日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:関ケ原

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関ケ原・・・そこには、当時の武将たちの陣営がたくさんあります。
町全体が戦場になっていました。

sekigahara












美濃国・・・岐阜県関ケ原、この小さな町で、400年以上も前に日本史上最も大きな戦い・・・関ヶ原の戦いが行われました。
秀吉亡き後次の天下人を狙うのは、徳川家康。
そんな家康に真向から対立したのが石田三成。
秀吉の死から2年の1600年9月15日、両雄ここで会いまみえました。

三成率いる西軍8万4千に対し、家康率いる東軍は7万4千。
16万もの兵が決戦に及びました。
まさに、関ヶ原の町は天下分け目の町、見届けてきた町です。

午前6時・・・
夜からの雨・・・濃い霧に包まれた関ケ原で、日本の覇者を決する戦いが幕を開けようとしていました。
霧が晴れてきた午前8時ごろ・・・
一発の銃声が戦場に響き渡り・・・開戦の火蓋が切られたのでした。
最初に仕掛けたのは・・・東軍・・・井伊直政・松平忠吉でした。
福島正則が仕掛けると決まっていたのに・・・。

そもそも、花形の先鋒は、豊臣恩顧の大名ながら東軍についた福島正則でした。
しかし、突然徳川譜代の2人が先鋒を奪ってしまったのです。

7万4000のうち・・・徳川は3万・・・。
その他は、もともと豊臣方でした。
勝った後、この中で実権をとるためには、徳川譜代によって戦を始める必要があったのです。
徳川の勝利をイメージさせるために、家康によって仕組まれていました。

どうして家康は勝つことができたのか???
そこには大変な苦労がありました。

原点は岡崎。
1542年12月26日、三河国岡崎に生まれました。
家康が幼い頃、岡崎城はまだ砦。

生まれた時の伝説は。。。
井戸から龍が立ち上った。。。龍ヶ井。
「英雄児の生まれ出づるを待つが如く
 城楼の上に雲を呼び風を招く
 金鱗の龍を見たりと云う」

龍が立ち上った伝説の城・・・岡崎城は龍ヶ城とも呼ばれています。
しかし、岡崎での暮らしは長くは続かず・・・6歳の時から、織田家に2年、今川家に11年人質として過ごしたのでした。

育った町・・・駿府では。。。
今川義元の時代に過ごしました。
今川家の菩提寺、大龍山臨済寺では・・・
戦国最高の軍師・・・黒衣の宰相と呼ばれる僧侶、太原崇孚雪斎。。。
義元を天下に最も近い男にした教育係に学びます。
家康を人質として連れてきたのが雪斎でした。
雪斎が儒学や兵法を教えたと言われています。
全てはここから学んだ・・・
非常に吸収力がよく、その知識は家康の財産となりました。
義元も家康をかっていたのです。

1560年桶狭間の戦いで・・・
松平元康(家康)は19歳、今川の家臣として参加していました。
義元が討たれて退却・・・
菩提寺である大樹寺で腹を切ろうとしていた時、住職・登誉上人が・・・
「厭離穢土 欣求浄土」
”苦悩の多い汚れたこの世を
 厭い離れたいと願い
 心から欣んで
 平和な極楽浄土を冀うこと”

戦のない平和な世を解いた上人に、命を救われたのです。

そして今後、この「厭離穢土 欣求浄土」を旗印に、天下統一を目指すのでした。

関ケ原で最も重要な地は・・・
家康最後の陣跡。
午前10時ごろ・・・桃配山に陣を置いていた家康が最前線へ!!
どうして危険を冒してまで最前線へ???
それは午前9時ごろ・・・西軍優勢の形になっていました。
西軍は鶴翼の陣!!そして東軍の後ろ南宮山には毛利が!!
西軍の圧倒的有利・・・敢えて本陣を最前線へ持ってきます。
これは小早川秀秋に対する威嚇でもありました。
松尾山・・・小早川を動かす為だったと言われています。
この小早川の東軍への寝返りで・・・一気に形勢逆転です。

