日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:長州藩

1859年10月27日、江戸時代末期の江戸・伝馬町・・・

「ご苦労様」

近代日本の夜明けのために、命を捧げた男が露と消えました。
男の名は、吉田松陰。
その辞世の句・・・

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
          留め置かまし 大和魂

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰

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吉田松陰の素顔①遊ばない子供
山口県萩市・・・かつての長州藩の城下町です。
1830年、吉田松陰はこの町で、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
幼名は虎之介・・・兄弟は6人で、2歳下の妹・千代は、後年、松陰についてこう語っています。

「兄・松陰は、幼い頃から遊びということを知らないような子供でした
 いつも、机に向かって書物を読んでいるか、筆をとっているか、それ以外の姿はあまり思い浮かびません」by千代

遊ばずに学問ばかりしていたという松陰・・・その理由は、父にありました。
父・百合之介は、半士半農の質素な生活を送る下級武士でしたが、大の学問好きでした。
野良仕事の際には、手伝いをする松陰たちと一緒に「孟子」や「論語」を読誦。
夜は、米つきなどをしながら親子で読書。
そうした父の影響で、松陰は学問の面白さに目覚め、遊びよりも学問に夢中になっていきました。
さらに、松陰が学問にはげむようになったきっかけが、5歳の時のこと。

父の弟で、吉田家の養子に入っていた吉田大助が、男子を残さないまま大病を患ったため、松陰が吉田家の跡継ぎとなるべく、大助の養子となりました。
吉田家は、江戸時代前期の兵学者・山鹿素行が開いた山鹿流の兵学師範の家でした。
代々長州藩主・毛利家に仕えてきました。
兵学とは、敵に打ち勝つ方法を考える学問です。
間もなくして、義理の父が亡くなり、6歳にして吉田家の当主となった松陰は、兵学師範としては約独り立ちしなくてはなりませんでした。
そこで、大助の弟子だったもう一人の叔父・玉木文之進が、松陰の教育係を務めることになりました。
その教え方は尋常ではありませんでした。
文之進はスパルタ教育で、体罰も日常茶飯事でした。
それは、松陰を早く一人前の兵学者に育て上げるためでした。
松陰も、根をあげることなく学問に精進しました。
しかし、松陰は、大助がなくなると同時に、杉家で兄弟たちと共に過ごしています。

1840年、松陰は猛勉強の甲斐あって、11歳で聴衆藩主・毛利敬親の御前で兵法の講義を行う機会が訪れます。
松陰は、藩主や多くの家臣が居並ぶ中、一つも物おじせず、抗議をやり遂げました。
毛利敬親は松陰を絶賛し、その後もしばしば講義を行わせ、耳を傾けていたといいます。
こうして松陰は、若き天才兵学者としてその名を馳せるようになりました。

1848年、19歳になった松陰は、山鹿流の兵学師範として独り立ちをします。
長州藩の藩校・明倫館で教壇に立つことになります。
しかし、松陰の教壇デビューはほろ苦いものでした。
長州藩には、四流派の先生がいて、明倫館の学生たちは、好きなものを選ぶことができました。
松陰の講義は一番不人気で、ひとりしかいないこともありました。

しかし、講義そのものの評判は悪くなかったようで・・・

「大人も子供も兄を慕うようになりました」by千代

松陰の素顔②あふれる家族愛

明倫館の師範となった翌年の1849年、松陰は兵学者としての意見書を長州藩に提出します。
「西洋諸国を研究し、その長所を柔軟に受け入れながら、既存の兵法を時勢に合うよう政変すべし」と訴えました。
そして1850年8月、松陰は藩の許可を得て、九州遊歴へ出発します。
建前上は、平戸にある山鹿流兵学の宗家を訪ねるというものでした。
本当の目的は、長崎や平戸というところは海外の窓口が近いということで、海外情勢、動向・・・アヘン戦争などの最新の世界の情報を得るためでした。

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1840年に勃発したアヘン戦争は、イギリスがアジアの大国・清に圧勝した侵略戦争でした。
松陰はその詳細を知ることで、海外列強の強さを推し量ろうとしたのです。
萩を発った松陰は、まず鎖国中唯一外国との門戸が開かれていた長崎へ!!
そこで、出島のオランダ商館などを見学。
長崎奉行の計らいで、オランダ船に乗せてもらった際には、様式を細かく記録しています。
その後松陰は、平戸に向かい、山鹿流の兵学者・葉山左内を訪ね、その蔵書を完読します。
アヘン戦争んついて書かれた「阿芙蓉彙聞」、西洋砲術書「百幾撤私(ぺキサンス)」など、50日ほどの滞在で、80冊を読破しました。
世界の情勢をおぼろげながら掴むとともに、西洋列強に対する危機感をいっそう強めたのでした。
こうして九州遊歴を終えた松陰は帰路に付き、年明けには実家に着く予定でしたが・・・急遽急ぎ足で大晦日の夜に実家に着きました。
家族と一緒に正月を迎えたい!!という理由でした。

