日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:陰陽師

陰陽師・安倍晴明・・・
晴明といえば、怨霊から人々を守ったヒーローとして広く知られています。
ところが、実像の安倍晴明は、都で役所勤めをする一介の公務員にすぎませんでした。
晴明は、如何にして伝説のヒーローとなったのでしょうか?

京都府上京区清明町・・・晴明神社・・・
この神社は、晴明の死後2年後に、一条天皇の命で創建されたと伝わっています。
晴明はここで、神として祀られています。
神になった安倍晴明とはどんな人物だったのでしょうか?

そもそも安倍氏は、7世紀、大化の改新の頃左大臣を務めた安倍倉橋麿を祖先とします。
しかし、その後、安倍氏は衰退・・・
平安時代の中期となる921年、下級官人の子として晴明は生まれます。
成人した晴明が務めたのが、当時注目されていた朝廷の機関でした。
陰陽寮・・・ここで、陰陽師たちが、国家公務員として働いていました。
陰陽師たちの公務は、多岐にわたっていました。

悪運をはねのけ強運を引き寄せる陰陽師の教え [ 幸輝 ]
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主なものは・・・天体を観測して吉凶を占うこと。
陰陽寮では、毎年具注歴と呼ばれるカレンダーが作成されます。
それぞれの日には、吉凶や行動の指針が細かく書かれています。
具注歴は、貴族の生活に欠かせないものでした。

藤原道長の祖父・藤原師輔は、子孫に様々な言葉を残しています。
その中で、まず朝起きたら具注歴を見て日の吉凶を知るべしと書いています。
そして、それをもって行動せよと述べています。
貴族たちは、具注歴を見て政治を行ったり儀式を行い・・・取り決めをしていました。

貴族たちはこの暦に基づき、物忌みと称して家から一歩も外に出ない日があったり、方違えといい不吉な方角に行くのを避けたりしています。
貴族たちが、これほど吉凶や忌みを重んじていたのには理由があります。
それは、当時平安京を包んだ人々の不安によるものでした。
右大臣まで務めた菅原道真が無実の罪で大宰府に左遷され、後に非業の死を遂げます。
すると都では、要人たちが立て続けに病で亡くなるという現象が起きたのです。
そして、前代未聞の災害が都を襲います。
天皇のいる内裏の清涼殿に雷が落ち、大勢が稲妻にうたれ、身体を焼かれて死んだのです。
全ては道真の怨霊のせいだと人々は震えあがりました。
当時は、祟りだけでなく、自然災害や異常気象、疫病の流行や日常的な病でさえも、怨霊や鬼の仕業ではないかと疑われました。
それらの災いを、数々の秘儀で払うことを期待されたのが、陰陽師でした。

陰陽師はどんな技を使ったのでしょうか?
陰陽道の秘伝の書には、「禹歩」といわれる術が書かれています。
北斗七星を含む九つの星の名を唱えながら、独特の足運びでステップを踏み・・・これは、天の星の力を使って、空き家などにはびこる鬼を払う奥義です。
天皇や貴族が新居に移る前などにおこなわれました。
陰陽師は、禹歩など様々な術や儀式を駆使して、災いから人々を守ったのです。
陰陽師たちの活躍は、時代と深く結びついています。
平安時代に入ると、律令制度は崩れて災害や疫病などの発生し、貴族たちは支配者としての自負、自信を失っていきます。
彼等の生活にとって、陰陽師は身近な存在だったのです。
安倍晴明ら陰陽師こそ、平安京の不安解消請負人だったのです。

晴明の名が歴史市場に初めて登場するのは、晴明40歳の時でした。
肩書は、天文得業生・・・つまり、見習いの身でした。
40歳でまだ見習いの晴明が、如何にして平安京一の陰陽師となったのでしょうか?
若杉家文書・・・清明の子孫に仕えた陰陽師の一族・若杉家に残された古文書類で、その数2000点以上・・・。
晴明の名が初めて登場する資料もその一つです。

960年、御所で大規模な火災が発生・・・
この時、大刀契と呼ばれる二本の霊剣が消失してしまいました。
この霊剣を復元せよと勅命を受けたのが、当時、最も有力な陰陽師・・・清明の師匠・賀茂保憲でした。
晴明は、師と共にこのプロジェクトに携わることとなります。
この資料は、事の顛末を晴明が随分後になって書いたものを写したものと思われます。
賀茂保憲が亡くなった後、安倍晴明が自分がやったと自分をアピールしているのです。

977年、賀茂保憲死去・・・
すると、50代後半にして、晴明は独自の歩みを始めます。
師匠の死の翌々年、とある本を世に出します。
「占事略決」です。
これは、安倍晴明が書いた占いに関する本です。
占いの技を書いた書物は、天外不出とされ、賀茂家などの有力な陰陽師が管理独占していました。
晴明は、まるでそれに抗うように1冊のマニュアル本にして発表したのです。
そこには、貴族たちの関心を引く占いの数々が書かれていました。
この書物と共に、晴明の名は広く都で知られるようになります。
遅咲きながら、人気陰陽師としての地位を手に入れたのでした。

