日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:長尾為景

1530年1月21日、雪深き越後国に一人の男の子が生まれました。
やがて若武者へと成長した子は、龍の如く戦国の世を駆け抜けていきます。
人々は、その生きざまを”越後の龍”と称しました。
そう・・・上杉謙信です。
自らを毘沙門天の化身と名乗り、仏教に深く帰依していた上杉謙信・・・
そんな幻覚で真面目な謙信が目指したのは、騒乱の終息と、秩序の回復でした。
義の武将、軍神として人気の上杉謙信が悩み、挑み続けた若かりし日々とは・・・??



謙信の姓は・・・上杉??
上杉は、後に次いだ家の名・・・元々の名前は長尾です。
上杉家と長尾家の関係は、上杉・守護と、長尾・守護代です。
守護は、室町幕府のもと領国を治める行政官のことで、国の主です。
守護代は、守護の補佐役です。
京都にいることが多かった守護に変わって、それぞれの領国の国人領主たち(国衆)を、現地で束ねていたのです。

鬼若殿、寺に入れられる
謙信は、越後国の南西部にあった長尾家の居城・春日山城で、越後守護代・長尾為景と虎御前との間に生れました。
幼名は虎千代・・・謙信は、後に出家した法名です。
謙信の父・為景は、戦に臨むこと100回以上、冷徹無比なその戦い方から、戦の鬼と呼ばれていました。
下剋上を果たし、越後の国をわがものにしたいと思っていた為景は、武力によって主君である越後守護の上杉房能を自害に追い込むと、房能の養子・忠実を名ばかりの守護につけ、実質上支配してしまいます。
そんな戦の鬼の血を引く謙信は、幼いころから腕白でした。
チャンバラ争いをしては相手を泣かせる毎日・・・
そんな謙信についたあだ名は、鬼若殿!!
ただし、負かす相手は年上ばかり。
年下や弱い者には決して手を出しませんでした。
その理由は・・・観音菩薩を熱心に侵攻していた母に弱い者いじめをしない思いやりのある子に育てられていました。
そんな中、父・為景は戦に明け暮れていました。
為景の、無慈悲で強引なやり方に、国人領主たちが反発し、度々蜂起していたからです。
その中心となったのが、越後守護の上杉定実の実家・上条家でした。
上条家は、打倒・長尾為景を掲げ挙兵・・・上条の乱です。
そんな戦のさ中、1536年5月・・・
7歳になっていた謙信は、父・為景から突然命じられます。

「お前は寺に入れ!!」と。

謙信は、春日山城下にあった長尾家の菩提寺・林泉寺に入れられたのです。
謙信には、18ほど年の離れた母違いの兄・晴景がいました。
長尾家の家督は、嫡男である晴景が継と決まっていたからです。
武家において家督争いを防ぐために、嫡男以外の男子を出家させることは通例で、それに従い、父・為景は、謙信を寺に入れたのです。

ただし・・・それは表向きの理由でした。
一説には、気質が合わず嫌って寺に入れた??
が、これは後世に作り話だと思われます。
実際は・・・上条の乱でほとんどが反・為景派となりました。
越後中の領主が、春日山城に迫ろうという勢いでした。
謙信が危険に晒されないように、林泉寺に避難させたというのが妥当です。
兄・晴景は病弱で、軍隊を指揮することが期待できませんでした。
父・為景は、謙信を兄・晴景の陣代として線状に赴く大将に育成したいと考えていました。
兄・晴景に万が一のことがあった時のために、謙信の命を守る必要があったのです。



その後、父は不利な状況を覆し、上条の乱を鎮めます。
1536年8月、為景は、勝利に安堵したのか、長尾家の家督を謙信の兄・晴景に譲ります。
一方、いやいや寺に入れられた謙信は、そこで障害の師と出会います。
曹洞宗の僧侶で林泉寺の住職・天室光育です。
謙信は、天室和尚から、仏の教えだけでなく、陣代となるべく兵法も学んでいきました。
厳しい修行の中、謙信が何より楽しみにしていたのが城攻め遊びでした。
それは、一間以上ある城の模型を使い、兵士に見立てた駒や引きを配置するシミュレーションゲームのようなものでした。
上杉家歴代当主の誕生から葬儀までを記した”上杉家御年譜”によると、謙信の城攻め遊びの才は、見事だったようで・・・

「虎千代さまは、軍配に優れ、尋常の人ではない
 将来、家運を開く器である」

それを聞いた父や兄は、大いに喜んだといいます。
ただ、腕白ぶりは相変らずで・・・
ある日、寺の本堂で兄弟子たちと大喧嘩・・・たまりかねた和尚が、

「本堂でけんかをする者は柱に縛り付けるぞ」

そう叱り飛ばすと、兄弟子の一人が、

「虎千代さまが乱暴者で悪いのです」

と、謙信のせいにします。
すると謙信は・・・

「和尚様、私が兄弟子と相撲を取り始めると、もう一人の兄弟子が後ろから組み付いてきたのです
 相撲は1対1でやるもの・・・
 それを2人がかりで来るのは卑怯なふるまいと思い、懲らしめていたのです」

間違った行いを許せない謙信に感心した和尚・・・
そんな和尚が、謙信に常々教えていたのは、”兄を侮って家を乱す企みをせぬこと”でした。
その為、儒教を中心とする教育・・・四書五経などで、忠誠心・道徳心の強化が図られました。
あくまでも謙信は兄・晴景の陣代として教育されたのです。
物事の道理を守る筋目と、道理に外れたことをしない非分・・・
謙信が将来貫くこととなる義の心は、天室和尚によって培われたのです。
時は過ぎ、謙信が寺に入って6年・・・運命が大きく動きます。



戦の鬼・父・為景も、病には勝てず、この世を去りました。
謙信は、急いで春日山城に向かいましたが、城内は大混乱に陥っていました。
為景による支配に反感を持っていた越後の国人領主たちが、為景の死を知り・・・好機と見、春日山城下に迫ってきていました。
その為、敵の攻撃に備え、鎧をつける謙信・・・
まるで出陣前の緊張感の中、執り行われた父の葬儀。

「仏門にいる私に、今、何が出来ようか・・・」

戦にも出られない自分に、ただただ腹立たしく思う謙信・・・この時、13歳でした。
1543年、謙信は、兄の命を受け、長尾家の居城・春日山城に戻ります。
そこで、14歳の謙信は元服し、名を景虎と改めました。

謙信の父・為景が亡くなった越後国は大混乱!!
戦の鬼と恐れられた為景と違い、当主となった晴景は病弱で、国をまとめる力がないと侮られ、長尾家を倒すのは今しかないと、亡き為景に反感を抱いていた国人領主たちが各地で蜂起したからです。
中でも当主・晴景を悩ませたのが、一族である長尾平六でした。
平六は古志郡で挙兵、反目していた為景に父親を殺されたことを恨んでのことでした。

1543年、兵六方の攻撃が激しさを増す中、晴景は古志郡で平六方と戦う晴景方の栃尾城主・本庄実乃にこんな書状を送ります。

”病気も治ったので、安心してほしい
 景虎を援軍に送るから、勝利は眼前であろう”

晴景は、寺から呼び戻し、景虎を名を改めさせた弟・謙信を、反乱鎮圧の切り札として送ったのです。
こうして、晴景の陣代となった謙信は、

「兄上に代わって逆賊を討ってみせる!!」

力強く、家臣たちの前で宣言・・・謙信、この時14歳でした。
初陣と言われる栃尾城の戦いの始まりでした。

謙信・・・初めての戦
1543年10月、長尾平六の反乱を鎮圧すべく、援軍として栃尾城に入った謙信に対し、平六は・・・
若い謙信を子バカにして、まるで猫がネズミをいたぶるように栃尾城攻めを繰り返します。
それでも、謙信は動揺を見せませんでした。
謙信たちが籠った栃尾城の守りは固く、平六方の猛攻にも耐え、膠着状態に・・・
1544年1月23日・・・謙信方の軍勢が城を出て、平六方の軍勢に近づいたのです。
これに対し、平六方は激しい攻撃を仕掛けますが・・・謙信は、はやる将兵を戒めます。
しかし、平六方の猛攻は止まず・・・家臣たちは、謙信に突撃の許可を求めます。
すると謙信は・・・

「汝ら老巧の勇士たりと言えども、戦術に練達せず
 今は、兵を出すべき時節にあらず
 しばし、敵勢を耐えよ」

この謙信の命令に対し、

「聡明を謳われて世に出たものの、結局は若造だ
 臆病なことよ」

そう陰口をたたく者もいました。
しかし、謙信には秘策がありました。
平六方が目の前の攻撃に集中している隙をつき、謙信は自らの軍勢を二つに分け、片方の軍勢を平六方の背後に回したのです。
陣形が整うと、謙信は・・・