吉田松陰の素顔③不器用な生き方
1851年、家族と正月を過ごした吉田松陰でしたが、西洋列強に対する危機感は高まっていました。
さらなる知識と情報が必要だと考え、藩主の参勤交代に同行して江戸へ・・・
そして、4月に江戸につくと、儒学・兵学・洋学など様々な学者に弟子入りします。
なかでも浸水したのが、松代藩士・洋学者の佐久間象山でした。
象山は、アヘン戦争の衝撃を受けて、江戸で西洋砲術塾を開いていました。

「開国して西洋の科学技術を学び富国強兵に務めるべし」と提唱していたのです。

松陰は、学者たちに学ぶとともに、長州藩江戸藩邸にて勉強会を開催します。
多い月では1か月に30回もありました。
勉強のし過ぎでフラフラになっても、酒もたばこも、大食することも戒めていました。
仲間たちがつけたあだ名は仙人でした。
学用品を買うので、食事のおかずは金山寺味噌か梅干しで・・・ガリガリにやせ細っていました。
しかし、研究心は劣らず、江戸に兵学修行に来ていた旧知の友・熊本藩士・宮部鼎藏らと共に、東北視察の旅を計画します。
当時の東北地方は、ロシア船が我が物顔で津軽海峡を頻繁に往来していました。
宮部らと共に決めた出発予定日は、12月15日。
ところが、出発直前に問題が起こります。
長州藩が、松陰の手形の発行に手間取ったのです。
「出発を延期せよ」と通告してきました。
手形を持たずに出発すれば、それは脱藩!!重罪です。
長州藩士であれば、出発を延期する以外道はありませんでしたが・・・
松陰は手形のないまま予定通りに出発してしまいました。

松陰は、東北視察の旅日記に記しています。
”藩に背いた罪は、私の一身に留まる
 藩を辱めるより余程良い”
友との約束をたがえる方が長州の名折れとなると思ったのです。
余りにも不器用な生き方・・・しかし、松陰は、元来そういう性分でした。

厳罰覚悟で江戸を発った松陰は、水戸や佐渡を経由して、東北各地をくまなく偵察します。
江戸にもどったのは、翌年の4月で、すぐに長州藩の江戸藩邸に出頭しました。
すると、「萩に帰って謹慎し、処分を待つように」と命じられました。
そして、およそ7か月後、萩の実家に戻っていた松陰に下されたお沙汰は、”御家人召放し”・・・藩士の籍を剥奪し、家禄を没収するという厳しいものでした。
これで松陰は、一介の浪人となってしまいました。
しかし、その能力を高く買っていた毛利敬親は、松陰を見捨てませんでした。
実父・百合之介の育の立場となりました。
育とは、身分を剥奪された藩士を、親族の保護課に置き、後に復帰できるようにした長州藩独自の制度のことです。
そして、実父に、松陰の諸国遊歴の願書を提出させました。
藩が10年間の諸国遊歴を認めたことで、松陰は自由に他国修業が出来るようになりました。
毛利敬親が、天祐ともいえる諸国遊歴を許したのは、見識を広げた松陰を、いずれ藩士に復帰させるつもりだったからと言われています。
ところが・・・

吉田松陰の素顔④猪突猛進
脱藩の罪で浪人となるも、長州藩主・毛利敬親の温情で諸国遊歴を許された吉田松陰。
再び江戸の地を踏んだのは、1853年5月24日でした。
日本の眠りを覚ます大事件が起こったのは、その9日後のことです。
アメリカ船隊・・・黒船来航です。
マシュー・ペリー率いる黒船が、浦賀に来航しました。
黒船の来航を知った松陰は、江戸を飛び出し5日の深夜に浦賀につくと、先に到着していた佐久間象山たちと合流。
高台に登って4隻の黒船をつぶさに観察しました。
驚くのも当然、当時の和船は150tでしたが、黒船は4000t近くもあったのです。
さらに9日には、日本に開国を求める第13代大統領フィルモアの親書が浦賀奉行に手渡されました。
アメリカに抗えない日本の姿に、松陰は落胆しました。
松陰と同じように黒船を見た佐久間象山も欧米の技術力の高さを改めて痛感します。

「留学生を欧米に派遣して、その技術を学ばせるべきだ」by象山

と、幕府に建白書を提出しましたが、幕府はこれを却下しました。

「ならば、講義に頼らず渡航するしかない」by象山

とはいえ、国禁を破る渡航は死罪にもなり得る重罪でした。
誰がその役を担うのか・・・??

「私が行きましょう」by松陰

この時、松陰24歳でした。
1854年1月16日、ペリーが再び来航しました。
幕府と数回の交渉の末、3月3日に日米和親条約が締結します。
日本は開国への一歩を踏み出しました。
江戸で密航の機会を伺っていた松陰は、ようやく締結後、下田に移動した黒船に狙いを定め、ともにアメリカに渡りたいと申し出た足軽・金子重之助を連れて下田へ向かいます。
3月27日、下田についた松陰は、午前2時ごろ・・・盗んだ小舟で黒船に向けて漕ぎ出しました。
ところが、盗んだ小舟には、櫓を固定する杭がついていなかったので、なかなか前に進みません。
松陰は、櫓をふんどしで縛り、やっとのことでミシシッピー号にたどり着いたのですが・・・
ミシシッピ号には、日本語の分かる船員がいなかったため、再びポーハタン号に移ります。
そこで、ようやく日本語の話せる通訳のウィリアムスと対面します。
ウィリアムスは、松陰たちの勇気を讃えます。
しかし、「アメリカに連れてはいけない」と、きっぱりと拒否しました。
失意の中、引き返そうとした松陰たちでしたが、乗ってきた小舟が流されてしまいます。
暗闇で、船の行方も分からず・・・止むなく、ウィリアムスが用意してくれたボートで陸地まで送ってもらいました。