986年、一条天皇即位。
晴明は大抜擢を受けます。
陰陽寮を離れ、一条天皇直属の陰陽師・蔵人所陰陽師となったのです。
この時、一条天皇は7歳・・・度々体調を崩し、周囲を心配させていました。
その為、朝廷では健康長寿を叶えるため、様々な方策がとられました。
僧侶たちが呼ばれ、天皇のために加持祈祷を行いました。
一方、晴明は、全く新しい儀式を天皇のために執り行うことを申し出ます。
それが、”泰山府君祭”です。
泰山は、中国にある霊山で、死者の魂がたどり着く場所とされていました。
この山に住み、人間の寿命を司るのが泰山府君という神です。
泰山府君祭で、晴明はこの神と直接交渉し、長寿や健康を叶えることができるとしました。
儀式に欠かせないのが、硯と筆と墨・・・
泰山府君が持つという人間の寿命を書いた帳簿・・・これを大胆にも書き換えてしまうためのものです。

晴明は、密教の加持祈祷を行うような僧とライバル的な意識を持っていて、それに対抗する陰陽道を作ろうとしたのです。平安時代の貴族社会派、先例を守る・・・ことが重要視されましたが、先例と違うことを行うことで、陰陽道の力を発揮したのです。
晴明は、天皇だけでなく、貴族たちの求めにも応じ、この儀式を行いました。
重要な顧客となったのが、まさにその頃出世の階段を上りつつあった藤原道長でした。
道長は清明に厚い信頼を置き、一条天皇に入内した娘・彰子を皇后にたてる吉日を占わせています。
天皇や道長の庇護を受け、陰陽師としての晴明の地位は盤石なものとなりました。

安倍晴明 陰陽の達者なり (ミネルヴァ日本評伝選) [ 斎藤英喜 ]
安倍晴明 陰陽の達者なり (ミネルヴァ日本評伝選) [ 斎藤英喜 ]

そして月日は流れ・・・1001年、晴明81歳の冬・・・
平安京では毎年大晦日に追儺と呼ばれる恒例行事が行われていました。
追儺は、現代の節分のルーツです。
儀式は陰陽師が登場し、神への祈りを読み上げるところから始まります。
その呼びかけに応じ、鉾と楯て装備した神・方相氏が登場。
鬼を追いやろうという掛け声で威嚇します。
追儺は、宮中だけでなく、平安京に住む人々がそれぞれの自宅でも行いました。
人々は、1年の締めくくりの行事としてこの追儺を楽しみにし、大晦日の夜は町中に鬼を追う声がこだましたといいます。

しかし、1001年は特別でした。
12月22日、一条天皇の生母・藤原詮子崩御・・・
喪に服すため、追儺の自粛が命じられました。
この時、晴明の心は一つの選択に揺れ動いていました。

追儺を自粛するのか??
それとも強行する・・・??

迎えた大晦日の夜・・・静まり返った都に、男の声が響きました。

自粛を破り、晴明が追儺の儀式を強行したのです。
晴明の声に導かれ、自粛をしていた京の人々も次々と声をあげます。
いつしか都中に鬼を追う声がこだまし、大晦日の夜は例年のような賑わいを取り戻したといいます。
天皇の母が亡くなったという諒闇でしたが、追儺を行わないと鬼を追い出すことができない・・・
悪い災いや病気が流行ってしまうんではないかという不安を・・・都のそういう人たちの要求を晴明がうけてやったことが大きなことでした。
この晴明の行動に対し、朝廷からのお咎めはありませんでした。
人々は清明を誉めそやします。

「晴明は、陰陽の達者なり!!」

一介の役人からたった一代で陰陽道の大家となった安倍晴明・・・
陰陽師としての地位は、2人の息子に受け継がれました。

藤原道長の日記「御堂関白記」に登場する陰陽師の名を数えると、

賀茂光栄(晴明の師匠の息子)・・・33回
安倍吉平(清明の息子)・・・・・・・・・57回

安倍家への信頼のほどが伺えます。
晴明の死後、時代が下るにつれ、彼の神秘的な力を誇張し、超人としての説話が数多く生まれていきました。
陰陽師の中で、賀茂家に対抗する安倍家のポジションを得るためにも、自分たちの先祖の安倍晴明がいかにすごかったのかを主張しました。

晴明が編み出した泰山府君祭は、陰陽師・安倍家のお家芸として、代々伝えられ、貴族、武士を問わず時の権力者たちに求められました。
1399年、足利義満の引き立てによって、安倍家当主は上流貴族である従二位に昇進。
以後、安倍家の直流は、土御門を名乗りました。

さらに、時代は下り、江戸時代の土御門家の文書・告発状には
勝手に晴明の子孫を名乗り、関東で勢力を伸ばす陰陽師の一派・大黒毛を糾弾・・・
土御門家こそが陰陽道の正当であることを主張しています。
この告発から16年後の1683年、土御門家、諸国陰陽師の支配権を得ます。
天皇から勅許が出されたのです。
さらに、江戸幕府もこれを追認・・・
ここに、晴明を祖とする土御門家による陰陽師の全国支配が確立したのです。

