日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:阿弖流為

蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

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京都・清水寺の創建に関わった一人の英雄・・・
その男は、古代の日本で異質とみなされた者たちとの共存を模索し続けました。
坂上田村麻呂です。
朝廷の人々にとって、彼は軍神でした。

時代は平安時代初頭・・・桓武天皇の時代。
平安京とともに桓武天皇が心血を注いだのが、東北の異民族の征東でした。
中央集権化を図るために・・・!!

当時は、宮城にある多賀城が最前線で、都の政庁を摸して作られていました。
その多賀城の役割は・・・??
地域一帯の統治を担う行政の拠点・城柵でした。
そしてもう一つの役割は・・・??
対蝦夷政策のための鎮守府・・・北に攻めていくときの、指揮・統括を担っていました。
8世紀に入ると、朝廷は多賀城を拠点に北上を開始、中央集権を図る朝廷にとって、蝦夷たちの制圧は急務の国家プロジェクトでした。
毛皮をまとい、生き血を飲み、山に登ること禽のごとく、草を行くこと走る獣のごとし・・・
古よりこのかた、いまだ王化に従わず。
未開の野蛮人として・・・!!

しかし、それはあくまで朝廷側の理屈・・・
蝦夷たちにとっては、住み慣れた土地を奪われ、守り続けてきた営みを破壊される。。。
理不尽極まりないものでした。
そして、遂に大反乱がおきます。
780年、伊治公呰麻呂の乱。
城柵の一つ伊治城で、朝廷に服属していた蝦夷・呰麻呂が反乱!!
都から派遣された役人を惨殺する事件が起きます。
これをきっかけに、蝦夷たちの反乱が勃発し、朝廷は大混乱!!
この反乱を鎮めなければ、朝廷の権威は失墜!!
桓武天皇は、都の建設とともに心血を注いだのが、蝦夷の征東でした。

789年桓武天皇は、蝦夷の本拠地・胆沢に5万の軍勢を送ります。
敵の数は多く見積もっても数千!!
そこに立ちはだかったのが、蝦夷軍リーダーの阿弖流為(アテルイ)でした。
名前以外は今でもよくわかっていません。
巧みな戦術で、朝廷軍に挑んだと言われています。
その戦いは・・・。
圧倒的な勢力で向かう朝廷軍に・・・
一旦森に退き・・・誘い込んだ朝廷軍を一斉に攻撃!!
逃げた兵ははさみ打ち!!高名なゲリラ戦で、朝廷軍を北上川に追い込みます。
溺死した兵の数は1000人以上!!
阿弖流為は服属を迫る朝廷に対し、断固拒否を貫いたのです。
桓武天皇にとっては屈辱的敗北でした。
おまけに、現地の将軍が、食料不足を理由に、勝手に軍を解散!!
指揮官の情けない行動に激怒する桓武天皇!!

阿弖流為への復讐に燃える桓武天皇・・・当時34歳の坂上田村麻呂に白羽の矢が・・・!!
武門に秀でた一族として朝廷内で力を増しつつあった坂上氏・・・田村麻呂は出世を期待されていました。

791年田村麻呂を、征東副使に任命!!
田村麻呂はもともと近衛府で出世してきていました。
794年平安遷都の年に田村麻呂は10万の兵士とともに蝦夷たちの元へ攻め込みます。
その戦いの結果は・・・
討ち取った蝦夷の首・457、焼き討ちの村75カ所、坂上田村麻呂は、見事、桓武天皇の期待に応えたのです。
しかし、最大の敵・阿弖流為を倒すまでにはいきません。
田村麻呂と阿弖流為の戦いは、まだ始まったばかりでした。


田村麻呂が東北で繰り広げた意外な作戦・・・それは??
朝廷の施設で、蝦夷をもてなす宴が、盛んにおこなわれていました。
朝廷に服属した蝦夷には、名字を与え、その身分を保証し、課税の免除も行われていました。
征夷大将軍に加え、陸奥守・陸奥出羽按察使などを兼任していた田村麻呂、蝦夷たちの懐柔に動いていたのです。
移民を送り込み土地を開拓、一方、帰順した蝦夷を他国へ移住させる計画も試みます。
互いに利があることを示すため、農業開発を通じた融和策も講じました。
田村麻呂は、どうして武力で圧倒しなかったのでしょうか??

