紀元前200年の中国大陸・・・
民に圧制を敷く秦帝国を倒そうと立ち上がった二人の英雄がいました。
ひとりは若きエリート将軍の項羽。
戦の天才と謳われ無類の強さを誇りました。
もう一人は農民出身の劉邦・・・この時すでに40歳を過ぎていました。

地方の小役人だった劉邦は、酒と女が大好きなダメおやじ。。。
項羽と戦っても負け続けた劉邦・・・そのたびに、命からがら逃げ続けました。
ところが、最後に天下を握ったのは劉邦でした。
人生の半ばでセカンドチャンスにかけた劉邦・・・皇帝に上り詰める奇跡の大出世を遂げます。
どうして天下をとれたのでしょうか・・・??

紀元前221年、圧倒的な武力で史上初めて中国を統一した秦の始皇帝・・・しかし、秦は、万里の長城や始皇帝陵などの建設など、民に重い負担を強いて各地に反乱を招きました。
そうした民衆を率いたのが劉邦です。
しかし、彼は40過ぎまで自他楽な生活を送っていました。
そんなダメおやじが、どうしてリーダーになったのでしょうか?
劉邦は、現在の北京と上海の間の農村地帯・沛県に生れました。
紀元前91年ごろに完成した中国の歴史書「史記」によると・・・
農家に生まれた劉邦は、家業を嫌い定職にも就かず、酒と女が大好きな自他楽な生活が好きなダメおやじでした。
そんな劉邦・・・一つだけ長所がありました。
それは人相です。
花が高く、美しい髭を蓄えた竜顔の持ち主でした。
竜顔は天子の顔と言われ、徳の高い証でした。
そのせいか、彼がただ酒を飲んでいるだけで人が集まってきました。
そんな不思議な魅力を持つ男でした。
劉邦はその人望を買われて地方の小役人となり、結婚・・・
しかし、40歳を過ぎた頃、劉邦の運命は大きく変わることとなります。

紀元前210年、秦の始皇帝が死去・・・
これをきっかけに重い税と過酷な労働を強いていた秦に対し、各地で反乱が起きました。
各地で起きた反乱勢力は、やがてかつて秦に滅ぼされた楚に集まりました。
そして国王を擁立して楚を復活させ、反乱軍の中心にしました。
この時、劉邦も反乱に加わり、反乱軍のリーダーの一人となっていました。
軍といっても劉邦のもとに集まったのは、戦の経験もない農民たち・・・寄せ集めの集団でした。
楚に続々と集まってくるリーダーたち・・・楚の国王は宣言します。

「先に関中を平定したものをその地の王とする」と。

関中とは、秦の都を中心とする地域で、その王になるということは秦帝国を滅ぼすことを意味していました。
王の地位を夢見た劉邦は、打倒秦を目指して、早速関中を目指します。
そこに立ちはだかったのが、最大のライバルである項羽でした。
項羽・・・今も絶大な人気を誇る武将です。
項羽はこの時20代の若武者で、祖父はかつての楚の将軍というエリートでした。
身長180cmを超える大男で、頭がよく、力持ちだったといいます。
圧倒的な武力を誇る項羽軍は、まず秦の主力がいた城に向かって北上します。
そして、秦の主力20万人と激突!!
しかし、項羽の兵はわずか2万・・・賭けに打って出ます。
項羽は自分たちの乗ってきた船を川に沈めました。
三日分だけの食料を残して捨てさせます。
もはや・・・負けたら死ぬしかない・・・自軍をわざと窮地に追い込んで、兵士の力を引き出す作戦です。
楚の戦士は、一人で10人の敵を相手にしました。
その雄たけびは、天をも動かすほどでした。
追い込まれた項羽の兵はすさまじく、10倍もの進軍を撃破!!
しかし、項羽のすさまじさはこれにとどまりませんでした。

「秦軍をすべて生き埋めにしろ!!」

戦いで捕らえた20万人の兵を生き埋めにしたのです。
項羽の強さと残虐さは、この戦いで知れ渡ったといいます。

一方、南側から秦の都を目指した劉邦軍の戦いは、項羽の軍とは対照的でした。
劉邦軍が秦の南の拠点に迫った時・・・反乱軍の勢いに押され、秦の終わりを悟った司令官は命を助けてくれるのなら降伏すると和平を持ちかけてきたのです。
それに対し劉邦は一言こう言いました。