京都嵯峨野・・・閑静な住宅街の一角に、晴明の墓が異彩を放って佇んでいます。
自粛を破り、追儺を強行した4年後、安倍晴明は85歳で大往生をとげました。
晴明を祖とする陰陽師の一族は、その後、明治維新までの長きにわたり、この国の中枢にかかわり続けたのです。

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妖気漂う魔都と呼ばれた平安京・・・。
そこに住む貴族たちは、物の怪や怨霊を信じて恐れていました。
そんな貴族たちのために、占いや呪術を行っていたのが陰陽師です。
中でも時の天皇や権力者に重用されたのが、安倍晴明でした。
呪術を巧みに操り、人々を物の怪から助け、超人的な力を持っていたといわれています。

平安時代に活躍した日本屈指の陰陽師・安倍晴明・・・
カラスの言葉がわかったとか、深夜に徘徊する鬼や物の怪・・・百鬼夜行が見えたなど、その伝説は数知れず・・・。
そんな晴明の手となり足となり働いたのが、式神です。
式神とは、普通の人には見えない鬼神のことで、晴明はそれを巧みに使って、様々なものを式神に変えたり、人や動物に憑依させたといわれています。
晴明は時に、式神に、家事や世話をさせたといわれています。
式神が使えるのは、陰陽師として高い能力を持っている証でした。
鎌倉時代の宇治拾遺物語には・・・
晴明が京都・嵯峨野にある寺を訪れたとき、若い僧侶がやってきてぶしつけな質問をしました。

「あなたは、式神を操るのが得意と聞きましたが、それで人や動物も殺せますか。」

「力を入れれば人でも何でも殺せますよ。
 しかし、私は生き返らせる術を知らないため、そんなことをしたら摂政の罪を犯したことになってしまいます。
 ですから致しません。」by晴明

出来るのにしないということを知ってしまった若い僧は、それを見てみたくなり、

「式神を使って、あのカエルを殺してみてください。
 一度だけでいいのです。」

しきりに頼むので、断り切れなくなった晴明は、近くにあった草をつまむと呪文を唱え、勢いよくカエルに投げつけました。
すると、草は式神となり、カエルを押しつぶして殺してしまったのです。
これを見た若い僧は、晴明の恐るべき呪術に腰を抜かし、、自分の安易な言動を反省したといいます。

陰陽師・安倍晴明は、陰陽寮という役所に所属する官僚でした。
陰陽寮とは、天皇の傍で、重要書類を作成する役所でした。
中務省に属する国家機関で、陰陽寮は陰陽道・天文道・漏刻・暦道の四つに分かれていました。
陰陽道とは国や天皇のために占いを行う部署で、天文道は天体を観測し占星術を行い、漏刻は水時計を使って時刻の管理を行い、歴道は毎日の吉凶を書き込んだ暦を造る仕事をしていました。
陰陽寮とは、国に関する様々な占いをする機関で、属するすべての職員が陰陽師でした。

当時、占いはとても大切なもので、天災を事前に知るため、神の言葉を聞くのが占いでした。
国家運営そのものにかかわる仕事で、陰陽寮の役人以外が占うことを大宝律令で禁じていました。
唯一占いを許された重要国家機関・陰陽寮・・・安倍晴明は天文道に属し、毎日星を観測し、異常があればその吉凶を占いで判断し、朝廷に報告していました。
晴明は遅咲きで、40歳を過ぎて、この天文道の得業生となっています。
得業生は、成績優秀者だけに与えられる身分で、後継者を養成するための制度です。
晴明は、その卓越した技量を買われて得業生に抜擢されました。
晴明は非凡な才能を発揮し、瞬く間に出世します。
50歳を過ぎた頃には、天文道の最高位に当たる天文博士にまで上り詰めます。
天文博士は、蔵人に星の異変などを直接報告できる役職です。
この時代、星の異変は神からの警告だといわれ、その役割は重要なものでした。

しかし、陰陽師の仕事はそれだけではなく、呪術で物の怪などを追い払うことも・・・。
呪術師のようなことをすることになったのは・・・
奈良時代の事、新しく即位した桓武天皇は、時代を刷新する為に、平城京から長岡京への遷都を行います。
すると、遷都の有力推進者が何者かによって暗殺されてしまいました。
黒幕として捕らえられたのは、桓武天皇の弟・早良親王でした。
早良親王は無実を訴え断食を行いましたが、受け入れられず・・・淡路島に流される途中に餓死してしまいました。
その遺体は、都に戻すことも許されず淡路島に埋葬しました。
それから間もなく、長岡京で不幸や災難が起こります。

・桓武天皇の妃・旅子が病死
・激しい雷雨が都を襲う
・天然痘が大流行
・桓武天皇の母が病死
・第一皇子安殿親王が病に伏せる

不安になった天皇は、陰陽師に占わせます。
すると。。。”早良親王の祟り”・・・あらぬ疑いをかけられて死んでいった早良親王が物の怪を引き連れて長岡京を襲っているというのです。
桓武天皇は、すぐさま陰陽師を淡路島へ送り込んで「鎮魂の祭り」を行わせます。
早良親王の祟り・・・そのほかにも祟りが・・・陰陽寮の役人が使われることとなり、この出来事以降、陰陽寮の仕事の中で呪術の比重が増えていくのです。

