陰陽師・安倍晴明・・・
晴明といえば、怨霊から人々を守ったヒーローとして広く知られています。
ところが、実像の安倍晴明は、都で役所勤めをする一介の公務員にすぎませんでした。
晴明は、如何にして伝説のヒーローとなったのでしょうか?
京都府上京区清明町・・・晴明神社・・・
この神社は、晴明の死後2年後に、一条天皇の命で創建されたと伝わっています。
晴明はここで、神として祀られています。
神になった安倍晴明とはどんな人物だったのでしょうか?
そもそも安倍氏は、7世紀、大化の改新の頃左大臣を務めた安倍倉橋麿を祖先とします。
しかし、その後、安倍氏は衰退・・・
平安時代の中期となる921年、下級官人の子として晴明は生まれます。
成人した晴明が務めたのが、当時注目されていた朝廷の機関でした。
陰陽寮・・・ここで、陰陽師たちが、国家公務員として働いていました。
陰陽師たちの公務は、多岐にわたっていました。
悪運をはねのけ強運を引き寄せる陰陽師の教え [ 幸輝 ]
主なものは・・・天体を観測して吉凶を占うこと。
陰陽寮では、毎年具注歴と呼ばれるカレンダーが作成されます。
それぞれの日には、吉凶や行動の指針が細かく書かれています。
具注歴は、貴族の生活に欠かせないものでした。
藤原道長の祖父・藤原師輔は、子孫に様々な言葉を残しています。
その中で、まず朝起きたら具注歴を見て日の吉凶を知るべしと書いています。
そして、それをもって行動せよと述べています。
貴族たちは、具注歴を見て政治を行ったり儀式を行い・・・取り決めをしていました。
貴族たちはこの暦に基づき、物忌みと称して家から一歩も外に出ない日があったり、方違えといい不吉な方角に行くのを避けたりしています。
貴族たちが、これほど吉凶や忌みを重んじていたのには理由があります。
それは、当時平安京を包んだ人々の不安によるものでした。
右大臣まで務めた菅原道真が無実の罪で大宰府に左遷され、後に非業の死を遂げます。
すると都では、要人たちが立て続けに病で亡くなるという現象が起きたのです。
そして、前代未聞の災害が都を襲います。
天皇のいる内裏の清涼殿に雷が落ち、大勢が稲妻にうたれ、身体を焼かれて死んだのです。
全ては道真の怨霊のせいだと人々は震えあがりました。
当時は、祟りだけでなく、自然災害や異常気象、疫病の流行や日常的な病でさえも、怨霊や鬼の仕業ではないかと疑われました。
それらの災いを、数々の秘儀で払うことを期待されたのが、陰陽師でした。
陰陽師はどんな技を使ったのでしょうか?
陰陽道の秘伝の書には、「禹歩」といわれる術が書かれています。
北斗七星を含む九つの星の名を唱えながら、独特の足運びでステップを踏み・・・これは、天の星の力を使って、空き家などにはびこる鬼を払う奥義です。
天皇や貴族が新居に移る前などにおこなわれました。
陰陽師は、禹歩など様々な術や儀式を駆使して、災いから人々を守ったのです。
陰陽師たちの活躍は、時代と深く結びついています。
平安時代に入ると、律令制度は崩れて災害や疫病などの発生し、貴族たちは支配者としての自負、自信を失っていきます。
彼等の生活にとって、陰陽師は身近な存在だったのです。
安倍晴明ら陰陽師こそ、平安京の不安解消請負人だったのです。
晴明の名が歴史市場に初めて登場するのは、晴明40歳の時でした。
肩書は、天文得業生・・・つまり、見習いの身でした。
40歳でまだ見習いの晴明が、如何にして平安京一の陰陽師となったのでしょうか?
