鎌倉は日本初の武家政権・鎌倉幕府が開かれた地です。
幕府は源氏の頭領で鎌倉殿と呼ばれた源頼朝によって開かれ、二代・頼家、三代・実朝へと繋がっていきました。
その3人の鎌倉殿に仕え、幕府の実権を握って行ったのが、鎌倉幕府2代執権・北条義時です。

北条義時の人生は、実に波乱に満ちていました。
その人生を大きく変えたのが、源頼朝との出会いです。
北条義時は、現在の静岡県伊豆の国市に当たる田方郡を中心とする豪族・北条時政の次男として1163年に生れます。
当時、北条氏は伊豆の在庁官人・・・地方の一役人で、小規模な武士団にすぎませんでした。
時政には、嫡男・宗時がいたため、義時は江間の土地を与えられ、北条の分家扱いとなります。
その為、若い頃は”江間小四郎義時”と名乗っていました。
しかし、運命は大きく変わります。
義時の姉・政子が源頼朝と恋に落ちたからです。
政子は、平家に敗れ伊豆で流人生活を送っていた頼朝と駆け落ち・・・
父・時政は、しぶしぶ二人の結婚を認め、これによって北条氏は源氏と姻戚関係になりました。
結婚を認めた裏には・・・政子の駆け落ち以外に時政の戦略があったのでは・・・??

東伊豆・沿岸部・・・当時の伊豆は、伊東氏が圧倒的な勢力を誇っていました。
このままだと北条氏は伊東氏に飲み込まれてしまう・・・
その中で、政子が頼朝という源氏の名門と結婚すれば、北条氏の力になると時政は考えたのです。
1180年8月17日、頼朝が平家打倒を掲げ挙兵します。
義時は、父・時政、兄・宗時らと共に頼朝の軍勢に参加することになりました。
頼朝は挙兵するも、石橋山で平家方の大庭景親軍に惨敗。
破れた頼朝軍は散り散りに・・・
義時は兄・宗時と別れ、一時、時政と共になんとか逃げ延びますが・・・
敗走の途中、兄・宗時が敵に追いつかれ討死してしまったのです。
兄を失ったのは、義時にとって大きな衝撃でした。
しかし、この戦いを生き抜いたことで、義時の人生が大きく切り開かれることとなります。

頼朝は、鎌倉に入ると兵集めに奔走、地盤を固めていきました。
頼朝36歳、義時20歳の時・・・
頼朝が妻・政子の妊娠中に浮気・・・これに端を発した騒動の中で、腹を立てた政子の父・時政が勝手に伊豆に帰ってしまいました。
慌てた頼朝・・・頼朝が心配したのは、時政が帰ってしまった以上に義時が一緒に鎌倉を出てしまったのではないか?ということです。
そんな頼朝の気持ちなど露知らず、義時は鎌倉の自分の家にいた義時・・・
訳も分からず家にいただけで褒美をもらってしまいました。
義時は、頼朝に気に入られていたのです。

ともあれ、頼朝の信頼を勝ち取った義時・・・どれほど気に入られていたのかは、その身分からもわかります。
頼朝は、御家人を門葉・家子・侍と区分していました。

門葉・・・頼朝と血のつながった源氏一門
家子・・・頼朝によって選抜された側近
侍・・・・・血縁のない一般的な御家人    です。

義時は、頼朝の寝室警護を任されたのち、家子に抜擢され、頼朝の側近となったのです。

やがて頼朝は、鎌倉を拠点に勢力を伸ばし、平家や奥州藤原氏を次々と滅ぼすと、武士の頂点に上り詰めます。
1192年、朝廷から征夷大将軍に任じられるのです。
これによって一介の田舎武士だった義時達・北条氏は、日本初の武家政権の中枢に居並ぶことに・・・
この時、頼朝46歳、義時30歳、頼朝は御家人たちから鎌倉幕府の頭領である鎌倉殿と呼ばれるようになりました。
こうして始まった武士の世・・・ところが、1199年11月13日、頼朝死去・・・。
その突然の死、義時は大きなショックを受けます。
カリスマであった頼朝の跡を継ぎ二代将軍となったのが頼家でした。
しかし、まだ18歳と年若く、経験の浅いことから政治が混乱するのでは・・・??と、幕府内で心配の声が上がります。
そこで、ある制度が設けられます。
十三人の合議制です。