「かかれ!!」

背後から平六方に奇襲をかけたのです。
これに驚いた平六方は、混乱状態に・・・
すると謙信は、追い打ちをかけるように正面からも猛攻撃をかけ、平六方を制圧!!
総大将の長尾平六をはじめ、多くの敵将を討ち取りました。
指揮官として並外れた才能を見せた謙信・・・見事初陣を飾ったのです。

その後も各地で謀反が起こり、その度に謙信が晴景に代わって鎮圧に・・・
その武功を聞いた越後各地の領主たちの謙信に対する期待が高まります。
そして、謙信の兄・晴景に不満を抱く一部の領主たちが、晴景に退陣を求めるようになります。
中には、謙信を擁立し、越後を一つにまとめようと画策する者たちも現れました。

謙信、守護代になる
15歳で初陣を飾った長尾景虎・・・後の上杉謙信は、病弱だった兄・晴景の陣代としてその後も出陣し、次々と勝利・・・
指揮官としての才を発揮していきます。

「景虎さまは負け知らずじゃ!!」
「まるで毘沙門天の化身じゃのう!!」

謙信は、戦いの神・毘沙門天に例えられるなど、日増しに家臣たちの人望を集めて行きました。
それに伴い、謙信が守護代になることを望む機運が高まっていきます。

相模の北条氏康が関東制覇に向けて快進撃を・・・武田晴信は信濃攻略を進めていました。
その二つの勢力が、越後に迫る可能性がありました。
これに対抗するためには、病弱な兄・晴景では心もとない・・・
晴景に代わって将来有望な景虎に守護代になってもらいたいと周囲が望むのは当然の成り行きでした。
そんな中、謙信の軍記物などによれば・・・
越後守護代・晴景の陣代として活躍する謙信のことを苦々しく思っていた人物がいました。
誰あろう謙信に陣代を任せていた本人・・・兄・晴景です。
さらに、謙信を守護代にしようと目論む勢力が、謙信に晴景との戦いを持ち掛けたといいます。
それを知った兄・晴景は、先手を打つことに・・・
謙信がいた栃尾城に兵を送り、城を包囲したのです。
兄から攻められることとなった謙信は、

「兄上の兵は必ず今宵引き返す
 故に、日が沈むのを待って打って出る!
 それに備えよ!

 よく見て見よ、小荷駄を連れておらぬであろう
 腰兵糧だけでは、行き帰りの行軍が、精一杯だからな」

その読みは的中!!
晴景方の軍勢は、日没を待って撤退していきました。
すると謙信は、その背後を急襲!!
晴景方を大混乱に陥らせたのです。
その知らせを聞いた兄・晴景率いる本隊は、慌てて居城・春日山城へ退却!!
しかし、謙信方の追撃を受け、多くの兵を失ってしまいました。
兄弟対決は、謙信の圧勝で終わりました。



そんな兄弟の対決に胸を痛めていたのは、越後守護・上杉定実です。

「長尾の兄弟げんかがもとで、越後国が乱れては困る!!」

定実は、2人の仲裁に入ります。
そして、周囲の評判や、両者の器量などを考慮した説得により、謙信が兄・晴景の養子となって長尾家の家督を継ぎ守護代になることが決まりました。
こうして、兄との戦いの末、勝利した謙信が越後守護代になったことから・・・
謙信が兄から守護代の座を奪ったといわれてきました。
しかし、本当にそうだったのでしょうか??

兄・晴景派、早い段階から家臣たちからの「守護代を景虎に譲る」という進言を受け入れていました。
兄の家督相続の打診に、景虎は「まだ若く、その器ではない」と断っていました。
しかし、最終的に、守護である定実から命令され、三者合意のもと平和的に家督が譲られたのです。
軍記物にある戦いも、実際にあったのかどうか定かではなく、謙信・晴景・上杉定実の三者会談も、謙信を守護代にするべく説得するために開かれたものでした。
兄と対立する気などさらさらなかった謙信・・・
越後守護代になる際には、兄を立て、誓いを結んでいます。

”兄・晴景の病気療養中のみ家督を預かり内乱を収めること
 国の運営などの政策は、兄・晴景の許可を得て行うこと”

謙信は、少年時代に天室和尚から叩き込まれた
「兄を侮って家を乱す企みをせぬこと」
という教えを守り、あくまでも兄の病気が治るまで越後守護代となったのです。
謙信、19歳のことでした。

謙信、越後国主になる
長尾景虎・・・後の上杉謙信が19歳で家督を継ぎ、越後守護代となった2年後の1550年。
謙信を守護代に推した越後守護の上杉定実が病で亡くなります。
定実には、跡継ぎがいなかったため、越後国には守護がいなくなったのです。
守護になれるのは、定められた格式の家柄のみ・・・
その為、その家格でない長尾家の謙信は、守護にはなれませんでした。
しかし、事実上の越後国の国主となりました。
そんな謙信に、室町幕府将軍・足利義輝から書状が届きます。

「公方様から、毛氈鞍覆と白傘袋を使っても良いとのお許しが出たぞ」by謙信

毛氈鞍覆を許すとは、行列の先頭にいる馬の鞍の覆いに動物の毛を固めて作った毛氈を使ってもよいということ。
また、白傘袋を許すとは、高貴な人が外出する際に、後ろから衣笠を翳す・・・それをしまう袋の色に白を使ってもいいということです。
毛氈鞍覆の使用は、守護代でも使用可能でしたが、白傘袋の使用は守護しか許されませんでした。
将軍・義輝が、謙信に白傘袋の使用を許可したということは、室町幕府が謙信を守護国主として認めたということなのです。
しかし、その裏には、将軍・義輝の思惑がありました。
伝える書状には、こんな事も書かれていたのです。

”将軍家のために尽くせ”

この時、将軍・義輝は、陪審の三好長慶と争って、京都を追われ近江に避難していました。
下剋上の憂き目にあっていたのです。
将軍の権威は保てない・・・京都に戻らなければ・・・!!
義輝は、京都に戻るには有力大名たちの支援が必要で、景虎に箔をつけて味方につけよう目論んだのです。
しかし、謙信はまだ21歳の若輩者・・・
将軍義輝が期待したのは、長尾家の財力でした。
長尾家の治める越後国は、他国の数倍に値する国力を持っていました。
実際、謙信の父・長尾為景は、越後で権力を守るため、後ろ盾になってもらおうと朝廷や幕府に働きかけていました。
その際の貢ぎ物から、将軍・義輝は、長尾家の資金力の豊かさを知っていたのです。
長尾家の豊かな資金力・・・その源となっていたのが、青苧と越後上布です。
青苧は、カラムシの皮から取った麻糸で、その麻糸で紡いだのが越後上布です。
高級品として高値で取引されていました。
長尾家は、その売り上げから税収を得ていたのです。
さらに、長尾家には、大きな資金源がありました。
銀山です。
越後北東部の鳴海金山をはじめとする鉱山郡・・・通称・越後黄金山などで、大量の金を産出していました。
こうした資金源を背景に、謙信は越後国主として邁進していくのです。

”晴景 嫡男成長の時に至りては、速やかに家督を渡すべし”

謙信は、中継ぎでした。

「結婚して子が生まれては、兄の子に家督を返すことが難しくなる
 生涯、妻を持たぬと誓ったのは、全て兄への義を立てるため」by謙信

その意志は強く、兄の子が亡くなった後でも、中継ぎ当主という立場を貫きました。

「依怙によっては弓矢は取らぬ
 ただ節目をもって何方なれど 合力す」by謙信

そんな義の武将だからこそ、謙信のもとには助けを求める武将が・・・!!

謙信、いざ川中島へ!



1553年8月、国主となった謙信のもとに、ひとりの武将が助けを求めてやってきました。
北信濃国人領主・村上義清です。
甲斐の虎と恐れられた武田晴信・・・後の信玄との戦いに2度も勝利した男です。
ところが、武田方の策略によって、精力を削がれ、居城を追われることとなり領地を武田に奪われてしまいました。
そこで義清は、「武田から領地を取り返してほしい」と、謙信に助けを求めてやってきたのです。

「貴殿ほどのお方が、この若い私を頼られたのだ
 武士として見捨てることはできぬ、お助けしましょう」by謙信

謙信は、8000の兵を率いて出陣!!
義清の領地を取り戻すため、信濃の川中島で武田ん軍勢と対峙!!
11年、5度に及ぶ川中島の戦いの始まりでした。
戦いを優位に進めた謙信は、義清の領地を次々と奪い返していきます。
一方、武田の軍勢も反撃に出ます。
しかし、深入りしてくることはありませんでした。
こうして、一度目の対決は、両者腹の探り合いで終わったのです。

この戦ののち、謙信が向かったのは、京都。
前年、謙信は朝廷から従五位下の叙位と、弾正台の次官弾正少弼に任じられていました。
その返礼の為、朝廷のある京都に向かったのです。
謙信は、時の後奈良天皇に拝謁、天皇から上洛したことのねぎらいから、天盃と、御剣をもらいました。

「この上ない名誉、心して御奉公いたします」by謙信

さらに・・・

「住国ならび隣国に、敵心を差し挟む輩を治罰せよ」by後奈良天皇

これは、越後国内と隣国での謙信の戦いを、天皇が正義の行いと認めたということ・・・。
こうして謙信は、越後の統一、武田信玄との戦い・・・義の武将として戦っていくこととなります。

はじめて京の都を見て回った謙信は、朝廷や幕府の逼迫した実態を知り、自分がそれらを立て直すと心に誓ったといいます。
そして、謙信はそのあとの人生を捧げていくこととなります。
謙信、24歳の時のことでした。

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群雄割拠した戦国時代・・・最強と言われたひとりの武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
終生のライバル・武田信玄は、謙信を公表しています。

「太刀においては日本無双の名大将」

戦いの神・毘沙門天の化身と恐れられた謙信の強さの秘密とは・・・??