基本的に、武人ではなく武官でした。
戦うのは非効率で不経済・・・国家公務員としていかに効率的に征夷政策をすすめるか??
それが天皇の至上命令でした。
度重なる征夷によって、国の財政はすでにひっ迫、多大な犠牲を払う戦争に、民衆の疲弊も高まってきていました。
いかに戦に頼ることなく、阿弖流為を屈服させるのか??
田村麻呂は、東北の戦後処理まで見据えた難題と向き合っていたのです。
そして最大の作戦が実行に移されます。
802年1月、田村麻呂胆沢に城柵を建設!!
一辺が680m、70万平米の巨大なものでした。

事態は動く・・・
802年4月、阿弖流為、副将・母礼と共に降伏!!
田村麻呂、朝廷の悲願が達成された瞬間でした。
7月・・・田村麻呂は阿弖流為・母礼を連れ、平安京へ凱旋!!
ところがその時、田村麻呂は阿弖流為に・・・
「命を救ってほしい・・・その代わり、後の仲間を説得しよう!」と言われます。
それは、朝廷を恐怖に陥れた男の言葉とは思えない??

阿弖流為の申し出を受け入れる??

大墓公・阿弖流為・・・公は、姓と言い朝廷・・・天皇から授かるものです。
阿弖流為の一族であっても、ある時期に中央政府側の人間だった・・・
上手く説得できれば、中央政府側につくかもしれない・・・??
これ以上の無駄な血を流すわけにはいかない・・・。
しかし、朝廷が阿弖流為を許すだろうか・・・??

阿弖流為の言葉を信じるか否か・・・??
10年以上にわたり、朝廷を恐れさせてきた阿弖流為!!
田村麻呂は・・・??
「この度は、二人の願いに任せて故郷に返し、蝦夷の残党を招き寄せたい。」と、阿弖流為を信じ、助命を嘆願しました。
征夷大将軍の意外な言葉に驚愕した公家たち!!
「野生の獣の心はいつ背くかわからない。
 もし、申し出の通りに奥地に返せば、虎を養って患いを残すようなものだ!!」
そして・・・田村麻呂の助命嘆願から1か月後・・・
802年8月阿弖流為と母礼は処刑されたのでした。
自らの命を差し出し、散った阿弖流為の命・・・!!


7か月後・・・桓武天皇の命により、もう一度東北を訪れた田村麻呂・・・
新しい城柵・志波城を作るためです。
ここを拠点に北に攻め入り、さらなる蝦夷を服属させる・・・それが、託された計画でした。
しかし、志波城周辺には、それまでにない物が・・・蝦夷たちが伝統的に作っていた墓が、それ以後も作られていたのです。
文化を壊さず、既存の勢力を残して間接的に統治する・・・としたようです。
その後、朝廷の蝦夷政策は転換!!
財政と民衆への負担の大きさから、大規模な派兵は打ち切られることとなりました。
阿弖流為処刑の3年後のことです。
朝廷による蝦夷の征討の終息を見届けるように、田村麻呂は54歳でその生涯を閉じます。
その墓は・・・近年有力な説として・・・。
京都・西野山・・・
亡骸とともに埋葬された国宝「金装大刀」・・・
鳳凰が描かれた鏡が発見されました。
勅命により甲冑を付け、立ったままで棺に入れられたと言われています。
都の守り神として東に向けて埋葬された・・・
それは、征夷大将軍としての宿命・・・
田村麻呂は、古代日本の軋轢を象徴する存在でした。

死してなお征東する田村麻呂!!

