喜失くして明治維新は実現しなかった???
慶喜は、歴代将軍にはなかった指導力で、内政、外交に手腕を発揮し、諸外国に日本の新たな国王として高い評価を得ていました。

今まで幕府の敗北宣言だとされてきた大政奉還・・・
新体制を掌握しようという野心が伺えます。
しかし・・・そんな慶喜を排斥しようと・・・王政復古のクーデターが起こります。
薩摩藩士・大久保利通を中心とする討幕の志士たちによって武力討幕が行われたのです。

慶喜はクーデターを事前に察知していた???
予期せぬ事態に対する慶喜の葛藤とは???

江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜は、英雄というイメージよりも敗者のイメージが強いのですが。。。
幕末史の影のヒーロー・・・只者ではなかったようです。

1866年12月5日 慶喜、江戸幕府第15代将軍に就任
この時、江戸幕府の権威は風前の灯でした。
問題のひとつは・・・開国問題。
孝明天皇は、外国との国交に断固反対していました。
開国路線をとる幕府の外交は暗礁に乗り上げてしまったのです。

長州征討も泥沼化・・・外交も内政も混乱の一途をたどっていたのです。

慶喜は起死回生に・・・
外交は・・・通商条約の勅許をもらおうとします。
一旦開港していた横浜を鎮港し、孝明天皇を懐柔し、勅許をえるのです。
その外交力に脅威を覚えたのが、島津久光。。。
幕府に独占されていた貿易に参加することによって利益を得ようと考えていたのです。

孝明天皇がなくなると、開国に舵を取ります。
兵庫の開港問題には・・・
自らの権限で兵庫を開港すると公約します。
自ら最前線で外交をする慶喜に、諸外国は絶賛の嵐。。。

その結果、外交交渉や通商は、幕府主導で進んでいきます。
久光ら大名たちを抑え、外交主導権を掌握する慶喜。

失墜した幕府の力を回復させていきます。
慶喜に求心力が・・・!!
慣例にとらわれない慶喜は、写真にも興味を示し、自らモデルとなっています。

yosinobu

この肖像写真を外交に使います。
自分の肖像写真を各国君主と交換したのです。
日本の新しい国王であるかの景気の姿・・・
しかし、その力を脅威と感じ、退けようとする勢力が水面下で動き出していました。
薩摩藩士・大久保利通、西郷隆盛、公家・岩倉具視・・・武力討幕派です。


慶喜が率いる幕府を力でねじ伏せるために・・・討幕の密勅をあみだします。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を殲滅せよ!!
武力蜂起の極秘命令が下されたのでした。


しかし・・・慶喜は1867年大政奉還をし、大久保たちを驚愕させました。
大政奉還によって、大久保たちの大義名分が失われてしまったのです。
将軍自ら、政権を天皇に返すことによって、倒すべき幕府そのものを無くしてしまったのです。
大久保たちの討幕計画は中止されてしまいます。

これまで、慶喜の敗北宣言のように思われてきた大政奉還・・・
しかし、そこには思惑があったようです。
慶喜が朝廷に政権を返した時の建白書によると・・・
慶喜は政権を返すのは、日本を海外列強と同じような国家に生まれ変わらせるため。

「これからも、国家のために尽くせるのなら、これに勝る喜びはありません。
 全国の諸大名にも、将来の国づくりに意見のある者は、この慶喜に申し出るよう命じてあります。」

と、書かれています。

政権を返上しても、国政には携わり、諸大名からの意見も自分が取りまとめていく・・・
実質的に幕藩体制を維持した新体制を、朝廷に訴えていたのでした。

日本の政治そのものを変えていこうという気持ちが感じられます。

しかし、その後・・・時代は未曽有の大政変劇へ・・・!!