関ケ原から遡ること28年・・・1572年にあった三方が原の戦い。
当時戦国最強の武田信玄との戦いで、人生最大の敗北をしてしまった家康。
こ最大の負け戦があったからこそ天下をとれたと言います。
その舞台は静岡にありました。
当時信玄は、織田信長を倒すために3万の兵をもって挙兵!!
信玄は浜松を素通りし・・・三方が原へ向かいました。
気性が荒く短気だった家康。。。
1万1000の兵を率いて出発しました。

武田軍を追って進軍する家康。
祝田坂で・・・武田軍が反転し、家康を待ち構えていました。
信玄の罠にかかったのです。
撃破される家康は、命からがら浜松に帰ったのでした。
その時に描かれたのがしかみ像です。
もし勝ってしまっていたら・・・信長に殺されていたかもしれません。。。

まだまだ関ヶ原の戦いは続きます。
続きはまた後で。。。

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感想(1件)

懐かしいです。「その時歴史が動いた」です。

1600年9月15日・・・関ヶ原の合戦で・・・
豊臣・徳川が16万の軍勢で戦いました。
天下分け目の戦いです。
東軍の総大将は徳川家康、西軍は石田三成。
東軍7万五千、西軍8万2千の戦いでした。
不利だった陣形の東軍が、どうして勝てたのでしょうか?

その勝利の秘密は、合戦から半年前の・・・外国船の漂着にありました。
その積み荷は・・・西洋の武器が!!!
その中で、家康が最も重要視したのが西洋式甲冑でした。

鉄砲の弾を跳ね返す!!!

それを改良した南蛮甲冑で戦いました。

当時最強の甲冑だったのです。
家康、最前線へ!!!
動揺した西軍・・・家康の大勝利となりました。
鉄砲の弾をも跳ね返す南蛮甲冑とは???

大分県臼杵市黒島1600年3月・・・オランダ船・リーフデ号が漂着しました。
この船が日本の歴史を大きく変えました。

航海の途中暴風雨で日本に漂着したのです。
その頃、実権を握って大坂城にいた家康は・・・大坂・堺で積み荷を調べました。
織物・ガラス玉・・・そして武器弾薬。。。小銃50丁大砲19門、砲弾5000発、火薬2500㎏・・・そしてその中に見たこともない西洋製甲冑がありました。

その船に乗っていたのはウィリアム・アダムス(三浦按針)。。。
アダムスは、銃撃戦で身を守る道具だと教えました。
日本の甲冑は・・・小さな金属の板を組み合わせて作っていました。
だから、板の間に弾がめり込んでしまうのです。
しかし、西洋甲冑は分厚い鉄板1枚で・・・鉄砲の弾を弾き返しました。

密かにこの甲冑を江戸に運びます。

1600

関ヶ原の戦いは、当時でも類を見ないほどの銃撃戦でした。
日本は様々な銃が開発される銃大国となっていたのです。
そして・・・日本の甲冑と西洋甲冑のいいところを取り入れた甲冑を作ります。

起伏の多い日本に良いように改造されていました。
まさに、秘密兵器だったのです。

当時はまだ防御することに引け目を感じていました。
”守る”という価値を見出したのです。

7月2日家康は大坂から江戸へ・・・
会津に上杉景勝謀反の疑いで討伐に向かったのです。
1月17日家康を快く思わない人たちが、大坂城で挙兵します。

その中心が石田三成でした。
9万5千の兵を集めます。

上杉景勝の挙兵も実は三成の罠・・・家康を挟み撃ちにしようとしたのでした。
7月24日小山のあたりで三成の挙兵を知ります。

引返し三成と???
しかし、この時家康と一緒にいた兵のうち家康直属は3千。
残りの5万5千は豊臣系の武士でした。
家康ピンチ!!!
7月25日小山軍議が行われます。

