日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:集成館

明治維新の立役者の一人・西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりのために邁進出来たのは、ある一人の男の存在があったからでした。
薩摩藩11代藩主・島津斉彬です。
斉彬が亡くなった際に、西郷は後を追って死のうとしたと言われています。
西郷がそこまで惚れ込んだ島津斉彬とは・・・??

1809年・・・薩摩藩10代藩主・斉興の嫡男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心な人で、乳母をおかずに自らの手で斉彬を育てました。
6歳の頃から中国の書物を越えに出して読むことや、絵画、和歌などを母に厳しく教えこまれた斉彬は、やがてこう呼ばれるようになります。
”二つビンタ”・・・ビンタとは、薩摩弁で頭の事・・・斉彬は、まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理できたというのです。
その噂を聞いた幕府の重役たちは、
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったなら幕府の老中となって活躍できたろうに・・・」
と、残念がったといいます。

斉彬は趣味も多彩、体格にも恵まれ、威風堂々としたものでした。
藩主になるべくして生まれた男・・・しかし、40歳を過ぎても藩主には慣れませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
というのも、斉興は19歳で藩主になったのですが、実権は父・重豪が握っており、斉興が名実ともに藩主になれたのは、重豪が亡くなってからのことでした。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実験を握った斉興でしたが、待っていたのは深刻な財政難でした。
原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも交流を深めるなど西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒・・・蘭癖と呼ばれるほどでした。
それは、薩摩藩の置かれた環境が強く影響しています。
薩摩藩は、現在の鹿児島県、宮崎県、沖縄県にひろくありました。
しかも、沖縄は、名目上琉球国王が支配する・・・藩の中に外国があり、貿易をしていました。
海外からの物資や情報、文化が薩摩藩に流入していました。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダや中国などの知識を吸収、画期的な開化政策を打ち出す一方で、金に糸目をつけずに新しいものや珍しいものを収集します。
さらに、藩校である造士館や天文館などを建設、藩の財政を圧迫していきました。
一時は500万両・・・今のお金で5000億円もの借金をしていました。
その莫大な借金を再建することが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球王国を隠れ蓑にした密貿易・・・抜け荷の拡大などで財政の立て直しを図っていくのです。

努力の甲斐あり、10年後には50万両もの備蓄ができるほどに持ち直します。
その功績を花道に、斉興は嫡男・斉彬に家督を譲っても良かったのですが、そうはしませんでした。
その原因もまた、重豪にありました
斉彬は幼い頃、重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響は、大きかったといいます。

斉彬は重豪の蘭癖を継承・・・多くの蘭学者たちを優遇し、洋書の翻訳をさせたり、自らオランダ文字で日記をつけたり蘭学に熱中・・・
曽祖父と同じ蘭癖と称されるようになるのです。
蘭癖は、藩の財政を揺るがすもの・・・そう考えていた父・斉興は、
「斉彬が藩主になったらまた藩の財政が悪化してしまう!!」
そう恐れたため、斉彬が30代半ばを過ぎてもなお、家督を譲らなかったのです。


nariakira父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖・・・
その証拠が、尚古集成館に残っています。

銀板写真・・・日本人が銀板写真に写っているのは、この島津斉彬だけです。
その外に、地球儀なども残っています。

19世紀半ば、イギリスやフランスなどの西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では東アジア最強と目されていた中国の清がイギリスに負け、開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にも、フランス船やイギリス船が度々来航・・・
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。

幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し、守りを固める様に命じますが・・・
斉興は少数の兵を短期間派遣しただけで、幕府には、指示通り兵を送ったと報告しました。
西欧列強が相手では、琉球を守るどころか薩摩藩自体も危ういと判断し、日本と西欧列強の差を縮めるべく、藩の軍事力を強化しようとしたのです。
その外に、武器の近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に、斉彬が・・・
「より近代化が必要!!」
しかし、藩の財政を第一に考える斉興は、これ以上の近代化は不要と一蹴・・・真っ向から対立していきます。

斉興が、藩主の座を譲らない理由は他にもありました。
朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩士は、通常ならば四位どまりなのですが、斉興は、財政再建をした功績によって、その上の従三位を与えられるのではないかと期待していました。
その為、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に藩主の座を譲る気などなかったのです。

30代半ばを過ぎても藩主になれない島津斉彬・・・
しかし、跡継ぎであることに変わりはなく、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が大きな波紋を呼びます。
参勤交代で江戸に滞在する時、留守中の薩摩のことは斉彬の弟の久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主就任を望む藩士の一部は弟の久光が藩主になるのでは??と勘繰ります。
しかも、それを陰で操るのが久光の母であり斉興の側室であるお遊羅の方だと考えるようになります。
そのさ中、斉彬の息子二人が病死・・・
斉彬の家臣達は、お遊羅の方の呪いではないかと噂をはじめます。
というのも、実際に呪符が見つかったからです。
しかし、これは、琉球にやってきた外国人を呪った父・斉興が作ったもの・・・??
全ては勘違いだったのですが、早合点した斉彬方の家臣達は、”このままでは、斉彬さまが呪い殺されてしまう!!”と、陰で操るお遊羅の方を暗殺しようと企てました。
ところが、これがお遊羅の方を寵愛する斉興の耳に入り、激怒!!
1849年、斉彬派を処罰します。
12人が切腹、38人が貼り付けや島流しの刑に処されるのです。
こうして、父との対立は深まっていくかに見えましたが・・・
このお家騒動が幕府の知る処となり、斉興は責任を取って、1851年隠居届を提出します。
斉彬は、ようやく11代藩主となるのです。
この時すでに43歳・・・!!

