大河ドラマ 天地人 総集編 全2枚セット

価格:8,424円
(2018/3/20 11:25時点)
感想(0件)



1600年9月15日、徳川家康と石田三成が天下の覇権をかけて戦った関ケ原の戦い・・・。
まさに、その同じ日に、遠く出羽国で運命の戦いが繰り広げられていました。
上杉家の武将・直江兼続が最上義昭を攻撃した長谷堂合戦・・・別名、「北の関ケ原」と呼ばれています。
愛の兜で名高い直江兼続・・・この時の決断は、時代を大きく左右しました。

新潟県南魚沼市・・・雲洞庵に直江兼続の幼少期のエピソードが残っています。
兼続5歳・・・上杉謙信にその才気を見込まれ、後継者である上杉景勝の補佐役として育てられました。
兼続は5歳年上の景勝に生涯忠誠をつくし、共に戦国乱世を生き抜いていきました。

兼続を奉行としてほしいと言われた重臣に・・・
「兼続には、全てにおいて隙のないほど政務を命じている
 奉行に就任すれば支障が出てしまう。」by景勝

兼続に課せられた役目は・・・
天下統一の流れにどう対応していくのか??ということでした。
そんな中で、豊臣政権との交渉の結節点、上杉川側の中心に兼続が立っていました。
上杉家は、中央政権と密接にかかわることで、越後支配を盤石にしました。
これは、上杉家の大きな決断でした。

1598年1月、豊臣秀吉から上杉景勝に思わぬ命令が・・・
「越後を離れ、会津に移るべし!!」
背景には、最大の実力者・徳川家康の不穏な動きにありました。
家康は当時、関東7か国を統治、伊達政宗、最上義光ら東北の大名と関係を深めようとしていました。
秀吉が上杉家を120万石に加増して会津に移したのは、これににらみを利かせるためでした。
更にこの年、景勝は、毛利輝元・宇喜多秀家・徳川家康・前田利家らと五大老のひとりに選ばれています。
景勝は、家康をおさえるキーマンに抜擢されたのです。
ところが・・・その年の8月、秀吉が亡くなると、時代は大きく動き出します。
1599年、徳川家康は伊達政宗と縁組・・・
東国での更なる勢力拡大に動いたのです。

奉行のひとり石田三成がこれに反発・・・前田利家の力を借りて、家康の動きを阻もうと試みますが・・・
頼みとしていた利家が病死、石田三成は佐和山城に蟄居となってしまいました。
主な政敵をことごとく排除した家康は、大坂城に入り、政務を行いはじめます。
そして・・・次なるターゲットとしたのが上杉家だったのです。

1600年4月上旬・・・兼続の元へ家康の外交僧・西笑承兌から書状が届きます。
”近隣の大名家が上杉家に謀反の動きがあると訴えてきた・・・
 景勝公は神指原で築城を進めているそうだが、甚だ本当ではない。
 一刻も早く上洛し、家康公に弁明すべきだ!!”
その頃、上杉家は若松城に代わる城の工事を始めていました。
家康は、この築城が謀反の証だと糾弾したのです。

会津若松から5キロのところに、神指城跡があります。
面積50ヘクタール、東日本最大の近世城郭でした。
発掘された内堀は、浅い段階で中止されていました。
会津と新潟を結ぶ阿賀野川・・・そのすぐ脇に神指城を造っていました。
水上交通で経済を発展させ、平地に街をつくる城下町構想でした。
狙いは・・・会津と越後を水運で結ぶことにありました。
その結果、商人たちは日本海航路を使って、産物を全国に輸出することができました。
築城は、会津に一大貿易都市を築くプロジェクトだったのです。

1600年4月14日、兼続は、西笑承兌に宛てて返書を認めました。
史上名高い「直江状」です。
兼続は、15項目に渡って天下の実力者・家康に向かって真っ向から反論します。

謀反のため武具を集めているといわれるが、槍鉄砲を集めるのは田舎武士にとっては日常の事。
逆心無くば上洛せよとは乳呑子相手の話・・・何とも対応の仕様がございません。
そもそも訴えたものの究明がなければ、上洛するわけにはまいりません。
兼続は家康に対して、景勝上洛は断じて飲むことはできないと主張しました。
1600年5月・・・事態は一転和解へ・・・。
大坂からの使者からの粘り強い交渉で、景勝上洛が取り決められました。

交渉における兼続の主張は・・・??
・上杉謀反を讒言した人物の取り調べ
・秋以降の上洛
妥協し、提示しました。

しかし、その思惑は、あっけなく覆されます。
家康が一足先に届いた直江状を逆手にとって、上杉家に対して態度を硬化したのです。
6月10日漬けの景勝への書状には・・・
「即刻上洛しなければ、会津へ出兵する」と書かれていました。
両者、一触即発となってしまったのです。