以外にも・・・家康に従います。
家康は黒田長政に南蛮甲冑を与えています。
それは、家康につくように豊臣系の武将を説得したことへの見返りだったのです。

福島正則、加藤嘉明・・・家康は、豊臣政権の中枢を担う人物を説得していきます。
こうして家康軍は、3千から5万8千となったのです。

8月10日三成は大垣城へ・・・
その兵力は8万2千。ここを西軍の前線基地としました。
8月24日東軍の福島正則、黒田長政ら大垣城近くの赤坂に布陣。
総大将家康の到着を待っています・・・。

その頃、家康は江戸城で戦略を練っていました。
9月1日極秘に出発。。。三成の虚をつくために・・・。
そして、9月14日正午赤坂に到着!!!
突然翻った葵の紋に、三成は浮足立ちました。

家康はこの西軍の動揺に・・・大坂城へ登ると偽情報も流します。
きっと三成は大垣城から出てくるに違いない!!!

夜7時三成率いる西軍は大垣城を出ました。
関ケ原で待ち受けて・・・戦う準備を始めます。
そして家康も、秘策・・・南蛮甲冑をつけて7万5千の兵で、夜中に出発します。
西軍は8万2千の兵で陣取った場所から家康を見下ろしていました。
山から見下ろされる場所・・・平野に陣を敷くことになった家康・・・。

9月15日8時・・・
天下分け目の関ケ原の合戦が始まりました。
火ぶたを切ったのは井伊直政。
福島正則も突進します。黒田長政、加藤嘉明・・・家康から南蛮甲冑を貰ったメンバーが躍り出ます。
しかし・・・一進一退。。。
東軍は劣勢になっていきます。
桃配山の陣から見ていた家康は・・・
松尾山に陣取っていた小早川秀秋に苛立っていました。
合戦が始まると同時に寝返るという話だったのに・・・!!!

午前11時・・・。
家康は決断しました。
桃配山から最前線へ!!
南蛮甲冑に身を包んだ家康が叱咤激励をします。
黒田長政隊が前線を突破!!!
さらに小早川秀秋は・・・三成に裏切りの意思を固めたのです。
西軍の陣へ攻め込みます。

小早川の裏切りに、西軍の包囲網は崩壊してしまいました。
午後3時東軍勝利!!!
開戦から7時間のことでした。

16601

和歌山県立博物館に家康が来たとされるものがおさめられています。
弾のあとが残っています。
試し撃ちをして戦いに臨んだようです。

この甲冑によって天下を手中にし、徳川260年を築いたのです。





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BSプレミアムの新番組です。

これって、BS歴史館の時間帯なのかしら???

で・・・今回は、「徳川家康 関ヶ原へのジレンマ」でした。

コンセプトは題の通りに”選択”です。
歴史にifはないんだけど、そこを切り込みます。

NHKのページには・・・

東軍を率いた徳川家康は、堂々の大勝利を収めたとされるが…。
実は直前まで、家康はいつどこで戦うべきか、悩みに悩んでいた。このとき3つの選択肢があった。
その一つは、西軍の拠点だった大垣城を水攻めする作戦!さらには、主力軍がすべてそろうまでずっと待つという案も!ではなぜ関ヶ原で戦うことを最後に選んだ?
「選択」という切り口で歴史に迫る新機軸の番組。意外な家康像が見えてくる!

というものでした。

で・・・見てみたんですが、どうでしょう???

関ケ原の合戦時・・・
私たちは歴史を知っているので、”徳川軍大勝利”と思っていますが・・・
この決戦は望んでいなかったというのです。

家康の選択は・・・3っつ。。。

①水攻め・・・理想策
②城に籠もり主力軍を待つ・・・進長作
③野戦・即時決戦・・・大胆策

とありました。

秀吉亡き後の政権の運営は・・・
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝・・・
筆頭は家康でした。
反抗する上杉景勝を成敗するために・・・小山の地にあったのですが・・・
これは、秀頼の代理としての出陣でした。
軍の大半は、豊臣恩顧の大名たちで占められていました。

上方から・・・石田三成の挙兵の知らせが!!
家康に反旗を翻したのです。
この時の逆賊は三成!!