若杉家文書・・・清明の子孫に仕えた陰陽師の一族・若杉家に残された古文書類で、その数2000点以上・・・。
晴明の名が初めて登場する資料もその一つです。
960年、御所で大規模な火災が発生・・・
この時、大刀契と呼ばれる二本の霊剣が消失してしまいました。
この霊剣を復元せよと勅命を受けたのが、当時、最も有力な陰陽師・・・清明の師匠・賀茂保憲でした。
晴明は、師と共にこのプロジェクトに携わることとなります。
この資料は、事の顛末を晴明が随分後になって書いたものを写したものと思われます。
賀茂保憲が亡くなった後、安倍晴明が自分がやったと自分をアピールしているのです。
977年、賀茂保憲死去・・・
すると、50代後半にして、晴明は独自の歩みを始めます。
師匠の死の翌々年、とある本を世に出します。
「占事略決」です。
これは、安倍晴明が書いた占いに関する本です。
占いの技を書いた書物は、天外不出とされ、賀茂家などの有力な陰陽師が管理独占していました。
晴明は、まるでそれに抗うように1冊のマニュアル本にして発表したのです。
そこには、貴族たちの関心を引く占いの数々が書かれていました。
この書物と共に、晴明の名は広く都で知られるようになります。
遅咲きながら、人気陰陽師としての地位を手に入れたのでした。
986年、一条天皇即位。
晴明は大抜擢を受けます。
陰陽寮を離れ、一条天皇直属の陰陽師・蔵人所陰陽師となったのです。
この時、一条天皇は7歳・・・度々体調を崩し、周囲を心配させていました。
その為、朝廷では健康長寿を叶えるため、様々な方策がとられました。
僧侶たちが呼ばれ、天皇のために加持祈祷を行いました。
一方、晴明は、全く新しい儀式を天皇のために執り行うことを申し出ます。
それが、”泰山府君祭”です。
泰山は、中国にある霊山で、死者の魂がたどり着く場所とされていました。
この山に住み、人間の寿命を司るのが泰山府君という神です。
泰山府君祭で、晴明はこの神と直接交渉し、長寿や健康を叶えることができるとしました。
儀式に欠かせないのが、硯と筆と墨・・・
泰山府君が持つという人間の寿命を書いた帳簿・・・これを大胆にも書き換えてしまうためのものです。
晴明は、密教の加持祈祷を行うような僧とライバル的な意識を持っていて、それに対抗する陰陽道を作ろうとしたのです。平安時代の貴族社会派、先例を守る・・・ことが重要視されましたが、先例と違うことを行うことで、陰陽道の力を発揮したのです。
晴明は、天皇だけでなく、貴族たちの求めにも応じ、この儀式を行いました。
重要な顧客となったのが、まさにその頃出世の階段を上りつつあった藤原道長でした。
道長は清明に厚い信頼を置き、一条天皇に入内した娘・彰子を皇后にたてる吉日を占わせています。
天皇や道長の庇護を受け、陰陽師としての晴明の地位は盤石なものとなりました。
安倍晴明 陰陽の達者なり (ミネルヴァ日本評伝選) [ 斎藤英喜 ]
そして月日は流れ・・・1001年、晴明81歳の冬・・・
平安京では毎年大晦日に追儺と呼ばれる恒例行事が行われていました。
追儺は、現代の節分のルーツです。
儀式は陰陽師が登場し、神への祈りを読み上げるところから始まります。
その呼びかけに応じ、鉾と楯て装備した神・方相氏が登場。
鬼を追いやろうという掛け声で威嚇します。
追儺は、宮中だけでなく、平安京に住む人々がそれぞれの自宅でも行いました。
人々は、1年の締めくくりの行事としてこの追儺を楽しみにし、大晦日の夜は町中に鬼を追う声がこだましたといいます。
しかし、1001年は特別でした。
12月22日、一条天皇の生母・藤原詮子崩御・・・
喪に服すため、追儺の自粛が命じられました。
この時、晴明の心は一つの選択に揺れ動いていました。
追儺を自粛するのか??
それとも強行する・・・??