占いや呪術によってさまざまな禍に退所していった陰陽師・・・
そのバイブルは「簠簋内伝(ほきないでん)」です。
正式には・・・「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」です。
この本は、安倍晴明が編纂したといわれていますが・・・安倍晴明を受けて、後の時代の陰陽師や僧侶が編纂したのでは??といわれています。
全5巻からなり、方位の吉凶、暦の吉凶、風水、星占い・・・占いの総合百科事典のような内容になっています。

簠簋内伝には、様々な災いへの対処法が書かれています。
代表的なのが、
①泰山府君祭と呼ばれる安倍晴明も得意の秘法です。
人間の生死を司る神・泰山府君に延命長寿や病気平癒を祈願する陰陽道最高の祭事とされています。
門外不出とされ、陰陽師の中でも選ばれたもののみが行えました。
晴明もその一人です。

医療が発達していないこの時代、誰もが求めていたのは病の原因を知ることでした。

②六三除けの秘法
63
発病した年齢を9で割ってあまりの数をこの図に当てはめて病の原因を知るという方法です。

39歳の場合・・・39÷9=4余り3

なので、女性の場合右足、男性の場合は左足

に病の原因があるというものです。

9で割り切れる場合は、頭部に原因があります。
と、当時は信じられていました。

幼児は幼児の死亡率も高く、幼児の無病息災を願って、額に”犬”という文字を書きました。
犬の子は良く育つ・・・ということです。

病を治す呪術もあります。
晴明の時代から使われていた様々な呪術が記されている「呪詛調法記」には・・・
①原因不明の病を取り除く呪術
豆腐を用います。
豆腐1丁を病人の年の数に賽の目に切り、酒と醤油と共に神前に供えます。
そして、病気平癒祈願をして・・・「五王ある中なる王にはびこられ病はとくに逃げ去りにけり」を10回唱えます。
手を4回打ち、礼を9回します。
備えた酒を3口飲み、豆腐を5切れだけ食べます。
残りの豆腐は白い紙に包み、川か海でこう唱えます。
「千早振る神の祟りを見に受けて六三除けし身こそやすけれ」
そして、豆腐を包んだ紙を流すと病は治るとされていました。

しかし、この呪術を行っても治らないときには・・・
生きるか死ぬかを占う秘法もありました。

物の怪や怨霊を畏れていた平安時代・・・陰陽師たちはこんな呪術も行いました。
②悪霊を祓う呪術
「付くも不肖 付かかるも不肖 一時の夢ぞかし
 生は難の池水つもりて淵となる 
 鬼神に横道なし
 人間に疑いなし
 教化に付かざるに依りて
 時を切ってすゆるなり
 下のふたへも推してする」

と、長い呪文を唱えた後で、足の裏に3つお灸をすえます。
これですぐに悪霊が退散したといいます。

③生業繁栄
商売繁盛・・・毎日朝日を拝み、8回こう呪文を唱えます。
「金伯五金の気を呼び、全家の軸となる・・・」これで金銭に困ることは無くなると信じられていました。

④雷除け
白い紙に墨で・・・
東方 阿迦陀
西方 須多光
南方 刹帝魯
北方 蘇陀摩抳
と書き、それを家の四方の柱に貼るだけ・・・

平安時代の貴族たちが気にしていたのが「夢」です。
夢は、未来の吉凶を示すものと信じられていました。
そのため、夢で見たものが何を意味するのか読み解くのも陰陽師の重要な仕事でした。

安倍晴明が書いたといわれる「神霊感応秘蔵書」には・・・
人の体、食べ物、動物など15種類に分類されていて、何が吉で何が凶なのかを書いています。
雷は大吉・・・人に引き立てられるか官禄を得る
夜明けは大吉・・・寿命が延びる
蝶は凶・・・万事が定まらない前兆 相談事や商売は失敗する
朝顔の花の夢・・・女性で苦労するようになる
当時の人々は、陰陽師に夢を占ってもらうことで、未来を予測し、来る吉凶に備えたのです。

悪夢を見てしまった場合・・・その夢をいい夢に変える夢違えという呪法もありました。
「悪夢着草木吉夢成宝王」!!

