日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:雄略天皇

大阪高槻市に、今、注目の古墳があります。
今城塚古墳・・・二重の堀を含めた全長350mという巨大な前方後円墳です。
堀の外には、長さ50メートルにわたって、様々な埴輪が並びます。
武人、力士、巫女などおよそ200体・・・葬られた人物の権力の大きさを物語っています。
この古墳の主を多くの研究者は継体天皇と考えています。
6世紀初めの天皇で、聖徳太子の曽祖父に当たります。
継体天皇は、極めて異色の天皇でした。
出身は、権力の中心・大和からほど遠い北陸・・・先代天皇との血縁も薄かったのに、大和の豪族たちに即位を求められたのです。
一体どうして地方の王族が天皇になれたのか??
いかなる人物だったのでしょうか??

まだ日本が倭国と呼ばれていた506年・・・大和政権は、大きな危機の中にありました。
日本書紀にはこう記されています。

”武烈天皇が崩御した
 ところが、天皇には息子も身近な親類もおらず、後継者候補がいなくなってしまった”

政権の中枢である天皇になる人がいない・・・まさに、大和政権崩壊の危機でした。
そんな危機が起きた理由は、武烈天皇の4代前、雄略天皇の時代にありました。

日本書紀には・・・

”雄略天皇は、誤って人を殺すことが多かった
 人々は、大悪の天皇であるといった”

雄略天皇は、自らが天皇になるためにライバルを次々と殺していきました。
その為、後継者候補は極端に少なくなり、武烈天皇の代で遂に跡継ぎがいなくなってしまったのです。
大和政権を支える有力豪族・・・大伴金村、物部麁鹿火は、後継者探しに奔走します。
そこで、ある人物の名前が上がります。
2人が白羽の矢を立てたのは男大迹王・・・亡くなった武烈天皇とははるかに遠縁の人物でした。
武烈天皇の5世代前の応神天皇の代に別れた家系の五代目・・・
さらに、男大迹王は、そのプロフィールも異色でした。
生れたのは、大和から離れた近江の北部、父の死後、母の故郷・越前に移り、その地を治めていました。
年齢は57歳、当時としては高齢でした。
どうしてこんな異例の男大迹王が後継者に選ばれたのでしょうか?

琵琶湖の西岸に位置する滋賀県高島市・・・男大迹王の故郷に当たるこの地の調査では、男大迹王の父・彦主人王の墓(田中王塚古墳)が発見されています。
5世紀後半の築造とされています。
大きさは直径58m・・・この地域で最大級の大きさで、高島の中で突出して規模が大きいのです。
高島では100年間に70基もの古墳が相次いで造られました。
その中で、田中王塚古墳は最大で、長年にわたって地域を治める、近江の有力豪族だったことが分かります。

日本書紀によると、近江で生まれた男大迹王は、その後、母親の故郷・越前を治めたといいます。
近江と越前の豪族を従える王に成長していたことが伺えます。
さらに、男大迹王を支えていたとされるのが、尾張の大豪族・尾張連です。
当時、尾張では東海地域最大級の断夫山古墳を始め、巨大な古墳が数多く作られていました。
その尾張の大豪族の娘を男大迹王は妃にしていたのです。
近江、越前、尾張・・・広大な地域の豪族たちに支えられていたことこそ、男大迹王が大和政権の新たな主に選ばれた理由でした。
男大迹王の力の源はそれだけではありませんでした。
故郷高島にある鴨稲荷山古墳には、男大迹王の親族が葬られた石の棺の中から金で出来た靴や冠が出土しています。
これらは朝鮮半島からもたらされたものと思われます。
伽耶、百済の王墓から出てくる物に非常に近いのです。
この朝鮮半島とのつながりも、後継者に選ばれた要因の一つではないかと思われます。
5世紀以降、越前、近江、若狭といった日本側沿岸地域は、朝鮮半島との交流が非常に活発でした。
継体天皇の基盤には「対外交渉」朝鮮半島とのつながりがあったのではないか?と思われます。

朝鮮半島には、男大迹王と密接な関係を持った人物がいました。
朝鮮半島西側の国・百済の武寧王です。
武寧王は、北の強国・高句麗の攻撃を撃退し、20年以上にわたって王として君臨した古代朝鮮の実力者です。
その武寧王が、男大迹王に送ったとされる品が残っています。
和歌山県・墨田八幡神社に伝わる国宝・人物画像鏡です。
この鏡の背面に、興味深い銘文が刻まれています。
送り主の名は斯麻=武寧王、男大迹王の長寿を祝ってこの銅鏡を送るとあります。
送った年は503年・・・男大迹王が後継者に選ばれる前です。
つまり、男大迹王は即位前から百済の武寧王とつながりを持っていたと考えれます。
日本書紀には、地方にいた王族とだけ記されている男大迹王・・・しかし、その実像は、各地の豪族と朝鮮半島の百済に支えられる大実力者だったのです。