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薩摩藩士となった島津斉彬は、西洋列強に対抗するため、軍備の強化、近代化を推し進めていきます。
それは、鎖国体制の日本にあって、先駆的なものでした。

・洋式船の建造
当時、日本近海にやってきていた西欧列強の巨大な軍艦は、鉄製で蒸気によって動き、大砲を何本も装備していました。
たいして日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出ていたため、大きくても米を積む500石積の船しか作ることが出来ず、大砲も搭載できませんでした。
斉彬は、外圧に晒される今、日本も大型船を作る必要があると考えていました。
そんな中、浦賀に黒船が来航・・・幕閣たちも、ようやく西洋の軍艦の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃しませんでした。
幕府に大型船建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そしてすぐに、西洋風の大型船の製造に着手・・・
全長30m、砲16門を搭載する西洋式軍艦昇平丸を完成させたのです。
その後も、大型船の建造を続け、日本初の蒸気船も完成させています。

・鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る博物館・尚古集成館の敷地内にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・!!
反射炉跡が残っています。
反射炉とは、燃料を燃やして発生した熱を、天井に反射させて炉の中を高温に保つことで金属を溶かす施設・・・
これを使って、斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしたのです。
しかし、当時、こうした反射炉を作る知識は日本にはなく、完成までには大変な苦労がありました。
斉彬は、既に反射炉を作ることに成功していた佐賀藩から、オランダの書物を取り寄せ、それをもとに研究を開始します。
西洋式反射炉の建設に取り掛かります。
しかし、外国語の書物のみが頼りとあって、失敗を繰り返します。
そこで・・・耐火煉瓦は薩摩焼の技術を使って作り・・・何度も諦めかける家臣たちにこう声をかけます。

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せずますます研究すべし」

藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
あわせて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は、他にもガラス工場や、蒸気機関研究所などを建設、そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといわれています。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が、世界に認められたのです。

斉彬は幕府に対して日の丸を日本の船のしるしにするように提案します。
もともと、日本の船は帆が一つしかないなど、世界的にも特異な形であったため、外国船と間違われることはありませんでしたが、日本で洋式船を製造するとなると判断するのが難しいので、日本の船であると示す必要があると考えたのです。
日の丸は、古くから日本人が使っていたようですが、そのデザインは様々でした。
丸が三つ、五つも書いたデザインもあったのです。
この時、斉彬は白地に赤い丸ひとつを書いたサンプルを作成し、提案します。
幕府もそれを認め、1854年、日の丸を日本の船印に採用しました。

日本を守るために西洋式の軍艦や大砲を作るなど軍備の近代化を進める島津斉彬・・・
一方でこんな言葉を残しています。

「第一人和」

斉彬が一番大切に思っていたのは、人の和でした。
人の和は日本を守る城となる!!
人の和を生み出すためには、人々に豊かな暮らしを保証することだとも言っています。
斉彬は、軍備以外にも様々な産業を興しています。
国民の豊かな暮らしを目指し、近代化に取り組んだのです。

斉彬は、紡績、ガラス、出版、酒造りといった産業の育成にも力を入れました。
中でもガラスは、薩摩切子と呼ばれ、新しい工芸品を生み出します。
薩摩切子は、今でも日本を代表する工芸品で、高く評価されています。
斉彬は、外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼に対しても、外国人の好みに代えろと指示し、あでやかなものとなっています。
そして、パリ万博で高い評価を得て、大量の薩摩焼が海を渡ることとなります。

島津家の別邸・仙厳園・・・桜島を望むこの美しい庭園にも斉彬が残した遺産があります。
日本初のガス灯の実験が行われました。
斉彬は、城下をガス灯で照らそうと考えていたといいます。
研究と実験を重ね、西欧の技術を習得し、次々と産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・

「薩摩だけ強く豊になっても意味がない・・・」

そういって、持てる技術と知識を惜しみなく幕府や他の藩に教え、視察も喜んで受け入れたといいます。

斉彬は、日本が挙国一致体制で富国強兵策を・・・!!という考えでした。
それが、やがて明治政府によって実現され、斉彬の唱えた富国強兵を明治政府が展開していくこととなります。
斉彬が目指したもの・・・それは、まだ見ぬ維新という新しい日本の姿でした。

斉彬は、人材育成にも長けていました。
身分にとらわれず、優秀な若者を見出し、意見を求め、藩の政治に取り入りました。
斉彬はこう言っていました。

「付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない
 偏屈な男こそ、国の宝である」

そう考える斉彬に取り立てられた若者たちの多くは、藩の中心人物に・・・そして、激動の時代、まさに非常事態に対応し、日本を背負う人物に大きく成長していきました。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬が、下級藩士だった西郷隆盛を初めて知ったのは、大量に届いた建白書によってでした。
当時、薩摩藩郡方書役助だった西郷が、農家や村を指導監督する中で、農民が思い年貢などに苦しみ困窮している状況を知ります。
そして、その改善策と共に、悪性を訴えた建白書を、斉彬に何度も提出・・・
斉彬はこれを高く評価し、そこで、藩主として江戸に赴く際に西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れていきます。
庭方役とは、何種の用事を藩邸の庭先で聞く役職のことです。
西郷を、諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、斉彬の信頼は厚いものでした。
この時、人脈や、政治的視野が広がり、西郷は明治維新の立役者となります。