翌朝「公儀も放っては置かないであろう」と、金子重之助をつれて奉行所に出頭しました。
潔く自首することで、自分たちの行動の意味を幕府に問おうとしたのです。

「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」by孟子

誠の心で接すれば、必ず人の心を動かすことができる・・・

松陰はこれを実行したと言われています。
しかし、国禁を破る重罪・・・未遂だったとはいえ、死罪を覚悟していました。
幕府が下したお沙汰は・・・
”父・百合之介に引き渡し、在所において蟄居を申し付ける”
実家での謹慎でした。

金子に対しても、”長州藩に身柄を引き渡し、萩で蟄居させよ”という寛大なものでした。

実は、2人に対するお沙汰が寛大だったのは、外国に渡ろうとした松陰たちの勇気をペリーが讃え、厳しい処罰は避けてほしいと幕府に通告したからでした。

[新釈]講孟余話 吉田松陰、かく語りき

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罪人用の駕籠に乗せられた松陰たちが萩についたのは、1854年10月でした。
生きて再び家族の顔を見ることができた松陰は、感激していたといいます。
しかし、長州藩は、松陰たちの蟄居を許さず、萩城下の牢獄に入れました。
長州藩は、海外密航の罪を甘くは見ていないという幕府へのアピールでした。
こうして松陰は、武士階級の罪人用の牢獄・野山獄に・・・
元々染物屋の息子だった金子は、庶民の罪人用の岩倉獄に入れられました。
岩倉獄は劣悪で、1855年1月に、金子は岩倉獄で死去。
同志を失った松陰は、深く悲しみ、野山獄で使う日用品を節約して蓄えた金を、金子重之助の遺族に送りました。

吉田松陰の素顔⑤根っからの指導者
獄中で松陰は、読書漬けの日々を送っていました。
記録によれば、約2カ月間で106冊を読破。
ジャンルは歴史・地理・兵学・医学など幅広く、みな、兄・梅太郎が差し入れしたものでした。
また妹の千代も、食料品などを松陰に差し入れていました。
松陰は、女性に対して非常に潔癖で、30歳までは結婚しないと宣言していました。
結婚すれば、学問に費やせる時間が減り、志が揺らぐ恐れがあると考えていたからです。
まさに、学問一筋!!
そんな松陰が、野山獄に改革をもたらします。

野山獄は、一般的な牢獄と違い罪人だけでなく身内から厄介払いされた者も収容していました。
その為、出獄の見込みがなく、自暴自棄になっている囚人が多かったのです。
そこを松陰は、ひとりひとりの才能を磨くように、「孟子」や「論語」など、儒学の知識を提供します。               
囚人たちで知識を共有します。
松陰が始めた獄中勉強会・・・やがて牢番も参加するようになり、消灯時間を延長するという便宜も図ってくれるようになりました。
松陰は、野山獄に学問をする環境を作ることで、囚人たちに希望を与えたのです。
そして、1855年12月、松陰は病気・保養を名目として野山獄から釈放されます。
しかし、罪を許されたわけではなく、実家での幽閉を命じられました。
与えられた部屋は3畳半・・・外出は許されず、公に他人と接触するのも禁止。
そんな松陰を父は不憫に思い、気晴らしになればと身内を相手に「孟子」の講義を行わせました。
すると、近所の下級武士の子弟なども受講するようになります。
その評判が広がると、さらに受講生も増え、ついには私塾のような形になりました。
松陰の松下村塾の始まりです。
塾生は、90~100人ほどだったと言われ、入塾には身分の制限がなかったため、武士だけでなく、町人や僧侶、医者の子弟などがいました。
松陰は、どの塾生も対等に扱い、自身も決して選ぶらず、塾生たちを一緒に学ぶ友と呼び、塾生たちの間を歩き回りながら授業を行ったといいます。
決まったテキストがなく、塾生それぞれに合わせたテキストを与えていました。
24時間体制・・・講義の時間割も、月謝もありません。
塾生への食事の提供もありました。

「あなたは何をするためにここに来たのか}by松陰

その答えの最後は、”実行に移すことが大事、実行を以て世の中の役に立ちなさい”と言っていました。
塾生のことを第一に考えた松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞・伊藤博文・山縣有朋などが在籍し、その力を育んでいきました。

吉田松陰の素顔⑥誠を貫く

吉田松陰が、主催する松下村塾で塾生たちの教育に心血を注いでいた1858年6月19日、幕府の大老・井伊直弼が朝廷の同意を得ないまま日米修好通商条約を締結。
その勝手な行為に、外国嫌いの孝明天皇が激怒!!
これを知った松陰は、”大義を議す”と題した意見書を長州藩に提出。
そこにはこう記されていました。