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感想(2件)



新潟県上越市に残る謙信の居城・春日山城跡・・・
1530年、越後守護代・長尾為景の三男として生まれます。
守護代とは、元々国を統治する守護大名の筆頭家臣として政治を補佐する立場でした。
しかし、この頃、為景は武力によって主君・上杉定実から実験を奪っていました。
1548年、長尾家の家督を継ぎます。
どうして長男を差し置いて、謙信に白羽の矢が立ったのでしょうか?

”晴景の病が平癒するまで、景虎(謙信)が軍旗を預かり、近年の擾乱を退治すべし
 国家の政務については、兄晴景の下知を承って沙汰すべし”

と、記録に残されています。

謙信の兄・晴景は、生まれつき病弱で、戦の陣頭に立つことができず、その為三男の謙信が兄に代わって家督を相続したのです。
謙信は、越後を支配するため、次々と出陣し勝利を重ねていきました。
しかし、政治は兄の指令のもとで行うという二重体制を取っていました。

謙信が求められたのは、武将としての資質・・・軍事力、合戦の強さで認められました。
政治において、期待はされていなかったのかもしれません。
しかし、そんな謙信の運命が大きく変わります。
守護大名・上杉定実が亡くなり、景虎が後継者に指名されたのです。
守護代の身分から、国主への大出世でした。
どうして越後の国主となれたのでしょうか??

新潟と山形の県境に位置する鳴海山・・・謙信が、越後国を手に入れるため、大きな役割を担ったとされる山です。
山道を奥深く進むとトンネルが・・・鳴海黄金坑・・・謙信ゆかりの金山です。
鳴海金山の歴史は平安時代にまで遡り、その豊富な産出量から、越後黄金山と呼ばれていました。
慶長年間の時代、全国の金産出量の1/3掘られていたといわれています。
謙信は、この鳴海金山以外にも、領内にある金銀の鉱山を次々と開発させ、この財力で異例の出世をしていきます。
謙信の長尾家は、本来ならば守護大名にはなれない家格でしたが、1552年、謙信は朝廷から従五位下弾正少弼という官位を与えられ、国持大名に相応しい身分を手に入れます。
背後で重要な役割を果たしたのが、室町幕府でした。
この時、謙信は謝礼として将軍・足利義輝に、銭3万文、将軍正室にも酒代5千文を献上しています。
金で幕府を味方につけ、国主の座を手に入れたのです。
潤沢な資金を使い、幕府の後ろ盾を得て、謙信は名実ともに越後の支配者となりました。
しかし、この幕府との密接な関係こそ、後の謙信の人生を左右することになります。

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戦国の革命児・織田信長は、上杉謙信に豪華な屏風を送り戦を避けようとしました。
しかし、後に二人の軍勢は、相まみえることになります。
1577年、手取川の戦いです。
この時の織田軍勢は4万!!猛将・柴田勝家をはじめ、名だたる武将が居並ぶ精鋭部隊でした。
この時の上杉軍は、2万と数の上では劣勢でしたが、その結果は、上杉軍の圧勝でした。
戦を避けようとした自分の判断が正しかったことを信長は身をもって知るのです。
どうして謙信は勝てたのでしょうか??
注目すべきは、前哨戦の七尾城の攻防戦です。
この戦での織田軍の目的は、上杉軍からこの城を守ることにありました。
ところが、その情報を得た謙信は、あっという間に七尾城を落としてしまいます。
七尾城は、上杉方に寝返った家臣によって降伏開城していたのに、その情報を流さず、わざと手取川を渡らせたのではないか??と言われています。
この時の謙信の作戦は、七尾城を一気に攻め落とし、その事実を織田軍に知られないようにし、織田軍が手取川を渡り、背水の陣となった段階で、七尾城陥落の情報を流し、慌てて退却する所を背後から襲うというものでした。
こうして謙信は、劣勢をものともせずに勝利を手にしたのです。

上杉謙信は、本当に戦国最強だったのでしょうか??
上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康??
障害の戦を分析し、負けなかった戦の%は・・・??

①上杉謙信・・・108戦  64勝  7敗37分・・・不敗率94%
②豊臣秀吉・・・106戦  95勝  8敗  3分・・・不敗率92%
③武田信玄・・・・82戦  51勝12敗18分・・・不敗率84%
④徳川家康・・・176戦106勝37敗33分・・・不敗率79%
⑤織田信長・・・214戦154勝48敗12分・・・不敗率78%

謙信の部下が負けているものを除くとほとんど負けなし・・・無敗でした。
戦の内容も、謙信が関東を攻めた時の戦いでは、そのほとんどが城攻めです。謙信は、わずか1年の間に次々と城を落としています。
当時の山城は、大軍を擁していてもなかなかできることではありません。

上杉謙信は、終生のライバル武田信玄との間で、5度の激闘を繰り広げています。
川中島の戦いです。
両国の間に位置する北信濃の支配権をめぐっておこったこの戦の中でも、最大の激闘となったのが第4次の戦いでした。
この時、謙信は、画期的な戦術革命を起こしていました。
謙信の戦術とは・・・??
川中島合戦屏風は、合戦の始まりから収束までを描いた壮大な絵図です。
中でも有名なのが、戦のハイライトというべき場面・・・床几に腰かけた信玄に斬りかかる謙信・・・!!
大将同士の一騎打ちです。
この一騎打ちは、謙信の戦術の妙があったからだといいます。
甲陽軍鑑から、当時の戦況を見て見ると・・・
8000の兵を率い、妻女山に陣取った謙信は、夜に紛れて本陣を移動し、朝もやが晴れるとともに信玄の本陣に襲い掛かりました。
信玄は、この時の謙信の戦術について・・・

「謙信は、我が味方の備えをまわって、幾度も攻撃してきた
 ”車がかり”という戦法である」

車ががりとは・・・??
通説では、グルグルと円を描きながら武田軍に襲い掛かる・・・
攻撃を終えた部隊は、次の部隊と交代することで、休みなく攻め立て、最後に大将同士が一騎打ちをした・・・でした。
しかし、これは現実離れしている・・・??

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感想(1件)



上杉軍の戦闘部隊は、まず武田軍の正面を迂回し、右側面に回り込み、続いてそこから方向転換し、敵の全英に襲い掛かり足止めします。
そのあとすぐに2番目の部隊も猛撃を開始・・・こうして、敵を一部隊ずつ足止めしていき最終的に精鋭である旗本同士の決戦に持ち込んだのではないか??
そんな中での鉄砲を精鋭部隊の最前列に配備する・・・これが、謙信の戦術革命でした。
織田信長が、初めて鉄砲を集団運用したといわれますが、これを普遍的な軍事に取り込んだのは上杉謙信が初めてでした。
まさに戦術革命でした。

越後の国主である上杉謙信にとって、一刻の主として妻を娶り、跡継ぎをもうけることも大事な役目でした。
しかし、謙信は生涯独身を貫きます。
その理由とは・・・?
①男色説
謙信の同性愛志向は有名で、直江兼続も謙信の寵愛を受けていたといわれています。
しかし、当時男色家な大名は、たくさんいました。
大内義隆、武田信玄伊達政宗・・・しかし、彼等は結婚もして子供を作っています。
妻帯して子孫を残すというのは政治でした。

②宗教戒律説
謙信の居城・春日山城の本丸近くにお堂・・・毘沙門堂がひっそりと佇んでいます。
謙信は、ここに毘沙門天をまつり、戦のたびに勝利を祈願していました。
信仰心の篤かった謙信は、始めて上洛の際も名高い禅寺の門をたたき、5つの戒律を授かっています。
それが、
殺生戒・・・殺してはならない
偸盗戒・・・盗んではならない
妄語戒・・・だましてはならない
飲酒戒・・・酒を飲んではならない
邪淫戒・・・性行為をしてはならない
謙信は、この邪淫戒に従って、女性との接触を断ち、生涯独身を貫いたともいわれています。
しかし・・・お酒は飲んでいます。