十三人の合議制・・・幕府内の有力御家人が13人集まって、訴訟に関する会議を開き、決定事項を頼家に上申、頼家が最終的な決定を下すというものです。
選ばれた13人は・・・??
義時の父・時政をはじめ、頼朝が流人時代から世話になっていた比企能員、石橋山の戦いで平家方でありながら頼朝を見逃し後に寝返った梶原景時、平家打倒の挙兵時から武功をあげてきた三浦義澄、足立盛長など・・・いずれも頼朝を支え、戦や幕政などで目立った活躍をした御家人たちでした。
そんな中に、義時も37歳の最年少で選ばれたのです。
しかし、義時は平家追討軍に加わるも目立った戦績はなく、また幕政に深く関与したわけでもありません。
どうして義時が選ばれたのでしょうか・・・??
それは、義時が頼朝の家子だったことが関係しています。
家子=エリートである上に、義時は家子専一・・・家子のナンバーワン・・・義時は偉大なる先代の家子の代表として選ばれたのです。
こうして始まった十三人の合議制でしたが、すぐにほころびが生じます。
メンバーの梶原景時が御家人からの信頼を失い失脚、さらに三浦義澄や足立盛長が相次いで病死・・・
1年ほどで3人もメンバーがいなくなってしまいました。
こうして十三人の合議制は崩壊を歩むこととなります。
そしてこの後、御家人同士の血で血を洗う権力闘争が激化していくのです。

鎌倉幕府二代将軍・頼家をサポートする形で新設した十三人の合議制が崩壊・・・
すると頼家は、有力御家人の比企氏を重用します。
もともと京の都にいた比企氏は、長く頼朝に仕えてきた有力御家人でした。
頼朝の乳母だった比企尼は、頼朝が伊豆に流された際にも生活を支え続けました。
その恩を忘れていなかった頼朝は、嫡男・頼家が生れると比企氏から乳母を出させ、頼家の養育を任せました。
これにより、甥である比企能員が幕政で頭角を現すこととなるのです。
やがて頼家は、比企能員の娘と結婚。嫡男・一幡を授かります。
なので、比企氏を重用するのは当たり前のこと・・・。
そのため北条氏は、将軍頼家の外戚という立場にありながら、比企氏に押されて影が薄くなっていきます。
そんな中、1203年7月・・・頼家が病に倒れます。
焦った時政が動きます。
将軍・頼家の病気回復祈願をするため・・・と、比企能員を自分の館に呼び出し殺害。
さらに、幕府の軍勢に比企氏の館を襲撃させ、比企氏を滅亡させるのです。
この時、幕府側の大将に任じられたのが北条義時でした。
義時は、父の策略に加担し、まだ幼い一幡を討ち取ったというのです。
そのため、義時も父と同様に比企氏をだまし討ちにした腹黒い武士だったともいわれています。
が・・・比企氏滅亡を仕組んだのは父・時政で、義時は時政の駒にすぎませんでした。

私欲にまみれた父・時政は、更なる謀略を・・・
頼家を将軍職から引きずり下ろし、伊豆・修善寺に追放します。
3代将軍となったのは、頼家の弟・・・まだ12歳の実朝でした。
父・時政は、将軍・実朝を補佐する執権に・・・北条氏は名実ともに幕府No,2の地位を手に入れたのです。
翌年の夏・・・1204年7月18日、修善寺にいた頼家が、入浴中に刺客に襲われて殺されてしまいました。
この暗殺も、時政が企てたことと考えられています。
他の御家人たちに担がれ、頼家が北条氏討伐へ走らないように先手を打ったのです。
血のつながった孫を暗殺するとは・・・。
しかし、因果応報、時政が追放されることとなります。

謀略によって、ライバル比企氏を滅亡させ、2代将軍だった頼家までも暗殺した北条時政は、新たな鎌倉殿・実朝の執権として幕府の実権を握るようになりました。
ところが・・・その時政が、幕府から追放されることとります。
手を下したのは、なんと息子の義時でした。