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遠く離れた越前の地から武烈天皇の後継者に選ばれた継体天皇・・・
507年に即位します。
しかしなぜか、政権の本拠地に入ることはありませんでした。
最初に宮を築いたのは・・・507年樟葉宮・・・琵琶湖から流れる淀川のほとりでした。
継体天皇はここで即位し、およそ5年過ごすことになります。
その後も・・・511年筒城宮、518年弟国宮・・・と相次いで宮を築きますが、いずれも大和ではありませんでした。

日本書紀にはこう書かれています。

”継体天皇は、内心、自分が選ばれたことに疑いを持っていた”

これは、即位に反対する勢力がいると考えていたと読み取れます。
この頃、大和の豪族たちは大きく東西の二つの勢力に分かれていました。
継体天皇を推挙した大伴・物部など大和盆地の東に基盤を持っていました。
西側には、彼らと一線を画す葛城氏の拠点となっていました。
全長200m近い大型の古墳が連なる馬見古墳群・・・これらは、葛城氏が築いたものとされています。
継体天皇の10代前、仁徳天皇の頃から天皇の后を出し続けており、彼らが新参者の即位に反対し、継体天皇の大和入りを阻んでいたとも考えられます。

それとも、敢えて大和に入らなかった・・・??
大阪府交野市には森遺跡があります。
そこからは、継体天皇が即位したころの鍛冶工房跡が見つかっています。鉄を加工する鍛冶炉・・・炉に風を送る鞴の一部も見つかっています。
この辺りは、古墳時代の鉄器を加工していた遺跡が東西2キロ、南北500mの範囲で見つかっています。
6世紀に入って、鉄器加工を集中的に行っていた場所です。
当時、倭国に製鉄技術はなく、朝鮮半島から輸入した鉄の地金を加工して使っていました。
戦略物資である鉄器生産の中心地が、継体天皇最初の地・樟葉宮の近くにあったのです。
その後、継体天皇は拠点を移し二つの宮を築きましたが、いずれも淀川水系にありました。
淀川は、大阪湾にそそいでおり、そこから瀬戸内海を通じ九州から朝鮮半島につながる・・・
南部の伽耶は、倭国が輸入する鉄の産地でした。
継体天皇は、戦略物資である鉄の輸入ルートと加工の場を共に手中に収めていたのです。

526年、継体天皇はようやく奈良に入り、奈良盆地南東部に磐余玉穂宮を置いて、名実ともに大和の大王となりました。
即位から20年近くも後のことです。

ようやく大和入りした継体天皇・・・
倭国の王として混乱する国の立て直しを行うこととなります。
しかし、その前には大きな問題が立ちはだかっていました。
舞台は九州・・・!!
北部九州最大の岩戸山古墳・・・墳丘の長さは138m、高さ20m・・・6世紀前半の古墳としては、全国有数の規模を誇ります。
この古墳の主は筑紫君磐井・・・継体天皇と同じ時代、北部九州一帯に勢力を誇ったとされる豪族です。
磐井の本拠地は、現在の福岡県八女市・・・八女古墳群と呼ばれる300もの古墳が点在し、岩戸山古墳はその中心に位置しています。
磐井の力を示すのは古墳の大きさだけではなく・・・古墳の周りの埴輪・・・岩戸山古墳は埴輪ではなく石で作られた”石人石馬”と呼ばれるもので、古墳の周りに配置されていました。
岩戸山古墳からは、石製品が100点以上も見つかっています。
石工・・・石製品を作る職人集団を九州中から集めていました。
北部九州を掌握していた磐井は、大量の石人石馬を並べ、自らの威厳を誇示するようになっていました。
そんな磐井の勢力は、九州だけにとどまりませんでした。
朝鮮半島とも結びついていたのです。
岩戸山古墳にほど近い古墳では伽耶系の耳飾りが、磐井と関係の深かった久留米の古墳では新羅系の土器が見つかっています。
百済、新羅、伽耶・・・様々な社会と複数のパイプを持つ有力者・・・
衰えた大和政権の立て直しを図る継体天皇・・・
九州で自立の動きをする磐井にどう向き合うべきか・・・??

磐井と手を組む・・・??
それとも、見せしめとして磐井を滅ぼす・・・??
どうする・・・??

