2019年10月31日未明・・・日本中に衝撃が走りました。
沖縄・首里城の正殿から火災が発生・・・火は瞬く間に燃え広がりました。
首里城は必ずよみがえる・・・なぜなら、この城は太平洋戦争の戦火にあってもなお、逞しく蘇ったのだから・・・!!

誰もが目を疑ったその火災・・・正殿をはじめとする主要な建物が全焼し、貴重な絵画や工芸品も焼き尽くされました。
沖縄を愛する全ての人にとって、つらく、悲しい事故でした。
しかし、首里城が焼けたのは、これが初めてではありません。
過去にも4度、大火災に見舞われ、そのたびに不死鳥のようによみがえってきました。
14世紀に創建されたと言われる首里城は、15世紀、17世紀、18世紀と、火災に見舞われてきました。

4度目は、太平洋戦争末期の沖縄戦・・・首里城は、アメリカ軍の集中砲火に見舞われました。
城の地下に、日本軍の司令部が置かれていたためでした。
廃墟と化した首里城・・・その再建は、ほとんど不可能と考えられました。
城の情報も、何もかもが失われてしまったからです。
しかし、人々はこの困難を乗り越えました。
志を一つにして、力を合わせました。
そして、戦火から47年後の1992年・・・ついに、首里城は蘇ったのです。
人々はどのように首里城を復元することができたのでしょうか??
困難を乗り越えることができたのでしょうか??
それが、今回の再建の糧となるに違いない・・・!!

敗戦から47年もの間、失われていた首里城・・・元通りに再建することはとても不可能と考えられていました。
何故なら、建物の構造や色など、基礎となる情報が残っていなかったのです。

①歴史家・高良倉吉
彼に与えられたミッションは、再建に必要な資料を日本から探し出し、幻の城の設計図を作り上げることでした。
古の首里城の姿を、追って、追って、追い続けたのです。
琉球史研究の第一人者・高良倉吉・・・平成の首里城復元プロジェクトに当初からかかわりました。

「この島の歴史的な特徴をアピールできる最も偉大な存在です」by高良

しかし、首里城は跡形もなくなくなっていました。
どんな城だったのかを知るには、資料に頼るほかない・・・それを零から探し出すことが、高良のミッションでした。

「首里城を復元するって、具体的にどんな資料があるんだろう・・・
 ハリボテというか、オープンセット風のものしかできないんじゃないか
 それを乗り越えるような知識が全くありませんでした」by高良

首里城の真の姿とは・・・??

戦後、アメリカに統治された沖縄・・・首里城の廃墟には、それを覆い隠すような形で琉球大学が建設されました。
大学の建物が蓋をしている限り、復元は不可能だ・・・
しかし・・・1972年、沖縄返還!!
その5年後、大学の移転が決まり、蓋が取れました。
これで、やっと城の再建が可能になりました。
1984年、沖縄県はついに「首里城公園基本計画」策定。
しかし、いきなり難題にぶつかります。
そもそも首里城がどんな城だったのか??誰にも分からなかったのです。
沖縄戦で、消失した首里城は、本来の姿ではありませんでした。
明治政府による琉球処分により、琉球王国が滅びて以来首里城はもはや城ではなくなっていたのです。
日本軍の施設にされたり、女学校の校舎にされたりした挙句、太平洋戦争前には神社に変えられていました。
復元すべきは、そんな変わり果てた首里城ではなく、誰も見たことのない琉球王国時代の首里城だったのです。

「王国だった頃の首里城を目指そう!!」by高良

現役だった頃の首里城・・・それは一体どんな城だったのか・・・??
正殿の前にある御庭(ウナー)は、中国の皇帝の使節たちを迎えて外交イベントをしたり、様々な祈りも・・・琉球最高の芸能がそこで演じられる・・・琉球最高の劇場でもありました。
しかし、王国時代の首里城の資料は、沖縄戦の戦火によってほとんどが失われていました。
構造も、色も、装飾も、技法も、資材も・・・何一つわかりませんでした。
首里城は、幻の城でした。
高良はその幻を取り戻すため、ありとあらゆる可能性を探し求めます。
東京・文化庁で一つの資料が見つかります。
神社だった時代の資料・・・拝殿図です。
戦前に行われた昭和の大修理の記録です。