「公儀は、帝を無視して亜米利加にへつらった
 これは将軍の罪であり、攻め滅ぼしてよく
 少しも許す必要はない」

幕府への不満が限界を超えた松陰は、ついに討幕を視野に入れるようになります。
一方幕府は、大老・井伊直弼のもと、幕府の政策に反対する者たちを次々と弾圧!!
世にいう安政の大獄です。
そんな中、松陰は、気になる情報を手に入れます。
尾張・水戸・越前・薩摩の四藩で井伊直弼を暗殺する動きが起こっていて、長州藩にも協力が求められているというのです。

「今から長州が加わっても、天誅の手柄は四藩に奪われてしまう」

焦った松陰は、別の幕閣の暗殺を画策します。
目をつけたのが、井伊直弼のもとで安政の大獄の指揮を執る老中・間部詮勝でした。
松陰は、松下村塾の塾生たちに、暗殺計画への参加を呼びかけ、藩には暗殺に使用する武器弾薬の借用したいと申し入れます。
しかし、幕府・老中の暗殺計画に、藩が手を貸すはずもなく・・・勝因を危険人物とみなし、松下村塾は閉鎖。
松陰は再び野山獄に投じられました。

吉田松陰 異端のリーダー 角川oneテーマ21

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1859年4月19日、安政の大獄を進める幕府は、危険人物である松陰の身柄を差し出すように長州藩に命じます。
そして、江戸に送られる前日の5月24日。
松陰は野山獄の役人の計らいで、1日だけ実家に帰ることを許されました。
風呂に入っていた松陰に、母の滝が、
「江戸から無事にもどり、もう一度その顔を見せておくれ」というと、
「見せましょうとも、必ず元気で帰りますよ」
翌朝、護送用の駕籠に乗せられた松陰は、家族に見送られて出発。
その顔に涙はありませんでした。
しかし、萩郊外の高台で駕籠を止めてもらうと、故郷の風景をしばらく眺めていたといいます。

7月9日、江戸についた松陰の取り調べが始まりました。
しかし・・・松陰は、老中の暗殺計画について追及されると思っていましたが、問われるのは身に覚えのない罪状ばかり・・・
実は、幕府は松陰の老中暗殺計画を知りませんでした。
他の過激派との関係を取り調べていたのです。
このままでいけば命は助かるはずでした。

「僕は国をよくしたいだけだ
 その為なら、ご老中・間部殿の天誅も辞さなかった」

老中の暗殺計画を自白してしまいました。

そして下されたお沙汰は、”死罪”

松陰の至誠はむなしくも通じませんでした。

1859年10月27日、刑場に連れてこられた松陰は、処刑に立ち会う役人たちに毅然と声をかけました。

「ご苦労様」

そして、誠を貫いた30年の人生に幕を閉じました。

松陰が処刑前日に書き上げた「留魂録」
”もし、私の真心に共感し、志を受け継いでくれるものがいれば、それは撒かれた種に絶えることなく実を結ばせるも同じである”
その遺言とも取れる松陰の厚き思いは、松下村塾の塾生たちに受け継がれ、時代を動かすことになったのです。

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近代日本の礎を築いた男 吉田松陰50の教え

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  こともなき世に
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幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。

しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。

1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?

日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・

15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。

1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。

1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。

”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
 一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”

ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。

晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。

”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”

そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。

”松陰先生の仇は必ず取る
 しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”

それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。

”男子としてこの宇宙に生れたのだ
 筆や硯の家来などになっていられない”

しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。

幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?

1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。

”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
 長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
 しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
 あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
 稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”

1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。

”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
 その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
 実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”

更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。

”国の情勢が切迫している・・・!!”

もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。

晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。

”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
 なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”

そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。

”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”

奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。

1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。

追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。

こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。

”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
 もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”

この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。

1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。

1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。

”後れても後れてもまた
 君たちに誓いし言を
 吾忘れめや”

この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。

長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。

”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
 藩が受けた辱めをそそぎたい”

もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。

”この腰抜けどもが!!
 ぼくは毛利家300年の家臣だ
 たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”

晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。

自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!

”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
 これより長州男児の肝っ玉をお見せする”

晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。

そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。

晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。

”腹痛がひどかったが、少し良くなった
 征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”

1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。

”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”

6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・

晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・

”進撃や勝利に大変喜んでいます
 体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
 ご笑殺ください”

この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。

”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”

そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。

翼あらば
 千里の外も飛めぐり
よろづの国を
   見んとぞおもふ

1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。

面白き
   こともなき世に
          面白く

晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。

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衝撃の出合いと告白が・・・って何だろう・・・??

前回、秀次郎を辰路の返した美和。
新しい日が始まります。

徴兵令が発布され物議が醸し出されていた政府。。。
徴兵令が発布されたということは、1873年以降のドラマになってるんですね。
改革のひずみが出てきました。
明倫館に不満士族を集め出した前原一誠!!
いよいよ立ちあがりそうです。
hana

















不平不満の士族たちの中に、吉田家を継いだ小太郎と楫取久米次郎も・・・!!
一緒に住んでて、なんで解らんかったんかがとっても鈍感な・・・不思議な家族です。

??杉家にやってきた前原一誠が、お風呂に入って滝に背中を流してもらっています??