継体天皇が葬られたとみられる今城塚古墳・・・
墳丘の長さは、磐井の墓の1.4倍、当時最大級の古墳です。
ここで彼の選択にまつわるものが発見されました。
それは、今城塚古墳から大量に出土した円筒埴輪・・・船の絵が意識的に書かれています。
三日月形の船体に2本マストが立っています。
これは、大型輸送船をモチーフに書いていると思われます。
古代最大の兵員輸送・・・6万人の兵を送り届ける!!
継体天皇の選択は、磐井を滅ぼすでした。

527年~528年、磐井の乱。
6万人もの兵を導入して、磐井との戦いに乗り出しました。
大将軍・物部麁鹿火率いる軍勢が、磐井の軍と筑紫三井郡で激突!!
結果は大和軍の圧勝でした。

”天皇の命に従わず、無礼であった磐井を物部らは殺した
 官軍の怒りは収まらず、石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落とした”

今城塚古墳からは、戦いの後、継体天皇の力が全国に及んでいたことを示すものが発見されています。
阿蘇ピンク石は九州で採掘され・・・赤い顔料(水銀朱)がついていて、神聖な色でしばしば石棺に塗布されています。
はるか遠くにある石をどうして使ったのか・・・??
阿蘇ピンク石の産地である熊本県宇土市・・・馬門石と呼ばれています。
自分の権力や財力を、いかにして見せつけるのか・・・??

「我々は、あんな遠い勢力とつながりがある
 重いものを運んでくれる
 それほど自分達には力がある」

と、誇示したかったのです。

運ぶことによって、40~50カ所の豪族が受け入れる・・・王権の一翼を担っていると認識できます。
九州全体が自分になびいていくきっかけにもなります。
継体天皇にとって、大事な契機となりました。

磐井を倒し、大和政権の立て直しに成功した継体天皇・・・
日本書紀では磐井を倒して3年後の531年に崩御。

今城塚古墳では、発掘の結果200体もの埴輪が50mにわたって並んでいたことが分かっています。
強大な権力を手にした大王を送る厳かな儀式のありさまを伝えています。

地方からスカウトされ、衰えた大和の力を復活させた継体天皇・・・
今、その実像に新たな光が当てられています。


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万葉集・・・8世紀泥編纂された現存する日本最古の歌集です。
日本人の心のふるさとともいわれています。
全20巻に及ぶ歌集「万葉集」
そこに収録されている歌は、短歌:約4200首、長歌:約260首、旋頭歌:約60首・・・計4516首です。

タイトルの「万葉集」については諸説ありますが、万葉=万代(世)という意味があることからこの歌集が末永く伝わりますようにという願いが込められているといいます。
そんな万葉集の第1巻は、5世紀後半の日本を統治したという21代雄略天皇の長歌から始まります。

籠もよ
み籠持ち
ふくしもよ
みぶくし持ち
この岡に
菜摘ます児
家告らせ
名告らさね

から始まります。

これをわかりやすく読み砕くと・・・
「これは良いカゴを持ってらっしゃるし土を掘るヘラも良いものですね
 若菜摘みをしてらっしゃるお嬢さん方、家はどこです?お名前をおっしゃいなさいな」
しかし、当時名前を聞くのはプロポーズに当たり、答えないため・・・天皇は、

そらみつ
大和の国は
おしなべて
吾こそ居れ
しきなべて
吾こそいませ
吾こそは
告らめ
家をも名をも

この大和は私が君臨している国。
隅々まで私が治めているのですぞ。
それでも言わぬなら私から名乗りましょう。

なぜ万葉集はこの雄略天皇の歌から始まるのでしょうか?

雄略天皇は、国土統一の英雄とされています。
日本が雄略天皇によって統一されたと万葉集が編纂された8世紀の人々は考えていました。
歌集の価値を高める時に巻頭の歌は重要で、偉大な雄略天皇の歌を巻頭に置くことで、歌集としての価値を高めようとしたのです。

万葉集を編纂したのは、奈良時代の歌人で名門貴族の出である大伴家持が有力視されています。

新元号令和の由来は、万葉集・梅花歌三十二首の序文・・・
そしてその歌が詠まれた宴を開いたのが家持の父・大伴旅人でした。
家持は旅人の長男として奈良時代の初頭・・・718年頃平城京で生まれ育ちました。
そもそも大伴氏は大和政権の古参の名門氏族で、エリートでした。
家持は幼少のころから学問に勤しみ、十代半ばで歌を詠み始めたとされています。
そして20代後半・・・746年に国守(県知事)として越中国に赴任します。
雄大な風景に魅了されて、多くの歌を詠み始めます。

馬並めて
 いざ打ち行かな
       渋谿の
清き磯廻に
   寄する波見に

こうしてお気に入りの場所を歌に詠む一方で、

春の日に
  萌れる柳を
     取り持ちて
見れば都の
   大路し思ほゆ

これには裏の意味があるともいわれ・・・
柳は当時の都で流行っていた女性の細い眉の事・・・。
家持は柳を見ることで美しい都の女性たちを遠く越中の国から懐かしんでいたようなのです。

万葉集に収録されている家持の歌は473首。
4516首の一割以上をしめ最多!!
全20巻からなる万葉集は・・・
巻1、2、3は宮廷関係の歌
巻9は柿本人麻呂など有名家人の歌など特色がありますが・・・
巻17,18,19,20は家持の歌日記のような内容です。
さらに巻4大伴氏に関係する歌、巻5大友旅人の歌・・・と、家持の親族の歌が多く収められていることから、万葉集の編纂者ではないか?という説が古くからあるのです。

