聖武天皇と仏都平城京 (天皇の歴史)

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今も広く慕われている古都・奈良・・・
この奈良を、仏都としたのが聖武天皇です。

天皇の最大の謎は・・・
即位から16年後、平城京を飛び出して・・・遷都をしようとしたのです。
そこから3つの都をさまよい続けます。
どうしてこのようなことをしたのでしょうか??
最近の発掘から想像されます。

奈良時代の政治の中枢は平城宮・・・ある法則によって作られていました。
注目したのは、大極殿に上がるために作られたスロープでした。
高御蔵を中心とした3つの同心円と、後殿を中心とする1つの円・・・
この4つの円を中心に長さ、角度が決められていました。

これは、キトラ古墳の石室の天井に書かれていました。
星の運行を示す3つの円と太陽の円・・・同心円の中心には北極星・・・天の北極を表していました。
天皇を中心として秩序ある国家を作ろうとしたのです。
地上を支配する為政者・・・万物の中心・・・724年この場所で即位したのは聖武天皇でした。

当時、日本が目標としたのは、唐の都・長安でした。
唐の皇帝のような絶対的権力を・・・!!
律令を制定し、大極殿を中心に・・・唐の長安をモデルに平城京を築こうとした聖武天皇。。。

しかし、それを許さない勢力がいました。
その代表が長屋王でした。
長屋王は、皇位継承第一位だったといっても過言ではない人物で、平城京内に広大な屋敷を構え、天皇に並ぶほどの経済力を持っていました。
大きな発言力も持っていました。

一方聖武天皇は、身内にも配慮しなければならない状態にありました。
母・宮子と妻・光明皇后は、藤原氏発展の礎を築いた藤原不比等。
藤原氏のごり押しによって擁立された聖武天皇は、その意向をないがしろにすることはできませんでした。
さらに問題は役人たちにも・・・
勤務評価を見てみると・・・役人515人のうち、平城京を本貫(出身地)とする者は115人・・・1/5でした。
他の者は・・・平城京の外で独自の私有地を持って、支配していたのです。
私地・私民をもって、中央政府の言うことを聞かない存在・・・
軍隊も、彼らの私兵に頼らなければならない存在でした。
天皇によるリーダーシップがなかなか取れない状況だったのです。

追い打ちをかける様に・・・
天然痘の大流行!!
九州の大宰府で発生した天然痘は、735年から2年間日本全国で猛威を振るいます。
この災難を自らの責任と受け止める聖武天皇。。。
天然痘は貴族をも襲い・・・藤原四兄弟が死去。。。
そして・・・天地の災異が続くのは、政治が悪いからである・・・
740年9月、有力貴族・藤原広嗣が大宰府で蜂起!!
聖武天皇は即位以来最大の危機に・・・!!

10月・・・藤原広嗣と討伐軍が戦いを繰り広げている中・・・
聖武天皇は大胆な行動にでます。

”朕 思うところにより しばらく関東へと赴くやむを得ぬ事情がある”

多くの臣下とともに平城京を飛び出した聖武天皇・・・
向ったのは・・・反乱が鎮圧された後も東国を行幸、2か月後・・・平城京の10キロ北で立ち止まり、恭仁京の造営を宣言しました。
これまでこの天皇の行動は、天然痘や反乱からの逃亡とされてきましたが、近年行われた発掘によると。。。

恭仁京から天皇が滞在していた場所から、床面積250㎡の巨大な宮殿跡が見つかったのです。
調査によると、反乱がおこる前から造営されていたようで・・・
恭仁京への遷都は、以前から計画されていたようだったのです。

”平城京に居るものは、すぐに恭仁京へ出発せよ
 その他の血に居る者も、急ぎ追うようにせよ”

聖武天皇は、貴族たちを本貫から引き離し、新都への移住によって支配を強化しようとしたのです。

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新都・恭仁京・・・それまでの都とは違っていました。
京の中央を木津川が流れていました。
平城京は、近くに川が無く、物資を陸路で運搬していました。


その為、増えつつあった人口を支えきれなくなっていたのです。
流通の便を図ろうとしたのです。





さらに・・・難波京や紫香楽宮を建設・・・。
難波京は外交貿易の拠点、紫香楽には巨大な廬舎那仏を建て仏都に・・・
”三宝(仏法僧)の威力 霊力によって動植物栄えんことを望む”
仏教の力で国を治める鎮護国家で、天災や政治不安に対応しようとしたのでした。

これは唐をまねたものです。
恭仁京は洛陽を参考に作られ、紫香楽宮は龍門石窟の影響を受けました。

着々と新しい都が造営され・・・廬舎那仏も出来てきましたが・・・
複数の都の問題が、火種となりました。
何処を首都にする・・・??

744年2月・・・大仏建立の陣頭指揮のために聖武天皇は紫香楽宮へ・・・。
ここに首都を移すというと・・・意見の相違が出てきました。
先の天皇は・・・難波京を宣言、一方貴族たちは、恭仁京派と難波京派が拮抗。。。

さらに745年4月、聖武天皇に試練が・・・
紫香楽宮で、反対派による放火とみられる火事が頻発し・・・
ついに、平城京に戻ろうという声が貴族たちから起こるのでした。


平城京に戻る・・・??
この頃・・・大仏建立のために、恭仁京の建設は途中でストップしていました。
反対に加え、財政の圧迫・・・

あくまで三都維持・・・??
日本が唐と並ぶためには必要だ!!
我が権力を絶対的なものにする為に・・・!!

マグニチュード7.9の大地震が・・・美濃国から近畿一円にかけて被害が・・・!!
この地震を天の意志とし・・・平城京に戻ることを選択します。
5月5日、紫香楽宮を出発し・・・民衆は万歳の声をあげて喜びました。

三都造営の挫折・・・この挫折で学び・・・
仏都構想は平城京で行われることになりました。
大仏が作られ始めたのです。

宮城県にある金華山・・・この地で日本で初めて金が算出!!
聖武天皇は歓喜し、大仏作りは順調に進んでいきます。
752年・・・仏教伝来から200年、大仏の開眼法要が盛大に行われました。
1万人の僧侶が見守る中・・・大仏に命が吹きこまれたのです。

しかし・・・三都造営の目的はなんだったのか??
それは、都市民の増加によって食糧の調達をどうするのかということだったはず・・・。
飢饉、物価の高騰・・・聖武天皇の死から30年後・・・
784年桓武天皇によって、平城京から長岡京へと移されるのです。

長岡は大きな河川が集まる土地でした。
平城京は70年余りで政治の役割を終えたのでした。
しかし・・・その後も鎮護国家の理想は生き続けます。

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