「善」

劉邦が秦の民に対して”力で抑えるのではない””人を殺すのではない”という認識を与えました。
劉邦軍は寛大だという噂はすぐに広まり、秦の拠点は次々と劉邦に降伏していきました。
その結果、劉邦は項羽よりも早く秦の都に到着し、王の権利を得ます。
すでに主力軍を失った秦王に抵抗する力はなく、劉邦に降伏・・・
ここに秦は滅亡するのです。
この時、劉邦は秦王の命はとりませんでした。

「楚王が私を派遣したのは、私の寛容さに期待してのこと、それを裏切ることはできない」

敵の命乞いには寛容だった劉邦ですが、聖人君子だったわけではありません。
秦王朝の財宝や美女たちを手あたり次第漁ろうと、喜び勇んで宮殿に入りました。
軍師の張良が劉邦を諫めます。

「天下のために動こうとするならば、目の前の快楽に我を忘れてはなりません
 それは暴君のすることと同じです」by張良

張良は、戦の素人集団を支えた名軍師でした。
劉邦は全幅の信頼を寄せていました。
張良の言葉を聞き、劉邦は略奪はせずに宮殿を出ます。

項羽より先に秦の都に入った劉邦・・・事前の約束では劉邦が王になるはずでしたが、項羽が猛反発!!
武力行使に出ます。
そして迎えた項羽と劉邦の直接対決・・・劉邦は項羽と何度も対決して、何度も負けています。
どうして項羽に負け続けたのでしょうか?
秦の都に一番乗りした劉邦は、
「項羽が都に入れないようにするべき」という部下の意見を聞き入れ、都への入り口を封鎖。
項羽を締め出しました。
これを知った項羽は激怒・・・!!
劉邦に後れを取ったとはいえ、秦の主力を倒した我こそ王になるべきなのに・・・!!

「劉邦を討つべし!!」

項羽は劉邦が封鎖していた都の入り口を突破!!
宮殿の外に、屈強な40万の兵を揃えました。
劉邦軍がわずか10万・・・!!
圧倒的な戦力の差を見せつけられた劉邦は、戦わずして負けを認めます。
みずから項羽の陣へ赴きます。
劉邦は、項羽に臣下の礼をとってこう言いました。

「私は、項羽将軍と力を合わせて秦を攻めました。
 ところが、思いもよらず私が先に都に入ることになってしまったのです。」

自分はあくまで項羽の部下であり、野心がないことを訴えます。
この時、項羽の軍師は、劉邦は危険だと進言します。

「かつて欲が深かった劉邦が、宝物にも女にも手を付けていない・・・
 これは、まさに劉邦の天下取りの志が小さくないということの現れです。
 今のうちに劉邦を亡き者にすべきです。」

項羽の軍師は劉邦を宴に招き、事故に見せかけた暗殺計画を立てます。
宴もたけなわになると余興の演舞始まります。
劉邦に華麗な舞から鋭い切っ先が迫ります。
飛び込んできたのは、危機を察した劉邦の部下でした。
異様に張り詰める空気・・・その時項羽は・・・ 

「壮士なり」

身を挺して守ろうとした部下の勇気を称え、項羽は肉と酒を与えてもてなしました。
劉邦はその隙に厠に行くふりをして逃走・・・!!