もしそうなら、本当に家持が多くの歌を編纂したのでしょうか?
万葉集は、多くの歌集を集めてきたものです。
万葉集以前にあった様々な歌集を集めて、最終的にまとめたのが大友家持だったと思われます。
天皇が歌を詠みなさいと呼びかけたときに歌が読めないと無作法に当たる・・・
そこで、宮廷社会を生き抜くために、常日頃から勉強し、スキルアップすることが必要なのです。

万葉集には防人たちの歌も数多くありますが、その歌を編纂したのも家持でした。
家持は754年兵部少輔に就任・・・防人たちを監督することになり、その際、防人たちから歌を集めたのです。
そうして集まった166首の中から厳選した防人の歌84首を万葉集に収録。
防人の妻が読んだ歌もあります。
当時、東国で徴兵された防人たちは、九州までの交通費は自費負担。
しかも任期は3年・・・それも延長されることが多く、力尽きて命を落とす者も少なくありませんでした。

万葉集には万葉仮名が使われています。
当時はまだカタカナもひらがなもなく、文字は中国から伝わった漢字のみでした。
そして日本語を表記する時もすべて漢字。
日本語の発音に漢字の読みを当てたのが万葉仮名です。
しかし、万葉集の中には皇族や貴族だけでなく、役人、兵士、農民、芸人、遊女などの歌もあります。
さらに名もなき人の歌も多く、およそ半数の2103首が「読み人知らず」です。
当時はまだ読み書きのできない人が多く、全ての人が万葉仮名を使いこなしていたとは考えにくいのですが・・・
実際は・・・??
詠った人と書いた人は別??全員が文字が書けたわけでもなく、役人たちは漢字を学んでいました。
文字が書けない人々の歌を、文字が書ける階級の人々が書き残した・・・それがいつしか万葉集として編纂されたのです。
万葉仮名はいつまで使われたのでしょうか?
平安時代以降には、万葉集はすでに読めなくなっていたと思われます。
少なくとも10世紀には読めなくなっていたので、それ以前にはすでに使われなくなっていたと思われます。
そのため、平安時代中期には万葉集の解読は困難だったようで、62代村上天皇は5人の家人に解読作業を命じています。
そして鎌倉時代中期には、万葉集の研究に全てを雪いだ学問僧・仙覚が全ての歌に読みをつけ、注釈を加えた「万葉集注釈」を完成。
これが現代の万葉集研究の基礎となっています。

万葉集に収録されたおよそ4500首・・・
その作品は主に4つの時代に区分されています。
第1期は、初期万葉時代(629~672年)・・・舒明天皇即位~壬申の乱
素朴でおおらかな歌が多いのが特徴です。
中大兄皇子と共に、大化の改新の立役者となった藤原鎌足の歌も収められています。
鎌足の歌は、采女を手に入れたと嬉しそうな歌です。
采女とは、天皇の日常の雑事に従事する女官のことで、地方豪族の娘の中から容姿端麗な者が選ばれていました。
そして天皇の妻となる可能性もある人・・・天皇以外の者が采女と恋仲になるのは厳禁・・・話しかけることもダメでした。
そんな中、天智天皇は功績のあった鎌足にあってはそれを許す・・・
それは、結婚を許すと同時に、特別な配慮を天皇から受けた・・・名誉を受けた歌となっています。

初期万葉時代を代表する歌人と言えば額田王。
後世に描かれた肖像画によって絶世の美女だったと言われています。
残された歌から宮廷歌人だったのでは?と思われますが、謎が多く、僅かな手掛かりは日本書紀の一文・・・
額田姫王・・・大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎ、皇女を一人産んだ
嫁いだ経緯は記されていないものの、宮廷詩人として仕えていた際に、大海人皇子に見初められたのでは?とされています。
そんな額田王の歌は・・・??

君待つと 
 我が恋ひ居れば
    我が屋戸の
 簾動かし
    秋の風吹く

あなたが来るかなあ・・・と待っていたら部屋のすだれが動いた・・・
と思って喜んだのに秋風が吹いただけだった。

当時は、通い婚でした。
この歌を素直に読めば、愛する夫を心待ちにしている額田王ですが、実は額田王は夫である大海人皇子ではありませんでした。

この歌は、夫である大海人皇子の実の兄・・・時の天皇となった天智天皇に向けて読まれた歌です。
つまり、禁断の恋・・・夫の兄が来るのを待っていたのです。

宮廷社会は天皇から寵愛を受ける・・・それはすべてに優先されていました。
当時の慣習としては一般的だったと思われます。
更に万葉集には続きが・・・天智天皇が近江国の蒲生野で、薬狩(山野に出て鹿の若角や薬草を取りに行く行事)に出かけたとき、これに同行していた額田王と大海人皇子はこんな歌を詠みます。

額田王が・・・

あかねさす
  紫野行き
   標野行き
野守は見ずや
  君が袖振る

これに対し大海人皇子は

紫草の
  にほえる妹を
    憎くあらば
人妻ゆえに
 我恋ひめやも

未練たらたら・・・大海人皇子は、額田王を諦めきれなかったのでしょうか?
この後、天智天皇は次期天皇の筆頭候補だった大海人皇子を差し置いて、実子である大友の皇子に皇位を譲渡。
これが原因で壬申の乱が勃発しました。
万葉集を知ると、額田王をめぐる大海人皇子と天智天皇の確執もあるのでは?と、考えられます。
が・・・実際のところはどうだったのでしょうか?