正殿の平面図、立面図、建築的にしっかりしたものでした。
正殿を支えている柱のサイズが具体的に議論できました。
屋根の勾配も・・・!!
しかし、大きな問題がありました。
”がらんどうの正殿”だったのです。
1階と2回に部屋がいくつかあったはずなのに・・・それが表現されていませんでした。
そして、その玉座も表現されていない・・・!!
けれども、首里城正殿の大まかな構造がわかったことは収穫でした。

その突破口は・・・沖縄文化の研究家・鎌倉芳太郎の遺品の中に資料がある・・・??
お鎌倉の遺品が保管されていた沖縄県立芸術大学・・・その書庫で、梱包された状態で見つかりました。
風呂敷包みを開いてみると・・・古文書・寸法記が見つかりました。
それこそが、琉球王国時代の首里城正殿の改修記録でした。
まるで王国時代の首里城正殿にタイムスリップしたかのような情報でした。

拝殿図で抜け落ちていた玉座・御差床の位置など、内部構造が描かれていました。
それだけでなく、朱色・・・黒・・・黄色・・・琉球王国時代の首里城は、色鮮やかな城でした。
寸法記の発見で、プロジェクトは大きく前進します。
しかし、高良にはどうしても手に入れたい資料がもう一つありました。
琉球王国最後の王・尚泰・・・琉球処分のあと、明治政府によって東京に移住させられていました。
高良は、尚家代々の秘宝の中に、首里城に関する古文書があるのではないかと考えました。
しかしそれは、一つ地縄ではいかないミッションでした。
尚家の古文書は、これまで一切一般公開されたことのない門外不出の資料でした。
それを管理していたのは、尚泰のひ孫・尚裕でした。
尚裕さんに会いたい・・・しかし王家の末裔・・・どうすればいいのか??

高良たちが通う喫茶店のマスター・徳永盛保さんが、尚裕さんと仲が良かったのです。
徳永は、早速尚に連絡・・・尚は、面会を承諾しました。
高良は東京へ出向き、指定された銀座の会員制クラブで尚裕と会いました。
しかし、この日はまだ、古文書のことは切り出しませんでした。
高良は尚に、首里城復元プロジェクトの進捗状況を伝えます。
その後、沖縄で改めて会った時、高良は初めて本題に入りました。

「資料を観ずに復元は・・・琉球の歴史をずっと伝えてきた先人たちの努力や思いに反することになる!!と、より完全を期すために、尚さんの資料が必要です」by高良

2か月後・・・喫茶店のマスター・徳永から、桐の箱が届けられました。
その中身は、4冊の古文書・・・”普請日記”その複写資料でした。
王国時代の首里城改修の記録でした。
現場状況が詳細にわかる・・・!!
人が、資材が、みえる・・・!!

特に高良が驚いたのが・・・回摺奉行と書かれていたこと・・・これは、琉球漆器などに関わる職人たちを束ねる役職です。
琉球漆器と城の意外な組み合わせ・・・高良は、日本の城とは違う首里城の本質を見抜きました。
漆器職人・・・その技術をベースにして、建物の塗装工事に生かしたのです。
首里城正殿は、巨大な琉球漆器でした。

その後、尚裕は大きな決断をします。
尚家が代々管理をしてきた古文書などの宝物を、すべて那覇市に寄贈したのです。
それらは、沖縄県における戦後初の国宝に指定されました。

「きちんと復元されるということは、尚本家にとっても非常に誇りであり、沖縄の宝であり、国の宝にもなっていく・・・」by尚裕

拝殿図、寸法記、普請日記・・・パズルのピースは、遂に埋まりました。
幻に過ぎなかった城は、現実に姿を現そうとしていました。
資料探しと並行して、首里城跡で発掘調査が行われました。
遺構がしっかりと残っていました。
失われた首里城正殿の石組みが丸々出てきました。
首里城の跡を傷つけないように土をのせて大学本部を作っていたのです。
やがて調査されるかもしれなし、復元されるかもしれない・・・
未来に遺構を送り届けてくれていました。

必要な木材は・・・直径40センチ、高さ8メートルの垂直にまっすぐ伸びた柱・・・
これが、正殿だけでも100本以上必要でした。
木材調達の使命を担ったのは・・・

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②首里城設計総括者・中本清
日本中で巨木を探し続けた中本は、最後に意外なところから調達に成功します。
建築設計会社の社員だった中本が、この仕事を任されたのには理由がありました。
以前、中本は沖縄の昔の民家を再現した郷土村を設計・・・その経験が買われたのです。
中本には、父の代から続く首里城との縁がありました。
中本の父は、戦後、琉球大学建設に携わっていました。