陰陽師として確固たる地位を築いてきた安倍晴明・・・
天文博士になった安倍晴明・・・当時、天文博士の位階は正七位下が原則でした。
しかし、晴明はその上のくらいまで上り詰めます。
晴明が陰陽師として異例の出世を成し得たのは・・・
原因不明の頭痛を声明に占ってもらった花山天皇・・・すると・・・
「帝の前世であった者のドクロが岩の間に挟まっております。」
花山天皇が従者に命じて晴明が示した場所へと行かせると・・・そこには本当に古びたドクロが・・・。
すぐにこれを取り出すと、花山天皇の頭痛は無くなり、花山天皇は晴明への信頼を深くしていきます。
さらに晴明は、花山天皇の後に即位した一条天皇にも重用・・・日々の吉凶を占うのはもちろんのこと、帝が病に陥った際には、みそぎを行いたちまち回復させました。

陰陽道会の第一人者は、天皇が代を代わるごとに選ばれるのが常でした。
花山天皇から一条天皇の辺りは、晴明が大活躍をした時期で・・・
993年には正五位上を与えられ、異例の出世をし、天皇の蔵人所陰陽師にまで就任します。

998年、時の天皇・一条天皇の中宮・定子の周りで不幸が続きます。
父が突然亡くなる、兄が花山法皇を襲撃したのです。
一条天皇は、更なる災いを避けるために、数日間外出せず、食事を慎む”物忌み”を行うことに・・・
晴明はその際の祭司を命じられたのですが・・・その祭祀を放棄!!
始末書の提出を求められる大失態を犯します。
この時、晴明80歳近く・・・少しは休みたいというアピールだったのかもしれません。
晴明は忙しく・・・朝廷で絶大な権力を持っていた藤原道長・・・
道長の日記には度々晴明が登場します。
栄華を極めた道長でさえ、祟りを畏れて晴明を頼っていました。

時の権力者・道長に重用されたことで、晴明の位は従四位下に・・・年収は361石・・・4億円となりました。
他の追随を許さない安倍晴明・・・吉平、吉昌という息子がいました。
中でも、長男・吉平は、父の才能を受け継いでいました。
吉平は、陰陽寮を率いる長官にまで出世。
安倍家の行く末も安泰・・・
1005年晴明はこの世を去りました。
晴明に全幅の信頼を寄せていた一条天皇は、その死をいたく悲しみます。
そして、晴明の偉業をたたえるために、屋敷跡に神社を造りました。
平安時代、人を神として祀ったことはほとんどなく、まして、一官僚を神として祀るなど、前代未聞の事でした。
境内の一角には、晴明が呪術で掘り当てた井戸があります。
今も、滾々と湧き出て来るこの水を飲むと、様々なご利益が得られるとか・・・。

安倍晴明の墓は、その力を欲する人々のために、各地に作られています。
しかし、貴族の世が終わり、武士の世が始まると、陰陽師の地位は揺らぎ始めます。
安泰と思われた安倍家にも危機が・・・。

鎌倉時代になると、陰陽師は将軍家に徴用され、多くが関東に下りました。
室町時代には、晴明の子孫である安倍有世が将軍・義満に重用され、晴明を超える従二位の官位を得て、国政を担う最高幹部となりました。
安倍家の地位は確固たるものに・・・その後、陰陽師の需要が広まっていきます。
およそ10年に及んだ川中島の戦い・・・戦国武将武田信玄と上杉謙信は、尾張の見えない戦いに早く終止符を打ちたいと・・・共にある方法に打って出ます。
それは、陰陽師たちを陣に迎えることでした。
陰陽師に勝つために祈祷を行わせたり、戦を始める日時を占ったり、作戦の吉凶まで判断させたとか・・・
占いや呪術を信じなかったといわれる織田信長も、陰陽師に頼ったことがあります。
1575年長篠の戦いで・・・様子が書かれた絵に、陰陽師が写っています。
六芒星を背負っています。

onmyouji
ところが、戦乱の世が長引き、戦が複雑化していくと、兵法を知り尽くした軍師が占いをするようになり、陰陽師が次第に活躍の場を失っていきます。
そして、天下人が戦乱の世を終わらせる頃には、陰陽師の多くは没落・・・
そこで、生き残りをかけて策を練ったのは、安倍家の子孫たちでした。


安倍家が生き残りをかけて狙いを定めたのが、時の将軍・徳川家康でした。
家康に重用されることでお家の存続を図ろうとしたのです。
しかし、この策には問題がありました。
安倍家は、晴明の時代から朝廷に仕えてきた家柄でした。
その安倍家を陰陽師として徳川が使うことは、将軍・家康でもできないことでした。
そこで安倍家が考えたのは・・・苗字を土御門に変えたのです。
それによって別の家のようにふるまったのです。
安倍家は苗字を変えることで、朝廷に憚ることなく家康の求めに応じて、江戸に足を運び信頼を得ていきます。

そして、5代将軍綱吉の頃には土御門家が陰陽師すべてを統括しても良いという許しを得ます。
土御門家(安倍家)は、陰陽道界の宗家となりました。
しかし、明治維新で陰陽道が禁止され、衰退していきます。
私たちの暮らしの中には、大安や仏滅を気にしたり、鬼門などの包囲方角を気にしたり・・・いまだに陰陽道が深くかかわっています。
これも、安倍晴明をはじめとする陰陽師たちがいかに頼りにされていたのかを示す証なのかもしれません。

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平安時代中期・・・都を席巻した天才呪術師がいました。
安倍晴明(920?~1005)です。
seimei2



















式神を伴って、悪霊退散!!呪術を巧みに操って人々を救い、意のままに雨をも降らせた・・・!!
陰陽師として、小説や映画でもおなじみです。
しかし、その生涯は多くの謎に包まれています。
そんな陰陽師の正体とは・・・??