この歌のやり取りは、大海人皇子が40歳前後、額田王が30代半ばを過ぎた頃・・・
今風に言えば、若い頃のコイバナを自虐的に詠んで宴を盛り上げた!!ぐらいです。
二人が交わしたのは恋の歌ではなく、壬申の乱とも無関係と思われます。


第2期は、白鳳万葉時代(672~710年)・・・壬申の乱~平城京遷都の頃で、力強い歌が多いのが特徴です。
有名な歌人は柿本人麻呂です。
万葉集以外、古代の文献には一切登場しないため、謎の歌人と言われています。
生没年不詳・・・経歴も不明・・・しかし、持統天皇などに仕えた宮廷詩人でした。
天皇をほめたたえる歌や、皇族の死を惜しむ歌など、儀礼的な歌を数多く読んでいます。
しかし、その一方、妻への恋の歌も・・・。
人麻呂が創出したとされる枕詞には、「足走る」「あさもよし」「鶏が鳴く」などがあり、歌人の模範とされ平安時代には歌聖と称されるようになります。
さらに鎌倉時代には、歌の神として全国各地に祀られるようになりました。
歌の神・柿本人麻呂を祀る神社は、山陰地方を中心に北海道から熊本県まで、全国に200以上にのぼります。
人麻呂は、その名が「火とまる」「人うまれる」に似ていることから、火伏の神や安産の神として祀られました。
歌人として頂点を極めた人麻呂は、今なお人々の厚い信仰を集めているのです。

万葉集の中で、最も多いのが恋の歌です。
全体の7割・・・およそ3000種が恋の歌です。
どうしてこんなに恋の歌を詠んだのでしょうか?
市場、橋のたもと、山の中で男女が一緒に歌を掛け合う・・・
歌をどれだけうまく返せるのか?で、人柄や知識の有無を判断していたのです。
当時は歌の上手な人がモテ、結婚相手を探していたようです。


第3期は、平常万葉時代(710~730前後)平城京遷都~山上憶良没頃は個性的な歌が多くみられます。

第五巻に収録されている「貧窮問答歌」もその一つです。
当時の民衆の貧しさと苦しさを切々と詠んだもので、詠み人は、社会派詩人と言われる山上憶良でした。
歌の前半は、憶良が下級役人だったころのみじめな貧しい暮らしぶりを詠んだものです。
晩年こそ貴族となっていた憶良でしたが、家の格が低く、40歳を過ぎて遣唐使に任命されるまでは、無位無官でした。
歌の後半は、食べる者さえロクにない農民たちの貧しい過酷な現状が詠まれています。
当時、税としての米の取り立ては非常に厳しく、餓死者も出るほどでした。
万葉集に収録された「貧窮問答歌」は、当時の庶民の暮らしを今に伝えてくれる貴重な資料でもあります。


第4期は、天平万葉時代(730前後~759年)山上憶良没後~最終歌は、優美な歌が多くあります。
繊細で優美な歌が多いことから、万葉集の成熟期と言われています。
代表的な歌人は、万葉集の編纂者と言われる大伴家持。
万葉集の最後の一種・・・結びの歌は、この家持が詠んでいます。

新しき
  年の初めの
      初春の
今日振る雪の
    いやしけ吉事

759年の正月、国守として因幡邦で詠んだ歌です。
新年を迎え、希望に満ち溢れている家持ですが、この歌を最後に亡くなるまでの25年間、家持の歌は一首も残っていません。
家持自身が世の中に絶望し、歌を詠うことをやめてしまったという人もいます。
しかし、家持が役人生活をしている以上は詠んでいないということは考えられず、結びの歌以降も歌は詠み続けていたものの、万葉集に取り込まれなかったと考えるのが妥当です。
晩年に詠まれた歌は、世に出なかったからでは??
それではどうして世に出なかったのか?
当時の大伴氏が置かれていた状況にあります。
万葉集の結びの歌が詠まれた8世紀中ごろ・・・朝廷の中心にいたのは、大納言・藤原仲麻呂を筆頭とする藤原氏でした。
しかし、権勢を振り翳す仲麻呂に対し、古くから天皇に仕えてきた面々は、不満を抱いていました。
そうした者たちが、仲麻呂の暗殺を画策!!
757年橘奈良麻呂の乱です。
これに大伴氏の一族も加わったのですが、事前に計画が漏れてしまい、加担したものは、拷問死、もしくは流罪となってしまいます。
762年・・・今度は家持自身が、仲間と共に藤原仲麻呂の暗殺を画策!!
しかし、これも事前に計画が露呈・・・
仲間の一人が罪を被ったことで、家持は無罪となりましたが、翌年報復人事で薩摩国へ左遷されてしまいました。
これで出世の道は絶たれたと思われましたが、ほどなくして藤原仲麻呂が孝謙上皇と対立し、謀反を起こし殺害されてしまいます。
そののち、家持は大宰府の最高次官をへて都への復帰が叶い、中納言まで昇進!!
785年、60代後半でこの世を去りました。