③中継ぎ当主説
「上杉家御年譜」には・・・
「晴景嫡男成長の時、速やかに家督を渡すべし」とあります。
謙信は、あくまでも兄の子が成長するまでの中継ぎ投手として長尾家の家督を継いだというのです。
家臣たちは、お家存続のために結婚を勧めますが・・・謙信は頑なに拒絶し続けます。
その遺志は強く、兄の子が亡くなった後でも中継ぎという立場を貫きます。

「依怙によっては弓矢は取らぬ
 ただ筋目をもって何方なれど合力す」

筋が通っていれば、相手が誰であろうと助太刀に駆けつける義の武将・・・
本当に謙信に野望はなかったのでしょうか?
謙信の真の野望とは・・・??
そこには、室町幕府と将軍・義輝の存在が大きく関わっていました。
1559年、謙信2度目の上洛の際、ひとりの公家と出会います。
関白・近衛前久です。
この時、幕府の衰退に心を痛めていた前久は、謙信にその切実な思いを伝えます。
前久の熱意に心を動かされた謙信は、密約を結ぶことにしました。
誓約書には・・・”謙信を頼って関東に下向する”と記されています。
この頃、関東では小田原の北条氏康と、甲斐の武田信玄が大きな勢力を誇っていました。
双方ともに幕府の支配を蔑ろにし、独自に領土を拡大していたのです。
謙信と前久の計画によると・・・謙信が武田と北条を押さえ込んで京都にのぼる・・・室町幕府を回復しようというのが一つの考えでした。
この計画には、将軍・義輝も積極的でした。
義輝が謙信に与えた火薬の調合法・・・最新兵器・鉄砲に欠かせない火薬の技術を伝え、謙信の軍事力を強化したのです。

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1560年、約束通り関東に下向した前久は、各地の大名への工作を開始し、東国(出羽・会津・飛騨)を中心に支持を取り付けることに成功します。
一方、謙信は・・・武田信玄の従兄弟・勝沼信元へ裏切り工作を持ち掛けたのです。
戦わずして信玄を葬るために・・・!!
さらに、謙信は関東への軍事進攻を開始し、北条氏の勢力下にあった上野国を制圧します。

1561年、将軍・義輝から、関東管領に任ぜられます。
室町幕府東国支配の要ともいえる重要な役割を担うことになります。
錦の御旗を手に入れた謙信は、関東の大名11万5000を集め、いよいよ打倒北条に向け動き出します。
謙信が出陣に当たって奉納した願文には、その時の決意が書かれています。

「東八州を掌握し、平和を取り戻す」

関東を平定し、室町幕府を再興させることが大きな野望でした。
しかし、この計画が実現することはありませんでした。
北条氏の本拠地・小田原城を前に、頼みにしていた大名たちが次々と離脱し、謙信は遠征中止に追い込まれてしまいます。
さらに、勝沼信元の謀反計画が発覚!!
信玄を撃つこともできなくなりました。
周到に準備したはずの謙信の室町幕府最高の野望は、呆気なく潰えたのです。

1573年、謙信が再興を願った室町幕府が滅亡・・・
1578年、春日山城で病に倒れた謙信は、そのわずか4日後、49歳でこの世を去りました。
再び京に上る準備をしていた矢先のことでした。
越後の龍・上杉謙信・・・その亡骸は、城内に葬られ、今も静かに眠っています。
神となり、そして、伝説となって・・・!!

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陰謀が渦巻き、裏切りが絶えない戦国時代、親、兄弟さえも殺しあう世にあって、敵からも信頼を寄せられる稀有な武将がいました。

「自分が死んだら謙信を頼れ」by武田信玄

「謙信のみが骨になっても義理を通してくれる」by北条氏康

上杉謙信・・・どこまでも義を貫いた男です。

生涯70戦以上して、わずか2敗・・・越後の龍こと上杉謙信・・・
自らを戦いの神・毘沙門天の生まれ変わりと称し、圧倒的な強さを誇った戦の天才・・・
宿敵・武田信玄と戦いを繰り広げた川中島の戦い、敵陣の奥深くに斬り込み、信玄と直接刃を交わしたといわれるほど、天下にその名は轟きました。

「自分だけの利益のために弓矢は取らない」by上杉謙信

何よりも重んじたのは、戦の大義でした。
乱れた世をただし、将軍の下で秩序を取り戻す・・・!!
それが謙信の願いでした。
野望のために人を殺し、裏切りもいとわない者が大半だった世の中で、謙信は異色の存在でした。
その高すぎる志は、家臣さえも理解できませんでした。
戦に勝ってもほとんど敵の領地を奪わなかった謙信・・・
ただ働き同然の戦いに家臣からは度々謀反を起こされます。
謙信は、孤独でした。

そんな謙信の前に、志を同じくする武将が現れます。
戦国の雄・織田信長です。
信長と友情を築いた謙信は、理想の世を進みました。
しかし、2人はあることをきっかけに決裂し、刃を交わすこととなります。

義を貫くために強さを求めた上杉謙信、激闘の果てに彼がたどり着いた境地とは・・・??

幼い頃、寺に預けられた謙信は、禅の厳しい修行に打ち込んでいました。
次男だった謙信は、家を継ぐつもり間ありませんでした。
しかし、19歳の時、謙信は長尾家の家督を譲られます。
長尾景虎・・・後の上杉謙信は、越後・春日山城の城主・長尾為景の次男として1530年に生れます。
当時の越後は、室町幕府が定めた守護大名が治めており、父・為景はその補佐役・守護代でした。
しかし、幕府が弱体化し、守護大名の力が弱まると、各地の武将たちが反乱を起こしました。
武勇に優れた為景は、これらの反乱を押さえていました。
そして、守護代でありながら実質的な越後の国主となっていました。
そんな父の地を受け継いだ景虎は、弓矢・刀で遊ぶのが大好きな腕白小僧・・・
乱暴な振る舞いも多く、大人が諫めても、聞かなかったといいます。

1536年・・・7歳の時、21歳年上の兄・晴景が長尾家の家督を継ぎます。
これを機に景虎は、親元を離れ、寺に預けられます。
景虎の祖父が立てたといわれる林泉寺です。
ここで景虎は、座禅や読経など、禅の修行を行いました。

恨みや憎しみを手放せ
欲をむさぼってはならない

しかし、景虎が11歳の時、平和だった越後に波乱が・・・
1541年、11歳の時、父・為景が死去
為景の居城で行われた葬儀の様子は異様だったといいます。
皆、鎧兜をつけていたからです。
景虎も甲冑をつけて葬儀に臨みました。
以前から長尾家に敵対していた勢力が、為景の死を知り、この機に乗じて攻撃してきたからです。
それまで為景の力で抑えていた内乱が、再び各地で起きるようになります。

しかし、家督を継いだ兄は、幼いころから病弱で、兵を率いて戦に出ることができない・・・
1544年、景虎は14歳で、兄に変わり戦の指揮を執りました。
父としては、兄が長尾家当主なので、弟には補佐役として頑張ってほしいと教育しました。
そのおかげで、景虎は、兄の弱点である合戦に強い武将に育てられたのです。
強いだけでは政権交代や、景虎が野心を持つ恐れがあります。
権力と嘘的な教育よりも、兄の補佐役として力を与えられていました。
わずか14歳で大将となった景虎・・・この戦いで並々ならぬ才能を示すことになります。

戦いの場は、現在の新潟県長岡市にあった栃尾城です。
6000以上の敵兵に対し、景虎の軍はわずかに2000!!
川を挟んで一進一退の攻防が続いていました。
戦い始めて数日後・・・敵が陣太鼓をならし始めました。
川を渡ってこちらに来る・・・??
敵が川を渡って来れば、先制攻撃を受けてしまう!!
家臣たちは急いで出陣しようと訴えました。

「今は兵を出すときではない、しばし耐えよ」by景虎

この言葉を言いた家臣たちは、
「結局は若造だ、臆病なことよ」

いよいよ敵が川を渡り始める・・・目の前に迫ってきました。
その時、景虎が動きました。

「かかれ!!」

冬に冷たい川を渡ってきた敵兵は、身体が冷え切って思うように動けません。
景虎は、その瞬間を待っていたのです。
景虎軍は、やすやすと敵兵を討ち取り、退散させました。
この戦いで、家臣たちは景虎の采配に感服したといいます。
その後も、景虎は敵対勢力を押さえ、名をあげていきます。
やがて家臣たちから、弟の景虎さまこそ当主に相応しいという声が出るようになりました。