坂上田村麻呂の伝承は、各地に残っています。



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教科書には載っていない 日本の戦争史

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田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション) [単行本] / 新野 直吉 (著); 吉川弘文館 (刊)
田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション) [単行本] / 新野 直吉 (著...

794ウグイス平安京・・・

西暦794年、日本の都が京都に定まりました。
このプロジェクトを推し進めたのは・・・時の天皇・桓武天皇です。
しかし・・・その桓武天皇をもってしても打ち負かすことのできなかったのが・・・アテルイ!!
東北不屈の英雄です。

aterui.png

アテルイが率いるのは太古から東北地方で生きてきた蝦夷と呼ばれる民でした。
桓武天皇は、自らの威信にかけて・・・東北地方の平定の為に20年間で3度の派兵をします。
しかし・・・アテルイ達の強烈な抵抗の前に、一度も成功を治めることはありませんでした。
このアテルイの記載は、歴史書にはわずか数行。。。
そんな良く知られていない1200年前の壮絶な戦いが、発掘によって明らかになってきました。


当時の蝦夷社会・・・朝廷側の支配は宮城ぐらいまでで・・・中央の支配に従わず独自の文化を形成していました。
20年の戦いは・・・蝦夷の方にしてみると、朝廷側が一方的に攻め込んできた戦いでした。
中央政権の東北侵攻に対し、果敢に立ち向かった蝦夷のリーダー・アテルイ。
朝廷軍との激突はおよそ20年間に3回。
アテルイ達は、そのたびに強大な敵をはねつけました。

そもそも、アテルイ達蝦夷は、どうして中央政権と戦わなければならなかったのでしょうか?
7世紀半ば、蝦夷たちは朝廷の支配を受け入れていませんでした。
そこで、朝廷側が一方的に城柵と呼ばれる拠点を作り、移民を開始します。
城柵建設と同時に・・・支配範囲は北上していきました。

朝廷支配下の陸奥の国が654年に、出羽の国が712年に成立します。
しかし、蝦夷たちはまだ支配下に入ってはいませんでした。

宮城県の城柵・多賀城。朝廷はここを拠点に蝦夷の支配を目指します。
此処には役人と軍隊が常駐、大宰府と並んで「遠の朝廷」として偏狭支配の最重要地点でした。これに対して蝦夷たちが大反乱を起こしました。
それは、激しく焼け焦げた瓦が証明しています。

今から1200年前に、朝廷の拠点が蝦夷によって焼き払われていたのです。
この一連の戦いで中央の役人が焼き殺されたと言います。
780年伊治公呰麻呂の乱です。
桓武天皇は、5万の軍勢を東北に派兵します。
それを迎え討ったのが、アテルイだったのです。
789年巣伏の戦いから始まります。

この時朝廷軍4000に対し、アテルイ軍1500人。。。数に劣るアテルイ達は、地形を巧みに利用。見事な戦いを展開したと言われています。
溺死した朝廷軍は1000人以上、アテルイ軍のゲリラ戦の前に惨敗です。

油断もあったのかもしれません。。。
政府が派遣する兵は農民兵です。しかし、アテルイやモレの持っていた兵は、縄文時代以来持っていた採集経済・・・いつも獣・イノシシ、クマなど・・・狩猟をしていたので、戦闘能力が培われていました。
東北の地で鍛えられた戦闘力で大勝利を治めました。

強さの秘密・・・
①弓矢・・・縄文時代から続く。
②馬・・・もともと産地だった。
③稲作・・・それを支えていたのが稲作。
でした。

もともと蝦夷とは・・・この蝦夷は自分たちが言い出したのではなく、まつろわぬ野蛮な人たちという意味で朝廷から蝦夷と言われていたようです。だから、蝦夷と言っても、いろいろな人たちがいたようです。

794年桓武天皇は、再び大軍を送り込みます。
その数10万以上・・・。
東北遠征にかける並々ならぬ思いの朝廷は・・・秋田方面の城柵を強固なものに改修していきます。
防備を強固なものにしていったようで・・・またあ、革製の鎧も見つかっています。
しかし、アテルイ軍は朝廷を寄せ付けません。