なんだかんだと昔話をしている一誠と美和。。。
一誠・・・いろんな同志と連絡取り合って、蜂起する算段しないとね。。。

富国強兵と殖産興業に力を入れようとしていた木戸孝允。
目をつけたのは生糸でした。
海外に飛ぶように売れる生糸・・・
政府が富岡製糸場を建設し、群馬にその拠点を置こうとしていました。

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とっても統治しにくい群馬・・・その白羽の矢が立ったのが、楫取素彦でした。
家までやってきた木戸孝允。
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断る素彦・・・。

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でも、村人の理解もあって、結局群馬へ!!

病気な寿を支えるために・・・寿に乞われて美和も群馬へ!!

政府要人たちの会話では・・・群馬は魑魅魍魎が多そうな雰囲気です。
なんて失礼な・・・
群馬の人は、長州の方が鬼だと思っているわよ・・・きっと。

hana6











でもって・・・すでに前橋ですか・・・??
と思っていたら、ここでなんとオリキャラ登場!!
追いはぎに襲われていた美和たち・・・短筒に傘で対抗して追い払っちゃいましたよ。
まるで、痛快時代劇か漫画のようです。
群馬・・・この地で何が・・・??
と、ナレーションも、魑魅魍魎が居ると言ってますよ。
そう・・・北斗の拳もびっくりな荒涼とした地を想像していましたが、ちゃんと家が建ってるじゃないの・・・??
なんでみんなそんなに群馬を下げるかなあ・・・。

ま、「群馬の統治が難しい」その点についてですが・・・

もともと、楫取素彦は初代の群馬県令になる前・・・1872年に足柄県に勤め・・・1874年に、熊谷県県令を経て群馬県県令になっています。
つまり、このドラマの冒頭の徴兵令云々・・・と言ってる頃には、もう、三隅には居なかったか、辞令を受けていたんですよ。。。

そんな群馬の県庁は、もともと高崎にありました。
が・・・高崎に県庁に良い建物がないとか・・・インフラ整備がなってないとか・・・その為の協力が得られないとか・・・お金が集まらないとか・・・お金が集まらないとか・・・お金が集まらないとか・・・で、前橋に県庁を移転させたのは素彦です。
その時には、すったもんだがあって、素彦は高崎の住民から反感を買っています。

が・・・紀行では・・・

素彦が、治めづらい土地を、県庁舎を高崎から前橋へ移し、絹産業や教育の振興、鉄道の開通など、群馬県の発展に努めたとか、
素彦の功績を称えて石碑を建立したとか(これは事実なので、功績はあったのでしょうが・・・)
みずから握り飯を携え、わらじばきで各地を巡り、民衆の声を政治に生かしたとか、
新天地・群馬で人々の心を動かしていくとか・・・

綺麗なことをたっくさん並べてくれました。

高崎住民が猛抗議をしたり、デモをしたり・・・
今に至っても、高崎と前橋には遺恨が残っているとか・・・

kan













官兵衛のこの顔、思い出しちゃいましたよ。
戦国時代ではないので、ここまであからさまに策士である必要は無いでしょうが、人から一目置かれるためには、腹黒いところも必要で・・・。

そんなところ素彦には全くないので、”出来る男感”が、全くないんですよね。
群馬がどれだけ魑魅魍魎な世界かは知りませんが・・・
主人公であっても、”毒を食らわば皿まで!!”の意気込みが欲しいなあ・・・って思うのでした。
あ・・・主人公は美和か。。。

本当に・・・武器も持たずにおにぎりで世の中を変える!!痛快時代劇になってきましたね。
これで勝てるなら、剣心が苦悩の末に逆刃刀を持つことはなかったでしょう。

で・・・副題・・・衝撃の出合いってオリキャラのことかな・・・??
衝撃の告白って何だったんだろう・・・??
ますます、ジャンプの次回予告のように、デタラメになってきましたか・・・??


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最近”花燃ゆ”のブログ更新がなっていない私ですが・・・
主婦には一番忙しい盆と正月、夏休みの宿題に追われているのでご勘弁を・・・!!
と言いたいところですが、最近の花燃ゆのブログ、結構つらいんです。
っていうか、史実を、事実の説明を確認しながら挟もうとすると、1話書くのにめっちゃ時間がかかります。
こんな不十分な説明でも時間がかかるのに、大河ドラマとして見ているみなさんには史実を理解してもらえているのだろうか・・・??
そこが心配です。

hana2












今回は功山寺挙兵が”大逆転!!”なんだろうか・・・??
↓きりっとしたこの人が主人公だったらもっと良かったのに・・・
でも、新しい世を見なかったからなあ。。。
伊藤博文??と思ったけれど、伊藤博文じゃ、某国が許さないのかしらね・・・。

hana3














いきなり伊之助の処刑がのびたようです。
なんでも、高杉晋作が下関で兵を挙げたからだとか。
それも、やっぱり椋梨をやっつけるためらしい。。。
座敷牢の美和にも鞠が教えに来てくれて・・・園山さまがやってきて、銀姫をお守りせよ!!という指令が出されたのでした。
なんでも情報は全て美和のもとへ・・・まるでハブ空港だよ・・・。