1548年、19歳の時、兄から家督を譲られます。
後に、己の心情をこう語っています。

「自分だけの利益のために弓矢は取らない
 道理のためにのみ戦いをする」by景虎

19歳で長尾家の当主となった景虎・・・
しかし、その8年後、景虎は越後を抜け出し、高野山へと向かっていました。

「このぶんでは、大名としての仕事を続けられそうにないので、進退を決した」by景虎

景虎が20歳の頃、守護大名・上杉定実が病死、補佐役である守護代の景虎は、実質的な国主となりました。
その5年後、隠居生活を送っていた兄・晴影も死去・・・
兄の死から半年・・・隣国・信濃の武将が越後に亡命してきました。
この時、甲斐の武田信玄が、信濃に侵攻・・・城を奪われた武将は、信玄の非道を訴え、助けを求めたのです。

「弓矢を取るものとして見捨てるわけにはいかない」by景虎

景虎は、8000の兵を率いて、越後と信濃の国境へ出陣。
第一次川中島の戦いです。
景虎の戦い方は非常にユニークでした。

「景虎殿は、自ら太刀打ちにおよばれたとのこと、天下の誉れです」by近衛前久

自ら打ち合って戦う・・・対象であるにもかかわらず、前線で戦っていたのです。
そんな景虎の心のよりどころが毘沙門天でした。
戦いの神・毘沙門天は、悪行を行うものを懲らしめる・・・
景虎は、この神に、自らを重ねていたとされます。

「武田信玄は信州に乱入し、現地に住む諸士をことごとく追って滅亡させた
 神社仏塔を破壊し、信濃の悲嘆は何年にも及ぶ有様だ」

景虎は、奮闘しましたが、この戦いで勝利を収めることはできませんでした。

その2年後、武田軍が再び信濃に侵攻・・・景虎も再び出陣!!
1555年、26歳の時、第二次川中島の戦いです。
しかし、ここで景虎は思わぬことに悩まされます。
なかなか決着がつかないため、命に背いて戦場を離れようとする兵士が続出します。

武田信玄と戦う時に掲げた言葉は、「義をもって不義を誅する」でした。
正しい戦いをするのですが、最終目的が明確ではないのです。
家臣たちも、この人が総大将でどこまでやればいいのか迷うのです。

戦に勝っても領地はもらえない・・・なら、何のための戦っているのか・・・??
そう考える家臣たちと、あくまで戦い続ける景虎。
両者の間に温度差が生まれていました。
その為、景虎は家臣たちが戦場を離れないように、わざわざ誓約書を書かせていました。

「戦いが長引いて他人が勝手に帰っても、自分だけは景虎の命令に従い続ける」

第二次川中島の戦いは、およそ200日続き、結局、両軍の痛み分けに終わります。
この戦いの翌年、1556年、27歳で人知れず越後を出奔。
景虎が林泉寺の住職に送った手紙には・・・

「私は、国内の内乱を鎮めた
 武田と興亡の一戦に臨んだ
 
 私は努力を続けているのに、家臣たちの意見はまとまらない
 皆から見放されたように感じる
 このぶんでは、大名としての仕事を続けられそうにないので、進退を決した

 私がいなくても、家臣たちで相談すれば越後を治めることはできるだろう
 しかし、武田信玄がやって来れば窮地に陥るだろう」by景虎

景虎が向かっていたのは高野山です。
このまま僧侶への道を歩むつもりだったといいます。
しかし、2か月後、長尾家の家臣が見つけてやってきました。
家臣たちは、景虎がいなくなった後、重臣が武田信玄と通じて挙兵したのだといってきました。

「国衆の面々が困っているのに、亡き兄の命に違えてこのまま隠遁するおつもりですか
 先祖代々の部名が汚れることになります」

この言葉を聞いて景虎は、帰国を決意しました。
越後に戻り、謀反を起こした家臣を国外へ追放・・・越後の国内は安定を取り戻し、家臣たちは景虎に忠臣を誓いました。
景虎27歳の時でした。

越後を治める景虎が求めたもの・・・それは、室町幕府の権威でした。
しかし、当時すでに幕府の力は衰え、将軍・義輝は何度も京を追われていました。
それでも景虎は、上洛して幕府の権威を守ろうとします。
どうして・・・??
毛氈鞍覆・・・豪華な鞍飾り・・・景虎が21歳の時に、将軍・義輝から拝領したものです。
この鞍飾りは、幕府が景虎を越後の国主と認めた証として贈られました。
景虎が、幕府のお墨付きを得たことが知れ渡ると、それまで景虎と敵対していた越後の領主の多くが、景虎に従うようになりました。
実は、景虎は幕府に国主として認めてもらうため、将軍に太刀や金品を献上していたのです。
景虎は、様々な貢物を通じて、将軍と親密な関係を築いていきます。
景虎のこうした活動の資金源が、青苧という植物でした。
麻織物の原料で、乾燥させた繊維は光沢があり、織物は越後上布という高級品として都でも珍重されました。
越後は、日本一の青苧の産地でした。
景虎は、青苧の栽培を奨励し、巨大な繊維産業を作り上げていました。

1558年、29歳の時、義輝から手紙が届きます。

「私のために早く京に来てほしい」

この頃、将軍とは名ばかりの存在で、幕府の政治は有力大名の三好長慶が牛耳っていました。
将軍は、三好から実験を取り戻すため、景虎の上洛を要請したのです。
景虎は、こう返答してます。

「近いうちに上洛し、三好を倒そうと思います
 越後を失っても、幕府の権威が復活するよう貢献します」

将軍から越後の国主として任された立場・・・
それに対する恩として、幕府を守る、自分が必死になって守る・・・!!
それが、自分に課せられた使命なのだ・・・!!

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1559年、30歳・・・
景虎は、三好を倒すために5000の兵を率いて出発!!
しかし、三好側の抵抗にあい、京には1500の兵しか入れず・・・
上洛したにもかかわらず、将軍と親しく面会することもかないませんでした。
ところが、2か月後、思いもよらないことが起こります。
将軍・義輝から、景虎が新しい関東管領になってもよいと伝えられたのです。
関東管領とは、室町幕府の中枢を担う役職です。
関東一帯の治安維持を任されていました。
思いがけず、幕府の重責を担うこととなった景虎は、早速動きます。

関東の治安を乱す北条氏康の征伐に向かいます。
戦国大名の北条氏康は、幕府の命令を無視して、諸国を侵略。
小田原から関東一帯へ勢力を伸ばしていました。
景虎は、北条氏の本拠地・小田原城を目指して南に進軍!!
北条氏が奪った城や所領を攻めて、元の領主に戻していきました。
進軍の途中、景虎は鎌倉に立ち寄ります。
歴代の関東管領が就任式を行った鶴岡八幡宮で就任式を行うためでした。
景虎は、関東管領・上杉氏となり正統な後継者として晴れて関東管領となりました。
名前も、長尾景虎から上杉政虎と改めました。
後に、上杉謙信と名乗ることになります。
関東管領の目的は、関東に平和をもたらすことです。
関東管領は名誉職でもありましたが、実際に関東を平定するという義務・・・名誉と義務が一緒になった瞬間でした。
妥当北条を呼び掛けた謙信のもとには、北条に不満を抱く武士が続々と集まりました。
総勢10万に膨れ上がった謙信の軍勢は、北条の本拠地・小田原城を包囲します。
この大軍を前にしては、北条の降伏は時間の問題と思えました。
しかし・・・小田原城の守りは固く、一月経っても北条を降伏させることができませんでした。
そのうちに、寄せ集めだった謙信側の軍勢から大量の落後者が出て、軍はなし崩し的に消滅・・・
さらに、武田信玄が越後に攻め込んでくる・・・!!
との情報が入り、謙信もついには小田原城の包囲を解き、越後に帰国しました。

1560年、31歳の時、全国の人々を驚かせる大事件が起きました。
尾張一大名に過ぎない織田信長が、東海地方一帯を支配する大大名・今川義元の首を取ったのです。
世にいうおけはざまの戦いでした。
そんなころ、謙信に一通の手紙が届きます。
差出人は、その信長でした。

「鷹狩りのために鷹を探しております
 越後の良い鷹をお譲りいただけないでしょうか」

会ったこともない謙信に対して鷹をねだってきたのです。
信長が謙信と親交を結びたいという意味でした。
年齢も、身分も、信長より数段格上の謙信でしたが、望み通り鷹を贈りました。

「まことにめずらしい鷹で、我が目を疑いました」

その後も二人は、手紙や贈り物のやり取りをし、絆を強めて行ったのです。
信長から謙信への贈り物の一つが、あの国宝「洛中洛外図屏風」です。
戦国時代の絵師・狩野永徳によって描かれたものです。
京の都の煌びやかな様子が、四季の草花が、人々の生活と共に詳細に描かれています。

1564年、35歳の時には、信長からこんな申し出が・・・

「どうか、私の息子をあなたの養子としてお迎えくださいますようお願い申し上げます」

謙信と親戚関係になることで、より一層強い結びつきを考えていました。
これには、尾張と越後の間にいる甲斐の武田信玄をけん制するという意味もありました。
信長は、謙信と交流を深める一方で、鉄砲を使って破竹の勢いで勢力を伸ばしていました。