あ・・・なんか、明治維新時の錦の御旗みたいなこと言ってるよ・・・

小山評定で・・・
福島正則の家康を支持するという一言でなんとか三成を討つという方向になりますが・・・

誤算其の一
三成の挙兵が豊臣政権の正統なものとなったこと。。。
それは・・・家康の逆賊を意味しました。
家康はこれ以後、寝返りにヒヤヒヤしながらの戦いとなります。

誤算其の二
秀忠3万の兵が・・・美濃で合流できず・・・
信州上田の真田攻めにてこずっていました。
ちなみに・・・家康軍は旗本軍・秀忠軍は先備え・・・
秀忠軍が主力だったのです。
いつ寝返るかもわからない戦力で闘わなければなりませんでした。

これを政治=宮﨑哲哉さん、 軍事=小谷賢さん、 脳科学=中野信子さんが考察してくれました。

戦場は不確実であること、想定外が想定内であること・・・
それをいろいろと考えてくれました。

秀忠軍を待つか、待たないか???

一刻の猶予もない中で・・・3つの選択のうちのひとつをしなければなりませんでした。

この・・・
①水攻め・・・理想策
②城に籠もり主力軍を待つ・・・進長作
③野戦・即時決戦・・・大胆策
の中からどれがいいのか選択するのです。

小谷さん中野さんは③。

実際はもちろん③なわけですが・・・
いろいろ言ってくれるのは解るのですが、私がうがっているからでしょうか???

「だって、本当は③じゃない・・・
 家康が③って言ったら、③が一番いいんだよ!!!」
って思っちゃって

パパに・・・
「ほら、③だから、①も②もないよ。。。
 誰か、言ってくれないかなあ・・・」
って言っていたら、宮崎さんが①がいいと言ってくれたので、ホッとしました。

それはなぜか???
主力軍が間に合っていない・・・
そこには、東軍が徳川主体となるということに政治的意味が含まれているからです。
軍事的な効果ももちろんですが、合戦の果実をどう分配するか???
そこに”秀忠を待つ”という大きな意味がありました。

家康は、徳川幕府を築いたものの・・・
それは盤石なものではなく・・・
東軍についた豊臣系武将に多大な恩賞を与えることになります。
福島正則・・・安芸49万石
黒田長政・・・筑前52万石
西軍から没収した632万石のうち大陸に近く先進的な地・・・80%を豊臣系の武将に与え・・・
家康と徳川武将は・・・関東に1/3の領地を持つだけとなってしまうのです。

そして・・・地方分権的な統治システムを組まざるを得ない・・・ようになってしまったのです。
家康の心配のタネだった西国・・・
関ヶ原の戦いで西国であったにもかかわらず生き残った薩摩と長州・土佐・・・
力を蓄えたこの藩によって、明治維新は行われるのです。

番組的には、もし選んでいなかった①②だった場合の歴史を語ってくれました。

う~ん、どうでしょう?

番組としては面白かったです。
ま、今回は、勝利者の家康だったので、③だろう!!③しかないだろう!!って感じでしたが、
例えば失敗例をとったら・・・
もし三成が・・・とか、もし本能寺が・・・とか、そんな感じの方が、
いろいろ話が膨らんでも白かったのでは???
と思いました。

ただ・・・ライバルたちの光芒もそうなんですが・・・どちらの人が好きとか、どちらをとってればよかったとか・・・それは蛇足のような気もするのです。

だって、好きな武将は好きだし、好きな場面はそうじゃないと嫌。。。
文献で論理的に教えてくれえると”なるほど”って、もっと面白いんじゃないかなあ・・・って思うからです。