1856年・・・時の将軍・・・第13代家定の婚礼が行われました。
花嫁は、島津斉彬の養女・篤姫です。
この結婚・・・斉彬が篤姫を政治利用したと言われていますが・・・その真相とは・・・??
当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発していました。
家定は体が弱く、世継ぎが見込めなかったため、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補の上がったのは、2人・・・
一人は紀州藩主・徳川慶福・・・慶福を推したのは、譜代大名・彦根藩主・井伊直弼で、南紀派と呼ばれていました。
もう一人は、一橋家当主・徳川(一橋)慶喜で、慶喜を押したのが、老中・阿部正弘ら一橋派でした。
斉彬は、この一橋派でした。
次期将軍を決めるのに大奥の意見が強く影響すると知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせ、大奥に入れることで慶喜擁立を有利にしようと工作したのではないか?といわれています。
しかし・・・この縁談話は、家定が将軍になる3年も前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を二度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
その為、幕府は次は武家から迎えたいと考えます。
そこで、候補に挙がったのが島津家でした。
というのも、良い前例がありました。
11代将軍・家斉が、正室に迎えたのが、茂姫・・・斉彬の曽祖父・重豪の娘でした。
その後、家斉は、将軍在位50年と歴代最長を記録し、正室、側室の間に53人もの子を設けました。
子供ができなかった家定も、島津家から妻を迎えれば死別せずに子宝に恵まれるのでは??と、考えたのです。

つまり。斉彬は、幕府からの要請を受け、篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしただけで、将軍後継問題とは関係がなかったのです。
どうして斉彬は篤姫を政治利用したと思われたのでしょうか?
黒船の来航や、江戸の大地震などで婚礼が先延ばしになり、将軍継承問題が盛り上がるころに輿入れとなったため、送り込んだという誤解が生まれたのです。
嫁いで1年後・・・待望の世継ぎは出来ませんでした。
斉彬が動いたのはこの時・・・信頼していた西郷隆盛を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にしました。
そして、次期将軍として慶喜の将軍擁立を画策。

1858年、南紀派の井伊直弼が大老に就任・・・
その権限によって、慶福が14代将軍となりました。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて京に向かうため、西郷にその準備を命じたのです。
その行動は、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍にしようとしたのではないかとも考えられますが??

「西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!」

斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点があったのです。

それから間もなく、斉彬が病に倒れます。
死期が近いことを悟った斉彬は、弟の久光らを枕元に呼び遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは、嫡男ではまだ幼いため、久光か、その長男の忠義のいずれかにするようにと・・・。

そして・・・1858年7月16日、島津斉彬死去・・・50歳で生涯を終えました。
明治という新しい時代を見ることなく・・・・・!!

日本の行く末を案じながら、その生涯を終えた島津斉彬・・・
しかし、その遺志は受け継がれ、日本を新しい時代へと導いて行きます。
島津家の家督は、弟の久光が辞退したため、その息子・忠義が相続しました。
久光は、後見役を務めました。
そして、久光は、斉彬の遺志を継ぎ、西郷たちと共に幕末から明治維新へかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、順聖院様御深志(斉彬)の遺志の実現でした。
それは、幕府、朝廷、藩という枠を超えた挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地にされないような国にすることです。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の目的を持っていたからこそ、薩摩藩士たちは分裂せずに明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
その一人、西郷隆盛は、新政府の中心人物として廃藩置県や警察制度の導入などに関わり、近代国家の礎を築きました。
そして、西郷同様下級武士から出世した大久保利通は、富国強兵を明治政府のスローガンとし、殖産興業政策を推進・・・富岡製糸場などの官営模範工場を日本各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。

斉彬は、近代日本のプランナーだったのです。
日本を強く豊かな国にすることを夢見て、実現に向けて邁進し、様々な功績を残した幕末の名君・・・島津斉彬・・・

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」by勝海舟

斉彬がいたからこそ、明治維新があった・・・そう言っても過言ではありません。

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明治10年2月・・・九州の地でその後の日本の行く末を決める戦いが始まりました。
西南戦争です。
立ち上がったのは、明治維新最大の英雄・西郷隆盛です。
そのもとには、政府に不満を抱く士族が3万集まりました。
迎え討つのは、最新の装備をした平民の新政府軍!!
一進一退の戦闘が繰り広げられます。
死者1万3000!!どうして日本人同士が戦い、殺し合わなければならなかったのでしょうか?

すべての始まりは、西郷と共に幕末を戦い抜いた男たちの因縁でした。
新政府軍を率いたのは山縣有朋、不平士族の急先鋒・桐野利秋、男たちは、明治政府の大改革・徴兵制を巡って衝突します。
日本の未来をめぐる男たちの戦いのドラマとは・・・??
西南戦争最大の謎・・・反対していた西郷がどうして挙兵したのか??
西南戦争の真実とは・・・??

明治10年1月29日、西南戦争の引き金となった事件が起こります。
鹿児島にある新政府軍の火薬庫を20人の士族が襲撃します。
襲撃の目的は・・・新政府軍の武器弾薬を強奪することでした。
その知らせを聞いた西郷は「しまった」と、ただ一言つぶやいたという・・・。
どうして、薩摩士族は暴発したのでしょうか??
そして、西郷がしまったとつぶやいた真意とは・・・??
西南戦争はなぜ起こったのか・・・??