1568年、謙信39歳の時、信長は、京の三好勢を一掃・・・時の将軍・足利義昭を擁して上洛します。
その時点では、信長は室町幕府再興を・・・義昭を将軍にして天下が治まると思っていました。
しかし、謙信と信長の仲を一変させる出来事が起こります。

1573年7月・・・信長が、将軍・足利義昭を京都から追放したのです。
足利幕府を事実上滅ぼして、天下を握る意思を示したのです。
信長の行動に対して謙信は激怒!!
謙信としては、室町幕府再興が望むべき姿でした。

これをきっかけに謙信は、信長が領地を拡大している越中・能登を攻めることにしました。

1577年、謙信48歳の時、遂に信長と刃を交えることとなります。
手取川の戦いです。
謙信は、信長の前線基地である能登の七尾城を攻略すべく出陣!!
この動きを受けて信長は3万の兵を城の救援に向かわせます。
しかし、上杉軍は、織田軍が到着する前に、七尾城を陥落させていました。
進軍中に知らせを聞いた織田軍は、退却を決定!!
謙信に背を向けた・・・くしくもその時、大雨が織田軍を襲います。
謙信は、この機を逃しませんでした。

手取川近くの陣から追撃指令!!
大雨で火縄が濡れ、鉄砲が使えない織田軍・・・
瞬く間に1000人が討ち取られました。
さらに、増水した川を渡って逃げる際に、溺れた兵もたくさんいたといいます。
こうして戦は、謙信の大勝利に終わりました。
謙信が家臣に宛てた手紙には・・・

「信長も案外弱い
 この分だと天下まで進むことも簡単だ」

1587年1月、越後へ戻った謙信は、次の遠征の準備にかかります。
しかし・・・出発直前の3月9日、突然春日山城で倒れました。
原因は、脳梗塞といわれています。
病に倒れて4日後、上杉謙信は息を引き取りました。
49歳でした。
この時、謙信が目指したのは、京の都だったのか??別の国だったのか・・・答えは謎のままです。

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越後の龍・上杉謙信・・・語り継がれてきたその姿は、まさに英雄!!
生涯戦績70勝!毘沙門天の化身とされ、助けを求められればそれに応えどこにでも向かう!!
無欲にして義の武将・・・しかし、全く違う顔のあることが判ってきました。
その手掛かりが、上杉家に代々伝わる国宝・洛中洛外図屏風。
天才絵師・狩野永徳の作とされ、京都の風俗が絢爛たる色彩に書かれています。
その中・・・塗りの輿に乗って都大路を進むのが・・・一説に上杉謙信だと言います。
この絵を描かせたのは、時の室町幕府将軍・足利義輝。
越後の一大名と京都の将軍・・・二人の間に太いパイプが伺えます。
幕府再興のために上洛する謙信・・・これが、謙信の人生、戦国の世を大きく変えるターニングポイントでした。
この時、謙信が都でかわした契約書が残っています。
上杉謙信・・・その知られざる野望とは・・・??

1530年長尾景虎(謙信)は・・・越後守護代・長尾為景の子として生まれます。
1548年、父の死後、19歳で長尾家の家督を継ぎ守護代へ!!
直面したのは、国内の政治的混乱でした。
その頃の越後は、幕府が任命した守護である上杉定実を、守護代である長尾家が補佐。
強大な軍事力で民衆を押さえていました。
しかし、父・為景の死を好機と見た国衆の一部が反乱を起こします。
1550年には、上杉定実も死去。。。上杉家は断絶。
この非常事態に謙信が切り札としたのは、室町幕府でした。
謙信一行の姿が描かれたと言われる洛中洛外図屏風。
先頭の馬には毛織物製の豪華な嵓飾りが・・・本来、守護にしか使えないものです。
幕府はそれを謙信に与え・・・謙信は越後の主としての資格を得たのです。
それも、定実の死から二日後に・・・。

どうしてそんなことが可能だったのでしょうか?
謙信と義輝の間で暗躍していたのが、神余氏・・・京都在住の武士です。
この人物こそキーマンで・・・神余氏と契約を交わして、越後の代弁者として活動してもらったのです。
神余氏は、3代にわたって越後の特務機関として働きました。
貴族が主催する連歌の会や、酒宴にもぐりこみ、集めた情報を謙信に送っていたと考えられています。
謙信は、きわめて活発な諜報活動を行い、幕府との関係を築いていたのです。
幕府の権威を背景に、政治力をつけていく謙信・・・
将軍義輝が謙信に送った書状には・・・
太刀一腰と金子三千疋を受け取った・・・謙信は、金品や名馬などを贈り、義輝と親密な関係を結んでいたのです。
ではその費用はどのようにして賄ったのでしょうか?
謙信の中央工作を支えたのは、新潟県小千谷市・・・麻織物です。
青苧・・・木綿が一般的となるまでは、麻織物が珍重されていました。
謙信は、その栽培と生産を奨励し、越後に巨大な繊維産業を作り上げました。
越後上布・・・京大坂の商人は越後を訪れ、競うようにして青苧を買いました。
それこそが謙信の狙いでした。
謙信が領内に出した触書には・・・
”青苧座の船は、積荷の量を調べ税を課す”
青苧を越後の外に出すという行為に、税をかけたのです。
生活に欠かせない繊維の流通を押さえ、巨大な富を得た謙信は、その富で中央工作を行い、越後支配を盤石なものにしたのです。

しかし・・・1553年・・・謙信が頼みとする将軍・足利義輝が京都を追放されてしまいました。
黒幕は三好長慶・・・近畿から四国にかけて13か国を支配していた大大名です。
三好長慶は、将軍を上回る実力を持つと西欧諸国にも認められていました。
この都での政変・・・上洛し、・三好を屠殺すべし・・・
1559年謙信は越後を発し上洛・・・その数五千!!
軍事力を背景に将軍家の復権を図る!!
謙信・・・起死回生の賭けが始まりました。

北陸道を西へ向かい京を目指す謙信と五千の兵・・・
領内を通過する大名に根回ししていたので、道中は非常に順調・・・
中でも三好の専横に反発する朝倉義景、六角承禎からは盛大にもてなされ、三好討伐の意を新たにします。
4月27日、上杉軍上洛!!
ところが・・・驚くべき知らせが・・・!!
甲斐の武田信玄が信濃に軍事行動を開始した!!というのです。
当時、甲斐の国主となっていた信玄は、徐々に領土を北に拡大し、謙信とは川中島で3度戦っています。
謙信上洛に当たっては、将軍・義輝が仲介し、両者は和平を結んでいました。
信玄は、一方的にそれを破ったのです。
このまま京で三好を討つのか??
領国に戻り、武田の侵攻に備えるのか・・・??
どうする??謙信!!

越後防衛策・・・??
しかし、信玄は謙信が帰国をすることは想定内。
この頃都では、謙信が帰国を望んでいるとの知らせを聞いた将軍が謙信の忠節に疑いを持ちはじめたという噂が・・・広がっていました。
一説には、背後には信玄の情報工作があったと言われています。
このまま帰国すれば、その信頼を完全に失ってしまう・・・。

京都制圧策・・・??
朝倉、六角の大名は、幕府支持の思いが強いので、三好に対抗できる・・・??
進むべきか退くべきか・・・??

思わぬ人から第三の選択肢が・・・!!
関白・近衛前久・・・姉が将軍義輝に嫁いでいることから、両者は親密な関係にありました。
前久は、幕府が弱体化し、大名達が勝手に領地を奪い合っていることを憂いでいました。
そんな折、幕府の危機を救うために上洛した謙信の行動は、前久を動かしたのです。

そして・・・京都近くの近江坂本で二人は密会・・・
この時、前久が謙信に渡したのは、自らの血文字の誓いの文書・・・

”才覚の及ぶ限り、心から馳走いたす”

便宜を計って、関東管領職を継承できるようにお膳立てを・・・というのです。

関東管領は、関東公方(足利氏)に次ぐ関東のNo,2の役職です。
しかし、当時、その秩序を脅かしていたのが関東の北条氏康でした。
北条氏は、早雲以来、その勢力を北に伸ばし、上野にまで及んでいました。
時の関東管領・上杉憲政は、越後へ逃亡!!謙信に匿われていました。
前久は、その地位に謙信をつけようとしました。
「密事は決して他言いたしません。」by前久
密事とは・・・??
関東の軍勢で上洛し、三好、松永を一掃し、京都の政治も一気に掌握!!
東国と畿内から、戦国の時代を変えていこうとしていたのです。
謙信が東国支配の要として幕府を支えるというものでした。

これが関東進出策・・・??
しかし、武田に加え、北条と戦うというのは、これまでの小競り合いではなく大戦になる・・・!!
越後に戻る??都に残る??関東を平定し再び京に戻る・・・??