その数日後、項羽は清の都に入城!!
項羽のやり方は、劉邦とは真逆でした。
秦の王や王族を殺し、宮城に火を放ったのです。
都を焼く炎は、三か月続いたといいます。
その後、項羽は西楚を本拠地としました。
自らを「西楚覇王」を名乗り、18人の王に領地を分割!!
この時、劉邦も王として土地を与えられました。
しかしそこは、山ばかりで作物の育たないへき地でした。
項羽の横暴な振る舞いはエスカレート・・・楚の帝を殺害します。
あまりに無道な行いに対し、諸侯の怒りが噴出します。
反項羽の機運が高まるのを感じた劉邦は”打倒項羽”を諸侯に呼びかけます。
すると、続々と劉邦のもとに集まってきて・・・その数56万人の連合軍となりました。
西楚を攻撃します。
この時、項羽は遠征に出ていて留守だったために、連合軍が圧勝します。
勝利に意気上がる連合軍・・・占領地では略奪が横行し、酒宴に明け暮れる兵士が続出します。
これは劉邦の主義に反する行為ですが、劉邦に統制をとる力はありませんでした。
そんな中、劉邦が恐れていたことが・・・
項羽が遠征から戻ってきたのです。
項羽は3万の精鋭で連合軍を攻撃!!
勝利に気が緩み連合軍は10数万人が戦死しました。
項羽の追っ手に迫られた劉邦は、馬車から自分の子どもを蹴り落して逃げたといいます。
劉邦は3度も子供を蹴り落しましたが、その都度部下が馬車を止めて子供を拾い馬車に乗せました。
命からがら逃げかえった劉邦・・・自らの領地に戻ることもできずに、味方を求めてさまようことに・・・。

戦に負け続け、決して強くはない劉邦を支えたのが漢の三傑と言われた男たちでした。
優れた政治力で領地を治め劉邦軍を陰で支えた蕭何、的確な策と助言で劉邦軍を勝利へと導いた軍師の張良、劉邦が戦場で全幅の信頼を寄せる代将軍の韓信・・・どうして劉邦は自分よりも優れた者に慕われたのでしょうか?

連合軍が大敗北を喫したのち、劉邦は単独で項羽に向かうも負け続け、ジリジリと戦線を後退させていきました。
このままでは項羽に攻め滅ぼされてしまう・・・
そこで散り散りになった味方を集めるという任務に一人の男を抜擢します。
それが韓信です。
劉邦軍最強と称えられる韓信ですが、実は元項羽の部下でした。
韓信は何度も項羽に献策しますが、聞き入れてもらえません。
項羽に愛想をつかし、劉邦のもとにやってきたのです。
そんな韓信の勇猛ぶりは・・・
ある戦いで、20倍の敵を目にした韓信は、驚くべき行動に出ます。
川を背にしてわざと逃げ場のないところに陣を敷いたのです。
常識では考えられない無謀な行い・・・
後退すれば川に落ちて死ぬ・・・
ならば、攻めて前に出て討死しよう!!
死に物狂いで戦う韓信の軍は、遂に20倍もの敵を蹴散らしました。
韓信の戦いは背水の陣の言葉のもとになったといいます。
部下は、劉邦にこう進言します。

「韓信は、一国に二人といない優れた人物、国士無双です。」と。

劉邦は、韓信が項羽軍の武将であったにもかかわらず、大将軍に抜擢するのです。
劉邦が韓信に与えた使命は・・・
当時、項羽に恐れをなし、劉邦の連合軍から離脱する諸侯がたくさんいました。
韓信は、兵を率いて彼らを攻め、武力で従えて再び劉邦軍に参加させました。
諸国を回り敵を次々と従えていく韓信・・・遂に斉まで制圧・・・しかし、この時劉邦に韓信から意外な手紙が届きます。

「斉は嘘つきでこれまで裏切りを繰り返してきた国です。
 ついては私を仮の王にでもしていただかないと斉を治めることはできません。」

斉を従えるどころか、自ら王になりたいと言い出した韓信・・・
模試や裏切りでは・・・??と、激しく憤る劉邦。。。
しかし、この時、張良が劉邦に助言しました。

「ここは韓信を信じて望み通りになさいませ」

そこで劉邦は、韓信に意外な返事をします。

「有能な韓信が諸侯を平定したのだ
 仮の王とは言わず、真の王になるがよい」

これまでの働きを考えれば、お前が王になる資格は十分にある・・・この劉邦の計らいに、大いに感動する韓信。

「私の策を信じ、採用し、大将軍にもしてくれた
 すべては劉邦様のおかげ」

韓信がこうして国々を巡っていた頃、劉邦は広武山で項羽の進軍を食い止めていました。
広武山は、天然の要害で、さすがの項羽軍の攻めあぐねて膠着状態になっていました。
戦いが長引いたことで、項羽には焦りが生じます。
率いてきた数十万の兵士の食料が尽きかけていたのです。
遂に項羽は広武山の断崖に立ち、劉邦に呼びかけます。