襲撃事件以前、日本は異様な雰囲気に包まれていました。
明治9年10月24日、熊本で「神風連」を名乗る士族200人が挙兵!!
今の知事に当たる熊本県令が殺害されます。
その3日後、福岡県・秋月で士族230人が蜂起!!
さらに翌日、明治維新の中心となった長州の萩で300人の士族が挙兵!!
いずれも短期間で鎮圧されたものの、日本中で士族の不満が爆発していました。
原因は、政府が急速に進める近代化政策です。
そこでやり玉に挙がったのは、かつて武士と呼ばれていた士族でした。

明治6年、政府は徴兵制を導入し、士族が独占していた「軍事」を平民に開放します。
真の近代国家になるためには、身分に寄らない国民軍を作らねばならない・・・そう、政府は判断したのです。
自分達の誇りを奪われ、燻る士族たち・・・そんな中、士族たちの視線は鹿児島にいる一人の男に注がれていました。明治維新最大の功労者・西郷隆盛です。
薩長同盟を成立させ、幕末の勢力図を塗り替えた抜群のリーダーシップ・・・
戊辰戦争を勝利に導いた軍事指導者としての才能。
新政府に比類のない存在だった西郷は、明治6年、急速な近代化に異論を唱え、下野していました。
故郷鹿児島に戻って隠遁生活を送っていましたが、影響力は健在でした。
西郷が立てば全国の不平士族が呼応する!!明治政府を危機に追いやることも不可能ではないとみられていました。
西郷は、鹿児島で設立した私学校には、西郷を慕う薩摩士族が集まっていました。
薩摩士族は、維新の立役者だった自分たちが政府にないがしろにされていると憤りを感じていました。
中でも反政府の急先鋒だったのが、桐野利秋。
もともと貧しい下級武士だった桐野は、西郷に認められ、明治新政府の陸軍少将となります。
士族としての誇りを人一倍持っていました。

桐野が政府に不満を募らせる・・・それは、日本の国防に対する強い危機感でした。
この頃日本は、諸外国との間に多くの問題を抱えていました。
北の大国ロシアと樺太・千島の領土問題、朝鮮との武力衝突、清国との間には台湾出兵問題、琉球の帰属問題・・・。日本は、いつ戦争になってもおかしくない緊張状態でした。
外交軍事に精通していた桐野は、徴兵制に基づく平民の軍隊では日本を守れないと考えたのです。
日本の南と北の防衛を確かなものにするまで、徴兵制に依存するのは桐野は反対だったのです。

桐野と志を同じくする士族が、続々と西郷のもとへ・・・!!
その数、1万3000人にのぼりました。
この動きを最も恐れていたのは、新政府の陸軍TOP・山縣有朋でした。
山縣と西郷・桐野は、戊辰戦争を共に戦った盟友でした。
明治政府の大改革・徴兵制を巡っては、浅からぬ因縁がありました。
明治5年、山縣は徴兵制の導入を強く主張し、政財界の説得を行っていました。
そんな時、山縣にスキャンダルが・・・。山縣が陸軍に出入りする商人・山城屋に無担保で公金を貸し付けていたことが発覚します。
徴兵制に反対していた陸軍少将・桐野は山縣を激しく糾弾します。
追いつめられた山縣・・・この時、救いの手を差し伸べたのが西郷でした。

西郷は、日本だけが士族・サムライたちだけで軍事力を持つのは世界の流れからしてだめだと思っていたのでしょう。
徴兵制は望ましくないかもしれないが、承諾を与えたのです。
日本のために徴兵制を容認した西郷・・・しかし、その後の政府は西郷の想いを大きく裏切るものでした。
明治9年廃刀令公布・・・士族たちはサムライの証である刀を奪われます。
さらに・・・秩禄処分・・・士族への給料の廃止を決定しました。
士族たちは、誇りだけでなく、生活の安定をも失うのです。
不満を募らせる士族たち・・・その反乱を恐れ、先手をとろうとしたのが新政府の陸軍TOPの山縣でした。

明治10年1月下旬・・・新政府は汽船・赤留丸を九州に送ります。
狙いは鹿児島にあった陸海軍の兵器工場・・・その中核施設は集成館。
薩摩藩の時代から、製鉄や造船に取り組んだ日本の産業革命の遺産です。
西南戦争当時は、近代兵器の製造拠点となっていました。
記録には、最新式の銃の弾薬を1日に3000発作ることができたとあります。
山縣は、こうした兵器工場が反政府勢力のある鹿児島にあることを危険視し、武器弾薬を運び去ろうとします。
この行動が、薩摩士族の激しい怒りを誘うこととなります。
武器の機械・設備の購入資金は薩摩の士族たちの拠出金から賄われていました。
武器製造機械は自分たちのものだという意識が強かったのです。
それを政府が持ち出すのは泥棒だ・・・という怒りです。
薩摩士族は新政府軍の火薬庫を次々と襲撃!!
士族の反乱を恐れた政府の行動が、かえって彼らを暴発させることに・・・。
火薬庫襲撃事件の知らせを受けて桐野はこうつぶやきました。
「 いまや 皆の激しい怒りは、 矢の弦をはなれ 、剣の鞘を脱した。抑えようにも抑えられぬ・・・」と。

不平士族の期待を一身に集めていた西郷は・・・「しまった・・・」とつぶやいたといいます。
西郷は・・・挙兵に賛成していたのか否か??
「しまった・・・」とは・・・??

西郷は、政府の打倒という気持ちはなかったとは言えません。
その根拠は・・・相次ぐ士族反乱に当たって親友に宛てた手紙・・・
その中で西郷はこう書き記しています。
”一度相動き候わば 天下驚くべきの事をなし”と。
この一文に、政権打倒の意志が込められている??
西郷が「しまった」というのは、明治10年2月の段階で立ち上がらざるを得なくなったことが「しまった」という解釈です。
西郷は、もう少し時間をかけて自分に有利な状況が到来するのを待っていたのです。

いずれ新政府と対決するが、今は時期ではない・・・

それが西郷の真意だったとしても、士族たちを見捨てることはできませんでした。
2月3日、事態はさらに悪化します。
新政府の密命を受けた警察官が士族たちに捕まったのです。
目的は何か??厳しい尋問が行われました。