関白・近衛前房との面会から5日後・・・謙信は将軍義輝と面会。
この時、義輝から下された御内書に・・・謙信の関東管領内定が・・・!!
謙信は、関東進出策を選びました。
そしてその効果は絶大!!
越後だけではなく、信濃などの周辺領主が、謙信に祝いの太刀を献上。
中には、武田にいたはずの真田家も・・・!!
一旦帰国し、関東に乗り出す・・・しかし、武田、北条の二正面作戦はいかにも分が悪い・・・
しかし、謙信には秘策が・・・!!
甲府市勝沼・・・周囲に堀をめぐらせた要塞が・・・要塞の館の主は、信玄のいとこにあたる勝沼信元。
親族衆筆頭として本家に次ぐ軍事動員力を誇っていました。
甲陽軍鑑には・・・勝沼五郎殿内通・・・謙信は、信元への裏切り工作を進めていたのです。
信玄の信濃進出の留守を狙い、信元が本拠地の甲府を襲って、新上杉政権を樹立し、背後から信玄を襲う策略でした。

万全の手配りを終え・・・
1560年8月関東へ出陣!!
北条氏の支配に不満を持っていた人々は、謙信の元へ馳せ参じ、その数11万!!
圧倒的な戦力を誇る連合軍は、各地で北条を撃破!!
1561年3月には、本拠地小田原城を包囲!!
一方氏康は、ゲリラ戦を展開し、戦況は膠着状態に・・・!!
3月・・・謙信は鶴岡八幡宮で、正式に関東管領に就任。
東国からの幕府再興に向けての第一歩でした。
しかしその帰り道、事件が起こりました。

甲陽軍鑑には・・・
忍の成田長泰がかしこまっていると・・・謙信が他の者より図が高いと言って、持っている扇で顔を二回打った・・・余りに屈辱に、成田は謙信に無断で帰国!!
他の武将も、ことごとく陣を引き払ってしまいました。
11万の大軍が・・・空中分解してしまったのです。
原因は、謙信と諸将の意識の差にありました。
彼らは謙信の家臣ではない・・・と、思っていたのです。
さらに背後で予期せぬ事態が・・・
勝沼信元の裏切りが発覚!!成敗されてしまいました。
信玄は、上杉軍を信濃から追い出すべく、進攻を開始!!
越後攻略の起点となる海津城の整備を始めました。
本国を襲われかねない事態に、関東攻略を諦め、越後へと帰国・・・。
再び関東を攻略するためには、信玄を討ち取るしかなくなってしまったのです。

1561年9月10日、両雄は4度川中島にあい見えました。
第4次川中島の戦い・・・上杉軍は、信玄本陣めがけて正面突破を敢行!!
信玄の弟・信繁を討ち取る大戦果をあげます。
残るは、信玄ただ一人・・・!!
謙信が自ら信玄に斬りかかったのがこの時です。
しかし、あと一歩まで追いつめたとき・・・武田の別動隊が、救援に来たのでした。
戦況は逆転、謙信は軍を退かざるおえなくなります。
関東進出策は、ここに潰えたのです。

1565年5月・・・時代が大きく動きました。
将軍義輝が、三好一族によって暗殺されたのです。
1566年3月・・・謙信の元に、一通の書状が・・・差出人は、義輝の弟・義昭!!
「上洛し、幕府を再興する手助けをしてほしい」・・・と!!
しかし、武田と北条の泥沼の戦いをしていた謙信に余力はありませんでした。

1567年、義昭を奉じて京都に入ったのは・・・尾張の新興大名・織田信長でした。
信長は、都から三好の勢力を一掃!!
義昭を将軍に就け、室町幕府再興を果たすのです。
再び幕府の権威の元、秩序ある時代が来るのだろうか・・・??
しかし、信長の行動は、謙信の想像をはるかに超えていました。
1573年、信長は義昭を都から追放!!
200年以上続いた室町幕府は終焉を迎えるのです。

信長許すまじ!!

1577年9月、謙信は、加賀国・手取川で織田軍と激突!!
上杉軍は1000人以上討ち取る大勝利を挙げます。
謙信は、家臣に書き送っています。
「この分では天下への道も容易いものだ。」と。

信長にとって代わって、幕府を自分が支える・・・
謙信は、そんな道筋を見据えたのでしょうか??
しかし、1578年3月9日・・・春日山城で出陣の準備をしていた謙信は、突如発病!!
4日後にこの世を去るのです。
1578年3月13日、上杉謙信死去・・・享年49歳でした。
新潟県上越市にある上杉氏の菩提寺である林泉寺・・・
謙信自ら筆を取った言葉が残されています。
「大夢」・・・人生は夢幻のようだという仏教の無常観を表しています。
人生は夢のごとし・・・しかし、謙信は一途にその夢を生きたのかもしれません。



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決戦!川中島

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長野県北部に位置する盆地・善光寺平・・・
今から450年ほど前、戦国最強と謳われた二人が刃を交えました。
甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信です。

12年間、5回にわたり激突した川中島の戦いです。
どうしてこの場所で5回も戦わなければならなかったのでしょうか?

武田信玄は、1521年武田守護・武田信虎の嫡男として生まれました。
21歳の時に、悪政をしいていた父を追放し権力を握ると・・・隣国信濃に割拠していた国衆を攻略し、信濃のほぼ全域を手中に納めました。

信玄から遅れること9年・・・春日山城で・・・
1530年越後守護代・長尾為景の末子として生まれます。
19歳で家督を相続すると、混乱していた越後を瞬く間に混乱していた越後を瞬く間に統一。
そんな中、信玄と謙信の運命を変える川中島の戦いが・・・!!

きっかけは・・・
1553年4月春日山城に、北信濃の国衆・村上義清がやってきて・・・
「信玄に我が居城を落とされたので、援軍をお願いしたい。」と言ってきたのです。
当時の信玄・謙信の唯一の緩衝地帯・北信濃は、勢力の小さい国衆・・・村上家・島津家・高梨家・・・が治めていました。
代々上杉との結びつきが強く、反武田としていました。
信玄の侵攻に、上杉を頼ってきたのでした。
義の男・謙信はこれに応じます。
しかし、この時、謙信にも信玄の侵攻を食い止める必要がありました。
越後、春日山を守るために!!
春日山城から川中島までは、直線距離で僅か50km。
北信濃を信玄に取られてしまうと、春日山城も危機に・・・!!
もう一つ互いが争う原因は、善光寺にありました。
善光寺は、川中島の戦いの場となった盆地の中にあって、この寺を支配することが戦のもう一つの目的でした。
善光寺は無宗派なので、一生に一度は善光寺参りと言われるように、全国から人々がやってくる経済の一大拠点だったのです。
善光寺を支配するということは、庶民に対して大きなアピールとなり、また、経済的にも大いに潤うという事なのです。
1553年8月、上杉謙信出陣!!
迎撃するために信玄も出陣!!そこが犀川と千曲川の間にある川中島だったのです。
12年間、5度にわたる戦いが幕を開けました。
この時信玄33歳、信玄24歳でした。

第1次川中島の戦い
両軍は、川中島で小競り合いを演じますが、上杉軍が優勢となると信玄は、塩田城に撤退し、籠城してしまいます。
川中島一帯を支配下におさめた謙信は、ひと月ほどで兵を引き上げていきました。
最初の戦いは、謙信の勝ちのような形となりました。

第1次の戦いで、川中島一帯の支配権を取られてしまった信玄は、侵攻を諦めたわけではありませんでした。
1554年駿河・今川義元、相模・北条氏康と三国同盟を結び、南の安全を万全に確保すると、北に!!
危機を感じた北信濃の国衆・高梨政頼、村上義清が謙信に助けを求めます。

1555年7月、謙信と信玄は、犀川を挟んで対峙することに・・・!!
第2次川中島の戦いです。
しかし、この2度目の戦いも小規模でした。
半年間にらみ合いを続け・・・この朝廷に乗り出したのが、今川義元でした。
義元は、境界を犀川と定め、武田がすでに攻略していた土地を返還するという信玄にとっては不利な条件で和睦させます。
武田軍の補給がこれ以上続かず、戦をすることが出来なくなっていたのです。

1557年、第3次川中島の戦い
信玄がこの講和を破ります。
信玄の動きを知った謙信は、北信濃に出てきます。
川中島で戦いますが・・・この時も、信玄は積極的ではありません。
謙信にけしかけられるも応じず。。。しびれを切らした謙信は、4か月後越後に帰っていきました。

どうして3度対峙するも小規模だったのでしょうか??
それは、戦の発端です。
謙信は、あくまでも助けを求めてきた国衆たちのために出陣!!
「義」の武将と言われるように、領土的野心はありませんでした。
謙信は、越後防衛のため・・・それ以上は戦う必要がなかったのです。

信玄が守りに徹したのは・・・
謙信の兵力があまりにも強い事を知っていたので、出来るだけ損害を出さずに個別に戦っていました。
つまり、謙信の方が、決着を付けたがっていたのです。
信玄はその意図を見抜いていました。
なので、専守防衛、籠城・・・な作戦をとっていました。
つまり、第3時までの戦いが小規模だったのは、武田信玄が積極的に攻めなかったからなのです。

さらに、戦のもう一つの理由だった、善光寺・・・
第3時の戦いの間に、それぞれが、「越後善光寺如来堂」「甲斐善光寺」と移したとし、ある程度の経済的安定を達していました。
激しい戦を繰り広げる必要性がなかったのです。
周辺の村々で受けた人々の被害は甚大で、農地は荒れ果て、農民の1/3が巻き込まれ亡くなったり離散したと言います。

第4次の戦いの直前、川中島西部の6つの村は、戦で家や農地が荒らされては困ると、武田上杉両軍に、村を戦場にしないように願い出ます。
すると村にあった杉に幕が張られ、これが停戦ラインとなり村は守られました。
そして、この幕の向こうで行われたのが、激戦!!第4次川中島の戦いです。
ついに両雄が激突!!