「何年もの間、天下が乱れているのは、私たち2人のせいだ
 これ以上、民を苦しめるべきではない
 1対1で決着をつけようではないか」

しかし、劉邦は笑ってとりあいませんでした。

「力勝負はしない・・・!!」

つづけて劉邦は、項羽を激しく断罪します。

「項羽よ、お前はかつての秦の都に入り、暴虐非道の限りを尽くしこれを焼き払った
 お前はかつて、自分勝手に領地分けを行い、私を辺境の地に追いやった
 おまえはかつて、自らの主君たる楚の帝を殺した
 どれも天下の誰もが許すことのない極悪非道の罪である」

項羽の非道を堂々と断罪した劉邦・・・この言葉に共鳴した諸侯が次々と合流・・・
そして韓信は、30万もの見方を率いて劉邦のもとに向かっていました。

睨み合いを続ける劉邦と項羽・・・食糧は尽きかけ、不安が募ります。
しかし、劉邦軍にはその心配がありませんでした。
それは、三傑の一人・蕭何がいたからです。
領国の土地を豊かにし、民を増やし、前線に食料を送っていました。
当時の戦争で最も大事なことは、戦場の局面ではなく後方からの補給でした。
食糧がなければ戦争はできないのです。
項羽軍の弱点は、補給が不足していたことです。
1年が過ぎるころには、項羽軍は深刻な食糧難でした。
そのため、兵力の体力も士気も下がってしまう・・・。
ついに項羽は劉邦と和平を結びます。
本拠地に戻って立て直そうとしたのです。

撤退を始めた項羽軍・・・ようやく故郷に帰れると、兵士たちはホッとしていました。
しかし、劉邦軍では

「今こそ、項羽軍を討つ好機です」by張良

劉邦は約束を破り、項羽軍に追撃をかけました。
不意を突かれた項羽軍は総崩れ・・・項羽は何とか追撃を逃れ垓下にたどり着きます。
古くからあった城に籠城します。
この垓下城は、詳しい場所がわからず、真偽のほどはわかりませんでした。
が、2007年実際にあったことが確認されています。
項羽が籠城した城は、川と堀に囲まれた小高い丘にあり、東京ドーム4個分の難攻不落の要害でした。

劉邦は、籠城する項羽軍を幾重にも包囲・・・城は簡単には落ちそうにありません。
そこで劉邦は・・・??
何十万もの劉邦軍の兵士に、項羽の故郷・・・楚の国の歌を歌わせたのです。
東西南北・・・四方から聞こえる楚の歌を聞いた項羽は・・・

「なんと楚の人が多いことか・・・
 楚はすべて、劉邦の手に落ちてしまったのか・・・??」

項羽は楚の国が陥落し、楚の民が劉邦軍のものになったのだと思い込んで涙を流したといいます。
四面楚歌という言葉はこれから生まれました。
追いつめられた項羽軍は残りわずか・・・食料も尽きようとしていました。
項羽は800の兵を率いて城を出ると、劉邦に最後の戦いを挑みます。
しかし、やがて力尽き・・・長江のほとりで自害して果てました。
31歳・・・紀元前202年のことです。

何度も負け続け、しかし、最後に勝利した劉邦・・・
後に劉邦は天下をとれた理由についてこう語っています。

「わしは張良のように策を巡らし、戦場の勝敗を決することはできない
 わしは蕭何のように民を愛し、食料の供給を絶やさず安心させることはできない
 わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことはできない
 だが、わしはこの3人の英傑を使いこなすことができた
 これが、わしか天下を勝ち取った理由だ」

紀元前202年 劉邦が皇帝に即位。
その後400年続く漢の誕生です。

しかし、皇帝となってからの劉邦は、人が変わったかのように冷徹な行いをしました。
劉邦は部下やかつての連合軍の諸侯たちに反乱、逃亡、暗殺などの疑いをかけ、部下たちを粛正していきます。
部下たちのおかげで天下を取ったのに・・・。
その矛先は、打倒項羽の立役者・韓信にも向けられました。
韓信に謀反の疑いをかけて位を奪い斬殺!!
漢王朝をひらいてから7年・・・仲間の粛正を重ねる中、劉邦は戦いでできた傷が元でその生涯を終えます。
62歳でした。

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