おばさんの凝り固まった頭はやっぱり・・・
”好きなものは好き”なのでした。

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剣術で天下泰平 将軍家指南役
先日のBS歴史館です。

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柳生宗矩さんです。名前だけで、うっとりしてしまいます。(* ̄∇ ̄*)

剣術で平和を作り上げた男です。この剣術とは、ご存知柳生新陰流です。剣術とは、人を斬るためのもの、つまり凶器でしたが、この柳生新陰流は、人を殺さない剣、活人剣でした。

(命を)取らず、切らず、勝たず、負けざる剣だというのです。

将軍家兵法指南役、柳生宗矩は、戦国から平和へと流れる世の中で、殺人刀から活人剣へ、やって良い事と悪い事の仕分けを行った人物でした。剣術を人を活かす為に使ったのです。

徳川実紀にも、柳生宗矩の活躍や、人を殺めたという記録は残っていません。では、一介の剣客が、どのようにして徳川三代に仕え、閣僚になり、どのようにして大目付までに出世したのでしょうか?

この柳生宗矩、有名な柳生十兵衛の父です。天下一と謳われながら、武勇伝はありません。というのも、いわゆる機密工作(スパイ活動)に当たっていたせいか、記録は残っていないのです。

もともと、柳生の里の剣術使いでしかなかった男を変えたのは、家康との出会いでした。

関ヶ原を遡ること5年前・・・。家康は、京都にて宗矩と、父石舟斎との試合を見ました。宗矩が刀を持ち、石舟斎が素手だったこの試合、宗矩が吹っ飛んで終了します。これは、柳生新陰流、・無刀取りといわれる技ですが、それを見た家康は、石舟斎に指南してくれるよう申し入れます。

が、歳もあり、24歳の宗矩が指南することになるのです。名もなき若き剣客の、未曾有の大出世の始まりでした。

が、この時代、剣術指南役なんていませんでした。みんな、戦場で、実践で強くなるのですから・・・。でも、家康はお稽古事が大好きで、弓も剣も習っていました。だから、剣術指南役は、天下を取った家康を真似て、各大名が指南役を置きだしたのです。

話は反れましたが、宗矩は、1571年奈良市柳生町で柳生但馬守宗厳の5男として生まれます。

では、柳生新陰流とはどのような剣術なのでしょうか?この”陰流”とは、室町時代に始まった剣術の流派のひとつをついでいます。陰流とは、刀・片刃の剣を指します。当時の最高水準の剣術であったそうです。

”陰”というのは、”陽”(隙間)が入らない=刀の陰に隠れるところから始まります。相手の目線から外れ、相手が攻め込んできたところを打たせて勝つ、というもので、気を起こし、殺気を感じ、自分を守るのだそうです。

また、禅の考え方も取り入れ、沢庵に師事し、死の恐怖を克服し、悟りを開く剣術を作ろうとしたのです。

武道を通じて、人格を養う、精神的な面を大切のしました。
「兵法は人を斬るにあらず 悪を殺すなり」剣を取らない剣豪の誕生でした。

この頃はまだ、秀吉の時代、朝鮮征伐で不満が爆発し、徳川家康への期待が高まっていました。
この、一介の剣客が重用されるようになったのは、剣術以外でも、例えば諜報、スパイ活動に長じていたからでした。

宗矩の本当の武器は何だったのでしょうか?

天下分け目の関ヶ原、どうすれば石田を始末できるのか?宗矩の使命は伊賀者甲賀者と通じ、石舟斎と共に西軍の背後を撹乱する工作でした。これは、彼が、忍者との係わり合いが深く、情報収集のネットワークとして使っていたからでした。東軍、西軍、徳川の見方に引き入れる為に・・・。