長野県長野市八幡原史跡公園は、最も激戦となった4度目の戦いの舞台となった場所です。
1560年、信玄が上杉軍に備えるために、軍師・山本勘助に命じて川中島の近くに海津城を築城したことでした。
1561年8月14日、北信濃から1万8千の兵が・・・北信濃から武田を追い出すべく春日山城を出陣!!
善光寺に5千の後詰を残し、川中島の妻女山に1万3千の兵が!!
狼煙によってこれを知った信玄は、8月18日に1万7千の兵を出し、甲府を出発!!
29日には3千の兵が籠る海津城へ!!
これまでの戦いに比べ、両軍ともに圧倒的な数です!!
雌雄を決する時が・・・!!

どうして第4次川中島の戦いは大規模なものとなったのでしょうか??
お互いに、相手を戦い潰そうと覚悟を決めての戦いでした。
それは、第3次の戦いの後、お互いの立場が大きく変わったことが関係しています。
武田信玄は、1558年に第13代将軍・足利義輝に信濃守に補任されています。
名実ともに、信濃の支配者となり、信濃の平定は、信玄にとっての大義名分となったのです。
謙信は、1561年に関東管領・上杉家を継いでいます。
この関東管領は、鎌倉公方の補佐役ということで、関東支配を任されたという正当性があり、関東の北条を攻めるためには、北条の同盟国であった武田が邪魔だったのです。

両者に大義名分が出来たので、決着をつける必要があったのです。

1561年第4次川中島の戦い
先手を打つ信玄!!
1561年9月9日深夜・・・
海津城から別動隊1万2千が出発します。
謙信の布陣する妻女山の裏手に回るためです。
信玄自らは、本体8千を率いて八幡原へ!!
夜明けとともに別動隊が、裏から奇襲をかけ、攻めて謙信たちを妻女山から追い落とし、待ち伏せしていた本体と挟み撃ちにしようと考えていました。
啄木鳥戦法で、軍師・山本勘助が授けたと言われています。

しかし、これは謙信に見破られました。
海津城からの夕飯の支度の煙がいつもより多いことに気付いた謙信は、武田軍がその夜に動くことを察知!!
別動隊が来る前に、ひそかに妻女山を降りると、武田本体が向かっていた八幡原に先に布陣!!
作戦が見破られてしまった武田軍は、序盤で劣勢になってしまいました。

もう一つの理由が・・・気象。
9月10日早朝、武田・上杉両軍は、八幡原の至近距離に布陣していました。
戦いがあったこの日、今の暦に直すと10月中旬。
この時期は、盆地である川中島は、特に寒暖差が激しく、さらにこの場所は川が多く流れていて・・・
川中島では秋から冬にかけて、先が10mも見えない濃い霧(蒸気霧)が発生するのです。

決戦前日の放射冷却、9月10日は冷え込みました。
濃い放射霧が起こり、武田軍本体と上杉軍本体は、お互いの距離感がつかめないまま布陣することとなりました。
そして夜が明け霧が晴れると・・・目の前に敵が・・・!!
啄木鳥戦法を見破っていた上杉軍は、敵が近くにいることを想定していましたが、武田軍は、よもや目の前にいるとは思わず、劣勢となります。
上杉軍は、「車がかり」の陣形で襲い掛かります。
その激戦の中・・・信玄の弟・信繁が討ち死にします。
信繁は武田家のNo,2で、軍略・見識共に優れていた、戦国屈指の武将でした。
真田信繁の名は、父・昌幸が、武田信繁のような名将になってほしいと付けたと言われています。
この戦で啄木鳥戦法を提案した山本勘助も、責任を感じ、敵陣に突っ込んで壮絶な最期を遂げます。

戦の中盤・・・有名な信玄と謙信の一騎打ちが・・・!!
謙信は、武田軍の陣中深く白馬を走らせ、信玄の本陣に突撃!!
信玄に真っ向から斬りつけました。
信玄は手にした軍配でこれを受け止めます。
三度振り下ろされた刀によって、信玄の軍配はズタズタになったと言われていますが・・・
信玄の部下の助太刀で、謙信はその場を去り、決着はつかなかった。。。
これは本当にあったのでしょうか・・・??

しかし・・・これが語られたのは江戸時代の事。
「甲陽軍鑑」で書かれています。
伝承はあったようです。が、断定はできていません。
謙信が刀を抜いて戦ったということは間違いありません。
が、相手が信玄だったということはわからないのです。

啄木鳥戦法を見破られているとも知らず、上杉軍の背後に回ろうとしていた別動隊は・・・??
1万2千が妻女山につくも、もぬけの殻・・・
作戦失敗に気付くも、時すでに遅し!!
本体の危機に山を駆け下ります。
そして、別動隊によって挟み撃ちにされてしまった上杉軍。。。
形勢逆転!!
謙信は、即座に撤退し、命からがら引き揚げて行ったのでした。
激闘の4時間!!

武田軍  死者4,600余人   負傷者13,000余人
上杉軍  死者3,400余人   負傷者  6,000余人

こうして日本の合戦史上最大の激戦は、終わりを告げたのでした。

3年後・・・最後の戦い・・・第5次川中島の戦いとなりますが・・・激戦とはなりませんでした。
にらみ合いが60日間続き、撤退します。

川中島の戦いは、12年間で5回にわたって繰り広げられた理由は・・・
謙信が北信濃の国衆を助けるためだったことと、信州善光寺がもたらす利権をめぐってのことでした。
もう一つ目的があったと言われています。
それは・・・戦が行われた季節の秋・・・!!
どうして5回の川中島の戦いは秋に行われたのでしょうか?

信濃国は、武田信玄と上杉謙信の取り合いの場となっていました。
信玄は信濃の土地を自らの領地とし勢力を拡大していきましたが・・・
謙信は領土的野心はありませんでした。もちろん信濃も奪っていません。
領土の取り合いでなければ、二人の目的は・・・??

ルイス・フロイスは、日本の戦についてこう書いています。
「われわれヨーロッパでは、土地や都市や村およびその富を奪い合うために戦う。
 日本では、戦争はほとんどいつも、小麦や大麦、米を奪うために行われる。」と。

日本の戦争は、領土を奪うためではなく食料を奪うためでした。
謙信も例外ではなく、今でこそ米所の新潟は、当時の米は寒い所では育ちにくく、よそから奪う必要がありました。
謙信は生涯を通じて10回以上関東に出兵していますが、食料確保のためだったと言われています。
1566年謙信が小田城を攻め落とした時は・・・謙信の指図で捕虜たちの人身売買が行われていました。
しかし、これは当時の戦国大名が皆やっていたことです。
東日本は激しいもので、武田信玄もやっていたことです。

川中島の戦いが、秋にやっていた・・・収穫期にやっていたのは、収穫期に合わせて農作物を略奪するためだったのです。

5回の戦いの勝者は・・・??
川中島一帯は武田の領土となり、謙信は高梨、島津、村上を本領に返すことはできませんでした。
武田の優位となったのです。
が・・・謙信は、この時、自分を頼ってきた国衆を家臣として組み込むことが出来るようになり・・・謙信も大いに利得があったようです。
川中島の戦いで、お互いをライバルと認め合うようになった信玄と謙信。
しかし、お互いの戦いに時間を費やしている間に、周りはすっかり変わっていました。
信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ・・・
これを契機に、信長が一気に躍進し、天下取りに進んでいきます。

川中島があったために、謙信と信玄は西に向かうことが出来ません。
早期に決着がついていたら、お互いがもっと西に進出していた可能性があります。
12年にわたる川中島の戦いが、信長の勢力拡大につながってしまったのです。

戦国の龍虎と称えられた信玄と謙信。
川中島の戦いが、こんなに長く続かなければ・・・戦国の勢力図が変わっていたかもしれません。




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