ところが・・・死後の家持にまたもや悲劇が・・・!!
家持がこの世を去った20日ほど後・・・785年10月31日、大伴氏の一族が長岡京遷都の責任者だった藤原の種継を暗殺してしまいます。

実行犯たちは斬首刑に・・・そしてなんと、すでに亡くなっていた家持まで生前関わっていたと処罰を受けます。
その罰は、家持の遺体の埋葬禁止、官位の剥奪、領地の没収、無実の嫡男を隠岐へ追放・・・
そうした処罰の一環として、万葉集結びの歌以降に詠んだ歌が破棄された可能性があるのです。

だから・・・家持の晩年の歌が世に出なかった・・・??
恩赦が実施され、家持が名誉を回復したのは、それから21年後・・・806年のことでした。

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2017年7月・・・大阪平野にある二つの古墳群が世界文化遺産登録に向けて推薦されることが決まりました。
一つは堺市の百舌鳥古墳群・・・
全長486mの日本最大の大仙陵古墳・・・上石津ミサンザイ古墳、ニサンザイ古墳。
もう一つの古墳群は古市古墳群・・・日本第2位の誉田御廟山古墳があります。
藤井寺市と羽曳野市にまたがる古墳群・・・墓山古墳・岡ミサンザイ古墳・・・です。
これらの巨大古墳群は、5世紀を中心に作られました。
小さいものを含めると、この地方だけで200基作られたとか・・・。
しかし、これらの古墳に埋葬されているのが誰なのか、何のために作られたのか??わかっていません。

中国の歴史書に描かれた倭の王・・・讃・珍・濟・興・武・・・倭の五王・・・。
倭の五王は日本書紀の天皇の誰に当たるのか??
濟・・・允恭天皇、興・・・安康天皇、武・・・雄略天皇は専門家の意見も一致していますが・・・
讃・・・応神天皇・仁徳天皇・履中天皇、珍・・・仁徳天皇・反正天皇・・・と諸説あり、意見が分かれています。
その倭の五王の時代、大和を中心とする政権は、巨大な武力で日本を支配下に治め、海外にも関わっていきます。
おりしも中国大陸では、宋と北魏が対立し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が激しく争っていました。
そうした中で、倭の五王の最初・・・讃が、中国に使節を送ります。
その目的とは・・・??
五人目の王・武が宋王朝に送った書には、高句麗と戦う決意が示されていました。
巨大古墳を生んだ古代日本・・・倭の五王たちの東アジアの外交戦略と選択とは・・・??

4世紀・・・大和政権は現在の奈良盆地を中心に勢力を伸ばしていました。
そこには、五社神古墳・佐紀陵山古墳・・・全長200mを越える前方後円墳が政権のシンボルとしてたくさん並んでいます。
ところが、5世紀・・・倭の五王の時代、古墳の築造は西の大阪平野へと移ります。
それが百舌鳥・高市古墳群です。

巨大古墳はどうして作られたのでしょうか?
日本最大の規模を誇る大仙陵古墳・・・仁徳天皇陵として知られています。
全長486m堀を含めた面積は、およそ47万㎡あり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵をも上回ります。
今は木々に覆われていますが・・・当時は土を階段状に三段積み上げた墳丘で、高さ約36mでした。
表面には石が敷き詰められ、平面には3万もの埴輪が並べられていました。
表面に敷き詰められた白い石は、太陽の光を反射しました。
かつては全体が白く輝いていた大仙陵古墳は、強大な姿は遠くからでもよく見えたことでしょう。
百舌鳥古墳群は配置にも意味がありました。
当時の大阪湾の大地の上に海岸線沿いに作られていました。
どうして海沿いに・・・??
海から見ると、この古墳はとてつもなく大きな構造物として目に入ったでしょう。
古墳は、海からよく見えるように・・・海でやってくる人たちに見せるために・・・
つまり、中国などとの交渉を意識して、海沿いに大きな古墳を作ったのです。

大阪平野には、もう一つ巨大古墳群があります。
百舌鳥古墳群から内陸におよそ10キロ・・・古市古墳群です。
誉田御廟山古墳・・・全長425m、大仙陵古墳に次ぐ大きさです。
どうして内陸に・・・??
古市古墳群の傍には、大和川・・・そして奈良盆地に続く二つの街道・・・大津道・丹比道がありました。
ここは、大和政権の本拠地に向かう・・・水路、陸路の交通の要衝だったのです。
交通路という意味では、百舌鳥よりも古市の方が重要な場所だと言えます。