大雪の降った・・・その日・・・
「奴らの手から長州を取り戻す・・・!!」by晋作
そうか・・・討幕じゃなかったんだ・・・。
なんだかここまで来ると、藩内の小競り合いに見えてしまって・・・
高杉晋作のダイナミックさがかき消されてしまうわ・・・。

hana













「これより、長州男児の肝っ玉、お目にかけ申す!!」
でもね、カッコいいわ

銀姫様のお子に何かあっては一大事・・・と、分をわきまえて奥をかき乱さないように・・・都美姫様の命が下りました。

なに??姫様のお付を増やす??前にリストラしたのに・・・??
でもって、またもやお願いをする美和。

なんか杉家に身を寄せている雅。。。
美和の力でお側付きとして奥に入ることになります・・・赤ちゃんを連れて・・・
オカシイやろ??反乱軍の妻が・・・
これで銀姫と都美姫の確執が生まれたんじゃないの・・・??
全く分をわきまえておらず、反論する美和。。。
ほんと、主従関係が解っているのかしら・・・??って感じがしますがどうでしょう??
おまけに雅の子をあやす姫を「お上手でございます。」なんて評価する雅。。。
家臣の子を・・・今となっては脱藩した逆賊の子ですよ。。。
主従関係のもとに、尽くして尽くしまくる・・・義を貫く・・・そこが武士の凛として美しいところだと思うのですが・・・
反論ばっかりしているのは駄目じゃないんだろうか・・・。

お・・・木久扇師匠、特別出演ですか・・・??
最近多いですね。。。

そして戦いが・・・
名もなき民の力を得て・・・とナレーションしていますが激しいはずの戦いで・・・
晋作さん、いくら粋でも三味線ですか・・・??
なんだかしらけて現実に引き戻されちゃうわ・・・。
でもって、文之進の息子・彦助は負傷し・・・敏三郎にみとられて亡くなります。
負傷したのは事実ですが・・・実は自害しています。
いかがわしい画や悲惨な画がNHKでは駄目なことは知っていますが、自害も駄目なんでしょうか・・・??
武士として死なせてやりたかったような・・・従兄弟の割に出てこなかったしね。。。

なんだか晋作が奥に攻め込んでくるような感じにお話がなっていて・・・
そんなことしないよ・・・毛利家に仕えていることを誇りに思ってるんだから・・・晋作は。。。
とりあえず、若殿には信頼されていたから、そこら辺を・・・。
新しく入った女中に”晋作の妻”のいることが、都美姫にばれてしまいました。

「やはりお前か・・・!!」by都美姫。

まさにその通り。。。美和のせいです。
御手打ち・・・??

そして雅も・・・自分を人質にとっておけば高杉は手を出せない・・・全ての奥を守る手段だと言ってますがね・・・

「さすがは高杉晋作の妻・・・!!おもしろい!!」
なんて銀姫が人質にしちゃいました。
そう、産まれてくる自分の子供を守るために・・・って、もう、開いた口がふさがらない展開です。

まあ・・・美和のシーンがなければ、いい感じの功山寺挙兵でした。
って、それじゃあ、主人公の立つ瀬がないか・・・

で・・・なんだか知らなないけど、伊之助の処刑が”まかりならん”となりました。
ここら辺がなぁ・・・どうしてまかりならんのか・・・どうしてそうなったのか・・・教えてくれよ・・・って感じ。

伝えに来た高杉小忠太ですが・・・彼は最後まで藩の中心的人物でした。
そう・・・たとえ息子が破天荒Maxでも・・・。
それぐらいすごい人だったのか??
伊之助よろしく藩の処罰が甘かったのか??そこんとこはよく判んないんですが・・・
ちなみに高杉家は・・・小忠太が破天荒息子・晋作を嫡廃しているので、居場所の無くなった晋作に殿が100石高の谷家を起こさせています。
そうなんですよね。
お父さんは厳しかったみたいですが、殿は晋作には甘いみたいで・・・なので、やっぱり晋作が奥を攻めるなんてことは・・・


いえいえ、お話は、中立派が特使として晋作のもとへやってきています。
このメンバーに梅兄がいますよ・・・ここも、捏造です・・・。
メンバーに私の結構好きだった梅兄はいません。
そんな史実がどうこうより、兄はそんな重要な立場にいたの・・・??
おまけにこの時点ではすでに椋梨更迭だったらしいのです。

ちなみに鎮静会員の代表メンバーは、香川半助、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎の四人を山口に派遣し、諸隊の頭領高杉、山県、井上らに通達したというものです。

でもって、お城に向けて晋作が空砲!!空砲!!

そんな中、銀姫様をほっといて殿のもとへ行こうとする美和!!

eiji

都美姫様に拒否られちゃいました。
ほんと、御手打ちもんです。

あ、そう言えば、娘が見ているから仕方なくテレビがついているのだけれど、”エイジハラスメント”観ていて・・・武井咲ちゃん演じる英美里と似ているなあ・・・って思ってきました。
なんのキャリアもないのに、自分の意見を正当化して突き進む!!みたいなキャラ。
で・・・大逆転って何ですか??