「西郷の刺殺・・・」

警察官は、激しい拷問の末に西郷暗殺計画を自白します。
2日後の2月5日、西郷以下私学校の面々が、今後の方針を決める大会議が行われました。
以外にも士族たちの検討策は穏健なものでした。
①西郷ら幹部のみが上京し、問いただす
②西郷を認める明治天皇の力を借り、西郷の安全を確保したうえで政府と交渉
いずれも実現すれば、戦争を回避することができたはず・・・。
冷静な意見が検討されていたのです。
その流れを変えたのが、桐野利秋でした。

慎重論は一掃され・・・
1万人を超す若者が、今の政府は悪い・・・変えなければいけないという思いを持っていたら、西郷は英雄を通り越して絶対的な神様となります。
その中では、”敗ける”ということを思いつかないのです。
桐野が檄を飛ばした後、士族たちは熱狂の渦に巻き込まれます。

「何も言うことはなか・・・
 おいの体、おはんらに預けもんそ・・・!!」by西郷隆盛

西郷は最後、自分の体をお前たちに預けるとだけ言ったといいます。
西郷は、何を考えているのかわからないところがあります。
100%説明しないのです。
そして、明治10年2月15日、西郷率いる13,000人の士族が出陣しました。
最初の目標は、新政府軍の拠点・熊本城・・・。
西郷たちは、後戻りのできない戦いに進んでいくのです。

戦場となった熊本城は、九州の新政府軍を統括する熊本鎮台司令部がありました。
2月22日早朝、薩摩軍が一斉攻撃をかけます。
この時、桐野達は新政府軍を打ち破るのは時間の問題だと思っていました。
しかし・・・予想外の反撃をうけ、突破することができません。
西南戦争の初戦・・・熊本城の戦いは、薩摩軍の手痛い敗北に終わりました。
何が勝敗を分けたのでしょうか??

攻撃の3日前・・・薩摩側から熊本鎮台に送られた文章には・・・

「熊本鎮台の兵隊は、西郷大将の前に整列し、その指揮を受けるように。」

西郷はいまだ陸軍大将の地位にあり、鎮台の兵士に命令できる立場にありました。
しかも、熊本鎮台のNo,2樺山資紀中佐は、西郷と同じ町内で生まれ、戊辰戦争を共に戦った男でした。
樺山が寝返れば、戦わずして熊本城下を進軍できる・・・
そう薩摩軍は踏んでいました。
しかし・・・樺山は西郷が私的な理由で挙兵したとして厳しく非難、徹底抗戦の構えを・・・!!
薩摩軍にとっては予定外のことでした。
指揮官の桐野利秋は事態を楽観視していました。
桐野が熊本城を簡単に落とせると思っていたのには理由がありました。
そもそも薩摩は派戊辰戦争を勝利に導いたつわものばかり・・・
伝統の白兵戦術に加え、銃などの近代兵器・・・
さらに、長期戦の準備も万端でした。
兵器工場だった鹿児島の集成館は、薩摩軍の武器弾薬の製造拠点に・・・
士族の戦闘能力に加え、武器弾薬にも不安のない薩摩軍。
対する熊本鎮台の兵士は、徴兵制によって集められた平民たちでした。
樺山もその戦闘経験の乏しさを嘆いていました。
しかも、熊本鎮台の兵力は2500!!
桐野達は自分たちの敵ではないと考えていました。

しかし、戦いは薩摩軍の目論見通りには進みませんでした。
山縣は薩摩軍の動きを察知し援軍を送っていました。
戦闘が始まった2月22日には、すでに東京からの援軍が熊本城に到着していました。

どうして山縣は先手を打つことができたのでしょうか??
それは当時の先端技術・・・モールス電信機でした。
明治2年に東京横浜間で開通し、全国に電信網を・・・!!
九州の情報をすぐに手に入るように体制を整えていたのです。
電柱を立てる手間を短縮する為に、街道の松の木に電線を引きました。
電信を使い、熊本から東京まで僅か1時間足らず・・・
政府軍は薩摩軍の動きをリアルタイムで掴むことができていました。
更に政府は・・・大量の兵士を戦地に送る輸送インフラの整備にも取り組んでいました。
東京から熊本に援軍に向かった者たち・・・
西郷が兵をあげる4日前の2月10日に東京の千代田区を出発。
新橋横浜間を汽車で53分、横浜から海路・・・
2月14日、西郷たちが挙兵した時には、瀬戸内海の広島沖にいました。
この回路の輸送を担当したのは、岩崎弥太郎率いる三菱でした。
三菱は7万人に及ぶ兵士、大量の弾薬・食料の輸送を引き受けました。
西南戦争の戦費・4156万円のうち三菱の輸送船に支払ったのは299万円!!
実に7%の戦費を輸送にあてました。
2月17日午後4時・・・長崎に到着!!
そして、20日正午過ぎに熊本城に入城します。
この時、まだ薩摩軍は熊本城から10キロ離れたところにいました。
熊本城は当初の2500人に援軍900人が加わり、総勢3400人で薩摩軍を迎えることとなりました。

新政府軍は、薩摩軍を迎えるにあたり、綿密な改造を施していました。新政府軍の将校のひとり・・・乃木希典・・・後の日露戦争・旅順攻略の司令官・・・若き日の乃木が作成した熊本城攻防戦の地図には・・・
砲台が四方ににらみを利かせ、策で囲まれた防御陣地・・・銃を持った歩兵が待ち構えていました。
近代的な要塞として造りり替えられていた熊本城・・・改造は細部にまで及んでいました。
防御陣地の石垣の一部が取り壊され斜めにしていました。
地形を利用して歩兵の狙撃場所を作ったのです。