「大学の本館を作る時、地面をならしたけど、だけど首里城の基盤のところは土をかけて壊さなかったよ」by父

そこにお城があったってことがまぎれもない事実・・・
あの時、古の首里城の遺構を守った一人が、中本の父親でした。

中本のミッションは、首里城の骨格となる木材調達でした。
沖縄の地場で取れる材木で、チャーギ(イヌマキ)、オキナワウラジロガシ・・・この二つです。
しかし、戦後、家を失った住民たちのために、簡易住宅が7万戸以上建てられたため、イヌマキなどを含む木が、県内などで伐採されていました。
沖縄での調達は不可能・・・いっそ、鉄筋コンクリートにしてはどうか??

中本は、日本中で使えそうな木材を探します。
しかし、全国の山林を調査したものの、気候に合わない、数がそろわないなど、条件を満たすものはありませんでした。
戦前の改修工事の資料の中に、意外な記述がありました。
そこには”台湾檜”・・・!!
この時も、沖縄の木材では足りず、一部に台湾産のヒノキが使われていました。
これが活路を見出します。
気候風土からすると、やはり台湾だろう・・・!!
1986年1月・・・中本は、台湾へ飛びます。
訪れたのは、台湾檜の産地・台湾北部の宜蘭県です。
中本たちが車で向かったのは、標高およそ2000mの太平山です。
険しい山道を進みながら、遂にたどり着きます。
巨大な台湾檜・・・!!

樹齢数百年クラスの大木が、林立していました。
しかし、中本のそんな喜びは、交渉で一気にかき消されます。
「もう切れないよ」「ダメかもしれないよ」と言われてしまったのです。
台湾檜もまた戦後の復興期に大量に切り出されたために、伐採制限がかかっていたのです。
中本たちのピンチを見て、案内をしていた陳燈財は立ち上がり、こう言いました。

「首里城を作るんだったら、俺たちは琉球のために一生懸命やるんだ
 お隣同士じゃないか、兄弟みたいなもんじゃないか・・・!!」

陳が育ったのは、日本の統治時代・・・陳は、中本たちを励ましました。

「私も大和魂で頑張るから・・・!!」と。

大和魂は信用を守ることだ・・・!!
木材の調達を一任された陳・・・新たに切り出すことを諦め、伐採済みの台湾檜に切り替えます。
その為には、台湾全土の会社を一軒一軒回って探す必要がありました。
中本の台湾視察から1年後・・・陳親子は、台湾檜およそ350トン分を中本たちのもとへ届けました。
1989年11月、平成の幕開けと共に首里城の再建が始まりました。
沖縄と台湾の絆がもたらした台湾檜は、着々と組み上げられていきました。

③漆芸家と妻・前田孝允、栄
2人は、琉球王国の威風を再現するために、身も心も捧げました。

首里城の近くに住む前田栄・・・
去年のあの日、栄は自宅からの避難を余儀なくされました。

「火の粉がもう・・・空一杯広がってましたよ」

火災の日、夫の前田孝允は、手のケガで入院していました。

前田孝允の火災直後の言葉・・・

「何もかも無くなったが、また新しくやり直そう
 前向きに考えるとやる気が出る」

だが、その思いもむなしく2020年1月14日、逝去・・・享年83歳でした。

平成の首里城復元プロジェクトでは、4つの専門部会(木造部会・彫刻部会・瓦類部会・彩色部会)が設置され、より細かい調査が進められていきました。
前田孝允は、彩色部会のメンバーの一人に選ばれました。
琉球漆器の第一人者・・・孝允の知識と技が必要とされたのです。

「貝摺奉行時代の作品・技法といいますか、そういったものを復元しようと思ってね
 これからも、琉球文化を象徴するものとして、この漆器というものを作っていかなくてはいけない」by孝允