kuzunoha大阪府和泉市にある信太森葛葉稲荷神社には、晴明の出生にまつわる伝説が残っています。
母は葛の葉・・・
迷い込んできた狐を助けた豪族の安倍安名、助けた際に傷を負います。
人間に姿を変え介抱する葛の葉・・・こころを通じ合わせともに暮らすようになり、生まれた子供が童子丸・・・のちの安倍晴明です。
親子3人で幸せに暮らしていましたが・・・ある日、幼い晴明が、狐になった母を見てしまいました。
恐ろしさのあまり号泣・・・葛の葉は、我が子に霊力を授けると・・・姿を消したのでした。
そんな晴明の人生には不思議なことがたくさんあります。

seimei青年になった晴明が街を歩いていると、どこからともなく声が聞こえてきたので声を聴いてみると・・・話していたのはカラスでした。
晴明は鳥の言葉が分かったのです。
「内裏の北西に例が宿った土器が埋まっていて帝を病気にしている」
カラスの言葉にすぐにその土器を掘り出し、呪術で霊を沈め、帝の病を治したともいわれています。

存在していた師匠は加茂忠行です。
その加茂忠行は大変優れた占い能力を持っていました。
ある夜、牛車に乗る忠行のお供をしていた晴明は、百鬼夜行に出くわします。
忠行の術によって姿を隠し、事なきを得るのですが・・・百鬼夜行が見えるのは、陰陽師として優れている証拠!!
忠行は、晴明に知りうるすべての術を教えます。
こうして晴明は師に学び、陰陽師となっていきます。

そんな陰陽師とは・・・??
晴明神社には、魔よけの記「五芒星」は、晴明が考案したと言われています。
若くてイケメンに書かれる晴明ですが、活躍したのは40歳以降、亡くなったのは85歳、長生きをしていろいろな功績がありました。
官僚・・・天皇の詔を文章にするという大切な役・・・中務省の中の一つ、陰陽寮と言われる役所に所属する役人でした。
4つの部署(陰陽道・暦道・天文道・漏刻)に分かれ働いていたのはおよそ70人。
陰陽道では国や天皇の占いを行い、歴道では毎日を占い暦を作り、天文道は天文や気象・・・占星術を行い、漏刻では時間を管理していました。
このすべての部署で最も重要視されていたのは占い・・・当時の人々にとって神の言葉を聞く言葉であり、国の行く末を左右する大切なものでした。

そのため、陰陽道の役人以外が占いを行うことは固く禁じられていました。
占いは、陰陽五行説に基づき、森羅万象は陰と陽という二つと、木・火・土・金・水という五つの要素からなると考えられていてこれをもとに占いをしていました。
歴史書に初めて出てくる晴明は40歳・・・陰陽寮の天文道の中で働いていた一人でした。
陰陽寮の役人=陰陽師で、占いを司る国家公務員でした。


国家公務員だった安倍晴明、物事の吉凶を占うだけではなく、まじないによって物の怪を払う呪術使いの役目もしていました。
陰陽師が二つの顔を持つようになったのは・・・
784年の奈良時代、桓武天皇は、平城京から長岡京への遷都を強行!!
すると、遷都の有力推進者が何者かによって暗殺されてしまいました。
このとき黒幕としてとらえられたのは、桓武天皇の弟・早良親王でした。

親王は無実を訴え断食したものの受け入れられず、淡路島に流される途中で餓死してしまいました。
それでも桓武天皇は許さず、遺体を都に入れずに淡路島に埋葬しました。
すると、長岡京に次々と不幸が・・・!!
788年、桓武天皇の妻・藤原旅子が死去
     5か月後に激しい雷雨が都を襲う
789年、皇太后・高野新笠が病死
     第一皇子・安殿親王が病に伏せる
     天然痘が大流行
多くの死者が出ました。

恐ろしくなった桓武天皇が陰陽師に占わせます。
すると・・・すべては早良親王の祟りだ!!
怨霊となった親王が物の怪とともに長岡京を襲っている!!
桓武天皇は、さっそく陰陽師を淡路島に送り「鎮魂の祭り」を行わせました。
呪術の需要が増え、陰陽師も退治を行うようになったのです。
怨霊・呪術=陰陽師というイメージが付きました。

祟りを恐れ、平安京への遷都を決めた桓武天皇は、今度こそは長く続く都を・・・!!
ということで、風水を使って四神相応の地を探します。
kyou北(玄武)には山、南(朱雀)には窪地、東(青龍)には川、西(白虎)には道のある場所を・・・!!
そのため平安京は、北に船岡山、南に巨椋池、東に鴨川、西に山陰道・・・の地が選ばれました。


そして、鬼が出入りするという鬼門(北東)に、上賀茂神社、下鴨神社を作り守りを固めます。


しかし、それでも早良親王の祟りは収まりません。
平安は、鬼や物の怪が棲む”魔の都”と呼ばれてしまいます。
そこで活躍したのが陰陽師・安倍晴明です。

不吉なこと・・・病気・・・それらはみんな、物の怪の仕業・・・??
物の怪におびえる貴族にとって、陰陽師が欠かせない存在となっていきます。

52歳で天文博士となった安倍晴明は、陰陽師としては遅咲きでしたが、晩年異例の出世をしていきます。
陰陽師としては誰も手に入れたことのない従四位を!!
どうやって陰陽師の頂点へと上り詰めたのでしょうか・・・??