この後、宗矩は1000石の旗本となります。将軍家指南役となりました。柳生新陰流が日本一のブランドとなった瞬間でした。

大坂の陣では、城の攻撃の責任者に抜擢されます。例えばお堀を埋める・・・。とか、案を出したのかも知れません。

千姫の救出作戦は、本当にあったかどうかはわかりませんが、豊臣家の家臣、大野治長が、命乞いの為に大阪城の外に出したのではないか?といわれています。

しかし、この大坂の陣で、宗矩が何をしたか?という正式な記録はありません。が、一介の剣客にはふさわしくないダイナミックな考え方で、彼は間違いなく徳川家のCIA長官だったのです。

彼が使った忍者とは?もともと、伊賀たや甲賀は山の中。米や作物はなかなか取れず、貧しい生活を送っていましたが、いつの頃からか”情報”を売って生活するようになっていたのです。そしてそのためには強くなる=忍術や剣術を使い、雇われ傭兵のようになっていったのです。

柳生家も、徳川家に仕えるまでは、組織としてフリーランスの状態でした。つまり、石舟斎が息子を家康に仕えさせたのも、石舟斎自身には色々なしがらみがあったからなのです。

江戸時代に入り、元和えん武という時代がやってきます。武器を納めて使わない、という時代です。

そんな中、坂崎出羽守の暴発が起こります。
これは、千姫の結婚について・・・
  ①自分にくれるといったのに、秀忠が約束を破った
  ②結婚相手を探したのに、反古にされた。

何が理由かわかりませんが、この反乱事件を一任されたのが宗矩でした。
屋敷に単身、丸腰で行き、説得します。幕府は、自害するならば、それと引き換えに家名は存続させると約束します。出羽守は切腹、この事件の解決が宗矩の評判を高めますが、幕府は家名の存続を撤回し、家はお取り潰し、所領は没収となるのです。

宗矩は、幕府が約束を反古にしたことに心を痛め、息子や家臣を引き取っています。

以前はこのような反乱があった場合、武力を持って征するのは当然でしたが、これを機会に話し合いの時代に入ったのです。まさに活人剣、柳生流の真骨頂でした。

「収まれる時 乱を忘れざる 是兵法也」
平和の時こそ火種は消さなくてはならない。これをスローガンに、忍者を使い、各地の大名の弱みを握り、ブラックリストを作ります。今後、大名の「改易」を一身に背負い、幕藩体制を支えるのです。

台風による水害で壊れた城を修理した安芸49万石の福島正則を武家諸法度違反として改易、これ以外にも、改易にされた大名は100以上に上ります。

徳川幕府は大名との連合政権でした。つまり、家康や秀忠が支配しているわけではなく、それぞれの国をお殿様が治めているわけです。つまり、すべてが仮想敵国なのです。

それを潰していくのが惣目付であり、そのためには情報ネットワークが必要でした。この仕事が戦争の目を摘むことになるのです。つまり、マキャベリズム(政治において、目的を達成するために、手段を選ばないこと。戦争よりはまし)なのです。

そうして、幕藩体制は磐石なものになって行きます。

秀忠の死と同時に惣目付(大目付)となります。

彼は、貧しく虐げられていた忍者を江戸に集めます。笄町という場所が東京にありますが、これは甲賀伊賀町がなまったものだといわれています。彼らに土地を与えて、影の軍団に市民権を与えたのです。

忍者を正当化し、情報の大切さを知らしめたのです。

彼は徳川三代に仕えます。家康には「天下取り」を、秀忠には「安定」を、家光には「治にいて乱を忘れず」という心構えを教えたのです。

この先、柳生家は残りますが、少なくとも宗矩ほど活躍はしません。十兵衛は実行部隊の隊長で家は継がなかったと思われます。まあ、影なので、輝くことはありませんね。

76歳で生涯を閉じるのですが、家光は「宗矩がいたらどうしただろう?」と、いつも言っていたそうです。

剣術だけではなく、天下の指南役だったのです。

ああ、宗矩と書くだけで、山村聰さんの顔がちらついていました。(* ̄∇ ̄*)
それは、柳生十兵衛暴れ旅でしたね。。。


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