大政奉還によって、武力討幕派の機先を制した慶喜は、自らの指導する新体制を着々と実現しつつありました。
大久保たち武力討幕派は、決死の手に出ます。
王政復古のクーデターです。

慶喜を追い落とすには、天皇の力しかない!!
天皇親政を実現し、慶喜を排除するしか方法はなかったのです。

その為には・・・若き明治天皇を手中に収めなければ!!
明治天皇の外祖父・中山忠能を通じ、天皇の懐柔に極秘裏に成功します。

クーデター当日は薩摩の兵で御所を封鎖!!
西郷隆盛の指揮のもと、新体制を作ろうと目論んでいました。
慶喜と大久保とでは、思い描く日本の未来がかけ離れていたのです。

従来の身分制を無くしたい大久保たち下級武士は、将軍家を無くすことで大改革を実現しようとしていたのです。

クーデター直前・・・前越前藩主・松平春が、藩主に宛てた手紙には・・・
大久保たちのクーデター計画が、慶喜に漏れていて・・・対抗策を練るように書かれています。

「薩摩の大久保・西郷・公家の岩倉具視らが密謀を企てている
 ともすれば、京都に戦争が起こるかもしれない
 しかし、英明な慶喜公のこと、必ずや策を講じ、薩摩の計画を失敗に終わらせてくれるに違いない。」

慶喜の排除を目的に行われているクーデター計画・・・
慶喜どうする??


①武力鎮圧策
この時京都には、会津藩、桑名藩併せて5000の兵力があり、大久保たちを圧倒していました。
慶喜側からクーデターを起こし、薩摩を京都から追い出すのです。
しかし、京都が焼けてしまう。。。
国内に内戦がおこるかも知れない・・・
そうなると、欧米列強の内政干渉もあり得るのです。

②静観策
今、優先すべきは、日本に内乱を起こさせないことだ。。。
各藩にもそう書簡を送っています。
大政奉還を行った私に、どうしてことを起こすのだ。。。
武力を使わなくてもいいのでは???


慶喜は、新政府の主導権をかけた戦いにどう対処していくのでしょうか?
事態を静観する・・・でした。


京都に戦乱が起きないことを優先したのです。
12月9日早朝、クーデター計画は実行に移されます。
薩摩藩兵が御所の紋をすべて封鎖!!
そして、明治天皇による大政復古の大号令が出され、天皇を中心とする新たな体制が樹立されたのです。
新政府には、皇族をはじめ、公家、諸大名、各藩の有志が入閣・・・
しかし、そこには慶喜の名前はありませんでした。
おまけに、慶喜に組した摂関家の廃止・・・

慶喜にとって厳しい状況が生まれたのでした。

この時、京都が火の海になることを怖れ、慶喜は、会津・桑名両藩を、大坂に退去させています。
議会を進めていた大久保によって、慶喜の辞官納地がなされ、徳川の天領800万石は没収となったのです。
新政府の財源になるとのことでした。

すると、諸大名にも疑念が起こってきます。
王政復古の目的・・・それは、大名制の廃絶なのでは???
不協和音が・・・慶喜の復活を願う声が出てきたのです。

1867年12月24日、慶喜が新政府議定職に決定。
新政府に迎え入れることが決定したのです。
この事は、大久保に最後の覚悟を決めさせたのです。

「もはや、薩摩一国となっても、一戦交えるまでだ!!」

この時、薩摩藩浪士たちが、江戸市中を放火やテロ行為で攪乱!!
挑発に乗った庄内藩が、薩摩藩邸を焼き打ちしてしまいます。

藩邸を襲われたことで、薩摩藩は武力討伐に!!
戦闘準備に入ったのでした。

慶喜のいる大坂でも、会津藩・桑名藩が爆発!!
慶喜の手に負えなくなってきたのです。

1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発!!
薩長新政府軍と旧幕府軍との戦いになりました。
そして、慶喜にとっては最悪なことが・・・
薩長軍の掲げた”錦の御旗”です。
慶喜は、朝敵となってしまったのでした。
慶喜側は、総崩れ・・・わずか3日で敗走!!

それでも大坂城の会津・桑名藩は、戦意は喪失しておらず、当時最強と言われた幕府海軍を、江戸から大阪湾へ持って来れば、勝機はまだある!!

驚愕の事態が起きたのはその時!!
大坂城で戦う旧幕臣たちを残し、慶喜は江戸へ向け船で脱出したのです。

一体なぜ??

時代の流れに押し流されたという諦め???
下品、なりふり構わず・・・ということができない人だったのでしょう。

朝敵となった慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍を置いて江戸に帰還・・・
上野の寛永寺に入り、自ら2か月謹慎したのです。
再起を求める声があったものの・・・戦いを避け。。。

江戸に向かう新政府軍に書簡を送っています。
「今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どのような処分も受ける覚悟でいる。
 何の罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは止めて欲しい。
 すべての罪が、この慶喜にあり罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。」

内乱を避けられるのであれば・・・!!