百舌鳥と古市・・・ここは、倭国を訪れる海外からの使者に対して大和政権がいかに巨大であるかを見せるための仕掛けでした。
そんな大和政権とは・・・??
古墳からは、鉄製の武器や武具が数多く出土しています。
ヤマト政権は鉄で作られた武器や武具を供え、強力な軍事力を見せることで勢力を拡大していきました。
まさに、鉄の王朝だったのです。

しかし・・・倭国には鉄の産地がありませんでした。
どこから手に入れたのでしょうか?
三世紀末に編纂された中国の「三国志」・・・魏書東夷伝・弁辰の条に・・・「国 鉄を出す 韓 濊 倭 皆従いて之を取る」とあります。
弁辰は、朝鮮半島南部にあり、鉄の生産を盛んに行っていました。
倭国は朝鮮半島南部から鉄鋌を輸入して、それを加工して武器、武具を製造していました。
五世紀・・・倭国は、鉄を手に入れるために、朝鮮半島と深いかかわりを持っていたと考えられます。

日本の場合、青銅器時代がなく石器時代からいきなり鉄器時代になっています。
鉄の武器・・・が日本では生産できない・・・どうやって持ってくるのか??
理想的なのは、一つの権力が独占的に持ってきて、倭国内で各勢力に分配する・・・。
そうやって支配を強めていくことが理想の権力構造でした。
圧倒的に軍事技術に差がついてしまった場合、戦争すら起きない・・・。
その武器や武具をどうしてそんなにも沢山埋めてしまう必要性があったのか??
それは、まだまだあるという鉄のプロバイダーとしての力を誇示するためだったのかもしれません。
鉄の王朝であるにもかかわらず、それ・・・鉄を他国に依存している・・・そして、発展してきている・・・
国力の基幹部分が外国に依存しているという点では、現在も石油を依存しているので、古代も今も同じなのかもしれません。
しかし・・・当時は、鉄の取れる場所は日本列島の近くでした。
なので、軍事的進出もあり得るのです。
しかし、国内では武器、武具で傷つけられた骨が出土していません。
武装にコストをかける目的が、体内的なものから対外的なものへと変わっていたのです。

4世紀中ごろ、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が激しい闘争を繰り返していました。
北方の強国・高句麗は、勢力拡大のために南下をしようとしていました。
その矢面に立たされたのが百済でした。
高句麗の圧力にどう対抗するのか・・・??
奈良にある石神神社には国宝・七支刀が。。。
この七支刀は、百済で369年に作られて、倭国に送られたと記されています。
一国では高句麗に対抗できないと、倭国に軍事支援を求め、その証としてこの七支刀を送ったのです。
一方、倭国にとっても百済に応える理由がりました。
当時、倭国は朝鮮半島南部の加耶と密接な関係にあり、鉄資源を確保していました。
そこに、高句麗の支配の及ぶことを何としても阻止したかったのです。
百済と同盟を結んだ倭国は、4世紀末から5世紀初頭にかけて朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦います。
しかし・・・「好太王碑」によると、高句麗と倭国・百済の連合軍との戦いの様子を・・・
”399年、百済は高句麗との誓いを破り、倭と同盟した
 400年、新羅の都にいた多くの倭国兵が退却したので、これを追った
 404年、倭が侵入してきたので、これを討って大いに破った
 切り殺した倭国兵は、数えきれない”
高句麗の古墳の壁画に、当時の高句麗軍の姿が書かれていました。
騎兵で、馬にも鎧を着せ、長い矛を手にした強力な騎馬兵で、歩兵の倭国軍は洗車のような馬と、刀の届かない矛からの高句麗軍に手も足も出ず蹂躙されました。
それから17年後、倭の五王最初の王の讃が、中国の宋に使節を送りました。
讃の使節派遣は・・・宋にある権限を求めるものでした。
高句麗に大敗した後、百済はずっと戦争状態で、非常に押され気味でした。
それを助けるためには対高句麗戦を考えて、朝鮮半島南部での活動を確保するための軍事権を粗油から認めてもらおうとしたのです。
珍も宋に使節を送ります。
珍は宋に送った文章の中で要求しています。
倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・・・六か国の軍事指揮権です。
任那・秦韓・慕韓は、百済・新羅の力の及んでいない小国でした。
珍は中国の王朝に使節を送ることで、鉄の産地である朝鮮半島南部での軍事指揮権を目論んだのです。
しかし・・・与えられたのは、倭国王の称号と、中国王朝の官職である安東将軍の称号だけでした。
半島南部の軍事指揮権は認められなかったのです。