1600年6月16日、家康は会津征伐に出陣!!
秀頼から軍用金と兵糧が下賜され、豊臣政権の公的出兵と位置付けられます。
作戦は・・・伊達政宗、最上義昭が会津に通じる4つの街道から進軍・・・
家康と秀忠率いる本隊は、関東から上杉の本拠地・若松城に攻め込む!!
総勢10万を超える一大作戦でした。
兼続も、城石、米沢など領内の城に防衛体制を取らせます。
上杉景勝は、軍勢を率いて若松城を出陣!!
その数5万!!上杉の存亡をかけた防衛戦が始まろうとしていました。
ところが・・・戦端が始まろうとしたまさにその時・・・思わぬ事態が・・・
石田三成が挙兵したのです。
三成は、大坂城の奉行衆を説得し、豊臣政権を掌握したうえで全国の諸大名に打倒家康の檄を飛ばしたのです。
7月24日、家康、三成の挙兵を知り、
翌25日、江戸への撤退を決定!!
小山でこの知らせを聞いた家康は、全軍に会津征伐中止を・・・そして、撤退を始めたのです。
今や、家康は賊軍となっていました。
会津に三成の使者が来たのは、8月上旬。
どんな相談が持ち掛けられたのでしょうか?

真田家に西軍に加わるように要請する書状に、上杉との密約の内容が書かれていました。
”会津の上杉には、早々に関東表に出兵するように求めている”
つまり、家康の本拠地への侵攻作戦です。
しかし、家康は退却しながらも、着々と策を練っていました。
上杉に対する情報のかく乱もしていました。

兼続は・・・??
すぐに家康を追撃する??それとも??
家康派の急先鋒、伊達政宗と最上義光は・・・??
奥羽を固めて関東を攻める??

8月25日・・・景勝が石田三成に送った書簡には・・・
奥羽を掌握した上で関東出兵を実行するという手堅い策でした。
兼続は、すぐさま伊達と最上に対して降伏勧告を出します。
ところが、最上義光は一旦承諾したものの・・・時間稼ぎに終始します。
このままでは関東侵攻作戦は水泡と帰す・・・。
9月11日、兼続は大軍を率いて最上領へ侵入。

長谷堂城は、山形城の喉元に築かれた要の城です。
9月15日、上杉軍は、城の前の高台に陣取ってこれを包囲!!
上杉勢の兵力は最上勢のおよそ10倍・・・
容易に落とせると思った兼続は、長谷堂城への攻撃を敢行しました。
ここに、北の関ケ原と呼ばれる長谷堂合戦開始!!
ところが、この戦いで上杉軍は、最上軍を上回る死者を出してしまいます。
最上は、上杉との戦いを見据え、この城の要塞化を進めていたのです。

最上勢は、城の斜面に配置された切岸と曲輪を利用して上杉軍の猛攻を食い止めます。
怯んだ上杉軍の側面を、山形から派遣された伏兵が攻撃!!
上杉軍は総崩れとなります。
結局、兼続は3度にわたって攻勢をかけるものの断念せざるを得ませんでした。

北の開戦と同じ9月15日・・・関ケ原の戦い!!
決着は僅か1日・・・東軍の圧勝でした。
最上義光のもとに、この知らせが入ったのは9月30日。
時を同じくして兼続にも西軍敗れるの報が・・・。
最早ここまで・・・10月1日、上杉軍撤退開始。
最上勢がここぞとばかりに襲い掛かりますが、兼続も周到に構築した退却用陣地から鉄砲をあめあられと撃ちかけ応戦します。
最上義光・・・総大将の負傷に浮足立つ間に、無傷で撤退に成功!!
しかし、関東へ乱入し、家康と雌雄を決するという兼続の野望はここについえたのでした。

山形にある出羽亀岡文殊堂・・・
関ケ原の2年後、兼続が開いた歌会の記録が残されています。

「新を迎え旧を送る」

図らずも、会津から米沢に国替えをされて半年・・・その歌には、多くの家臣を引き連れて新しい人生に踏み出す兼続の決意が込められていました。

米沢には、今も兼続治世の名残があります。
最上川流域10キロにわたって作られた直江石堤・・・川の氾濫から田畑を守るために、兼続が率先して指揮を執って一つ一つ石を積み上げました。
戦のための石垣づくりから、民を守る石堤作りまで・・・兼続がこの世を去ったのは、関ケ原から20年後の事です。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

家康に天下を獲らせた男最上義光 [ 松尾剛次 ]

価格:2,376円
(2018/3/20 11:27時点)
感想(0件)

【中古】 上杉景勝と直江兼続 義と愛の絆 名将・名軍師立志伝/戦国歴史研究会【著】 【中古】afb

価格:237円
(2018/3/20 11:27時点)
感想(0件)