天皇のための呪術を頻繁に行うようになった晴明・・・花山天皇の確固たる信頼を得ていきます。
7歳で天皇となった一条天皇にも重用され、日々の吉凶、病の際には禊を・・・
こうして時の天皇の信頼を得ていった晴明は、993年正五位上を叙され、995年、75歳の時には蔵人所陰陽師に就任します。

「この世をば
      我が世とぞ思ふ 望月の
 欠けたることも
     なしと思へば」

栄華を誇った藤原道長も、当時、晴明を重用した一人で、日記には晴明の名がよく出てきます。
全てを手に入れた道長でさえ、祟りを恐れて陰陽師・晴明に頼っていたのです。

ライバルを排除した晴明は、陰陽師のトップとして従四位下という前代未聞の地位へと上り詰めたのです。
一年間の俸給は約361石・・・4億円!!

権力者の信頼とライバルの排除。。。
呪術で犯人を見つけたり、占いで病の原因を探したり見つけたり・・・
この能力は本当なのでしょうか??
1004年・・・深刻な干ばつが・・・!!
晴明は雨乞いの祭り”五龍祭”を行い、見事、雨を降らせました。
本当に呪術で・・・??
晴明は天文博士という役職職にあり、星を見る以外に天気を見ることができました。
天候の先読み・・・安倍晴明の呪術の正体は、天文や気象の知識で呪いを信用させていたようです。
得意だったのは”泰山府君祭”。
危篤状態だった高僧の命を蘇らせたこともあったといいます。
しかし、ここにもからくりが・・・
当時の人々は、呪術で病が治ると心から信じていました。
晴明ほどの陰陽師の呪いとあらばなおさら!!
これは現代のプラシーボ(偽薬)効果と同じです。

専門知識の応用と相手の思い込みでが安倍晴明の呪術の真相だったのです。


美青年に書かれることの多い闇のヒーロー・安倍晴明は、実は遅咲きの天才で老獪な男。
魔都が安倍晴明を必要とし引き上げた男でした。
85歳で亡くなった安倍晴明・・・一条天皇はその死を悼み、晴明をまつる神社を・・・それが晴明神社です。
平安時代、人間を神としてまつったモノはほとんどなく、一役人を神と崇める・・・前代未聞のことでした。

晴明神社は、かつて晴明が暮らしていた跡地に建てられました。
境内の一角には、晴明が呪術で掘り当てたという井戸が残っています。
今も沸き続ける井戸は、飲めば様々なご利益があると言われています。
晴明は・・・亡くなった後もその力を必要とされ、各地に墓が作られました。
晴明の偉業はその名声とともに神格化され、人々を魅了していきます。
伝説の陰陽師・安倍晴明として・・・!!


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今からおよそ1000年前・・・
至る所に鬼が・・・そういわれていた平安時代、その鬼を追い払ったのが、陰陽師・安倍晴明。
不思議なことに、人々が恐れていた鬼を使って鬼と戦ったという伝説まであります。
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彼を主人公にした物語は数知れず・・・
この安倍晴明は、平安京に実在した人物。。。
この晴明、天皇に仕える国家公務員の占い師であり、藤原道長のコンサルタントでした。
国家の運命を左右する重要人物だったのです。





伝説ゆかりの場所・・・大阪和泉市にある信太森葛葉稲荷神社は晴明の両親が初めて出会った場所と言われています。
美しい女性”葛の葉”。。。実は白狐。
狩人に追われていた白狐を、晴明の父が介抱したとか・・・
美しい宝玉を授かった晴明、不思議な力・・・魔力を母から受け継ぎます。
それは、”式神”という鬼を操る力。

庶民に人気のあった晴明は、平安時代に実在した人物です。
晴明が生きたのは、都・・・平安京。
当時の都の北東に・・・鬼門にありました。
悪いものが入ってこない様に・・・晴明の家が守っていたのです。
陰陽師は当時、国家公務員の占い師でした。
陰陽師が勤めていたのは、陰陽寮。およそ70人が勤めていました
天文・暦・時刻・占い、4つの部門に分かれ、晴明は天文と占いを担当していました。

京都にある晴明神社。
ここに肖像画が残されています。
実際に活躍したのは晩年、40歳を超えてからのようです。
夜中に2度起きて、ひたすら肉眼で星を観測する生活をしていたようです。
50歳を過ぎてから、天文博士として活躍するようになります。
当時としては、50歳で長寿の祝いをする・・・かなりの遅咲きだったようです。

伝説に彩られた安倍晴明・・・
曖昧模糊としたところが魅力的です。
が・・・遅咲きなところ、父か陰陽師ではないというところ・・・
まさにたたき上げ・・・努力して頭角をあらわした人であるようです。