迎えた大晦日の夜・・・静まり返った都に、男の声が響きました。
自粛を破り、晴明が追儺の儀式を強行したのです。
晴明の声に導かれ、自粛をしていた京の人々も次々と声をあげます。
いつしか都中に鬼を追う声がこだまし、大晦日の夜は例年のような賑わいを取り戻したといいます。
天皇の母が亡くなったという諒闇でしたが、追儺を行わないと鬼を追い出すことができない・・・
悪い災いや病気が流行ってしまうんではないかという不安を・・・都のそういう人たちの要求を晴明がうけてやったことが大きなことでした。
この晴明の行動に対し、朝廷からのお咎めはありませんでした。
人々は清明を誉めそやします。
「晴明は、陰陽の達者なり!!」
一介の役人からたった一代で陰陽道の大家となった安倍晴明・・・
陰陽師としての地位は、2人の息子に受け継がれました。
藤原道長の日記「御堂関白記」に登場する陰陽師の名を数えると、
賀茂光栄(晴明の師匠の息子)・・・33回
安倍吉平(清明の息子)・・・・・・・・・57回
安倍家への信頼のほどが伺えます。
晴明の死後、時代が下るにつれ、彼の神秘的な力を誇張し、超人としての説話が数多く生まれていきました。
陰陽師の中で、賀茂家に対抗する安倍家のポジションを得るためにも、自分たちの先祖の安倍晴明がいかにすごかったのかを主張しました。
晴明が編み出した泰山府君祭は、陰陽師・安倍家のお家芸として、代々伝えられ、貴族、武士を問わず時の権力者たちに求められました。
1399年、足利義満の引き立てによって、安倍家当主は上流貴族である従二位に昇進。
以後、安倍家の直流は、土御門を名乗りました。
さらに、時代は下り、江戸時代の土御門家の文書・告発状には
勝手に晴明の子孫を名乗り、関東で勢力を伸ばす陰陽師の一派・大黒毛を糾弾・・・
土御門家こそが陰陽道の正当であることを主張しています。
この告発から16年後の1683年、土御門家、諸国陰陽師の支配権を得ます。
天皇から勅許が出されたのです。
さらに、江戸幕府もこれを追認・・・
ここに、晴明を祖とする土御門家による陰陽師の全国支配が確立したのです。
京都嵯峨野・・・閑静な住宅街の一角に、晴明の墓が異彩を放って佇んでいます。
自粛を破り、追儺を強行した4年後、安倍晴明は85歳で大往生をとげました。
晴明を祖とする陰陽師の一族は、その後、明治維新までの長きにわたり、この国の中枢にかかわり続けたのです。
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晴明といえば、怨霊から人々を守ったヒーローとして広く知られています。
ところが、実像の安倍晴明は、都で役所勤めをする一介の公務員にすぎませんでした。
晴明は、如何にして伝説のヒーローとなったのでしょうか?
京都府上京区清明町・・・晴明神社・・・
この神社は、晴明の死後2年後に、一条天皇の命で創建されたと伝わっています。
晴明はここで、神として祀られています。
神になった安倍晴明とはどんな人物だったのでしょうか?
そもそも安倍氏は、7世紀、大化の改新の頃左大臣を務めた安倍倉橋麿を祖先とします。
しかし、その後、安倍氏は衰退・・・
平安時代の中期となる921年、下級官人の子として晴明は生まれます。
成人した晴明が務めたのが、当時注目されていた朝廷の機関でした。
陰陽寮・・・ここで、陰陽師たちが、国家公務員として働いていました。
陰陽師たちの公務は、多岐にわたっていました。
悪運をはねのけ強運を引き寄せる陰陽師の教え [ 幸輝 ]
主なものは・・・天体を観測して吉凶を占うこと。
陰陽寮では、毎年具注歴と呼ばれるカレンダーが作成されます。
それぞれの日には、吉凶や行動の指針が細かく書かれています。
具注歴は、貴族の生活に欠かせないものでした。
藤原道長の祖父・藤原師輔は、子孫に様々な言葉を残しています。
その中で、まず朝起きたら具注歴を見て日の吉凶を知るべしと書いています。
そして、それをもって行動せよと述べています。
貴族たちは、具注歴を見て政治を行ったり儀式を行い・・・取り決めをしていました。
貴族たちはこの暦に基づき、物忌みと称して家から一歩も外に出ない日があったり、方違えといい不吉な方角に行くのを避けたりしています。
貴族たちが、これほど吉凶や忌みを重んじていたのには理由があります。
それは、当時平安京を包んだ人々の不安によるものでした。
右大臣まで務めた菅原道真が無実の罪で大宰府に左遷され、後に非業の死を遂げます。
すると都では、要人たちが立て続けに病で亡くなるという現象が起きたのです。
そして、前代未聞の災害が都を襲います。
天皇のいる内裏の清涼殿に雷が落ち、大勢が稲妻にうたれ、身体を焼かれて死んだのです。
全ては道真の怨霊のせいだと人々は震えあがりました。
当時は、祟りだけでなく、自然災害や異常気象、疫病の流行や日常的な病でさえも、怨霊や鬼の仕業ではないかと疑われました。
それらの災いを、数々の秘儀で払うことを期待されたのが、陰陽師でした。
陰陽師はどんな技を使ったのでしょうか?