それでもその後の倭王たちは、朝鮮南部での軍事指揮権を求め続けます。
倭王たちの使節派遣にはもう一つの目的がありました。
倭王・珍は、自分の家臣たちにも称号をと、宋王朝に求めていたのです。
その結果、安東将軍よりも位の低い・・・
「倭隋等十三人を 平西 征虜 冠軍 輔国将軍の号に除正せんことを求む」
そこからは、倭国の国内事情が伺えます。
倭国の場合、倭王と拮抗する様々な勢力がいたので、彼らに対して中国の官職をもらう・・・
倭王の下だというランク付けを明確化し、臣下、官僚として組織する必要があったのです。
当時の倭国は、中央、地方の豪族の連合政権でした。
中央では大和盆地南西部を支配する葛城、地方では中国地方に巨大な勢力を持つ吉備・・・
巨大な勢力が各地に存在していました。
宋への使節派遣には、朝鮮半島での軍事活動の正当化という以外にも、国内の王と豪族との序列を明らかにする・・・国外、国内での意味があったのです。
宋王朝の記録での倭の五王の派遣は、実に9回に及んでいます。

宋は皇帝を持っています。
皇帝は、天下・・・つまり、世界中の支配者です。
その人から朝鮮半島南部の軍事指揮権を認定されるということは、倭国にとっては、世界中で認められたと主張できるものでした。
中国よりは下だけど、朝鮮よりは上という位置づけを・・・
本当に有事があった場合は、指揮する権利があると主張できる!!

朝鮮半島は山城がたくさんあります。
防衛にコストを使っていないと立ちいかない・・・。
百済は、鉄や先進的な文物をバーターとして日本に与え、倭を兵力の一部としてうまく利用する・・・。
同盟関係の裏にはそんな思惑があったのかもしれません。

475年、朝鮮半島に激震が起こります。
高句麗が百済の都・漢城を陥落させます。
国王までも殺してしまいました。
国の滅亡に瀕して、南に逃げた百済の王族は国の復興を願うこととなります。
この時、五王は武でした。
武は、478年宋に上表文を奉呈します。
そこで、高句麗の非道ぶりをひどく訴えています。

これによって宋は、武に朝鮮半島南部の指揮権とこれまでより上位の安東代将軍倭王を与えます。
高句麗に大敗してからおよそ70年・・・倭王部の時代になって、ようやく高句麗を討つ条件が整ったのです。
そして武は選択を・・・!!
朝鮮に出兵する??
このまま南の鉄の産地まで高句麗のものとなってしまえば、鉄が手に入らなくなってせっかく手に入れた倭王の権威を失ってしまう!!
出兵して高句麗を討ち、半島南部における倭国の権益を確実なものにしておくべきか??
高句麗の騎馬隊のために軍事改革をしてきたではないか!!
百済、新羅、加耶諸国を集結すれば、強敵・高句麗に勝てるのではないか??

高句麗を侮ってはいけない??
もし、再び高句麗に負けることがあれば、倭国内統制も利かなくなるのでは・・・??
高句麗の勢いを止め、半島南部の鉄資源の入手を確かなものとするために出兵すべきか?見極めるべきか??

武の使節派遣の翌年・・・日本書紀によると、九州の軍勢が海を渡って高句麗と戦ったとあります。
しかし・・・朝鮮半島の歴史書「三国史記」には、一切書かれていません。
二つの歴史書の違いはどうして生まれたのでしょうか?
日本書紀の出兵記事も、倭本体が派遣したのか??派兵した人は、九州が主体で、畿内の倭王権から直接派遣されたものかどうか・・・。
日本書紀の記載では・・・九州の豪族が、百済に最低限の軍事支援をする程度で、高句麗と全面対決をしたようには思えません。
倭王・武は、高句麗との対決を避けたのです。
それ以外に力を入れたのが・・・各地から出土しています。
稲荷山古墳からは・・・鉄剣が・・・そこに刻まれた115文字の銘文に・・・”獲加多支鹵(ワカタケル)大王”と書かれています。
ワカタケルとは・・・雄略天皇のことだと思われます。
そして、この倭王・武こそが、雄略天皇だとされています。
熊本県にある江田船山古墳にも・・・同じく銘文のある鉄剣が出土しています。
日本書紀によると、雄略は、葛城、吉備といった有力豪族を次々と粛正し、大和政権内で絶対的な権力を持ち、大王を名乗りました。
しかし、雄略の死後、国内が混乱しました。
そして、倭王の中国への使節派遣も途絶えてしまいました。
6世紀・・・念願だった鉄の生産が倭国でも行われるようになります。
朝鮮からの渡来人が、砂鉄から鉄を作る”たたら製鉄”の技術をもたらしたのです。
これによって、強国・高句麗と戦う必要が無くなりました。

倭国における王の権威の確立・・・。
鉄資源の確保・・・これらの目的を果たすことができたとき、倭王にとって中国王朝のお墨付きの必要性も無くなっていました。
大阪平野に異様を誇る巨大古墳・・・古代日本の王の、鉄を確保するための外交戦略を今に伝えています。

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