ある時を境に、平安京で大きな力を持つようになります。
993年の記述には・・・京の路頭に病人が溢れている・・・死者多数・・・とあります。
それは、天然痘やインフルエンザだったようです。
人々は、遺体を京の外へ出そうと、水葬します。
しかし・・・その多さに、鴨川の流れは止まってしまったと言われています。
疫病は宮中へも・・・63人の貴族が死亡。。。
当時の人々には、怪現象でした。

「往生要集」には・・・
”地獄”の文字が!!この地獄は、この書物が出てくるまでは、一部の人しか知りませんでした。
地獄の悲惨な苦しみがありありと書かれています。。。
現実の平安京の生活と共に、地獄の存在を身近に感じるようになります。
”鬼がやって来ている!!”
平安京の人々は、そう考えるようになります。
また、大火事も頻発し・・・それも、鬼の仕業となりました。
闇の平安京・・・人々は、鬼を感じ始めます。

そこで、安倍晴明の登場です。
地獄の主・泰山府君という地獄の番人、鬼を支配する力を持つと言われていますが・・・
晴明は、泰山府君を祈祷すれば!!と、主張し、人々はそれに習います。
閻魔様よりも泰山府君の方が力が強い!!そして、その泰山主君と会話できるのは陰陽師だけ!!
「闇の時代」に「闇の力」を!!
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その祈祷の力は強く、伝説となり絵巻物になりました。
式神を操る陰陽師として知られるようなっていく晴明。。。
病に伏した天皇の母の為に、泰山府君に祈祷を行ったという記述もあります。



当時そのような力を持っていたのは、密教のお坊さんでした。
しかし・・・徐々に陰陽道も・・・道教の知識を取り入れて対抗し、占いだけではなくなっていったようです。
闇は、自分に負い目のあるものをすべて鬼に換えていく世界でした。
病気や邪気も鬼、政治的な反乱なども鬼・・・
鬼にはいろんな意味もあったようです。

984年8月27日。
国家の一大事、天皇の譲位が行われました。
日付は、晴明が占った日でした。
陰陽師が朝廷に信頼されていた証拠です。
陰陽師たちは、六壬式盤を使っていたと考えられています。
占いは陰陽道・陰陽五行説によって行われます。
それは、全てが対になり影響を与え合うようになっているという思想です。
「人」と対になっていたのは「星」・・・天文でした。
つまり、天体の異常は、人々の世界の異常・・・人々は天体の異常を強く怖れました。
北極星と北斗七星・・・禍への恐怖心に駆られた人々は、星の化身に願いを託します。
流れ星、日食、月食・・・いつも通りではないことに恐怖を覚えたのです。
陰陽師は、天体を細かく観測していました。
それを中国の書と照らし合わせることで、吉凶を占っていました。
陰陽師は貴族に欠かせない存在・・・コンサルタントへとなっていきます。
そして・・・外出する際にも吉凶を占い・・・陰陽師なしではいられないようになっていきます。

お気に入りの陰陽師をお抱えに・・・
それは、権力者・藤原道長でさえも!!
道長が相談役とした陰陽師こそ、安倍晴明だったのです。
娘を天皇に嫁がせることで権力を思いのままにした道長・・・
その道長も、娘を皇后にする日を晴明に占ってもらっていました。
陰陽師は、国に関わるようになっていました。。。

85歳まで生きていた事・・・それだけの知識を以て祈祷する・・・
権力者は人一倍もののけを背負っている・・・
だからこそ、晴明のような人が必要だったのかもしれません。

陰陽道は・・・中国にはなく・・・
陰陽道には教義もなく・・・宗教ではない???
信仰とはちょっと違う???
科学的な考え方を持っています。
正確な天文観測があってこその陰陽師なのです。

また普通の人々の間では・・・呪詛合戦も行われていました。
そんな中、晴明は人々を驚かせます。。。
それは、1001年の事。節分のもととなった追儺という儀式。。。
晴明は自宅で追儺を行ったという記録がります。
この年に、天皇の母親が亡くなったばかりで、宮中は追儺の儀式を自粛を決定していました。
平安時代大みそかに行われる追儺の儀式は、新年を迎えるのに欠かせない儀式でした。
鬼を祓って、新しい年の平安を祈ることが出来なくなったのです。
これが人々の不安を掻き立てます!!
そこで、晴明は家で追儺を行ったのです。
儀式は、現在の豆まきとは違い、鬼を払ったのは弓矢と大声でした。
自宅でその儀式を行った晴明・・・人々は大声で鬼を払います。。。
しかし、朝廷は晴明を罰することはありませんでした。

盛り上がった鬼払い・・・晴明は陰陽の達者なり・・・。
その4年後に・・・85歳で亡くなります。
死の数十年後には、書物に現れます。
庶民の逸話と共に!!
彼は、式神を使う天下無双の陰陽師!!

それは。。。江戸中期にも・・・現代にも・・・
いつの時代になっても蘇えります。
それは。。。鬼はいつの時代にもあり無くならない・・・
その不安とどのようにして付き合っていくか・・・
それを示してくれているのかもしれません。
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