陰陽道の秘伝の書には、「禹歩」といわれる術が書かれています。
北斗七星を含む九つの星の名を唱えながら、独特の足運びでステップを踏み・・・これは、天の星の力を使って、空き家などにはびこる鬼を払う奥義です。
天皇や貴族が新居に移る前などにおこなわれました。
陰陽師は、禹歩など様々な術や儀式を駆使して、災いから人々を守ったのです。
陰陽師たちの活躍は、時代と深く結びついています。
平安時代に入ると、律令制度は崩れて災害や疫病などの発生し、貴族たちは支配者としての自負、自信を失っていきます。
彼等の生活にとって、陰陽師は身近な存在だったのです。
安倍晴明ら陰陽師こそ、平安京の不安解消請負人だったのです。
晴明の名が歴史市場に初めて登場するのは、晴明40歳の時でした。
肩書は、天文得業生・・・つまり、見習いの身でした。
40歳でまだ見習いの晴明が、如何にして平安京一の陰陽師となったのでしょうか?
若杉家文書・・・清明の子孫に仕えた陰陽師の一族・若杉家に残された古文書類で、その数2000点以上・・・。
晴明の名が初めて登場する資料もその一つです。
960年、御所で大規模な火災が発生・・・
この時、大刀契と呼ばれる二本の霊剣が消失してしまいました。
この霊剣を復元せよと勅命を受けたのが、当時、最も有力な陰陽師・・・清明の師匠・賀茂保憲でした。
晴明は、師と共にこのプロジェクトに携わることとなります。
この資料は、事の顛末を晴明が随分後になって書いたものを写したものと思われます。
賀茂保憲が亡くなった後、安倍晴明が自分がやったと自分をアピールしているのです。
977年、賀茂保憲死去・・・
すると、50代後半にして、晴明は独自の歩みを始めます。
師匠の死の翌々年、とある本を世に出します。
「占事略決」です。
これは、安倍晴明が書いた占いに関する本です。
占いの技を書いた書物は、天外不出とされ、賀茂家などの有力な陰陽師が管理独占していました。
晴明は、まるでそれに抗うように1冊のマニュアル本にして発表したのです。
そこには、貴族たちの関心を引く占いの数々が書かれていました。
この書物と共に、晴明の名は広く都で知られるようになります。
遅咲きながら、人気陰陽師としての地位を手に入れたのでした。
986年、一条天皇即位。
晴明は大抜擢を受けます。
陰陽寮を離れ、一条天皇直属の陰陽師・蔵人所陰陽師となったのです。
この時、一条天皇は7歳・・・度々体調を崩し、周囲を心配させていました。
その為、朝廷では健康長寿を叶えるため、様々な方策がとられました。
僧侶たちが呼ばれ、天皇のために加持祈祷を行いました。
一方、晴明は、全く新しい儀式を天皇のために執り行うことを申し出ます。
それが、”泰山府君祭”です。
泰山は、中国にある霊山で、死者の魂がたどり着く場所とされていました。
この山に住み、人間の寿命を司るのが泰山府君という神です。
泰山府君祭で、晴明はこの神と直接交渉し、長寿や健康を叶えることができるとしました。
儀式に欠かせないのが、硯と筆と墨・・・
泰山府君が持つという人間の寿命を書いた帳簿・・・これを大胆にも書き換えてしまうためのものです。
晴明は、密教の加持祈祷を行うような僧とライバル的な意識を持っていて、それに対抗する陰陽道を作ろうとしたのです。平安時代の貴族社会派、先例を守る・・・ことが重要視されましたが、先例と違うことを行うことで、陰陽道の力を発揮したのです。
晴明は、天皇だけでなく、貴族たちの求めにも応じ、この儀式を行いました。
重要な顧客となったのが、まさにその頃出世の階段を上りつつあった藤原道長でした。