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「命がけの伝言」か・・・今回、どこに緊張感があったのかなあ・・・なんて思える「花燃ゆ」です。
二度と会えぬなら告白を・・・!!って副題ついてますが・・・そんなこと、大河に期待していません
どちらかというと、最悪な副題です
久坂玄瑞の妻として全うしなさいよ・・・

子供ができた=戦わねばならない・・・となった銀姫様。何を戦うんだ・・・?
女達の・・・どこにどんな緊張感があるのかは知らないけど、長州藩内部・・・男たちにも大粛清の嵐が吹き荒れていました。

hana3













幕府に恭順するために三家老が切腹・四参謀が打ち首・・・
そして、小田村伊之助と兄・松島剛造も、野山獄に投獄・・・命の危機に陥っていました。
ちなみに・・・弟よりも活躍してないように描かれている兄・剛造ですが、実は初代長州藩海軍総督で・・・ま、責任をとらざるを得ない責任のある立場にあったことは確かです。

そんな兄上を助けることもできずに悩んでいる美和・・・。
がんじがらめの武士の世で・・・たかが女一人に何ができるのか??と、思っちゃうほどですが。。。
”飛んでいくこともできません”・・・って、奥に入ることを決めたのは、あなた自身です。

銀姫には出産に当たり、お見舞いの品と称したお祝いの品がどんどんと来て大忙しなんですよ。
奥になってからよく判んないところは、誰が悪なんだろう??ってとこかな??
園山さまも、美和を雇ってみたり、でも疑ってたり・・・だいたい身分の怪しいものは雇わんやろう・・・
日出に至っては、性格が悪いのは解りますが、誰の命令??とか、何をしたいのかが全く解りません。
同じ解らない・・・でも、「軍師官兵衛」の荒木村重くらい、怪しいというか、嫌らしい人間を出してほしいものです。

幕府が長州藩に出した命は・・・
①殿とお世継ぎ様の謝罪
②五人の公家衆の引き渡し
③新選組をはじめとする諸隊の解散
と、赤禰武人が解説してくれてます。

ここでおさらい・・・
どうして長州藩が窮地に陥っているかというと・・・
禁門の変での戦後処理・・・落とし前をつけなければならなかったということ・・・。
まず、直接の敵は、会津藩・松平容保&薩摩藩・西郷隆盛。
時の天皇・孝明天皇は松平容保に兄弟の契りのように全幅の信頼を寄せていて、長州藩の入る隙はほとんどなかったということ。。。
その孝明天皇に話すら聞いてもらえず、結局御所に向かって発砲し、京都に火を放ってしまった長州藩。
そうそう、落とし前つけないと駄目ですよね。。。

ということで、責任をとって三家老が切腹・四参謀が打ち首に至ったわけです。
幕府側としては、「長州藩もよくぞそこまでやったなあ・・・!!」と、ビックリするぐらいの処罰だったわけですが、それでもそれは、長州征伐に来られているし、対幕府の対策としてなのです。
つまり、この人たちの首を差し出すことで、長州征伐中止されたんですから。。。
彼等も、罪人扱いで死ぬより、長州を守って死んだって書いてくれる方が華があったのになあ・・・。
何のための”恭順派による粛清なのか??”まったく教えてくれないので、次々と椋梨藤太によって粛清されているような感覚を受けてしまいます。
ほんと、勝てば官軍とはよく言ったもので、明治がこの人たちが築いたのでなければ”ただのテロリスト”なんですよ。。。

で・・・なんだかいきなり登場した中心人物は、どうも山縣有朋らしいよ・・・。

ああ・・・伊之助の兄・松島剛蔵が処刑されるようです。
↑でも書きましたが、初代長州藩海軍総督ですからねえ・・・処刑されても仕方ない責任のある立場です。
そう・・・伊之助よりは。。。
そして時系列もまたまた狂っていて・・・そう、松島剛蔵が処刑されるのは、晋作が挙兵をした後です。
海軍を指揮した松島剛蔵ですから、晋作が挙兵してその責任をとって・・・みたいな方が、死に対する価値もあろうかと・・・
・・・そして伊之助の投獄も晋作の挙兵後で・・・
そんなこと言っていたら、きりがない花燃ゆです。


で・・・ここで、伊之助も死ぬぞ、死ぬぞな手紙が寿のもとへ送られてきて・・・
どうにかしてほしいと、奥にいる美和のところにやってきました。

ま、ここら辺の事はどうでもいいというか、しらけてしまいます。
だって、死なないことが解っているんだから・・・伊之助!!