アテルイとはどんな人だったのでしょうか?
もしかすると・・・本当の名前ではないのかもしれません。
岩手県に跡呂井(アトロイ)という地名があります。
そして、田茂山(タモヤマ)も・・・。
大墓公阿弓流為(たものきみあてるい)・・・つまり、アトロイという地域を支配した権力者ということなのかもしれません。
一方、続日本紀によると、北上川の東岸に・・・日上乃湊という港があったとされています。
その場所は、アテルイの勢力範囲にあったと思われます。
アテルイは、朝廷と蝦夷の貿易の中間管理者だったのかもしれません。

軍を率いて勇敢に戦ったアテルイは、盛んに交易を行っていたのかもしれません。
当時、東北からの貿易の品としては、毛皮・馬・金・鷹の羽・昆布・琥珀・・・豊富な幸が、京の雅な文化を支えていました。
アテルイは、まさにその中心にあったようです。

秋田城には、渤海の使者が来たという記録もあります。
771年にも、325人が来航しました。
出土したのは鉄釜・寄生虫の卵・・・これは、当時日本にはなかった豚などにつく寄生虫で秋田城と大宰府からしか出土していません。
この地が、いかに大陸と繋がっていたのかがわかります。

そして、蝦夷たちの交易ネットワーク・・・
蕨手刀から見てとれます。
蕨をかたどった柄の形が特徴です。
東北の人びとが力の象徴として使っていました。
その蕨手刀が、遥か北の北海道網走で発見されています。
そのことから、東北とオホーツク文化が密接に関係していたことがわかります。
この交易から、毛皮やアザラシを送っていたようです。
東北は寒くて閉ざされた土地ではなく、北の文化と南の文化の交わる交易の拠点だったのです。

797年桓武天皇は、最後の闘いに打って出ます。
東北制圧の切り札・・・征夷大将軍・坂上田村麻呂・・・最終決戦の始まりでした。

田村麻呂は戦いだけの人ではなく、人間味もあったようです。
そんな田村麻呂の蝦夷戦略は、構想5年のしたたかで用意周到なものでした。
田村麻呂は、東北に数多くの寺を建立しています。
仏教を使って、蝦夷の同化政策を行おうとしていたようです。
現に、梵鐘・高炉の鋳造所が発見されています。

最先端の農業技術を使って蝦夷懐柔に打って出ます。
切り崩し工作のよって、やがて蝦夷の族長たちが戦線を離脱し・・・
アテルイは孤立していったと思われます。
そして・・・胆沢城を建設します。
役人と兵士2000人を常駐させるのです。
国家権力と地方部族・・・
圧倒的な力の差を見せつけられました。
そして、これを契機に・・・
アテルイと副将モレは、500人の兵を連れて降伏を宣言。
アテルイ降伏を聞いた桓武天皇は大いに喜んで、蝦夷平定を祝う儀式を盛大に開催しました。
そして・・・アテルイとモレは都に護送・・・。
田村麻呂は、この二人の助命嘆願をしたそうです。
それはアテルイに、他の蝦夷を説得させようとしたからだと言われています。
しかし・・・都の貴族たちは聞き入れずに・・・

「殺してしまえ!!」

どうして、突然降伏したのでしょうか???
未だに論議が絶えません。
ただ・・・田村麻呂という男を信用したとか・・・
長い戦いで東北地方が荒廃してしまった・・・
内部から崩壊していった・・・


アテルイの処刑は、京から遠く離れた河内の国でひっそりと行われました。
そこには現在首塚が建てられています。

802年アテルイとモレ処刑

20年も続いた蝦夷の戦いは、二人の命と引き換えに終わりを告げたのでした。
彼らの戦いは・・・「蝦夷が何であるのか」を学ぶ戦いだったのかもしれません。
残照はるかに 阿弖流為別伝
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蝦夷水沫 阿弖流為の叫び 上巻
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蝦夷水沫 阿弖流為の叫び 下巻
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