戦争の始まる3日前に新政府軍が自ら火を放ったとされています。
幕末から高い建物は大砲の目標になるので、邪魔だという判断です。
目立つ天守はない方がいいということで焼いたというのが有力です。
薩摩軍を迎え討つためならどんな犠牲をもいとわない覚悟の新政府軍・・・
2月19日には城下町に火を放ちます。
射界の清掃・・・薩摩軍を攻撃する為に邪魔な建物を焼き払い一掃したのです。
戦後、家を焼かれた人々が熊本県に訴訟を求めて書類を提出しています。
焼かれた家の数は9000軒。
新政府軍は、民衆に犠牲を強いても万全の態勢をとったのです。
なりふり構わぬの防御計画に寄って難攻不落の熊本城。
桐野が甘く見ていた新政府軍の兵士たちは、熊本城に立てこもり、粘り強く抵抗します。
薩摩軍は戦闘の始まった22日の夜に早くも方針の転換を迫られます。

政府軍の援軍が北から接近中との情報を得た薩摩軍は、3000の兵を熊本城に残し、主力は北上することを決定します。
熊本鎮台は自分たちに従う筈だという見通しの甘さ・・・たとえ戦闘になっても勝てるという奢り・・・
西南戦争の初戦・・・熊本城の攻防は、薩摩軍の手痛い敗北に終わりました。
熊本城で大敗を喫した薩摩軍、その後の戦局はさらに混迷を極めていくこととなります。
負けたことで、東京へ北上するという本来の目的が達成できなくなってしまいました。
挙兵の在り方、それ自体がここで打ち止めになってしまうのです。
この戦争は、薩摩軍が守りに回ってしまうと、何のための戦いになるのか・・・??
本来の目的と、戦争そのものが乖離する・・・その転機となったのです。

度重なる敗北で、東京に至る道を絶たれた薩摩軍・・・根本的な戦略転換を迫られていました。
薩摩軍が目をつけたのは、熊本城の北にある田原坂・・・
西南戦争で最大の激戦が行われた場所です。
小高い丘が連なる田原坂は戦略の要所で、大地の中央を全長1.6kmの道が熊本城へと続いています。
戦うこと17日間・・・両軍の死者3500人!!
どうしてこれほどまでの犠牲を出すこととなったのでしょうか?
それは、政府軍の指揮官・山縣有朋の誤算から始まりました。
2月25日、新政府軍を率いる山縣が九州に上陸します。
薩摩軍が田原坂に陣を張ったと知った山縣は、更なる援軍を待ってから攻めるという慎重策をとります。
その脳裏にあったのは、全国の不平士族の動向でした。
新政府軍が万にひとつも敗れれば、全国各地で反乱がおこる・・・!!そう考えたのです。
しかし、この慎重策が裏目に出ます。
3月4日、援軍を得た山縣は13,000の大兵力で田原坂の攻撃を命じます。
しかし、そこに待ち受けていたのは薩摩軍の激烈な反撃でした。
新政府軍の兵士が次々と倒れていきます。
薩摩軍は新政府軍が援軍を待っている間に、堅牢な陣地を築いていたのです。
熊本城を救援する為に兵隊・物資・大砲を熊本城まで運ぶ場合、通す道が田原坂しかなく、政府軍にとっては生命線の道を薩摩は寸断していたのです。

今までは、この田原坂の戦いは一本道をめぐる攻防戦だと思われてきました。
しかし、最新の調査から違った実像が見えてきました。
従来戦場とは思われなかった場所からたくさんの薬きょうと小銃弾が発見されています。
全部で3000点も・・・。
調査の結果、薩摩軍の陣地は田原坂全体に広がっていました。
田原坂の戦いは、一本道ではなく、大地全体をめぐる壮絶な攻防戦だったのです。
巨大な要塞と化した田原坂・・・新政府軍は一本道を避け、大地の斜面を登って攻撃しようとします。
しかし、いかなる攻撃もききません・・・

”賊は、天然の要地に土塁を築き、我が軍の死傷者は非常に多い
 生還する者はまれである”

この不利な状況を覆すために策は・・・??
新政府軍は、別動隊を編成し海路で吸収沿岸を南下、薩摩軍の本拠地・鹿児島を襲撃したのです。
九州沿岸の制海権は、新政府軍・海軍のTOP・川村純義中将が握っていました。
船で自由自在に軍を動かすことができた新政府軍・・・
攻撃目標は、薩摩軍の武器弾薬製造拠点の集成館でした。
政府軍はここから主力兵器であるスナイドル銃の弾薬製造機械を強奪します。
スナイドル銃は元込め銃で、その弾薬は精密な製造機械がなければ作ることが困難でした。
弾薬の製造機械を奪われた薩摩軍は、止む無く旧式のエンフィールド銃を使うこととなります。
その弾丸は、戦場で拾った弾を溶かして作ることができました。
問題は銃の砲身から火薬を入れ、弾を押し込む前込め銃だったのです。
スナイドル銃に比べ、はるかに手間がかかりスピードが低下しました。
新政府軍は、輸送インフラで国内外からスナイドル銃の弾薬を集め、九州に送り込みます。
物流について圧倒的に優位に立った新政府軍!!
田原坂の戦いで使った銃弾は1日30万発にのぼりました。
しかし、その後も薩摩軍の堅固な陣地を攻略することはできませんでした。

新政府軍の苦戦の理由・・・それは、標高100メートルの田原坂の高さでした。
薩摩軍の陣地のすべてが見通せないので、正確な砲撃ができません。
さらに、戦いの最中の天気は殆どが雨・・・
近代戦のやり方として・・・大砲を打ち込んで相手を怯ませ、兵対が突撃していく・・・。
しかし、どこに敵の陣地があるかわからないので、むやみやたらに撃ってしまう・・・
結局、肝心なところに当たっていないので、兵隊が攻め込んで行ってもすぐに逆襲されるのです。

泥沼の様相を呈する田原坂の戦い・・・新政府軍は戦局打開のために田原坂を見下ろせる場所を必死に探します。
それが、田原坂の南西にある横平山です。
横平山の標高は、田原坂より40m高い144m!!
薩摩軍の陣地も一望することができます。
新政府軍は横平山を攻略しようとします。
どこに兵を配備して、どこから攻めれば効率的か・・・??