奇兵隊も分裂の危機です。
小田村さまが処刑されると慌てていますが、この赤禰武人さんは松島剛蔵の処刑に対してかなり動いてくれました。

きれいごとのように晋作がやってきます。
毛利家譜代の武士だから頑張るとか、赤禰に惑わされ敵の軍門に下るのか・・・みたいなことを言っていますが事実は・・・。

この赤禰武人は、三代目奇兵隊総督なんですが、今回の諸隊の解体&投獄されていた正義派(松島剛蔵もそうです)たちの釈放などの交渉を行っていました。
仲間が過激派の中交渉なので、裏切り者!!と、罵る者もたくさんいたのです。
が、現実的な交渉を根気強く行っていました。

で・・・ここで登場の初代奇兵隊総督・高杉晋作は・・・
そんな赤禰の弱腰を、これでもかと批判しました。
その上・・・
高杉家は代々毛利家に仕える譜代の臣であり、主君への忠誠心は誰にも負けぬ!!とか、
赤禰は、今でこそ奇兵隊総督であるが、所詮は水飲み百姓の小倅にすぎず、しかも家老・浦靱負(うらゆきえ)殿の家来・・・即ち陪臣(主従関係において家臣の家臣、又者(またもの)、又家来(またげらい))に過ぎない身分である!!
そのような忠義の心等かけらもない奴の甘言に惑わされて、諸君は臣下の道を踏み違えるつもりか!!
と、すさまじい形相で大演説を行ったとされています。
あ~、遂に言っちゃったよ・・・ま、今なら強調しているところは”ピー”の入るところです。

奇兵隊は、武士たちで作られたわけではなくて、武士・・・・50%・農民・・・・42%・町人・・・・・4%・僧侶・・・・・4%
詳しくは=奇兵隊150年 奔走する幕末最強集団はこちら

いつも言っていますが、高杉家は家柄も、身分も申し分なく・・・
言い換えれば、明治の代になって士族が無くなった時には、毛利家に対してかなり肩身の狭い思いをしたといいます。
そう、高杉晋作が奇兵隊を作った男だったから。。。
そんなお坊ちゃんが奇兵隊を作るってすごい男だよね。なんですが、やっぱりお坊ちゃんだったのかな??
この赤禰の事~死までは、まさに奇兵隊の黒歴史として赤禰の後を継いだ山縣狂介によって封印されてしまうのでした。

この発言で、武士じゃない奇兵隊の面々のテンションがダダ下がることは目に見えて・・・
現実的な赤禰の方に傾く山縣狂介をはじめとする隊員たち・・・でも、突っ走ってしまう晋作なのでした。
ホントね・・・どこから湧いて出たのよ、山縣有朋!!

そんなこと、このドラマではどうでもいいようで、絶対に助かる伊之助の処刑中止の嘆願ミッションが遂行されようとしていました。
ここら辺はほんと、どうでもいい感じで・・・割愛しちゃおうっかなあ・・・。
と、思っていたら、奥にくる椋梨様に対して毒を盛るように日出にそそのかされる美和。

悩んで眠れないの??
あ~、何だか下っ端なはずなのに一人で寝ているわ。。。
なんだかこの前、住まいが小さいと人員整理したのはお前の部屋を作るためか・・・!?と、ツッコミを入れたくなっちゃうわ

椋梨様がやってきました。
乃木坂どこへ行っちゃったんだよ
そんなんなら出すなって感じだわ。
hana















お酒を飲もうとする椋梨様・・・美和にも勧めます。
そんな身分違いもいいとこじゃないの・・・??
客人の勧めだからと言って飲めという都美姫と園山殿。。。
だから、そんな飲むんだろうか・・・。
ま、この人も死なないしな・・・

おまけに、無礼も無礼、またもや伊之助の助命嘆願・・・。
座敷牢に入れられてしまいました。

眉間にしわを寄せながら見ている私に
「だって史実なんだから仕方ないじゃん。。。」というわが家の旦那。。。
フィクションって解っているくせに言うのよ。。。

そしてびっくり、美和は銀姫様に対して言うのだ・・・!!
「命に代えても惜しゅうない大事なお人なのであろう?」by銀姫
「私の・・・初恋の人にございます。」by美和

???
そんなん、必要ですか??
???
久坂玄瑞の妻なんじゃないの・・・??
誰も興味のないフィクションに以後、割愛!!

koinaka
















「恋仲みたいにしたかったんじゃない??」by娘

そうかもね。。。

そんなこんなで高杉晋作挙兵!!
って・・・若殿が伝令かい・・・??
もう・・・全てがおかしく見えてしまう。。。

お・・・五卿まだおったんや・・・と、随分前に八つ橋作ってたのを思い出すわ・・・。
そのお世話、せんで良かったんか・・・美和。

ま、高杉と赤禰のエピソードもそうですが、いきなり山縣有朋が出てくるし・・・
後に高杉は、
「武人の心中を洞察することが出来ず、生命を全うさせることが出来なかったのは残念であった。」
と・・・結核で亡くなります。

山縣は・・・内閣総理大臣にまで上り詰めます。
山縣が総理大臣の間に、吉田松陰・佐久間象山・・・かつて処罰された志士たちの名誉回復が行われました。
しかし・・・家族の強い要望にもかかわらず、赤禰の名誉回復は叶いませんでした。。。

東行庵・・・高杉晋作をまつるその場所には、奇兵隊諸隊隊士の130の墓碑が祭られています。
この地に赤禰の墓が立てられたのは死後およそ100年経っての平成7年の事・・・。
奇兵隊結成から150年のことです。

3人には三様の想いがあって・・・
その想いを考えた時に、この3人の絡みというか・・・人格を大事にドラマにしてくれたら、もっと良いお話が出来たと思うと残念です。


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