その後、全国に内乱が広がることはなく戦争は終結。。。
ここに徳川の時代は潰え・・・明治新政府の時代が始まるのです。

大久保たちは、藩籍奉還・廃藩置県・秩禄処分・・・何百年にもわたって行われてきた封建制度を一掃したのです。
不平を抱く旧士族から、徳川再興を求めた時も、慶喜が政治的発言をすることはなく・・・旧幕臣が近づくことも良しとしませんでした。

その後、慶喜は、狩猟・油絵・写真・・・趣味人としての生活を40年送るのでした。
政治とは全く無縁の生活を送ったのです。

慶喜の汚名が晴れたのは、明治維新から30年以上も後・・・
明治31年には明治天皇に拝謁。
涙を流して喜んだと言われています。
明治35年公爵綬爵。
それは、慶喜が維新の功労者であるということを、新政府が認めたことを意味していました。

負けを徹底的に受け入れること・・・
受け入れがたいものを受け入れるのが自分の役割・・・

yosinobu2
大正2年11月22日病によって亡くなります。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。
 私は、その幕府を葬り去るために将軍となったのだ。」

明治維新の犠牲者は、世界的に見てもとても少ない・・・
それは、慶喜の功績なのです。 

”不作為を持って英雄となり
   科目を持って政治を変えた”
慶喜なのでした。


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「敗戦の責任」って・・・重いなあ・・・
もう、誰が責任を取るのか解るから、もっと重く感じてしまいます。。。
そう、第1話目からここが区切りと見ていました。。。
”修理様の切腹”を・・・


鳥羽伏見の戦い・・・第一日目は、惨憺たる会津の敗北で一区切りがつきました。。。

八重の弟・三郎は、実践の怖さを思い知ります。。。

「肝を据えろ!!!にしは会津の男だべ!!!」

官兵衛の叫びに我に返り・・・
鉄砲を手に取るのでした。

で・・・大砲隊到着!!

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って、山川大蔵、洋装です。
カッコいいですね。
そうですよ。
もちろん、薩長の方がいい武器、新しい武器を持っていたのは確かですが、会津も新選組も古い服装で、装備も古くって、刀や槍に魂がこもっていて・・・ていうイメージが強いですが、薩長ほどではなかったかもしれないけど、一応近代化は進んで来てたんですよね。。。

あ~~~~!!錦の御旗が!!
yae3












って、誰が言ったんだろう???
きっと、当時の人は”錦の御旗”のなんであるかも知らなかったと思うんですけどね。。。
実際にあったのかも分かんないですし、博識な一部の人が言ってしまったんでしょうね・・・

「大義は我らにある!!」
と、鼓舞している慶喜さんですが。。。

朝敵になることを怖れて・・・他藩は寝返りだしました。。。

戦おうとする慶喜に修理は・・・
「我が軍勢、兵の数こそ敵に勝っておりまするが軍略が乏しく、このまま戦を続けては兵を失うばかりと推察仕りまする」
と、進言しました。
勇気ある・・・!!!

そして・・・江戸にもどることを薦めるのでした・・・


最前線では・・・
撃ち合いが激しくなって・・・大砲がバンバン撃ち込まれていて・・・
前に進めません・・・!!!
それでも前へ進もうとする三郎を、大蔵はとめ!!!

しかし・・・三郎は、
「・・・兄の事を聞きやした。
 山本家の男として兄に代わって働きとうごぜえます!!
 姉上も・・・力を貸してくれます。。。」

「わかった・・・よく狙って打て・・・!!」

って・・・大蔵・・・八重に弱いねえ・・・
結婚してるのよ・・・あなた。。。

でも・・・見方だと思っていた他藩が・・・
次々と寝返りだしました。藤堂藩も・・・

そして・・・三郎は・・・八重の思いもむなしく・・・銃弾に倒れるのです。。。

大蔵が助けようと屋内に・・・
しかし、周りは負傷者であふれかえっていました・・・。
大蔵を兄・覚馬と錯覚し・・・

「あんつぁま・・・姉上・・・。」
yae4











享年20歳の若さでした。。。

ああ・・・若いものが志半ばで亡くなるということは・・・悲しいですね。。。

そして、官兵衛は・・・修理の進言で、撤退の方向に向かったことに対して・・・
この状況を・・・亡くなっていった同志たちのことを思い・・・やるせなさをぶつけるのでした。