3月9日、物量に任せ力推しで、横平山にいる薩摩の陣地にとりつこうとする新政府軍・・・
迎え討つ薩摩軍はサムライの本領を発揮!!
両軍が入り乱れる白兵戦!!
士族の猛攻の前に平民の新政府軍は成す術もありません。
苦戦を強いられた新政府軍・・・政府の脳裏に浮かんだのは、戊辰戦争を勝利に導いた英雄・西郷隆盛の影でした。
新政府軍の密偵の報告書には・・・
「賊軍の様子が整然としているのは、西郷自身が指揮を執っているからだ」と。

実は西南戦争を通じて、西郷が最前線で指揮を執ることは殆どありませんでした。
カリスマ西郷に身に何かあれば、寄せ集めの薩摩軍は求心力を失い瓦解する・・・それを恐れ、遠く離れた本陣にいました。
戦場に出てもいない西郷に怯え、足並みがそろわなくなってきた新政府軍・・・士気の低下は顕著でした。

3月11日、手詰まりとなった山縣に、提案が持ち込まれます。
西南戦争には、正規軍とは別に6,700人の警察官が動員されていました。
山縣に持ち込まれた提案は・・・士族出身の警察官で薩摩軍の白兵戦術に対抗しようとするものでした。
この頃、警察官の多くは物資の輸送や警備など、軍の後方支援に充てられていました。
戦いに参加できずに忸怩たる思いの警察官には、特別部隊の結成は、渡りに船の提案でした。
しかしその一方、平民主力の軍隊を目指して来た山縣には受け入れがたいものでした。
封建身分を前提とした武士を新たに組み込むのは、どうしても慎重にならざるを得ない・・・!!

3月11日に行われた総攻撃も失敗・・・ことここに至り、山縣は決断します。
集められたのは100人の士族出身の警察官でした。
その武器は、現地で急遽集められた日本刀ただ一振り・・・。
抜刀隊の誕生です。
そして、3月14日、抜刀隊が戦線に導入されます。
驚くことに、抜刀隊の多くは薩摩出身の士族でした。
彼等は、西郷というカリスマに命を預けるのではなく、警察官として政府に忠誠を誓う道を選んだのです。
薩摩士族同士が殺し合う死闘・・・政府の記録は戦いのすさまじさをこう記しています、

”抜刀隊は、一斉に突撃して勢いよく賊の陣地に入り、たちどころに8、9人を倒した”

抜刀隊は薩摩軍と互角以上に渡りあい、新政府軍は息を吹き返します。

3月15日、新政府軍は横平山の攻略に成功!!
しかし、抜刀隊の被害も甚大でした。
死者33人、重傷者50人・・・傷を負わないものはいないという惨状でした。
武士として、身を捨てて忠義に生きる・・・死に場所を常に意識する武士でした。
維新から約10年経って、再び日本刀で戦いの場所に行くことを、身の誉と考えた人々も、決して少なくなかったのです。

3月20日、降りしきる雨の中、田原坂の最後の決戦が・・・!!
午前6時、新政府軍の猛攻撃が始まりました。
見晴らしのいい横平山を占拠することで、薩摩軍の全体像を把握した新政府軍は、田原坂の南から回り込みます。
居を突かれた薩摩軍の防衛ラインは、一気に崩れます。
17日間の激闘の末、新政府軍は田原坂を征したのです。
両軍の死者は併せて3500人、山縣の誤算から始まった西南戦争最大の激戦・・・田原坂の戦い・・・。
新政府軍にとって、多大な犠牲と引き換えとなった苦すぎる勝利でした。

抜刀隊を組織する時に大切なこと・・・
ひとつは薩摩藩内のことがあります。
薩摩藩の士族は、鹿児島城下に住む城下士と、地方の郷村に住む外城士がありました。
伝統的に対立をしていました。抜刀隊に参加した警察官には外城士が多く含まれていました。
結果的に、私学校に行ったのは城下士・・・西郷の周りにいるのは城下士。
外城士は、東京に行って警察に入る・・・外城士は、城下士憎しということもあり外城士の中から抜刀隊を編制すると、西郷軍の主力をなす城下士に対する日ごろの怒り・・・
もう一つは、戊辰戦争の負け組の東北諸藩の兵隊たち・・・
そういった人々が、抜刀隊に志願していきました。
いろんなものがないまぜとなっていたのです。

敗北が続き、もはや勝利を見通せなくなった薩摩軍・・・
田原坂の死闘から3週間後の4月14日、熊本城に新政府の援軍が入り、54日ぶりに包囲網が解かれました。
しかし、九州各地で拡大する戦火・・・。
どうしたら戦いをやめられるのか・・・??

西南戦争の最終局面・・・山縣の目的は、薩摩軍の総大将・西郷を捕らえることにありました。
新政府軍は、薩摩軍を追いつめるため、九州全土に通信網をはっていました。
後れを取った薩摩軍は、新政府軍の追撃を受けながらも転戦し、延岡に・・・!!
遂に西郷を捕捉した新政府軍・・・!!