道長は清明に厚い信頼を置き、一条天皇に入内した娘・彰子を皇后にたてる吉日を占わせています。
天皇や道長の庇護を受け、陰陽師としての晴明の地位は盤石なものとなりました。
安倍晴明 陰陽の達者なり (ミネルヴァ日本評伝選) [ 斎藤英喜 ]
そして月日は流れ・・・1001年、晴明81歳の冬・・・
平安京では毎年大晦日に追儺と呼ばれる恒例行事が行われていました。
追儺は、現代の節分のルーツです。
儀式は陰陽師が登場し、神への祈りを読み上げるところから始まります。
その呼びかけに応じ、鉾と楯て装備した神・方相氏が登場。
鬼を追いやろうという掛け声で威嚇します。
追儺は、宮中だけでなく、平安京に住む人々がそれぞれの自宅でも行いました。
人々は、1年の締めくくりの行事としてこの追儺を楽しみにし、大晦日の夜は町中に鬼を追う声がこだましたといいます。
しかし、1001年は特別でした。
12月22日、一条天皇の生母・藤原詮子崩御・・・
喪に服すため、追儺の自粛が命じられました。
この時、晴明の心は一つの選択に揺れ動いていました。
追儺を自粛するのか??
それとも強行する・・・??
迎えた大晦日の夜・・・静まり返った都に、男の声が響きました。
自粛を破り、晴明が追儺の儀式を強行したのです。
晴明の声に導かれ、自粛をしていた京の人々も次々と声をあげます。
いつしか都中に鬼を追う声がこだまし、大晦日の夜は例年のような賑わいを取り戻したといいます。
天皇の母が亡くなったという諒闇でしたが、追儺を行わないと鬼を追い出すことができない・・・
悪い災いや病気が流行ってしまうんではないかという不安を・・・都のそういう人たちの要求を晴明がうけてやったことが大きなことでした。
この晴明の行動に対し、朝廷からのお咎めはありませんでした。
人々は清明を誉めそやします。
「晴明は、陰陽の達者なり!!」
一介の役人からたった一代で陰陽道の大家となった安倍晴明・・・
陰陽師としての地位は、2人の息子に受け継がれました。
藤原道長の日記「御堂関白記」に登場する陰陽師の名を数えると、
賀茂光栄(晴明の師匠の息子)・・・33回
安倍吉平(清明の息子)・・・・・・・・・57回
安倍家への信頼のほどが伺えます。
晴明の死後、時代が下るにつれ、彼の神秘的な力を誇張し、超人としての説話が数多く生まれていきました。
陰陽師の中で、賀茂家に対抗する安倍家のポジションを得るためにも、自分たちの先祖の安倍晴明がいかにすごかったのかを主張しました。
晴明が編み出した泰山府君祭は、陰陽師・安倍家のお家芸として、代々伝えられ、貴族、武士を問わず時の権力者たちに求められました。
1399年、足利義満の引き立てによって、安倍家当主は上流貴族である従二位に昇進。
以後、安倍家の直流は、土御門を名乗りました。
さらに、時代は下り、江戸時代の土御門家の文書・告発状には
勝手に晴明の子孫を名乗り、関東で勢力を伸ばす陰陽師の一派・大黒毛を糾弾・・・
土御門家こそが陰陽道の正当であることを主張しています。
この告発から16年後の1683年、土御門家、諸国陰陽師の支配権を得ます。
天皇から勅許が出されたのです。
さらに、江戸幕府もこれを追認・・・
ここに、晴明を祖とする土御門家による陰陽師の全国支配が確立したのです。
京都嵯峨野・・・閑静な住宅街の一角に、晴明の墓が異彩を放って佇んでいます。
自粛を破り、追儺を強行した4年後、安倍晴明は85歳で大往生をとげました。
晴明を祖とする陰陽師の一族は、その後、明治維新までの長きにわたり、この国の中枢にかかわり続けたのです。
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