絶大な権力を握った時政でしたが、幕府内ではまだ目障りな有力御家人がいました。
武蔵国の御家人で、幕府に強い忠誠心を持っていた畠山重忠です。
時政は、武蔵国を支配下に置いて北条氏の権力をより強固なものにしたいと考えていました。
そのため、後妻である牧の方との間にもうけた娘の夫・平賀朝雅を武蔵国の国司に据え、その後見人となりました。
しかし、朝雅が京の警護を受け上洛・・・その隙に武蔵国の御家人たちが反旗を翻すのでは・・・と、畏れます。畠山重忠は、武蔵国の最有力御家人・・・重忠を潰せば憂いは絶てる・・・時政はそう考えました。
そして・・・1205年6月・・・時政は、畠山重忠にありもしない謀反の罪を着せ義時にその討伐を命じるのです。
ところが・・・これまで父に従ってきた義時が、討伐をやめるように諫めたのです。
畠山重忠も、時政の娘婿でした。
義時と重忠は義理の兄弟で交流が深かったのです。
義時は、重忠が幕府に尽くしていることを知っていて、謀反を興すことに疑問を持っていました。
しかし、父・時政は・・・結局、義時は、大軍を率いて重忠を攻めることとなりました。
1205年6月22日、武蔵国の二俣川で幕府軍は、重忠軍と激突!!
兵力に劣っていた重忠軍を殲滅するのです。
父の命令通り重忠を討った義時でしたが、重忠の首を見て涙にくれ、鎌倉に戻ると父・時政を激しく糾弾したといいます。
邪魔になる勢力を次々と排除していく父・時政に、初めて憤りをあらわにした義時・・・
しかし、父の暴走は止まりませんでした。

1205年7月・・・牧の方と共に3代将軍実朝を暗殺し、娘婿の平賀朝雅を新たな将軍にしようと画策するのです。
この陰謀に気付いたのが、姉の政子でした。
息子・実朝の危機と、政子から助けを求められた義時は、すぐさま実朝を自分の屋敷に匿います。そして、父時政と牧の方を鎌倉から追放・・・将軍暗殺計画を未然に防ぐのでした。
さらに、義時は京の都にいた朝雅も殺害させたといいます。
2代将軍のみならず、3代・実朝まで暗殺しようとした父に、義時の怒りが爆発したのでした。
この後、義時が鎌倉幕府2代執権となりました。
義時43歳でした。

1213年、暗殺された2代将軍頼家の忘れ形見を担いだ謀反の計画が噂されます。
計画に関与しているのは、侍所・別当の和田義盛の一族です。
嫌疑をかけられた数名が幕府に捕らえられました。
義盛は、頼朝の頃から源氏に仕えてきた御家人の長老で、十三人の合議制のメンバーでもあった実力者です。
そんな和田一族の中に、幕府転覆を狙う者がいたことに衝撃が走ります。
すると義時が謀反計画に関与していない義盛を挑発・・・
これに怒った義盛は、義時の館を襲撃しました。
世に言う和田合戦です。
義盛は、幕府への反逆者として討ち取られ、和田氏は滅亡・・・
これによって義時は、義盛が就いていた侍所別当に就任します。
政治だけでなく、軍事の権限も掌握したことで、北条氏の権力はより強固なものとなりました。
こうした状況から、実はこの和田合戦は義時が仕組んだのでは・・・??とも言われています。
義時が、侍所別当の地位を得たいがために、父・時政のように仕組んだ陰謀だった・・・??
しかし、和田一族が、幕府への謀反計画に加わっていたのは事実で、義時としてはこのような大規模な反乱を起こさせるわけにはいかない・・・と、その大将として持ち上げられていくであろう和田義盛は今のうちに叩くべきでは??と、挑発したようです。
義時は不安分子を排除し、北条氏の権限を強めることで、これまで以上に将軍・実朝を支えていこうと考えていたのです。

ところが、1219年1月27日、将軍・実朝が右大臣の位を授かり、鶴岡八幡宮で行われた祝賀の儀でのこと・・・
一千騎もの護衛をつけ、将軍・実朝は鶴岡八幡宮へとかいました。
そして午後8時・・・無事に儀式は終了。
本殿から出てきた実朝が石段を下りていきました。
すると・・・突如飛び出して来た一人の男に斬り殺されてしまったのです。
この時、実朝はまだ28歳・・・
護衛の武士が駆けつけたときには、すでに犯人は実朝の首を持ち去っていたといいます。
その犯人とは、鶴岡八幡宮を統括する別当の公暁・・・
2代将軍頼家の子で、実朝の甥にあたる人物でした。
父・頼家から将軍の座を奪った実朝を逆恨みし、一人犯行に及んだといわれていますが、その裏には公暁を操った黒幕が・・・??
最も怪しいとされるのが、義時です。
一体どうして・・・??