薩摩軍の兵力は3500!!全盛期の1/10でした。

”官軍に降参する者は殺さず”というビラが・・・!!
薩摩軍は、兵士の逃亡、降伏が相次ぎ、軍としての体裁が整わなくなってきていました。
8月15日、延岡の和田越で新政府軍の総攻撃が始まります。
薩摩軍の陣頭に立っていた西郷・・・。
そこで目にしたのは、徴兵制によって動員された平民たちの戦いぶりでした。
半年間にわたる実戦で鍛えられた新政府軍。
薩摩士族を前にしても怯まない、精強な兵へと変わっていたのです。

「こいでもう・・・日本も大丈夫じゃ・・・」

西郷はそうつぶやいたといいます。
8月16日、西郷はついに薩摩軍の解散を宣言します。
戦争中、常に傍らに置いていた犬を山に放つと、少数の味方と共に、新政府軍の包囲網をかいくぐり、山中へと行方をくらませます。
当時の西郷の声望、人気の高さを考えたら、逆転があり得るかわからないという恐怖が新政府軍にはありました。
あまりにも西郷の存在が大きすぎる・・・。
西郷の死を本当に確認するまでは、逆転されるという不安は、政府関係者にはあったのです。
西郷の居場所を掴めない新政府軍は、九州全土を捜索します。

しかし、西郷の行方は一向にわかりません。

消息を絶ってから2週間後の9月1日、情勢は大きく動きます。
すでに政府軍の占領下にあった鹿児島に西郷があらわれたというのです。
西郷は、300の手勢を率いて、新政府軍の陣地を突破、町の中心部にある城山に立てこもりました。
鹿児島で終止符を打つことが、西南戦争の締めくくりの場・・・。
今度こそ、西郷を取り逃がすまいと、4万の大軍勢で包囲網を敷く山縣。
西郷たちが潜伏していた城山の洞窟・・・すでに死を覚悟していた西郷と、その命を何としても救いたい部下たち・・・
決断の時は迫っていました。

9月23日、薩摩軍の幹部2人が西郷の助命嘆願のため、新政府軍を訪れます。
二人に対応したのは、海軍トップの川村純義。
川村は薩摩出身で西郷の親戚にあたりました。

しかし・・・
「賊名をもって征討なす!!」と述べ・・・こう漏らしました。
「西郷とは兄弟のごとくし
 家族はこちらにあり 
 心を残さず、潔く降伏してほしい」と。

潔く降伏してほしい・・・家族の面倒を見る・・・それが川村のメッセージでした。
川村の言葉を聞いた西郷は一言こうつぶやきました。
「回答はいりもはん。」
川村の降伏勧告を断った西郷・・・その西郷にもう一通の手紙が届けられました。
送り主は山縣有朋・・・かつて戊辰戦争を戦った盟友・・・。
西郷に宛てこう書き記しました。

「願わくば、あなた自身の手で命に決着をつけ、両軍の死傷者を救ってほしい」

山縣が西郷に求めたのは自決でした。

無益な戦いを回避してほしいと・・・!!

自決というのは、当時の軍人にとって名誉のある死でした。
西郷を思う気持ちは山縣にはありました。
手紙の最後をこう結んでいます。

「何卒、私の心中の苦悩を察してほしい
 涙をふるって これを記す」

西郷は、山縣の手紙を読み終わると、それを大事に懐にしまったといいます。

そして9月24日早朝、新政府軍による城山への最後の攻撃が始まりました。
西郷の選んだ道、それは部下たちと突撃することでした。
そして・・・被弾!!
倒れた西郷を桐野が介錯しました。
その後、桐野も西郷の後を追うように戦死しました。

西郷隆盛の死によって、7か月にも及んだ西南戦争は幕を下ろしました。

西南戦争は何をもたらしたのか??
いくら士族集団が精鋭を揃えていても、武器を持っていても、最終的に近代戦では勝てない・・・。
士族の退場がどんどん促されていきます。
国民軍に転換していく大きなきっかけとなりました。

西郷の死は・・・??
西郷は、西南戦争で悲劇的な死に方をします。
元々西郷は国民的人気があった上に、レジェンド・・・伝説になっていく。
昔から国民に愛される条件がそろっていました。
西南戦争が終わると、西郷はなぜか反政府の英雄となっていました。
虚像を庶民が作り上げて、「西郷さん」という親しみを込めて呼び始めることで、だんだんと国民的な英雄になっていくのです。

西郷隆盛はすべての期待の星・・・
政府に対して物申したい人にはそのことに対する象徴。
自由を言いたい人も、西郷さんを担ぐ。
多くの立場の人が、西郷隆盛こそ英雄というのは、未完であるための一つの結果です。
いろんな人が、西郷に自分の思いをかき込むことができる・・・。

サムライが大きな顔をしていた封建体制が、西郷軍の敗北で終わり、それに伴い中央集権国家が成立しました。
そして・・・仁義に忠実な武士道精神が滅んでいくようになるのです。
日本人の在り方が、この戦争による西郷軍の敗北で消えていく・・・合理的なものの見方が幅を利かせていく時代になっていくのです。

南洲墓地・・・西南戦争で命を落とした薩摩軍の将兵2023人が葬られました。
サムライたちの魂を導くようにそびえる西郷の墓・・・
その傍らに、寄り添うように桐野利秋が眠っています。

西南戦争のあと、政府内で確固たる地位を築いた山縣有朋は、軍の強化に邁進します。
「軍人勅諭」には・・・
軍人が絶対な忠誠を誓うのは天皇ただ一人。
国家の危機に際しては、進んで命を投げ出し犠牲となることが理想とされました。
徴兵制による国民軍の成立によって、諸外国と戦う準備を整えた日本・・・
この後、山縣ら軍の首脳部は、日清、日露の戦争を主導していくこととなります。

ラストサムライ・・・西郷隆盛の死を超えて、富国強兵への道をひた走った日本・・・
近代国家となるために何を得、何を失ったのか?
その問いは、今の私たちに突き付けられています。

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