孝允と栄が出会ったのは、伝統工芸の講習会でした。
首里城の復元が始まった後、孝允から栄に声を掛けました。

「一緒に首里城を作りませんか」

これが、プロポーズでしたが・・・

孝允の仕事は、栄の想像を超えていました。
それは、王の威風を取り戻すための真剣勝負でした。

高良倉吉が見つけた寸法記によって、玉座の間の様子はおおむねわかっていました。
王の威風を最も表現している御差床と呼ばれる玉座・・・
孝允は、その玉座の脇に立つ柱に注目しました。
柱の色は朱・・・そして模様は、金龍五色之雲とありました。
正殿正面の柱にも、同じ文字・・・柱の模様は一緒だと推測されました。
しかし、絵は簡素なもの・・・しかも線画・・・五色の色はわかりませんでした。

手掛かりはほとんどない・・・高良倉吉から、博物館である遺物を発見したと報告がありました。
それは、龍透彫仏間引戸・・・一枚の扉でした。
かつて琉球王家の菩提寺だった円覚寺にあったものです。
非常に素晴らしいもので、そこにあったのは空を舞う金色の龍・・・雲には、黄・緑・朱・白・青!!
まさに、金龍五色之雲でした。
まさに”琉球王家の美意識”、首里城正殿もこのような表情をしたものであったのではないか??

「この五色は古代仏教やチベットあたりでは今でも使われている
 青は空、緑は水、朱は火、白は雲を、黄は大地を意味し、五色で全宇宙を表現しているのです」by孝允

あとは、龍のデザイン・・・孝允の創造性が試されます。
孝允は、古今東西、様々な龍を研究します。
首里城に相応しいイメージを探し求めました。
そして下絵に着手しました。
本当に自分で描いているのか??何かに描かされているような感じでした。
孝允が下絵を描き、栄が清書します。
やがて下絵が完成します。
五色の雲が浮かぶ天空を、龍が舞い昇る・・・!!
そして龍の顔は・・・優しくて可愛い・・・!!

前田孝允自身は、
「僕の書いた龍は優しいと言われます
 でも”僕の龍”ではなく”琉球の龍”が優しいのです
 戦を好まない、琉球の人たちの気持ちが伝わるのでしょう
 その優しい龍に守られていると、心が安らぐのです」と言っています。

孝允による金龍五色のデザインが完成しました。

その後、孝允のアトリエに玉座の間の模型が運び込まれました。
実際に色を塗り、雰囲気を確かめるためです。
1989年3月27日、着色模型完成。

首里城の工事が着々と進みます。
そしてようやく、玉座の間での作業の日が来ました。
初めて柱に龍の絵を巻き付けたとき・・・躍動感がありました。
前田夫婦は、城のお披露目2日前まで玉座の間で作業を進めていました。

1992年11月2日・・・
幻だった首里城が、沖縄返還20周年の年に蘇りました。
戦争による消失から47年目の奇跡でした。
一般公開が始まると、初日に訪れた人は4万7000人に上りました。
それは、琉球王国の時代へのタイムトリップでした。
御庭という広場を前に、ひときわ鮮やかな首里城正殿・・・!!
琉球文化独特の装飾、そして色合い・・・!!

海を渡り、台湾から贈られた檜がこの堂々たる威容を作り上げました。正殿内部の玉座の間・・・かつて王たちが儀式を行った神聖な場・・・その空間を支える金龍五色之雲の柱・・・優しい龍の顔には、平和への願いがこめられました。
首里城債権の悲願は、遂にかなったのです。

多くの人々の身を削る努力の末に、古の姿がよみがえりました。
2000年ユネスコ世界遺産登録・・・!!
ところが、2019年10月・・・突如として首里城が燃え落ちたのです。
人々は、再び深い悲しみに打ちひしがれました。
しかし、再建への動きはすぐに始まりました。
平成の復元で培った知識と経験、なにより沖縄の誇り、首里城への変わらぬ思いが背中を押してくれるはずです。
令和の首里城復元は、力強く歩みを進めようとしています。
日本中、世界中が心を痛めた首里城の悲劇・・・しかし・・・!!
沖縄は、すぐに動き始めました。
自分たちの心のよりどころを取り戻そう!!
12月27日、第1階首里城復元に向けた技術検討委員会が開かれました。
委員長には高良倉吉が選ばれました。
現在では、”見せる復興”と題し、令和の復元工事を一般公開しています。
戦後の人々が守った王国時代の遺構も見ることができます。

令和の首里城復元完了は、2026年を目指しています。
琉球の魂は、決して失われない・・・!!

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