実朝は、将軍としての自らの権威付けとして朝廷から高い官位をもらい続けていました。
さらに、将軍就任の翌年・・・1204年には、坊門家から正室を娶っています。
坊門家は、朝廷で実権を握っていた後鳥羽上皇の母親の血筋です。
実朝は、上皇と姻戚関係を結んだことになります。
そして、上皇と共通の趣味である和歌で関係を深めていきました。
そんな中、1216年、将軍・実朝は、義時のいる政所の改革に乗り出します。
政所の別当を、5人から9人に増やし、後鳥羽上皇の近臣など朝廷寄りの者たちを置くことで、北条氏を含めた御家人の力を弱めようとしたのです。
義時は、そんな行動を起こす実朝に危機感を覚え、暗殺を企てたのでは・・・というのですが・・・??
しかし、頼朝と政子の子である実朝は、北条氏にとって最大の権力基盤でした。
それを義時が暗殺するとは考えにくいと思われます。

将軍・実朝には跡継ぎがいませんでした。
そこで幕府は、次の将軍候補探しに焦ります。
目をつけたのは後鳥羽上皇の皇子・・・4代将軍になってもらいたいと朝廷に願い出ます。
というのも、実朝が亡くなる前の年、上洛した政子が後鳥羽上皇の乳母と将軍後継問題について話し合っていました。
その会談で、万が一源氏の血が途絶えた場合には、上皇の皇子を鎌倉幕府将軍にするという密約を交わしていました。
そのため、事は円滑に進むと思っていました。
ところが、後鳥羽上皇が皇子を送ることを先送りに・・・
幕府と朝廷の間に大きな緊張が走ります。
そして遂には・・・承久の乱勃発!!

鎌倉幕府2代執権北条義時と姉の政子が実権を握る鎌倉幕府は、3代将軍実朝の暗殺を受けて後鳥羽上皇の皇子を次の将軍にしてもらえるよう朝廷に願い出ます。
しかし、その話は上皇の判断で先送りに・・・さらに上皇は、焦る幕府の弱みに付け込んで、寵愛していた白拍子が持つ所領を管理する地頭を罷免するように院宣を出します。
地頭の罷免は、幕府の権威を揺るがす重大事件・・・

「頼朝公が恩賞として出された地頭をたいした罪もないのに解任などできぬ・・・」

後鳥羽上皇の要求を突っぱね、御家人を守る態度を見せます。
そして一千騎の兵を上洛させてこの回答を上皇に伝え、皇子を次の将軍にできないのなら他の子を出すように求めます。
後鳥羽上皇は、摂政関白の子であれば・・・と、義時の要求に応えました。
こうして頼朝のト遠縁に当たる摂関家・九条家から将軍を出すことが決定しました。
まだ2歳の三寅(九条頼経)が4代将軍となります。
その後見人となった政子は、尼将軍と呼ばれるようになりました。
幕府と朝廷の関係が良くなるだろうと思っていました。

1221年5月14日、後鳥羽上皇が幕府に対して兵をあげます。
承久の乱の始まりでした。
後鳥羽上皇は、諸国の守護・地頭に対して宣旨を出しました。

”鎌倉幕府執権・北条義時追討”

上皇が、義時一人を名指しして追討を命じたのです。
後鳥羽上皇は、自分に抵抗した義時がいる限り、武士たちを従わせることができないと考えたのです。
天皇の名によって出すことによって、義時派と反義時派に対立して
潰し合うことを狙っていました。
義時追討の宣旨は、鎌倉にも届きました。

追討の宣旨に怯える義時・・・その宣旨に鎌倉中が動揺します。
御家人たちが次々と集まってきました。
そんな御家人たちの前に義時の姉・政子が現れて語り始めました。

「みな、心を一つにして聞きなさい
 これが最後の言葉です
 頼朝殿の恩は、山よりも高く海よりも深い
 三代にわたる源氏将軍の恩顧に報いるべきです」

この政子の演説が、武士たちを鼓舞し、朝廷との戦いを決断させました。
そしてその日のうちに軍議が開かれました。
大きな見方を得た義時は奮い立ちます。
義時は、19万の幕府軍を派遣すると、上皇軍を見事蹴散らしたのです。
承久の乱の後、義時は乱に加担した公家や御家人を次々と処刑・・・
首謀者であった後鳥羽上皇まで隠岐に流してしまいました。
反乱の中心人物である、後鳥羽上皇に京都にいてもらうわけにはいかないと義時は考えたのです。
怨霊になるかもしれない・・・それを覚悟して行ったのです。

後鳥羽上皇側に勝ったことで、幕府の支配権は西国にまで及びました。
義時は東国から全国の統治者へとなったのです。
その後も、幕府の執権として政務に励みましたが、承久の乱から3年後の6月・・・
突然病に倒れ亡くなるのです。
1224年6月13日、62歳でした。

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