「先に死んだ者の命は・・・無駄になってもいいっていうのか???」

そこへ・・・榎本武揚がやって来ました。
開洋丸を持ってきました。

慶喜は・・・容保に、家臣を置いて行くように命じます。
そう・・・開洋丸を奪ってのトンズラです。

「会津の家訓に、徳川を朝敵にせよとの一条があるのか???」

いや・・・なんと御無体な・・・

徳川が朝敵の汚名を着ないようにするために・・・
ああ・・・歯車が・・・狂い始めました。。。

慶喜と容保、桑名侯が裏口から大阪城を抜け出して・・・
開洋丸に乗り込んで江戸に行ってしまったのです・・・。

って・・・開洋丸・・・そんなに誰でも動かせるのかしら???

会津勢が江戸へ向かうと・・・
容保は、官位を剥奪されてしまい・・・朝敵に・・・。

そんな会津の未曽有のピンチに、西郷頼母が家老として復職したのでした。
「会津が・・・朝敵に・・・!!!」

そして・・・進言したのは修理だと・・・そんな雰囲気に傾いてきました。。。

朝敵の烙印・・・!!!

八重の家でも・・・冷静ではいられません・・・。

「恭順が良かった」のだと言ったので
権八に・・・”腰抜け”といわれてしまう尚之助・・・
そして、八重も父・権八と同じ意見でした。。。

そう、尚之助は会津の人ではないのです。。。
”ならぬことは ならぬ”解っているとはいえ、尚之助は客観的に見ることができるのでしょう・・・。
でも、会津の為に戦うそのつもりのようです。。。

薩摩藩邸に捕まっている覚馬・・・
一体どうなるのでしょう???
ま・・・ここで・・・西郷隆盛に管見を見てもらうのは間違いなしです。

修理は・・・一体どうなるのでしょう???
悪いのは、慶喜と容保なのに・・・
おまけに江戸に帰った慶喜は・・・容保に登城禁止を申し付けます。。。

「今後登城することまかりならん!!
 江戸から立ち退け!!」

とのこと・・・なんて、理不尽な・・・。
慶喜は、老中を解任し、会津をはじめとする徳川と共に戦った諸藩に、江戸からの立ち退きを命じました。
それは、新政権に対する全面的な降伏でした。

幽閉されている修理の元へ・・・
容保がやって来ました。

「そなたをこのような境遇に落とし・・・詫びる言葉が見つからぬ。。。
 会津は都を追われ・・・今また、江戸を追われる・・・
 その憤りが・・・そなたの身一つに向かってしまった。。。
 どうやっても・・・どうやっても・・・そなたの名誉を取り戻すことができぬ・・・!!
 修理・・・!!!・・・切腹申し付ける」

yae5

「ありがたく・・・承ります。」

この月代の感じ、いいですね。。。
良い感じで幽閉感が出ています。


なんて、悠長な・・・
あ・・・・・修理・・・切腹です・・・。

享年31歳・・・。





辛いですね・・・
ここで一区切りの修理の切腹です。。。

実際、日本の政治はず~っと、こんなふうに来ていました。
だって、これが中国だったら、政権をとられたとたんに”皇帝”は殺されるでしょう。。。
天皇がず~っと天皇でいられるのはこんな・・・つまりNo,2が責任を取る!!みたいなことがまかり通る・・・っていうか、それが日本の歴史だからなのでしょう。

今回の明治維新にあっても・・・殿と呼ばれる人たち・・・
つまり、徳川慶喜(貴族院議員になって・・・趣味に興じ・・・写真もプロ級、静岡で初めて自転車に乗ったとか・・・)、松平容保(日光東照宮の宮司・息子は華族)、桑名藩松平定敬(容保の後の日光東照宮宮司)と。。。命までは取られていませんよね・・・。

ホント、日本のそれまでが分かるような・・・
そんな修理様の責任の取り方だったと思います。

つらいなあ・・・修理様・・・
好きだったんです。
それは、きっと白虎隊の時の国広富之さんの時からずっとです。。。

肉体派でず~っと突っ走る佐川官兵衛はもちろんカッコいいですが、お坊ちゃまで頭脳派の修理様でさえ・・・解っていながら戦って、闘って・・・理不尽にも死んでいく・・・。
そう言えば、官兵衛はこの会津戦争を生き抜きますから・・・
やっぱり修理様可哀想・・・

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